コンデ・コマ 前田光世
明治30年、前田光世は19歳で講道館に入門し、講道館四天王の一人:横山作次郎などに鍛えられメキメキと頭角を現し、入門4ヵ月後に初段昇段審査を受けた。
このとき嘉納治五郎(講道館初代館長)の命により前田のみ15人抜きを命ぜられ、これを達成した。
明治39年、アメリカ大統領:セオドア・ルーズベルトが嘉納治五郎に、強い柔道家を招き試合をさせたいといってきた。
セオドア・ルーズベルトは2年前に講道館の四天王の1人:山下義昭がジョージ・グランドという大男のレスラーを体落とし、横捨て身で投げて押さえ込んだのをみて、柔道を海軍兵学校に正課に取り入れたいと考えていた。
嘉納治五郎は一番弟子の富田常治郎を派遣。
供として前田光世もついていくこととなった。
前田光世は
「試合は私にさせてくれ」
と進言したが富田常次郎は拒否した。
富田常次郎は講道館四天王の1人で当時の最高段位の六段だったが、他の四天王、西郷四郎・横山作次郎・山下義昭に比べ明らかに実力が劣っていた。
講道館立ち上げ以前から嘉納治五郎と共に行動し六段も功労者的な意味合いが大きかった。
そして身長160cm足らず、体重60kg足らずの富田常次郎は、身長192cm、体重110kgの陸軍士官学校のフットボール選手にあっけなくフォール負けてした。
マスコミは試合結果をアメリカ全土に伝えた。
「柔道をここまで貶めたまま日本に帰れない」
前田光四世は失墜した柔道の権威を取り戻すため、富田と袂を分かってアメリカに残った。
そして柔道の強さを示すため、単身陸軍士官学校や大学で柔道の試合やデモンストレーションを行った。
こうした活動に注目したアメリカ人の後押しによってニューヨークに道場を持った。
入門者は多かった。
前田は容赦なく指導した。
誰でも遠慮なくビシビシ畳へ投げつけた。
やがて誰も道場に来なくなった。
前田光世は、道場のオーナーと相談し、新聞で1000ドルの懸賞金つきの真剣勝負を呼びかけ試合をすることにした。
最初に挑戦してきたのは、ヘビー級レスラーのブッチャー・ボーイ。
新聞は「史上初の異種格闘技戦」と報道。
会場は超満員となった。
前田光代、165cm、66kg。
ブッチャー・ボーイ、185cm、115kg。
試合は3本勝負。
前田光世は首投げにきたブッチャーボーイを抱きついて投げ、両肩をマットにつけて前田が1本目先取。
3分後、跳びつき腕ひしぎ十字固めで2本目を取り勝利した。
この後も前田光世はアメリカ各地で試合を行った。
ベアナックル(素手)のメキシコ人ボクサーは下からの十字固め。
中国拳法家の蹴り足を掴んでの膝十字固め。
柔道着を着ていないと使えない柔道の技もある。
またいくら投げても勝ちにならない。
確実に勝つためには、関節技・絞め技でギブアップさせるしかない。
数多く異種格闘技戦をこなすうちに前田光世は独自の戦法を編み出していった。
それは突き蹴りという打撃技にまで及んだ。
「僕の経験によれば飛び込んで組みつきさえすればすぐに勝てる。
しかし柔道家にとって1番安全な方法は、まず当身を練習し、拳法家の突きを避けるくらいの腕前を磨き上げることだ。」
前田困る
アメリカ、イギリス、ヨーロッパと転戦していくうちに相手が見つからなくなった。
そこで偽名を考えた。
しかしよい名が思い浮かばない。
困った。
では「前田困る」にしよう。
「コマル」では語呂が悪いから「コマ」に、そして伯爵という意味の「コンデ」をつけて「コンデ・コマ(Conde Koma)」
「困った伯爵」ならぬ「コマ伯爵」
これがリングネームとなった。
アメリカ、中南米、ロシア、ヨーロッパを周り、世界の格闘家と試合し続け、およそ2000回戦いに挑んだ。
そのうち1000回余りは柔道着を着て、それ以外は柔道着なしで戦った。
敗れたのは2度だけ。
いずれも柔道着なしで挑んだものだった。
やがてブラジルに入った前田光世はアマゾンの大自然に魅せられ、ここに永住することを決意し道場を開設した。
前田光世は、ブラジル政府から70万エーカー(青森県より広い)の土地を無償で与えられた。
このとき政府と前田の仲介をしたのが、ガストン・グレイシーという政治家だった。
グレイシー一家は、スコットランドからの移民で、ガストンはブラジル3代目で5人の息子がいた。
ブラジルの治安の悪さと長男カーロス・グレーシーの素行の悪さに悩んでいたガストンは前田に頼んだ。
「息子たちに柔道で鍛えてくれ」
こうして前田光世はカーロス・グレイシーに柔道の技術と精神を教えた。
4年後、みっちり柔道を習ったカーロス・グレイシーは「柔術アカデミー」という道場を開いた。
前田光世は、自分が講道館から破門されていたので「柔道」という言葉を使わせなかった。
エリオ・グレイシー
カーロス・グレイシーが「柔術アカデミー」を開いたとき、その弟のエリオ・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの父)は13歳だった。
