大山倍達とケンカ別れ
「もう試合はしません」
第4回世界大会の後、しばらくして大山倍達に「選手引退」を申し出た。
「わかった。
しかし来年の全日本大会までは公表しないように」
(よし、第20回全日本大会までは、お世話になった極真へのお礼奉公の意味で総本部指導員をやりとげよう。)
選手引退を決めたのには、いくつか理由があった。
第4回世界大会で優勝した後、連日、松井章圭は、後援者や知人と華やかな夜の街に繰り出した。
しかし遊んでいるときは楽しいのだが、帰り道には虚しさしかなかった。
憧れつづけた地上最強の極真空手。
その極真空手の中でも最強の男になったはずなのに、社会では全然ちっぽけな存在だった。
(一人前の男として社会に通用する強さを身につけるためには空手の世界だけで生きていてはいけない)
「幸吟はお前にあげるから早く連れていきなさい」
そう恋人の母親である任福順から結婚をすすめられても、将来の進路が決まっていない松井章圭は受けることはできなかった。
やがて適齢期の娘の将来を思う任福順は縁談話を受けるようになった。
幸吟は、この見合いだけでなく、それまで親のいうことに逆らったことはなかった。
松井章圭はヤキモキしながら見守るしかなかった。
やがて幸吟から
「縁談が決まりました」
といわれた松井章圭は、幸吟にお金を渡して命じた。
「これで婚約を破棄してこい」
お金は見合い相手の男性のための慰謝料だった。
24歳の松井章圭は、空手家として生涯を全うするつもりだったし総本部指導員の給料にも不満はなかったが、社会人として一歩を踏み出したかった。
第20回全日本大会は、増田章が4回戦、黒澤浩樹が3回戦で負け、桑島保浩が優勝した。
大会後、大山倍達は松井章圭にいった。
「なぜ君は全日本大会に出なかったんだ?
これから全日本3連覇や世界大会2連覇もできたはずじゃないか」
暗に引退撤回を迫ってきた。
こうして予定の「お礼奉公」の期限は過ぎても、松井章圭は空虚な総本部指導員暮らしを続けた。
大山倍達は、松井章圭にブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイなど南米各国の支部を回り指導を行うように命じた。
松井章圭は、日本語で号令をかけ稽古を行い、模範演技を示し、次々とくる相手と組手をした。
このときのブラジル支部には、17歳のフランシスコ・フィリョがいた。
第7回世界大会で優勝し、初の外国人チャンピオンとなる男である。
南米から帰国後、総本部の指導員に戻った松井章圭は、ある日、大山倍達は呼ばれた。
「君は将来、私の右腕として極真空手の普及のためにアメリカと韓国、日本を行き来しながら活躍してほしい」
母国の文化や風習を勉強したかった松井章圭は喜んでいった。
「それならぜひ韓国へ行かせてください」
「よし、韓国へ行かせよう」
「いつ頃行かせていただけますか」
「そうだね。
来年の春ごろ行きなさい」
こうして韓国支部創設の話が決まり、目標に飢えていた松井章圭の精神は久しぶりに満たされた。
その後、大山倍達は、松井章圭の渡韓に向けて準備を始めたが、韓国にいた後援者が難色を示した。
まだ韓国に極真空手の道場はなく、大山倍達の期待のかかる松井章圭を受け入れられる環境ではないというのだ。
1988年4月、約束の春を過ぎても、大山倍達から韓国行きの話は出なかった。
6月になり意を決した松井章圭は大山倍達のいる部屋へ飛び込んだ。
「韓国へはいつ行かせてもらえるのでしょうか」
「君を他の道場へやるわけにはいかないんだよ。
君は総本部で指導していなさい
いま君を韓国へ行かせるわけにはいかないんだ」
「わかりました」
松井章圭は部屋を飛び出し、そのまま総本部指導員を退職した。
