石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした

石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした

「アマチュアは勝利にこだわる。当たり前の事です。アマチュア競技は参加料を払って、競技大会に加わり、勝ち負けを競い、栄光の証としてトロフィーや賞状を授与される。勝利のために努力精進する過程において肉体と精神を鍛える それがオリンピック精神であります。しかし、プロ精神は違います。お客様を感動させ満足させて、いかに勝つか、いかに負けるかです。それが銭が稼げるプロ、プロは稼いでなんぼです」


ケンカ10段、芦原英幸

芦原英幸は、広島県の中学校を卒業後、東京のガソリンスタンドに就職した。
しかし孤独のせいか世の中が憎く思え、すれ違いざま肩をぶつけたり、店の中でガンを飛ばして先に外に出て相手が出てくるまで待ったり、、
「ケンカ買っていただけますか?」
と聞いたりしてケンカ相手を探した。
相手は弱い者や逃げる者とではなく自分が強いとうぬぼれ、威嚇してくる奴のみ。
そして広島弁で一喝。
「やっちゃるけん、コイ!」
東京にきて数年後
「空手 道場生求ム」
という電柱の張り紙にみて見学に行った。
それが大山倍達の大山道場だった。
池袋(豊島区西池袋3丁目13-11)の立教大学裏にあった老朽化した木造のバレエスタジオの中で30人ほどの男が、まるでケンカのようなすごい組手稽古をやっていた。
「勝つためには何でもやれ!」
大山倍達がいうように、顔面突きアリ、金的アリ、投げアリ、抑え込み技アリ、締め技アリ、関節技アリ、つかみあり、ヒジあり、ほぼ何でもアリ。
まだ試合などないため日々の組手が勝負だった。
乱暴だったが、その実戦的な空手には不思議な魅力、いや魔力があった。
近所から
「うるさい」
といわれ、大家に電気や水道を止められても夜遅くまで稽古は行われた。
大山道場の出身者で、中村忠、大山茂・泰彦兄弟、芦原英幸、添野義三、盧山初雄などは、それぞれ空手を代表する流派をつくった。
黒崎健時は、大沢昇、藤原敏男、加藤重夫は魔裟斗という強いキックボクサーを育てた。
ジョン・ブルミンも大山道場で学び、オオヤマ道場オランダ支部を設立。
弟子のウィリアム・ルスカは、オリンピック柔道男子無差別級、重量級金メダリスト。
またピーター・アーツやアーネスト・ホーストなどK-1で活躍したヘビー級のキックボクサーの師もジョン・ブルミンの弟子である。
芦原英幸もすぐ入門し休まず稽古に通った。
突かれ蹴られ、やられればやられるほどファイトが沸いた。
入門し2ヵ月くらいたったとき、先輩と組手をしていて攻撃が受け切れず
「まいりました」
と頭を下げた。
しかしその先輩はかまわず芦原英幸の顔面を蹴った。
芦原英幸は崩れ落ちた。
(クソッ!汚い。
あいつを叩きのめすまで絶対に辞めない!)
また「鬼」と恐れられた黒崎健時師範代にも痛めつけられた。
黒崎健時は、大山道場がムエタイとの対抗戦が行われることになったとき、大山倍達に命じられ監督としてタイへ渡った。
しかし現地で試合出場を打診され急遽参戦し、ルンピニースタジアムでムエタイランカーとムエタイルールで対戦。
肘打ちを顔面に浴び敗れたが、その戦いぶりは恐ろしいほどの執念深さが現れていた。
大山道場での黒崎健時の組手は、左半身になって左拳を繰り出し前進。
相手を追い込むと右のまわし打ち(右フック)を決めるというもの。
芦原英幸もボコボコに殴られた。
しかしやがて体をさばき、黒崎健時の背中側に移動して有利なポジショニングをとるようになった。
それは芦原英幸独特の動きで、後の「サバキ(捌き)」といわれるテクニックとなっていく。
従来、空手は正面を向き合い技をかけ合う。
しかし芦原英幸は、一歩サイド、一歩後ろに動いたところから技をかける。
相手の技が届かないところに位置し、いかに自分の技を届かせるか。
攻防一体の天才の空手だった。

ゴッドハンド 牛殺し 大山倍達

大山倍達は1954年には目白にあった自宅の庭で空手を教えていたが、1956年に娘が通っていた縁で池袋の立教大学裏にあったバレエスタジオに道場を移転(大山道場)、そして1964年には東京都豊島区西池袋にコンクリート建ての「国際空手道連盟 極真会館」を設立した。
会長は佐藤栄作(当時、国務大臣)。
副会長は毛利松平(当時衆議院議員)。
大山倍達は館長だった。
当時の空手は、突きや蹴りを当てない「寸止め空手」が一般的だった。
しかし極真空手は、直接、突きと蹴りを当てる「フルコンタクト空手 」のを行った。
会館ができた同時期、19歳の芦原英幸は、黒帯(初段)となった。
そして21歳で6年勤めたガソリンスタンドを辞め、極真会館の職員(指導員)となった。
月給は1万円。
アパートの家賃とほぼ同額で、インスタントラーメンを主食に足りない分は仲間で助け合った。
3年後、芦原英幸は空手の指導のためにブラジルに行くことが決まった。
夢のような話だったがブラジルの発つ数日前、事件を起こした。
その日、芦原英幸はつまらないことでむしゃくしゃしていた。
見かねた先輩が酒を飲みにつれていった。
根が単純な芦原英幸はすぐに機嫌を直した。
安心した先輩は先に帰ったが、芦原英幸はガソリンスタンドに勤めていたときからの行きつけのスナックにいき閉店までウイスキーを飲んだ。
タクシーを拾うため、ふらつく芦原英幸はママが支えられながら店を出た。
すると
「エエかっこすな」
と車の中から男たちが野次った。
「なにいってるんだ、この野郎」
と返した芦原英幸を男たちは車をおりて襲った。
芦原英幸は全員を叩きのめし、5人の男たちは地面でウンウンと唸っていた。
その後、ママと別れ、去ればいいのに現場の隣の食堂に入り焼そばを食べていた。
すると警官が入ってきた。
「誰かあの5人を知りませんか?
誰がやったのか、みた人はいませんか?」
「ああ、俺がやった」
芦原英幸は焼そばを食べながら手をあげた。
先に殴ってきたのは向こうだし、5対1だったので自分のほうが正しいと思っていた。
しかし警官は署へ連行した。
「名前は?」
「佐藤栄作(当時の総理大臣)です」
芦原英幸は取り調べで何を聞かれてもちゃんと答えなかった。
「素直にしゃべれ!」
怒った警官は後ろ手に手錠をかけて椅子に座った芦原英幸の腹を殴った。
キレた芦原英幸は警官に頭突きを食らわせた。
一晩、留置所に入った後、道場に行くと館長室に呼ばれ
「ご苦労さん、君は今日からもう来なくていいんだよ」
と師範代に無期限の禁足(道場に入ってはいけない、破門ではない)処分を言い渡された。
その後、芦原英幸は、師範代の薦めもあり何か償いをと朝6時から大八車を引いて廃品回収業の仕事を始めた。
夜は、公園でランニング、柔軟運動、筋力トレーニング、シャドーと稽古を欠かさず続けた。

2ヵ月後、極真会館から呼び出され
「押忍」
と館長室に入ると大山倍達はいきなりいった。
「お前、四国へ行け」
「・・・・・・」
「芦原、私が死ねといったら死ねるか!」
「押忍」
「四国へ行って空手を広めてこい」
2日後、1967年3月27日の21時15分には着の身着のままで夜行に乗って東京を発った。
持っているのは極真会館から支給された交通費10000円で買った片道切符と道着の入ったバッグを1つだけだった。
列車は東海道を西に向かって走り、翌朝、岡山県に到着。
ここからフェリーで四国へ。
そして再び電車に揺られ、目的地の愛媛県東宇和郡野村町(現:西予市野村町)に到着。
野村町は小さな町で、ここに指導を依頼された道場があった。
生徒は5人。
芦原英幸は3畳半のアパートに入り、空手の指導だけでは収入が足りないので、出前のアルバイトをした。
少しして生徒たちと毛利松平のところへあいさつに行き、その帰りに食堂に入った。
しかしお金があまりなく、ご飯だけを頼み6人でテーブルに並んだご飯に醤油をかけたり塩をかけて食べた。
四国へ渡って3ヵ月後、至急戻るよう極真会館から連絡が入り、手持ちが500円しかなく腕時計を質に入れて久しぶりに東京へ戻った。
しかしまったく大山倍達から呼ばれず、毎日稽古をしていた。
2週間たってもお呼びがかからず、その間に四国から手紙が何通も来ていた。
芦原英幸は自分から館長室を訪ねた。
「四国へ帰ってもよろしいでしょうか?」
すると大山倍達はいった。
「君はもう行かなくていい。
ブラジルへ行け」
禁足処分中の廃品回収業務と四国で3ヵ月苦労したことで、再度、ブラジル行きが認められたのである。
当然、芦原英幸はブラジルに行きたかったが、野村町の5人のことがひっかかった。
「四国の道場はどうなるんでしょうか?」
5人を捨てて自分だけいい道に行くことはできない。
「このままではあいつらがかわいそうですよ。
あそこは潰れてしまいます」
「芦原、私のいうことが聞けないんだったら今度こそ破門だ!」
「・・・・・・」
どうしたらいいかわからず立ちつくしていたが、やがて決めた。
「長々とお世話になりました」
そういって頭を下げて館長室を出た。
トボトボ歩いて地下のロッカールームで着替えていると後輩が走ってきた。
「先輩、館長が呼んでおられます。
四国へ行っていいそうです」
こうして四国へ戻り指導を続けた。
その強さだけでなく、人間的にも魅力的な芦原英幸は、その後、道場生と道場の数を増やしていった。

石井和義

石井和義は、1953年6月10日に愛媛県三間町で3人兄弟の次男として生まれた。
父親は、日本画家を志し、15歳で横山大観(「朦朧体」という独特の描法を確立した)に弟子入りした。
しかし太平洋戦争で兵隊に行き、活動の中断を余儀なくされ、夢はやぶれ、戦後、郷里で自転車店を開業したものの、世捨て人のように酒浸りの日々を送った。
母親は、農家の8 兄弟の長女として生まれ、幼くして大分県の旅館に奉公に出て長男を産み、郷里に帰り父親と出会い、次男(石井和義、正式な戸籍上は長男)と三男が生まれた。
小学生の長男は重度の腎臓病を患い、母親は生まれたばかりの次男と三男を抱え、アルコール依存症の父親の代わりに自転車店を切り盛りした。
長男は、貧乏なために満足な治療も受けられず、医者からも見放されていた。
母親はわらにもすがる思いで、父親の反対を押し切り、創価学会に入信。
ひたすら「南無妙法蓮華経」を唱え、兄の病気の回復を祈った。
その結果、長男の病気は完治した。
無学な母親が起こした奇跡に石井和義は、
「信念の前に理屈は無力」
ということを学んだ。
そして小学校、中学校と新聞配達のアルバイトを行い家計を助けた。
中学1年生のとき、近所のお兄さんが空手の練習しているのをみて
「かっこいいな」
と思い本を買った。
そして独学で空手の道をスタートさせた。
木に藁を巻いて巻き藁を、そして砂袋も自作し、雨が降っても雪が降っても、拳が割れて出血しても、毎日これを叩き続けた。
4年後、極真空手に入門するのだが、その頃にはすでに拳にはタコができて、手はグローブのように厚くなり、レンガを砕き、10枚以上の瓦を割れるようになっていた。