エリオ・グレイシーは体が弱いという理由で試合はもちろん練習さえさせてもらえず、12歳年上のカーロスの言葉を熱心に聞き、見たことを吸収しようとした。
3年後のある日、男性がプライベートレッスンを受けに道場を訪れた。
しかしカーロスは道場にいなかった。
そこでエリオが
「兄を待っている間、相手をしましょうか」
と申し出た。
30分後、カーロスが道場に着くと男は、この子と練習を続けたいといった。
この後、エリオ・グレイシーは柔術を教え始めた。
エリオ・グレイシーは体が弱かったかもしれないが気は強かった。
「体が強くなくても技術とテコの原理があれば誰にも負けないほど強くなれる」
そう信じて、練習し、新しい技術を身につけ、試合に出た。
そして1年後には国内チャンピオンになった。
やがてエリオ・グレイシーは、バーリトゥード(なんでもあり)ルールで戦い始め、約20年間無敗を誇りブラジルスポーツ界の英雄となった。
伝説の試合 木村政彦 vs エリオ・グレイシー
エリオ・グレイシーは日本の柔道家:加藤幸夫とブラジリアン柔術ルールで対戦し、10分3R引き分け。
2週間後、再戦し加藤を絞め落とし一本勝ちした。
加藤幸夫に勝った1ヵ月後、エリオ・グレイシーは、ブラジル大統領を含む3万人が見守る中、史上最強の柔道家:木村政彦と10分3R、柔術ルールで対戦した。
2R3分、木村政彦が大外刈でエリオ・グレイシーを投げ、その後の寝技の攻防も制して腕絡みを極めた。
完全に腕が極まっているのにエリオ・グレイシーはタップ(まいった)せず、兄のカーロス・グレイシーがタオルを投入し敗北した。
グレイシー一族の掟
エリオ・グレイシーは43歳のときに弟子のヴァウデマー・サンターナと対戦し、3時間以上の戦った末、KO負け。
この試合を最後に引退した。
ヒクソン・グレイシーが生まれたとき、父のエリオ・グレイシーは45歳だった。
長男:ホリオン・グレイシー。
次男:ヘウソン・グレイシー。
三男:ヒクソン・グレイシー。
四男:ホウケル・グレイシー。
五男:ホイラー・グレイシー。
六男:ホイス・グレイシー。
七男:ホビン・グレイシー。
エリオの指導の下で兄弟は稽古をした。
エリオ・グレイシーは、まずは負けないこと、決してあきらめないこと、臨機応変に動くことを強調した。
文字通り、生き残ることが命題だった。
グレイシー一族は、柔術同士の戦いだけではなく、道場破りにきた様々な格闘技の猛者とも対戦した。
あくまで本来何が起こるかわからない実戦の中で技を磨き、その根源的な格闘技の精神を大事にした。
ヒクソン・グレイシー
ヒクソン・グレイシーはほとんどの時間をリオデジャネイロの街か海辺か道場で過ごした。
家がコパカバーナビーチの前にあったので、1人でよく家の前や海岸で遊んでいた。
学校の勉強はほとんどしなかった。
エリオ・グレイシーも息子の学校の成績に関心がなかった。
ヒクソン・グレイシーは6歳から柔術の大会に出始めた。
そして初めて優勝して以来、トップでなければ満足できなくなってしまう。
彼は自分にとって何が重要だと思うかを問われて「自分自身」と答えた人以外、みんな間違っているという。
ストリートファイト
リオの街では年上の不良少年グループとも付き合った。
ワイルドな街で男らしさを見せつけ勇気を証明するために危険なことも行った。
柔術や格闘技の試合より、ストリートファイトの数のほうが多いともいわれている。
ブラジルの柔術少年
道場では父親や兄が教えているのをみて、また練習や試合をする人をみて育った。
一番重要な場所は道場のマットの上だった。
そこでは年齢や職業、性別、肌の色などどうでもよくなり、人は本当の自分をさらけ出した。
体が大きく強そうにみえる男がプレシャーに耐えきれず臆病者のようにオドオドしたり、ガリガリに痩せているが粘り強い男もいた。
負けて言い訳を始める人もいれば、結果を認め受け入れる人もいた。
自分より弱い相手には徹底的に攻撃するが、強い相手にはダメージを受け戦えないふりをする人もいた。
プレッシャーがかかっても立派にやれる強い人間もいた。
いろいろな人をみてヒクソン・グレイシーは、日本の武士道、サムライが進むべき1本しかない細い道を理解した。
潔さ、勇敢、善良・・
そんな紳士でありながら強い男が理想だった。
また相手を尊敬すること、謙虚であること、つまり自分が人より優れているとは考えないようにすることも重要なことだった。
自信がありすぎると周りがみえなくなってしまう。
戦う上で「自分の方が有利」と考えた時点で、相手の特徴を理解することができなくなってしまう。
ヒクソン・グレイシーはそんなことにならないように相手を尊敬し感覚を研ぎ澄ました。
決して人を見下したり批判ばかりしてはいけないと思った。
13歳のとき、大人と稽古していていいポジションを取られ首を押さえられ、息ができなくなり命の危険を感じ、怖くなりタップ(まいった)してしまった。
その後、ヒクソン・グレイシーは猛烈に自分に腹が立ち泣いてしまった。
やがて冷静に反省した結果、
なぜ不利な体勢になったのか?
