【空手家】八巻建志(前編) ~それはふざけた兄が入れたソリコミから始まった~

【空手家】八巻建志(前編) ~それはふざけた兄が入れたソリコミから始まった~

その肉体、その身体能力、その空手は圧倒的。極真空手の全日本大会と世界大会で優勝。100人組手という荒行も達成した。しかしその格闘技を始めたきっかけは、兄がふざけて入れた剃り込み、そしてイジメに対する報復だった。


人生を狂わせたイタズラ

生まれたときの体重は4500gという巨大児だった。
幼稚園児時代に転がったサッカーボールを追って道路に出たところ、トラックと激突。
10m吹っ飛ばされ、周囲が
「死んだ」
と思う中、ムクッと起き上がり
「おうちに帰る
バナナ食べたい」
とスタスタ歩いていった。
まったく無傷で病院も行かなかった。
小学生時代、ブルース・リーに感動し、ビニールパイプをつなぎ合わせてヌンチャクをつくり、上半身裸で
「アチョー」
と振り回した。

中学校入学時、160cm、40kgというヒョロヒョロの体型だった。
長かった髪を切りスポーツ刈りになった。
部活動は野球部に入部した。
「どうせなら剃りを入れたらどうだ。
スポーツ刈りに剃り込みは似合うぞ。」
入学して数日後、兄がそういって嬉々とカミソリを入れた。
「どうもうまくいかない。」
しきりに首を捻りながら兄はカミソリを動かした。
「よく似合ってるぞ!」
そういう兄は顔がヒクヒクなっていた。
無残にも額から側頭部へ稲妻のような凄まじい剃り込みが2本入っていた。
翌朝、登校すると一躍注目の的だった。
職員室に呼ばれ、
「明日から丸坊主にして来い!」
と黒マジックで剃り込みを塗りつぶされた。

数日後には、教師だけでなく5~6人の上級生の不良グループにも目をつけられ体育館の裏に連れ込まれた。
そして
「制裁を加える」
とリンチが始まった。
顔を殴られ腹を蹴られ倒れこんだ。
喧嘩など1度もしたことがなかった。
サンドバッグのように殴られ蹴られた。
「剃り込みしているのにとんだ根性なしだな」
翌日から彼らは抵抗しないからだの大きな獲物に背後から飛び蹴りを食らわせ、便所で小遣いを巻き上げ、全身に唾をはき、やりたい放題やった。

八巻建志は何もできなかった。
抵抗しても喧嘩慣れした連中に勝てるわけがない。
下手すると殺されるという恐怖感。
周囲は触らぬ神に祟りなしとばかりに見ぬ振り。
家族に知られるには情けなく恥ずかしい。
誰かに相談すれば、いっそうエスカレートするかもしれない。
結局すべてをあきらめ、耐えるしかない。
真っ暗闇を袋小路に追い込まれ成す術もなく時が解決するのを待つ。
陰湿なイジメは、明るかった性格を内向的で陰惨なものにしていく。
滅多に口はきかない。
いつも暗く鬱々し、いつも下を向いて歩いた。
成績もみるみる低下した。

出会い

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「なんでオレばっかりこんな目に・・・」
「どうしたらこの地獄から抜け出せるんだろう。」
ある日、ふと1冊の漫画が目に入った。
家には格闘技好きの兄のおかげで格闘技漫画の山があった。
タイトル:「虹を呼ぶ拳」
原作:梶原一騎
画:つのだじろう
ひ弱な運動オンチの少年が空手を修行し鬼神のように強い人間に生まれ変わる-という物語。
むさぶるように読んだ。
そして泣いた。
「自分と同じじゃないか。」
「空手をやればこの自分も強くなれるかも・・・
この地獄を抜け出せるかも・・・」

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「タイガーマスク」
「あしたのジョー」
「空手バカ一代」
次から次に読んだ。
暗闇に一筋の光を見た気がした。
すべて梶原一騎作品だった。
賛否両論ある作家だが、たしかにこの人の作品には人を勇気づけ鼓舞する何かがある。
少なくとも大げさではなく八巻建志の人生は、これにより変わった。

修行開始

八巻建志は野球部をやめて柔道部に入った。
空手の代わりという安易な発想だった。
「奴らを見返す!」
その一念で稽古に励んだ。
しかし漫画のようにすぐに強くなれるわけがなかった。
柔道を始めても彼らに歯向かう勇気は持てずいじめは続いた。
しかし柔道のおかげで針金のようだった体に少しずつ筋肉がついていった。
得意技は巴投げ。
相手を後ろに投げる感覚がたまらなかった。
中学2年生になり身長は170cmになった。
イジメられているときも
「いつかぶちのめしてやる」
と思うようになった。
中学3年生になった八巻建志は、格闘技は足腰が基本-という梶原一騎漫画で得た知識をもとにスクワットを日課にした。
最初は50回からスタート。
1日毎に5回プラスしていった。
「いつかあの不良どもをこの手で・・・」
しかし結局、復讐の機会は無く彼らは卒業してしまった。

「強い男になりたい」
八巻建志は空手バカ一代の熱狂的なファンになっていた。
特にケンカ十段、芦原英幸が大好きだった。
彼がケンカを売るときのセリフ
「ねえ、ケンカ買わない?」
にシビれた。
「いつかオレもこの台詞を決めてやる」
そうかたく決めた。
庭に立てた巻き藁を叩き、鉄下駄を履いて蹴りの練習・・・
多少柔道にも自信があり
「そろそろケンカしなくては・・・」
と奇妙な義務感があった。
その思いは日増しに強くなった。