石井和義は、高校は奨学金で行こうと決めていた。
1つの中学校から合格するのは1、2人という日本育英会(日本学生支援機構)の特別奨学金(通常より支給額が多く、返済は半額でよい)の試験に合格。
難関といわれた進学高校の入試にも合格。
順風満帆かと思われた矢先、前納しなければならない入学金、授業料が家にないことが発覚。
するとそれまで酒浸りで働かなった父親は、突然、絵を描くといい始めた。
まず1週間酒を断ち、その後、数週間、真冬に靴下も履かず白い着物1枚で正座し、描き続けた。
その間に食べたのはおにぎりと水だけだった。
そして描き上げた山水画は石井和義の高校の入学費となった。
それまでも絵の注文は多数あったが、父親は断り続けていた。
その後、酒浸りに戻り、1年後(石井和義が高2のとき)に他界した。
高校に入った石井和義はバイクの免許を取得し、平日の昼間は学校、休日は市内の喫茶店へコーヒー豆を配達するアルバイトをした。
そして学校の帰り道にはアルバイトの配達先の喫茶店を日替わりで回って、コーヒーと夕食をおごってもらった。
また大好きだった女の子と喫茶店で初デートしたとき、迷ったが
「鼻毛が出てるよ」
と小さな声で教えてあげたが、彼女はトイレに行くフリをして帰ってしまった。
言わないほうがよかったのか現在でも答えは出ていないという。
1969年1月、高1の冬、たまたまのぞいた極真会館四国支部芦原道場宇和島支部に入門。
芦原英幸の弟子となった。
「石井、電車で通っているのか?
交通費大変だろう?
月謝安くしてやる」
そういって芦原英幸は1000円の月謝を600円にした。
そういう芦原英幸自身、空手だけでは食えず、アルバイトをしながら電車で各道場へ指導に行っていた。
芦原英幸の空手は、理にかない、動きは美しく、速く、力強かった。
そして芦原英幸は、最初の柔軟体操から手を抜かずに指導した。
毎日の稽古が真剣勝負だった。
「いいか、倒さないと、倒されるんだよ!」
石井は、芦原の一挙一動、脱力、腰のキレ、緩急をマネて、その空手を学んでいった。
石井和義16歳、芦原英幸は25歳だった。
「習い事は全て、模倣から始まります。
しからば良い先生を探すのに妥協してはいけません。
良い先生、良いコーチに学ぶのが一番大切なことです。
正しい基本が身に付いてないと、いくら稽古しても無駄な努力になります。
私はラッキーにも日本一の先生と出会えました」

豚殺し

そして高2の夏休み、石井和義は大山倍達の牛殺しに挑戦した。
自分の全力の拳や手刀を打ち込んだらどうなるのか?
試したくて我慢できなかった。
生まれ故郷の宇和島市は闘牛で有名な町で、友人宅には横綱牛がいた。
3、400㎏はあろう筋肉の塊を目の前にして、石井和義は
「やめとくわ!
ケガさせたら悪い」
と逃げた。
牛をあきらめた石井和義は豚殺しをすることに決めた。
まず養豚場にアルバイトとして潜入。
毎日、30℃を超える暑さの中、長靴を履いて、スコップを持って、汗と泥とクソにまみれて豚小屋の清掃を行った。
アルバイトの契約は2週間。
仕事には律儀な石井和義は、豚殺しを行うのは最終日、そしてターゲットは200㎏はあろう1番デカい豚と決めた。
無心で餌を食べる豚の前に立ち、腰を落とし構え、
「俺の空手の修行のために死んでくれ!」
気合と共に放った右の拳を、豚の眉間に打ち込んだ。
豚は鳴くこともなく餌を食べ続けている。
もう1度右拳を叩きつけたがビクともしない。
「そうだ、牛の急所は耳の横だと空手バカ一代で書いてあった。
豚も同じだろう」
と手刀を横から打ちつけたが豚は平気で食べ続けた。
その後、肘打ち、回し蹴り、後ろ回し蹴りなどを打ち込んだが、豚は迷惑そうな顔をするばかり。
怒った石井和義は、豚の前足にローキック。
よろけた豚に足を踏まれ、あまりの痛さに豚小屋の中を転げ回った。

高3の冬、石井和義は黒帯(初段)になった。
僅か2年での昇段は異例のことだった。
高校卒業後、バイクとバッグ1つだけで四国から大阪へ渡った。
堺市にあった兄の家に住み、アートスクールに通いながらアルバイトで働いてお金と貯め、東京芸大に入ってデザイナーになるという計画だった。
しかしアートスクールの芸大受験コースに入ると周囲のすごさに圧倒された。
すぐに路線を変更し、実業家になるため、元手を得るためにデパートの配送のアルバイトを開始した。
歩合制で、たくさん配れば配るほど稼げるため、バイクの免許しかなかった石井和義は、上司に借金して車の免許を取得。
効率をよくするため、配る地域も一戸建てではなく団地にしてもらい最高で1日380個(当時の新記録)を配った。
自分の車を持ち込むとバイト代がアップするので、免許取得の借金を返した後で軽トラを買った。
夜は段ボールを回収する別のアルバイトをし、昼間、デパートの配達をしながら段ボールが捨ててある場所を目をつけておき、夜になると回収に行った。
段ボールは重さで買い取られるので、水をかけて重くした。
こうして商売の面白さを知った石井和義は大阪船場の貿易会社に就職。
仕事は百貨店への営業だった。
石井和義は、サラリーマンとなり、空手は趣味で続けた。
毎年、四国愛媛県八幡浜の芦原空手の本部道場で行われた昇段審査会や合宿などのときは、大阪から1人で参加した。

22歳で極真会館芦原道場大阪支部長に

1971~77年、週刊少年マガジンに連載された「空手バカ一代」が大ヒット。
空前の空手ブームが起こった。
池袋の極真会館は大変なことになった。
入門者が増えすぎて道場に人が入りきらず、廊下から階段、さらには表玄関から総本部前の道にまで道場生があふれ、窓を開けて指導員の号令が聞こえるようにして稽古を行った。
あまりの多さに間引きも行われた。
指導員がわざと稽古を厳しくしたり、ガチンコの組手をしたりして辞めさせてしまうのである。
それでも入門者は日々続々とやってきた。
そしてその厳しい環境の中で耐え生き残ってきた道場生は根性があり強かった。
「空手バカ一代」の中で芦原英幸は、主人公の大山倍達を上回るほどの人気を得た。
四国の道場も県内外からの入門者が訪れ、道場生は急増し、道場の近くに用意された寮はいつも満員だった。
1975年、夏合宿に参加した石井和義に芦原英幸はいった。
「石井、お前いくつになった?」
「22歳になりました」
「お前、大阪で道場やれ」
「押忍?!」
マンガ「空手バカ一代」は多くの若者の心に火をつけ、東京の本部道場をはじめ全国の支部道場にも極真空手へ入門者が殺到した。
しかし所詮、ブームはブーム。
マンガの影響で入門した者の多くは長続きせず辞めることが多かった。
しかし中には仕事や学校を辞めて県外からわざわざ四国にいき、数年間、空手の修行を積む者もいた。
そういう人たちがやがて郷里や都市に帰り、それぞれの土地で自主的に稽古をするようになる。
始めは何人かの仲間で稽古していたものが次第に人数が増えてくる。
すると彼らは芦原英幸に指導の依頼をした。
そういう声に応え芦原英幸は関西や九州の各地を回った。
そして弟子の石井和義に関西での極真空手の普及を命じたのである。
松山から大阪へのフェリーの中で石井和義は覚悟を決めた。
「柔道の嘉納治五郎が講道館を開いたのも23歳や。
22歳のオレでも大丈夫やろ」

石井和義は、芦原英幸から金銭的な援助もコネもなかったが、
「なんとかなるやろ」
とJR、南海、近鉄、地下鉄とすべての電車が集まり、若者が多いことに目をつけ、いきなり大阪の中心、難波(ミナミ)で道場を開く場所探した。
一般的な空手の道場は、週何回か体育館などを間借りするヤドカリ道場から始まる。
比較的安価な分、不便な場所になってしまうことが多い。
やがて生徒が増えると駅に近いビルなどを借りて常設道場をつくる
最終的に建物から自前の道場にまで発展させていくのだが、そこまでいける人は少ない。
とりあえず難波駅周辺を歩いていると、大阪球場内にある文化会館が「各種教室生徒募集」という看板を出していた。
生徒募集であり教室の募集ではなかったが、
「こんにちは!
教室が空いているとと聞きお願いに来たんですが・・・」
とハッタリをかまして事務所には入った。
「何にご使用になるのですか?」
(やった)
内心思いながら
「空手道場、いや空手教室を始めようと思いまして・・」
「ここは料理教室とかお花教室とかが多いんです」
「そこをなんとか」
石井和義は粘ったがダメだった。
しつこいのは逆効果と引き上げ、翌日、ケーキを持って
「昨日は失礼しました」
と笑顔で訪れ、受け取れないという相手に無理やり置いて帰った。
その次の日もクッキーを持って訪ねた。
「近くに来たもので寄りました。
兄がケーキ屋をやっていまして」
すると
「まあ、こちらに座ってください」
と応接室に通された。
それでも断ろうとする相手に
「では1カ月だけでも貸していただけませんか?
1カ月単位の契約更新でも結構です」
結局、1ヵ月どころか毎月道場生は増え、半年後には30坪のスペースに入りきれなくなり、稽古時間を2部に分け、それでも足りなくなった。
こうし難波駅から徒歩3分の大阪球場の中に、駅前留学NOVAより10年早い駅前空手道場、極真会館芦原道場大阪支部が誕生した。
「未熟者の若造だった私が、22歳で極真会館、芦原道場の旗を掲げました。
別に慢心してではありません。
師匠、芦原英幸の使命を受けたからです。
ただ、それだけ。
その時点で、私の考え方の全てが変わりました。
道場でも、外でも、戦いで、負けたら終わり、次は無いんです。
どんな事をしてでも、絶対に勝たなくてはなりません。
仕事でも、組手でも戦いは、絶対勝つ!という不退転の信念で望まなくてはなりません。
毎日、毎日、バカなりに真剣に考え、よく頑張ったと思います。
63キロライト級の身体で、無差別級で戦うのです。
5年間、真剣勝負の毎日を無事やり遂げました」

