1989年5月4日、UWFは、大阪球場でビッグイベントを「U.W.F. MAY HISTORY 1st」を開催。
大阪球場は2万3000人と超満員。
藤原喜明 vs 船木誠勝の師弟対決が行われ、15分36秒、膝十字固めで師匠が勝利。
そして前田日明 はメインで クリス・ドールマンと対戦し、4R 30秒、膝十字固めで勝利した。
「オランダの赤鬼」クリス・ドールマンは、
・グレコローマンレスリング ベネルクス(ベルギー、オランダダ、ルクセンブルクの3ヵ国)選手権4度優勝
・柔道 ヨーロッパ柔道選手権 準優勝
・サンボ 世界選手権 優勝
極真空手やウエイトリフティングの大会でも上位入賞した経験を持ち、職業は、アムステルダムの用心棒派遣業でストリートファイト経験も豊富。
前田日明だけでなく自分のことも熱心に応援してくれた日本の観客に
「ファンタスティックで感動した」
という。
そして後年、以下のように告白している。
・UWF - 全日本キックボクシング連盟会長の金田敏男 - オランダのメジロジム会長、ヤン・プラスと経由してドールマンに試合のオファーが入った
・契約は2試合
・リアルファイトということだったが、契約後、間もなくヤン・プラスに「お前が負けることを受け入れない限り試合は行われない」といわれた
・44歳のドールマンは不服だったが、ギャラもよかったので「ファイトではなくゲーム」と割り切りフィックストマッチ(結末が決まっている試合)を受け入れた
・試合数日前、「オオサカのどこか」で前田とリハーサルを行い、試合内容も時間もすべて即興で、フィニッシュだけは膝十字固めと決まった
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また大阪球場は23000人の超満員だったが、その内、数千人は無料招待券によるものだったという。
UWF四国後援会会長、徳島の格闘技界と音楽業界で知らない人はいないといわれるフクタレコードの福田典彦の後輩が松下電器にいて、大阪のパナソニックの販売店から数千枚の無料招待券を配布された。
UWFスタッフは
「人気に陰りというより、実際の人気以上にみせるための苦労。
大阪球場とか大きいハコで興行を打つのは、赤字になったとしても決して無駄ではない。
ゴールデンウィークに大阪球場を満杯にしたことで新たなスポンサーさんや企業さんがついてくれたし、1万円近いビデオが数千本も売れましたから、長い目で見れば黒字興行」
というが、かつて前売りチケットが発売開始なる前夜からプレイガイドの前にファンが並び始めたり、TV中継がないUWFを会社を休んで遠方まで観にいくことを「密航」と呼んで流行り言葉になったり、社会現象とまでいわれたUWFのチケットが売れ残っているのは確かだった。
旗揚げから1年が過ぎ、緊張感がない、つまらない試合が多くなり、最初はガマンして観ていたファンの足もやがてやがて遠のいていった。
またバリバリの革新派だった前田日明が、いつの間にか保守の権化と化していたことも人気低迷の大きな原因だった。
UWF道場でも、藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるが新日本プロレスから移籍してくると、自己主張ができる彼らによって、変化が起こった。
それまで完全な縦社会だったが、
「盲目的に従うだけではいけない」
と自覚した安生洋二、宮戸優光、中野龍雄ら若手と前田日明、高田延彦、山崎一夫らベテランの間に亀裂が生じ、ベテラン3人が練習に顔を出さなくなったこともあった。
高田は、前田と同調しているようで
「前田さんに勝ったとしても自分がその上にいけるわけではない」
という思いや様々な葛藤を抱えていて、事務所などで前田にニアミスしそうになると、すぐに方向転換して帰ることもあった。
経営に危機感を抱く神新二社長、鈴木浩充専務は、前田に
「観客数が減って興行収益が減っているにもかかわらずレスラーの数が増えて人件費が増加している」
と伝えた。
しかし超満員の客から大声援を浴びて試合をした前田にしてみれば、お金がないといわれても信じられず、彼らが私腹を肥やしているのではないかと疑った。
1989 年5月 21 日、19歳の田村潔司がデビュー戦で鈴木みのると対戦し、敗北。
藤波辰巳に憧れてプロレスラーを志し、岡山理科大学附属高校では相撲部に所属して国体に出場。