ある日の放課後、1人隣町に出掛け繁華街のゲームセンターへ入った。
憧れの芦原英幸になりきり実行に移す時が来た。
薄暗い店内、ズボンに両手を突っ込み目を細め恐い視線をつくり相手を物色した。
インベーダーゲームをピコピコしているリーゼント頭の高校生2人。
おもむろに近づいてトントンと肩を叩いた。
不機嫌そうに振り向いたそいつに言ってやった。
「ねえ、ケンカ買わない?」
相手はみるみる眉間にしわを寄せ凶暴な顔になり立ち上がるや言った。
「なめてんのか、コラ」
凄む相手を涼しい顔で倒す芦原英幸が脳裏に浮かんだ。
股間を蹴り上げ大外刈りで・・・
次の瞬間、突然後頭部が・・・
その場に倒れこんだ。
「上等じゃねえか」
「ぶっ殺すぞ」
怒声が響き、背中を蹴りまくられた。
1人は丸椅子を持っていた。
丸椅子が振り下ろされた。
「グシャ」
顔面にきな臭い香りが広がり、スーッと意識が遠くなり目の前が真っ白に・・・
ボロ雑巾のように地面を引きずるように帰りながら決心した。
「柔道じゃ駄目だ・・
空手をやろう」
鼻血が顔を朱に染め、顔面はドッジボールのようにパンパンに腫れていた。
鼻骨が折れていた。
このケガは後の空手人生に暗い影を投げかけることになる。

自分から仕掛けたストリートファイトに惨めに負け、ますます強い男への憧れは強くなった。
相手を掴まないと攻撃できない柔道に見切りをつけ、瞬時に相手を倒す一撃必殺の技を身につけるべく近所の空手道場に入門した。
本来、中学生は少年の部だったが、早く強くなりたい一心で年齢を偽り一般部に参加した。
稽古初日、
「誰か組み手をやりたい者はいるか?」
指導員に問われ八巻建志は勇んで挙手した。
175cm、60kg。
背が高く目つきが鋭く生意気に見えたのかもしれない。
指導員は初心者全員を壁に向かい正座させ見えないようにし、八巻建志は茶帯、黒帯に殴られ蹴られ何度も何度も倒された。
その度に
「立てよ。
組手したいんだろ」
容赦なく引きずり起こされ殴られた。
腹にタコだらけの拳がうなりをあげてめり込み吐き気が込み上げた。
その後も道場に行くたび組手という名のシゴキは続いた。
「これはイジメと同じじゃないか」
1ヵ月後、八巻は道場通いを辞めた。
強くなるためならいくらでも我慢するし努力できるが、空手のイロハを知らない者に対し空手の専門家が面白半分で仕掛ける組手はどう考えても納得できなかった。

藤原敏男(日本人初のムエタイ王者)とスパーリング

中学3年生の秋、八巻建志は本物の強さを求め黒崎道場に入門した。
少年マガジンの人気漫画「四角いジャングル」の影響だった。
黒崎建時は、大山倍達の右腕として極真空手の創生期を支え道場では鬼と恐れられた。
タイに渡りムエタイに挑戦し敗れ極真を脱会。
キックボクシングの指導者として打倒ムエタイを目指した。
そして藤原敏男を日本人初のムエタイ王者に育てた。
周囲は受験勉強一色。
しかし八巻建志は、
早朝:新聞配達
昼:学校
夜:受験勉強せず道場
という生活。
「何を考えているの?」
親にいわれて
「世界一強い男になりたい」
とはいえないまま道場に通った。
進学より将来の仕事より強い男になることがずっと大事に思えた。

しかし苦労して通う黒崎道場も簡単には期待にも応えてはくれなかった。
キックボクシングの日本のトップクラス選手が指導員をしていたが、ひたすらワン・ツーの練習。
それ以外教えてくれなかった。
「ワン・ツー以外を教えてくれませんか?」
「ワン・ツーが1番大事なんだ。
黙ってやっていろ!」
プロキックボクサー育成が主な道場で中学生は幼すぎたのかもしれない。
藤原敏男のタイトルマッチを控えたある日、報道陣を前にして公開スパーリングが行われた。
そこで八巻に白羽の矢が立った。
「君、リングに上がって・・・」
大きな相手との写真が欲しかったのだろう。
藤原敏男は試合前で気合が入っていた。
実戦さながらのスパーリングだった。
ある程度力を抜いてくれているのにパンチやキックは恐ろしいほど強くヘッドギアと16オンスのグローブでがっちりガードしても、鋼鉄の棒で思い切り殴られるように身体の芯まで衝撃がきた。
本気なら内臓破裂で即死だと思った。
パンチも蹴りも速すぎてみえず
「シュッ、シュッ」
と空気を切り裂く音しか聞こえずいいように打ち込まれ、最後は息絶え絶えになってへたり込んだ。
スパーとはいえ藤原敏男の強さを体感し、強い男への道程は限りなく遠く険しいと思い知らされた。
結局、黒崎道場は半年で辞めたが、中学校卒業時には日課のスクワットは1000回のノルマに軽くこなせるようになった。
高校には進学したが両親は大反対する中、1ヶ月で中退した。
「机の前にいる時間があるならスクワットやっていたほうがいい。
とにかく時間を無駄にしたくなかった。
物事はやるかやらないか、白か黒か、2つに1つしかない。
親兄弟を含め周囲には大変な迷惑だったが、私は強くなれば人生は開けると信じていた。
イジメられバカにされ続けた人生におさらばするには勉強では役不足。
やはり空手以外に道はなかった」

鉄下駄修行

ある日、精神力も伴わなければ武道家ではない-と考え、精神修行のため両足に鉄下駄をつけて渋谷の街に出た。
電車ではクスクス笑とヒソヒソ話が起きた。
「これしきで惑わされては駄目だ」
自分を励まし、何食わぬ顔で窓の外をみた。
電車の中はまだ良かった。
駅に降りて道を歩き出すと音が出る。
ガランゴロン。
ガランゴロン。
凄まじい音を立て渋谷の雑踏をまわると注目の的となった。
八巻建志は、人々の目に負けて百貨店に逃げ込んだ。
しかし密閉された空間は音響効果が良かった。
グヮランッ、ゴゴン、グヮランッ。
グヮランッ、ゴゴン、グヮランッ。
雷のような音が鳴った。
店員や客が集まってくた。
「限界だ」
恥も外聞も捨て裸足でその場を離れた。
こうして鉄下駄修行は終わった。

