父が一通の手紙を差し出しいった。
「空手の先生からだ」
便箋には丁寧な文字で
「息子さんは空手のチャンピオンになれる資質を持っています。
どうか1日も早く道場に復帰するよう、お父さんからもいって下さい。
お願いします」
と綴ってあった。
「いい先生じゃないか。
空手、もう少しやってみたらどうだ」
空手に反対し正業に就けと言い続けていた父がいった。
八巻建志は道場に復帰した。
すると廣重師範はウエイト制大会への出場を薦めた。
ウエイト制大会は、体重無差別を基本とする極真空手の中で、毎年夏に大阪で行われる体重別のトーナメントで、軽量級、中量級、軽重量級、重量級の4階級において優勝が争われる。
ちなみに毎年秋に行われる全日本大会と4年に1回行われる世界大会は体重無差別で行われる。
1984年4月、大阪で行われた第1回極真空手ウエイト制大会に八巻建志は参加した。
このときの体格は、187cm、79kg。
会場では、岩のようにゴツゴツした七戸康博が目を閉じて座していた。
外館慎一は191cm105kgもあった。
1回戦、八巻建志は遮二無二に攻めて判定勝ち。
そして2回戦の相手は西山芳隆。
180cm110kgの巨体はゴムマリのように柔らかく、蹴りがポンポン出た。
八巻建志は、蹴りから突きの連打を入れられ何もできないままズルズル後退し判定負けした。
ウエイトトレーニング開始
以後、稽古は精力的にこなしたが無愛想な態度は変わらなかった。
先輩との酒の席においても、
「お前、暗いよ」
「押忍」
「少ししゃべりなよ」
「押忍」
「ビールがいい、酒か?」
「押忍」
こんな会話が延々と続いた。
「僕が八巻先輩と口をきいてもらえたのは、入門して4年後でした。
無口で目つきの鋭い八巻先輩はひたすら怖い存在でした」
(八巻の後輩:岩崎達也)
国立競技場に通いウエイトトレーニングも開始した。
当初ベンチプレスが50kgだったが1ヶ月で100kgが挙がった。
1日に丼飯4~5杯を4回。
焼肉、トンカツ、ラーメン、アイスクリーム・・・
とにかく何でも食いまくり体重アップに努めた。
しかし型は大嫌いで、
「藤原敏男さんは型なんかやらないのに強いじゃないか・・・」
「サンドバッグ蹴りたいよ・・・」
「こんな稽古より組手のほうが強くなれるのに・・」
と型の稽古にはいるとため息をついた。
「何故あんなにチンタラ動いている八巻先輩がまったく注意されず、一生懸命やっている自分が叱られるのか不思議でならなかった」
(後輩:岩崎達也)
白熊?増田章
1985年2月、1日4回の大食とウエイトトレーニングで体重を90kgにまで増えた。
道場内の試合が行われたとき、ガッツポーズをして審判に注意を受けたり、足払いで倒されそうになると相手を掴んで引きずり倒し拳を振り上げ眉を寄せ睨んだり、スリップダウンしたときはネックスプリングで立ち上がったり・・・
無茶苦茶だった。
3月、首都圏交流試合においても不遜な態度は変わらなかった。
「あいつ格好つけやがって」
「生意気だ」
会場の声は完全に無視した。
2回戦、相手は身長の低く頭から突っ込んできた。
2度も相手の顎に拳が入り、3度目には相手が倒れ、4度目には顎が折れて病院送りになった。
八巻建志は悪いと思ったがなめられないようにと態度は改めなかった。
3回戦、中断回し蹴りで1本勝ち。
4回戦、周囲のひんしゅくを買いながら判定勝ち。
5回戦、相手は増田章。
若干19歳で全日本大会にデビューし、すでに世界大会にも出ている選手で、その爆発的なラッシュ力は「爆撃機」と呼ばれた。
まるで岩石に手足をつけたような体で、ベンチプレス185kg、スクワットは200kgを20回挙げ、肩幅が広く、背中は筋肉が発達し過ぎて猫背にみえ、お尻の大きさで道着の裾が跳ね上がり、拳が大きく前腕はまるでマグロみたいな形をしていた。
夏、海へ行きタンクトップを着ていると地元の子供が、
『ママ~、白熊がいるよ~』
といったという。
「なんで世界大会に出る選手がこんな小さな大会に出てくるんだよ」
八巻建志は内心そう思いながらも不遜な態度はやめなかったが、試合は一方的に技ありを2本取られ1本負けした。
