ヒクソン・グレイシー   まるでみえない力を持った神様

ヒクソン・グレイシー まるでみえない力を持った神様

そんなに大きくない体。 あまり太くない筋肉。 哲学者的風貌。 そしてシンプルすぎる戦い方。 これで世界最強の男なんてありえない。 でも (カビラジェイ風に)あるんです。


コンデ・コマ 前田光世

明治30年、前田光世は19歳で講道館に入門し、講道館四天王の一人:横山作次郎などに鍛えられメキメキと頭角を現し、入門4ヵ月後に初段昇段審査を受けた。
このとき嘉納治五郎(講道館初代館長)の命により前田のみ15人抜きを命ぜられ、これを達成した。
明治39年、アメリカ大統領:セオドア・ルーズベルトが嘉納治五郎に、強い柔道家を招き試合をさせたいといってきた。
セオドア・ルーズベルトは2年前に講道館の四天王の1人:山下義昭がジョージ・グランドという大男のレスラーを体落とし、横捨て身で投げて押さえ込んだのをみて、柔道を海軍兵学校に正課に取り入れたいと考えていた。
嘉納治五郎は一番弟子の富田常治郎を派遣。
供として前田光世もついていくこととなった。
前田光世は
「試合は私にさせてくれ」
と進言したが富田常次郎は拒否した。
富田常次郎は講道館四天王の1人で当時の最高段位の六段だったが、他の四天王、西郷四郎・横山作次郎・山下義昭に比べ明らかに実力が劣っていた。
講道館立ち上げ以前から嘉納治五郎と共に行動し六段も功労者的な意味合いが大きかった。
そして身長160cm足らず、体重60kg足らずの富田常次郎は、身長192cm、体重110kgの陸軍士官学校のフットボール選手にあっけなくフォール負けてした。
マスコミは試合結果をアメリカ全土に伝えた。
「柔道をここまで貶めたまま日本に帰れない」
前田光四世は失墜した柔道の権威を取り戻すため、富田と袂を分かってアメリカに残った。
そして柔道の強さを示すため、単身陸軍士官学校や大学で柔道の試合やデモンストレーションを行った。
こうした活動に注目したアメリカ人の後押しによってニューヨークに道場を持った。
入門者は多かった。
前田は容赦なく指導した。
誰でも遠慮なくビシビシ畳へ投げつけた。
やがて誰も道場に来なくなった。

前田光世は、道場のオーナーと相談し、新聞で1000ドルの懸賞金つきの真剣勝負を呼びかけ試合をすることにした。
最初に挑戦してきたのは、ヘビー級レスラーのブッチャー・ボーイ。
新聞は「史上初の異種格闘技戦」と報道。
会場は超満員となった。
前田光代、165cm、66kg。
ブッチャー・ボーイ、185cm、115kg。
試合は3本勝負。
前田光世は首投げにきたブッチャーボーイを抱きついて投げ、両肩をマットにつけて前田が1本目先取。
3分後、跳びつき腕ひしぎ十字固めで2本目を取り勝利した。
この後も前田光世はアメリカ各地で試合を行った。
ベアナックル(素手)のメキシコ人ボクサーは下からの十字固め。
中国拳法家の蹴り足を掴んでの膝十字固め。
柔道着を着ていないと使えない柔道の技もある。
またいくら投げても勝ちにならない。
確実に勝つためには、関節技・絞め技でギブアップさせるしかない。
数多く異種格闘技戦をこなすうちに前田光世は独自の戦法を編み出していった。
それは突き蹴りという打撃技にまで及んだ。
「僕の経験によれば飛び込んで組みつきさえすればすぐに勝てる。
しかし柔道家にとって1番安全な方法は、まず当身を練習し、拳法家の突きを避けるくらいの腕前を磨き上げることだ。」

