松井章圭 極真の継承者

松井章圭 極真の継承者

世界大会でアンディ・フグに勝って優勝した後、選手を引退。 やがて大山倍達とケンカ別れして極真を飛び出した。 ‘‘イトマン事件‘‘を起こした許永中、``政界最後のフィクサー``と呼ばれた福本邦雄のもとで働き、3年後、復帰。 大山倍達の死後、極真会館の2代目館長に指名されるも、先輩や後輩である支部長たちと内紛が起こり、極真は分裂した。 一見、クールだが1番ガンコな松井章圭館長は、自らの信じる方向に進み、道を拓いていった。


大山倍達とケンカ別れ

「もう試合はしません」
第4回世界大会の後、しばらくして大山倍達に「選手引退」を申し出た。
「わかった。
しかし来年の全日本大会までは公表しないように」
(よし、第20回全日本大会までは、お世話になった極真へのお礼奉公の意味で総本部指導員をやりとげよう。)

選手引退を決めたのには、いくつか理由があった。
第4回世界大会で優勝した後、連日、松井章圭は、後援者や知人と華やかな夜の街に繰り出した。
しかし遊んでいるときは楽しいのだが、帰り道には虚しさしかなかった。
憧れつづけた地上最強の極真空手。
その極真空手の中でも最強の男になったはずなのに、社会では全然ちっぽけな存在だった。
(一人前の男として社会に通用する強さを身につけるためには空手の世界だけで生きていてはいけない)
「幸吟はお前にあげるから早く連れていきなさい」
そう恋人の母親である任福順から結婚をすすめられても、将来の進路が決まっていない松井章圭は受けることはできなかった。
やがて適齢期の娘の将来を思う任福順は縁談話を受けるようになった。
幸吟は、この見合いだけでなく、それまで親のいうことに逆らったことはなかった。
松井章圭はヤキモキしながら見守るしかなかった。
やがて幸吟から
「縁談が決まりました」
といわれた松井章圭は、幸吟にお金を渡して命じた。
「これで婚約を破棄してこい」
お金は見合い相手の男性のための慰謝料だった。
24歳の松井章圭は、空手家として生涯を全うするつもりだったし総本部指導員の給料にも不満はなかったが、社会人として一歩を踏み出したかった。
第20回全日本大会は、増田章が4回戦、黒澤浩樹が3回戦で負け、桑島保浩が優勝した。
大会後、大山倍達は松井章圭にいった。
「なぜ君は全日本大会に出なかったんだ?
これから全日本3連覇や世界大会2連覇もできたはずじゃないか」
暗に引退撤回を迫ってきた。
こうして予定の「お礼奉公」の期限は過ぎても、松井章圭は空虚な総本部指導員暮らしを続けた。

大山倍達は、松井章圭にブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイなど南米各国の支部を回り指導を行うように命じた。
松井章圭は、日本語で号令をかけ稽古を行い、模範演技を示し、次々とくる相手と組手をした。
このときのブラジル支部には、17歳のフランシスコ・フィリョがいた。
第7回世界大会で優勝し、初の外国人チャンピオンとなる男である。
南米から帰国後、総本部の指導員に戻った松井章圭は、ある日、大山倍達は呼ばれた。
「君は将来、私の右腕として極真空手の普及のためにアメリカと韓国、日本を行き来しながら活躍してほしい」
母国の文化や風習を勉強したかった松井章圭は喜んでいった。
「それならぜひ韓国へ行かせてください」
「よし、韓国へ行かせよう」
「いつ頃行かせていただけますか」
「そうだね。
来年の春ごろ行きなさい」
こうして韓国支部創設の話が決まり、目標に飢えていた松井章圭の精神は久しぶりに満たされた。
その後、大山倍達は、松井章圭の渡韓に向けて準備を始めたが、韓国にいた後援者が難色を示した。
まだ韓国に極真空手の道場はなく、大山倍達の期待のかかる松井章圭を受け入れられる環境ではないというのだ。
1988年4月、約束の春を過ぎても、大山倍達から韓国行きの話は出なかった。
6月になり意を決した松井章圭は大山倍達のいる部屋へ飛び込んだ。
「韓国へはいつ行かせてもらえるのでしょうか」
「君を他の道場へやるわけにはいかないんだよ。
君は総本部で指導していなさい
いま君を韓国へ行かせるわけにはいかないんだ」
「わかりました」
松井章圭は部屋を飛び出し、そのまま総本部指導員を退職した。

許永中

極真会館を飛び出した松井章圭は、許永中(ホ・ヨンジュン、きょ えいちゅう)の側近から相談を受けた。
「極真にうちで働けるまじめで若い、いい子はいないかな?」
「そのお話、私ではダメでしょうか?」
側近からその話を聞いた許永中は
「それが1番の理想」
と喜んだ。
42歳の許永中は、神戸と釜山を往復する大阪国際フェリー、テレビ局、新聞社、銀行、産廃処理、ホテル、老人ホーム、芸能プロ、ゴルフ場、建設業、不動産業、旅行代理店、貴金属卸、警備保障会社、飲食業など74社を束ねるコスモタイガーコーポレーション(CTC)の会長で、多くの在日同胞の子弟を雇っていた。
また許永中は、極真会館の関西本部会長でもあり、自分の子供を極真空手に入門させ、持ちビルを道場のために提供していた。
第4回世界大会の直後、初めて松井章圭に出会った許永中は、その爽やかなナイスガイぶりに在日コリアン社会の若きエース格と考え期待していた。
松井章圭は帝国ホテルにあったCTCの事務所で許永中と面談した。
許永中は、スキンヘッドに眼鏡、180cm100kgという巨漢だった。
眼鏡は、若い頃、敵対していた暴力団組織との抗争に巻き込まれ失明寸前の大ケガを負わされ視力が低下してしまったためのものだった。
「わしは9時5時のサラリーマンを雇うつもりはない」
「はい」
こうして松井章圭はCTCに就職した。
そしてワインの輸入販売会社で、営業、運搬、在庫管理、原価計算など貿易の仕事をした。

福本邦雄

1989年6月、許永中は、KBS京都(京都放送)の2000株(合計10億円)に対し、第3者割当増資
(会社の資金調達方法の1つ。
株主であるか否かを問わず特定の第3者に新株を引き受ける権利を与えて行う増資のこと。
株式を引き受ける申し込みをした者に対して、新株もしくは会社が処分する自己株式が割り当てられる。)
を行い、資本金を10億円から20億円に倍増させた。
そして株主総会で、19人と定められていた役員を26人の増やし、自らの息のかかった人物を経営陣へ送り込んだ。
京都新聞グループ(京都新聞、KBS京都など)の創業3代目社長だった白石英司が急死後、不動産投資の失敗による多額の債務が発覚。
また新社長となった内田和隆に創業者未亡人である白石浩子が反発したことで内紛が勃発。
この内紛に介入し、経営再建に乗り出したのが許永中だった。
内田和隆を副社長に降格させ、新社長には、画商の福本邦雄を就任させた。
そして松井章圭に
「福本邦雄という人物のところで勉強してみないか」
と勧めた。
松井章圭に
(実社会における100人組手をぶっつけ本番で挑戦させよう)
という意図だった。

福本邦雄の父親の福本和夫は、 共産党の理論的指導者だった。
1928年に、3・15事件で入獄。
14年間獄中で生活し、出獄後は執筆活動に専念した。
福本邦雄も、東京大学時代に共産党に入党するが、党内対立で除名となった。
卒業後、産業経済新聞に入社。
岸信介総理大臣と椎名悦三郎官房長官が、水野成夫(産業経済新聞社)社長に、福本邦雄を出向させて欲しいと要請。
福本邦雄は、官房長官秘書官(1959年6月~1960年7月)、自民党政調会長秘書役(1960年7月~同年12月)、通産大臣秘書官(1960年12月~1961年7月)を務め政界に人脈を築いた。
政党の資金関係を担当していたため新聞社に戻れず、PRエージェント会社「フジ・コンサルタント」、画廊「フジ・インターナショナル・アート」、「フジ出版社」を創業した。
企業が画商から絵を数点購入し、画商は領収証を発行して企業に納入するが、うち数点を秘かに政治家に渡す。
政治家は必要に応じて絵を売って政治資金を捻出する。
バブルの頃、福本邦雄は「名画」を政治家や官僚にバラまいた。
後に発覚するイトマン事件で、許永中は自身が保有していた絵画など676億円をイトマンに購入させたが、その多くは福本邦雄の画廊から出たものだった。
福本邦雄は、KBSを正常化し、京都新聞に合併させる構想を抱いて動き出したが、許永中がダイエーファイナンスから自身のゴルフ開発会社に146億円の融資を受けた際、KBS社屋や土地、さらには放送機材まで放送局まるごと担保に設定したことが発覚。
1989年、KBSはダイエーファイナンスから競売申請を受ける。