ホメ殺し

昼はサラリーマン、夜は空手の先生という生活が始まった。
格闘技は基本的にメジャーではない。
スポーツでも、競技となり、レベルが高くなってくると、肉体と精神に鍛錬が必要となってくるが、元来、スポーツはゲームであり、楽しいものである。
しかし格闘技は戦争やほんとうの殺し合いを起源とし、初心者から肉体的な苦痛と精神的な厳しさも要求する。
だから続られける人間が少ない。
「強さ」を求めるのが格闘技なのだから、一般的に道場や指導者は、来る者は拒まず、去る者は追わずで礼儀正しいが接客やサービスの意識は低い。
武道家は、お金に媚びることができないのである。
だから格闘技の道場というのは独特の近寄りがたさがある。
しかし石井和義は古い観念に囚われなかった。
大阪球場内に道場を立ち上げて2年後には、1クラスに200人、1日に500名が稽古した。
同時期、
「牛殺しの大山倍達直伝」
と大阪の福島区に東京の総本部から派遣された指導者がオープンさせた極真空手総本部直轄道場道場は15~20名だった。
人気の秘密は、牛殺しでも、豚殺しでもなく「ホメ殺し」だった。
「大体できたらホメてあげましょう。
キチンと出来なくても、ホメれば嬉しいから一生懸命やる。
キチンと出来るようになる。
だから続き、友達も連れてき見学者増える」
「入会金1万円、道着8500円、月謝4500円、合計23000円という小さな下心はありました」
という石井和義は、見学者が来れば、
「どこから来たの?」
「いくつ?」
と笑顔で椅子を出した。
そして入会すれば
「わあ、すごい!」
「強いね!」
とホメまくった。

また芦原英幸は
「いいか!
パーッと走ってポーンっと払ってスーッと横に入ってパチーンっと蹴るんだ」
と天才らしく感覚で教えたが、石井和義は
「45度にサイドステップしながら・・・」
「顔面をカバーしながら腰を入れて・・・」
とより理論的、かつ
「いいですかぁ?」
「わかりますかぁ?」
「じゃあやってみて下さい」
と丁寧でわかりやすく説明し、そして実際に見せて、教えて、そしてホメた
スパーリングでは、上級者が白帯や色帯の初心者と相手するときは、急所のみを守って自由に叩かせ蹴らせるよう指示。
もし反撃などすれば、その上級者は黒帯にお仕置きをされた。
当然、レベルに応じて教え方は変わった。
「勉強だっていきなり因数分解教えられますと数学も嫌いになりますよね。
格闘技も同じこと。
相手のレベルで指導方法を変えてあげる。
黒帯取得前の茶帯は一番好奇心旺盛な時期です。
そんな彼らの求めるものを、ヒントを、与えてあげる。
考えて稽古するクセをつけるんです。
学習とは、学びてこれを習うですよね。
ヒントを教えて、あとは反復練習が重要なんです」
「指導は全身全霊かけ全てを相手に伝えたい。
いつも、今日しかない!今しかない!と思って生徒に指導してる。
勿体ぶることなど絶対にしない。
こちらの熱意が選手に伝わるから伝染するから、強くなるんだ。
指導者だって毎回が真剣勝負なんだ。
絶対、集中力と爆発力が必要だ。
ダラダラ練習しても実戦では使えないよ。
サンドバッグだって、ミットだって、相手を仮想して。
殺しに来てる!と思うくらいの気持ちで、攻防一体で練習せんとどうするの!
時間無いなら人の3倍集中して、稽古しろ!
まず、心構えから!」
このように石井和義は、武道としての厳しさを保ちながらも、ケガをしないように注意しつつ、明るく楽しい指導で練習者のやる気の引き出した。
道場生は、強くなっていることを実感できれば楽しくなり、より練習に熱中した。
当時では考えられない指導法とその効果、つまり強さは口コミで広がり道場生は増えた。

空手がなんぼのもんじゃい

やがて
「よかったら今の仕事を辞めて俺のところで働いてくれないか?」
芦原英幸にいわれ、また何より極真空手に惚れていた石井和義は会社は辞め芦原道場の職員となった。
「石井、給料ははいくらにしようか」
「押忍。
いくらでもいいです」
「俺が極真の本部で働いていたころは7万だったからなあ。
11万でどうだ」
(!!!)
23万円もらい社宅に住んでいた石井和義は内心ビビりながら答えた。
「押忍。
ありがとうございます」
「石井!
関西を頼むぞ!
お前が俺の最初の職員だよ。
頑張ろうな!」
会社を辞め社宅を出た石井和義は、難波付近で住居を探した。
道場の月謝を預かるため、ある程度のセキュリティがあるマンションを探したが、家賃3~4万円の物件はなかった。
しかし西成区の岸里駅の近くに、立地、セキュリティ、家賃、すべてがそろった物件があった。
「やめといたほうがええで」
そう不動産屋がいうマンションは、5階建て、エレベーターなし。
「・・・連合」「アジア・・・研究所「・・組」など、複数のヤクザや右翼が同時に同居し、、入り口の横には街宣車が2台とまっていた。
石井和義の部屋は最上階の角部屋で家賃は3万8千円。
1階から5階までに右翼やヤクザの事務所があり、各部屋には、提灯や神棚、「仁義」などの格言が書かれた額が設置され、また各部屋に、パンチパーマやヒゲ、角刈り、イレズミ、指がない人、戦闘服、背広、腹巻など複数の特徴的な男がいた。
ある意味、砦のようにセキュリティが高い極道マンションだった。
隣室は菅原文太似の父親と母親、娘の3人暮らしだった。
(普通の人も住んでいるんだ)
石井和義は安心したが、3ヵ月後、蒸し暑い夏の夜、部屋の窓もドアも開け、扇風機の前でパンツ一丁で涼んでいると
「空手がなんぼのもんじゃい!
クソガキ!」
ステテコにランニング姿の文太似の父親がイレズミをいからせた肩に刀を持って乱入してきた。
パンツ一丁の石井和義は一気に間合いを詰め、刀を抜こうとしている右手首を両手で制した。
そして後ろに回り込んで右腕を絞り上げ、同時に左手で髪の毛を引っ張り動きを制しながら外へ出て、相手の体を廊下の手すりに押し付けた。
「やめてください!」
泣きながら出てきた母親が父親から刀を取り上げ、泣きながら2人の男をにらんだ。
部屋の戻った石井和義はドアも窓も施錠した。
翌日、父親が頭を丸めて訪ねてきた。
「先生、昨日は迷惑をかけて申し訳ない」

角田信明

23歳で脱サラし空手のプロとなった石井和義は、京都、奈良、兵庫、滋賀、岡山、広島と「極真会館芦原道場関西支部」を拡大させていった。
角田信明は、16歳で奈良支部に入ったとき、体重は58kgしかなかった。
高校生のときに初めて大阪の本部道場で出稽古し、石井和義に声をかけられた。
「上手いねえ。
何かやってたの?」
「みんなでお茶でも飲みにいかない?
君もどう?」
「押忍。
ありがとうございます。
ただ自分は明日試験がありますので今日はこれで失礼します」
「ええ、君、大学生なの?」
「押忍。
いえ、高校生であります」
「高校生!?
老けた顔してるねえ。
子供でもいるのかと思ったよー
ハハハ」
角田信朗は奈良支部で芦原英幸にも遭遇した。
芦原英幸は3週間に1度くらい関西を訪れ、指導を行っていた。
稽古後、芦原英幸は角田信朗にいった。
「お前、明日時間あるか?」
角田信朗は授業があったが
「押忍。
大丈夫です」
と答えた。
「俺、奈良は初めてじゃけん、明日ちょっと案内してくれよ」
翌日、角田信朗はホテルに迎えに行き、東大寺や奈良公園などを案内した。
奈良公園で足に釣り糸が絡まってしまって動けなくなった鳩を見つけた芦原英幸は、鹿せんべいを売っていたおばちゃんにはさみを借りて、糸を丁寧に外した。
芦原英幸は大山倍達の命で四国で極真空手を広めるため東京からやってきた当初は、道場生も少なく、アルバイトをしながら指導していた。
脚をケガしてもお金がないので医者にも行けず杖をついて指導した。
腹が減って道場生の頭がカツ丼にみえることもあったが、努めて明るく振舞い、決して弱さはみせなかった。
そんなときに栄養失調の捨て犬を拾い、どこに行くにもつれていき、犬も芦原英幸から離れなかった。
自分がいなければ生きていけない犬の存在と厳しい稽古をがんばる道場生が芦原英幸のがんばる原動力となり、そして練習後のバカ話が楽しくて仕方なかった。
角田信朗は鬼のように強いケンカ10段がみせるやさしさに感動した。

大山倍達と芦原英幸 両雄並び立たず

石井和義は関西一円に道場をつくり、またいくつかの大学に空手部や同好会を設立した。
そして昼間は大学や同好会の指導。
夜は道場に戻って指導。
それが終われば警察に注意しながらポスター張り。
夜中は公園で独り稽古。
169㎝、64㎏という小柄な体で、実際に道場生に強さを示し、道場破りの相手をするためには、自分を追い詰めなければならなかった。
「先生は芦原先生1人。
俺のことは先生じゃなく先輩と呼んでください」
と道場生にいっていた石井和義には、毎月数百~一千万円のお金が入ってきた。
そのお金は節税のために銀行に預けず、ほとんどが千円札なのに両替もできず、芦原英幸に手渡した。
そして1979年、34歳の芦原英幸は、JR松山駅前に鉄筋コンクリートで3階建ての道場を完成させた。
しかし松山市の新道場は極真会館の本部からいい評価は得られなかった。
「立派すぎる」
「そんな道場が建てられるなら月々の送金額を増すように」
また芦原英幸は愛媛県支部長だったが、愛媛県が北部と南部に分けられ愛媛県北部支部長になった。
そして愛媛県以外の活動を慎むようにといわれた。
全国に極真空手の新しい支部ができていき、それに伴い支部長が増えた。
当然、縄張り争いも起き始めた。
芦原英幸は、大山道場が懐かしかった。
池袋の小さな道場は、ただただ純粋に強さを求め熱気に溢れていた。
強かった先輩たち。
狂ったように続けられた稽古。
しかし極真会館となり、組織が肥大化していくと 共に、考えられないような下らない 戦いが起こり始めていた。