卒業後、UWF第1回新人入門テストで唯一の合格者となった。
そしてボロボロになりながらツラい練習を耐えていたが、
「いつかメインで戦おう」
と励まし合っていた仲間、第2回新人入門テストに合格した海老名保、堀口和郎が共にUWF道場での事故で引退するのを目の当たりにした。
海老名保は、後頭部を強打し痙攣を起こして救急車で搬送され、脳挫傷と診断され、開頭手術が行われることになった。
幼い頃、特撮ヒーローにハマって、タイガーマスクに憧れ、高校卒業後、上京してUWFに入った海老名は、
「改造人間になってきます」
といって手術室に入っていき、命は落とさなかったものの入門3ヵ月でデビューを果たせないまま道を断念することを余儀なくされた。
(2003年、ヒーロー好きが高じ、マスクを見よう見まねでつくっていた海老名は、秋田発・地産地消型ヒーロー「超神ネイガー」を企画・制作し、大ブレイク。
超神ネイガーはローカルヒーローの先駆けとなった)
堀口和郎も後頭部を強打し、痙攣を伴う昏睡状態に陥り、すぐに病院に運ばれ手術を受けたものの、翌日、脳挫傷のため、19才の若さで帰らぬ人となった。
田村は、以後毎年、命日に墓参りにいき、洗った墓石に堀口が好きだったポカリスエットをかけているという。
「19歳の若さで彼は逝ってしまった。
受身の練習中の事故で・・・
当時19歳の僕は、凄くショックで・・・・辛くて・・・
リセットボタンを押しかけて、この業界から辞めようとも思った。
クソくらい新弟子がいて、代わりはいくらでもいて、アイツは死んでしまうくらい頑張った。
でも頑張ろうにも・・・って考えてると僕自身辛かった日々も辛くなかったんだと思う。
だから今の僕があるのはアイツのおかげでもある。
今リセットボタンを押してしまいそうな人、あのときリセットボタンを押さなくて良かったと思うようになればいいですね」
(田村潔司)
1989年8月13日、「UWF MIDSUMMER CREATION」が開催され、高田延彦 vs 船木誠勝に17000人 超満員の横浜アリーナは大熱狂。
顔面への拳での攻撃を禁じられているUWFで、ほとんどの選手はパンチの技術が低いため、相撲の張り手のような攻撃になってしまう。
しかし骨法で学んでいた掌打が使える船木は、拳を握らずにボクシングのように打ち方で顔面へ攻撃ができた。
その高田を掌打でKO寸前まで追い込みながらも、12分0秒、キャメルクラッチで逆転負け。
キャメルクラッチは、うつ伏せの相手に背中に馬乗りになってエビ反りにさせる技で、真剣勝負なら絶対に極まるはずのない技だった。
かつてアントニオ猪木は、モハメド・アリ戦(1976年2月6日)前に極真空手の道場に出向いてローキックを学び、そのモハメド・アリを破ったレオン・スピンクス戦(1986年10月9日)前には、堀部正史に骨法を学んだ。
骨法は、堀辺正史が東條英機の 身辺警護を務めたという父親から教わった武術で、このとき猪木に数人の若手が帯同していたが、その中に船木誠勝もいた。
船木誠勝は、レオン・スピンクス戦が終わった後も、世田谷野毛の新日本プロレス道場での合同稽古が終わった後、東中野の骨法の道場に通って練習。
堀部正史は
「実力で上がってやろう」
と意志を持ってUWFに移籍した船木を全面的に支持していた。
移籍後、実際はUWFはリアルファイトの格闘技団体ではなく格闘技の技を使うプロレス団体であることがわかり
「失望した」
とこぼす船木に堀部正史は、
「倒せ!」
と叱咤した。
船木は高田戦で、それができたはずなのに実行しなかった。
堀部は、「失望した」といいながらリアルファイトに踏み込むことに躊躇する船木に不満を感じ、その後も
「高田を倒せ」
「前田を倒せ」
といい続けたが、船木が実行することはなく、ついに
「ウチに来ている意味はないね」
といった。
すると船木は骨法の道場に来なくなった。
「UWF MIDSUMMER CREATION」のメインでは、前田日明と藤原喜明が2年ぶりに対戦し、勝った前田には、カーセンサーから日産シーマが贈られた。
しかしその後、UWF事務所は
「ポルシェに乗っている前田はいらないだろう」
と判断し、シーマを社用車にして、主に鈴木浩充専務が乗っていた。
それをみた前田は
「選手がもらった車になんで鈴木が乗っとるんや?」
ついでに神新二社長に対しても
「お前の給料でどうしてベンツが買えるんや?」
とクレーム。