極真空手城南支部入門

八巻建志は、極真空手城南支部を見学に訪れた。
当日は昇級審査の日で組み手の真っ最中だった。
「バシン!」
濡れ雑巾を弾くような音がした。
上段回し蹴りをモロにくらった人間が目の前に吹っ飛んできた。
床に倒れピクピク痙攣している。
それをみて八巻建志は入門を決めた。
やめたではなく決めた。
同じような見学者は4~5人いたが、その中に入門者はいなかった。
極真空手に入門したのは、中学を卒業し2ヵ月後の事だった。
牛を倒し、プロレスラーやヘビー級ボクサー相手にKOの山を築いた大山倍達こそ八巻建志の最大のヒーローだった。
地上最強の格闘技、極真空手の道場。
「凄まじい、想像を絶する稽古をしているんだろうな。」
そう思うと武者震いした。

廣重毅師範

しかし実際に入門してみると、廣重毅師範は優しい先生だった。
先輩の指導も親切丁寧で、練習量も驚くほどではなかった。
基礎練習の突き蹴りは各々10本で終わった。
最初に入門した空手道場は蹴り1つ最低100回はこなした。
道場内は和気あいあいとした雰囲気で拍子抜けした。
廣重師範の指導は技の意味から嚊んで含むように説明した。
そして教わる側は乾いたスポンジが水を吸うように技を吸収していった。
それは魔術的に上手い指導だった。
だから城南支部は次々に強豪を輩出した極真の名門だった。
他にも本部道場をはじめ、城西支部、城西、兵庫、京都など数ある極真の名門道場の中で、城南支部の強さの秘密は、廣重師範の指導によって稽古を続けるうちに空手が面白くてたまらなくなるという点だった。
初心者は空手の面白さを学び、本気で強くなりたい者は徐々にハードなトレーニングに参加していく。
合同稽古を終えても各自が遅くまで自主トレに励む。
まさに切磋琢磨という言葉がピッタリな道場だった。
「廣重師範の空手は面白くてたまらず、ほとんど休まず道場に通った。
だが中学時代のイジメのおかげで、私の性格は暗く内向的になっていた。
あまり周囲と言葉を交わさず、なめられないように目つきばかり鋭いかなり不気味だった練習生だったと思う。
道場では『押忍』の一言で用は足りるので、口下手な私には好都合だった」

堺貞夫

当時、城南支部で一番練習していたのは堺貞夫だった。
身長157cm、体重58kg。
日頃から口数が少なく、基本の1本1本すべてに手を抜かず黙々と稽古に励んだ。
その姿はまさに鬼気迫るものがあった。
這、立禅といった中国拳法の修行法を60分ぶっ続けでやれたのも堺だけだった。
試合前には部屋を綺麗に掃き清め下着も新調した。
半ば死を覚悟して試合に臨んだのだろう。
空手に賭ける覚悟が並外れていた。
まさに武人であった。
1985年の極真空手第17回全日本大会では、小柄ながらも華麗な蹴り技で大柄な対戦相手を次々と撃破し続けた。
4回戦でこの大会に優勝する松井章圭と対戦した堺は、松井の猛攻をほとんど見切って、崩し、受け流し、本戦・延長戦ともに引き分けに持ち込んだ。
だが再延長戦に突入する直前、大山倍達総裁がクレームを入れた。
「何故一方的に攻撃している方に旗を上げないのか」
そして審判員が全員入れ替えという異常事態に発展した。
そして再延長の結果、副審4人のうち2人が引き分け、残りの2人と主審が松井の勝利とし、3-0の判定で松井の勝利となった。
堺は負傷らしい負傷もなくクールに試合場を立ち去った。
これが引き分けだったら大会規定により体重判定による勝敗決定となっていた。
(堺、60kg、松井85kg)
この判定に関して、当の堺本人は一切コメントはしていない。
松井は
「まるで勝てた気がしない」
と試合後に感想を述べた。

緑健児

また城南支部には緑健児というカリスマがいた。
その大胆で華麗な空手は「牛若丸」、後に体重無差別の世界大会を165cmの小さな体で優勝したときは「小さな巨人」と呼ばれた。
緑健児の努力も瞠目すべきものがあった。
「おーい、八巻ィーちょっと来ーい」
緑がトイレから呼ぶ。
「押忍。
なんですか?」
「いいもん見せてやる」
手招きされ恐る恐る近づくと便器がまっ茶色になっている。
「なんですか、これ?」
「血尿だよ。
ケ・ツ・ニョ・ウ。
お前も血尿出すくらい練習積め。
俺なんかしょっちゅうなんだから・・」

リベンジ

八巻建志は、6月に入門し、9月に昇級審査で黄帯、12月に緑帯になるとケンカ修行を再開した。
「ケンカ買わない?」
黒のジャージ姿で川崎の盛り場をうろつき生意気そうな奴に売って回った。
素人のキックやパンチは道場の稽古に比べれば格段に遅い。
わざとパンチをきめさせて倍にして返した。
大抵は右回し蹴り1発で人形のように倒れた。
2、3人なら1分立たせておかなかった。
「下段、中段、上段、どの蹴りがいい?」
「なんだそれ?
お前頭おかしいのか」
「いいか。
下段は脚を折る。
中段は内臓破裂。
上段は首を折るんだよ。
どれがいい?」
ある日、近くの体育館でサンドバッグを蹴っていると中学時代にいじめられた不良グループがゾロゾロ近づいてきた。
人数は7、8人。
ニヤニヤしながら歩いてくる。
「おう!実験台がいるぞ」
「久しぶりにパンチを試してみるか」
八巻建志は上段回し蹴りを放った。
「ドスンッ」
蹴りがサンドバッグにめり込み衝撃音が響いた。
グループは無言で去って行った。