前田困る

アメリカ、イギリス、ヨーロッパと転戦していくうちに相手が見つからなくなった。
そこで偽名を考えた。
しかしよい名が思い浮かばない。
困った。
では「前田困る」にしよう。
「コマル」では語呂が悪いから「コマ」に、そして伯爵という意味の「コンデ」をつけて「コンデ・コマ(Conde Koma)」
「困った伯爵」ならぬ「コマ伯爵」
これがリングネームとなった。
アメリカ、中南米、ロシア、ヨーロッパを周り、世界の格闘家と試合し続け、およそ2000回戦いに挑んだ。
そのうち1000回余りは柔道着を着て、それ以外は柔道着なしで戦った。
敗れたのは2度だけ。
いずれも柔道着なしで挑んだものだった。
やがてブラジルに入った前田光世はアマゾンの大自然に魅せられ、ここに永住することを決意し道場を開設した。
前田光世は、ブラジル政府から70万エーカー(青森県より広い)の土地を無償で与えられた。
このとき政府と前田の仲介をしたのが、ガストン・グレイシーという政治家だった。
グレイシー一家は、スコットランドからの移民で、ガストンはブラジル3代目で5人の息子がいた。
ブラジルの治安の悪さと長男カーロス・グレーシーの素行の悪さに悩んでいたガストンは前田に頼んだ。
「息子たちに柔道で鍛えてくれ」
こうして前田光世はカーロス・グレイシーに柔道の技術と精神を教えた。
4年後、みっちり柔道を習ったカーロス・グレイシーは「柔術アカデミー」という道場を開いた。
前田光世は、自分が講道館から破門されていたので「柔道」という言葉を使わせなかった。


エリオ・グレイシー

カーロス・グレイシーが「柔術アカデミー」を開いたとき、その弟のエリオ・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの父)は13歳だった。
エリオ・グレイシーは体が弱いという理由で試合はもちろん練習さえさせてもらえず、12歳年上のカーロスの言葉を熱心に聞き、見たことを吸収しようとした。
3年後のある日、男性がプライベートレッスンを受けに道場を訪れた。
しかしカーロスは道場にいなかった。
そこでエリオが
「兄を待っている間、相手をしましょうか」
と申し出た。
30分後、カーロスが道場に着くと男は、この子と練習を続けたいといった。
この後、エリオ・グレイシーは柔術を教え始めた。
エリオ・グレイシーは体が弱かったかもしれないが気は強かった。
「体が強くなくても技術とテコの原理があれば誰にも負けないほど強くなれる」
そう信じて、練習し、新しい技術を身につけ、試合に出た。
そして1年後には国内チャンピオンになった。

やがてエリオ・グレイシーは、バーリトゥード(なんでもあり)ルールで戦い始め、約20年間無敗を誇りブラジルスポーツ界の英雄となった。

伝説の試合 木村政彦 vs エリオ・グレイシー

エリオ・グレイシーは日本の柔道家:加藤幸夫とブラジリアン柔術ルールで対戦し、10分3R引き分け。
2週間後、再戦し加藤を絞め落とし一本勝ちした。


加藤幸夫に勝った1ヵ月後、エリオ・グレイシーは、ブラジル大統領を含む3万人が見守る中、史上最強の柔道家:木村政彦と10分3R、柔術ルールで対戦した。
2R3分、木村政彦が大外刈でエリオ・グレイシーを投げ、その後の寝技の攻防も制して腕絡みを極めた。
完全に腕が極まっているのにエリオ・グレイシーはタップ(まいった)せず、兄のカーロス・グレイシーがタオルを投入し敗北した。

グレイシー一族の掟

エリオ・グレイシーは43歳のときに弟子のヴァウデマー・サンターナと対戦し、3時間以上の戦った末、KO負け。
この試合を最後に引退した。


ヒクソン・グレイシーが生まれたとき、父のエリオ・グレイシーは45歳だった。
長男:ホリオン・グレイシー。
次男:ヘウソン・グレイシー。
三男:ヒクソン・グレイシー。
四男:ホウケル・グレイシー。
五男:ホイラー・グレイシー。
六男:ホイス・グレイシー。
七男:ホビン・グレイシー。
エリオの指導の下で兄弟は稽古をした。
エリオ・グレイシーは、まずは負けないこと、決してあきらめないこと、臨機応変に動くことを強調した。
文字通り、生き残ることが命題だった。


グレイシー一族は、柔術同士の戦いだけではなく、道場破りにきた様々な格闘技の猛者とも対戦した。
あくまで本来何が起こるかわからない実戦の中で技を磨き、その根源的な格闘技の精神を大事にした。

ヒクソン・グレイシー

ヒクソン・グレイシーはほとんどの時間をリオデジャネイロの街か海辺か道場で過ごした。
家がコパカバーナビーチの前にあったので、1人でよく家の前や海岸で遊んでいた。
学校の勉強はほとんどしなかった。
エリオ・グレイシーも息子の学校の成績に関心がなかった。
ヒクソン・グレイシーは6歳から柔術の大会に出始めた。
そして初めて優勝して以来、トップでなければ満足できなくなってしまう。
彼は自分にとって何が重要だと思うかを問われて「自分自身」と答えた人以外、みんな間違っているという。