松井章圭が初めて福本邦雄の事務所に出社すると、事務員の女性に
「あなたね。
ここじゃ空手のチャンピオンだろうが関係ないのよ。
私のほうが先輩なんだからね」
と釘を刺された。
かかってきた電話への対応でも
「大声はダメ」
「もっと丁寧に」
「まず『お世話になってます』っていってから」
細かく指導を受けた。
極真会館では元気よく対応すればよかった。
事務所には大臣クラスの代議士や事務次官クラスの官僚、大企業の経営者らが頻繁に出入りしていて、挨拶の仕方を教わった。
また絵の運搬や、福本茂雄の身の回りの雑用も行い、KBSのある京都にも同行した。
福本茂雄は執筆活動もしており、資料集めのために国会図書館や書店をを駆け回った。
また福本邦雄と共にクライアントを見送りに事務所を出たとき、松井章圭は車に乗り込むクライアントに会釈した。
頭を上げてふと横をみると福本邦雄は、まだ深々と頭を下げたままだったので、あわててそれに倣った。
ある日、クライアントと福本邦雄とステーキハウスを訪れたとき、それぞれ好みの量を注文した。
松井章圭はステーキなら2㎏は平気だったが、遠慮して400gにし、瞬く間に料理を平らげた。
そして帰りの車中で福本邦雄に怒られた。
「お前は常識のない奴だな
お前のための食事会じゃないんだぞ」
大山倍達なら、たくさんの量を食べれば食べるほど喜んでもらえた。
これまでとあまりに違う環境に、3ヵ月たっても失敗を重ね、自己嫌悪に陥り、やる気も低下していた。
ある日、福本邦雄に呼ばれ、
「はあーい」
と気のない返事をすると冷ややかにいわれた。
「お前さん、もう辞めるのかい」
松井章圭は凍りついた。
(このままでは落伍者の烙印を押されてしまう。
極真世界王者の実績はなかったものとして、謙虚に、そして貧欲に社会人としての生き方を、白帯から始めなければならない)
一瞬で我に返った松井章圭は
「すみませんでした。
姿勢を改めて頑張りますのでここに置いてください」
福本邦雄の個性は半端なものではなく常人なら1ヵ月も辛抱できるものではなかったが、松井章圭は、一切泣き言を、苦情をいわなかった。
なかなか人をほめることにない福本邦雄だったが、松井章圭は別格扱いで、事務所に出入りする代議士も松井章圭によい評価をした。
松井章圭は、福本邦雄事務所で働くことで、日本の政官財のトップたちを直接観察することができた。
そこには日本の権力の縮図があった。

3年ぶりに極真復帰

1990年12月、第22回全日本大会は増田章が緑健児から上段回し蹴りで技ありを奪って優勝した。
松井章圭は真っ先にかけより増田章を祝福した。
同年5月、増田章は100人組手を達成したが、そのセコンドには松井章圭がいた。
このとき
「11月に開催される第5回世界大会で演武と大会中継のテレビ解説をするように」
という大山倍達からの命が伝えられた。
それまで
「本業を定めた以上、大会という華やかな場に立つことは控えるのが筋」
と固辞し続けていたが、思い悩んだ末、引き受けることにした松井章圭は3年前に飛び出した部屋を訪ねた。
「元気そうだな」
大山倍達は笑顔で迎えた。
実質的には、これで松井章圭の極真復帰が決まった。

1991年元日、朝日新聞が
「西武百貨店→関西新聞→イトマン 転売で二十五億円高騰」
「絵画取引十二点の実態判明、差額はどこへ流れた?」
との大見出しで、絵画取引の不正疑惑をスクープ。
1991年7月23日、大阪地方検察庁特別捜査部は、総合商社イトマンを利用して絵画やゴルフ場開発などの不正経理を行った許永中を特別背任の疑いで逮捕した。
約3000億円が闇に消えた戦後最大の経済不正経理事件、「イトマン事件」である。
松井章圭は、極真復帰の事情をしたためた手紙を許永中のいる拘置所へ送った。
許永中は、松井章圭の休職を許可し、励ましの手紙を送った。
約1年半、仕えた福本邦雄からも
「君には厳しく当たったけど、まあよく辛抱した。
これからも頑張んなさいよ」
という言葉と餞別があった。

本部直轄浅草道場

1991年11月、第5回世界大会で、大山倍達は型の演武を、そして松井章圭も試割りを演武を行った。
優勝は、緑健児。
2位は、増田章。
3位は、黒澤浩樹だった。
この頃から松井章圭は、空手を追求する場としてはもちろん、強い弟子を養成するためにも、自分の道場を持ちたいと思い始めた。
だが極真会館は全国に支部と支部長を置いて、各支部は独自で分支部を開いていった。
その結果、全国にネットワークが広がっていて新参者が入り込む隙間はなかった。
松井章圭は、浅草交差点近くのビルにいい物件を見つけ、この地区、城東支部の支部長である郷田勇三に相談した。
「もし総裁(大山倍達)が自分の道場回折を却下したら極真を辞めようと思っています」
郷田勇三は、
「お前の好きな場所で道場を開けばいい。
そこが他の支部長のテリトリーでもオレが話をつける」
といい、大山倍達も説得した。
大山倍達は、松井章圭を呼び出した。
「郷田師範の配慮もありまして、浅草に道場を出します。
ついてはその許可をもらいたいのですが・・・」
「君は世界チャンピオンにもなった男だろう。
どこに道場を出しても構わないが、総本部のダイレクトスクール(直轄道場)として出しなさい。
もう1つ、週2回の黒帯研究会は、君が来て指導しなさい」

29歳にして自分の道場を持つことができた松井章圭は、8年間の交際の末に、ついにプロポーズした。
幸吟に婚約を破棄させ、1人前の男になろうと極真を飛び出し、許永中や福本邦雄のもとで悪戦苦闘して社会勉強した松井章圭だったが、皮肉にもこの間、2人はたまにしか会っていなかった。
松井章圭は母親の任福順の前で両手をついた。
「幸吟を私のお嫁さんにください」
そして幸吟に告白した。
「ずいぶん時間がたってしまったけど僕と結婚してください」
「あなたとは結婚しない」
驚いた松井章圭は、経緯を説明したが、幸吟は
「結婚するといっていながらしなかった」
といった。
神戸に移ってからも縁談話は次々に持ち込まれていた。
松井章圭は、歯の浮くような言葉を連発し、幸吟に
「うん」
とうなずかせるまで3時間かかった。
「一生かけて幸せにするよ」
そういいながら
(恋愛も試合も相手の意思を最大限に尊重して技をかけないといけない。
恋愛と試合は似ている)
と悟った空手バカだった。
1992年12月、松井章圭と幸吟は結婚披露宴が行った。
華やかな式の中で祝辞を行った大山倍達の声には、なぜか怒気が含まれていた。
「君は私のいうことを絶対に聞こうとしない。
君は引退してはいけなかったんだ。
私のいうように4連覇を目指すべきだったんだ。
そして不滅の王者として我が極真に君臨すべきだったのだ。
同乗なんか開くべきではなかった。
総本部にいて指導を続けることが将来の君のためであったのだ。
君は私のいうことを聞かない。
君の欠点は頭が良すぎることだ。
時にはガムシャラになってやらなくてはいけないときもある
何かを犠牲にしてでも突き進まなければならないときもあるんだ」
その言葉を松井章圭は直立不動で聞いた。
(もう2度と総裁に逆らうようなことはしない)
傍らには生まれたばかりの長女を抱いた幸吟がいた。
松井章圭は、昼は五反田の金融会社に勤め、夜は道場で指導を行った。
会社勤めで得た給料で家族を養い、道場の収入はその維持と設備投資に回した。

アンディ・フグが原因で極真と正道が絶縁

松井章圭の結婚式の少し前、突如、アンディ・フグが正道会館の試合に出場した。
第5回世界大会においてアンディ・フグは、故意ではないが反則じみたフランシスコ・フィリョの蹴りと、スポーツ的にはアンフェアな超武道的大山(倍達の)裁定により、人生初の失神KO負けを喫した。
大会終了後、28歳のアンディ・フグは、同棲中のイロナとの結婚や、友人と共同経営していたスポーツショップ「Sports Freaks」の業績悪化など、いろいろな問題を抱えながらプロのファイターの道を模索した。
アンディ・フグがプロのファイターになりたがっているのを知った石井和義(正道会館館長)は、1992年7月、「格闘技オリンピックⅡ」で柳澤恥行と対戦させた。
そしてアンディ・フグは踵落としで圧倒。
プロデビュー戦を勝利で飾った。
このアンディ・フグの正道会館への参戦に大山倍達は激怒。
正道会館に対して絶縁状を通達。
このことを記事にして正道会館のエースである佐竹雅昭と松井章圭を並べて表紙にした雑誌「格闘技通信」の取材も拒否した。
格闘技通信の取材拒否は1年間で解かれたが、極真会館と正道会館の絶縁関係は大山倍達が死去するまで続いた。
松井章圭が2代目の極真会館館長となった後、極真会館と正道会館との関係が修復され、K-1のリングに極真の選手が上がった。

