石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした

石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした

「アマチュアは勝利にこだわる。当たり前の事です。アマチュア競技は参加料を払って、競技大会に加わり、勝ち負けを競い、栄光の証としてトロフィーや賞状を授与される。勝利のために努力精進する過程において肉体と精神を鍛える それがオリンピック精神であります。しかし、プロ精神は違います。お客様を感動させ満足させて、いかに勝つか、いかに負けるかです。それが銭が稼げるプロ、プロは稼いでなんぼです」


ケンカ10段、芦原英幸

芦原英幸は、広島県の中学校を卒業後、東京のガソリンスタンドに就職した。
しかし孤独のせいか世の中が憎く思え、すれ違いざま肩をぶつけたり、店の中でガンを飛ばして先に外に出て相手が出てくるまで待ったり、、
「ケンカ買っていただけますか?」
と聞いたりしてケンカ相手を探した。
相手は弱い者や逃げる者とではなく自分が強いとうぬぼれ、威嚇してくる奴のみ。
そして広島弁で一喝。
「やっちゃるけん、コイ!」
東京にきて数年後
「空手 道場生求ム」
という電柱の張り紙にみて見学に行った。
それが大山倍達の大山道場だった。
池袋(豊島区西池袋3丁目13-11)の立教大学裏にあった老朽化した木造のバレエスタジオの中で30人ほどの男が、まるでケンカのようなすごい組手稽古をやっていた。
「勝つためには何でもやれ!」
大山倍達がいうように、顔面突きアリ、金的アリ、投げアリ、抑え込み技アリ、締め技アリ、関節技アリ、つかみあり、ヒジあり、ほぼ何でもアリ。
まだ試合などないため日々の組手が勝負だった。
乱暴だったが、その実戦的な空手には不思議な魅力、いや魔力があった。
近所から
「うるさい」
といわれ、大家に電気や水道を止められても夜遅くまで稽古は行われた。
大山道場の出身者で、中村忠、大山茂・泰彦兄弟、芦原英幸、添野義三、盧山初雄などは、それぞれ空手を代表する流派をつくった。
黒崎健時は、大沢昇、藤原敏男、加藤重夫は魔裟斗という強いキックボクサーを育てた。
ジョン・ブルミンも大山道場で学び、オオヤマ道場オランダ支部を設立。
弟子のウィリアム・ルスカは、オリンピック柔道男子無差別級、重量級金メダリスト。
またピーター・アーツやアーネスト・ホーストなどK-1で活躍したヘビー級のキックボクサーの師もジョン・ブルミンの弟子である。
芦原英幸もすぐ入門し休まず稽古に通った。
突かれ蹴られ、やられればやられるほどファイトが沸いた。
入門し2ヵ月くらいたったとき、先輩と組手をしていて攻撃が受け切れず
「まいりました」
と頭を下げた。
しかしその先輩はかまわず芦原英幸の顔面を蹴った。
芦原英幸は崩れ落ちた。
(クソッ!汚い。
あいつを叩きのめすまで絶対に辞めない!)
また「鬼」と恐れられた黒崎健時師範代にも痛めつけられた。
黒崎健時は、大山道場がムエタイとの対抗戦が行われることになったとき、大山倍達に命じられ監督としてタイへ渡った。
しかし現地で試合出場を打診され急遽参戦し、ルンピニースタジアムでムエタイランカーとムエタイルールで対戦。
肘打ちを顔面に浴び敗れたが、その戦いぶりは恐ろしいほどの執念深さが現れていた。
大山道場での黒崎健時の組手は、左半身になって左拳を繰り出し前進。
相手を追い込むと右のまわし打ち(右フック)を決めるというもの。
芦原英幸もボコボコに殴られた。
しかしやがて体をさばき、黒崎健時の背中側に移動して有利なポジショニングをとるようになった。
それは芦原英幸独特の動きで、後の「サバキ(捌き)」といわれるテクニックとなっていく。
従来、空手は正面を向き合い技をかけ合う。
しかし芦原英幸は、一歩サイド、一歩後ろに動いたところから技をかける。
相手の技が届かないところに位置し、いかに自分の技を届かせるか。
攻防一体の天才の空手だった。