1980年3月、東京で極真の支部長会議が行われた。
ここで議事予定になかったが、ある支部長から「芦原英幸除名」が発議された
芦原英幸は、居並ぶ極真会館の支部長たちと大山倍達にケンカを売った。
「何を最初から茶番やっとるんよ。
面倒くさいことタラタラ続けよって。
最初から目的は決まっとったんやろ。
館長(大山倍達)、そうでしょう。
この芦原を破門にするため、何もかもあんたが企んどったことは分かっちょったわ。
館長、こんだけの人間集めて芦原を脅かそうとかビビらせようなんて考えちょったら甘いですけん」
「ワシが邪魔やというんなら、館長、これだけの支部長がおりますけん、ここで芦原を殺してくださいよ。
このデカいガラス窓を蹴破って一人一人窓の外に放り投げてやってもいいんですよ。
ほらお前ら、黙っちょらんで向かってこいや。
何が極真の支部長や。
誰一人戦えるもんなどおらんやないけえ。」
「館長、ワシがこの窓蹴破るといっちょるんです。
こんな腰抜け支部長は置いといて、館長が芦原を外に放り出してくださいよ。
アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ。
何頭もの牛を殺したんでしょ。
熊も退治したって聞いてますけん、ワシみたいなヒヨっ子潰すのなんて簡単やないんですか。
破門だ除名だ手回しのいいことせんでも、今ここで決着つけてくださいよ」
どの支部長も何もいえない中、芦原英幸は、一歩一歩大山倍達に近づいていった。
大山倍達の横に座っていた極真会館相談役の柳川魏志はいった。
「芦原、もうやめんか。
いかなる場でも、いかなるときでも自分の師匠や親分に食ってかかるのは仁義に外れた行為や。
師弟関係は親子も同然やないか。
お前が今やっていることは仁義に生きる世界なら万死に値する最低の行為なんや。
場をわきまえんか」
柳川魏志は、その武勇で日本の裏社会を震撼させたヤクザ。
昔から芦原英幸に目をかけていた。
しかし芦原英幸は自分を止めることはできなかった。
「先生との縁もこれまでちゅうことですね。
先生は館長の味方やもんね。
ワシは今から先生のカタキになるちゅうことですわ。
好きにしたらええ」
そういい放ちと会場を後にした。

石井和義 極真会館芦原道場を退会

1980年6月、極真会館芦原道場の職員となって3年間、石井和義給料は11万円のままだった。
それは月の後半にはなくなりサラリーマン時代の貯蓄を崩して暮らしていたが、もはやそれもなくなりかけていた。
岡山県で行われた昇級昇段審査会の帰り、石井和義は芦原英幸と喫茶店に入った。
そして意を決してベースアップを要求した。
「よしわかった。
3日後に連絡するよ」
芦原英幸は3日後電話をかけてきて1万円アップさせ12万円にした。
(アルバイトでもするか)
1カ月後、石井和義は後輩に電話で呼び出され、行くと関西の各支部道場の指導者が集まっていた。
彼らは特別練習という名目で芦原英幸に呼ばれ四国へ行き、
「これからはお前らが関西を運営していけ」
「石井は金のことを言い始めた」
といわれたという。
(ゲッ!!!!)
石井和義は衝撃を受けたが必死に笑顔をつくり続けた。
「先輩、自分たちは先輩が先生だと思っています」
「関西は我々でやっていきましょう」
という後輩に、石井和義は嬉しくて泣きそうになったがキッパリといった。
「うれしいけど勘違いしたらアカン!
道場は先生のものであって俺たちのものじゃない。
これは俺と先生の問題だから俺が先生に話す」
そしてその夜、芦原英幸に電話した。
「先生、お世話になりましたが、本日をもって辞めさせていただきます。
押忍。
(ガシャッ)」
翌日、大阪へ飛んできた芦原英幸と石井和義は喫茶店で向き合った。
「石井、30万でどうだ。
お前の給料30万にするよ。
いや50万出そう。
これ以上は出せないよ」
すでに石井和義の中に英雄、ケンカ10段はいなかった。
「先生。
10年前、あなたもアルバイトをしていて生活が苦しかったはずなのに高校生の私に「交通費かかるだろう」と月謝を半額にしてくれた。
そんな他人に痛みがわかる、誇り高く優しいあなたが大好きでした。
あなたが捨ててしまったものを私は後生大事に守っていきます。
ありがとうございました。
押忍」
「お前はこれから何をやるんだ?」
「空手を続けます」
2週間後、芦原英幸から電話が入った。
「審査会に黒帯が1人も来れない。
手伝ってくれ」
石井和義は断ることができず参加した。
そして基本と型の審査の後、組手になった。
黒帯は石井和義だけなので、1人で茶帯、グリーン帯など上級者100人の相手するように指示された。
芦原英幸の意図に気づいた石井和義は、通常なら急所だけ守って相手の攻撃を受けなければならないところを最初から本気で戦った。
「石井、もっと受けてやれよ」
「押忍!わかりました!」
そう答えながらも顔面に掌底を押し込み、前蹴りで吹っ飛ばし、膝蹴りをボディに叩き込み、全力で潰していった。
そして組手を終えてボロボロになった体で審査会の仕事をやり通した。
「石井、考え直せないか。
ほかのやつが全員いなくても俺はお前1人残ってくれれば・・・」
「押忍!
ありがとうございました」
27歳の石井和義は師の言葉を腹の底から遮った。
芦原英幸は25歳から35歳、石井和義は16歳から26歳まで10年間、これが師弟の最後の別れとなった。

芦原英幸 極真会館から破門 芦原会館を設立

1980年9月、芦原英幸に極真会館の本部から一通の手紙が届いた。
「永久除名処分」の通達状だった。
..............................................................................................................

愛媛県松山市三番丁八丁目三六〇番地一号

芦原英幸殿

通知書

貴殿は、極真会館の規律をみだし、且つ支部認可条件に

違背する不都合な行為に対する再三の注意を無視し、

情状酌量の余地なしと認められるので、極真会館道則の

定めるところに従い、極真会館愛媛支部長の任を

取り消すとともに、以後、いかなる場所にても

極真カラテを標榜することを禁じ、

極真会館から永久除名する。

この旨通知する。


昭和55年9月8日

財団法人極真奨学会 極真会館

国際空手道連盟

会長        毛利松平

理事長       塩次秀雄

館長        大山倍達

評議委員長    河合大介

..............................................................................................................

一週間後には新聞にも、芦原英幸を永久除名処分にしたという極真会館からの広告が掲載された。
芦原英幸が大山道場に入門したのが1961年9月。
2度とその門をくぐれなくなったのが1980年9月だった。
通達状が届いたその日、芦原英幸は1人で喫茶店にいってこれからのことを考えた。
極真を離れたら、かなり道場生が減るだろうと思った。
それでもいい。
信じてついてきてくれる人と一生懸命やればいいと思った。
実際は、四国、九州、中国、関西のほとんどの道場生が残った。
「先生、きっと今は誤解している人もきっといつかわかってくれますよ」
「これからもご指導よろしくお願いします」
自分さえ強くななればよかった空手。
自分を信頼してくれる道場生が安心して学べ安全に事故なく上達できなければいけない。
「ようし、見とけよ。
いろいろあったけど芦原についていってよかった、信じてついていってよかったといつか思えるようにしちゃる」
芦原英幸は自分の空手を「芦原空手」、道場を「芦原会館」と名づけた。
こうして道着の胸文字は「極真会」から「芦原会館」に変わった。
「地上最強の極真カラテ」の門下生ではなくなった。

石井和義 正道会館を設立

1981年、28歳の石井和義は仲間たちと「正道会館」を立ち上げた。
道場生の道着の胸文字は短期間で「極真会」から「芦原会館」、そしてさらに「正道会館」へ変わった。
大量の指導員と門下生が引き抜かれた芦原会館は「クーデター」と批判した。
6月には、京都大学、神戸大学、甲南大学、大阪芸術大学、桃山学院大学、松山商科大学、関西外国語大学、関西学院大学という石井和義が指導していた関西の大学が集って「第1回西日本学生空手道選手権大会団体戦」が行われた。
角田信朗は関西外国語大学チームの副将として出場。
1回戦、後ろ回し蹴りを相手の脇腹に炸裂させたが、体がくの字になった相手の顔に右手が当たってしまい、「技あり」と「顔面殴打(反則)」を同時にとられる。
試合が続行され後ろ蹴りを繰り出したが、またしても右手が相手の顔面を直撃し、2コの反則で反則負けとなった。
結局、関西外国語大学チームは4位。
角田信朗は1勝2敗に終わり「反則魔」といわれた。
12月、「第1回ノックダウンオープントーナメント西日本空手道選手権大会」を開催。
この関西初のフルコンタクトカラテのオープントーナメント(正道会館にかかわらずすべての他流派や団体に所属する者でも参加を受け入れる大会)は、少年マガジンで大人気だった「1・2の三四郎」でも告知され、立ち見が出るほど大盛況だった。
石井和義の空手というマイナーだったものをメジャーに盛り上げていく才能は28歳のこの頃からすでに発揮されていた。
1982年10月、1981年末に正道会館が発足した石井和義は1年も経たないうちにいきなり第1回全日本選手権を、しかも当時、西日本最大の収容人数を誇っていた大阪府立体育館で開催。
5000人を超える大観衆(毎年大阪で行われる極真空手のウェイト制大会より多かった)が見守る中、1年遅れで芦原会館を退館し正道会館に移籍した中山猛夫が圧倒的な力で優勝した。
その左レバー打ち(左ボディブロー)、左レバー蹴り(左ミドルキック)でガードを下げさせ顔面を蹴って倒すという技術は、突き(パンチ)と下段回し蹴り(ローキック)という従来のフルコンタクト空手のスタイルとは違うものだった。

