石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした

石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした

「アマチュアは勝利にこだわる。当たり前の事です。アマチュア競技は参加料を払って、競技大会に加わり、勝ち負けを競い、栄光の証としてトロフィーや賞状を授与される。勝利のために努力精進する過程において肉体と精神を鍛える それがオリンピック精神であります。しかし、プロ精神は違います。お客様を感動させ満足させて、いかに勝つか、いかに負けるかです。それが銭が稼げるプロ、プロは稼いでなんぼです」


1980年6月、極真会館芦原道場の職員となって3年間、石井和義給料は11万円のままだった。
それは月の後半にはなくなりサラリーマン時代の貯蓄を崩して暮らしていたが、もはやそれもなくなりかけていた。
岡山県で行われた昇級昇段審査会の帰り、石井和義は芦原英幸と喫茶店に入った。
そして意を決してベースアップを要求した。
「よしわかった。
3日後に連絡するよ」
芦原英幸は3日後電話をかけてきて1万円アップさせ12万円にした。
(アルバイトでもするか)
1カ月後、石井和義は後輩に電話で呼び出され、行くと関西の各支部道場の指導者が集まっていた。
彼らは特別練習という名目で芦原英幸に呼ばれ四国へ行き、
「これからはお前らが関西を運営していけ」
「石井は金のことを言い始めた」
といわれたという。
(ゲッ!!!!)
石井和義は衝撃を受けたが必死に笑顔をつくり続けた。
「先輩、自分たちは先輩が先生だと思っています」
「関西は我々でやっていきましょう」
という後輩に、石井和義は嬉しくて泣きそうになったがキッパリといった。
「うれしいけど勘違いしたらアカン!
道場は先生のものであって俺たちのものじゃない。
これは俺と先生の問題だから俺が先生に話す」
そしてその夜、芦原英幸に電話した。
「先生、お世話になりましたが、本日をもって辞めさせていただきます。
押忍。
(ガシャッ)」
翌日、大阪へ飛んできた芦原英幸と石井和義は喫茶店で向き合った。
「石井、30万でどうだ。
お前の給料30万にするよ。
いや50万出そう。
これ以上は出せないよ」
すでに石井和義の中に英雄、ケンカ10段はいなかった。
「先生。
10年前、あなたもアルバイトをしていて生活が苦しかったはずなのに高校生の私に「交通費かかるだろう」と月謝を半額にしてくれた。
そんな他人に痛みがわかる、誇り高く優しいあなたが大好きでした。
あなたが捨ててしまったものを私は後生大事に守っていきます。
ありがとうございました。
押忍」
「お前はこれから何をやるんだ?」
「空手を続けます」
2週間後、芦原英幸から電話が入った。
「審査会に黒帯が1人も来れない。
手伝ってくれ」
石井和義は断ることができず参加した。
そして基本と型の審査の後、組手になった。
黒帯は石井和義だけなので、1人で茶帯、グリーン帯など上級者100人の相手するように指示された。
芦原英幸の意図に気づいた石井和義は、通常なら急所だけ守って相手の攻撃を受けなければならないところを最初から本気で戦った。
「石井、もっと受けてやれよ」
「押忍!わかりました!」
そう答えながらも顔面に掌底を押し込み、前蹴りで吹っ飛ばし、膝蹴りをボディに叩き込み、全力で潰していった。
そして組手を終えてボロボロになった体で審査会の仕事をやり通した。
「石井、考え直せないか。
ほかのやつが全員いなくても俺はお前1人残ってくれれば・・・」
「押忍!
ありがとうございました」
27歳の石井和義は師の言葉を腹の底から遮った。
芦原英幸は25歳から35歳、石井和義は16歳から26歳まで10年間、これが師弟の最後の別れとなった。

芦原英幸 極真会館から破門 芦原会館を設立

1980年9月、芦原英幸に極真会館の本部から一通の手紙が届いた。
「永久除名処分」の通達状だった。
..............................................................................................................

愛媛県松山市三番丁八丁目三六〇番地一号

芦原英幸殿

通知書

貴殿は、極真会館の規律をみだし、且つ支部認可条件に

違背する不都合な行為に対する再三の注意を無視し、

情状酌量の余地なしと認められるので、極真会館道則の

定めるところに従い、極真会館愛媛支部長の任を

取り消すとともに、以後、いかなる場所にても

極真カラテを標榜することを禁じ、

極真会館から永久除名する。

この旨通知する。


昭和55年9月8日

財団法人極真奨学会 極真会館

国際空手道連盟

会長        毛利松平

理事長       塩次秀雄

館長        大山倍達

評議委員長    河合大介

..............................................................................................................