極真の後継者の条件

1992年4月、松井章圭は大山倍達に呼ばれた。
「実は君に重要な仕事をやってもらいたい。
やれるか」
「押忍。
総裁のおっしゃることならなんでもやります」
「新会館建設のための第2次建設委員会を組織したい。
ついては君が委員長をやってくれ。
君が中心になって、増田、黒澤、緑といった若い人たちの協力を得ながら強力に推進してほしいんだ
古い支部長たちにはもう任せておけない」
それは手狭になった極真会館総本部に隣接する土地を買い上げ新会館を建設するという計画だった。
以前に第1次委員会が発足されたが、多くの支部長が再三の建設資金の拠出要請に難色を示し、事実上休眠状態になっていた。
「この仕事は全国の支部長たちを敵に回す仕事なんだ。
君が泥をかぶることになる。
どうだ、できるかね」
「総裁がいわれるのならなんでもやります」
松井章圭は、即座に答えハラを決めた。
(極真あっての、大山総裁あっての自分だ。
支部長たちにどう思われようとかまわない)
1993年8月、大山倍達は臨時の全国支部長会議を招集し、第2次新会館建設委員会の委員長に末端の支部長に過ぎない松井章圭を指名した。
各支部は入門者数や門下生の数を総本部に申告していた。
しかし中には門下生の数を少なく申告する支部や、昇級昇段を総本部に登録しない支部、内緒で黒帯を販売している支部さえあった。
資金の拠出を迫ると
「要は弟子から金を搾り取ろうということだ」
という支部長もいた。
この惨状を把握した第2次委員会は、門下生をコンピューターで一元管理する方針を盛り込んだ改革案を大山倍達に提出し承認された。
このときから松井章圭に対する嫉妬や憎悪という悪い感情が、一部の先輩支部長たちの中で起こり始めたと思われる。

1993年3月、松井章圭は5段への昇段試験で、50人組手を達成。
この年に行われた支部長会議で大山倍達は54人の支部長に向かっていった。
大山倍達に向かって最前列の左端に三瓶啓二(福島県支部長、全日本大会3連覇)、右端に郷田勇三。
2列目に中村誠(兵庫県支部長、世界大会2連覇)、山田雅捻(城西支部長、大西靖人、黒澤浩樹などの師)、浜井識安(増田章の師)。
松井章圭は最後列に座っていた。
「昔は極真不毛の地に城を築いてやろうという覇気があった。
他流歯を潰してでもやってやるという人間ばかりだった。
でももうみんな金持ちになって闘争しようとしない。
金持ちはケンカしないものだよ。
腹の減ったやつが闘争するんだよ。
みんなちょっと太りすぎた気がする。
私の亡き後は大山倍達の栄光に君たちは生きることはできないんだよ。
私が亡きものになるとみんなはきっとバラバラになる気がしています」
さらに大山倍達は後継者についてこう述べた。
「後継者については軽々しくいえないけれど、海外、国内を通じて誰もがこの人が後継ぎならいいよと認める形で指名したい。
だがこれは10年後、20年後のことだからまだ心配はいらない。
それより今日の格闘技ブームで君たちがやることは、極真は地上最強であることを誇示してもらいたい。
これは私が亡き後でも永遠にやり続けなければならない君たちの宿命だよ。
私は100歳まで生きるよ。
今の極真は大改革が必要だからね。
だから後継者の心配はまだする必要などない。
ただね、極真の2代目はまず強くなければダメだ。
全日本大会連覇と世界大会制覇、そして100人組手の完遂者で、しかも若い人。
できれば30代前半の人に継がせたい。
甥は人を醜く保守的にさせるものだからね」
世界大会2連覇の中村誠は100人組手完遂が、全日本大会3連覇の三瓶啓二は世界大会制覇と100人組手完遂ができていなかった。

大山倍達には後継者について3つのプランがあった。

1 郷田勇三か盧山初雄、大山道場時代からの高弟に2代目を継がせてから、3代目を中村誠か松井章圭にする。
2 中村誠を2代目にする。
3 松井章圭を2代目にする。

そして実際に郷田勇三、盧山初雄、中村誠を呼び寄せて見定めようとした。
郷田勇三と盧山初雄は
「歳を取りすぎている。
もっと若くないと波乱の格闘技界を新しい発想で乗り切れない」
中村誠には
「世界2連覇という大偉業を達成した君の極真への貢献度は抜群である。
しかし2代目は松井に決める。
君か松井かで最後まで悩んだが酒の上での失敗が君にはある。
それに松井の若さが今の極真には必要なんだ」
と告げた。
中村誠は応えた。
「押忍。
わかりました」
酒の上での失敗とは、居酒屋でケンカを売ってきた数名のヤクザを血祭りにあげ全国ニュースで報道されたことである。

遺言書作成

1994年3月15日、若獅子寮の第22期生卒寮式で、大山倍達は祝辞を述べた。
公に姿を現したのは、これが最後となった。
3月17日、聖路加国際病院に緊急入院。
3月22日、病院側の制止を振り切り退院し総本部内の自室で静養。
4月15日の若獅子寮の第25期生入寮式には出られず、この日の夜、再び聖路加国際病院に入院した。
そのとき大山倍達はいった。
「一部の側近と松井章圭以外は、家族といえども見舞うことは許さない」
急遽、大山倍達の名代としてネパールで開催される第6回アジア大会に行くことになった松井章圭は、その報告を兼ねてお見舞いに訪れた。
そして別れ際
「元気でね」
そう大山倍達にいわれ胸騒ぎがした。
大山倍達は肺ガンだった。
松井章圭はそれを知っていたが、大山倍達には最後まで告知されなかった。
そしてベッドでの排泄を拒否し、内弟子の肩につかまりながらトイレに通った。
担当医は大山倍達の寿命を
「あとわずか」
と診ていた。

大山倍達の病床に詰めていた男は、身の回りの世話をする内弟子を除いて5人いた。

1 東邦大学医学部入学と同時に同大空手部に入部し、極真空手一筋の道を歩み始め、全日本大会ではドクターを務める元極真会館相談役で横浜東邦病院院長の梅田嘉明
2 極真会館相談役で、大山倍達が義兄弟の契りを交わした柳川次郎(殺しの軍団と呼ばれた柳川組の初代組長)の舎弟、グリコ森永事件の主犯と疑われたことのある黒澤明(黒澤組組長)
3 世界大会で松井章圭と対戦した後、引退し、不動産会社や警備会社を経営し、岸和田市議、新進党大阪府第18総支部会長、新進党大阪府連常任幹事を務めた大西靖人
4 大西靖人の城西支部の後輩であり、資生堂の社長秘書をし、大山倍達の私設秘書も務めていた米津等史
5 米津等史の父親で弁護士の米津稜威雄

4月24~25日、2日間かけて、大山倍達自身の意向で危急遺言
(いますぐに遺言書を作成しないと遺言者の生命が失われてしまう場合など緊急事態に使われる遺言書。
緊急時に一般の人が対応できないことや、対応方法を知っている人間がいても、妻や子供など利害関係者を除き、証人となりうる人間が3名必要なため、危急時遺言は使用事例が少ない)
が作成された。

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遺言者大山倍達は、平成6年4月19日聖路加病院971号室において、証人米津稜威雄、同梅田嘉明、同黒澤明、同大西靖人、同米津等史立ち合いの下に、証人米津稜威雄に対し次のとおり遺言を口述し、米津稜威雄はこれを筆記した。

一 遺言者死亡のときは次の通りにすること。

1 極真会館、国際空手道連盟を一体として財団法人化を図ること。
2 梅田嘉明は、財団法人極真奨学会理事長、株式会社グレートマウンテン(新会館建設のため現会館の隣の土地を買うために設立された新会社)社長を勤めて欲しい。
3 極真会館国際空手道連盟の大山倍達の後継者を、松井章圭と定める。世界各国、日本国内の本部直轄道場責任者、各支部長、各分支部長は、これに賛同し協力すること。
4 松井章圭は、極真会館新会館建設の第2次建設委員会長として新会館を設立すること。
5 梅田嘉明は、極真会館国際空手道連盟、財団法人極真奨学会、株式会社グレートマウンテン、有限会社パワー空手等、極真空手道関連事業を監督し、松井章圭の後見役として勤めて欲しい。黒澤明は、梅田嘉明を補佐し協力して欲しい。米津稜威雄、長嶋憲一(極真会館相談役、弁護士)もこれに協力して欲しい。
6 池袋の極真会館の土地建物は、新会館の土地を含めて、極真会館国際空手道連盟に寄贈する。これらに対する出費等も同じ。これらは極真空手道のためのみに使用すること。これらの手続きは、米津稜威雄において執って欲しい。
7 妻智弥子と三女喜久子には、石神井の土地家屋を持分平等の割合で与える。
右土地家屋には建築ローンが残存しているので、これを極真側で責任をもって支払って欲しい。千葉御宿の土地、大山倍達個人の預金、現金は智弥子に与える。なお智弥子に対しては、極真側で毎月100万円またはこれに相当する金額を支払って生涯面倒をみて欲しい。
8 「パワー空手」は、極真空手道の機関紙であって欲しい。機関誌として存続する限り、三女喜久子に毎月100万円宛支払って欲しい。


