松井章圭 極真の継承者

松井章圭 極真の継承者

世界大会でアンディ・フグに勝って優勝した後、選手を引退。 やがて大山倍達とケンカ別れして極真を飛び出した。 ‘‘イトマン事件‘‘を起こした許永中、``政界最後のフィクサー``と呼ばれた福本邦雄のもとで働き、3年後、復帰。 大山倍達の死後、極真会館の2代目館長に指名されるも、先輩や後輩である支部長たちと内紛が起こり、極真は分裂した。 一見、クールだが1番ガンコな松井章圭館長は、自らの信じる方向に進み、道を拓いていった。


1991年元日、朝日新聞が
「西武百貨店→関西新聞→イトマン 転売で二十五億円高騰」
「絵画取引十二点の実態判明、差額はどこへ流れた?」
との大見出しで、絵画取引の不正疑惑をスクープ。
1991年7月23日、大阪地方検察庁特別捜査部は、総合商社イトマンを利用して絵画やゴルフ場開発などの不正経理を行った許永中を特別背任の疑いで逮捕した。
約3000億円が闇に消えた戦後最大の経済不正経理事件、「イトマン事件」である。
松井章圭は、極真復帰の事情をしたためた手紙を許永中のいる拘置所へ送った。
許永中は、松井章圭の休職を許可し、励ましの手紙を送った。
約1年半、仕えた福本邦雄からも
「君には厳しく当たったけど、まあよく辛抱した。
これからも頑張んなさいよ」
という言葉と餞別があった。

本部直轄浅草道場

1991年11月、第5回世界大会で、大山倍達は型の演武を、そして松井章圭も試割りを演武を行った。
優勝は、緑健児。
2位は、増田章。
3位は、黒澤浩樹だった。
この頃から松井章圭は、空手を追求する場としてはもちろん、強い弟子を養成するためにも、自分の道場を持ちたいと思い始めた。
だが極真会館は全国に支部と支部長を置いて、各支部は独自で分支部を開いていった。
その結果、全国にネットワークが広がっていて新参者が入り込む隙間はなかった。
松井章圭は、浅草交差点近くのビルにいい物件を見つけ、この地区、城東支部の支部長である郷田勇三に相談した。
「もし総裁(大山倍達)が自分の道場回折を却下したら極真を辞めようと思っています」
郷田勇三は、
「お前の好きな場所で道場を開けばいい。
そこが他の支部長のテリトリーでもオレが話をつける」
といい、大山倍達も説得した。
大山倍達は、松井章圭を呼び出した。
「郷田師範の配慮もありまして、浅草に道場を出します。
ついてはその許可をもらいたいのですが・・・」
「君は世界チャンピオンにもなった男だろう。
どこに道場を出しても構わないが、総本部のダイレクトスクール(直轄道場)として出しなさい。
もう1つ、週2回の黒帯研究会は、君が来て指導しなさい」

29歳にして自分の道場を持つことができた松井章圭は、8年間の交際の末に、ついにプロポーズした。
幸吟に婚約を破棄させ、1人前の男になろうと極真を飛び出し、許永中や福本邦雄のもとで悪戦苦闘して社会勉強した松井章圭だったが、皮肉にもこの間、2人はたまにしか会っていなかった。
松井章圭は母親の任福順の前で両手をついた。
「幸吟を私のお嫁さんにください」
そして幸吟に告白した。
「ずいぶん時間がたってしまったけど僕と結婚してください」
「あなたとは結婚しない」
驚いた松井章圭は、経緯を説明したが、幸吟は
「結婚するといっていながらしなかった」
といった。
神戸に移ってからも縁談話は次々に持ち込まれていた。
松井章圭は、歯の浮くような言葉を連発し、幸吟に
「うん」
とうなずかせるまで3時間かかった。
「一生かけて幸せにするよ」
そういいながら
(恋愛も試合も相手の意思を最大限に尊重して技をかけないといけない。
恋愛と試合は似ている)
と悟った空手バカだった。
1992年12月、松井章圭と幸吟は結婚披露宴が行った。
華やかな式の中で祝辞を行った大山倍達の声には、なぜか怒気が含まれていた。
「君は私のいうことを絶対に聞こうとしない。
君は引退してはいけなかったんだ。
私のいうように4連覇を目指すべきだったんだ。
そして不滅の王者として我が極真に君臨すべきだったのだ。
同乗なんか開くべきではなかった。
総本部にいて指導を続けることが将来の君のためであったのだ。
君は私のいうことを聞かない。
君の欠点は頭が良すぎることだ。
時にはガムシャラになってやらなくてはいけないときもある
何かを犠牲にしてでも突き進まなければならないときもあるんだ」
その言葉を松井章圭は直立不動で聞いた。
(もう2度と総裁に逆らうようなことはしない)
傍らには生まれたばかりの長女を抱いた幸吟がいた。
松井章圭は、昼は五反田の金融会社に勤め、夜は道場で指導を行った。
会社勤めで得た給料で家族を養い、道場の収入はその維持と設備投資に回した。