神社長は、取引先に足元をみられないように100万くらいで買ったと説明。
前田より年下で、ずっと
「おい、神」
と呼び捨てにされていた神社長だったが、
「TVに頼らず、興行数を月1回程度にすることでプレミアム感を増すビジネス展開は非常に革新的」
「21世紀型経営者」
と持ち上げられるようになると
「前田さん、何をいってるんですか。
社長と呼んでください」
と注意した。
するとそれ以降、以降、前田は変わったという。
アントニオ猪木のファンだった神新二は、1983年2月、初代タイガーマスク(佐山聡)人気で絶頂にあった新日本プロレスに入社。
配属先は企画宣伝部で、与えられた仕事は営業本部長だった新間寿の運転手兼カバン持ち。
新日本プロレスを追われた新間がUWFを立ち上げると自然とそちらに移り、夜中、警官の目を避けながら大量のポスターを貼ったり、宣伝カーの乗ったり、販売店にチケットを配ったり、ときにはリングアナウンサーもやった。
1985年11月25日、第1次UWF時代、スタッフから退陣を迫られた浦田昇社長は借金だけを引き取って辞めると、UWFはたちまち経営難に陥り、スタッフは離散。
残ったのは神新二と、神に誘われてUWFに入った大学の同級生、鈴木浩充の2人だけだった。
前田らUWF勢は新日本プロレスに参戦したが、そのファイトマネーはUWFの口座に振り込まれ、神と鈴木はそれをそのままレスラーに渡し、自分たちの給料と世田谷に借りている事務所(高田延彦ファンクラブ会長、鈴木健が経営する文具屋の事務所を半分、間借り)の経費は、UWFのグッズを売って稼いだ。
神は、税金対策のために1987年2月にUWFを正式に株式会社として登記し、神が社長、鈴木は専務となった。
新日本プロレスと合併後、夢も希望も活躍の場もないUWFの若手、安生洋二、宮戸優光、中野龍雄に
「UWFを再旗揚げしてください」
と何度も頼まれ、ずっと断っていたが、
「もう1度やろうか」
という気持ちも起こっていた。
会社を登記して数か月後、6人タッグマッチでサソリ固めをかけようとして両手がふさがっている長州力に、前田日明が死角から顔面を蹴り、前頭骨(頭蓋骨の前頭部)亀裂骨折を負わせる「長州蹴撃事件」が起こった。
新日本プロレスは前田日明を無期限出場停止処分にしたが、世間には前田を擁護する意見も多数あり、神は、その声にも押され、
「やるしかない」
と覚悟を決め、親や親せき、UWFの後援者に資本金を出してもらった。
そして前田は新日本プロレスを解雇され、藤原喜明と木戸修を除くUWF勢は新日本プロレスを辞めて後を追い、第2次UWF誕生へとつながっていった。
1989年9月7日、4500人、超満員の長野市運動公園総合体育館で「UWF FIGHTING BASE」が行われ、メインで藤原喜明と 船木誠勝が対戦。
船木誠勝は、キック、そして顔面への掌打、ボディへの拳でのパンチのコンビネーションで、投げも寝技も使わない斬新なスタイルで勝利。
UWFの新たな可能性を感じさせた。
1989年10月25日、19歳の田村潔司が前田日明と対戦。
本来は船木誠勝が戦うはずだったが、ケガで欠場したため、代りに田村が出場した。
船木と田村と同い年だが、業界としては船木が5年先輩。
しかしUWFの道場で初めて田村をみたとき、船木は、
「すごい新弟子だな」
「ちょっと憶えたらデビューできそうだな」
と思った。
代役となった田村は、これが5試合目。
試合開始直後から新人らしく思い切りぶつかっていく、気持ちがいい全力ファイト。
明らかにトレーニング不足の前田は、最初、田村の掌底やキックに対応できず、もらい続けた。
しかし地力で勝る前田は、すぐに攻め返し、田村の顔面に膝蹴りを数発叩き込んで、ダウンを奪った。
ここまではよかったが、すでにキレている前田は、その後も制裁を加えるように、執拗に顔面に膝蹴りを入れ続け、何度もダウンさせた。
田村は立ち上がる度に頭をつかまれ膝蹴りをもらい続け、最後はレフリーストップ。
玉砕した田村は、その後、右眼窩底骨折であることがわかり、長期欠場を余儀なくされた。
(田村は、1年1ヵ月後((1990年12月1日)に復帰戦を行ったが、直後、第2次UWFが崩壊したため、それがラストマッチ。
UWF での試合数はわずか6で終わった)
ある意味、真剣勝負、しかしある意味、大人気のない、後味が悪い試合だった。
そしてメインでは、高田延彦が藤原喜明に初勝利した。