技の1つ1つが身体の奥まで響き、世界レベルの選手の強さを思い知らされた。
内弟子となる
黒帯になった八巻建志に先輩が助言した。
「師範に内弟子のお願いをしてみたらどうだ?」
「押忍」
即決で空手一本の生活に入った。
内弟子は誰も希望すればなれるものではない。
師範が見込んだ道場生に限られる。
内弟子は道場生にとっても一大決心だが人生を預かる師範にとっても大きな覚悟がいる。
廣重師範はいう。
「空手の選手は恵まれていない。
レスリングも柔道も企業や学校という受け皿があって、選手は後顧の憂いなく練習に専念できる。
空手の選手も身を削って稽古を積んでいるのに現役を引退したらただの人になってしまう。
これはおかしい。
まして極真空手の稽古は仕事の片手間にできるほど甘くない。
私は空手を一生懸命やった人間が報われ社会的に評価を得られる道を切り拓いてやりたい」
内弟子は朝の掃除から事務処理、道場での指導まで行う。
月の給料は3万円。
八巻建志の同級生には社会人や大学生になっている者が多く、なかには妻帯者もいた。
「いい年してとか空手なんてなど散々いわれたが、私は他人より秀でているものは空手しかなく中卒で20歳を過ぎていまさらろくな働き口もあるはずもなく、この道で絶対に成功してやる。
日本チャンピオン、そして世界チャンピオンまでのぼりつめてやる。
そう誓って内弟子になりました。
もう後には引けない。
崖っぷちの心境でした」
以来好きなバイクは断ち原付きで道場に通った。
187cm100kgの八巻建志が50ccのバイクにまたがる姿は、まるでサーカスの熊だった。
全日本デビュー
八巻建志は第17回全日本大会で全日本デビュー。
1回戦、2回戦、3回戦は判定勝ち。
4回戦の相手は増田章。
試合は前回の敗戦とまったく同じ展開となり、正拳ラッシュから左の下段でダウン。
立ち上がったところをすぐに左下段をもらって2度目のダウン。
2つの技ありをとられ1本負け。
試合は30秒で終わった。
内弟子になり人生を空手に賭けた結果がこれかと思うと情けなくて仕方なかった。
悔しさで眠れない夜が続き、やっと寝たと思ったらKO負けが悪夢となって蘇った。
この悪夢を振り払うには稽古に集中し身体をクタクタになるまで苛め抜くしかなかった。
打倒、増田を唱えながらサンドバッグを蹴りバーベルを挙げた。
「お前は精神的に弱すぎる どうしようもない!」
1986年6月、第3回ウエイト制大会重量級に出場するも、掴みの注意をとられ予選敗退。
この試合で廣重師範はあることに気づいた。
以前から稽古で口を開いてハーハー荒い呼吸をする八巻を見て注意していた。
「苦しくてもちゃんと鼻で呼吸しろ」
「押忍」
しかしそれは直らなかった。
中学3年生の時、高校生2人にケンカを売って逆にボコボコにされたとき、鼻が折れて顔がパンパンに腫れながら病院に行かなかったせいで、そのまま鼻腔が詰まっていたのである。
鼻で息ができないと腹式呼吸ができない。
廣重師範はそれを見抜いた。
「お前、鼻が悪いんだろう」
そう行って病院に連れて行った。
すると完治には鼻骨を削る必要があり、そうなると空手の試合は難しいという。
結局、手術はしたが応急処置で済ませた。
手術が終わり麻酔が醒めないまま朦朧とする八巻に廣重師範はいった。
「今度の神戸大会に西山が出てくる。
お前が予選で負けた大会の優勝者だ。
その男を倒してみろ。
いいな」
「押忍」
第2回神戸大会(現・全関西大会)は、1回戦、2回戦を無難に勝ち、決勝戦は西山芳隆選手だった。
「最初の30秒を凌げばスタミナに難のある西山は間違いなく失速する。
そして後半勝負」
これが廣重師範の作戦だった。
試合場に西山選手が上がると地元の神戸の選手だけに大歓声が飛んだ。
その突きや蹴りが出ると会場全体が震えるような大声援が響いた。
西山選手は声援に後押しされるように攻めまくった。
八巻建志はなす術なく後退させられ、おまけに顔面殴打、つかみの反則を繰り返した。
そして判定負けした。
雪辱を果たすつもりが見事返り討ちにされてしまった。
廣重師範は呆れ怒り怒った。
「何故、たった30秒が我慢できないんだ!
お前は精神的に弱すぎる
どうしようもない!」