許永中
極真会館を飛び出した松井章圭は、許永中(ホ・ヨンジュン、きょ えいちゅう)の側近から相談を受けた。
「極真にうちで働けるまじめで若い、いい子はいないかな?」
「そのお話、私ではダメでしょうか?」
側近からその話を聞いた許永中は
「それが1番の理想」
と喜んだ。
42歳の許永中は、神戸と釜山を往復する大阪国際フェリー、テレビ局、新聞社、銀行、産廃処理、ホテル、老人ホーム、芸能プロ、ゴルフ場、建設業、不動産業、旅行代理店、貴金属卸、警備保障会社、飲食業など74社を束ねるコスモタイガーコーポレーション(CTC)の会長で、多くの在日同胞の子弟を雇っていた。
また許永中は、極真会館の関西本部会長でもあり、自分の子供を極真空手に入門させ、持ちビルを道場のために提供していた。
第4回世界大会の直後、初めて松井章圭に出会った許永中は、その爽やかなナイスガイぶりに在日コリアン社会の若きエース格と考え期待していた。
松井章圭は帝国ホテルにあったCTCの事務所で許永中と面談した。
許永中は、スキンヘッドに眼鏡、180cm100kgという巨漢だった。
眼鏡は、若い頃、敵対していた暴力団組織との抗争に巻き込まれ失明寸前の大ケガを負わされ視力が低下してしまったためのものだった。
「わしは9時5時のサラリーマンを雇うつもりはない」
「はい」
こうして松井章圭はCTCに就職した。
そしてワインの輸入販売会社で、営業、運搬、在庫管理、原価計算など貿易の仕事をした。
福本邦雄
1989年6月、許永中は、KBS京都(京都放送)の2000株(合計10億円)に対し、第3者割当増資
(会社の資金調達方法の1つ。
株主であるか否かを問わず特定の第3者に新株を引き受ける権利を与えて行う増資のこと。
株式を引き受ける申し込みをした者に対して、新株もしくは会社が処分する自己株式が割り当てられる。)
を行い、資本金を10億円から20億円に倍増させた。
そして株主総会で、19人と定められていた役員を26人の増やし、自らの息のかかった人物を経営陣へ送り込んだ。
京都新聞グループ(京都新聞、KBS京都など)の創業3代目社長だった白石英司が急死後、不動産投資の失敗による多額の債務が発覚。
また新社長となった内田和隆に創業者未亡人である白石浩子が反発したことで内紛が勃発。
この内紛に介入し、経営再建に乗り出したのが許永中だった。
内田和隆を副社長に降格させ、新社長には、画商の福本邦雄を就任させた。
そして松井章圭に
「福本邦雄という人物のところで勉強してみないか」
と勧めた。
松井章圭に
(実社会における100人組手をぶっつけ本番で挑戦させよう)
という意図だった。
福本邦雄の父親の福本和夫は、 共産党の理論的指導者だった。
1928年に、3・15事件で入獄。
14年間獄中で生活し、出獄後は執筆活動に専念した。
福本邦雄も、東京大学時代に共産党に入党するが、党内対立で除名となった。
卒業後、産業経済新聞に入社。
岸信介総理大臣と椎名悦三郎官房長官が、水野成夫(産業経済新聞社)社長に、福本邦雄を出向させて欲しいと要請。
福本邦雄は、官房長官秘書官(1959年6月~1960年7月)、自民党政調会長秘書役(1960年7月~同年12月)、通産大臣秘書官(1960年12月~1961年7月)を務め政界に人脈を築いた。
政党の資金関係を担当していたため新聞社に戻れず、PRエージェント会社「フジ・コンサルタント」、画廊「フジ・インターナショナル・アート」、「フジ出版社」を創業した。
企業が画商から絵を数点購入し、画商は領収証を発行して企業に納入するが、うち数点を秘かに政治家に渡す。
政治家は必要に応じて絵を売って政治資金を捻出する。