怪獣王子:佐竹雅昭

「おい佐竹、なんか正道館っていう空手道場みたいなんやけど」
ある日、佐竹雅昭に友達が1枚のチラシを持ってきた。
それには『DO!エンジョイ空手』と書いてあった。
月謝は3000円。
しかも『今、入会すると、キックミットをプレゼント!』
「なにぃー!」
佐竹雅昭は、本屋で大山倍達の『大山カラテ もし戦わば』と出会い、トラを蹴る絵に腰を抜かし、牛の殺し方、ゴリラの倒し方、山籠りの効果、そのすべてを真に受け、「空手バカ一代」にドップリ浸かり、14歳で毎日、家の裏の公園の木を蹴り始めた。
そして学校では授業中は空気椅子、1時間目終わったら腕立て、2時間目終わったら腹筋、3時間目終わったら逆立ち、4時間目終わったら弁当食べて、昼休みは懸垂や蹴りの練習。
体育の授業は絶好のトレーニングタイムで必要以上に自分にノルマを課して頑張った。
これを中学から高校まで続けた。
高校生のとき、初めて空手道場に通った。
大阪の福島区にあった極真空手総本部直轄道場、師範は若獅子寮出身のごっつい体の人だったが、とにかく「押忍」の縦社会で、白帯は組手もやれなかった。
佐竹雅昭は、これでは強くなれないと感じ、道場に行かない日は、実家の裏にある吹田市北千里体育館内の1回50円のトレーニング場に通った。
その極真の道場の月謝は6500円だった。
佐竹雅昭は見学に行った。
庶民派の街、大阪天神橋商店街。
天満駅のホームから見える場所に正道会館総本部道場はあった。
中に入るとBGMが流れていた。
極真の道場ではありえないことだった。
「あ、見学? 
よく来てくれたねえ。
いやあ、君、大きいねえ。
まあ座って座って」
そういって出て来たのは石井和義だった。
そしてしばらく稽古をみていると中山猛夫が現れた。
第9回極真空手の全日本大会準優勝者である。
中山猛夫は極真空手を離れて正道に移っていた。
また正道会館は稽古方法も新鮮だった。
白帯でも組手をやっていた。
またグローブや脛パッドなどの防具の着用は、ケガを防ぎ、練習量を増やすという点で合理的だった。
その直後に正道館第1回全日本大会が行われ、佐竹雅昭は観に行った。
トーナメントを圧倒的な強さで中山猛夫が優勝した。
「これや!」
佐竹雅昭は感動した。
そして正道会館に通うようになった。
正道会館では、中山猛夫を筆頭に、今西靖明、川地雅樹ら強い先輩の指導を受けることができた。
また道場の雰囲気は明るく、ノリもよかった。
練習もキツかったが、強くなっているという実感があった。
中山猛夫は
「俺たちは拳ダコばっかり作ったって仕方ないやん」
「こんな拳にタコを作っても人は倒れん」
「俺たちは人を倒すのが仕事やろ。
だったら人で拳を鍛えればええねや。
だから組手や。
実戦経験積まなあかん」
「相手が痛がるような蹴りをするのは人で覚えろ」
「相手にタイミングよく当たる打ち方は練習でしか身に付かんで」
といい、その指導は合理的で実戦至上主義。
とにかく格闘技を強くなりたかったらスパーリング、組手。
実戦に対応するためには、道場以外で走ったり、ウェイトトレーニングするなど体力づくりをやる必要があるが、道場というのは対人練習の場。
正道会館は、そういう効率性と実戦性を重視した稽古が行われた。

独自路線の芦原空手

芦原英幸は
「実戦!芦原カラテ―ケンカ十段のスーパーテクニック」(1983年)
「実戦!芦原カラテ (2) 発展編」(1984年)
「実戦!芦原カラテ(3)基礎編 誰にでもできる空手 」(1988年)
というサバキの本を出版した。
この反響は大きく、全国で同好会をつくりたいという問い合わせが殺到した。
例えば東京の同好会は、最初は公共施設を借りて稽古していたが、たちまち人数が増え、新宿に専用の道場ができ350名の会員が通った。
こうして芦原空手は全国に広がっていった。
サバキは、ビデオ化もされた。
芦原カラテを基本編と応用編に分け3本のビデオが製作された。
それは国内のみならず英語版となって海外でも販売された。
そして海外からも修行者が訪れ、芦原空手は、アメリカ、オーストラリア、アジア・・・と世界に道場ができていった。
芦原英幸は、極真空手が既に実戦的ではないとアンチテーゼを投げかけた。
顔面殴打禁止
掴み禁止
金的攻撃禁止
武器の携帯禁止
競技化していく極真空手に反旗を翻し、髪の毛掴んで殴る、倒した相手の頭を踏む、壁に相手をぶつけるなど競技化出来ない技術をも体系化した。
芦原英幸は、イスラエル軍やイタリア警察、自衛隊のテロ対策警務隊にも指導を行った。
新しく開発した回転伸縮式トンファーを、ホルスターでぶら下げたまま飛行機に乗ろうとして捕まったこともあった。
また一切の他流試合を禁止し、他流試合に挑んだ者は破門し、マスコミへの露出も消極的だった。
芦原空手は競技化を完全に無視した「護身術」だった。
決められたルールで1対1でド突き合う空手ではなく、門下生は必死に練習しても大きな試合もなく評価されることもない。
それでも芦原英幸の強さはホンモノで、道場生にとってヒーローだった。
石井和義はプロモーターとしてK-1をはじめ数々の格闘技イベントを成功させた。
マスコミに派手に宣伝されたり誇張されるのを嫌い、あくまで仕事を持ちながらの空手、そしてど突き合いの試合ではなくサバキなど独特の技術を駆使し実戦空手の道を行く芦原空手。
大会場での試合、プロ化、エンターテイメントまで取り入れながら最強を目指す正道空手。
その方向性の違いは明確だった。

他流試合 常勝軍団

正道会館は「挑戦」をテーマに、他流派の空手トーナメントにも参戦し「他流試合」を行った。
他流派の試合に出て判定になると、どうしても勝ちにくい。
どれだけ圧倒していても良くて引分け、悪いと判定負けという苦い経験から
「じゃあ、倒せばいいんだ」
と「倒す空手」を追求。
白蓮会館の大会で優勝した松本栄治、柳沢聡行、士道館の大会で優勝した玉城厚志など、他流派の空手の試合に乗りこんで勝ち、「常勝軍団」といわれた。
そんな正道空手で、佐竹雅昭は、関西外語大学の1年生時に正道会館の全日本大会に初出場で4位。
2年で2位、3年で2位、4年で優勝と着実にレベルアップし、正道館空手最強の男となった。
大学在学中は、アルバイトをしていたが、引っ越しのアルバイトではエレベーターを使わず階段を使った。
プールの監視員のアルバイトでは、水中で走ったり、蹴りの練習をして
「監視員が暴れている」
と子供にチクられた。
やがて主任に昇格すると、正道会館の後輩を雇い入れ、自分は監視台に上がらずに交代でミットを持たせて練習した。
当時のフルコンタクト空手界は、まるで戦国時代で、各流派の選手たちは戦国武将のように互いをライバル視した。
特に最大にして最強、そして関東の極真空手と、そして関西の新興勢力正道会館の対立は、その最たるもので、佐竹雅昭も、街で極真の有名選手に出会ったら、その場でケンカをしてやろうと思っていた。
1988年、真のフルコンタクト空手日本一を決めるを決めるため、各流派のチャンピオンクラスを集めた「リアル空手トーナメント」 が行われた。
佐竹雅昭は勝ち進んだ。
そして決勝は、練習でも1度も負けたことがない後輩、柳澤聡行だった。
最初から押していき有効を2つとり、ラスト30秒で、とどめの刺そうと前に出たところにカウンターの跳び膝蹴りをアゴにもらい片膝をついて技ありをとられ逆転の判定負けをした。
その後、柳澤聡行はリング上で、UWFの前田日明への挑戦状を読み上げた。
前田日明が立ち上げたUWFは、従来のプロレスではない格闘技色の濃いプロレスで社会現象といわれるほど大きな支持を受けていた。

この敗戦でショックを受けた佐竹は、関西テレビへの就職を断りに行き、空手漬けの毎日を送るため正道会館の職員になることを決めた。
石井館長にそのことを伝えると
「ウチに来るならこれだけ出そう」
とパッと手を開き指を5本立てた。
佐竹雅昭は
(うわ、50万くれるんやあ)
っと思った。
そして最初にもらった給料袋の中身は5万円だった。
佐竹雅昭は、5万円の給料で、衣食住を行うために、足らない分はパチンコで稼いだ。
職員の仕事は、まず朝、道場に行き清掃。
そして事務仕事。
午後は「Bigin Sports」という正道会館の格闘技ブランドのサンドバッグやミット、グローブなど格闘技用品の梱包と発送。
夕方から空手の指導を行った。
当時は本革サンドバッグが20万もしたため高くて買えなかった。
だから石井和義はトラックのテント生地でオリジナルのサンドバッグを自作してみると、原価5千円でできた。
そして正道総本部道場には20本ぐらいサンドバッグが並んだ。
それを道場生が楽しそうに蹴って、稽古が終わっても帰らなかった。
くの字型のビッグミットやパンチンググローブ、スネガードなどをつくった。
防具をすることで痛くないから組手が楽しくなり、他流派が道場まで買いに来た。
これはビジネスチャンスと思い通販を開始。
本革20万のサンドバッグがテント生地だが19800円で手に入ると飛ぶように売れた。
「Bigin Sports」は後の東京進出の大きな原資となった。
結局、佐竹雅昭は正道会館の職員は6年続け、月給は13万円まで上がった。

打倒 極真

1988年、正道会館は全日本大会を一新させた。
まず畳の上だった試合場がリングになった。
これによって選手は畳の外に逃げることができず、よりアグレッシブで完全決着が期待される。
また本戦、延長戦、再延長戦を戦い差が出なかった場合、体重差10㎏以内であれば、グローブをつけて顔面パンチありで延長戦を行うことになった。
この大会で角田信朗は、2回戦まで本戦で判定勝ち。
3回戦は左ミドルキックでKO。
準々決勝で、1年前の同大会で背中をみせて屈辱の敗退を喫した今西靖明と対戦。
開始30秒、今西靖明のパンチが角田信朗の顔面をとらえダウンさせてしまうアクシデントがあった。
ドクターは止めようたが角田信朗が続行を懇願し、1試合挟んで改めて試合が行われた。
角田信朗は今西靖明の猛攻を体を捻って打点をズラシして殺し、必殺の左フックを右肩に叩き込んだ。
通称:肩パンチを嫌がって今西靖明が右のガードを開くと、角田信朗はそのガードの内側にパンチを入れた。
左ボディブローで一瞬、今西靖明の体が沈み、後退。
その後も角田信朗は今西靖明の攻撃に対して必ず左の肩パンチを返した。
そして試合はグローブマッチに突入。
角田信朗のパンチに今西靖明はそむけてしまう1年前の真逆の展開。
角田信朗はあらゆる角度からパンチを浴びせラッシュ。
技ありを奪い、そして最後は左フックで肩パンチと同じ反応を起こし右ガードが開いた今西靖明に右アッパーをねじ込み、再び閉じたガードの外から左フックでフィニッシュ。
今西靖明は鼻血を出しながら倒れていった。
昨年からの目標「打倒!今西先輩」を果たした角田信朗は、リングを降りると同時に倒れた。
今度こそドクターがストップしようとしたが、角田信朗は続行を望んだ。
「角田、わかった。
お前の骨は俺が拾ったる」
石井和義はそういって本部席に戻った。
準決勝の相手は佐竹雅昭だった。
心を鬼にした佐竹雅昭の容赦ない攻撃の前に角田信朗はマットに膝をついた。