第1次UWFからエースを張り続けてきた前田に、高田や船木が迫りつつあった。
1989年11月29日、再旗揚げから1年半、第2次UWFがついに東京ドームに進出。
大会名は「U-COSMOS」
メガネスーパーがメインスポンサーとなって開催されたため、大会の正式名称は「メガネスーパーPRESENTS U-COSMOS」
アリーナSS席 - 30000円
アリーナS席 - 20000円
アリーナA席 - 10000円
スタンドA席 - 7000円
スタンドB席 - 5000円
スタンドC席 - 3000円
という価格で6万人がドームに入ったのに加え、全国9個所のライブビューイングで1万人が観戦。
またTBSが「UWFスペシャル 新格闘技伝説 異種格闘技・世界決戦」という特番を打ち、第2次UWF初の地上波放送が実現した。
このUWF史上最大のイベントは、
「男子、志を立てて郷関を出ず、学もし成らずんば死すとも帰らず、(骨を埋ずむるに、あにただ墳墓の地のみならんや、)人間いたるところ青山あり」
という幕末期の僧侶、西郷隆盛と錦江湾に身を投げ自分だけが死んだ月照が15歳で出家するときに残した言葉を引用した前田日明の挨拶でスタート。
中野龍雄 vs 宮戸優光
宮戸の握手を拒否した中野が感情ムキ出しのルールあるケンカファイトで、7分9秒、 裸絞めで勝利。
2人は犬猿の仲といわれ、2020年に中野巽耀が「私説UWF中野巽耀」を出版すると、宮戸は名誉毀損で告訴した。
安生洋二 vs チャンプア・ゲッソンリット
タイで400年以上の歴史を持つ最強の立ち技格闘技、ムエタイ。
チャンプア・ゲッソンリットは体重75kgというムエタイでは稀な大型選手で、ニックネームは「超像」、そして「黄金の左ミドル」
アメリカのラスベガスでマーシャルアーツの選手の脚を蹴り折り、オランダの伝説的キックボクサー、ロブ・カーマンをKOしたことがある選手。
98kgあった安生洋二は、「体重差10kg以内」というチャンプア側からの要求で85kgに減量。
チャンプアの鉄球のようなパンチと太い鞭のようなキックに被弾しながら、フルラウンド戦い抜いてドロー。
鈴木みのる vs 「8年間無敗」モーリス・スミス
鈴木みのるは、前腕を骨折した船木誠勝の代役で、「8年間無敗」の伝説のキックボクサー、WKA世界ヘビー級の現役チャンピオン、モーリス・スミスと対戦。
鈴木は、2R、右ミドルを食らってダウンし、カウント9でどうにか立ち上がり、3R、3度ダウン、4R 1分29秒、右ストレートパンチをもらい、うめき声を上げながらロープをつかんで立とうとしたが10カウントを数えられ、KO負けし、試合後は大号泣。
鈴木は
「スミスの強さにビビって大観衆の前で泣いて自らリングに寝転がった」
というが、後にパンクラスでスミスと2度対戦。
1993年11月の2戦目は再び敗れ、1994年5月の3戦目でUWFから5年越しのリベンジを果たした。
藤原喜明 vs 「バトルサイボーグ」ディック・フライ
藤原喜明は、オランダのキックボクシング・スーパーヘビー級1位、後にリングスでも活躍するディック・フライと対戦。
一般的なキックボクサーではなくボディビルダーのような肉体を持つフライに対し、小柄な藤原は、その蹴り足をつかんで倒し、自分は立ったまま体を反らして、立ちアキレス腱を極めてタップさせ、立ち関節技などみたことがない人が多く、度肝を抜いた。
山崎一夫 vs クリス・ドールマン
元サンボ世界王者のクリス・ドールマンにジャケット・マッチを要求され、道着を着た山崎一夫 は間合いを取ってローキックを放つが、ドールマンは蹴りをキャッチして変則の投げで寝技に持ち込み、3R 48秒、腕ひしぎ逆十字で勝利。
高田延彦 vs 「金メダリスト」デュアン・カズラスキー
デュアン・カズラスキーはロサンゼルスオリンピック、グレコローマンスタイル100kg級金メダリスト。
しかし試合開始数秒後、高田のローキック2発からのハイキックでダウン。
その後、投げと関節技で奮闘するも、10分55秒、高田の腕ひしぎ十字固めに敗れた。
前田日明 vs 「オランダの柔道王」ウィリー・ウィルヘルム
ウィリー・ウィルヘルムは、柔道オランダ選手権で3度優勝、ヨーロッパ選手権で1度優勝、世界選手権2位。
ウィルヘルムは前に出て間合いを詰めて組みつき、投げと寝技で圧倒したが、ローキックなど打撃をもらうと後退してしまい、最後はカニバサミで倒され、2R1分28秒、膝十字固めでギブアップ。