一週間後には新聞にも、芦原英幸を永久除名処分にしたという極真会館からの広告が掲載された。
芦原英幸が大山道場に入門したのが1961年9月。
2度とその門をくぐれなくなったのが1980年9月だった。
通達状が届いたその日、芦原英幸は1人で喫茶店にいってこれからのことを考えた。
極真を離れたら、かなり道場生が減るだろうと思った。
それでもいい。
信じてついてきてくれる人と一生懸命やればいいと思った。
実際は、四国、九州、中国、関西のほとんどの道場生が残った。
「先生、きっと今は誤解している人もきっといつかわかってくれますよ」
「これからもご指導よろしくお願いします」
自分さえ強くななればよかった空手。
自分を信頼してくれる道場生が安心して学べ安全に事故なく上達できなければいけない。
「ようし、見とけよ。
いろいろあったけど芦原についていってよかった、信じてついていってよかったといつか思えるようにしちゃる」
芦原英幸は自分の空手を「芦原空手」、道場を「芦原会館」と名づけた。
こうして道着の胸文字は「極真会」から「芦原会館」に変わった。
「地上最強の極真カラテ」の門下生ではなくなった。

石井和義 正道会館を設立

1981年、28歳の石井和義は仲間たちと「正道会館」を立ち上げた。
道場生の道着の胸文字は短期間で「極真会」から「芦原会館」、そしてさらに「正道会館」へ変わった。
大量の指導員と門下生が引き抜かれた芦原会館は「クーデター」と批判した。
6月には、京都大学、神戸大学、甲南大学、大阪芸術大学、桃山学院大学、松山商科大学、関西外国語大学、関西学院大学という石井和義が指導していた関西の大学が集って「第1回西日本学生空手道選手権大会団体戦」が行われた。
角田信朗は関西外国語大学チームの副将として出場。
1回戦、後ろ回し蹴りを相手の脇腹に炸裂させたが、体がくの字になった相手の顔に右手が当たってしまい、「技あり」と「顔面殴打(反則)」を同時にとられる。
試合が続行され後ろ蹴りを繰り出したが、またしても右手が相手の顔面を直撃し、2コの反則で反則負けとなった。
結局、関西外国語大学チームは4位。
角田信朗は1勝2敗に終わり「反則魔」といわれた。
12月、「第1回ノックダウンオープントーナメント西日本空手道選手権大会」を開催。
この関西初のフルコンタクトカラテのオープントーナメント(正道会館にかかわらずすべての他流派や団体に所属する者でも参加を受け入れる大会)は、少年マガジンで大人気だった「1・2の三四郎」でも告知され、立ち見が出るほど大盛況だった。
石井和義の空手というマイナーだったものをメジャーに盛り上げていく才能は28歳のこの頃からすでに発揮されていた。
1982年10月、1981年末に正道会館が発足した石井和義は1年も経たないうちにいきなり第1回全日本選手権を、しかも当時、西日本最大の収容人数を誇っていた大阪府立体育館で開催。
5000人を超える大観衆(毎年大阪で行われる極真空手のウェイト制大会より多かった)が見守る中、1年遅れで芦原会館を退館し正道会館に移籍した中山猛夫が圧倒的な力で優勝した。
その左レバー打ち(左ボディブロー)、左レバー蹴り(左ミドルキック)でガードを下げさせ顔面を蹴って倒すという技術は、突き(パンチ)と下段回し蹴り(ローキック)という従来のフルコンタクト空手のスタイルとは違うものだった。