ゴッドハンド 牛殺し 大山倍達

大山倍達は1954年には目白にあった自宅の庭で空手を教えていたが、1956年に娘が通っていた縁で池袋の立教大学裏にあったバレエスタジオに道場を移転(大山道場)、そして1964年には東京都豊島区西池袋にコンクリート建ての「国際空手道連盟 極真会館」を設立した。
会長は佐藤栄作(当時、国務大臣)。
副会長は毛利松平(当時衆議院議員)。
大山倍達は館長だった。
当時の空手は、突きや蹴りを当てない「寸止め空手」が一般的だった。
しかし極真空手は、直接、突きと蹴りを当てる「フルコンタクト空手 」のを行った。
会館ができた同時期、19歳の芦原英幸は、黒帯(初段)となった。
そして21歳で6年勤めたガソリンスタンドを辞め、極真会館の職員(指導員)となった。
月給は1万円。
アパートの家賃とほぼ同額で、インスタントラーメンを主食に足りない分は仲間で助け合った。
3年後、芦原英幸は空手の指導のためにブラジルに行くことが決まった。
夢のような話だったがブラジルの発つ数日前、事件を起こした。
その日、芦原英幸はつまらないことでむしゃくしゃしていた。
見かねた先輩が酒を飲みにつれていった。
根が単純な芦原英幸はすぐに機嫌を直した。
安心した先輩は先に帰ったが、芦原英幸はガソリンスタンドに勤めていたときからの行きつけのスナックにいき閉店までウイスキーを飲んだ。
タクシーを拾うため、ふらつく芦原英幸はママが支えられながら店を出た。
すると
「エエかっこすな」
と車の中から男たちが野次った。
「なにいってるんだ、この野郎」
と返した芦原英幸を男たちは車をおりて襲った。
芦原英幸は全員を叩きのめし、5人の男たちは地面でウンウンと唸っていた。
その後、ママと別れ、去ればいいのに現場の隣の食堂に入り焼そばを食べていた。
すると警官が入ってきた。
「誰かあの5人を知りませんか?
誰がやったのか、みた人はいませんか?」
「ああ、俺がやった」
芦原英幸は焼そばを食べながら手をあげた。
先に殴ってきたのは向こうだし、5対1だったので自分のほうが正しいと思っていた。
しかし警官は署へ連行した。
「名前は?」
「佐藤栄作(当時の総理大臣)です」
芦原英幸は取り調べで何を聞かれてもちゃんと答えなかった。
「素直にしゃべれ!」
怒った警官は後ろ手に手錠をかけて椅子に座った芦原英幸の腹を殴った。
キレた芦原英幸は警官に頭突きを食らわせた。
一晩、留置所に入った後、道場に行くと館長室に呼ばれ
「ご苦労さん、君は今日からもう来なくていいんだよ」
と師範代に無期限の禁足(道場に入ってはいけない、破門ではない)処分を言い渡された。
その後、芦原英幸は、師範代の薦めもあり何か償いをと朝6時から大八車を引いて廃品回収業の仕事を始めた。
夜は、公園でランニング、柔軟運動、筋力トレーニング、シャドーと稽古を欠かさず続けた。

2ヵ月後、極真会館から呼び出され
「押忍」
と館長室に入ると大山倍達はいきなりいった。
「お前、四国へ行け」
「・・・・・・」
「芦原、私が死ねといったら死ねるか!」
「押忍」
「四国へ行って空手を広めてこい」
2日後、1967年3月27日の21時15分には着の身着のままで夜行に乗って東京を発った。
持っているのは極真会館から支給された交通費10000円で買った片道切符と道着の入ったバッグを1つだけだった。
列車は東海道を西に向かって走り、翌朝、岡山県に到着。
ここからフェリーで四国へ。
そして再び電車に揺られ、目的地の愛媛県東宇和郡野村町(現:西予市野村町)に到着。
野村町は小さな町で、ここに指導を依頼された道場があった。
生徒は5人。
芦原英幸は3畳半のアパートに入り、空手の指導だけでは収入が足りないので、出前のアルバイトをした。
少しして生徒たちと毛利松平のところへあいさつに行き、その帰りに食堂に入った。
しかしお金があまりなく、ご飯だけを頼み6人でテーブルに並んだご飯に醤油をかけたり塩をかけて食べた。
四国へ渡って3ヵ月後、至急戻るよう極真会館から連絡が入り、手持ちが500円しかなく腕時計を質に入れて久しぶりに東京へ戻った。
しかしまったく大山倍達から呼ばれず、毎日稽古をしていた。
2週間たってもお呼びがかからず、その間に四国から手紙が何通も来ていた。
芦原英幸は自分から館長室を訪ねた。
「四国へ帰ってもよろしいでしょうか?」
すると大山倍達はいった。
「君はもう行かなくていい。
ブラジルへ行け」
禁足処分中の廃品回収業務と四国で3ヵ月苦労したことで、再度、ブラジル行きが認められたのである。
当然、芦原英幸はブラジルに行きたかったが、野村町の5人のことがひっかかった。
「四国の道場はどうなるんでしょうか?」
5人を捨てて自分だけいい道に行くことはできない。
「このままではあいつらがかわいそうですよ。
あそこは潰れてしまいます」
「芦原、私のいうことが聞けないんだったら今度こそ破門だ!」
「・・・・・・」
どうしたらいいかわからず立ちつくしていたが、やがて決めた。
「長々とお世話になりました」
そういって頭を下げて館長室を出た。
トボトボ歩いて地下のロッカールームで着替えていると後輩が走ってきた。
「先輩、館長が呼んでおられます。
四国へ行っていいそうです」
こうして四国へ戻り指導を続けた。
その強さだけでなく、人間的にも魅力的な芦原英幸は、その後、道場生と道場の数を増やしていった。