孤立

色帯になると初心者向けの優しかった稽古は一変した。
道場を縦横に移動し突き蹴りを連続で出す。
移動稽古、コンビネーションの反復、ミット打ち・・・
床に汗溜まりができた。
組手も本格的になった。
当時、すでに身長180cmを超えていた八巻建志は、練習生同士なら体力で圧倒できた。
問題は先輩たちだった。
身体も大きく無口で無愛想。
しかも目つきが悪い。
ここでも目の敵にされてしまった。
道場の組手稽古では
「まいりました」
といえば先輩は攻撃の手を休めてくれる。
しかし八巻建志は、たとえ先輩でも相手に屈服するのが嫌でたまらなかった。
極真の黒帯は生身の肉体そのものが凶器といってよい。
蹴りは圧縮バットをへし折り拳はブロック2枚を重ねて打ち砕く。
その手加減なしのパンチ、キックがうなって飛んでくる。
それも10発、20発と・・・
後に八巻が後輩と組手をしていたとき、廣重師範が注意した。
「もっと軽くやりなさい」
「押忍、軽くやっていますが・・・」
廣重師範はしみじみといった
「お前は軽い組手を経験しなかったんだな」
入門から先輩の手加減のない激しい組手に揉まれ軽い組手を知らなかったのである。
「軽い組手、受けてもらう組手など私には無縁だった。
ケンカと違って逃げる場所のないガチンコの組手はムチャクチャ怖い。
おそらく経験した者でないとわからないだろう。
小便ちびってしまいそうな怖さとでもいうか・・・
その怖さを振り払うためにガムシャラに突進し狂ったように暴れた」

八巻建志は、ウエイター、弁当屋、ガソリンスタンドなどアルバイトを転々として道場に通った。
しかしどこでも揉めた。
アルバイト仲間は大学生がほとんどだったが
「チャラチャラしやがって」
と思えてしかたなかった。
正社員には
「今時高校も出ないでどうするつもりだ?」
「空手やって強くなって何の意味があるの?」
「人生そんなに甘くないよ」
などといわれ、そういわれるたびに怒り、殴り倒して辞めた。
道場でも先輩に目の敵にされ、他の道場生とはほとんど口をきかなかった。
孤立していた。
やがて茶帯になり街のケンカで勝てる強さを獲得してしまうと、憧れの黒帯を目の前にして道場から足が遠のき始めた。
代わりにバイクに夢中になった。
皮のつなぎを着てブーツを履きチューンアップしたヤマハRZ350に跨り箱根の峠を攻めた。
100km/h以上でコーナーに突っ込んで膝を路面にするくらい車体を倒して回り込む。
タイヤが悲鳴を上げ、アクセルを吹かして車体を起こしコーナーを抜けた。
いつしか道場通いが月1回、2ヶ月に1回とどんどん疎遠になって行った。
ある日、バイクがコーナーを曲がり切れずガードレールに突っ込んだ。
右足が骨折し入院した。
「高校行き直そうか」
「どこかの社員になろうか」
悶々と考える毎日だった。
退院しても道場には行かなかった。
将来に何の展望も見出せないまま漠然とバイトをした。


初試合

父が一通の手紙を差し出しいった。
「空手の先生からだ」
便箋には丁寧な文字で
「息子さんは空手のチャンピオンになれる資質を持っています。
どうか1日も早く道場に復帰するよう、お父さんからもいって下さい。
お願いします」
と綴ってあった。
「いい先生じゃないか。
空手、もう少しやってみたらどうだ」
空手に反対し正業に就けと言い続けていた父がいった。
八巻建志は道場に復帰した。
すると廣重師範はウエイト制大会への出場を薦めた。
ウエイト制大会は、体重無差別を基本とする極真空手の中で、毎年夏に大阪で行われる体重別のトーナメントで、軽量級、中量級、軽重量級、重量級の4階級において優勝が争われる。
ちなみに毎年秋に行われる全日本大会と4年に1回行われる世界大会は体重無差別で行われる。
1984年4月、大阪で行われた第1回極真空手ウエイト制大会に八巻建志は参加した。
このときの体格は、187cm、79kg。
会場では、岩のようにゴツゴツした七戸康博が目を閉じて座していた。
外館慎一は191cm105kgもあった。
1回戦、八巻建志は遮二無二に攻めて判定勝ち。
そして2回戦の相手は西山芳隆。
180cm110kgの巨体はゴムマリのように柔らかく、蹴りがポンポン出た。
八巻建志は、蹴りから突きの連打を入れられ何もできないままズルズル後退し判定負けした。

ウエイトトレーニング開始

以後、稽古は精力的にこなしたが無愛想な態度は変わらなかった。
先輩との酒の席においても、
「お前、暗いよ」
「押忍」
「少ししゃべりなよ」
「押忍」
「ビールがいい、酒か?」
「押忍」
こんな会話が延々と続いた。
「僕が八巻先輩と口をきいてもらえたのは、入門して4年後でした。
無口で目つきの鋭い八巻先輩はひたすら怖い存在でした」
(八巻の後輩:岩崎達也)
国立競技場に通いウエイトトレーニングも開始した。
当初ベンチプレスが50kgだったが1ヶ月で100kgが挙がった。
1日に丼飯4~5杯を4回。
焼肉、トンカツ、ラーメン、アイスクリーム・・・
とにかく何でも食いまくり体重アップに努めた。
しかし型は大嫌いで、
「藤原敏男さんは型なんかやらないのに強いじゃないか・・・」
「サンドバッグ蹴りたいよ・・・」
「こんな稽古より組手のほうが強くなれるのに・・」
と型の稽古にはいるとため息をついた。
「何故あんなにチンタラ動いている八巻先輩がまったく注意されず、一生懸命やっている自分が叱られるのか不思議でならなかった」
(後輩:岩崎達也)