正道会館のチャンピオンになった佐竹雅昭は、憧れの大山倍達の極真空手の大会で優勝するつもりだった。
これまで極真を破門された芦原英幸の弟子である石井和義の正道会館と極真会館と交流がなかった。
しかし大山倍達が
「空手界の大同団結」
を呼びかけたことにより、正道会館の選手の出場も認められ、1990年6月2日に行われる極真空手の第7回全日本ウエイト制大会には複数の正道会館の選手が出場申し込みを行った。
佐竹雅昭も重量級に申し込んだが、なぜか彼だけ書類不備となり出場できなった。
同じ重量級への出場が認められた角田信朗の心は燃え上がった。
夢の「地上最強の極真カラテ」に挑戦できるのである。
角田信朗は週3回は自分の道場である神戸支部、残り3日を大阪の総本部で稽古した。
会社のバックアップを得て大阪へ行く日は18時に仕事を終え、大きなバッグを抱えて阪急電車に乗り19時からの代表選手の特訓に参加。
正道会館の空手の試合のルールでは、片手による瞬間的な掴み・引っ掛けが許され、相手を掴んでの攻撃バリエーションが発達している。
しかし極真会館の空手の試合のルールでは「掴み」禁止されているため、このルールでの組手が延々と続いた。
そしてその後は一気に5連打する地獄のキックミット5連打。
最終電車に間に合うギリギリまで稽古は続いた。
通常ならJR環状線の天満駅から1駅乗って大阪駅までいき、神戸線に乗り換える。
角田信朗の家は阪急電車の王子公園駅から徒歩5分。
しかし阪急電車は終わっているので、JRで灘駅まで帰り、そこから家まで40分歩いた。
そして翌朝8時45分に出社した。
神戸支部での稽古を王子公園で陸上トレーニングに替えることもあった。
ウォーミングアップで、腕立て伏せ50回&ジャンピングスクワット50回×10セット。
それが終わるとインターバルダッシュ。
とどめは王子公園の入り口から山へ向かって伸びる500mの坂を地獄ダッシュ。
200mくらいで息ができなくなり、残り300mは無酸素状態。
ゴールするとよだれと鼻水だらけになった。
最初は1本もできなかったが、極真ウエイト制大会までに5本こなせるようになった。
1990年6月2~3日、極真会館が主催する第7回オープントーナメント全日本ウエイト制空手道選手権大会が大阪府立体育館で開催された。
他流試合において、すべての大会で上位を独占し「常勝軍団」といわれた正道会館だったが、極真空手は心技体共にレベルが違った。
軽量級、中量級、重量級の3階級に12名の選手を送り込んだが、2日目の準々決勝に進めたのは重量級にエントリーした柳澤恥行と角田信朗だけだった。
そして柳澤恥行は、この大会で優勝する岩崎達也に判定負け。
残るは角田信朗だけだった。
角田信朗の次の相手、準々決勝の相手は、井口勝利だった。
「ゼッケン210番!
角田伸朗選手!」
試合場に上がり正面を向くと大山倍達と目が合った。
大山倍達はニヤッと笑った。
試合が始まると井口勝利の蹴りに角田信朗はクイックローを返した。
蹴られたら蹴り返すような攻防が何度が続いた後、肩を狙った角田信朗の左のパンチが流れて顎に入り、井口勝利が倒れた。
角田信朗は頭を下げた。
再開後、ポイント勝ちも考え、手数重視となりつつある空手のトーナメントであるが、角田信朗と井口勝利は魂を込めて打ち合った。
井口勝利は100㎏を超える巨体からムチのようにしなった左ハイキックを出した。
角田信朗はそれを捌いて、井口勝利の体を時計回りに回した。
そして右フックをボディに打ちながら右足を外に踏み出した。
左半身に意識を集中させた井口勝利の右側の顔面に角田信朗は腰を残してヘッドを走らせた左ハイキックを叩き込んだ。
井口勝利は丸太のように倒れた。
強靭な精神力ですぐに立ち上がろうとしたが夢遊病者のようによろめいた。
劇的な1本勝ちだった。
角田信朗は試合場の上で泣いた。
この奇跡の一戦で気持ちが切れ抜け殻となってしまった角田信朗は準決勝で敗れた。
しかし他流派の選手が極真空手の全日本大会でベスト4に入ったことは快挙だった。
表彰式で大山倍達と握手を交わした。
「君ねえ、秋の無差別と世界大会にも出てこい!」

佐竹雅昭 vs ドン・中矢・ニールセン

1990年、佐竹雅昭に、前田日明と異種格闘技戦を行ったキックボクサー:ドン・中矢・ニールセンと試合をしないかと全日本キックボクシング連盟からオファーがきた。
これまで顔面パンチなしのフルコンタクト空手の試合をやってきた。
空手選手ならそれでいいだろうが、空手家を目指す佐竹雅昭にとっては、相手がキックボクサーでも戦い倒さなくてはならなかった。
だからこの試合を受け、ボクシングジムやキックボクシングジム、シュートボクシングジムに通い顔を腫らせた。
1990年6月30日、全日本キックボクシング連盟「INSPIRING WARS HEAT」で行われた。
ルールはキックボクシングルール。
佐竹雅昭は契約体重まで体重も落として前歯も4本抜いた。
試合はケンカとなった。
リング上でニールセンはヘラヘラ笑い佐竹をなめた態度をとった。
そして膝蹴りで佐竹の金的を狙った。
佐竹はこのケンカを買い、頭突きから右ストレートを叩き込んでニールセンを倒した。

佐竹雅昭 vs クマ殺し:ウィリー・ウィリアムス

1991年6月4日、 「USA大山空手vs正道空手5対5マッチ~LAST CHANCE」が代々木競技場第二体育館で行われた。
石井和義は、試合開催まで、毎週、大阪で夜の稽古が終わった後、東京までまで4時間半かけて車で走った。
夜中にカプセルホテルに入り4時間ほど寝て朝風呂に入り、演出、音響、会場設営、チケット販売の業者と打ち合わせや挨拶回りなどを行い、深夜、大阪まで車で帰った。
試合当日もルールやレフリー、選手のチェックを行った。
チケットは立見席まで完売し、2万円のリングサイドS席は2万円はダフ屋に20万円で販売された。
リングアナは、新日本プロレスの田中秀和。
USA大山空手の大山茂・泰彦の兄弟師範による真剣白刃取りの演武。
中堅戦で角田信朗はギャリー・クルグビッツを跳び膝蹴りでギャリー・クルグビッツはひっくり返し、大将戦では佐竹雅昭はクマ殺しのウィリー・ウィリアムスと対戦し判定勝ちした。
試合後、両チームは互いの空手着を交換し、ファンは拍手を送った。
東京での初めての大会を石井和義は成功させた。

RINGS(リングス)

佐竹雅昭は、お金がないことは大して気にならなかった。
しかし空手が世間から認知されないことには大きなフラストレーションを抱えていた。
同じ格闘技でも華やかな脚光を浴びているUWF、そしてそのエース格である前田日明がうらやましかった。
意を決した佐竹雅昭は、単身、東京の代々木第2体育館に行き、サンボの試合会場に来ていた前田日明に直接会いに行った。
当然、アポなしである。
会場につくと普通にチケットを買い入場。
まずサンボの試合をみて、トイレに立った前田日明に廊下で挨拶をした。
「あのー、前田さん、僕と戦ってほしいんですけど」
「そんなんいきなり無理や。
段取り踏んで来い」
そう冷静に返され、「プロになってから来い」ってことだろうと佐竹雅昭は解釈した。
そんなときにドン中矢ニールセン戦のオファーがあり、ケンカファイトの末にKOした。
そして「段取り踏んで来い」といわれてから2年後、佐竹雅昭は、UWF崩壊後、前田日明が立ち上げた総合格闘技「RINGS(リングス)」への参戦を決めた。
そのキャッチコピーは
「世界最強はリングスが決める」
最初、佐竹雅昭は、正道会館を離れ1人でリングスのリングに上がるつもりだったが、石井和義に
「お前だけやないやろ」
といわれ、リングス参戦直前には
「お前、アムステルダムに道場破りに行ってくれ」
と海外修行に出された。

1991年秋のカラテワールドカップ91(正道会館の第10回全日本大会、改名された)は、オランダのジェラルド・ゴルドーやピーター・スミット、ソ連のアマチュアボクシングスーパーヘビー級チャンピオン:スラブ・ヤコブレフなども参戦した。
佐竹雅昭は、ジェラルド・ゴルドーに試し割り判定で負け。
角田信朗は、大会直前、左膝の内側の靱帯を断裂し、右のローキックでスラブ・ヤコブレフを沈めた後、棄権した。
試合後、呼ばれていくと石井和義と前田日明がいた。
石井和義が唐突にいった。
「角田さぁ、12月にリングスさんの大会が有明コロシアムであるんやけど、出てみない?」
「押忍?」
「佐竹と一緒に。
いいよねえ。
返事しとくよ?」
こうして1991年12月7日、「RINGS(リングス) ASTRAL STEP FINAL BLAZE UP 炎上」(有明コロシアム)で佐竹雅昭と角田信朗が初参戦。
この後、柳沢聡行、アダム・ワット、後川恥之、玉城厚志なども参戦した。
石井和義はリング上で宣言した。
「極真空手の大山館長が少年マガジンの誌上で戦った世界中の強者と私たちは実戦で戦います」
佐竹雅昭は、リングスデビュー戦でハンス・ナイマンと正道会館空手ルールで2分5Rを戦い引き分け。
1992年1月12日、体重無差別、グローブによる顔面パンチあり、肘打ちあり、掴みありの空手大会「第1回トーワ杯争奪 カラテ・ジャパン・オープン」で優勝。
(翌1993年の第2回大会も制しV2)
1992年1月25日、リングスでジェラルド・ゴルドーと再戦し反則勝ち。
1992年3月5日、フレッド・オーストロンにKO勝ち。
1992年4月3日、ヘルマン・レンティングにKO勝ち。
1992年5月16日、バート・コップスJrにKO勝ち。
1992年6月25日、ウィリー・ピータースに時間切れ引き分け。
1992年7月16日、ピーター・ウラにKO勝ち。
1992年8月21日、ロブ・カーマンと時間切れ引き分け。
そして1992年10月29日、長井満也をKOしたが、長井満也が「拳で殴った(反則)」とアピール。
スロービデオでは佐竹の掌底が長井のテンプルを完全にとらえダウンを奪っている。
しかしよくみると、その前に1発だけ拳による打撃が当たっていた。
結局、佐竹雅昭は、この試合を最後にリングスを去った。
正道会館勢は突然、RINGS(リングス)から撤退した。
あまりに突然で、佐竹雅昭の最後の試合がモメたことが原因ではないかともいわれたが、本当の理由は「K-1」だった。
佐竹雅昭は、前田日明のことは好きだったし、RINGS(リングス)に参戦し続けいつか対戦もしたかったが、すでに石井和義から、
「フジテレビと組んで凄いことをやる」
とK-1の構想を聞いていた。
それ自体にすごい魅力を感じたし、石井和義がいろんな我慢や苦労をしているのを知っていたから
「館長を男にしたい」
という思いが強くリングスを離れた。
佐竹雅昭にとって石井和義は師だった。
その指導は理論的で、空手家としても芦原英幸から継承したサバキの技術は非常に高く、
「何人か乗るなら新幹線を使うより車のほうが安上がりや」
と東京大阪間を車で何往復もする館長が好きだった。