石井和義

石井和義は、1953年6月10日に愛媛県三間町で3人兄弟の次男として生まれた。
父親は、日本画家を志し、15歳で横山大観(「朦朧体」という独特の描法を確立した)に弟子入りした。
しかし太平洋戦争で兵隊に行き、活動の中断を余儀なくされ、夢はやぶれ、戦後、郷里で自転車店を開業したものの、世捨て人のように酒浸りの日々を送った。
母親は、農家の8 兄弟の長女として生まれ、幼くして大分県の旅館に奉公に出て長男を産み、郷里に帰り父親と出会い、次男(石井和義、正式な戸籍上は長男)と三男が生まれた。
小学生の長男は重度の腎臓病を患い、母親は生まれたばかりの次男と三男を抱え、アルコール依存症の父親の代わりに自転車店を切り盛りした。
長男は、貧乏なために満足な治療も受けられず、医者からも見放されていた。
母親はわらにもすがる思いで、父親の反対を押し切り、創価学会に入信。
ひたすら「南無妙法蓮華経」を唱え、兄の病気の回復を祈った。
その結果、長男の病気は完治した。
無学な母親が起こした奇跡に石井和義は、
「信念の前に理屈は無力」
ということを学んだ。
そして小学校、中学校と新聞配達のアルバイトを行い家計を助けた。
中学1年生のとき、近所のお兄さんが空手の練習しているのをみて
「かっこいいな」
と思い本を買った。
そして独学で空手の道をスタートさせた。
木に藁を巻いて巻き藁を、そして砂袋も自作し、雨が降っても雪が降っても、拳が割れて出血しても、毎日これを叩き続けた。
4年後、極真空手に入門するのだが、その頃にはすでに拳にはタコができて、手はグローブのように厚くなり、レンガを砕き、10枚以上の瓦を割れるようになっていた。

石井和義は、高校は奨学金で行こうと決めていた。
1つの中学校から合格するのは1、2人という日本育英会(日本学生支援機構)の特別奨学金(通常より支給額が多く、返済は半額でよい)の試験に合格。
難関といわれた進学高校の入試にも合格。
順風満帆かと思われた矢先、前納しなければならない入学金、授業料が家にないことが発覚。
するとそれまで酒浸りで働かなった父親は、突然、絵を描くといい始めた。
まず1週間酒を断ち、その後、数週間、真冬に靴下も履かず白い着物1枚で正座し、描き続けた。
その間に食べたのはおにぎりと水だけだった。
そして描き上げた山水画は石井和義の高校の入学費となった。
それまでも絵の注文は多数あったが、父親は断り続けていた。
その後、酒浸りに戻り、1年後(石井和義が高2のとき)に他界した。
高校に入った石井和義はバイクの免許を取得し、平日の昼間は学校、休日は市内の喫茶店へコーヒー豆を配達するアルバイトをした。
そして学校の帰り道にはアルバイトの配達先の喫茶店を日替わりで回って、コーヒーと夕食をおごってもらった。
また大好きだった女の子と喫茶店で初デートしたとき、迷ったが
「鼻毛が出てるよ」
と小さな声で教えてあげたが、彼女はトイレに行くフリをして帰ってしまった。
言わないほうがよかったのか現在でも答えは出ていないという。
1969年1月、高1の冬、たまたまのぞいた極真会館四国支部芦原道場宇和島支部に入門。
芦原英幸の弟子となった。
「石井、電車で通っているのか?
交通費大変だろう?
月謝安くしてやる」
そういって芦原英幸は1000円の月謝を600円にした。
そういう芦原英幸自身、空手だけでは食えず、アルバイトをしながら電車で各道場へ指導に行っていた。
芦原英幸の空手は、理にかない、動きは美しく、速く、力強かった。
そして芦原英幸は、最初の柔軟体操から手を抜かずに指導した。
毎日の稽古が真剣勝負だった。
「いいか、倒さないと、倒されるんだよ!」
石井は、芦原の一挙一動、脱力、腰のキレ、緩急をマネて、その空手を学んでいった。
石井和義16歳、芦原英幸は25歳だった。
「習い事は全て、模倣から始まります。
しからば良い先生を探すのに妥協してはいけません。
良い先生、良いコーチに学ぶのが一番大切なことです。
正しい基本が身に付いてないと、いくら稽古しても無駄な努力になります。
私はラッキーにも日本一の先生と出会えました」

豚殺し

そして高2の夏休み、石井和義は大山倍達の牛殺しに挑戦した。
自分の全力の拳や手刀を打ち込んだらどうなるのか?
試したくて我慢できなかった。
生まれ故郷の宇和島市は闘牛で有名な町で、友人宅には横綱牛がいた。
3、400㎏はあろう筋肉の塊を目の前にして、石井和義は
「やめとくわ!
ケガさせたら悪い」
と逃げた。
牛をあきらめた石井和義は豚殺しをすることに決めた。
まず養豚場にアルバイトとして潜入。
毎日、30℃を超える暑さの中、長靴を履いて、スコップを持って、汗と泥とクソにまみれて豚小屋の清掃を行った。
アルバイトの契約は2週間。
仕事には律儀な石井和義は、豚殺しを行うのは最終日、そしてターゲットは200㎏はあろう1番デカい豚と決めた。
無心で餌を食べる豚の前に立ち、腰を落とし構え、
「俺の空手の修行のために死んでくれ!」
気合と共に放った右の拳を、豚の眉間に打ち込んだ。
豚は鳴くこともなく餌を食べ続けている。
もう1度右拳を叩きつけたがビクともしない。
「そうだ、牛の急所は耳の横だと空手バカ一代で書いてあった。
豚も同じだろう」
と手刀を横から打ちつけたが豚は平気で食べ続けた。
その後、肘打ち、回し蹴り、後ろ回し蹴りなどを打ち込んだが、豚は迷惑そうな顔をするばかり。
怒った石井和義は、豚の前足にローキック。
よろけた豚に足を踏まれ、あまりの痛さに豚小屋の中を転げ回った。