バブルの頃、福本邦雄は「名画」を政治家や官僚にバラまいた。
後に発覚するイトマン事件で、許永中は自身が保有していた絵画など676億円をイトマンに購入させたが、その多くは福本邦雄の画廊から出たものだった。
福本邦雄は、KBSを正常化し、京都新聞に合併させる構想を抱いて動き出したが、許永中がダイエーファイナンスから自身のゴルフ開発会社に146億円の融資を受けた際、KBS社屋や土地、さらには放送機材まで放送局まるごと担保に設定したことが発覚。
1989年、KBSはダイエーファイナンスから競売申請を受ける。
松井章圭が初めて福本邦雄の事務所に出社すると、事務員の女性に
「あなたね。
ここじゃ空手のチャンピオンだろうが関係ないのよ。
私のほうが先輩なんだからね」
と釘を刺された。
かかってきた電話への対応でも
「大声はダメ」
「もっと丁寧に」
「まず『お世話になってます』っていってから」
細かく指導を受けた。
極真会館では元気よく対応すればよかった。
事務所には大臣クラスの代議士や事務次官クラスの官僚、大企業の経営者らが頻繁に出入りしていて、挨拶の仕方を教わった。
また絵の運搬や、福本茂雄の身の回りの雑用も行い、KBSのある京都にも同行した。
福本茂雄は執筆活動もしており、資料集めのために国会図書館や書店をを駆け回った。
また福本邦雄と共にクライアントを見送りに事務所を出たとき、松井章圭は車に乗り込むクライアントに会釈した。
頭を上げてふと横をみると福本邦雄は、まだ深々と頭を下げたままだったので、あわててそれに倣った。
ある日、クライアントと福本邦雄とステーキハウスを訪れたとき、それぞれ好みの量を注文した。
松井章圭はステーキなら2㎏は平気だったが、遠慮して400gにし、瞬く間に料理を平らげた。
そして帰りの車中で福本邦雄に怒られた。
「お前は常識のない奴だな
お前のための食事会じゃないんだぞ」
大山倍達なら、たくさんの量を食べれば食べるほど喜んでもらえた。
これまでとあまりに違う環境に、3ヵ月たっても失敗を重ね、自己嫌悪に陥り、やる気も低下していた。
ある日、福本邦雄に呼ばれ、
「はあーい」
と気のない返事をすると冷ややかにいわれた。
「お前さん、もう辞めるのかい」
松井章圭は凍りついた。
(このままでは落伍者の烙印を押されてしまう。
極真世界王者の実績はなかったものとして、謙虚に、そして貧欲に社会人としての生き方を、白帯から始めなければならない)
一瞬で我に返った松井章圭は
「すみませんでした。
姿勢を改めて頑張りますのでここに置いてください」
福本邦雄の個性は半端なものではなく常人なら1ヵ月も辛抱できるものではなかったが、松井章圭は、一切泣き言を、苦情をいわなかった。
なかなか人をほめることにない福本邦雄だったが、松井章圭は別格扱いで、事務所に出入りする代議士も松井章圭によい評価をした。
松井章圭は、福本邦雄事務所で働くことで、日本の政官財のトップたちを直接観察することができた。
そこには日本の権力の縮図があった。
3年ぶりに極真復帰
1990年12月、第22回全日本大会は増田章が緑健児から上段回し蹴りで技ありを奪って優勝した。
松井章圭は真っ先にかけより増田章を祝福した。
同年5月、増田章は100人組手を達成したが、そのセコンドには松井章圭がいた。
このとき
「11月に開催される第5回世界大会で演武と大会中継のテレビ解説をするように」
という大山倍達からの命が伝えられた。
それまで
「本業を定めた以上、大会という華やかな場に立つことは控えるのが筋」
と固辞し続けていたが、思い悩んだ末、引き受けることにした松井章圭は3年前に飛び出した部屋を訪ねた。
「元気そうだな」