ストリートファイト

リオの街では年上の不良少年グループとも付き合った。
ワイルドな街で男らしさを見せつけ勇気を証明するために危険なことも行った。
柔術や格闘技の試合より、ストリートファイトの数のほうが多いともいわれている。

ブラジルの柔術少年


道場では父親や兄が教えているのをみて、また練習や試合をする人をみて育った。
一番重要な場所は道場のマットの上だった。
そこでは年齢や職業、性別、肌の色などどうでもよくなり、人は本当の自分をさらけ出した。
体が大きく強そうにみえる男がプレシャーに耐えきれず臆病者のようにオドオドしたり、ガリガリに痩せているが粘り強い男もいた。
負けて言い訳を始める人もいれば、結果を認め受け入れる人もいた。
自分より弱い相手には徹底的に攻撃するが、強い相手にはダメージを受け戦えないふりをする人もいた。
プレッシャーがかかっても立派にやれる強い人間もいた。
いろいろな人をみてヒクソン・グレイシーは、日本の武士道、サムライが進むべき1本しかない細い道を理解した。
潔さ、勇敢、善良・・
そんな紳士でありながら強い男が理想だった。
また相手を尊敬すること、謙虚であること、つまり自分が人より優れているとは考えないようにすることも重要なことだった。
自信がありすぎると周りがみえなくなってしまう。
戦う上で「自分の方が有利」と考えた時点で、相手の特徴を理解することができなくなってしまう。
ヒクソン・グレイシーはそんなことにならないように相手を尊敬し感覚を研ぎ澄ました。
決して人を見下したり批判ばかりしてはいけないと思った。

13歳のとき、大人と稽古していていいポジションを取られ首を押さえられ、息ができなくなり命の危険を感じ、怖くなりタップ(まいった)してしまった。
その後、ヒクソン・グレイシーは猛烈に自分に腹が立ち泣いてしまった。
やがて冷静に反省した結果、
なぜ不利な体勢になったのか?
なぜパニックに陥ったのか?
この2つを敗因とした。
以後、同じようなことが起きて息ができなくなっても、
「とにかく息をしながら、このポジションさえなんとかすればいいんだ。
挽回できる。
この体勢から抜け出すぞ」
と考えあきらめようとは思わなくなった。
そんなことを繰り返すうちに、恐怖とは自分の中にあることだということ、そして恐怖を克服するためには問題を理解することであると悟った。

武士道

ヒクソン・グレイシーが読んだ「Shogun(将軍)」James Clavell著

Shōgun (novel) - Wikipedia

ヒクソン・グレイシーは、日本の武士道を愛した。
サムライの信じるもののためなら喜んで死んでやろうとする生き方や、彼らが信じ守った信念に感銘を受けた。
彼らは心身の鍛錬によって優れた能力を身につけ、かつ正しく生きようとした誇り高き人に思えた。
しかしヒクソン・グレイシーは、サムライの「主君への奉仕」だけは立派だとは思ったが好きになれなかった。
ヒクソン・グレイシーにとって、自分を1番大切にすること、自分らしさ、自分の幸せを見つけることは生きることの基本だった。
主君のために自分を殺せる人間はある意味で完璧な戦士かもしれないが、ある意味、人間として弱いと思った。
たしかに仕事や責任のために自分を犠牲にするのは価値あることかもしれないが、自分次第で何だってできたり、どんな人生を歩んでも構わないということのほうが素晴らしいのかもしれない。

ヨガ

ヒクソン・グレイシーは10代からヨガを始めた。
それはアニマルエクササイズと呼吸法を組み合わせたヨガで、猿のように歩いてジャンプしたり、蛇のようにジッとしたり、いろいろな動物の動きをマネながら深い呼吸をする。
そして体の柔軟性と強さを養い、また動物になりきることで、何も考えずただみて、ただ感じるだけという心が無になる状態をつくることを狙ったものだった。
無の心になれば、感覚が研ぎ澄まされた。

呼吸法

ヒクソン・グレイシーは、17歳でヨガの先生から呼吸法を教わった。
そして呼吸エクササイズの効果に驚き、以降、ずっと重要なエクササイズとして続けている。
毎日、何分か正確に深い呼吸を続け、ストレスを吐き出し心を洗いリフレッシュさせる。
横隔膜を使う腹式呼吸は、体内に取り入れる酸素量が増え、疲労した細胞に新しいエネルギーと酸素を供給する。
また試合前などでも呼吸法と瞑想により心を無にして、どんな感情も表れない状態、自然にプレッシャーを消化できる状態になった。