なぜパニックに陥ったのか?
この2つを敗因とした。
以後、同じようなことが起きて息ができなくなっても、
「とにかく息をしながら、このポジションさえなんとかすればいいんだ。
挽回できる。
この体勢から抜け出すぞ」
と考えあきらめようとは思わなくなった。
そんなことを繰り返すうちに、恐怖とは自分の中にあることだということ、そして恐怖を克服するためには問題を理解することであると悟った。
武士道
ヒクソン・グレイシーが読んだ「Shogun(将軍)」James Clavell著
Shōgun (novel) - Wikipedia
ヒクソン・グレイシーは、日本の武士道を愛した。
サムライの信じるもののためなら喜んで死んでやろうとする生き方や、彼らが信じ守った信念に感銘を受けた。
彼らは心身の鍛錬によって優れた能力を身につけ、かつ正しく生きようとした誇り高き人に思えた。
しかしヒクソン・グレイシーは、サムライの「主君への奉仕」だけは立派だとは思ったが好きになれなかった。
ヒクソン・グレイシーにとって、自分を1番大切にすること、自分らしさ、自分の幸せを見つけることは生きることの基本だった。
主君のために自分を殺せる人間はある意味で完璧な戦士かもしれないが、ある意味、人間として弱いと思った。
たしかに仕事や責任のために自分を犠牲にするのは価値あることかもしれないが、自分次第で何だってできたり、どんな人生を歩んでも構わないということのほうが素晴らしいのかもしれない。
ヨガ
ヒクソン・グレイシーは10代からヨガを始めた。
それはアニマルエクササイズと呼吸法を組み合わせたヨガで、猿のように歩いてジャンプしたり、蛇のようにジッとしたり、いろいろな動物の動きをマネながら深い呼吸をする。
そして体の柔軟性と強さを養い、また動物になりきることで、何も考えずただみて、ただ感じるだけという心が無になる状態をつくることを狙ったものだった。
無の心になれば、感覚が研ぎ澄まされた。
呼吸法
ヒクソン・グレイシーは、17歳でヨガの先生から呼吸法を教わった。
そして呼吸エクササイズの効果に驚き、以降、ずっと重要なエクササイズとして続けている。
毎日、何分か正確に深い呼吸を続け、ストレスを吐き出し心を洗いリフレッシュさせる。
横隔膜を使う腹式呼吸は、体内に取り入れる酸素量が増え、疲労した細胞に新しいエネルギーと酸素を供給する。
また試合前などでも呼吸法と瞑想により心を無にして、どんな感情も表れない状態、自然にプレッシャーを消化できる状態になった。
目に見えないものを大切に
アメリカでは、カリフォルニアのパシフィックパリセーズに自宅があった。
家の前は海岸だった。
ある日、ヒクソン・グレイシーがトレーニングで10マイル(16㎞)ほど海岸を自転車で走った後、海で泳いで家に帰ろうとすると、砂に半分埋まったなにか白いものを発見した。
掘り出してみると頭が象の形をした木彫りの人形だった。
ヒクソン・グレイシーはそれを持って帰って洗い、白く塗ったベニヤ板で壁を作り、ヤシの葉で屋根をかぶせ神殿をつくり裏庭に置いた。
1年後、インドを訪れたことがある友人にその人形は、ガネーシャ神であることを教えてもらった。
数年後、老朽化したガネーシャ神殿をみてヒクソン・グレイシーは以前より豪華な神殿を自作した。
そしてお香をたいて花を供えた。
またサーフィンや山の中、雨に打たれて歩くなど、自然の中に入ったり、その強い力や大きなエネルギーを触れることが好きだった。
このように目にみえないものを大切にするヒクソン・グレイシーは、スピチュアルを楽しむことも大好きである。