鉄人:アンディ・フグ

アンディ・フグは、第4回極真空手世界大会大会(1987年)で2位(外国人で史上初)となった。
第5回極真空手世界大会(1991年)で27歳のアンディ・フグは優勝候補だった。
そして「アンディ包囲網」と呼ばれた超大型選手に囲まれたトーナメントを90kg前後の体で勝ち上がっていった。
しかし4回戦に事件は起こった。
20歳のフランシスコ・フィリョが故意ではないが審判が試合を止めた後に繰り出した蹴りによって倒されてしまったのである。
フランシスコ・フィリョの反則負けかとも思われたが、審判委員長であり、アンディ・フグが世界で一番尊敬していた大山倍達は、
「たしかに試合はスポーツだが、それ以前に極真空手は実戦を想定した武道である。
武道である以上、たとえ第3者が「止め」を宣告してもスキをみせてはならない。
これは倒されているアンディの明らかな負けである」
としたことによりアンディ・フグの負けとなった。
試合後、人生で初めて失神KO負けしたアンディ・フグは控室にこもり、恋人のイロナ・フグは
「アンビリーバブル」
と泣き叫んだ。
世界大会終了後、28歳になったアンディ・フグは、同棲中のイロナとの結婚や、友人と共同経営していたスポーツショップ「Sports Freaks」の業績悪化など、いろいろな問題を抱えながらプロファイターの道を模索した。
アンディ・フグが極真を離れプロになりたがっているのをインタビューを受けていたフリーライターから聞いた石井和義は、ドイツ語が得意な後輩にスイスのアンディ・フグとコンタクトを取らせた。
そしてアンディ・フグは来日したが、飛行機が1時間も早く着いてしまい、真面目なアンディフグは1時間、ロビーで立ったまま出迎えを待った。
そして1992年7月30日、「格闘技オリンピックⅡ」で柳澤恥行と対戦。
踵落としで圧倒し、プロデビュー戦を勝利で飾った。
通常、フルコンタクト空手の試合は派手さが足りないため有料チケットを売ることは難しい。
しかしアンディ・フグは違った。
踵落としをはじめとする華麗で強烈な足技と鍛え上げられた肉体が発するパワーは観ているものを驚愕させた。

アンディ・フグの正道会館への移籍に大山倍達は怒り、極真会館は正道会館と絶縁した。
(大山倍達没後、解消)
絶縁して約1年後、石井和義から角田信朗に電話が入った。
「お前、スーツ持ってるか?」
「押忍」
「じゃあスーツに着替えて東京行きの新幹線に今からすぐ乗って、乗ったら電話してこい」
「お、押忍?」
(プーップーップーッ)
角田信朗は、わけもわからず着替えて新幹線に乗ってからかけ直した。
「押忍。
いま新幹線に乗りました。」
「あーそお、ご苦労さん」
「自分はどうさせていただいたらいいのでしょうか?」
「ホテルニューオータニでね、梶原一騎先生の7回忌の記念式典やってるんだけど、角田、俺の代わりに出席してきてよ」
「オッ、押忍!!!???」
「極真の人たちもみんな来てるらしいよ」
「押忍!!
館長!そんな大事な席に自分のような者では館長の代わりはつとまりません!!」
「なにいってんの。
みんなお前が来るの待っとるで」
「押忍!!
しかし館長!!
極真会館さんからは絶縁状が届いている状態なのに、そんなところへ自分が行って大丈夫なんでしょうか!?」
(プーップーップーッ)
悲惨だった。
東京駅からタクシーでホテルニューオータニへ。
遅れて会場に着いた角田信朗は恐る恐る会場のドアを少しだけ開けて中を覗いてみた。
すぐ目の前に極真会館の黄色のブレザーを着た50名ほどの屈強な男たちがビッシリと出席していた。
しかも正面で大山倍達が挨拶をしている最中だった。
(ヤバい)
角田信朗は静かにドアを閉めた。
(こんな敵陣に、絶縁状を回されている組織の幹部がノコノコ入っていったらどうなるのだろう?)
思案に暮れ、もう1度覗こうとしたとき、中からドアが押されて開き梶原一騎の弟:真樹日佐夫が出てきた。
「いやあ、角田君来てくれたのか」
その声に会場の中の全員が角田信朗をみた。
「ちょうどいい、大山総裁に紹介するよ」
「押忍。
いえでも・・・」
真樹日佐夫に押され角田信朗はズズッズズッと大山倍達の前まで来た。
「いやあ総裁。
紹介します。
正道会館の角田君」
「オ、押忍。
せ、正道会館の、か、角田であります。
ごぶたさ、いやご無沙汰しております」
大山倍達は右手で握手しながら左手で角田信朗の頬をパチパチ叩いた。
「いやあ!
もう1度会おう!」
(もう1度会おうか。
今会ってるのに)
角田信朗は心の中でツッコんだ。

芦原英幸 難病を発症

1992年、芦原英幸は自分の左のパンチに力が入らないことに気づいた。
2週間後には、ある人の名前をどうしても話せず、舌が動かないことに気づいた。
精密検査を受けて「ALS(筋萎縮側索硬化症、ホーキング病)」と診断された。
手や足、のど、舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気。
しかし筋肉そのものの病気ではなく筋肉を動かし運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害を受ける。
その結果、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなり、力が弱くなり、筋肉がやせていく。
一方で通常、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれる。
1年間で新たにこの病気にかかる人は人口10万人当たり約1-2.5人という難病だった。
「俺、やっぱり死ぬわ。
最後には呼吸ができなくなるんだって」
芦原英幸は医師に入院を薦められても聞かなかった。
「ジタバタしても仕方がないわな。
2、3年か、人によっては10年以上生きることができる病気みたいだけど寿命だ。
寿命が決まっているんだから寿命が来るまでにやり残した仕事をやれるだけやってみるよ」
そういって黙々と仕事をした。
やがて言葉を発せられなくなり、文字盤を1文字1文字指して会話した。

K-1

正道会館の東京進出は、新宿区の上落合で20坪ほどの風呂屋さんの半地下の小さなスペースが東京道場となった。
石井和義は、その隅の一坪のスペースに机1つと折りたたみのイスを置いて仕事をした。
そしてK-1開催が決まると、高田馬場に移転させた。
来日したK-1ファイターは、この道場でトレーニング、調整して試合に出た。
1993年4月30日、代々木第一体育館で「K-1」という新しい格闘技イベントが誕生した。
打撃系格闘技世界最強の男はいったい誰なのか?
「空手」「キックボクシング」「拳法」「カンフー」など、代表的な立ち技・打撃系格闘技の頭文字「K」
その中の世界最強、真のNo.1を決めんとする「K-1 GRAND PRIX′93 10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント」
競技、団体、階級の垣根を飛び越え世界王者同士による夢の異種格闘技ワンデイトーナメント。
8オンスグローブを着用。
3分3R(ラウンド)、あるいは3分5R。
頭突き、肘撃ち、バックハンドブロー、目付き、金的、投げ技、関節技は禁止。
その他の打撃技はすべてOKという打撃系格闘技ルール。
出場選手の中には8年間無敗の記録を持つキックの帝王:モーリス・スミスがいた。
そのモーリス・スミスの無敗神話に終止符を打ったオランダの怪童:ピーター・アーツもいたし、この2人を破ったことがあるアーネスト・ホーストもいた。
佐竹雅昭は、UKFアメリカヘビー級王者、11戦11勝11KOのトド"ハリウッド"ヘイズを2R 0:45、右ローキックでKO。
ブランコ・シカティックの石の拳は、タイの英雄、最強のムエタイ戦士:チャンプア・ゲッソンリットをロープまでフッ飛ばした。
アンディ・フグは、この記念すべき第1回のK-1において決勝戦の前のスペシャルワンマッチで角田信朗と空手ルールで対戦し圧勝した。
そして30歳になるアンディ・フグはリング上で宣言した。
「来年、私はK-1グランプリのチャンピオンに、K-1ルールで挑戦します。」
決勝戦ではブランコ・シカティックのパンチがアーネスト・ホーストのテンプルを打ち抜き失神KO勝ち。
波乱万丈の展開に加え、全7試合中6試合がKO決着。
衝撃的なK-1誕生の瞬間だった。
この後、「K-1」は、空前の格闘技ブームを引き起こしていく。
大手スポンサーがつき、東京だけでなく名古屋、大阪、福岡、やがて海外でもイベントを開催。
会場は多数の芸能人が訪れ、チケットのとれないモンスターイベントとなっていく。

大山倍達 死去

1994年4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で大山倍達は死去した。
70歳だった。
大山倍達は遺言書で松井章圭を後継者に指名。
松井章圭は極真会館の館長となった。
大山倍達はあまりに偉大な存在だった。
極真のほとんどの支部長は大山倍達に憧れ、この道に身を投じた。
その絶対的存在、精神的支柱を失った極真は、この後、分裂を繰り返していく。
1994年6月、大山倍達の遺族が記者会見を行い
「遺言に疑問があるので法的手段にでる」
と発表。
彼女たちは大山倍達の本葬時にも抗議活動を行った。
そして5名の支部長がこれを支持し、松井章圭の下を離れ、大山智弥子未亡人を館長とする新組織を結成した。
これが「遺族派」、松井章圭を長とする組織は「松井派」と呼ばれた。
1995年4月、35人の支部長が「支部長協議会派」を結成。
松井派は一時、12名までに減った。
世界各地でも分裂が生じ、支部の取り合い選手の引き抜きが行われた。
8月、支部長協議会派と遺族派が合流。
「大山派(現:新極真会)」と呼ばれた。
極真空手の各種大会が、松井派と大山派(現:新極真会)によって開催されるようになる。
松井館派と大山派は、互いに正当性を主張し合った。

佐竹雅昭 脳ダメージで離脱

同時期、正道会館所属の植田修選手がキックボクシングの試合で受けたパンチが原因で亡くなった。
彼は1月にも空手の試合でダウンし、タンカで運ばれていた。
佐竹雅昭は、後輩の死に改めて頭部への打撃の怖さを思い知り、そして覚悟を決めた。
「K-1 GP94」では決勝でピーター・アーツと接戦した末に2位となった。
そして1995年3月3日、拳獣:サム・グレコにKO負け。
このときダウンしてからの記憶を失い気がつけば車の中にいた。
本人は
「大丈夫、大丈夫」
といっていたがその様子は全然大丈夫ではなかった。
深夜、病院に行き検査を受け、いったん東京に戻り、日大病院で再び検査を受けると脳の海馬がダメージを受けて血管が細くなっていることがわかった。
医者はいった。
「佐竹さん、このままでは、その若さでアルツハイマーになりますよ」
石井和義に報告したが、
「人にいうなよ」
とかん口令が出ただけで試合はドンドン組まれていった。
しかし肉体的にはタフで打たれ強い佐竹雅昭が頭を打たれるとすぐに倒れ始めた。
佐竹雅昭は試合は決まると、大阪の正道会館の宿泊施設に寝泊まりし、自分で洗濯などをしながら、朝は淀川沿いを走り、午後からはジムワーク、夜はウエイトトレーニングとマッサージという生活を続けた。
そして試合前には、頭のこともあるので何があってもいいように自分の部屋や仕事場を掃除し身辺を清めた。
1995年、K-1GP開幕戦で、総合格闘家:キモと対戦。
試合前、相手の呪いのパフォーマンスに十字を切って対抗。
そして2R 2:27、左ミドルキックでTKOした。
ただ佐竹はこの試合のことも覚えていない。
キモの投げ(反則)で頭を打ったショックで前後の記憶を失った。
1995年5月4日、K-1GP準決勝でジェロム・レ・バンナと対戦。
3R、左フックでKOされた。
この後、佐竹雅昭は少しの間、リングから消えた。
(復帰は1996年10月18日、K-1 STAR WARSで約1年半ぶりに試合復帰。
アンディ・フグとフルラウンド戦ったものの、消極的な試合姿勢で判定負け)