二 遺言執行者を次のとおり定める。


遺言執行者 弁護士 米津稜威雄


米津稜威雄は、右筆記事項を遺言者および証人梅田嘉明、同黒澤明、同大西靖人、同米津等史に読み聞かせ、右各証人はその筆記の正確なことを承認し、次に署名押印した。

筆記者 証人 米津稜威雄 ㊞
証人 梅田嘉明 ㊞
証人 黒澤明 ㊞
証人 大西靖人 ㊞
証人 米津等史 ㊞

『遺言書(追記)』

遺言者 大山倍達

一 韓国ソウル特別市在住の・・・・、・・・・、・・・・(ソウルにいる妻子、住所)には、極真側で各金1500万円を支払って欲しい。
一 北海道在住の・・・・(女性の名前)には、極真側で金1000万円を支払って欲しい。

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このように大山倍達は、後継者に松井章圭を指名した。
遺言書は全14項目。
1~5項までは、極真会館・国際空手道連盟と関連法人と会社の運営についての指示。
6~12項は、遺族に対するケア。
13、14項には、追記という形式で北海道と韓国にいる愛人と子供に対するケアについて記されていた。

大山倍達の死

1994年4月26日8時、大山倍達は肺ガンによる呼吸不全のために70歳で永眠した。
同時刻、松井章圭は予定を早めてネパールから帰国し、空港にいた。
東京の妻と3名の娘も死に目に会えなかった。
大山倍達という空手家の歩んだ人生は、あまりに波瀾万丈だった。
超人的な空手技を身につけ、牛を素手で撲殺。
アメリカを皮切りに世界各国を放浪し、行く先々でボクサー、レスラー、拳法家と対戦し、そのことごとくを撃破。
帰国後に実戦空手の極真会館を設立。
その門弟数は全世界で累積1200万人を数えるに至った。
1994年4月27日、総本部で行われた密葬が行われた。
出棺の際、梅田嘉明から大山倍達が後継者に松井章圭したことを発表された。
その突然の発表を、松井章圭は、参列者1500名と共に直立不動で聞いた。
同夜行われた緊急全国支部長会議では、遺言書の基づく松井章圭の後継者承認を巡って紛糾のうちに流会した。
1994年5月10日、支部長会議において、松井章圭の2代目館長就任が正式に確認された。
しかしこの後も、松井章圭館長就任に納得できない面々は、それぞれ会合を持ち続けた。

分裂騒動勃発

1994年6月20日、大山倍達の次女の恵喜と三女の喜久子が極真会館総本部で記者会見を開いた。
「遺言は代筆による不完全なものであり、大山倍達自身の署名も捺印もなければ、口述を録音したテープもない。
その上、遺言の作成遇程にあまりに不明な点が多く、偽造の可能佳が高い。
よってその遺言書に記されてる松井章圭氏を、自分たちは後継として認める事は出来ない」
「自分たちは大山倍達の死因そのものにも大きな懐疑を抱いている」
と訴えた。
そして遺言書の無効と執行差し止め請求を東京地裁に提訴することを発表した。
ショッキングな会見は、テレビ、新聞、雑誌などで報道され、新体制の極真会鎗と大山倍達の遺族との間に確執があることが露見した。
大山倍達遺言書の存在は、死去した当日、遺言書を管理してた梅田嘉明によって明らかにされた。
それまで智弥子未亡人は、遺言書の内容は疎か、存在さえも知らされなかった。
「私は毎日主人の看病に行ってましたが、遺言書の事なんかひと言も聞いてません。
主人が死んだ日、記者会見で発表があったが、じゃあ私だけが知らされていなかった事になりますよね」
夫を失い傷心の智弥子未亡人を慮ってのことかも知れないが、これも遺族が遺言書に対する疑念を深める原因となった。
また遺言書には、大山倍達の韓国と北海道に愛人と子供がいることが明らかになっているが、智弥子未亡人は、それを受け容れていた。
「会館の皆さんはその事に気遣って 私に遺言書を見せなかったとおっしゃるんですよ。
でも私が今更ヤキモチを焼くような歳ですか。
五十年近く連れ添って、外に子供がいることくらい何の不思議もない人だったことは私が一番知ってますよ」


遺族側が疑念を抱いたのは、その内容と作成過程だった。
遺言書は大山倍達が死去する一週間前、5人の証人立ち会いで大山倍達が口述し、極真会館相談役で弁護士の米津稜威雄氏が筆記したものである。
遺言書の最後に、5人の証人の署名捺印があるが、大山倍達本人の署名捺印はない。
証人の中の1人、黒澤明が元黒澤組組長だったため、騒動の裏に暴力団関係者が暗躍してるという疑いもあった。
また遺族は調査によって、遺言書の中にも出てくる「財団法人極真奨学会」が、昨年、大山倍達自身の手によって消滅させられていたことがわかったという。
極真奨学会とは、全日本大会などの入賞者に賞金を出したり、本部道場に住み込みで空手の修行をする内弟子の育成に関する業務を行なうために設立された財団法人。
「毎年何万円かを役所に払えばいいだけなのに、どういうわけか父はその支払いを3年ほど前から行なっていなかったんです。
支払いの命令書が何度も来ていて父も知っていたはずなんですが、なぜかそれをずっと無視していたんです。
それで去年、とうとう財団法人極真奨学会は消滅してしまったんです。
これは松井さんはもちろん、極真奨学会の理事長をしていた梅田先生も知らなかったことです。
というよりも極真会館の中でこのことを知っていたのは、おそらく父本人だけだったんじゃないでしょうか」
(恵喜)
大山倍達自身の手によって消滅させられた財団法人極真奨学会が、大山倍達自身の口述のもとに筆記されたという遺言書に出ているのはおかしいというのである。
遺言書では、智弥子未亡人、長女の留壱琴、二女の恵喜、三女の喜久子に対し、毎月それぞれ100万円支払われる。
石神井の自宅、御宿の土地、湯河原の別荘など不動産も未亡人と娘たちが相続。
極真会館へ寄贈が指示されてる本部道場の土地と建物は相続税を考慮すれば、遺族にとって不利とはいえない。
「文面の通りにお金をいただけるんなら、こんなありがたい遺言書はない。
母はともかく、私たちは働く事が出来ます。
本部道場の建物と土地にしても、確かに遺言書通り極真会館に寄付した方が、金銭的に有利な事もわかってる。
不満なのは、お金のことではない。
遺言書がインチキで、作成に関わった人と、それに動いてる人たちが許せないといってるんです。
とにかく松井さんたちとは一緒にやっていくつもりはありません。
遺言書の偽造を一日も早く証明して、あの人たちには本部道場から出ていってもらいたいんです。
建物の相続税がかかるならば、石神井の家を売ってでもそれを払って、父が建てたあの建物を守りたいと思っています。
とにかく、あの人たちに父が残したものをこれ以上好きにされるのは、絶対に許せないんです」
(恵喜)

1994年6月23日、松井章圭は出席しなかったが極真会館側が記者会見を行い、新体制の発表と遺族の記者会見に対する見解を述べた。
「組織としては松井新体制で固まり、分裂する事はあり得ない。
記者会見を行なった娘さんたちに関しては、故人が死去した時、アメリカ在住だった事もあって、コミュニケーションが十分に取れず、その為に誤解が生じてるが、我々が誠意を尽くして理解して貰うしかない。
遺言状については現在家裁で審査中であり、有効か無効かは裁判所が決める事である。
我々は大山家と対立する意思は全くなく、天皇家のような存在として、ずっと大事にしていきたいと考えてる。
ただし、今回の件、遺族を焚きつけた一部の支部長がおり、その人間に対し厳重処分を考えてる」
1994年6月26日、大山倍達が死んで2ヵ月が過ぎ、青山葬儀所で本葬が行われ、雨に打たれながら6000人の弔問客が訪れた。
その中には新日本プロレスの坂口征二社長、リングスの前田日明、シュートボクシングのシーザー武志、USA大山カラテの大山茂と泰彦兄弟、正道塾の中村忠、佐藤塾の佐藤勝昭、大道塾の東孝、正道会館の石井和義などもいた。
松井章圭は弔辞のとき「館長」ではなく
「葬儀委員長、松井章圭本部師範」
と呼ばれた。
遺影の中の大山倍達は、空手着を着て10段を示す10本の線が入った黒帯を握りしめていた。
しかしその遺骨は三女の喜久子が葬儀の途中で持ち出したため祭壇にはなかった。
その頃、大山倍達の次女の恵喜と三女の喜久子は、記者会見でマスコミに配布したビラを参列者にも配っていた。
大山倍達の遺骨は、恵喜の肩にかけられていた。
そして2人を100名以上の屈強な門下生が取り囲んだ。
マスコミとの接触を封じ、弔問客から隠すのが目的だったかもしれないが、よりショッキングなシーンとなってスポーツ紙に報道された。
日を追うごとに遺族の松井章圭に対する不信は深まり、21歳になったばかりの三女の喜久子はいった。
「最近、毎晩のように夢をみるんですよ。
松井さんたちを絞め殺す夢を。
こんなに人のことを憎んだのは、生まれて初めてです」