目に見えないものを大切に

アメリカでは、カリフォルニアのパシフィックパリセーズに自宅があった。
家の前は海岸だった。
ある日、ヒクソン・グレイシーがトレーニングで10マイル(16㎞)ほど海岸を自転車で走った後、海で泳いで家に帰ろうとすると、砂に半分埋まったなにか白いものを発見した。
掘り出してみると頭が象の形をした木彫りの人形だった。
ヒクソン・グレイシーはそれを持って帰って洗い、白く塗ったベニヤ板で壁を作り、ヤシの葉で屋根をかぶせ神殿をつくり裏庭に置いた。
1年後、インドを訪れたことがある友人にその人形は、ガネーシャ神であることを教えてもらった。
数年後、老朽化したガネーシャ神殿をみてヒクソン・グレイシーは以前より豪華な神殿を自作した。
そしてお香をたいて花を供えた。
またサーフィンや山の中、雨に打たれて歩くなど、自然の中に入ったり、その強い力や大きなエネルギーを触れることが好きだった。
このように目にみえないものを大切にするヒクソン・グレイシーは、スピチュアルを楽しむことも大好きである。

柔術は黒帯になって以降、無敗。 ALL一本勝ち。

18歳でグレイシーファミリーの中でも最強となったヒクソン・グレイシーは、エリオ・グレイシーからグレイシー柔術黒帯を授与された。
黒帯になって以降、柔術の試合で無敗。
しかもそのすべてをギブアップを奪って勝った。
ヒクソン・グレイシーの柔術の特徴は、そのコントロールとポジショニング。
柔術におけて有利なポジショニングは3つ。
1つ目は、相手が自分の上に乗っていて下から脚で相手の体を挟んだガードポジション。
相手を脚でコントロールしながら三角締めや腕十字を狙う。
上の人間はガードポジションのままでは何もできないので、ガードを切ってサイドポジションかマウントポジションに移らなければならない。
2つ目は、背後から相手の胴体に脚をフックしたバックポジション。
背後霊のようにピッタリと後ろについて離れない。
3つ目は、相手に馬乗りになったマウントポジション。
ヒクソン・グレイシーは、この有利なポジションを取る。
相手にポジションを取られたらすぐに守りの体勢に入り攻撃をかわしながら有利なポジションを取り戻す。


セルジオ・ペーニャ(Sergio Penha、写真中央)

柔術においてヒクソン・グレイシーの最大のライバルはセルジオ・ペーニャ(Sergio Penha)だった。
1981年11月29日、Carioca Jiu-Jitsu Championship大会で2人は対戦。
ヒクソン・グレイシー、74kg。
セルジオ・ペーニャ、84kg。
ヒクソン・グレイシーは、パスガードされるなどして、0-12とポイントでリードされた。
しかし終盤、機を見計らっていたかのように息を吹き返し逆襲を開始。
テイクダウンを成功させたあとは即座にマウントをとりチョークで逆転勝利した。

VALE TUDO  なんでもアリ

19歳のとき、初めてノールールの試合に出た。
このときヒクソン・グレイシーは、72㎏。
対戦相手はプロの格闘家、30歳、98㎏、戦績は120勝0敗4分。
試合は1R10分で3R。
試合開始後、近づいてくる相手の顔面にヒクソン・グレイシーは膝蹴りを入れた。
相手は体勢を立て直したが、歯を1本吐き出した。
2R3分、ヒクソン・グレイシーは、寝技で勝った。

柔術を進化させる

ヒクソン・グレイシーの柔術は、エリオ・グレイシーの負けない柔術を進化させた。
防御するだけではなく勝利に持ち込む何かを求めた。
そのために犠牲を払うことが必要だった。
しかし
「よし俺はやるよ。
何が起こるかやってみよう」
「とにかく飛び込んでみよう」
とチャレンジ精神を持って恐怖を乗り越えた。
人生も穏やかで平坦なものではなく、ときに天に昇るような気持ちになったり、激しく落ち込んり、何かに熱くなったりする人生が理想だった。
ただ戦いの命題は「生き残る」ことであり「勝つ」ことではないという。
この哲学が、あの独特の戦いぶりの要因の1つかもしれない。



完全にバランスが取れた形で、必ず安定する三角形は、昔から柔術のシンボルとして使われていた。
ヒクソン・グレイシーは、これに知性・肉体・精神という3つの要素を加え、その3要素を意味するダイヤ・ルビー・サファイアをシンボルに加えたロゴマークを作成した。