大山倍達は笑顔で迎えた。
実質的には、これで松井章圭の極真復帰が決まった。
1991年元日、朝日新聞が
「西武百貨店→関西新聞→イトマン 転売で二十五億円高騰」
「絵画取引十二点の実態判明、差額はどこへ流れた?」
との大見出しで、絵画取引の不正疑惑をスクープ。
1991年7月23日、大阪地方検察庁特別捜査部は、総合商社イトマンを利用して絵画やゴルフ場開発などの不正経理を行った許永中を特別背任の疑いで逮捕した。
約3000億円が闇に消えた戦後最大の経済不正経理事件、「イトマン事件」である。
松井章圭は、極真復帰の事情をしたためた手紙を許永中のいる拘置所へ送った。
許永中は、松井章圭の休職を許可し、励ましの手紙を送った。
約1年半、仕えた福本邦雄からも
「君には厳しく当たったけど、まあよく辛抱した。
これからも頑張んなさいよ」
という言葉と餞別があった。
本部直轄浅草道場
1991年11月、第5回世界大会で、大山倍達は型の演武を、そして松井章圭も試割りを演武を行った。
優勝は、緑健児。
2位は、増田章。
3位は、黒澤浩樹だった。
この頃から松井章圭は、空手を追求する場としてはもちろん、強い弟子を養成するためにも、自分の道場を持ちたいと思い始めた。
だが極真会館は全国に支部と支部長を置いて、各支部は独自で分支部を開いていった。
その結果、全国にネットワークが広がっていて新参者が入り込む隙間はなかった。
松井章圭は、浅草交差点近くのビルにいい物件を見つけ、この地区、城東支部の支部長である郷田勇三に相談した。
「もし総裁(大山倍達)が自分の道場回折を却下したら極真を辞めようと思っています」
郷田勇三は、
「お前の好きな場所で道場を開けばいい。
そこが他の支部長のテリトリーでもオレが話をつける」
といい、大山倍達も説得した。
大山倍達は、松井章圭を呼び出した。
「郷田師範の配慮もありまして、浅草に道場を出します。
ついてはその許可をもらいたいのですが・・・」
「君は世界チャンピオンにもなった男だろう。
どこに道場を出しても構わないが、総本部のダイレクトスクール(直轄道場)として出しなさい。
もう1つ、週2回の黒帯研究会は、君が来て指導しなさい」
29歳にして自分の道場を持つことができた松井章圭は、8年間の交際の末に、ついにプロポーズした。
幸吟に婚約を破棄させ、1人前の男になろうと極真を飛び出し、許永中や福本邦雄のもとで悪戦苦闘して社会勉強した松井章圭だったが、皮肉にもこの間、2人はたまにしか会っていなかった。
松井章圭は母親の任福順の前で両手をついた。
「幸吟を私のお嫁さんにください」
そして幸吟に告白した。
「ずいぶん時間がたってしまったけど僕と結婚してください」
「あなたとは結婚しない」
驚いた松井章圭は、経緯を説明したが、幸吟は
「結婚するといっていながらしなかった」
といった。
神戸に移ってからも縁談話は次々に持ち込まれていた。
松井章圭は、歯の浮くような言葉を連発し、幸吟に
「うん」
とうなずかせるまで3時間かかった。
「一生かけて幸せにするよ」
そういいながら
(恋愛も試合も相手の意思を最大限に尊重して技をかけないといけない。
恋愛と試合は似ている)
と悟った空手バカだった。
1992年12月、松井章圭と幸吟は結婚披露宴が行った。
華やかな式の中で祝辞を行った大山倍達の声には、なぜか怒気が含まれていた。
「君は私のいうことを絶対に聞こうとしない。
君は引退してはいけなかったんだ。
私のいうように4連覇を目指すべきだったんだ。
そして不滅の王者として我が極真に君臨すべきだったのだ。
同乗なんか開くべきではなかった。
総本部にいて指導を続けることが将来の君のためであったのだ。