高3の冬、石井和義は黒帯(初段)になった。
僅か2年での昇段は異例のことだった。
高校卒業後、バイクとバッグ1つだけで四国から大阪へ渡った。
堺市にあった兄の家に住み、アートスクールに通いながらアルバイトで働いてお金と貯め、東京芸大に入ってデザイナーになるという計画だった。
しかしアートスクールの芸大受験コースに入ると周囲のすごさに圧倒された。
すぐに路線を変更し、実業家になるため、元手を得るためにデパートの配送のアルバイトを開始した。
歩合制で、たくさん配れば配るほど稼げるため、バイクの免許しかなかった石井和義は、上司に借金して車の免許を取得。
効率をよくするため、配る地域も一戸建てではなく団地にしてもらい最高で1日380個(当時の新記録)を配った。
自分の車を持ち込むとバイト代がアップするので、免許取得の借金を返した後で軽トラを買った。
夜は段ボールを回収する別のアルバイトをし、昼間、デパートの配達をしながら段ボールが捨ててある場所を目をつけておき、夜になると回収に行った。
段ボールは重さで買い取られるので、水をかけて重くした。
こうして商売の面白さを知った石井和義は大阪船場の貿易会社に就職。
仕事は百貨店への営業だった。
石井和義は、サラリーマンとなり、空手は趣味で続けた。
毎年、四国愛媛県八幡浜の芦原空手の本部道場で行われた昇段審査会や合宿などのときは、大阪から1人で参加した。

22歳で極真会館芦原道場大阪支部長に

1971~77年、週刊少年マガジンに連載された「空手バカ一代」が大ヒット。
空前の空手ブームが起こった。
池袋の極真会館は大変なことになった。
入門者が増えすぎて道場に人が入りきらず、廊下から階段、さらには表玄関から総本部前の道にまで道場生があふれ、窓を開けて指導員の号令が聞こえるようにして稽古を行った。
あまりの多さに間引きも行われた。
指導員がわざと稽古を厳しくしたり、ガチンコの組手をしたりして辞めさせてしまうのである。
それでも入門者は日々続々とやってきた。
そしてその厳しい環境の中で耐え生き残ってきた道場生は根性があり強かった。
「空手バカ一代」の中で芦原英幸は、主人公の大山倍達を上回るほどの人気を得た。
四国の道場も県内外からの入門者が訪れ、道場生は急増し、道場の近くに用意された寮はいつも満員だった。
1975年、夏合宿に参加した石井和義に芦原英幸はいった。
「石井、お前いくつになった?」
「22歳になりました」
「お前、大阪で道場やれ」
「押忍?!」
マンガ「空手バカ一代」は多くの若者の心に火をつけ、東京の本部道場をはじめ全国の支部道場にも極真空手へ入門者が殺到した。
しかし所詮、ブームはブーム。
マンガの影響で入門した者の多くは長続きせず辞めることが多かった。
しかし中には仕事や学校を辞めて県外からわざわざ四国にいき、数年間、空手の修行を積む者もいた。
そういう人たちがやがて郷里や都市に帰り、それぞれの土地で自主的に稽古をするようになる。
始めは何人かの仲間で稽古していたものが次第に人数が増えてくる。
すると彼らは芦原英幸に指導の依頼をした。
そういう声に応え芦原英幸は関西や九州の各地を回った。
そして弟子の石井和義に関西での極真空手の普及を命じたのである。
松山から大阪へのフェリーの中で石井和義は覚悟を決めた。
「柔道の嘉納治五郎が講道館を開いたのも23歳や。
22歳のオレでも大丈夫やろ」

石井和義は、芦原英幸から金銭的な援助もコネもなかったが、
「なんとかなるやろ」
とJR、南海、近鉄、地下鉄とすべての電車が集まり、若者が多いことに目をつけ、いきなり大阪の中心、難波(ミナミ)で道場を開く場所探した。
一般的な空手の道場は、週何回か体育館などを間借りするヤドカリ道場から始まる。
比較的安価な分、不便な場所になってしまうことが多い。
やがて生徒が増えると駅に近いビルなどを借りて常設道場をつくる
最終的に建物から自前の道場にまで発展させていくのだが、そこまでいける人は少ない。
とりあえず難波駅周辺を歩いていると、大阪球場内にある文化会館が「各種教室生徒募集」という看板を出していた。
生徒募集であり教室の募集ではなかったが、
「こんにちは!
教室が空いているとと聞きお願いに来たんですが・・・」
とハッタリをかまして事務所には入った。
「何にご使用になるのですか?」
(やった)
内心思いながら
「空手道場、いや空手教室を始めようと思いまして・・」
「ここは料理教室とかお花教室とかが多いんです」
「そこをなんとか」
石井和義は粘ったがダメだった。
しつこいのは逆効果と引き上げ、翌日、ケーキを持って
「昨日は失礼しました」
と笑顔で訪れ、受け取れないという相手に無理やり置いて帰った。
その次の日もクッキーを持って訪ねた。
「近くに来たもので寄りました。
兄がケーキ屋をやっていまして」
すると
「まあ、こちらに座ってください」
と応接室に通された。
それでも断ろうとする相手に
「では1カ月だけでも貸していただけませんか?
1カ月単位の契約更新でも結構です」
結局、1ヵ月どころか毎月道場生は増え、半年後には30坪のスペースに入りきれなくなり、稽古時間を2部に分け、それでも足りなくなった。
こうし難波駅から徒歩3分の大阪球場の中に、駅前留学NOVAより10年早い駅前空手道場、極真会館芦原道場大阪支部が誕生した。
「未熟者の若造だった私が、22歳で極真会館、芦原道場の旗を掲げました。
別に慢心してではありません。
師匠、芦原英幸の使命を受けたからです。
ただ、それだけ。
その時点で、私の考え方の全てが変わりました。
道場でも、外でも、戦いで、負けたら終わり、次は無いんです。
どんな事をしてでも、絶対に勝たなくてはなりません。
仕事でも、組手でも戦いは、絶対勝つ!という不退転の信念で望まなくてはなりません。
毎日、毎日、バカなりに真剣に考え、よく頑張ったと思います。
63キロライト級の身体で、無差別級で戦うのです。
5年間、真剣勝負の毎日を無事やり遂げました」