西田幸夫

葬儀の夜、世界支部長会議が開かれ、まず松井章圭の2代目就任が確認され、相談役の黒澤明は起立して松井章圭への敬意を表し、全員がそれに続いた。
しかしその後、支部長会議議長の西田幸夫は、まるで新館長を無視するように議事を進行した。
そして何らかの理由で新館長に反抗的な支部長たちは、
「異議なし」
と松井章圭が意見を挟む間もなく次々に議決していった。
まるで新館長を象徴的なものに祭り上げて実権は自分たちが握りたがっているようだった。
「ちょっと待ってください。
30分もたったころ松井章圭が発言した。
「私は館長でありながら、この席に座っているばかりというわけにはいきません。
なぜならここで決定されたことの結果責任はすべて最高責任者である館長がとらなければならないからです。
これからは館長の責務としてこの議事進行は私が担当します」
反松井派は押し黙り最後まで口を開くことはなかった。
逆に郷田勇三、盧山初雄、浜井識安、山田雅捻など松井支持派の支部長たちは同調した。
こうして極真会館は、松井支持派、反松井派、そしてどちらでもない派に分かれた。


松井章圭館長は、三平啓二と緑健児らと共に、3週間、アフリカ各国の支部で指導と講演の旅に出かけた。
到着した南アフリカのホテルでは、松井章圭がスイート、三瓶啓二と緑健児にはツインルームが用意されていた。
「押忍」
朝、松井章圭がホテルのロビーに出ていくと南アフリカ支部の支部長と門下生は立ち上がって十字を切った。
「押忍」
松井章圭は同じ挨拶を返した。
このときロビーにいた三瓶啓二はソファーに腰を下ろしたままだった。
南アフリカの支部長がドアを開けてくれた部屋へも、車にも、新館長よりも先に入り乗った。
会議では
「おいおい、それはそうじゃなくてこうしろ」
と松井章圭の発言を肩を突いて遮った。
困った松井章圭は
「おとなしく座っていてください」
「いま会議中ですからご意見は後程伺います」
といってなだめた。
(これが師範と呼ばれる人のすることなのか)
三平啓二の不快な行動は南アフリカ滞在中ずっと続いた。
「ちょっと話があるんですけど・・」
帰国3日前、松井章圭は同行者全員を部屋に呼んだ。
「館長という立場上、三瓶先輩に対しては僭越といえるような言動があったと思います。
まずそのことを謝りたいと思います。
失礼しました」
「いや、それは・・・」
「この点に関しては謝りますが、自分にもいいたいことがあります」
松井章圭は三瓶啓二の数々の問題行動を挙げた。
「これらの行為が極真会館の将来を本当に思っておられる先輩のとる態度ですか。
自分は遊びで来ているんじゃない。
極真会館の公職としてこういう立場に立っているんです。
そのような場においては先輩後輩という立場を超えた立場というものがあってしかるべきじゃないですか。
このことを理解して、まずお互いが尊重し合うという関係に立てないですか」
そしておだやかなやりとりが2時間ほど続いた後、三瓶啓二はいった。
「わかったよ。
これからはお前を立てるよ。
まあ、がんばれよ」
「やっとわかってくれた。
ここでのやりとりは他言無用にしよう」
と松井章圭が決めた後、
「それでも・・・・」
三瓶啓二が再び話を戻そうとした。
すると松井章圭がキレた。
「先輩、2時間もかけて話し合って、そこまでいうんでしたら話にならない。
表へ出ましょう。
後輩が先輩に対してここまでのことをいうからには胎をくくっているんですよ
どうするんですか。
やりましょうよ」
「いや、悪かったよ」
(折れてきたのならこれ以上追及することはない)
「わかりました。
先輩ですから」

松井章圭の当面の課題は、6月の第11回全日本ウエイト制大会と10月の第26回全日本大会、そして翌年に行われる第6回世界大会の開催だった。
大会には巨額の費用が必要だったが、
「極真は君たち門下生全員のものなんだよ。
もしも私が死んだ後に金が遺してあったら、私の墓に来て唾を吐きなさい」
と生前、大山倍達がいっていたように、総本部の金庫は空同然だった。
門下生数1200万人というのは、累積入門者数で、現時点での実質的な道場生数は、1/10以下になるる。
極真会館の主な収入源は、道場生の入会費、月謝、昇級・昇段の認可料、大会の入場料などがある。
それらを合わせても総本部に集まってくる金は多くて年間に2~3億円。
そこから職員や指導員の人件費、会館の運営費まで出していかなければならない。
松井章圭は、全国を飛び回って、資金援助をしてくれる企業や後援者を訪ね歩いた。
そして何とか開催にこぎつけた第11回全日本ウエイト制大会と第26回全日本大会は、お家騒動のおかげもあって大観衆が詰めかけた。
(いつまでも他人様の米びつで飯は食えない。
やはり日々の組織活動の中から活動資金を捻出できなければいけない)
松井章圭は、総本部による門下生の一元管理システムを導入しようとした。
大山倍達時代、総本部と支部長の関係は、上納金として年間に一定額を支払えば、支部の活動は自由で、総本部が口をはさむことがなかった。
当然、支部長からは反対された。
(支部長たちは門下生を自分だけの弟子と考えているが、門下生は等しく極真の会員で、大山倍達総裁の弟子である)

1994年9月21日、全国支部長会議で、遺族を煽動したという理由で、高木薫(北海道支部長)ら5名に対しての破門・除名処分が決まった。
高木薫は、東京地裁に松井章圭の館長としての職務停止仮処分の申し立てを行った。
(12月26日、東京地裁はそれを却下)

1995年1月17日、阪神大震災が起きた。
兵庫県支部長の中村誠も、自宅や本部道場、分支部道場など甚大な被害を被った。
対応に追われ
「後継者どころじゃなかった」
という中村誠に、反松井派からひっきりなしに電話やファックスによる多数派工作が続いた。
しかし松井章圭は現地へ訪ねていき、大先輩に対して心からのねぎらいの言葉をかけただけで帰っていった。
「反松井派の連中は自分のことしか考えず、電話で一方的に言いっぱなしなのに、館長はそんなゴタゴタなんかなあーんもいわずに、ただお見舞いときた。
よし、俺はこの男を、なにがなんでも守りたてちゃろうと思った」

1995年2月15日、高木薫は、記者会見を開き、大山智弥子未亡人が2代目館長に就任したと発表した。
1995年3月9日、支部長会議長の西田幸夫の呼びかけで、松井章圭不在の緊急全国支部長会議が開かれた。
そして松井章圭の弾劾裁判が行われたが
「館長不在の支部長会議は認めない」
という郷田勇三の抗議を受けて、翌10日、改めて松井章圭主席で会議が開かれた。
1995年3月31日、大山倍達の遺族の遺言書の無効と執行差し止め請求に対して、東京家庭裁判所は

1 証人の梅田嘉明が株式会社グレートマウンテンの代表取締役になっていて利害関係があること
2 遺言書で娘の名前が間違って表記されていること
3 智弥子夫人を遺言書作成から排除し」、死後数日たってから知らせたこと

という点から遺言書の無効を認めた。
(松井章圭は、異議が申し立て抗告)


1995年4月5日、東京八重洲口の国際観光ホテルにおいて三瓶啓二の呼びかけで再び全国支部長協議会が開かれた。
協議会は支部長全員ではなく各地域の代表が集まる会議である。
この会議の開催は、直前まで、松井章圭と彼を支持する支部長たちには知らされなかった。
出席していた支部長は全48支部中35名だった。
松井章圭が会場に入ると西田幸夫が聞いてきた。
「館長よろしいですか」
そして会議は始まった。
支部長協議会が議決権のある支部長会議にすり変わっていた。
「これから全国支部長会議を開催します。
動議のある方は挙手してください」
すかさず三瓶啓二が発言した。
「議長。
館長解任動議を提出いたします」
「ただいま館長解任動議が提出されました。
これに賛成の方はご起立願います」
30名の支部長が立ち上がった。
「これをもって、この動議は承認されました
この場で館長は解任されました」
「これはどういうことなんだ」
郷田雄三に問いに西田幸夫はいった。
「何も話すことはありません。
これが現実なんです」
すぐに賛成した支部長たちは会場から退出していった。
事前に行っていたリハーサル通りに・・・
柳渡聖人(岐阜支部長)は、松井章圭にいった。
「俺たちはお前の話し方も歩き方も嫌いなんだよ」
その後、反松井派は記者会見を開き、「館長解任の宣言文」を読み上げた。
そこでは
・「極真会館」の個人名義による登録商標など、松井章圭の組織の私物化
・松井章圭の独断専行
・不透明な会計処理
が挙げ、それに対する明確な回答を求めた。
松井章圭と松井支持の支部長たちは反松井派の記者会見をみずに総本部に戻っていたが、そこに反松井派の30名が押しかけてきた。
「決議に従って退去」
「館長を降りろ」
を迫り、極真の猛者たちはにらみ合った。
多勢に無勢だったが、やがて反松井派はぞろぞろ帰っていった。