君は私のいうことを聞かない。
君の欠点は頭が良すぎることだ。
時にはガムシャラになってやらなくてはいけないときもある
何かを犠牲にしてでも突き進まなければならないときもあるんだ」
その言葉を松井章圭は直立不動で聞いた。
(もう2度と総裁に逆らうようなことはしない)
傍らには生まれたばかりの長女を抱いた幸吟がいた。
松井章圭は、昼は五反田の金融会社に勤め、夜は道場で指導を行った。
会社勤めで得た給料で家族を養い、道場の収入はその維持と設備投資に回した。
アンディ・フグが原因で極真と正道が絶縁
松井章圭の結婚式の少し前、突如、アンディ・フグが正道会館の試合に出場した。
第5回世界大会においてアンディ・フグは、故意ではないが反則じみたフランシスコ・フィリョの蹴りと、スポーツ的にはアンフェアな超武道的大山(倍達の)裁定により、人生初の失神KO負けを喫した。
大会終了後、28歳のアンディ・フグは、同棲中のイロナとの結婚や、友人と共同経営していたスポーツショップ「Sports Freaks」の業績悪化など、いろいろな問題を抱えながらプロのファイターの道を模索した。
アンディ・フグがプロのファイターになりたがっているのを知った石井和義(正道会館館長)は、1992年7月、「格闘技オリンピックⅡ」で柳澤恥行と対戦させた。
そしてアンディ・フグは踵落としで圧倒。
プロデビュー戦を勝利で飾った。
このアンディ・フグの正道会館への参戦に大山倍達は激怒。
正道会館に対して絶縁状を通達。
このことを記事にして正道会館のエースである佐竹雅昭と松井章圭を並べて表紙にした雑誌「格闘技通信」の取材も拒否した。
格闘技通信の取材拒否は1年間で解かれたが、極真会館と正道会館の絶縁関係は大山倍達が死去するまで続いた。
松井章圭が2代目の極真会館館長となった後、極真会館と正道会館との関係が修復され、K-1のリングに極真の選手が上がった。
極真の後継者の条件
1992年4月、松井章圭は大山倍達に呼ばれた。
「実は君に重要な仕事をやってもらいたい。
やれるか」
「押忍。
総裁のおっしゃることならなんでもやります」
「新会館建設のための第2次建設委員会を組織したい。
ついては君が委員長をやってくれ。
君が中心になって、増田、黒澤、緑といった若い人たちの協力を得ながら強力に推進してほしいんだ
古い支部長たちにはもう任せておけない」
それは手狭になった極真会館総本部に隣接する土地を買い上げ新会館を建設するという計画だった。
以前に第1次委員会が発足されたが、多くの支部長が再三の建設資金の拠出要請に難色を示し、事実上休眠状態になっていた。
「この仕事は全国の支部長たちを敵に回す仕事なんだ。
君が泥をかぶることになる。
どうだ、できるかね」
「総裁がいわれるのならなんでもやります」
松井章圭は、即座に答えハラを決めた。
(極真あっての、大山総裁あっての自分だ。
支部長たちにどう思われようとかまわない)
1993年8月、大山倍達は臨時の全国支部長会議を招集し、第2次新会館建設委員会の委員長に末端の支部長に過ぎない松井章圭を指名した。
各支部は入門者数や門下生の数を総本部に申告していた。
しかし中には門下生の数を少なく申告する支部や、昇級昇段を総本部に登録しない支部、内緒で黒帯を販売している支部さえあった。
資金の拠出を迫ると
「要は弟子から金を搾り取ろうということだ」
という支部長もいた。
この惨状を把握した第2次委員会は、門下生をコンピューターで一元管理する方針を盛り込んだ改革案を大山倍達に提出し承認された。
このときから松井章圭に対する嫉妬や憎悪という悪い感情が、一部の先輩支部長たちの中で起こり始めたと思われる。
