1994年9月21日、全国支部長会議で、遺族を煽動したという理由で、高木薫(北海道支部長)ら5名に対しての破門・除名処分が決まった。
高木薫は、東京地裁に松井章圭の館長としての職務停止仮処分の申し立てを行った。
(12月26日、東京地裁はそれを却下)
1995年1月17日、阪神大震災が起きた。
兵庫県支部長の中村誠も、自宅や本部道場、分支部道場など甚大な被害を被った。
対応に追われ
「後継者どころじゃなかった」
という中村誠に、反松井派からひっきりなしに電話やファックスによる多数派工作が続いた。
しかし松井章圭は現地へ訪ねていき、大先輩に対して心からのねぎらいの言葉をかけただけで帰っていった。
「反松井派の連中は自分のことしか考えず、電話で一方的に言いっぱなしなのに、館長はそんなゴタゴタなんかなあーんもいわずに、ただお見舞いときた。
よし、俺はこの男を、なにがなんでも守りたてちゃろうと思った」
1995年2月15日、高木薫は、記者会見を開き、大山智弥子未亡人が2代目館長に就任したと発表した。
1995年3月9日、支部長会議長の西田幸夫の呼びかけで、松井章圭不在の緊急全国支部長会議が開かれた。
そして松井章圭の弾劾裁判が行われたが
「館長不在の支部長会議は認めない」
という郷田勇三の抗議を受けて、翌10日、改めて松井章圭主席で会議が開かれた。
1995年3月31日、大山倍達の遺族の遺言書の無効と執行差し止め請求に対して、東京家庭裁判所は
1 証人の梅田嘉明が株式会社グレートマウンテンの代表取締役になっていて利害関係があること
2 遺言書で娘の名前が間違って表記されていること
3 智弥子夫人を遺言書作成から排除し」、死後数日たってから知らせたこと
という点から遺言書の無効を認めた。
(松井章圭は、異議が申し立て抗告)
1995年4月5日、東京八重洲口の国際観光ホテルにおいて三瓶啓二の呼びかけで再び全国支部長協議会が開かれた。
協議会は支部長全員ではなく各地域の代表が集まる会議である。
この会議の開催は、直前まで、松井章圭と彼を支持する支部長たちには知らされなかった。
出席していた支部長は全48支部中35名だった。
松井章圭が会場に入ると西田幸夫が聞いてきた。
「館長よろしいですか」
そして会議は始まった。
支部長協議会が議決権のある支部長会議にすり変わっていた。
「これから全国支部長会議を開催します。
動議のある方は挙手してください」
すかさず三瓶啓二が発言した。
「議長。
館長解任動議を提出いたします」
「ただいま館長解任動議が提出されました。
これに賛成の方はご起立願います」
30名の支部長が立ち上がった。
「これをもって、この動議は承認されました
この場で館長は解任されました」
「これはどういうことなんだ」
郷田雄三に問いに西田幸夫はいった。
「何も話すことはありません。
これが現実なんです」
すぐに賛成した支部長たちは会場から退出していった。
事前に行っていたリハーサル通りに・・・
柳渡聖人(岐阜支部長)は、松井章圭にいった。
「俺たちはお前の話し方も歩き方も嫌いなんだよ」
その後、反松井派は記者会見を開き、「館長解任の宣言文」を読み上げた。
そこでは
・「極真会館」の個人名義による登録商標など、松井章圭の組織の私物化
・松井章圭の独断専行
・不透明な会計処理
が挙げ、それに対する明確な回答を求めた。
松井章圭と松井支持の支部長たちは反松井派の記者会見をみずに総本部に戻っていたが、そこに反松井派の30名が押しかけてきた。
「決議に従って退去」
「館長を降りろ」
を迫り、極真の猛者たちはにらみ合った。
多勢に無勢だったが、やがて反松井派はぞろぞろ帰っていった。
1995年4月6日、メトロポリタンホテルで、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安、山田雅捻らが記者会見を開いた。
松井章圭は、前日、反松井派が発表した「館長解任の宣言文」についてコメントを求められると、以下のように答えた。
私物化については
「極真会館という商標は極真のトレードマークですよね。
あの商標権が全て私の個人名で登録されているという部分で支部長たちが不信感をおっしゃったようですけれども、実際、私の個人名による登記となっております。
とはいえ個人のものではありませんから、将来は(大山倍達が希望していた)公益法人ができれば速やかにそこに移します」
独断専行に関しては
「私が館長に就任してから10ヵ月間、私個人も仕事に100%間違いがなかったとは、断言できないかもしれません。
実際反省すべき点もあると思います。
ただ日々の組織運営上、全国の点在する支部長たちに逐一報告と承認を得ることが物理的に不可能であったことは歪めなかった。
このことは理解の範疇内であると思っています」
不明瞭な会計処理については
「極真会館がこれまできちんとした形で法人化されてこなかったために運営資金が会館の業務として使われていた分、また大山倍達個人の分、という形で預金が分けられていなかったりですね、いろんな形で重なっていた部分があったものですから、それは極真会館側も遺族側も当然困った部分ではあったんです。
けれどもそれに対して極真会館が活動する上での当座に必要な運営資金が足りない部分があったことを知った上での批判ではなかったのではないかといいたい」
またこの記者会見では「統括本部」というセクションが設けられたことが発表された。
統括本部長は、山田雅捻、副本部長は、浜井識安だった。