第1試合以外、異種格闘技戦とイベントをマスコミは、
「60000人の大観衆を集め大成功」
と報じた。
しかし実際に売れたチケットは15000枚程度で、残りは無料券だった。
読者プレゼントにハガキを3枚出し、3枚チケット当たり、
「大丈夫ですか?」
と電話した人もいた。
この大会のビジネス面での成否についてUWFスタッフは、
「メガネスーパーさんがスポンサードしている大会なんで、大赤字かというとそうでもない。
TBSで特番もやりましたから放映料も入ってます。
ビデオもかなり売れました。
グッズの売れ行きなんか数千万円です。
さらに『東京ドームに進出して大成功を収めた』という評判は大きくて、WOWOWの契約が決まるんです」
といっている。
1990年2月27日、道場練習での事故で亡くなった堀口和郎の追悼大会「U.W.F. ROAD」が神奈川県南足柄市体育センターでが行われた。
事故から約1年、彼が入門テストを受けたときの受験番号5番だったことから5回ゴングが鳴らされた。
中野龍雄 vs 鈴木みのる
安生洋二 vs 宮戸成夫
前田日明 vs 山崎一夫
高田延彦 vs 藤原喜明
が行われたが、 船木誠勝と鈴木みのるはレガースを外して登場。
自分の主張ができる彼らはUWFにとってはニュータイプだった。
一方で赤字続きに神新二社長は、メガネスーパーの子会社になることを考えていた。
メガネスーパー創業者、田中八郎は、大のプロレスファンだった。
これに前田日明は猛反対。
金がないということが信じられず、帳簿をみせるように要求。
「部外者に見せることはできない」
といって断られると、マスコミに
「UWFは経理が不透明だ」
と発言し、UWFの弁護士に
「なんで先走ってそういうことをいってしまうんだ」
と注意された。
マスコミは
「UWFの内紛」
「社長とエースの感情的対立」
と報道し、スキャンダルに発展。
神新二社長は、前田日明に帳簿をみせることにしたが、前田に株を渡すように要求されると拒否。
社員は売り上げのデータを提示し、会社が儲かっていないことを説明しようとしたが、前田日明は信じなかった。
私財を投じて再旗揚げし、身を粉にして働き続けてきた神新二社長、鈴木浩充専務は、横領を疑われ、怒りに体を震わせた。
神新二社長、鈴木浩充専務は、レンタルビデオ・CD店「友&愛」を2店舗経営し、不動産投資も行っていた高田延彦ファンクラブの会員に勧められ、個人的にマンションを買い、会社としても不動産を購入していた。
そのファンクラブ会員は、選手とも仲が良く、お気に入りの曲をダビングしてあげたり、プライベートでも一緒に遊んだりしていて、
「こないだ神が買った砧のマンションは狭い」
「鈴木に教えてやった岩槻のマンションはウン千万でさあ」
などと話していた。
それを聞いた前田日明は
「なんでそんなにマンション買えるんや」
と不信感を募らせた。
会社で買った不動産について、神新二社長は、
「将来、ジムを建てて引退した選手が教えるというプランだった」
と説明したが、帳簿を確認すると最初、月25万円だった神新二社長の給料は、グングン上がって200万円を超えていた。
給料が150万円だった前田日明は、他の選手に
「選手は搾取されている」
「フロントに入れ替えよう」
と話した。
そこに自分が会社を乗っ取ろうというような意図はなく
「自分が先頭に立って選手を守らなければいけない」
という思いだった。
1990年5月、メガネスーパーが、天龍源一郎を3億円で獲得するなど、新日本プロレス、全日本プロレスから選手を引き抜き、SWSを発足。
田中八郎は、格闘技色の強い団体に育て、UWFと対抗戦も行い盛り上げていこうと考えていた。
同時期、船木誠勝は、UWF事務所で前田日明の怒鳴り声を聞いた。
部屋を出てきた前田が置いてあった段ボールを殴るのを目撃。
「前田さん、それはないんじゃないですか」
と鈴木浩充専務にいわれると
「ああっ?」
とつっかかっていった。
前田が帰った後、神新二社長が
「あんな人だから・・・」
というのをみて、船木はUWFは一丸ではないことを思い知った。
「その頃ぐらいから前田さんは自分たちと一緒に練習しなくなったんです。
事務所のことを調べてたそうです。
お金の流れとかですね。
神さんたちが不動産を購入したとか、前田さんが1%の株も持たせてもらえなかったこととか。