ホメ殺し

昼はサラリーマン、夜は空手の先生という生活が始まった。
格闘技は基本的にメジャーではない。
スポーツでも、競技となり、レベルが高くなってくると、肉体と精神に鍛錬が必要となってくるが、元来、スポーツはゲームであり、楽しいものである。
しかし格闘技は戦争やほんとうの殺し合いを起源とし、初心者から肉体的な苦痛と精神的な厳しさも要求する。
だから続られける人間が少ない。
「強さ」を求めるのが格闘技なのだから、一般的に道場や指導者は、来る者は拒まず、去る者は追わずで礼儀正しいが接客やサービスの意識は低い。
武道家は、お金に媚びることができないのである。
だから格闘技の道場というのは独特の近寄りがたさがある。
しかし石井和義は古い観念に囚われなかった。
大阪球場内に道場を立ち上げて2年後には、1クラスに200人、1日に500名が稽古した。
同時期、
「牛殺しの大山倍達直伝」
と大阪の福島区に東京の総本部から派遣された指導者がオープンさせた極真空手総本部直轄道場道場は15~20名だった。
人気の秘密は、牛殺しでも、豚殺しでもなく「ホメ殺し」だった。
「大体できたらホメてあげましょう。
キチンと出来なくても、ホメれば嬉しいから一生懸命やる。
キチンと出来るようになる。
だから続き、友達も連れてき見学者増える」
「入会金1万円、道着8500円、月謝4500円、合計23000円という小さな下心はありました」
という石井和義は、見学者が来れば、
「どこから来たの?」
「いくつ?」
と笑顔で椅子を出した。
そして入会すれば
「わあ、すごい!」
「強いね!」
とホメまくった。

また芦原英幸は
「いいか!
パーッと走ってポーンっと払ってスーッと横に入ってパチーンっと蹴るんだ」
と天才らしく感覚で教えたが、石井和義は
「45度にサイドステップしながら・・・」
「顔面をカバーしながら腰を入れて・・・」
とより理論的、かつ
「いいですかぁ?」
「わかりますかぁ?」
「じゃあやってみて下さい」
と丁寧でわかりやすく説明し、そして実際に見せて、教えて、そしてホメた
スパーリングでは、上級者が白帯や色帯の初心者と相手するときは、急所のみを守って自由に叩かせ蹴らせるよう指示。
もし反撃などすれば、その上級者は黒帯にお仕置きをされた。
当然、レベルに応じて教え方は変わった。
「勉強だっていきなり因数分解教えられますと数学も嫌いになりますよね。
格闘技も同じこと。
相手のレベルで指導方法を変えてあげる。
黒帯取得前の茶帯は一番好奇心旺盛な時期です。
そんな彼らの求めるものを、ヒントを、与えてあげる。
考えて稽古するクセをつけるんです。
学習とは、学びてこれを習うですよね。
ヒントを教えて、あとは反復練習が重要なんです」
「指導は全身全霊かけ全てを相手に伝えたい。
いつも、今日しかない!今しかない!と思って生徒に指導してる。
勿体ぶることなど絶対にしない。
こちらの熱意が選手に伝わるから伝染するから、強くなるんだ。
指導者だって毎回が真剣勝負なんだ。
絶対、集中力と爆発力が必要だ。
ダラダラ練習しても実戦では使えないよ。
サンドバッグだって、ミットだって、相手を仮想して。
殺しに来てる!と思うくらいの気持ちで、攻防一体で練習せんとどうするの!
時間無いなら人の3倍集中して、稽古しろ!
まず、心構えから!」
このように石井和義は、武道としての厳しさを保ちながらも、ケガをしないように注意しつつ、明るく楽しい指導で練習者のやる気の引き出した。
道場生は、強くなっていることを実感できれば楽しくなり、より練習に熱中した。
当時では考えられない指導法とその効果、つまり強さは口コミで広がり道場生は増えた。