白熊?増田章

1985年2月、1日4回の大食とウエイトトレーニングで体重を90kgにまで増えた。
道場内の試合が行われたとき、ガッツポーズをして審判に注意を受けたり、足払いで倒されそうになると相手を掴んで引きずり倒し拳を振り上げ眉を寄せ睨んだり、スリップダウンしたときはネックスプリングで立ち上がったり・・・
無茶苦茶だった。
3月、首都圏交流試合においても不遜な態度は変わらなかった。
「あいつ格好つけやがって」
「生意気だ」
会場の声は完全に無視した。
2回戦、相手は身長の低く頭から突っ込んできた。
2度も相手の顎に拳が入り、3度目には相手が倒れ、4度目には顎が折れて病院送りになった。
八巻建志は悪いと思ったがなめられないようにと態度は改めなかった。
3回戦、中断回し蹴りで1本勝ち。
4回戦、周囲のひんしゅくを買いながら判定勝ち。
5回戦、相手は増田章。
若干19歳で全日本大会にデビューし、すでに世界大会にも出ている選手で、その爆発的なラッシュ力は「爆撃機」と呼ばれた。
まるで岩石に手足をつけたような体で、ベンチプレス185kg、スクワットは200kgを20回挙げ、肩幅が広く、背中は筋肉が発達し過ぎて猫背にみえ、お尻の大きさで道着の裾が跳ね上がり、拳が大きく前腕はまるでマグロみたいな形をしていた。
夏、海へ行きタンクトップを着ていると地元の子供が、
『ママ~、白熊がいるよ~』
といったという。
「なんで世界大会に出る選手がこんな小さな大会に出てくるんだよ」
八巻建志は内心そう思いながらも不遜な態度はやめなかったが、試合は一方的に技ありを2本取られ1本負けした。
技の1つ1つが身体の奥まで響き、世界レベルの選手の強さを思い知らされた。

内弟子となる

黒帯になった八巻建志に先輩が助言した。
「師範に内弟子のお願いをしてみたらどうだ?」
「押忍」
即決で空手一本の生活に入った。
内弟子は誰も希望すればなれるものではない。
師範が見込んだ道場生に限られる。
内弟子は道場生にとっても一大決心だが人生を預かる師範にとっても大きな覚悟がいる。
廣重師範はいう。
「空手の選手は恵まれていない。
レスリングも柔道も企業や学校という受け皿があって、選手は後顧の憂いなく練習に専念できる。
空手の選手も身を削って稽古を積んでいるのに現役を引退したらただの人になってしまう。
これはおかしい。
まして極真空手の稽古は仕事の片手間にできるほど甘くない。
私は空手を一生懸命やった人間が報われ社会的に評価を得られる道を切り拓いてやりたい」
内弟子は朝の掃除から事務処理、道場での指導まで行う。
月の給料は3万円。
八巻建志の同級生には社会人や大学生になっている者が多く、なかには妻帯者もいた。
「いい年してとか空手なんてなど散々いわれたが、私は他人より秀でているものは空手しかなく中卒で20歳を過ぎていまさらろくな働き口もあるはずもなく、この道で絶対に成功してやる。
日本チャンピオン、そして世界チャンピオンまでのぼりつめてやる。
そう誓って内弟子になりました。
もう後には引けない。
崖っぷちの心境でした」
以来好きなバイクは断ち原付きで道場に通った。
187cm100kgの八巻建志が50ccのバイクにまたがる姿は、まるでサーカスの熊だった。

全日本デビュー

八巻建志は第17回全日本大会で全日本デビュー。
1回戦、2回戦、3回戦は判定勝ち。
4回戦の相手は増田章。
試合は前回の敗戦とまったく同じ展開となり、正拳ラッシュから左の下段でダウン。
立ち上がったところをすぐに左下段をもらって2度目のダウン。
2つの技ありをとられ1本負け。
試合は30秒で終わった。
内弟子になり人生を空手に賭けた結果がこれかと思うと情けなくて仕方なかった。
悔しさで眠れない夜が続き、やっと寝たと思ったらKO負けが悪夢となって蘇った。
この悪夢を振り払うには稽古に集中し身体をクタクタになるまで苛め抜くしかなかった。
打倒、増田を唱えながらサンドバッグを蹴りバーベルを挙げた。

「お前は精神的に弱すぎる どうしようもない!」

1986年6月、第3回ウエイト制大会重量級に出場するも、掴みの注意をとられ予選敗退。
この試合で廣重師範はあることに気づいた。
以前から稽古で口を開いてハーハー荒い呼吸をする八巻を見て注意していた。
「苦しくてもちゃんと鼻で呼吸しろ」
「押忍」
しかしそれは直らなかった。
中学3年生の時、高校生2人にケンカを売って逆にボコボコにされたとき、鼻が折れて顔がパンパンに腫れながら病院に行かなかったせいで、そのまま鼻腔が詰まっていたのである。
鼻で息ができないと腹式呼吸ができない。
廣重師範はそれを見抜いた。
「お前、鼻が悪いんだろう」
そう行って病院に連れて行った。
すると完治には鼻骨を削る必要があり、そうなると空手の試合は難しいという。
結局、手術はしたが応急処置で済ませた。
手術が終わり麻酔が醒めないまま朦朧とする八巻に廣重師範はいった。
「今度の神戸大会に西山が出てくる。
お前が予選で負けた大会の優勝者だ。
その男を倒してみろ。
いいな」
「押忍」

第2回神戸大会(現・全関西大会)は、1回戦、2回戦を無難に勝ち、決勝戦は西山芳隆選手だった。
「最初の30秒を凌げばスタミナに難のある西山は間違いなく失速する。
そして後半勝負」
これが廣重師範の作戦だった。
試合場に西山選手が上がると地元の神戸の選手だけに大歓声が飛んだ。
その突きや蹴りが出ると会場全体が震えるような大声援が響いた。
西山選手は声援に後押しされるように攻めまくった。
八巻建志はなす術なく後退させられ、おまけに顔面殴打、つかみの反則を繰り返した。
そして判定負けした。
雪辱を果たすつもりが見事返り討ちにされてしまった。
廣重師範は呆れ怒り怒った。
「何故、たった30秒が我慢できないんだ!
お前は精神的に弱すぎる
どうしようもない!」