怪獣王子:佐竹雅昭

「おい佐竹、なんか正道館っていう空手道場みたいなんやけど」
ある日、佐竹雅昭に友達が1枚のチラシを持ってきた。
それには『DO!エンジョイ空手』と書いてあった。
月謝は3000円。
しかも『今、入会すると、キックミットをプレゼント!』
「なにぃー!」
佐竹雅昭は、本屋で大山倍達の『大山カラテ もし戦わば』と出会い、トラを蹴る絵に腰を抜かし、牛の殺し方、ゴリラの倒し方、山籠りの効果、そのすべてを真に受け、「空手バカ一代」にドップリ浸かり、14歳で毎日、家の裏の公園の木を蹴り始めた。
そして学校では授業中は空気椅子、1時間目終わったら腕立て、2時間目終わったら腹筋、3時間目終わったら逆立ち、4時間目終わったら弁当食べて、昼休みは懸垂や蹴りの練習。
体育の授業は絶好のトレーニングタイムで必要以上に自分にノルマを課して頑張った。
これを中学から高校まで続けた。
高校生のとき、初めて空手道場に通った。
大阪の福島区にあった極真空手総本部直轄道場、師範は若獅子寮出身のごっつい体の人だったが、とにかく「押忍」の縦社会で、白帯は組手もやれなかった。
佐竹雅昭は、これでは強くなれないと感じ、道場に行かない日は、実家の裏にある吹田市北千里体育館内の1回50円のトレーニング場に通った。
その極真の道場の月謝は6500円だった。
佐竹雅昭は見学に行った。
庶民派の街、大阪天神橋商店街。
天満駅のホームから見える場所に正道会館総本部道場はあった。
中に入るとBGMが流れていた。
極真の道場ではありえないことだった。
「あ、見学? 
よく来てくれたねえ。
いやあ、君、大きいねえ。
まあ座って座って」
そういって出て来たのは石井和義だった。
そしてしばらく稽古をみていると中山猛夫が現れた。
第9回極真空手の全日本大会準優勝者である。
中山猛夫は極真空手を離れて正道に移っていた。
また正道会館は稽古方法も新鮮だった。
白帯でも組手をやっていた。
またグローブや脛パッドなどの防具の着用は、ケガを防ぎ、練習量を増やすという点で合理的だった。
その直後に正道館第1回全日本大会が行われ、佐竹雅昭は観に行った。
トーナメントを圧倒的な強さで中山猛夫が優勝した。
「これや!」
佐竹雅昭は感動した。
そして正道会館に通うようになった。
正道会館では、中山猛夫を筆頭に、今西靖明、川地雅樹ら強い先輩の指導を受けることができた。
また道場の雰囲気は明るく、ノリもよかった。
練習もキツかったが、強くなっているという実感があった。
中山猛夫は
「俺たちは拳ダコばっかり作ったって仕方ないやん」
「こんな拳にタコを作っても人は倒れん」
「俺たちは人を倒すのが仕事やろ。
だったら人で拳を鍛えればええねや。
だから組手や。
実戦経験積まなあかん」
「相手が痛がるような蹴りをするのは人で覚えろ」
「相手にタイミングよく当たる打ち方は練習でしか身に付かんで」
といい、その指導は合理的で実戦至上主義。
とにかく格闘技を強くなりたかったらスパーリング、組手。
実戦に対応するためには、道場以外で走ったり、ウェイトトレーニングするなど体力づくりをやる必要があるが、道場というのは対人練習の場。
正道会館は、そういう効率性と実戦性を重視した稽古が行われた。

独自路線の芦原空手

芦原英幸は
「実戦!芦原カラテ―ケンカ十段のスーパーテクニック」(1983年)
「実戦!芦原カラテ (2) 発展編」(1984年)
「実戦!芦原カラテ(3)基礎編 誰にでもできる空手 」(1988年)
というサバキの本を出版した。
この反響は大きく、全国で同好会をつくりたいという問い合わせが殺到した。
例えば東京の同好会は、最初は公共施設を借りて稽古していたが、たちまち人数が増え、新宿に専用の道場ができ350名の会員が通った。
こうして芦原空手は全国に広がっていった。
サバキは、ビデオ化もされた。
芦原カラテを基本編と応用編に分け3本のビデオが製作された。
それは国内のみならず英語版となって海外でも販売された。
そして海外からも修行者が訪れ、芦原空手は、アメリカ、オーストラリア、アジア・・・と世界に道場ができていった。
芦原英幸は、極真空手が既に実戦的ではないとアンチテーゼを投げかけた。
顔面殴打禁止
掴み禁止
金的攻撃禁止
武器の携帯禁止
競技化していく極真空手に反旗を翻し、髪の毛掴んで殴る、倒した相手の頭を踏む、壁に相手をぶつけるなど競技化出来ない技術をも体系化した。
芦原英幸は、イスラエル軍やイタリア警察、自衛隊のテロ対策警務隊にも指導を行った。
新しく開発した回転伸縮式トンファーを、ホルスターでぶら下げたまま飛行機に乗ろうとして捕まったこともあった。
また一切の他流試合を禁止し、他流試合に挑んだ者は破門し、マスコミへの露出も消極的だった。
芦原空手は競技化を完全に無視した「護身術」だった。
決められたルールで1対1でド突き合う空手ではなく、門下生は必死に練習しても大きな試合もなく評価されることもない。
それでも芦原英幸の強さはホンモノで、道場生にとってヒーローだった。
石井和義はプロモーターとしてK-1をはじめ数々の格闘技イベントを成功させた。
マスコミに派手に宣伝されたり誇張されるのを嫌い、あくまで仕事を持ちながらの空手、そしてど突き合いの試合ではなくサバキなど独特の技術を駆使し実戦空手の道を行く芦原空手。
大会場での試合、プロ化、エンターテイメントまで取り入れながら最強を目指す正道空手。
その方向性の違いは明確だった。