1995年4月6日、メトロポリタンホテルで、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安、山田雅捻らが記者会見を開いた。
松井章圭は、前日、反松井派が発表した「館長解任の宣言文」についてコメントを求められると、以下のように答えた。
私物化については
「極真会館という商標は極真のトレードマークですよね。
あの商標権が全て私の個人名で登録されているという部分で支部長たちが不信感をおっしゃったようですけれども、実際、私の個人名による登記となっております。
とはいえ個人のものではありませんから、将来は(大山倍達が希望していた)公益法人ができれば速やかにそこに移します」
独断専行に関しては
「私が館長に就任してから10ヵ月間、私個人も仕事に100%間違いがなかったとは、断言できないかもしれません。
実際反省すべき点もあると思います。
ただ日々の組織運営上、全国の点在する支部長たちに逐一報告と承認を得ることが物理的に不可能であったことは歪めなかった。
このことは理解の範疇内であると思っています」
不明瞭な会計処理については
「極真会館がこれまできちんとした形で法人化されてこなかったために運営資金が会館の業務として使われていた分、また大山倍達個人の分、という形で預金が分けられていなかったりですね、いろんな形で重なっていた部分があったものですから、それは極真会館側も遺族側も当然困った部分ではあったんです。
けれどもそれに対して極真会館が活動する上での当座に必要な運営資金が足りない部分があったことを知った上での批判ではなかったのではないかといいたい」
またこの記者会見では「統括本部」というセクションが設けられたことが発表された。
統括本部長は、山田雅捻、副本部長は、浜井識安だった。
また震災によって、松井支持派、反松井派か、いずれに所属するか明らかではなかった中村誠が松井章圭支持を発表した。
世界大会2連覇、キング・オブ・キョクシンを敵に回すことになった反松井派の支部長は動揺した。
4月7日、再び反松井派が記者会見を開き、松井章圭の館長解任の正当性をアピールした。
前日の松井章圭の明確な回答に対して三瓶啓二は、
「要は信頼関係が失われたということ」
と述べた。
この時点で、松井支持派は12名、反松井派は35名。
分裂は海外にも波及し、世界各地で支部の取り合い、選手の引き抜きも行われた。
全日本大会、ウェイト制大会が松井支持派と反松井派で開催されるようになった。

ランチェスター作戦

統括本部長となった山田雅捻は、数で勝る反松井派への対策戦略として「ランチェスター理論」を説明した。
「第2次世界大戦のときにイギリス空軍がドイツ空軍と戦うときに編み出したのがランチェスター理論なんだけど、これが極真を出ていった連中との戦いに有効だと思う。
イギリスが20機でドイツ機10機と戦ったとすると、敵機を全滅させたときの損害は5機で済むという計画が成り立つという理論なんだ。
もし10機対10機で戦ったとすると戦闘機の性能やパイロットの技術に差があったとしても双方が全滅ということになりかねないというんだ。
つまり相手が1支部に5つの道場を持っているなら、極真会館は10の道場を、若い指導員を道場主に指名して開設するという戦略でいけば、反松井派の道場は脅威でなくなる」
以後、極真会館は、元支部長のテリトリー内に次々と道場を開設し若い指導者を送り込んだ。
「ランチェスター理論」は、イギリスの航空工学者F.W.ランチェスターが提唱した戦闘の法則だが、経済問題にもでも応用されている。
1970年代前半にオイルショックが起こり、日本はそれまでの高度経済成長期から一転して不況となった。
そのときそれまでのスピード勝負、体力勝負ではなく、科学的・論理的な経営戦略・営業戦略が求められた。
そして多くの企業は、ランチェスター理論を取り入れ、不況を乗りこえた。
今日でもランチェスター理論は、競争戦略・販売戦略のバイブルといわれている。

一方、反松井派は、松井支持か反松井かをハッキリさせない支部長を勧誘し、多数派工作を図った。
当初、反松井派は、松井章圭が会議を開かずに1人で決めていったことがあったり、公にすべきことをしなかったことで不信が募り、解任に手を挙げた。
「別に松井君に極真から去れ、と言っているのではないのです。
もう一度、支部長からやり直してこれまでのことを精算してほしいのです。」
(三瓶啓二)
「松井先輩、もう一度支部長からやり直しましょう!」
(緑健児)
「全国で半分以上の支部長たちが辞めてくれといっているんです。
だから松井先輩は辞めるべきです」
(増田章)
「いろんな意味で松井君は急ぎましたね。
松井君は館長に就任するなり5人の支部長を事実関係もあいまいなままいとも簡単に除名にしました。
大山総裁も、生前は何人かの支部長を破門、除名にしましたが、その際も何回も支部長会議を開き、除名にするのを最後の最後までためらったものですよ」
(松島良一(群馬支部長))
しかし
「許永中から数億円の援助金が出ている」
「(大山倍達が有名なヤクザである柳川次郎と義兄弟であったため)山口組がバックについている」
「(統一教会の代表者の姓が松井章圭の本名の同じ「文」だったため)統一教会が極真を乗っ取ろうとしている」
などというデマや
「日本人だけで極真やろうぜ」
などひどい言葉もあった。
また人事や既得権を巡って争いが起こったり、松井章圭が行い、反対していた「門下生を一元管理する会員システム」を導入するなど組織は混迷した。
「いっていることが支離滅裂で何を信じていいのかわからない」
「いっていることとやってることが全然違う」
「彼らは単に松井嫌いで固まっているだけ」
など反松井派を見切って、松井章圭の極真会館に戻る支部長も出てきた。
しかし松井章圭から勧誘を行うことはなかった。
「自分はどうしたらいいでしょうか」
と相談されても
「君の考えた通りにすればいい」
と答えた。
(大義はこちらにある。
甘い言葉や復帰の条件などで釣っても裏切る人間はまた裏切る。
去る者は追わず、戻ってくる者は拒まずという方針は崩さない)

1995年5月、全ヨーロッパ大会の会場が開かれた。
三瓶啓二や緑健児、増田章、七戸康博、西田幸夫など反松井派はビラをまいたり支部長たちと会合を行った。
大会翌日に行われた全ヨーロッパ支部長会議に参加を要請された松井章圭は
「まずはヨーロッパの支部長同士で態度を決めるべき」
と参加を保留。
国際委員会ヨーロッパ委員のルック・ホランダーは
「まず松井館長が日本の状況を説明すべき」
と会議の開催前に松井章圭に発言を場を設けた。
松井章圭の説明を聞いた多くの支部長が支持を表明し、ルック・ホランダーは
「我々は松井館長を支持していくことにしたい」
といって会議をスタートさせた。
松井章圭が退場すると、反松井派が会場に入っていった。
しかしルック・ホランダーは
「あなたたちの参加は認めない」
と追い返した。

一見、複雑な、あるいは醜い、極真の分裂騒動だが、郷田勇三のいうように、その原因はシンプルなのかもしれない。
「分裂は俺が2代目を継いだとしても避けられない事態だった。
それは大山総裁の代わりは絶対にいないからだ。
だから分裂は松井館長に2代目としての器量がなかったからじゃない。
誰が継いでもこうなったんだ」

第6回世界大会

1995年6月、有明コロシアムで第12回全日本ウエイト制大会が開催された。
軽量級は成嶋竜、中量級は瀬戸口雅昭、重量級は岩崎達也が優勝した。
岩崎達也は、師匠である廣重毅(城南支部長)は反松井派にいたが自らの意志で出場した。
それまで分裂騒動に対して、具体的な行動をとった選手はいなかった。
盲目的な服従というより、日々のハードなトレーニングと稽古で手一杯というところだろう。
しかしこの岩崎達也の勇気ある行動が、第6回世界大会を変えた。

1995年9月、第6回世界大会の2ヵ月前、分裂騒動を理由にテレビ朝日が世界大会のテレビ放映中止を決める。
反松井派は記者会見を開き声明を発表した。
「世界大会は有名無実である」
実際、国内の支部の大半が反松井派で、選手の数も層も反松井派の方が上回っていた。
しかしK-1を放映し、格闘技ブームを牽引していたフジテレビが急遽、世界大会の放映を決めた。


またブラジル支部の磯部清次師範は松井章圭の2代目を認め極真会館に残った。
これにより弟子であり世界最強の呼び声が高いフランシスコ・フィリョ、そしてその弟弟子であるグラウべ・フェイトーザも第6回世界大会に出場することになっていた。
岩崎達也同様、廣重毅の弟子だった八巻建志と数見肇は
「フィリョと戦いたい」
と第6回世界大会の出場を希望した。
広重殻は謝罪し、極真会館への復帰が認められた。
緑健児も広重殻の弟子だったが極真会館には戻らなかった。
三和純、岡本徹、吾孫子功二、入来武久、塚本徳臣、川原奈穂樹など城南支部の有力選手も反松井派に残った。
こうして城南支部は真っ二つになった。

第6回世界大会では、
「極真」
と書道家:野呂雅峰が書いた20畳の大きさの布が東京体育館の天井に吊り下げられた。
松井章圭は、氷柱を裏拳で割る演武を行った。
数見肇は、準々決勝でグラウべ・フェイトーザ、準決勝でフランシスコ・フィリョに勝った。
優勝は数見肇に勝った八巻建志だった。