また震災によって、松井支持派、反松井派か、いずれに所属するか明らかではなかった中村誠が松井章圭支持を発表した。
世界大会2連覇、キング・オブ・キョクシンを敵に回すことになった反松井派の支部長は動揺した。
4月7日、再び反松井派が記者会見を開き、松井章圭の館長解任の正当性をアピールした。
前日の松井章圭の明確な回答に対して三瓶啓二は、
「要は信頼関係が失われたということ」
と述べた。
この時点で、松井支持派は12名、反松井派は35名。
分裂は海外にも波及し、世界各地で支部の取り合い、選手の引き抜きも行われた。
全日本大会、ウェイト制大会が松井支持派と反松井派で開催されるようになった。
ランチェスター作戦
統括本部長となった山田雅捻は、数で勝る反松井派への対策戦略として「ランチェスター理論」を説明した。
「第2次世界大戦のときにイギリス空軍がドイツ空軍と戦うときに編み出したのがランチェスター理論なんだけど、これが極真を出ていった連中との戦いに有効だと思う。
イギリスが20機でドイツ機10機と戦ったとすると、敵機を全滅させたときの損害は5機で済むという計画が成り立つという理論なんだ。
もし10機対10機で戦ったとすると戦闘機の性能やパイロットの技術に差があったとしても双方が全滅ということになりかねないというんだ。
つまり相手が1支部に5つの道場を持っているなら、極真会館は10の道場を、若い指導員を道場主に指名して開設するという戦略でいけば、反松井派の道場は脅威でなくなる」
以後、極真会館は、元支部長のテリトリー内に次々と道場を開設し若い指導者を送り込んだ。
「ランチェスター理論」は、イギリスの航空工学者F.W.ランチェスターが提唱した戦闘の法則だが、経済問題にもでも応用されている。
1970年代前半にオイルショックが起こり、日本はそれまでの高度経済成長期から一転して不況となった。
そのときそれまでのスピード勝負、体力勝負ではなく、科学的・論理的な経営戦略・営業戦略が求められた。
そして多くの企業は、ランチェスター理論を取り入れ、不況を乗りこえた。
今日でもランチェスター理論は、競争戦略・販売戦略のバイブルといわれている。
一方、反松井派は、松井支持か反松井かをハッキリさせない支部長を勧誘し、多数派工作を図った。
当初、反松井派は、松井章圭が会議を開かずに1人で決めていったことがあったり、公にすべきことをしなかったことで不信が募り、解任に手を挙げた。
「別に松井君に極真から去れ、と言っているのではないのです。
もう一度、支部長からやり直してこれまでのことを精算してほしいのです。」
(三瓶啓二)
「松井先輩、もう一度支部長からやり直しましょう!」
(緑健児)
「全国で半分以上の支部長たちが辞めてくれといっているんです。
だから松井先輩は辞めるべきです」
(増田章)
「いろんな意味で松井君は急ぎましたね。
松井君は館長に就任するなり5人の支部長を事実関係もあいまいなままいとも簡単に除名にしました。
大山総裁も、生前は何人かの支部長を破門、除名にしましたが、その際も何回も支部長会議を開き、除名にするのを最後の最後までためらったものですよ」
(松島良一(群馬支部長))
しかし
「許永中から数億円の援助金が出ている」
「(大山倍達が有名なヤクザである柳川次郎と義兄弟であったため)山口組がバックについている」
「(統一教会の代表者の姓が松井章圭の本名の同じ「文」だったため)統一教会が極真を乗っ取ろうとしている」
などというデマや
「日本人だけで極真やろうぜ」
などひどい言葉もあった。
また人事や既得権を巡って争いが起こったり、松井章圭が行い、反対していた「門下生を一元管理する会員システム」を導入するなど組織は混迷した。
「いっていることが支離滅裂で何を信じていいのかわからない」
「いっていることとやってることが全然違う」
「彼らは単に松井嫌いで固まっているだけ」
など反松井派を見切って、松井章圭の極真会館に戻る支部長も出てきた。
しかし松井章圭から勧誘を行うことはなかった。
「自分はどうしたらいいでしょうか」
と相談されても
「君の考えた通りにすればいい」
と答えた。
(大義はこちらにある。
甘い言葉や復帰の条件などで釣っても裏切る人間はまた裏切る。
去る者は追わず、戻ってくる者は拒まずという方針は崩さない)
1995年5月、全ヨーロッパ大会の会場が開かれた。
三瓶啓二や緑健児、増田章、七戸康博、西田幸夫など反松井派はビラをまいたり支部長たちと会合を行った。
大会翌日に行われた全ヨーロッパ支部長会議に参加を要請された松井章圭は
「まずはヨーロッパの支部長同士で態度を決めるべき」
と参加を保留。
国際委員会ヨーロッパ委員のルック・ホランダーは
「まず松井館長が日本の状況を説明すべき」
と会議の開催前に松井章圭に発言を場を設けた。
松井章圭の説明を聞いた多くの支部長が支持を表明し、ルック・ホランダーは
「我々は松井館長を支持していくことにしたい」
といって会議をスタートさせた。
松井章圭が退場すると、反松井派が会場に入っていった。
しかしルック・ホランダーは
「あなたたちの参加は認めない」
と追い返した。
一見、複雑な、あるいは醜い、極真の分裂騒動だが、郷田勇三のいうように、その原因はシンプルなのかもしれない。
「分裂は俺が2代目を継いだとしても避けられない事態だった。
それは大山総裁の代わりは絶対にいないからだ。
だから分裂は松井館長に2代目としての器量がなかったからじゃない。
誰が継いでもこうなったんだ」