前田さんは役員じゃなくただのレスラーという身分で、契約書も交わさないままやってたと思います。
不信感しかなかったんじゃないですか。
逆に神さんたちも前田さんをいらなくなってきてたような気がします」
(船木誠勝)
帳簿によると社員の給料は社長の1/10くらいだったが社員の多くは
「社長が前田さん以上の報酬を受け取るのはもらい過ぎ」
と思ったという。
そしてその後、社員は、社長と会社の看板選手の間に深い溝ができ、関係がギクシャクしていくのを感じた。
しかしそれでも
「どうにかなる」
と思っていた。
そう楽観視できたのは、日本初の民間衛星放送局、WOWOWとの契約があったからだった。
WOWOWの立ち上げの目玉は、マイク・タイソン、そしてUWF。
この2つでスタートダッシュし、一気に視聴者を獲得しようとしていた。
UWFは、翌1991年春からWOWOWで放映され、1大会4千万円、年間5億円の放映料が支払われることがが決まっていた。
「いくら感情的にこじれても、年間5億を棒に振るわけがない」
誰もがそう思っていた。
1990年6月21日、大阪府立体育館は超満員。
当日券を求める人の多さに、UWFは本当は売ってはいけない立見席まで怒られるのを覚悟で売った。
船木誠勝は、山崎一夫と対戦し、フロントネックロックで首を取られながらもボディを連打。
たまらず離した山崎に、ボディから顔面へ、パンチと掌打のコンビネーションでダウンを奪い、ドクターストップで勝利した。
4ヵ月後、1990年10月25日、UWF大阪城ホール大会のメインイベントで前田日明 vs 船木誠勝が行われ、激戦の末、前田が勝利。
「解散するのでは・・・」
と心配していたUWFファンは、2人の激闘をみて
「大丈夫だ」
と安心した。
しかし試合後、前田が、
「船木のような選手をリング外のゴチャゴチャでかき回したくないんだよ。
オレにしても高田(延彦)にしても、山ちゃん(山崎一夫)にしても、リングに専念できる環境だったら、別のまた違ったものになったと思うんだよ。
そういった意味で若い選手を守っていきたい。
妨害やちょっかいを出す者は、容赦せずに叩き潰すよ。
たとえそれが外の者であっても、中の者であっても」
「事務所が横領してる。
それをこれから突き詰めていく」
とコメントしたことを翌日の新聞で知ると再び不安になった。
事実、この船木戦が前田のUWFでの最後の試合になってしまう。
1990年10月28日、神新二社長はUWF事務所で記者会見を行い、前田日明が選手たちに
「選手の代わりはいないがフロントの代わりはいっぱいいる。
もっと優秀で素晴らしいフロントがいる。
だから別会社をつくって、そっちへみんなで移動しよう。
新しいフロントも手配済みだ」
と話しているとし、
「冷静になってもらうために」
と5ヵ月間出場停止処分にすると発表。
この処分は役員会議を通さずに決めたもので、他の役員には後になって知らされた。
そして神社長は、藤原喜明に前田に代わって選手の取りまとめ役を依頼した。
その後、1ヵ月後に行われる松本大会の対戦カードを決めるための会議が行われた。
この会議は選手も出席するはずだったが、藤原喜明、高田延彦、山崎一夫は不参加。
藤原は面倒くさいことに関わるのを嫌い、高田と山崎は
「前田さんの処分を自分が認める、あるいは世間一般に認めることになる」
とボイコット。
神新二社長は松本大会のメインを会議に出ている船木誠勝に任せた。
そして2ヵ月後の2度目の東京ドーム大会のメインを、船木誠勝 vs ボクシング5階級制覇のシュガー・レイ・レナードと異種格闘技戦にするプランを立てた。
しかし会議に出ていた船木誠勝、鈴木みのる、宮戸優光らも神社長のやり方に疑問を持っていた。
UWFの役員でUWF長野後援会長の高橋蔦衛に第3者の立場にある弁護士を紹介してもらい、事情を話し、前田と会社、どっちが正しいのか聞くと
「会社側が不利」
といわれた。
3人は
「前田さんが間違っていないなら出場しないのはおかしい。
だったら『これが選手の気持ちです』と全員で前田さんを呼べばいい」
と意見が一致。
すぐに高田延彦に相談し
「おお、いい話だね」
と賛同を得て、そのまま4人は前田に
「松本に来てください」
と要請。
翌朝、6時、藤原喜明の家に押しかけて了解を得た。
1990年12月1日、長野県、松本運動公園総合体育館のメインでウェイン・シャムロックに勝った船木誠勝はマイクを持ってリング上から
「前田さん!