他流試合 常勝軍団

正道会館は「挑戦」をテーマに、他流派の空手トーナメントにも参戦し「他流試合」を行った。
他流派の試合に出て判定になると、どうしても勝ちにくい。
どれだけ圧倒していても良くて引分け、悪いと判定負けという苦い経験から
「じゃあ、倒せばいいんだ」
と「倒す空手」を追求。
白蓮会館の大会で優勝した松本栄治、柳沢聡行、士道館の大会で優勝した玉城厚志など、他流派の空手の試合に乗りこんで勝ち、「常勝軍団」といわれた。
そんな正道空手で、佐竹雅昭は、関西外語大学の1年生時に正道会館の全日本大会に初出場で4位。
2年で2位、3年で2位、4年で優勝と着実にレベルアップし、正道館空手最強の男となった。
大学在学中は、アルバイトをしていたが、引っ越しのアルバイトではエレベーターを使わず階段を使った。
プールの監視員のアルバイトでは、水中で走ったり、蹴りの練習をして
「監視員が暴れている」
と子供にチクられた。
やがて主任に昇格すると、正道会館の後輩を雇い入れ、自分は監視台に上がらずに交代でミットを持たせて練習した。
当時のフルコンタクト空手界は、まるで戦国時代で、各流派の選手たちは戦国武将のように互いをライバル視した。
特に最大にして最強、そして関東の極真空手と、そして関西の新興勢力正道会館の対立は、その最たるもので、佐竹雅昭も、街で極真の有名選手に出会ったら、その場でケンカをしてやろうと思っていた。
1988年、真のフルコンタクト空手日本一を決めるを決めるため、各流派のチャンピオンクラスを集めた「リアル空手トーナメント」 が行われた。
佐竹雅昭は勝ち進んだ。
そして決勝は、練習でも1度も負けたことがない後輩、柳澤聡行だった。
最初から押していき有効を2つとり、ラスト30秒で、とどめの刺そうと前に出たところにカウンターの跳び膝蹴りをアゴにもらい片膝をついて技ありをとられ逆転の判定負けをした。
その後、柳澤聡行はリング上で、UWFの前田日明への挑戦状を読み上げた。
前田日明が立ち上げたUWFは、従来のプロレスではない格闘技色の濃いプロレスで社会現象といわれるほど大きな支持を受けていた。

この敗戦でショックを受けた佐竹は、関西テレビへの就職を断りに行き、空手漬けの毎日を送るため正道会館の職員になることを決めた。
石井館長にそのことを伝えると
「ウチに来るならこれだけ出そう」
とパッと手を開き指を5本立てた。
佐竹雅昭は
(うわ、50万くれるんやあ)
っと思った。
そして最初にもらった給料袋の中身は5万円だった。
佐竹雅昭は、5万円の給料で、衣食住を行うために、足らない分はパチンコで稼いだ。
職員の仕事は、まず朝、道場に行き清掃。
そして事務仕事。
午後は「Bigin Sports」という正道会館の格闘技ブランドのサンドバッグやミット、グローブなど格闘技用品の梱包と発送。
夕方から空手の指導を行った。
当時は本革サンドバッグが20万もしたため高くて買えなかった。
だから石井和義はトラックのテント生地でオリジナルのサンドバッグを自作してみると、原価5千円でできた。
そして正道総本部道場には20本ぐらいサンドバッグが並んだ。
それを道場生が楽しそうに蹴って、稽古が終わっても帰らなかった。
くの字型のビッグミットやパンチンググローブ、スネガードなどをつくった。
防具をすることで痛くないから組手が楽しくなり、他流派が道場まで買いに来た。
これはビジネスチャンスと思い通販を開始。
本革20万のサンドバッグがテント生地だが19800円で手に入ると飛ぶように売れた。
「Bigin Sports」は後の東京進出の大きな原資となった。
結局、佐竹雅昭は正道会館の職員は6年続け、月給は13万円まで上がった。

打倒 極真

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