ヒクソン・グレイシーの柔術は、エリオ・グレイシーの負けない柔術を進化させた。
防御するだけではなく勝利に持ち込む何かを求めた。
そのために犠牲を払うことが必要だった。
しかし
「よし俺はやるよ。
何が起こるかやってみよう」
「とにかく飛び込んでみよう」
とチャレンジ精神を持って恐怖を乗り越えた。
人生も穏やかで平坦なものではなく、ときに天に昇るような気持ちになったり、激しく落ち込んり、何かに熱くなったりする人生が理想だった。
ただ戦いの命題は「生き残る」ことであり「勝つ」ことではないという。
この哲学が、あの独特の戦いぶりの要因の1つかもしれない。
完全にバランスが取れた形で、必ず安定する三角形は、昔から柔術のシンボルとして使われていた。
ヒクソン・グレイシーは、これに知性・肉体・精神という3つの要素を加え、その3要素を意味するダイヤ・ルビー・サファイアをシンボルに加えたロゴマークを作成した。
UFC(Ultimate Fighting Championship、アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)
1993年、ホリオン・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの兄)が考案したUFC(Ultimate Fighting Championship、アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)がアメリカで実施された。
空手家、柔道家、ボクサー、プロレスラー、力士、サンビスト、カンフー、ムエタイ・・・
6フィート(約1.8m)の金網で囲まれた直径は30フィート(約9.1m)の8角形の試合場に入るのは2人で出るのは1人。
どちらが勝つまでやる。
体重階級制無し(無差別)
反則は、目潰し、噛み付き、金的攻撃のみ。
1ラウンド5分の無制限ラウンド制。
選手のギブアップかノックアウト、セコンドのタオル投入によるストップのみで勝負を決する(判定なしの)完全決着制。
グローブ、道着、シューズ等の着用は自由。
それは最小限のルールで戦い、どの格闘技が強いのかを決する喧嘩さながらの大会だった。
(その後、ルールが整備され新しいファイティングスポーツに変化していった)
ヒクソン・グレイシーは一族を代表してUFCへ出場することを強く希望した。
しかし許されず、弟のホイス・グレイシーが出場。
1回戦、プロボクサーのアート・ジマーソン、準決勝、総合格闘家のケン・シャムロック、決勝で空手家のジェラルド・ゴルドーを圧倒的強さで破った。
そして優勝インタビューで
「兄ヒクソンは私の10倍強い」
と発言した。
初来日! 神か悪魔か!? 日本にあらわれた最強の男 VALE TUDO JAPAN OPEN 1994
1994年7月29日、ヒクソン・グレイシーは初来日し「VALE TUDO JAPAN OPEN 1994」に参戦。
1回戦、西良典、準決勝、ダビッド・レビキ、決勝、バド・スミスをほぼ無傷で勝利。
圧倒的な強さを見せつけた。
テイクダウンからマウント、絞めを狙うシンプルな戦法だったが、そのインパクトは大きく打撃重視、組技軽視の格闘技の価値観を逆転させた。
この試合をきっかけに日本の総合格闘技は、グラウンドパンチを解禁し始めた。
道場破り 安生洋二を返り討ち
1994年12月7日、ロサンゼルスのヒクソン・グレイシーの道場へ安生洋二が道場破りを敢行。
ヒクソン・グレイシーは、その挑戦を受け、その場で返り討ちにした。
ヒクソン・グレイシーは試合開始直後にマウントポジションをとって一方的に殴り続け、最後はチョークスリーパーで絞め落とした。
6分間で安生洋二は血だるまと化した。