リングに上がってきてください!」
とコール。
すると出場停止処分中の前田日明が登場。
他の選手もリングに上がり、姿をみせようとしなかった藤原も高田が呼ばれ、仕方なくリングに上がり、全選手が集合。
マイクを渡された前田は
「ご心配をおかけしまして申し訳ございません。
これからはさらに選手12人、一致団結して、本当の夢を追っていきたいと思います。
これからもUWFをよろしくお願いします」
と挨拶。
会場は熱狂し、リング際までファンが押し寄せた。
神新二社長は、このとき、控室にこもったままだった。
全選手、全観客、全メディアが引き上げた後、部屋を出て帰路につき、東京への車中で泣きながらUWFを辞めることを決意した。
その後、選手たちはUWF選手会を発足。
前田日明は会長に、宮戸優光 と船木誠勝が副会長になった。
6日後の12月7日、神新二社長は、
・UWFの全選手の解雇
・自らの業界からの撤退
を発表。
解雇された選手たちは前田日明の家に集合。
前田は
「WOWWOWがついてるし、横浜に新しい道場も用意した。
とりあえず俺が代表じゃないけど決めていくからな」
といい、全選手の1ヵ月分の給料を自腹で払った。
12月10日、UWF選手会は記者会見を開き、
・新会社の設立
・翌年3月の旗揚げ戦を目指す
・WOWOWと年間5億円で契約する
と発表。
約1ヵ月の1991年1月4日、前田日明は渋谷道玄坂の雀荘に全選手を集めた。
しかし藤原喜明と中野龍雄は来なかった。
藤原は、すでにSWSを立ち上げていたメガネスーパーから誘いを受け、返事保留中。
中野は、神社長に悪い印象を持っておらず、また人間関係や背景から第3次UWFは決裂すると見越して出席しなかった。
神社長は、中野や安生洋二をはじめとした若手から慕われていて、田村潔司も
「人格者」
と思っていた。
前田日明は、集まったメンバーに美空ひばり事務所の経理主任をしていた相羽芳樹、そして米谷明をスタッフとして雇ったことを伝えた。
選手会副会長の船木誠勝は
(この人たちで大丈夫なのかな)
と思いながらが黙っていたが、同じ副会長の宮戸優光は、結束を呼びかける前田に対し人事を独断で決めたことに異を唱えた。
「一致団結していない」
と思った前田日明は、3日後に自分のマンションに再招集をかけ
「前回、俺の決めたことに不服そうなヤツガいた。
これからやっていくにあたって俺を信じてくれなきゃ困る。
全部俺が連れてきた人だし、俺のことを信じてやってくれないとすごくやりづらい。
1人でも信じないなら、俺はやらない」
といった。
鈴木みのるはすぐに
「自分は信じます」
といったが、宮戸優光は
「無理やり上からいわれて、はい、やりますとはいえません」
安生洋二も
「自分も同じ意見です」
と続いた。
「俺のことが信用できないのか?
さっきいったけど1人でも信じてくれないならやっていけないんだよ」
前田はいったが
「信用するか、信用しないかっていっても、そんなのわかりませんよ」
「前田さんのいうことだけを一方的に信用するのは不可能です」
「今日はいわせてもらいますけど、前田さんは僕らを単なる下っぱだと思ってるでしょ」
「なんか強制されてるみたいで嫌だなぁ」
と宮戸優光や安生洋二は態度を変えない。
前田は
「わかった。
じゃあ解散だ」
といった。
「そんな、ないっスよ」
鈴木みのるは食い下がったが、前田に
「いや、できない」
といわれると泣き始めた。
宮戸優光と安生洋二は、すぐに帰り、その後、一緒にロイヤルホストで食事をした。
高田延彦、山崎一夫、船木誠勝、田村潔司らは残り、
「前田さん、これだけでやりませんか」
と訴えたが前田の返事は同じだった。
帰りのエレベーターで船木は
「俺たちだけでやりませんか。
1回やったら、たぶん前田さん、来てくれますよ」
といったが、高田は
「前田さんがやらないっていうんだから無理だよ」
といった。
実はこのとき前田は本当に解散する気ではなかった。
「こういえば反省して向こうから頭を下げにくるだろう」
「1週間ぐらい頭冷やしたらみんな来るだろう」
と思っていた。
しかしその後、1週間、知らないうちに想定外のことが起こった。
宮戸と安生は、船木をエースにして若手だけで団体をつくろうと、前田、高田、山崎、藤原喜明以外の全員で安生の家に集まり
「前田さんは話にならない。
このメンバーでやりましょう」
といった。
船木は
「前田さんも高田さんもやらないっていうし、これしかないのかな」
と思っていたが、
「藤原(喜明)さんが呼んでるから明日来い」
とUWFのレフリーをしていたミスター空中に電話でいわれた。