アンディ・フグが原因で極真と正道が絶縁

松井章圭の結婚式の少し前、突如、アンディ・フグが正道会館の試合に出場した。
第5回世界大会においてアンディ・フグは、故意ではないが反則じみたフランシスコ・フィリョの蹴りと、スポーツ的にはアンフェアな超武道的大山(倍達の)裁定により、人生初の失神KO負けを喫した。
大会終了後、28歳のアンディ・フグは、同棲中のイロナとの結婚や、友人と共同経営していたスポーツショップ「Sports Freaks」の業績悪化など、いろいろな問題を抱えながらプロのファイターの道を模索した。
アンディ・フグがプロのファイターになりたがっているのを知った石井和義(正道会館館長)は、1992年7月、「格闘技オリンピックⅡ」で柳澤恥行と対戦させた。
そしてアンディ・フグは踵落としで圧倒。
プロデビュー戦を勝利で飾った。
このアンディ・フグの正道会館への参戦に大山倍達は激怒。
正道会館に対して絶縁状を通達。
このことを記事にして正道会館のエースである佐竹雅昭と松井章圭を並べて表紙にした雑誌「格闘技通信」の取材も拒否した。
格闘技通信の取材拒否は1年間で解かれたが、極真会館と正道会館の絶縁関係は大山倍達が死去するまで続いた。
松井章圭が2代目の極真会館館長となった後、極真会館と正道会館との関係が修復され、K-1のリングに極真の選手が上がった。

極真の後継者の条件

1992年4月、松井章圭は大山倍達に呼ばれた。
「実は君に重要な仕事をやってもらいたい。
やれるか」
「押忍。
総裁のおっしゃることならなんでもやります」
「新会館建設のための第2次建設委員会を組織したい。
ついては君が委員長をやってくれ。
君が中心になって、増田、黒澤、緑といった若い人たちの協力を得ながら強力に推進してほしいんだ
古い支部長たちにはもう任せておけない」
それは手狭になった極真会館総本部に隣接する土地を買い上げ新会館を建設するという計画だった。
以前に第1次委員会が発足されたが、多くの支部長が再三の建設資金の拠出要請に難色を示し、事実上休眠状態になっていた。
「この仕事は全国の支部長たちを敵に回す仕事なんだ。
君が泥をかぶることになる。
どうだ、できるかね」
「総裁がいわれるのならなんでもやります」
松井章圭は、即座に答えハラを決めた。
(極真あっての、大山総裁あっての自分だ。
支部長たちにどう思われようとかまわない)
1993年8月、大山倍達は臨時の全国支部長会議を招集し、第2次新会館建設委員会の委員長に末端の支部長に過ぎない松井章圭を指名した。
各支部は入門者数や門下生の数を総本部に申告していた。
しかし中には門下生の数を少なく申告する支部や、昇級昇段を総本部に登録しない支部、内緒で黒帯を販売している支部さえあった。
資金の拠出を迫ると
「要は弟子から金を搾り取ろうということだ」
という支部長もいた。
この惨状を把握した第2次委員会は、門下生をコンピューターで一元管理する方針を盛り込んだ改革案を大山倍達に提出し承認された。
このときから松井章圭に対する嫉妬や憎悪という悪い感情が、一部の先輩支部長たちの中で起こり始めたと思われる。