空手がなんぼのもんじゃい

やがて
「よかったら今の仕事を辞めて俺のところで働いてくれないか?」
芦原英幸にいわれ、また何より極真空手に惚れていた石井和義は会社は辞め芦原道場の職員となった。
「石井、給料ははいくらにしようか」
「押忍。
いくらでもいいです」
「俺が極真の本部で働いていたころは7万だったからなあ。
11万でどうだ」
(!!!)
23万円もらい社宅に住んでいた石井和義は内心ビビりながら答えた。
「押忍。
ありがとうございます」
「石井!
関西を頼むぞ!
お前が俺の最初の職員だよ。
頑張ろうな!」
会社を辞め社宅を出た石井和義は、難波付近で住居を探した。
道場の月謝を預かるため、ある程度のセキュリティがあるマンションを探したが、家賃3~4万円の物件はなかった。
しかし西成区の岸里駅の近くに、立地、セキュリティ、家賃、すべてがそろった物件があった。
「やめといたほうがええで」
そう不動産屋がいうマンションは、5階建て、エレベーターなし。
「・・・連合」「アジア・・・研究所「・・組」など、複数のヤクザや右翼が同時に同居し、、入り口の横には街宣車が2台とまっていた。
石井和義の部屋は最上階の角部屋で家賃は3万8千円。
1階から5階までに右翼やヤクザの事務所があり、各部屋には、提灯や神棚、「仁義」などの格言が書かれた額が設置され、また各部屋に、パンチパーマやヒゲ、角刈り、イレズミ、指がない人、戦闘服、背広、腹巻など複数の特徴的な男がいた。
ある意味、砦のようにセキュリティが高い極道マンションだった。
隣室は菅原文太似の父親と母親、娘の3人暮らしだった。
(普通の人も住んでいるんだ)
石井和義は安心したが、3ヵ月後、蒸し暑い夏の夜、部屋の窓もドアも開け、扇風機の前でパンツ一丁で涼んでいると
「空手がなんぼのもんじゃい!
クソガキ!」
ステテコにランニング姿の文太似の父親がイレズミをいからせた肩に刀を持って乱入してきた。
パンツ一丁の石井和義は一気に間合いを詰め、刀を抜こうとしている右手首を両手で制した。
そして後ろに回り込んで右腕を絞り上げ、同時に左手で髪の毛を引っ張り動きを制しながら外へ出て、相手の体を廊下の手すりに押し付けた。
「やめてください!」
泣きながら出てきた母親が父親から刀を取り上げ、泣きながら2人の男をにらんだ。
部屋の戻った石井和義はドアも窓も施錠した。
翌日、父親が頭を丸めて訪ねてきた。
「先生、昨日は迷惑をかけて申し訳ない」

角田信明

23歳で脱サラし空手のプロとなった石井和義は、京都、奈良、兵庫、滋賀、岡山、広島と「極真会館芦原道場関西支部」を拡大させていった。
角田信明は、16歳で奈良支部に入ったとき、体重は58kgしかなかった。
高校生のときに初めて大阪の本部道場で出稽古し、石井和義に声をかけられた。
「上手いねえ。
何かやってたの?」
「みんなでお茶でも飲みにいかない?
君もどう?」
「押忍。
ありがとうございます。
ただ自分は明日試験がありますので今日はこれで失礼します」
「ええ、君、大学生なの?」
「押忍。
いえ、高校生であります」
「高校生!?
老けた顔してるねえ。
子供でもいるのかと思ったよー
ハハハ」
角田信朗は奈良支部で芦原英幸にも遭遇した。
芦原英幸は3週間に1度くらい関西を訪れ、指導を行っていた。
稽古後、芦原英幸は角田信朗にいった。
「お前、明日時間あるか?」
角田信朗は授業があったが
「押忍。
大丈夫です」
と答えた。
「俺、奈良は初めてじゃけん、明日ちょっと案内してくれよ」
翌日、角田信朗はホテルに迎えに行き、東大寺や奈良公園などを案内した。
奈良公園で足に釣り糸が絡まってしまって動けなくなった鳩を見つけた芦原英幸は、鹿せんべいを売っていたおばちゃんにはさみを借りて、糸を丁寧に外した。
芦原英幸は大山倍達の命で四国で極真空手を広めるため東京からやってきた当初は、道場生も少なく、アルバイトをしながら指導していた。
脚をケガしてもお金がないので医者にも行けず杖をついて指導した。
腹が減って道場生の頭がカツ丼にみえることもあったが、努めて明るく振舞い、決して弱さはみせなかった。
そんなときに栄養失調の捨て犬を拾い、どこに行くにもつれていき、犬も芦原英幸から離れなかった。
自分がいなければ生きていけない犬の存在と厳しい稽古をがんばる道場生が芦原英幸のがんばる原動力となり、そして練習後のバカ話が楽しくて仕方なかった。
角田信朗は鬼のように強いケンカ10段がみせるやさしさに感動した。

大山倍達と芦原英幸 両雄並び立たず

石井和義は関西一円に道場をつくり、またいくつかの大学に空手部や同好会を設立した。
そして昼間は大学や同好会の指導。
夜は道場に戻って指導。
それが終われば警察に注意しながらポスター張り。
夜中は公園で独り稽古。
169㎝、64㎏という小柄な体で、実際に道場生に強さを示し、道場破りの相手をするためには、自分を追い詰めなければならなかった。
「先生は芦原先生1人。
俺のことは先生じゃなく先輩と呼んでください」
と道場生にいっていた石井和義には、毎月数百~一千万円のお金が入ってきた。
そのお金は節税のために銀行に預けず、ほとんどが千円札なのに両替もできず、芦原英幸に手渡した。
そして1979年、34歳の芦原英幸は、JR松山駅前に鉄筋コンクリートで3階建ての道場を完成させた。
しかし松山市の新道場は極真会館の本部からいい評価は得られなかった。
「立派すぎる」
「そんな道場が建てられるなら月々の送金額を増すように」
また芦原英幸は愛媛県支部長だったが、愛媛県が北部と南部に分けられ愛媛県北部支部長になった。
そして愛媛県以外の活動を慎むようにといわれた。
全国に極真空手の新しい支部ができていき、それに伴い支部長が増えた。
当然、縄張り争いも起き始めた。
芦原英幸は、大山道場が懐かしかった。
池袋の小さな道場は、ただただ純粋に強さを求め熱気に溢れていた。
強かった先輩たち。
狂ったように続けられた稽古。
しかし極真会館となり、組織が肥大化していくと 共に、考えられないような下らない 戦いが起こり始めていた。

