18歳でグレイシーファミリーの中でも最強となったヒクソン・グレイシーは、エリオ・グレイシーからグレイシー柔術黒帯を授与された。
黒帯になって以降、柔術の試合で無敗。
しかもそのすべてをギブアップを奪って勝った。
ヒクソン・グレイシーの柔術の特徴は、そのコントロールとポジショニング。
柔術におけて有利なポジショニングは3つ。
1つ目は、相手が自分の上に乗っていて下から脚で相手の体を挟んだガードポジション。
相手を脚でコントロールしながら三角締めや腕十字を狙う。
上の人間はガードポジションのままでは何もできないので、ガードを切ってサイドポジションかマウントポジションに移らなければならない。
2つ目は、背後から相手の胴体に脚をフックしたバックポジション。
背後霊のようにピッタリと後ろについて離れない。
3つ目は、相手に馬乗りになったマウントポジション。
ヒクソン・グレイシーは、この有利なポジションを取る。
相手にポジションを取られたらすぐに守りの体勢に入り攻撃をかわしながら有利なポジションを取り戻す。
セルジオ・ペーニャ(Sergio Penha、写真中央)
柔術においてヒクソン・グレイシーの最大のライバルはセルジオ・ペーニャ(Sergio Penha)だった。
1981年11月29日、Carioca Jiu-Jitsu Championship大会で2人は対戦。
ヒクソン・グレイシー、74kg。
セルジオ・ペーニャ、84kg。
ヒクソン・グレイシーは、パスガードされるなどして、0-12とポイントでリードされた。
しかし終盤、機を見計らっていたかのように息を吹き返し逆襲を開始。
テイクダウンを成功させたあとは即座にマウントをとりチョークで逆転勝利した。
VALE TUDO なんでもアリ
19歳のとき、初めてノールールの試合に出た。
このときヒクソン・グレイシーは、72㎏。
対戦相手はプロの格闘家、30歳、98㎏、戦績は120勝0敗4分。
試合は1R10分で3R。
試合開始後、近づいてくる相手の顔面にヒクソン・グレイシーは膝蹴りを入れた。
相手は体勢を立て直したが、歯を1本吐き出した。
2R3分、ヒクソン・グレイシーは、寝技で勝った。
柔術を進化させる
ヒクソン・グレイシーの柔術は、エリオ・グレイシーの負けない柔術を進化させた。
防御するだけではなく勝利に持ち込む何かを求めた。
そのために犠牲を払うことが必要だった。
しかし
「よし俺はやるよ。
何が起こるかやってみよう」
「とにかく飛び込んでみよう」
とチャレンジ精神を持って恐怖を乗り越えた。
人生も穏やかで平坦なものではなく、ときに天に昇るような気持ちになったり、激しく落ち込んり、何かに熱くなったりする人生が理想だった。
ただ戦いの命題は「生き残る」ことであり「勝つ」ことではないという。
この哲学が、あの独特の戦いぶりの要因の1つかもしれない。
完全にバランスが取れた形で、必ず安定する三角形は、昔から柔術のシンボルとして使われていた。
ヒクソン・グレイシーは、これに知性・肉体・精神という3つの要素を加え、その3要素を意味するダイヤ・ルビー・サファイアをシンボルに加えたロゴマークを作成した。
UFC(Ultimate Fighting Championship、アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)
1993年、ホリオン・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの兄)が考案したUFC(Ultimate Fighting Championship、アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)がアメリカで実施された。
空手家、柔道家、ボクサー、プロレスラー、力士、サンビスト、カンフー、ムエタイ・・・
6フィート(約1.8m)の金網で囲まれた直径は30フィート(約9.1m)の8角形の試合場に入るのは2人で出るのは1人。
どちらが勝つまでやる。
体重階級制無し(無差別)
反則は、目潰し、噛み付き、金的攻撃のみ。
1ラウンド5分の無制限ラウンド制。
選手のギブアップかノックアウト、セコンドのタオル投入によるストップのみで勝負を決する(判定なしの)完全決着制。
グローブ、道着、シューズ等の着用は自由。
それは最小限のルールで戦い、どの格闘技が強いのかを決する喧嘩さながらの大会だった。
(その後、ルールが整備され新しいファイティングスポーツに変化していった)
ヒクソン・グレイシーは一族を代表してUFCへ出場することを強く希望した。
しかし許されず、弟のホイス・グレイシーが出場。
1回戦、プロボクサーのアート・ジマーソン、準決勝、総合格闘家のケン・シャムロック、決勝で空手家のジェラルド・ゴルドーを圧倒的強さで破った。
そして優勝インタビューで
「兄ヒクソンは私の10倍強い」
と発言した。
初来日! 神か悪魔か!? 日本にあらわれた最強の男 VALE TUDO JAPAN OPEN 1994
1994年7月29日、ヒクソン・グレイシーは初来日し「VALE TUDO JAPAN OPEN 1994」に参戦。
1回戦、西良典、準決勝、ダビッド・レビキ、決勝、バド・スミスをほぼ無傷で勝利。
圧倒的な強さを見せつけた。
テイクダウンからマウント、絞めを狙うシンプルな戦法だったが、そのインパクトは大きく打撃重視、組技軽視の格闘技の価値観を逆転させた。
この試合をきっかけに日本の総合格闘技は、グラウンドパンチを解禁し始めた。
道場破り 安生洋二を返り討ち
1994年12月7日、ロサンゼルスのヒクソン・グレイシーの道場へ安生洋二が道場破りを敢行。
ヒクソン・グレイシーは、その挑戦を受け、その場で返り討ちにした。
ヒクソン・グレイシーは試合開始直後にマウントポジションをとって一方的に殴り続け、最後はチョークスリーパーで絞め落とした。
6分間で安生洋二は血だるまと化した。
再来日、神再降臨 VALE TUDO JAPAN OPEN 1995
1995年4月20日、「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」に参戦。
1回戦、山本宜久、準決勝、木村浩一郎、決勝で中井祐樹をチョークスリーパーで下し、さほどのダメージもなく優勝。
高田延彦2連敗 プロレスラーが何もできない
1997年10月11日、「PRIDE.1」で高田延彦と対戦。
腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
1998年10月11日、「PRIDE.4」で高田延彦のリベンジマッチを受け、前回同様腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
柔術ブーム
世界中で総合格闘技ブームが起こったが、柔術家はフリーファイトで圧倒的な強さを見せつけ、その実戦性の高さを証明した。
「お兄さん! ボクと勝負してください!」
桜庭和志は1998年にPRIDEに参戦し全戦全勝。
そして1999年にグレイシー一族と初めての対戦。
ホイラー・グレイシーを圧倒した。
猪木・アリ状態からはローキックを放ち続け、寝技に誘うホイラーの誘いに乗らず最後はアームロックを極めた。
ホイラーもギブアップしなかったが最後はレフリーがストップした。
試合後、桜庭は
「次はお兄さん!
ボクと勝負してください!」
とマイクアピールをしてヒクソン・グレイシーとの対決を訴えた。