1993年3月、松井章圭は5段への昇段試験で、50人組手を達成。
この年に行われた支部長会議で大山倍達は54人の支部長に向かっていった。
大山倍達に向かって最前列の左端に三瓶啓二(福島県支部長、全日本大会3連覇)、右端に郷田勇三。
2列目に中村誠(兵庫県支部長、世界大会2連覇)、山田雅捻(城西支部長、大西靖人、黒澤浩樹などの師)、浜井識安(増田章の師)。
松井章圭は最後列に座っていた。
「昔は極真不毛の地に城を築いてやろうという覇気があった。
他流歯を潰してでもやってやるという人間ばかりだった。
でももうみんな金持ちになって闘争しようとしない。
金持ちはケンカしないものだよ。
腹の減ったやつが闘争するんだよ。
みんなちょっと太りすぎた気がする。
私の亡き後は大山倍達の栄光に君たちは生きることはできないんだよ。
私が亡きものになるとみんなはきっとバラバラになる気がしています」
さらに大山倍達は後継者についてこう述べた。
「後継者については軽々しくいえないけれど、海外、国内を通じて誰もがこの人が後継ぎならいいよと認める形で指名したい。
だがこれは10年後、20年後のことだからまだ心配はいらない。
それより今日の格闘技ブームで君たちがやることは、極真は地上最強であることを誇示してもらいたい。
これは私が亡き後でも永遠にやり続けなければならない君たちの宿命だよ。
私は100歳まで生きるよ。
今の極真は大改革が必要だからね。
だから後継者の心配はまだする必要などない。
ただね、極真の2代目はまず強くなければダメだ。
全日本大会連覇と世界大会制覇、そして100人組手の完遂者で、しかも若い人。
できれば30代前半の人に継がせたい。
甥は人を醜く保守的にさせるものだからね」
世界大会2連覇の中村誠は100人組手完遂が、全日本大会3連覇の三瓶啓二は世界大会制覇と100人組手完遂ができていなかった。

大山倍達には後継者について3つのプランがあった。

1 郷田勇三か盧山初雄、大山道場時代からの高弟に2代目を継がせてから、3代目を中村誠か松井章圭にする。
2 中村誠を2代目にする。
3 松井章圭を2代目にする。

そして実際に郷田勇三、盧山初雄、中村誠を呼び寄せて見定めようとした。
郷田勇三と盧山初雄は
「歳を取りすぎている。
もっと若くないと波乱の格闘技界を新しい発想で乗り切れない」
中村誠には
「世界2連覇という大偉業を達成した君の極真への貢献度は抜群である。
しかし2代目は松井に決める。
君か松井かで最後まで悩んだが酒の上での失敗が君にはある。
それに松井の若さが今の極真には必要なんだ」
と告げた。
中村誠は応えた。
「押忍。
わかりました」
酒の上での失敗とは、居酒屋でケンカを売ってきた数名のヤクザを血祭りにあげ全国ニュースで報道されたことである。

遺言書作成

1994年3月15日、若獅子寮の第22期生卒寮式で、大山倍達は祝辞を述べた。
公に姿を現したのは、これが最後となった。
3月17日、聖路加国際病院に緊急入院。
3月22日、病院側の制止を振り切り退院し総本部内の自室で静養。
4月15日の若獅子寮の第25期生入寮式には出られず、この日の夜、再び聖路加国際病院に入院した。
そのとき大山倍達はいった。
「一部の側近と松井章圭以外は、家族といえども見舞うことは許さない」
急遽、大山倍達の名代としてネパールで開催される第6回アジア大会に行くことになった松井章圭は、その報告を兼ねてお見舞いに訪れた。
そして別れ際
「元気でね」
そう大山倍達にいわれ胸騒ぎがした。
大山倍達は肺ガンだった。
松井章圭はそれを知っていたが、大山倍達には最後まで告知されなかった。
そしてベッドでの排泄を拒否し、内弟子の肩につかまりながらトイレに通った。
担当医は大山倍達の寿命を
「あとわずか」
と診ていた。

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