「お前に普通の練習は必要ない」
数日後の朝練から廣重師範は八巻建志にスペシャルメニューを課した。
スペシャルメニューは2つ。

1 ベンチプレス台に両足を乗せて腕立て伏せの姿勢。
 反った背中に10kgのバーベルプレートを3枚乗せる。
 この姿勢のまま15分間。
 プレートが落ちると
 「はい、もう1回」
 と15分間耐えられるまで何回でも続いた。

2 両手を頭の後ろに組んで中腰になる。
 くの字に曲がった脚の膝の後ろに木刀の刃を立てて挟む。
 この姿勢を15分間。
 膝を曲げれば木刀が肉に食い込み、膝を伸ばせば木刀が落ちてしまう。
 落ちればやり直し。

八巻建志の体はブルブル震え、脂汗が浮き出た。
「15分経ちました」
「バカヤロウ!!
俺が止めていいというまでだ。
もう10分!」

内弟子の生活

廣重師範は稽古が終わると内弟子全員を自宅に呼んで飯を食わせた。
フライドチキン、サラダ、煮物、おにぎりなどが大皿に山盛りになってドンと置かれた。
「さあ食べろ」
内弟子たちはそれを腹へ詰め込んでいった。
弟子の食いっぷりがいいほど廣重師範は喜んだ。
この食事会では廣重師範の修行時代の話がついてくる。
それは大山倍達のケンカ修行、初期の極真空手の猛者たちの凄まじい練習などである。
「時々、俺もチャンピオンになっていればなあと思うことがある。
お前たちに具体的なアドバイスをしてもっともっと強くしてやれるのに・・・
頑張ればチャンピオンになれるんだと自信を持って言えるのに・・・
残念だよなあ」
廣重師範は、25歳で極真空手に入門し、28歳で全日本大会にデビュー。
全日空大会での最高成績は4位である。
八巻建志は、廣重師範のこの言葉を聞いて目頭を熱くした。
廣重師範の指導する空手が世界一であること自分が証明してやろうと思った。

当時の内弟子のスケジュールは、朝9時、道場入りし掃除と事務処理を行う。
10時から14時まで朝練。
柔軟運動、サンドバッグ、ミット、自由組手。
その後、道場生の指導。
水曜と土曜は国立競技場へ行ってウエイトトレーニングをみっちりと2、3時間。
帰宅は22時くらい。
日曜日が休日となった。
「周囲は「何が楽しいの?」と聞いてきたが、もちろん目的はただ1つ最強の男。
強くなることが楽しいのだ。
彼女が欲しい、旅行がしたい、洒落た趣味の1つ2つもやってみたい。
これでは絶対に勝てない。
「趣味は?」と聞かれると決まってウエイトトレーニングですと答え失笑を買っていたが冗談でもなんでもない。
ウエイトを1人黙々とこなしている時間が1番心安らぐ時間だった」
腹いっぱいに食い物を詰め込みウエイトトレーニングをこなし全身に筋肉のよろいをまとっていった。
体重はすぐに100kgを超えた。
相手の攻撃はがっちり受け止め、逆に突進し体重を乗せた突きと蹴りを叩き込んだ。
道場内の試合では右フックで相手の肋を折った。
相手はその後2年間はまともな組み手ができなくなった。

天才空手家 松井章圭

極真空手第18回全日本大会に八巻建志は110kgの体で挑んだ。
1回戦~準々決勝の4試合は、1本勝ちはないが延長無しの判定勝ちで順調に勝った。
準決勝の相手は松井章圭だった。
スピード抜群の蹴りが上段中断下段とビュンビュン空気を切り裂いて飛んでくる。
それはまるで意志を持つ生き物のように変化した。
突きとのコンビネーションも抜群でつけ入る隙がない。
その華麗な組み手を前に体力とパワーにモノをいわす組み手は空転し、5-0の判定負け。
完敗だった。
最終的に3位入賞。
自動的に来年行われる第4回世界大会への出場権利を得た。
大会後、大山倍達総裁に招かれた。
「よくやった」
大山倍達は分厚い手で肩をたたいた。
「君たち世界は広いよ。
想像もつかないような強豪が山ほどいる
もっと体を大きくしなくちゃ勝てないよ」

ガンダム

1987年3月、八巻建志は20人組手達成し2段となった。
世界大会を8ヵ月後に控え稽古は激化した。
拳で肋骨を折られる者、上段回し蹴りで昏倒する者、上段前蹴りで歯が吹っ飛んだ者・・・
負傷者が続出し、組手の稽古が成り立たなくなっていった。
そこで廣重師範は、八巻建志の相手に胴を覆うプロテクター、手足に分厚いサポーターとグローブ、顔面はヘッドギアをつけさせた。
これで怪我は軽減でき思い切った組手ができた。
この稽古はガンダムと名づけられた。
ガンダムは防具が攻撃力を吸収してしまう。
打っても打っても相手は前に出てくる。
「ガンダムがなかったらお前なんか1発だ」
突然、八巻建志はガンダムを無茶苦茶に殴り蹴りまくり突き飛ばした。
ガンダムは恐れをなしてトイレへ逃げ込んだが八巻建志はトイレまで追いかけた。
他の道場生が止めに入ってなんとか暴走は収められたがガンダムの目には涙が滲んでいた。
「せっかく相手をしてくれているのに、いったいお前は何を考えているんだ!」
廣重師範は怒った。
「とても試合に出場する資格はない。
明日から道場へ来ないでよろしい」
そういってスタスタと去った。
破門宣告を受けた八巻建志に湯沢元美が声をかけた。
湯沢は城南支部で最も古参で廣重師範の片腕的存在だった。
「やばいよ、八巻。
師範、本気だぞ。
あの怒りようはただ事じゃない」
「どうしたらいいんでしょう」
湯沢は顔を曇らせながら腕組みをした。
しばらく思案すると二カッと笑顔をみせた。
「五厘刈りだよ」
「五厘苅りですか?」
「そう!
本当に悪いと反省したときは頭を丸めてお詫びするもんだ。
八巻、今すぐ床屋に行って五分刈りに丸めてこい」
八巻建志は、その日のうちに床屋にいき頭を丸め師範宅を訪ねた。
廣重師範は玄関に出てきた。
「いったいお前は何を考えているんだ」
「押忍、申し訳ありませんでした」
一応これで一件落着となった。