UFC(Ultimate Fighting Championship、アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)

1993年、ホリオン・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの兄)が考案したUFC(Ultimate Fighting Championship、アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)がアメリカで実施された。
空手家、柔道家、ボクサー、プロレスラー、力士、サンビスト、カンフー、ムエタイ・・・
6フィート(約1.8m)の金網で囲まれた直径は30フィート(約9.1m)の8角形の試合場に入るのは2人で出るのは1人。
どちらが勝つまでやる。
体重階級制無し(無差別)
反則は、目潰し、噛み付き、金的攻撃のみ。
1ラウンド5分の無制限ラウンド制。
選手のギブアップかノックアウト、セコンドのタオル投入によるストップのみで勝負を決する(判定なしの)完全決着制。
グローブ、道着、シューズ等の着用は自由。
それは最小限のルールで戦い、どの格闘技が強いのかを決する喧嘩さながらの大会だった。
(その後、ルールが整備され新しいファイティングスポーツに変化していった)

ヒクソン・グレイシーは一族を代表してUFCへ出場することを強く希望した。
しかし許されず、弟のホイス・グレイシーが出場。
1回戦、プロボクサーのアート・ジマーソン、準決勝、総合格闘家のケン・シャムロック、決勝で空手家のジェラルド・ゴルドーを圧倒的強さで破った。
そして優勝インタビューで
「兄ヒクソンは私の10倍強い」
と発言した。

初来日! 神か悪魔か!? 日本にあらわれた最強の男  VALE TUDO JAPAN OPEN 1994

1994年7月29日、ヒクソン・グレイシーは初来日し「VALE TUDO JAPAN OPEN 1994」に参戦。
1回戦、西良典、準決勝、ダビッド・レビキ、決勝、バド・スミスをほぼ無傷で勝利。
圧倒的な強さを見せつけた。
テイクダウンからマウント、絞めを狙うシンプルな戦法だったが、そのインパクトは大きく打撃重視、組技軽視の格闘技の価値観を逆転させた。
この試合をきっかけに日本の総合格闘技は、グラウンドパンチを解禁し始めた。

道場破り 安生洋二を返り討ち 

1994年12月7日、ロサンゼルスのヒクソン・グレイシーの道場へ安生洋二が道場破りを敢行。
ヒクソン・グレイシーは、その挑戦を受け、その場で返り討ちにした。
ヒクソン・グレイシーは試合開始直後にマウントポジションをとって一方的に殴り続け、最後はチョークスリーパーで絞め落とした。
6分間で安生洋二は血だるまと化した。

再来日、神再降臨 VALE TUDO JAPAN OPEN 1995

1995年4月20日、「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」に参戦。
1回戦、山本宜久、準決勝、木村浩一郎、決勝で中井祐樹をチョークスリーパーで下し、さほどのダメージもなく優勝。

高田延彦2連敗 プロレスラーが何もできない

1997年10月11日、「PRIDE.1」で高田延彦と対戦。
腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。

1998年10月11日、「PRIDE.4」で高田延彦のリベンジマッチを受け、前回同様腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。


柔術ブーム

世界中で総合格闘技ブームが起こったが、柔術家はフリーファイトで圧倒的な強さを見せつけ、その実戦性の高さを証明した。



「お兄さん! ボクと勝負してください!」

桜庭和志は1998年にPRIDEに参戦し全戦全勝。
そして1999年にグレイシー一族と初めての対戦。
ホイラー・グレイシーを圧倒した。
猪木・アリ状態からはローキックを放ち続け、寝技に誘うホイラーの誘いに乗らず最後はアームロックを極めた。
ホイラーもギブアップしなかったが最後はレフリーがストップした。
試合後、桜庭は
「次はお兄さん!
ボクと勝負してください!」
とマイクアピールをしてヒクソン・グレイシーとの対決を訴えた。