1993年3月、松井章圭は5段への昇段試験で、50人組手を達成。
この年に行われた支部長会議で大山倍達は54人の支部長に向かっていった。
大山倍達に向かって最前列の左端に三瓶啓二(福島県支部長、全日本大会3連覇)、右端に郷田勇三。
2列目に中村誠(兵庫県支部長、世界大会2連覇)、山田雅捻(城西支部長、大西靖人、黒澤浩樹などの師)、浜井識安(増田章の師)。
松井章圭は最後列に座っていた。
「昔は極真不毛の地に城を築いてやろうという覇気があった。
他流歯を潰してでもやってやるという人間ばかりだった。
でももうみんな金持ちになって闘争しようとしない。
金持ちはケンカしないものだよ。
腹の減ったやつが闘争するんだよ。
みんなちょっと太りすぎた気がする。
私の亡き後は大山倍達の栄光に君たちは生きることはできないんだよ。
私が亡きものになるとみんなはきっとバラバラになる気がしています」
さらに大山倍達は後継者についてこう述べた。
「後継者については軽々しくいえないけれど、海外、国内を通じて誰もがこの人が後継ぎならいいよと認める形で指名したい。
だがこれは10年後、20年後のことだからまだ心配はいらない。
それより今日の格闘技ブームで君たちがやることは、極真は地上最強であることを誇示してもらいたい。
これは私が亡き後でも永遠にやり続けなければならない君たちの宿命だよ。
私は100歳まで生きるよ。
今の極真は大改革が必要だからね。
だから後継者の心配はまだする必要などない。
ただね、極真の2代目はまず強くなければダメだ。
全日本大会連覇と世界大会制覇、そして100人組手の完遂者で、しかも若い人。
できれば30代前半の人に継がせたい。
甥は人を醜く保守的にさせるものだからね」
世界大会2連覇の中村誠は100人組手完遂が、全日本大会3連覇の三瓶啓二は世界大会制覇と100人組手完遂ができていなかった。
大山倍達には後継者について3つのプランがあった。
1 郷田勇三か盧山初雄、大山道場時代からの高弟に2代目を継がせてから、3代目を中村誠か松井章圭にする。
2 中村誠を2代目にする。
3 松井章圭を2代目にする。
そして実際に郷田勇三、盧山初雄、中村誠を呼び寄せて見定めようとした。
郷田勇三と盧山初雄は
「歳を取りすぎている。
もっと若くないと波乱の格闘技界を新しい発想で乗り切れない」
中村誠には
「世界2連覇という大偉業を達成した君の極真への貢献度は抜群である。
しかし2代目は松井に決める。
君か松井かで最後まで悩んだが酒の上での失敗が君にはある。
それに松井の若さが今の極真には必要なんだ」
と告げた。
中村誠は応えた。
「押忍。
わかりました」
酒の上での失敗とは、居酒屋でケンカを売ってきた数名のヤクザを血祭りにあげ全国ニュースで報道されたことである。
遺言書作成
1994年3月15日、若獅子寮の第22期生卒寮式で、大山倍達は祝辞を述べた。
公に姿を現したのは、これが最後となった。
3月17日、聖路加国際病院に緊急入院。
3月22日、病院側の制止を振り切り退院し総本部内の自室で静養。
4月15日の若獅子寮の第25期生入寮式には出られず、この日の夜、再び聖路加国際病院に入院した。
そのとき大山倍達はいった。
「一部の側近と松井章圭以外は、家族といえども見舞うことは許さない」
急遽、大山倍達の名代としてネパールで開催される第6回アジア大会に行くことになった松井章圭は、その報告を兼ねてお見舞いに訪れた。
そして別れ際
「元気でね」
そう大山倍達にいわれ胸騒ぎがした。
大山倍達は肺ガンだった。
松井章圭はそれを知っていたが、大山倍達には最後まで告知されなかった。
そしてベッドでの排泄を拒否し、内弟子の肩につかまりながらトイレに通った。