太り過ぎ

10月、世界大会1ヶ月前、
「体重アップが1番」
という八巻建志の体重は120kgに達した。
しかしここで異変が起きた。
階段を上がるだけで息が弾み胸が苦しくなった。
明らかに体重オーバーだった。
急激に減量に転じて110kgまで落とした。


11月6~8日、極真空手第4回世界大会が東京九段の日本武道館で行われた。
ヨーロッパ最強の男:ミッシェル・ウェーデル、ブラジルの業師:アデミール・ダ・コスタ、黒豹:マイケル・トンプソンなど外国強豪選手の出現。
中村誠という絶対王者の引退。
日本の王座死守は危ないと思われた。
15人の日本代表の控え室には異様な雰囲気が漂った。
選手は空手母国のプライドとプレッシャーに苦しめられ、まるで殺し合いに出て行くような、そんな殺気が充満していた。
八巻建志は1回戦、2回戦、3回戦は判定勝ち。
4回戦の相手は、優勝候補の一角、ブラジルのアデミール・ダコスタ。
試合が始まるとアデミールは柔軟な上段への蹴りを飛ばした。
八巻建志はがっちりブロックし突きと蹴りを返すが軽快なステップで逃げられる。
本戦、延長1回、2回と決着はつかず勝負は体重判定へ。
10kg以上の差があれば軽いほうの勝ちとなる。
アデミール・ダコスタ、85kg。
八巻建志、110kg。
25kg差でアデミールが勝った。

決勝戦は、松井章圭 vs アンディ・フグだった。
アンディ・フグは戦前はノーマークの選手だったが爆発的な強さで勝ち上がった。
その踵落としはスピーディーで破壊力があり1本勝ちを量産した。
過去にも極真空手の選手でも踵落しを使う選手はいるにはいたが、一撃必殺の技にまで磨いたのはアンディ・フぐが初だろう。
しかし松井章圭は踵落としに下段後ろ回し蹴りを合わせた。
アンディが軸足を払われて倒れた
0.何秒の間違いで踵落しが顔面が入るかというタイミングのカウンターだった。
しかし互いに決定打はなく一進一退で本戦が終わる。
延長戦でアンディの突きが誤って松井の顔面に入り、反則による注意1が与えられた。
アンディ・フグは両手で顔を覆った。
その後、逆転を狙ってアンディ・フグのパワフルな攻撃が松井章圭を襲うが松井章圭を崩すことはできず、松井章圭の勝ちとなった。
結果的に大きいと思っていた外国人選手にしても、
2位のアンディ・フグ、89kg
3位のマイケル・トンプソン、83kg
5位のアデミール・ダ・コスタ、85kg
197cmのミッシェル・ウェーデルでも100kgあるかないか。
八巻建志の110kgは明らかに太り過ぎだった。
体重=強さというのは幻想だった。

肉体改造!脂肪を落とし筋肉を増やす

渡辺茂

世界大会終了後、八巻建志は肉体改造を決意し川崎のスポーツジムに通い始めた。
そこで出会ったのが渡辺茂インストラクターだった。
「無駄な肉がつき過ぎているな。
脂肪なんて無意味だよ。
重りをつけているのと同じことだ。
その身体では勝てない。
筋肉で体重を増やしていかないと本当に強くなれないよ」
渡辺茂は現役のボディビルダーで、過去には極真空手の選手でもあった。
肉体改造は脂肪を落とすことから始まった。
食事から徹底して油分を抜かれた。
肉は、豚・牛肉は油が多いので鶏肉にささみを蒸したもの。
サラダ。
魚。
飲料は水か牛乳。
調味料は一切無し。
黄身を抜いた卵を1日40個。
どうしてもトンカツを食べないといけないときは衣を剥がして食べた。
細心の注意を払った食事によって、半年後には体重は110kgから95kgに絞られた。
そこから筋肉をつけて102kg~103kgを維持。
ウエイトトレーニングも渡辺の指導のもとで徹底して行われた。
「絶対に挙がる。
もっと集中しろ。
もっと筋肉を意識するんだ」
こうして確実に筋力アップしていった。

パニッシャー

ドルフ・ラングレン

1988年5月、ハリウッドからドルフ・ラングレン主演「パニッシャー」への出演依頼があり、7月にはロケ地のオーストラリアへ旅立った。
ドルフ・ラングレンは、身長198cm体重100kg。
極真空手の世界大会経験者で、あの中村誠を追い詰めたほどの実力者である。
八巻建志は、撮影の合間は稽古に充てた。
街のジムでトレーニングをし極真空手シドニー支部に出稽古した。
外国だけあって身長180~190cm級の道場生がたくさんいる。
少々のことでは壊れないだろうと組手はフルパワーで飛ばした。
相手は次から次へ倒れていった。
しかし活きがいいかわりはいくらでもいた。
怒声を上げて突進してくる相手を遠慮なくぶっ飛ばした。
週1回の出稽古だったが、稽古の参加者が1人2人と減っていき、1ヵ月後には全員が来なくなった。
まさにパニッシャー(処罰する者、こらしめる者)だった。