黒澤浩樹との口論

「黒澤、お前、品川に道場出せ。
品川はお前の実家だろ」
「いいんですか?」
「もう関係ないから道場出せ。
いいよな、館長?」
「いや、もうどんどん出したらいいんですよ」
松井章圭と師匠であり、ランチェスター作戦を進める統括本部長でもある山田雅捻(城西支部長)のアドバイスもあって、黒澤浩樹は実家の駐車場に道場を建てる計画を持った。
を両親は快諾した。
その土地は道路建設のために都に売却する予定だったが、父親は息子が道場を出すために数千万の税金を払って土地を確保した。
しかし廣重殻が復帰したことで
「もう道場は出せない」
と告げられる。
松井支持派の中で廣重殻は「A級戦犯」といわれていた。
それがペナルティなしどころか役職つきで復帰したと思えば、そのせいで道場が出せないという。
納得できない黒澤浩樹に山田雅稔は
「黒澤、品川もいいけど名古屋で道場やらないか」
松井章圭は
「ぼくは知らない」
といった。
このとき松井章圭は胎をくくっていた。
「一貫して松井支持で踏ん張り続けた支部長たちの憤懣やるかたない思いを察しつつも一言居士(いちげんこじ、自分の意見をいわないと気のすまない人)が群雄割拠する極真会館をまとめあげるためには自分が清濁を併せ呑むしかない」
しかし黒澤浩樹は、大山倍達がいなくなった後、さまざまな面で極真は変わったと感じていた。
以後、松井章圭と黒澤浩樹は、何度か激しい口論をした。
「廣重師範は許せない」
「僕も個人的には許せないが、館長としては許さないといけない」
そして黒澤浩樹は極真会館を辞めた。
極真は黒澤浩樹にとって青春のすべてだった。
自分のすべてを賭けた。
「俺は極真だ」
極真を辞めてもその気持ちは変わらなかった。

極真開国

1996年7月、松井章圭、石井和義、フジテレビで会合が持たれた。
極真会館は、アンディ・フグの引き抜きに怒った大山倍達が絶縁して以来、正道会館との接触はなかった.
松井章圭は
「極真会館は、過去に行われた除名、破門、絶縁処分を解除する」
と宣言。
そして石井和義のオファーを受けて、フランシスコ・フィリョがK-1に参戦。
デビュー戦で、再びアンディ・フグを失神させた。
その後も連続KO劇を起こし「一撃」ブームを巻き起こした。

遺言書 無効

1996年10月16日、東京高等裁判所は、松井章圭の抗告を棄却。
遺言書は無効とした。
(松井章圭は抗告棄却審判に対して異議が申し立て特別抗告)
1997年3月17日、最高裁判所が特別抗告を棄却する。
遺言所の無効が確定。

1997年9月27日、6億円の保釈金を支払い保釈を受けた許永中は、妻の実家の法要を理由に裁判所の旅行許可を得て韓国に出国。
宿泊先のソウル新羅ホテルで倒れ、同市内の延世大付属セブランス病院心臓内科に入院した後に逃亡。
保釈を取り消されて6億円の保釈金は没取された。

世界各地で指導、育成、組織運営、新しい試み

松井章圭館長の仕事は、日本及び海外124ヵ国で開催される大会、国内の合宿と稽古において極真空手の技と精神性を伝えること。
そして後援者や企業、他の格闘技・武道団体、国内外の支部との交渉も行う。
1年の1/3は日本を離れ、車の走行距離は年間30000㎞を超える。


大山倍達時代には男性のみの無差別の全日本大会、・全日本ウエイト制大会・全世界大会が主要な試合だったが、女子、少年、青年、壮年の全日本大会が創設された。
また2年に1度、男女の世界ウエイト制大会も開催されるようになった。
1998年には、パリで、世界を8つのエリアに分けて優勝を競うワールドカップ大会が行われた。

初の外国人チャンピオン誕生

1999年11月、第7回世界大会では、決勝戦でフランシスコ・フィリョと数見肇が対戦。
2度の延長戦でも明確な差が出ず、試割り判定にもつれ込み、1枚差でフランシスコ・フィリョが勝った。
初の外国人チャンピオンだった。
「極真が世界中に拡散して約半世紀が経ち、王座流失という事態はある意味必然といえるかもしれません。
極真空手、すなわち直接打撃制空手という新しい格闘技文化が、海外にも正しい形で根づき、極真会館が真に国際的な組織として深く根を下ろしたということの証明であるのかもしれません」
厳密にはそういう松井章圭自身が第4回に置いて優勝した時点で初の外国人チャンピオンである。

1999年11月5日、第7回世界大会が行われた同時期、東京都港区のホテル・グランパシフィック・メリディアンで逃亡していた許永中が拘束された。
2001年、許永中は、イトマン事件で地裁から懲役7年6ヵ月・罰金5億円の実刑判決を言い渡され、その後控訴、上告した。

盧山初雄 ビジネス空手、ショー空手ではなく武道空手、一撃必殺の空手、最強の空手を目指す

2002年1月11日、格闘技イベント「一撃」の旗揚げ大会が行われ、メインイベントでは野地竜太 vs. 武蔵が行われた。


2002年12月、盧山初雄、廣重殻が極真会舘を離脱。
ビジネス空手、ショー空手ではなく武道空手、一撃必殺の空手、最強の空手を目指すため、「極真館」を立ち上げて再スタートを切った。
また同じく極真会館を去った梅田嘉明と共に休眠していた極真奨学会を復活させた。
「私たちの師である故・大山倍達総裁は、その生涯をかけて武道空手としての極真空手の完成を追求しておられました。
空手の道を志した弟子たちが武道としての空手を地道に研鑽していくことによって、強さとともに人間として完成し、社会にとって役立つ人間を育成するという壮大なる目標を持っておられたのです。
それは総裁が口ぐせのように言われていた「頭は低く目は高く、口を慎んで心広く、孝を原点として他を益す」という言葉に集約されています。
その武道空手の理念は「極真精神」とも呼ばれ、門下生たちの心の支えであり、人生の指針でもありました。
私たちは、大山倍達門下生の一員であることに限りない誇りを持ち、その教えを指針として極真の道を全うすべく、生涯をかけて努力精進を続けていく決意です。
そして、大山倍達総裁の武道空手の理念と極真精神を正しく継承し、広く普及して、発展させていくことが使命だと考えています」

2003年1月22日、大西靖人が肝臓ガンで死去。
44歳だった。
葬儀場には妻と共に愛人だった石野真子の姿もあった。

2004年5月30日、格闘技イベント「一撃」において、「極真 vs K-1 7対7 全面対抗戦」が行われ、メインイベントではフランシスコ・フィリォがレミー・ボンヤスキーに判定勝ち。
この試合を最後に現役から引退した。

2005年10月、許永中は最高裁に上告を棄却され、実刑判決が確定。
黒羽刑務所に収監された。
同月、恵比寿に「Ichigeki PLAZA(一撃プラザ)」がオープンした。

2006年5月、浜井識安が松井章圭と袂を分かち、新たに財団法人極真奨学会国際空手道連盟極真会館浜井派を設立。
(翌年4月には財団法人極真奨学会理事に就任)

2006年6月6日、大山智弥子が胃癌で死去。
(79歳)

2008年、松井章圭の直弟子である木村靖彦が極真会館を退会。
イトマン事件で6年の実刑を言い渡されていた許永中の(合計約179億円の約束手形をだまし取ったとされる)石橋産業事件の上告が棄却され、こちらの刑期が加算された。

2010年8月、国際委員会委員でヨーロッパ委員のルック・ホランダーが、傘下の支部と共に極真会館から離脱。



仲介料 100億円

2011年11月10日、日本経済新聞が
「人材派遣大手の旧グッドウィル・グループ(GWG)による会社買収に絡み、空手団体の「国際空手道連盟極真会館」の松井章圭館長が東京国税局から買収の成功報酬の申告区分の誤りを指摘され、過少申告加算税を含め約30億円を追徴課税されていたことがわかった」
と報道。
林純一オーナーの体調不良により人材派遣最大手だったクリスタルグループが売りに出されていることを、緋田将士(投資ファンド主宰者)と松井章圭から知らされた折口雅博(グッドウィル社長)が「日本一の派遣」を目指して買収を行った。
緋田将士と松井章圭は、一緒にM・A・コーポレーションという会社を経営していた。
折口雅博は883億円を用意し、M&Aに500億円、買収ファンド運営会社・コリンシアンパートナーズ元代表で公認会計士の中澤秀夫に経費込みで183億円、仲介した松井章圭と緋田将士に各100億円ずつ支払ったという。

林純一は一代でクリスタルを売上高5000億円を超える企業に発展させたが、健康上の理由から売却を決意した。
「クリスタルを売ってしまおうと思うんや。
ただしデューデリはなしや」
デューデリ、すなわちデューデリジェンスとは、適正評価手続きのこと。
投資家が投資をおこなう際、もしくは金融機関が引受業務をおこなう際に、投資対象のリスクリターンを適正に把握するために事前に行う一連の調査のこと。
林純一は、自分がクリスタル株を売却することを役員や社員に知られ、彼らがクリスタルを辞め、会社が空中分解してしまうことを恐れていた。
林純一の倍脚依頼を受けたのが中澤秀夫だったが、上場もせず、人材派遣協会や生産技能労務協会など業界団体にも加盟せず、行政処分を受けて評判が悪いクリスタルをデューデリジェンスなしで売るというのは難しかった。
中澤秀夫は、緋田将士を頼り、松井章圭は、折口雅博と親しかった。
折口雅博にとってクリスタル買収は悲願だった。
しかも提示された金額は想定していた1/3にも満たない額だった。