担当医は大山倍達の寿命を
「あとわずか」
と診ていた。
大山倍達の病床に詰めていた男は、身の回りの世話をする内弟子を除いて5人いた。
1 東邦大学医学部入学と同時に同大空手部に入部し、極真空手一筋の道を歩み始め、全日本大会ではドクターを務める元極真会館相談役で横浜東邦病院院長の梅田嘉明
2 極真会館相談役で、大山倍達が義兄弟の契りを交わした柳川次郎(殺しの軍団と呼ばれた柳川組の初代組長)の舎弟、グリコ森永事件の主犯と疑われたことのある黒澤明(黒澤組組長)
3 世界大会で松井章圭と対戦した後、引退し、不動産会社や警備会社を経営し、岸和田市議、新進党大阪府第18総支部会長、新進党大阪府連常任幹事を務めた大西靖人
4 大西靖人の城西支部の後輩であり、資生堂の社長秘書をし、大山倍達の私設秘書も務めていた米津等史
5 米津等史の父親で弁護士の米津稜威雄
4月24~25日、2日間かけて、大山倍達自身の意向で危急遺言
(いますぐに遺言書を作成しないと遺言者の生命が失われてしまう場合など緊急事態に使われる遺言書。
緊急時に一般の人が対応できないことや、対応方法を知っている人間がいても、妻や子供など利害関係者を除き、証人となりうる人間が3名必要なため、危急時遺言は使用事例が少ない)
が作成された。
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遺言者大山倍達は、平成6年4月19日聖路加病院971号室において、証人米津稜威雄、同梅田嘉明、同黒澤明、同大西靖人、同米津等史立ち合いの下に、証人米津稜威雄に対し次のとおり遺言を口述し、米津稜威雄はこれを筆記した。
一 遺言者死亡のときは次の通りにすること。
1 極真会館、国際空手道連盟を一体として財団法人化を図ること。
2 梅田嘉明は、財団法人極真奨学会理事長、株式会社グレートマウンテン(新会館建設のため現会館の隣の土地を買うために設立された新会社)社長を勤めて欲しい。
3 極真会館国際空手道連盟の大山倍達の後継者を、松井章圭と定める。世界各国、日本国内の本部直轄道場責任者、各支部長、各分支部長は、これに賛同し協力すること。
4 松井章圭は、極真会館新会館建設の第2次建設委員会長として新会館を設立すること。
5 梅田嘉明は、極真会館国際空手道連盟、財団法人極真奨学会、株式会社グレートマウンテン、有限会社パワー空手等、極真空手道関連事業を監督し、松井章圭の後見役として勤めて欲しい。黒澤明は、梅田嘉明を補佐し協力して欲しい。米津稜威雄、長嶋憲一(極真会館相談役、弁護士)もこれに協力して欲しい。
6 池袋の極真会館の土地建物は、新会館の土地を含めて、極真会館国際空手道連盟に寄贈する。これらに対する出費等も同じ。これらは極真空手道のためのみに使用すること。これらの手続きは、米津稜威雄において執って欲しい。
7 妻智弥子と三女喜久子には、石神井の土地家屋を持分平等の割合で与える。
右土地家屋には建築ローンが残存しているので、これを極真側で責任をもって支払って欲しい。千葉御宿の土地、大山倍達個人の預金、現金は智弥子に与える。なお智弥子に対しては、極真側で毎月100万円またはこれに相当する金額を支払って生涯面倒をみて欲しい。
8 「パワー空手」は、極真空手道の機関紙であって欲しい。機関誌として存続する限り、三女喜久子に毎月100万円宛支払って欲しい。
二 遺言執行者を次のとおり定める。
遺言執行者 弁護士 米津稜威雄
米津稜威雄は、右筆記事項を遺言者および証人梅田嘉明、同黒澤明、同大西靖人、同米津等史に読み聞かせ、右各証人はその筆記の正確なことを承認し、次に署名押印した。
筆記者 証人 米津稜威雄 ㊞