マサカリキック

帰国したときは、すでに極真空手第20回全日本大会まであと1ヶ月だった。
大急ぎで調整を始めた。
ボディの打ち合いの稽古を行っていたとき、この稽古は打たれ強さを養う目的で行われ、2人が互いが交互に拳でボディに叩き込み合うというものだが、八巻建志の攻撃を恐れたパートナーが肘を落としてしまった。
左拳がその肘に当たり親指が複雑骨折。
蹴りと右手1本で戦うしかなくなった。
11月20日、 東京の両国国技館で行われた極真空手第20回全日本大会で、八巻建志は1回戦から準々決勝までの5試合をすべて延長無しの判定勝ち。
内心、
「この大会はもらった」
と思った。
準決勝の相手は石井豊選手。
過去に大きな実績がないノーマーク選手だったが、独特の跳ね上げるような回し蹴り、マサカリキックを振るって勝ち上がっていた。
石井豊は、本部道場でコツコツと稽古を積み上げ、拳は重くマサカリキックは速く鋭く、ディフェンスもうまく、打たれ強かった。
試合は延長2回の末体重判定で石井豊が勝った。
八巻建志はケガをした自分と格下の相手に油断した自分が嫌になった。
落ち込んで、思い詰めて、名前が悪いんだろうと「健二」を「健志」に変えた。
また再び周囲と距離を置くようになった。
試合で当たりそうな先輩や同輩と親しくすると自分のこの甘い心では必ず隙ができる。
一緒に酒を飲み談笑するのは引退してからで十分。
今は勝負に専念しようと決意した。
「次は優勝しかないと私は燃えた」
稽古は厳しくなりガンダムも日夜熱を帯びた。

ベンチプレス230kg 、スクワット300kg 背筋力205kg 100m12秒フラット

25歳の八巻建志の肉体は、パワートレーニングで筋肉の塊と化し、しかも体のキレ、スピードは増した。

身長186.5cm
体重104kg
体脂肪率16.5%
ベンチプレス230kg
ハーフスクワット300kg
背筋力205kg
100m走12秒フラット
胸囲125cm
前腕囲
右32.4cm
左31.9cm
上腕囲(伸展)
右42.5cm
左44.3cm
大腿囲
右71cm
左72cm
下腿囲
右47cm
左46cm
握力
右73kg
左71kg
垂直跳62cm
立位前屈27cm
肺活量6200cc

「渡辺さんに指導してもらっていたジムの最も重いダンベルが40kg。
パワーアップするにつれ物足りないと感じるようになったが、ちょうどその頃、渡辺さんがジムを移るという話になり、渡辺さんがいなくては意味がないから私もそのジムを離れた。
そして東京中を駆け回り重いダンベルのあるジムを探し出した。
60kgのダンベル・・・
おそらく日本で1番重いものだと思うが・・・
私にとって捜し求めていた恋人のようなものだった」

狂気の全日本

極真空手第21回全日本大会の1ヶ月前、稽古を終えて夜帰宅する途中、突然、背筋が波打ちブルブル震えはじめ、今まで経験したことのない猛烈な痛みが走った。
八巻建志は立っていられなくなり公園のベンチに倒れこみ、そのまま2時間動けなかった。
オーバーワークで筋肉が悲鳴をあげたのかもしれないが、何か得体の知れない力が湧き上がってきているような感じがしてならなかった。
12月23~24日、東京両国国技館で極真空手第21回全日本大会が行われた。
八巻建志は、1回戦で左足甲を相手の膝にぶつけ亀裂骨折。
3回戦、闘将:木元正資の突貫攻撃をがっちり受け止め下段で止めて正拳で押し本戦判定勝ち。
4回戦、小柄なテクニシャン:山根誠治をじっくり追い詰め右下段回し蹴りで1本勝ち。

準決勝の相手は滝田巌だった。
身長177㎝、体重88kg。
ゴツゴツした筋肉質の身体にがっちり固めたパンチパーマ。
「目標は世界チャンピオン。
八巻選手?
まったく問題ありません。
単なる通過点です」
(滝田巌)
「私に喧嘩を売るだけあって、さすがに負けん気の強そうな顔をしていました。
睨んでやると睨み返してきました」
(八巻建志)
試合開始の太鼓がなると両者、放たれるように突進し打ち合った。
「上等じゃねえかこの野郎、ぶっ殺してやる」
八巻建志は、川崎の繁華街で喧嘩を繰り返していたころの凶暴な自分に戻り狂ったように攻撃した。
胸元へ正拳を打ち下ろし、下突きでレバーをえぐり、追い詰めて膝蹴り、下段蹴りのラッシュ。
このとき八巻建志はヨダレを垂らしながら攻撃していた。
闘志が燃え盛り、ほとんど狂気の世界にいた。
審判の旗が5本とも八巻建志に上がった。

準決勝は、過去に2回も1本負けをした増田章だった。
試合開始早々、増田章は正拳を連打しラッシュ。
八巻建志は腰をしっかり落とし下段回し蹴りで内足を蹴って突進を止め、逆に正拳を打ち込んだ。
中央でもつれ合い主審が分けると両者は激しく睨みあった。
2分、増田章は体を密着させ接近戦で拳をボディに叩き込む。
この時、少し下がった増田の頭部を八巻建志が右膝で突き上げ顎を打ち抜いた。
増田章はガクッとのけぞったが、しかしそのまま体をあびせて一緒に倒れこんでダメージを覆い隠した。
延長戦で八巻建志は下段回し蹴りから右ボディフックをいれ前屈みにさせ、膝蹴りを連打。
増田章は防戦一方となってずるずる下がり判定勝ち。

決勝戦の相手は、田村悦宏だった。
田村悦宏は元ラグビー選手。
体重110kgの体で重い突きと下段回し蹴りで相手を圧倒するスタイル。
試合は壮絶な打撃戦となった。
2人は試合場の中央で足を止めて突き合い蹴り合った。
本戦、延長戦ともに両者1歩も引かず再延長戦へ。
八巻建志が後ろ回し蹴りから踵を落とすと田村悦宏は重い拳の突きから右の下段回し蹴り。
再延長戦でも決着はつかず、体重判定でも110kgと103kgで規定に足らず。
延長2回を戦い決着がつかず、体重判定も10Kg以上の差がなかったため試割り判定となるはずだった。
それだと田村が勝っていた。
しかし
「これは決勝戦なので完全決着しなければならない」
という大山倍達総裁のツルの一声で3度目の延長戦へ突入。
重戦車のごとく突進する田村悦宏に、八巻建志は突きを連打し膝蹴りをボディに突き刺した。
これで勝負が決まった。
八巻建志は、ついに日本一になった。

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