2012年、許永中は、母国での服役を希望し、国際条約に基づき韓国の刑務所へ移送された。
2013年9月、許永中は仮釈放となり、2014年9月に刑期満了を迎え、現在はソウルに住んでいる。

ノンコンタクト(寸止め)とフルコンタクト(直接打撃)のコンタクト

2015年4月16日、東京都江東区の日本空手道会館において、全日本空手道連盟と国際空手道連盟極真会館の間で、2020年東京オリンピックにおける空手道種目の正式採用に向けて覚書を取り交わし、友好団体関係が締結される。
いわゆる伝統派の空手団体を統括する全日本空手道連盟(JKF)と大山倍達が興したフルコンタクト系の世界最大団体、極真会館が手を握り合ったのである。
2つは共に1964年に発足。
半世紀、ノンコンタクト(寸止め)とフルコンタクト(直接打撃)という違う空手道を歩んできた。
「大山総裁が一時期、「寸止め空手はダンス空手だ」みたいに言い切ってしまっていた部分もあったり、我々も若い頃はそれを鵜飲みにしてフルコンタクトが優れていると思って、ノンコンタクトには見向きもしなかった。
でも現状、改めてノンコンタクトを見たら、ものすごいクオリティの高い世界があるわけです。
フルコンタクトのルールも変遷があるわけですが、50回近くの日本選手権、10回の世界大会を経た今、もしかしたら後退している部分もあるのかなと。
もちろん現在の選手たちも頑張っていますけど、草創期の試合の中に今は見られない質の高い本来の空手の技も見られます。
ノンコンタクト競技にも当然変遷はあったでしょうが、すごく発展しているなという感じはします。」

フルコンタクト空手友好団体化

2015年8月、約10年間営業していた「一撃PLAZA」の営業を終了し、新たに「FLUX CONDITIONINGS(フラックスコンディショニングス) 」を代官山にリニューアルオープンさせた。
2015年9月25日、極真会館は、正道会館、国際大山空手、増田章のIBMA極真会館、拳眞塾、葉隠塾、脩己會のフルコンタクト空手6団体と友好関係を結び、全日本空手道連盟が進める空手の東京オリンピックでの公式競技化活動を支持することを表明。
2016年1月15日、松井章圭は自らの誕生日に、名前の一文字「圭」の字の上に大山総裁の「大」の文字をいただき「奎」とし、「松井章奎」と改名した。

ルールを大幅に改定

2016年4月17日、東京体育館で行われた2016国際親善空手道選手権大会において、松井章奎館長は、6月4、5日の全日本ウェイト制空手道選手権大会からルールを大幅に改定することを発表した。
「新しいルール改定ということで基本的には、大山総裁が提唱した直接打撃制空手をしっかり堅持しつつ、より実戦的な空手で更にクオリティの高い競技を目指します。
初期の段階で有効であった押し、かけ、瞬間的なつかみが禁止になっていきました。
そのことによって競技はこう着状態を生むようになり、この状況をかんがみて、明確に原点に回帰しよう、実戦性を高めようと、また競技としてのクオリティを高めようということになりました。
上段や前蹴りなどが無防備な状態でヒットし相手の体が崩れ即座に残心を取るとダメージの有無に関係なく技ありとなる。
片手による瞬間的な押しを有効化する。
つかみは反則ですが、相手の腕や足を捌く、攻撃的にも防御的にも用いるのを有効にしました。
またダメージにかかわらず、無防備で技がクリーンヒットした場合、間合いとタイミングによって残心を決められた場合は、技ありとしようと。
また、捌く、払いで相手を転倒させる技がこれから非常に有効になります。
そうすることによって一定の間合いを取ってタイミングを見て瞬間的に、瞬発的に技を決める。
極真の道場訓に「機に発し感に敏なること」とあるように、まさに機に発して感に敏なる技を技ありとしていこうという意識で、これらの技を有効化しました」

主な変更点

・これまで反則技だった押しがOK。
押しは片手(拳、掌底、肘など)のみ。
2回連続での押し、連続となるツッパリなどは反則。
・捌きは、腕や道着を掴まずに相手の上腕部を払うなどして相手の攻撃の軌道や払いながら自分の立ち位置を変える体捌きに使う。
捌きは足にも使え、相手の蹴りを受け流す、また足をすくうことも可能。
そこから軸足を刈るなどして相手を崩す、または転倒させる。
・足払いで倒し、下段突きを決めると技あり。
また倒れた相手へライトコンタクトで当てた場合は一本になる。
・足払いで倒されても、倒れた状態から蹴りで攻撃するのは有効。
転倒させられても相手が残心を取る前に下から蹴りを入れダメージを与えれば技あり、もしくは一本になる。
・上段回し蹴りや前蹴りが当たって体勢が崩れた瞬間に残心を決めた場合はダメージの有無にかかわらず技ありとなる。
・相手の胴回し回転蹴りを受けてから下段突きをライトコンタクトで当てれば技あり。

ついに中村誠まで

2016年12月4日、中村誠が極真会館を離れた。
「私、中村誠は極真会館東京総本部に入門後22年間に渡り、故大山倍達に指導を仰ぎ、選手そして支部長として極真会館発展の為に活動し、大山倍達亡き後、2代目館長として極真会館を引き継いだ松井章奎氏の下、23年間に渡り関西本部長として活動して参りました。
この23年の間に生じた松井章奎氏との組織の方向性及び空手観の違いから、この度、松井章奎氏の組織を離れ、新たに「国際空手道連盟 極真会館 中村道場」として活動していく運びとなりました。
これからは私を育ててくれた、師である大山倍達より受け継いだ極真空手の真髄を「正しく」伝えるため努力精進してまいる所存でございます。
今後とも皆様方のご理解ご協力を賜りますよう宜しくお願い申し上げます」

そして中村誠は、試合での組手ルールを、松井章圭が変更する以前の、大山倍達時代のものに戻した。
2016年12月9日、国際空手道連盟極真会館総本部は、中村誠を除名処分。

「除名処分 兵庫・大阪南支部元支部長 中村誠

したがいまして、暫時支部長が不在となりますが、現在、皆様が稽古されている道場は基本的には極真会館の道場として継続していく予定です。
万一 道場がなくなるような場合でも、受皿となる新規道場を開設予定ですので、
それまでの間は近隣の支部・道場への移籍し、稽古、審査、大会出場を継続することも可能です」

フルコンタクトとセミコンタクトルール 2本立て

2018年11月4日、第49回全日本大会の開会式において、松井章奎館長より2018年の改革についての発表があった。
毎年6月に大阪で開催されていた「全日本ウェイト制大会が、4月に開催される「国際親善大会」と合併して4月開催となり、6月の大阪では新ルールによる新たな大会が開催される。
新ルールは、これまでの極真空手のルールと東京オリンピックの空手競技で採用されたWKF(世界空手連盟)ルールをミックスした「IKO(国際空手道連盟)セミコンタクトルール」

・顔面マスク、胴・スネプロテクター、拳サポーターなどの防具を着用したうえで、突き・蹴りのヒットをポイントとするポイント制。
・KOしてもOK。
・腰から上の前蹴り、中段蹴り・上段蹴りを有効。
・下段回し蹴り、ヒザ蹴り、カカト落としは禁止。
・突きは直突き(ストレート)のみ有効。
・顔面への突きは寸止め、もしくはダメージがないように軽く当てることが有効。

極真会館は2016年6月の全日本ウェイト制選手権大会から、これまで反則技だった押しが有効になり、足を払って転倒させ残心(次の攻撃が出来る体勢)を示せば技ありまたは一本となるなど大幅にルールを改定。
2018年6月からはこの現行ルール(フルコンタクト)と新ルール(セミコンタクトルール)の2本立てとなる。
「じつはフルコンタクトの競技では、本当は必要なのにおざなりにされている部分があるんです。
正確に打撃を当てなくても、攻撃をたび重ねるうちに相手に効いてくる、そういうルールなんです。
間合いの操作とか打撃の正確さとかいった技術がなくても勝てる。
こういうことは日常の稽古で口をすっぱくして指導しても、なかなか変わらないんですね。
だから、競技会のような形にして評定されて勝敗をつけるという環境づくりをしたということですね。
この取り組みの延長で、空手界全体でも生きてくるだろうと考えています。
フルコンタクトと(オリンピック競技である)ノンコンタクトのルールは、ある意味、似て非なるものだけど、セミコンタクトというルールならどちらにも親和性があるはずです。
空手の競技人口を飛躍的に増やすきっかけになるかもしれないし、分離した状態の空手界の橋渡しの役目を果たすかもしれません」

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