証人 梅田嘉明 ㊞
証人 黒澤明 ㊞
証人 大西靖人 ㊞
証人 米津等史 ㊞
『遺言書(追記)』
遺言者 大山倍達
一 韓国ソウル特別市在住の・・・・、・・・・、・・・・(ソウルにいる妻子、住所)には、極真側で各金1500万円を支払って欲しい。
一 北海道在住の・・・・(女性の名前)には、極真側で金1000万円を支払って欲しい。
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このように大山倍達は、後継者に松井章圭を指名した。
遺言書は全14項目。
1~5項までは、極真会館・国際空手道連盟と関連法人と会社の運営についての指示。
6~12項は、遺族に対するケア。
13、14項には、追記という形式で北海道と韓国にいる愛人と子供に対するケアについて記されていた。
大山倍達の死
1994年4月26日8時、大山倍達は肺ガンによる呼吸不全のために70歳で永眠した。
同時刻、松井章圭は予定を早めてネパールから帰国し、空港にいた。
東京の妻と3名の娘も死に目に会えなかった。
大山倍達という空手家の歩んだ人生は、あまりに波瀾万丈だった。
超人的な空手技を身につけ、牛を素手で撲殺。
アメリカを皮切りに世界各国を放浪し、行く先々でボクサー、レスラー、拳法家と対戦し、そのことごとくを撃破。
帰国後に実戦空手の極真会館を設立。
その門弟数は全世界で累積1200万人を数えるに至った。
1994年4月27日、総本部で行われた密葬が行われた。
出棺の際、梅田嘉明から大山倍達が後継者に松井章圭したことを発表された。
その突然の発表を、松井章圭は、参列者1500名と共に直立不動で聞いた。
同夜行われた緊急全国支部長会議では、遺言書の基づく松井章圭の後継者承認を巡って紛糾のうちに流会した。
1994年5月10日、支部長会議において、松井章圭の2代目館長就任が正式に確認された。
しかしこの後も、松井章圭館長就任に納得できない面々は、それぞれ会合を持ち続けた。
分裂騒動勃発
1994年6月20日、大山倍達の次女の恵喜と三女の喜久子が極真会館総本部で記者会見を開いた。
「遺言は代筆による不完全なものであり、大山倍達自身の署名も捺印もなければ、口述を録音したテープもない。
その上、遺言の作成遇程にあまりに不明な点が多く、偽造の可能佳が高い。
よってその遺言書に記されてる松井章圭氏を、自分たちは後継として認める事は出来ない」
「自分たちは大山倍達の死因そのものにも大きな懐疑を抱いている」
と訴えた。
そして遺言書の無効と執行差し止め請求を東京地裁に提訴することを発表した。
ショッキングな会見は、テレビ、新聞、雑誌などで報道され、新体制の極真会鎗と大山倍達の遺族との間に確執があることが露見した。
大山倍達遺言書の存在は、死去した当日、遺言書を管理してた梅田嘉明によって明らかにされた。
それまで智弥子未亡人は、遺言書の内容は疎か、存在さえも知らされなかった。
「私は毎日主人の看病に行ってましたが、遺言書の事なんかひと言も聞いてません。
主人が死んだ日、記者会見で発表があったが、じゃあ私だけが知らされていなかった事になりますよね」
夫を失い傷心の智弥子未亡人を慮ってのことかも知れないが、これも遺族が遺言書に対する疑念を深める原因となった。
また遺言書には、大山倍達の韓国と北海道に愛人と子供がいることが明らかになっているが、智弥子未亡人は、それを受け容れていた。
「会館の皆さんはその事に気遣って 私に遺言書を見せなかったとおっしゃるんですよ。
でも私が今更ヤキモチを焼くような歳ですか。
五十年近く連れ添って、外に子供がいることくらい何の不思議もない人だったことは私が一番知ってますよ」