翌2000年、PRIDEグランプリで桜庭とホイス・グレイシーの対戦が決まった。
完全決着を望むグレイシー一族はルール変更を要求。
その内容は、無制限ラウンド・レフリーストップなしの完全決着ルールだった。
2000年5月1日、桜庭 vs ホイス戦は、1ラウンド15分の無制限ラウンド・レフリーストップなしの完全決着ルール。
1ラウンド、桜庭は立った状態からホイスの腕をつかんだまま、ロープから身体を半分乗り出した格好でアームロック。
反則ではないか?と抗議するグレイシーサイドをみて桜庭はカメラに向かってニヤっと笑った。
終了間際に桜庭がホイスに足関節を決めようとしたところで1ラウンドは終了。
2ラウンド以降も桜庭は優勢に試合を進めた。
真剣勝負ではあり得ないモンゴリアンチョップ、寝技に誘うホイスをジャンプして踏みつけたり、道着をつかんでひっくり返し恥ずか固めなど桜庭ワールドを展開。
5ラウンドを過ぎるとホイスの動きが悪化し桜庭はさらに優勢に試合を運んだ。
そして7ラウンド開始にホイスは応じられず、ホイスのセコンドがタオルを投入した。

桜庭和志は、ホイラー・グレイシー、ホイス・グレイシー、ヘンゾ・グレイシー、ハイアン・グレイシーに勝利し「グレイシーハンター」と呼ばれた。

ヒクソン・グレイシー vs 船木誠勝

2000年5月26日、「コロシアム2000」で船木誠勝と対戦。
4万人以上が東京ドームに押しかけ、テレビ放映は2000万人が視聴した。
船木誠勝の鉄槌で眼球が圧迫され骨折。
片目はみえなくなり、両目の神経はつながっているため、視界が全体的にボヤけた。
目はダメージが受けたことを悟られないようにかばわず倒れたまま構えるヒクソン・グレイシーの脚に船木誠勝はキックを浴びせた。
40秒間、寝たまま蹴られ続け、殴られた目はまだ見えなかったがもう一方の目の焦点が合ってきた。
視界を取り戻したヒクソン・グレイシーは、船木誠勝の膝を蹴った。
後ろに下がった敵の隙を突き立ち上がり、飛びかかった。
そして船木誠勝を引き込んで寝技に持ち込み、バックをとると船木の片腕を首に巻きつけながらマウントパンチを浴びせ、チョークスリーパーを極めた。
船木誠勝はタップ(まいった)せず落ちた(失神した)。
これがヒクソン・グレイシーは最後の試合となった。

悲報

2001年2月、船木誠勝との試合から8か月後、長男のホクソン・グレイシーが亡くなった。
19歳のホクソンは両親の下を離れてプロモデルとして自立することを決意し、ガールフレンドとともにニューヨークへ渡った。
最初のうちは連絡があったが、数週間後、連絡が途絶え、ヒクソン・グレイシーはニューヨークで道場を経営するヘンゾ・グレイシーに連絡を取りホクソンの捜索を依頼。
ヘンゾ・グレイシーは、ガールフレンドをマイアミで見つけたが既に2人は破局していた。
その後、ヘンゾ・グレイシーはニューヨークに戻り警察や病院で彼を探したが、警察のファイルから、腕に「 The Best Father of the World: Rickson Gracie(世界最高の父、ヒクソングレイシー)」というタトゥーが入った身元不明の死体があることがわかった。
遺体はマンハッタンのプロヴィンスホテルで発見され、アルコールとドラッグが検出され、個人データを持っていないので家族と連絡をとることなく埋葬されていた。
ヒクソン・グレイシーは誰とも会わず家に籠り、柔術もせず、ただ何もせずぼんやりとしていた。
ある日、裏庭の木に登った。
木の上からの眺めは素晴らしく、ヒクソン・グレイシーは亡くなった長男と話すため、ここにデッキをつくろうと決めた。
材料の買い出しから、木の上への引き上げ、もちろん大工仕事まで、どん小さなことでもこのデッキづくりだけはすべてひとりで行った。
毎日、食べて寝る以外、ひたすらつくり続けた。
やがて出来上がったデッキに長男の写真を置いた。
なにかが終わったような気がした。
結局、3年ほど落ち込んでしまったが、ヒクソン・グレイシーは、長男から人生の教訓を得た。
「必ず明日が来るとは限らない!」

引退

長男が死んだ3週間後、エメリヤーエンコ・ヒョードルとの試合のオファーがあったが、ヒクソン・グレイシーはキャンセルした。
また日本では桜庭和志との対戦が期待されたが実現しなかった。
大きな試合を逃したことに悔いを残しながらヒクソン・グレイシーは再起するチャンスを待ったが、2007年に引退を決意した。

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開催直前!TOKYO MX開局30周年記念「昭和100年スーパーソングブックショウ」が10月16日に迫る。古舘伊知郎と友近がMC、豪華ゲストと共に贈る一夜限りの昭和ベストヒットに期待高まる!


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。