芦原英幸 死去


1995年1月15日、芦原英幸は息子であり2代目館長候補である芦原英典の技を2日に渡りチェックした。
それは目線から顔の位置の数㎜のズレを指摘する厳しいものだった。
そして同年4月24日、2年半の闘病の末、亡くなった。
50歳だった。
石井和義は、芦原英幸の葬儀にかけつけたが遺族に焼香は断られた。
生前、芦原英幸は
「石井を許すことはできない」
といっていたという。

極真との絶縁解消 

1996年7月、松井章圭、石井和義、フジテレビで会合が持たれた。
極真会館は、アンディ・フグの引き抜きに怒った大山倍達が絶縁して以来、正道会館との接触はなかった.
松井章圭は
「極真会館は、過去に行われた除名、破門、絶縁処分を解除する」
と宣言。
そして石井和義のオファーを受けて、フランシスコ・フィリョがK-1に参戦。
デビュー戦で、再びアンディ・フグを失神させた。
その後も連続KO劇を起こし「一撃」ブームを巻き起こした。

石井和義と佐竹雅昭 ケンカ別れ

1999年10月5日、K-1GP開幕戦で佐竹雅昭は武蔵と対戦した。
武蔵の本名は、森昭生。
リングネームを決めるとき、「(北斗の拳の)ケンシロウ」案があがったが、佐竹が「武蔵」を提案し採用された。
しかも佐竹雅昭「武蔵」案は、「むさし」ではなく「たけぞう」だった。
武蔵は、空手家としてバックボーンが少なく、むしろキックボクサーとしてのアイデンティティが高い。
両者は精神性を含めてファイトスタイルに差異があった。
1R、佐竹はパンチで武蔵をダウンさせた。
しかし3R終了後の判定は、3-0で武蔵を勝利者とした。
佐竹は納得がいかず、リングサイドにいた石井館長に抗議した。
実際、多くのK-1選手も疑問を感じた判定だった。
1度、控室に戻った佐竹だったが、やはり納得がいかず、改めて石井館長に抗議しにいった。
「あの判定はどういうことですか?」
「そんなことはどうでもええねん」
佐竹は唖然とした。
結局、その後も、話し合いにならず
「じゃあ、辞めさせてもらいます」
佐竹はそういって部屋を出た。
数日後、記者会見が開かれ、石井館長と佐竹の和解、そして佐竹のK-1一時撤退と正道会館を休会することが発表された。

アンディ・フグ 急死

アンディ・フグと角田信明は仲がよかった。
アンディ・フグは自分の子供が生まれたとき、角田信朗に名前を考えてくれと頼み、自身の娘は「ユリア(友里亜)」、息子は「ケンシロウ(賢士郎)」とマンガ「北斗の拳」からかんたんに名付けた角田信明は、空手の稽古で気合を入れるときに
「セイヤ!」
と発することから「Seiya」という名前を提案した。
毎年6月にはスイスで「K-1 Fight Night」が行われ、その度に角田信朗はアンディ・フグのプールつきの豪邸に招待された。
遊んでいるとき、セイヤが友里亜にパンチと蹴りを出すのをみてアンディ・フグがいないときにセイヤのホッペをつねった。
「コラ!
お父ちゃんが強いからって調子に乗るなよ。
だいたいプールや子供部屋とか贅沢やねん。
こっちは借家住まいやねんぞ」
2000年8月24日、朝の走り込みを終え大阪の四天王寺の家に帰った角田信朗に電話が入った。
「落ち着いて聞いてください。
アンディが今病院にいます」
「えっ?
ケガでもしたんですか?」
「いえ、白血病です。
今もう危篤状態です。
すぐに来てください」
角田信朗はすぐに新幹線に飛び乗った。
「何が白血病じゃ。
アンディ、アホかお前」
遅い新幹線に歯ぎしりした。
東京駅から日本医科大学付属病院へ着いた角田信朗は8階まで階段を一気に駆け上がった。
石井和義が待っていた。
「館長、一体どういうことですか?!」
「行こうか」
石井和義は諭すように静かにいった。
病室には「武道聖矢」という名札がかかっていた。
たくさんの人に囲まれたベッドの上でアンディ・フグは横たわっていた。
鼻や口にたくさんの管が入り意識はなかった。
「お前、何やってんねん」
ベッドの横のモニターには150近い心拍数が示されていた。
150という心拍数は短距離を全力疾走するときの数値である。

その病名は「AML(急性前骨髄球性白血病、Acute Myeloid Leukemia)」だった。
血液中には赤血球、白血球、血小板などの血液細胞がある。
これらは骨髄にある造血幹細胞から増殖、分化してつくられる。
急性骨髄性白血病は、このような血液をつくる過程の未熟な血液細胞である骨髄芽球に何らかの遺伝子異常が起こり、がん化した細胞(白血病細胞)が無制限に増殖することで発症する。
アンディ・フグの場合、まず全身の免疫機能が低下し、肺の中がカビだらけになり自発呼吸が困難になった。
血液を凝固させる成分が壊死しているため主血があっても止まらない状態で、後頭部には大量の主血があった。
アンディ・フグは前日の深夜から高熱を発し、いつ息を引き取ってもおかしくない危篤状態が続いていたが病魔と戦い続けていた。
しかし医師によると生還の見込みはないという。
角田信朗は思った。
「こいつ戦っとるなあ。
史上最強の敵と必死で戦っとるなあ。
ちょっと休んだらええのに。
カラテスピリッツやいうて。
よっしゃ、思う存分戦えや
今度はどんなことがあっても絶対に止めんからな」
過去にマイク・ベルナルドに滅多打ちにされるアンディ・フグをみてレフリーをしていた角田信朗が試合を止めたことがあった。
周囲からは止めるのが遅いといわれた。
あれだけの強打を受け続けながら最後まで膝をつくことを拒否したアンディ・フグとレフリーでありながら、その姿をみてファイターの誇りを傷つけることをためらった角田信朗だった。
16時、「アンディ・フグ危篤」の報道が流れ病院に関係者が続々と訪れた。
17時半、一旦身内以外は外に出た。
18時、医師に呼ばれ再び病室に入るとモニターの心拍数は40まで低下していた。
「アンディ!アンディ!
お前何やってるんだよ。
もう1回チャンピオンになるって俺に約束したじゃないかよ。
アンディ!」
(平仲信明)
「アンディ、お前、まだまだやらんとあかんことがいっぱいあるやろうが」
(石井和義)
「アンディ、アンディ」
「アンディ、ネバーギブアップ」
「アンディ、カラテスピリッツ」
全員がアンディに語りかけた。
「ピーッ」
心電図の波が消え直線となり電子音が響いた。
角田信朗は叫んだ。
「アホか、アンディ。
何しとるんじゃ。
レフリーがやめいうまで勝手に休んだらあかんのじゃ」
するとなんの蘇生措置も施していないのにアンディの心臓は自力で鼓動を始めた。
「よっしゃよっしゃ。
そういうことや!
アンディやればできるやないか」
しかしすぐにその鼓動は弱まっていった。
「あかん!あかん!
アンディ、立ってみい。
コラァー」
いったいどこにそんな力が残っているのか。
アンディ・フグの心臓は3度止まって、人々の声に応えるように再び動き出した。
4度目の停止したとき、戦いを続行させようとする角田信朗を医師が止めた。
「もう休ませてあげましょう」
アンディは最後まであきらめずに戦い続ようとした。
レフリーの角田信朗もその戦いを止めなかった。
セコンドの平仲信明もタオルを投げなかった。
壮絶な戦いはドクターストップで幕を閉じた。
2000年8月24日18時21分、35歳の鉄人は伝説の男となった。

逮捕

2002年、角田信朗はNHK朝の連続ドラマ「まんてん」で、映画「マルサの女」の宮本信子と共演していたが、皮肉にも同年12月、株式会社ケイワンが法人税法違反の容疑で強制捜査を受けた。
2002年12月27日、石井和義は、法人税法違反の容疑で在宅起訴された。
2003年2月3日、石井和義は、証拠隠滅教唆容疑で逮捕された。
2003年5月22日、保釈金4,000万円を支払い保釈。
2004年1月14日、脱税と証拠隠滅教唆について東京地方裁判所は懲役1年10か月の実刑判決を下した。
石井和義を欠いた「K-1」は、イベントプロデューサー:谷川貞治、競技統括プロデューサー:角田信朗の新体制で動き出した。
そしてボブ・サップがK-1デビュー。
アーネスト・ホーストを2度も倒した上、そのキャラクターは大人気となった。
谷川貞治はボブ・サップと総合格闘技でも大活躍していたK-1ファイター、ミルコ・クロコップの対戦を企画。
様々な話題を提供してくれたが、石井和義ほどのインパクトやセンスはなくK-1人気は陰りを帯びた。
2007年6月11日、石井和義は静岡刑務所に収監。
2008年8月7日、模範囚であったため刑期が短縮され出所。
石井和義は、何をも恐れず顧みず、とにかく突っ走り続けた。

「失敗恐れたらあかん!
頑張って失敗してもエエよ!
失敗恐れ何もやらんかった人より100倍偉い!
男やったら、やったれ!」

「すべては自分の成長の肥やしやで!
一番てっぺん目指してかかって行け!
負けて元々、勝ったらラッキー!
生まれて来た時は裸やからね、無くなっても食べていける。
一生懸命やったら、見る人は見てるよ!
負けても必ず応援してくれる」

「仕事にお金はケチるな!使え!
夢を実現するには、お金がいる。
まず全員がぶち当たる大きな壁!
でも心配いらない、なんとかなる!!
諦めなければ、必ずなんとかなる!!!
孫さんの事業だって最初は借金2兆円からスタートしてる。担保無しで借りた、大ボラ吹きである。
携帯電話事業スタートのボーダフォン買収金額2兆円を、LBOレバレッジ バイ アウトと借金で調達してる。
その孫さん相手にホラを吹き、夢を語る世間知らずの私も大ボラ吹きだったが・・・
とにかく、お金なんて有るところから持って来れば良い。
自分で持って来れないなら、得意な人物を活用したらいい」

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