1980年3月、東京で極真の支部長会議が行われた。
ここで議事予定になかったが、ある支部長から「芦原英幸除名」が発議された
芦原英幸は、居並ぶ極真会館の支部長たちと大山倍達にケンカを売った。
「何を最初から茶番やっとるんよ。
面倒くさいことタラタラ続けよって。
最初から目的は決まっとったんやろ。
館長(大山倍達)、そうでしょう。
この芦原を破門にするため、何もかもあんたが企んどったことは分かっちょったわ。
館長、こんだけの人間集めて芦原を脅かそうとかビビらせようなんて考えちょったら甘いですけん」
「ワシが邪魔やというんなら、館長、これだけの支部長がおりますけん、ここで芦原を殺してくださいよ。
このデカいガラス窓を蹴破って一人一人窓の外に放り投げてやってもいいんですよ。
ほらお前ら、黙っちょらんで向かってこいや。
何が極真の支部長や。
誰一人戦えるもんなどおらんやないけえ。」
「館長、ワシがこの窓蹴破るといっちょるんです。
こんな腰抜け支部長は置いといて、館長が芦原を外に放り出してくださいよ。
アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ。
何頭もの牛を殺したんでしょ。
熊も退治したって聞いてますけん、ワシみたいなヒヨっ子潰すのなんて簡単やないんですか。
破門だ除名だ手回しのいいことせんでも、今ここで決着つけてくださいよ」
どの支部長も何もいえない中、芦原英幸は、一歩一歩大山倍達に近づいていった。
大山倍達の横に座っていた極真会館相談役の柳川魏志はいった。
「芦原、もうやめんか。
いかなる場でも、いかなるときでも自分の師匠や親分に食ってかかるのは仁義に外れた行為や。
師弟関係は親子も同然やないか。
お前が今やっていることは仁義に生きる世界なら万死に値する最低の行為なんや。
場をわきまえんか」
柳川魏志は、その武勇で日本の裏社会を震撼させたヤクザ。
昔から芦原英幸に目をかけていた。
しかし芦原英幸は自分を止めることはできなかった。
「先生との縁もこれまでちゅうことですね。
先生は館長の味方やもんね。
ワシは今から先生のカタキになるちゅうことですわ。
好きにしたらええ」
そういい放ちと会場を後にした。

石井和義 極真会館芦原道場を退会

1980年6月、極真会館芦原道場の職員となって3年間、石井和義給料は11万円のままだった。
それは月の後半にはなくなりサラリーマン時代の貯蓄を崩して暮らしていたが、もはやそれもなくなりかけていた。
岡山県で行われた昇級昇段審査会の帰り、石井和義は芦原英幸と喫茶店に入った。
そして意を決してベースアップを要求した。
「よしわかった。
3日後に連絡するよ」
芦原英幸は3日後電話をかけてきて1万円アップさせ12万円にした。
(アルバイトでもするか)
1カ月後、石井和義は後輩に電話で呼び出され、行くと関西の各支部道場の指導者が集まっていた。
彼らは特別練習という名目で芦原英幸に呼ばれ四国へ行き、
「これからはお前らが関西を運営していけ」
「石井は金のことを言い始めた」
といわれたという。
(ゲッ!!!!)
石井和義は衝撃を受けたが必死に笑顔をつくり続けた。
「先輩、自分たちは先輩が先生だと思っています」
「関西は我々でやっていきましょう」
という後輩に、石井和義は嬉しくて泣きそうになったがキッパリといった。
「うれしいけど勘違いしたらアカン!
道場は先生のものであって俺たちのものじゃない。
これは俺と先生の問題だから俺が先生に話す」
そしてその夜、芦原英幸に電話した。
「先生、お世話になりましたが、本日をもって辞めさせていただきます。
押忍。
(ガシャッ)」
翌日、大阪へ飛んできた芦原英幸と石井和義は喫茶店で向き合った。
「石井、30万でどうだ。
お前の給料30万にするよ。
いや50万出そう。
これ以上は出せないよ」
すでに石井和義の中に英雄、ケンカ10段はいなかった。
「先生。
10年前、あなたもアルバイトをしていて生活が苦しかったはずなのに高校生の私に「交通費かかるだろう」と月謝を半額にしてくれた。
そんな他人に痛みがわかる、誇り高く優しいあなたが大好きでした。
あなたが捨ててしまったものを私は後生大事に守っていきます。
ありがとうございました。
押忍」
「お前はこれから何をやるんだ?」
「空手を続けます」
2週間後、芦原英幸から電話が入った。
「審査会に黒帯が1人も来れない。
手伝ってくれ」
石井和義は断ることができず参加した。
そして基本と型の審査の後、組手になった。
黒帯は石井和義だけなので、1人で茶帯、グリーン帯など上級者100人の相手するように指示された。
芦原英幸の意図に気づいた石井和義は、通常なら急所だけ守って相手の攻撃を受けなければならないところを最初から本気で戦った。
「石井、もっと受けてやれよ」
「押忍!わかりました!」
そう答えながらも顔面に掌底を押し込み、前蹴りで吹っ飛ばし、膝蹴りをボディに叩き込み、全力で潰していった。
そして組手を終えてボロボロになった体で審査会の仕事をやり通した。
「石井、考え直せないか。
ほかのやつが全員いなくても俺はお前1人残ってくれれば・・・」
「押忍!
ありがとうございました」
27歳の石井和義は師の言葉を腹の底から遮った。
芦原英幸は25歳から35歳、石井和義は16歳から26歳まで10年間、これが師弟の最後の別れとなった。

芦原英幸 極真会館から破門 芦原会館を設立

1980年9月、芦原英幸に極真会館の本部から一通の手紙が届いた。
「永久除名処分」の通達状だった。
..............................................................................................................

愛媛県松山市三番丁八丁目三六〇番地一号

芦原英幸殿

通知書

貴殿は、極真会館の規律をみだし、且つ支部認可条件に

違背する不都合な行為に対する再三の注意を無視し、

情状酌量の余地なしと認められるので、極真会館道則の

定めるところに従い、極真会館愛媛支部長の任を

取り消すとともに、以後、いかなる場所にても

極真カラテを標榜することを禁じ、

極真会館から永久除名する。

この旨通知する。


昭和55年9月8日

財団法人極真奨学会 極真会館

国際空手道連盟

会長        毛利松平

理事長       塩次秀雄

館長        大山倍達

評議委員長    河合大介

..............................................................................................................

一週間後には新聞にも、芦原英幸を永久除名処分にしたという極真会館からの広告が掲載された。
芦原英幸が大山道場に入門したのが1961年9月。
2度とその門をくぐれなくなったのが1980年9月だった。
通達状が届いたその日、芦原英幸は1人で喫茶店にいってこれからのことを考えた。
極真を離れたら、かなり道場生が減るだろうと思った。
それでもいい。
信じてついてきてくれる人と一生懸命やればいいと思った。
実際は、四国、九州、中国、関西のほとんどの道場生が残った。
「先生、きっと今は誤解している人もきっといつかわかってくれますよ」
「これからもご指導よろしくお願いします」
自分さえ強くななればよかった空手。
自分を信頼してくれる道場生が安心して学べ安全に事故なく上達できなければいけない。
「ようし、見とけよ。
いろいろあったけど芦原についていってよかった、信じてついていってよかったといつか思えるようにしちゃる」
芦原英幸は自分の空手を「芦原空手」、道場を「芦原会館」と名づけた。
こうして道着の胸文字は「極真会」から「芦原会館」に変わった。
「地上最強の極真カラテ」の門下生ではなくなった。

石井和義 正道会館を設立

1981年、28歳の石井和義は仲間たちと「正道会館」を立ち上げた。
道場生の道着の胸文字は短期間で「極真会」から「芦原会館」、そしてさらに「正道会館」へ変わった。
大量の指導員と門下生が引き抜かれた芦原会館は「クーデター」と批判した。
6月には、京都大学、神戸大学、甲南大学、大阪芸術大学、桃山学院大学、松山商科大学、関西外国語大学、関西学院大学という石井和義が指導していた関西の大学が集って「第1回西日本学生空手道選手権大会団体戦」が行われた。
角田信朗は関西外国語大学チームの副将として出場。
1回戦、後ろ回し蹴りを相手の脇腹に炸裂させたが、体がくの字になった相手の顔に右手が当たってしまい、「技あり」と「顔面殴打(反則)」を同時にとられる。
試合が続行され後ろ蹴りを繰り出したが、またしても右手が相手の顔面を直撃し、2コの反則で反則負けとなった。
結局、関西外国語大学チームは4位。
角田信朗は1勝2敗に終わり「反則魔」といわれた。
12月、「第1回ノックダウンオープントーナメント西日本空手道選手権大会」を開催。
この関西初のフルコンタクトカラテのオープントーナメント(正道会館にかかわらずすべての他流派や団体に所属する者でも参加を受け入れる大会)は、少年マガジンで大人気だった「1・2の三四郎」でも告知され、立ち見が出るほど大盛況だった。
石井和義の空手というマイナーだったものをメジャーに盛り上げていく才能は28歳のこの頃からすでに発揮されていた。
1982年10月、1981年末に正道会館が発足した石井和義は1年も経たないうちにいきなり第1回全日本選手権を、しかも当時、西日本最大の収容人数を誇っていた大阪府立体育館で開催。
5000人を超える大観衆(毎年大阪で行われる極真空手のウェイト制大会より多かった)が見守る中、1年遅れで芦原会館を退館し正道会館に移籍した中山猛夫が圧倒的な力で優勝した。
その左レバー打ち(左ボディブロー)、左レバー蹴り(左ミドルキック)でガードを下げさせ顔面を蹴って倒すという技術は、突き(パンチ)と下段回し蹴り(ローキック)という従来のフルコンタクト空手のスタイルとは違うものだった。

怪獣王子:佐竹雅昭

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