藤原に呼ばれたのは、船木と鈴木。
2人が経緯を説明すると、藤原は
「わかった。
集まってる若手、全員連れてこい。
メガネスーパーの社長が資金を出す」
といった。
船木に誘われた宮戸は
「藤原さんがいると絶対好きなことできない。
こっちでみんなでやれば新しいことができる」
と拒否。
船木と鈴木は藤原と一緒にやることを決めた。
その後、安生と宮戸は高田延彦にコンタクト。
高田はそれを受け入れ、山崎一夫と中野龍雄、そしてUWFで自分のファンクラブの会長をしていた鈴木健をスタッフとして誘った。
彼らは「UWFインターナショナル」、通称「Uインター」を興した。
それは「プロレス+異種格闘技戦」というスタイルで「最強」を追求するプロレス団体。
藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるは、メガネスーパーをスポンサーに「プロフェッショナルレスリング藤原組」を設立。
カール・ゴッチのリアルワンスタイルで強くて怖いプロレス団体を目指した。
こうして第2次UWFは、1991年1月に完全に解散。
2年7ヵ月の活動にピリオドを打った。
1人ぼっちになった前田日明は、 本当に部屋に引きこもってしまった。
「何でこうなったんかな?」
そんなことを考えているうちに朝になって昼になって夜になって、それを繰り返しているうちに
「考えてもしゃーない。
とりあえず体を動かそう」
とトレーニングを開始。
当時、開局間近だったWOWOWは、UWFの解散を受け、改めてネームバリューのある前田をバックアップすることを決定。
1991年5月、前田は、格闘技団体「ファイティング・ネットワーク・リングス」を所属選手、自分1人という異常事態のまま設立。
「いろいろな競技場から選手がやってくる。
競技場はリングだろうと。
それが集まってきて、複数形でリングスです。
リングは「輪」にもつながる。
日本的でもあるし、いいんじゃないかということで決めました。
リングスのマークは「人種」を表しています。
白人、黒人、黄色人種。
いろいろな人種が世界中から集まってきて戦う。
当時、コンピューターの専門誌を見ていると、「ネットワーク」って言葉が出てきました。
そこから単純に「ファイティングネットワーク」でどうかと。
どっちみち所属する日本人は俺1人。
外から選手を引っ張るしかなかった。
だから「ネットワーク」っていう理念を前面に打ち出した。
どんな奴が来るのかわからないってコンセプトでやることにしたんです」
すでにUWFへの協力の約束を交わし、お金も送っていたクリス・ドールマンに連絡。
用心棒を派遣する仕事をしていたドールマンの道場には、ディック・フライ、ヘルマン・レンティング、ハンス・ナイマン、ウィリー・ピータースなど強くてヤンチャな選手が揃っていた。
彼らは放っておくと犯罪に走ったり、事件に巻き込まれたりするが、実は真面目で純粋。
格闘技を一生懸命することで人生を素晴らしいものに変えた男たちだった。
彼ら、リングス・オランダの面々の参戦を得て「リングス」は始動。
キャッチコピーは
「世界最強の男はリングスが決める」
前田はUWFの道場にあったリングを持ってこようと思ったが、すでにUインターに取られていた。
一方、神新二社長、鈴木浩充専務は、
「プロレスとは違うイベントを主催しよう」
と「株式会社スペースプレゼンツ」という会社を設立。
当初、セミナーや勉強会を行い、その本の出版、販売を行っていたが、UWFで「密航ツアー」を担当していた人が旅行代理店から独立したのを知ると
「一緒にやろう」
と誘い、旅行関係の仕事もすることになり、ツアーコンダクターとして国内外に飛ぶこともあった。
ある日、会社の顧問の知り合いから、
「福島に神のお告げで水を掘り当てた、こけし工芸屋さんがいる」
という情報を得ると現地にいってみた。
こけし工芸店の奥さんが
「夢でみた」
という場所を掘ったが水は出ない。
地元の水道局に聞くと
「水源があるわけがない」
といわれた。
しかしこけし工芸店の奥さんが
「絶対水は出る」
というので別の場所を掘ると、本当に水が噴き出してきた。
水を近隣の住民の人に無料で配ったところ
「病気が治った」
「健康にいい」
などと評判になり、地元のTV局が取材に来て、さらに評判を聞きつけた人々が水を求めて集まってきた。
それをみて神新二社長は、この水を
「御神水」
と名づけて販売しようとした。
湧き水を製品化するために機械を購入し、ペットボトルを大量発注し、倉庫を借りた。
莫大な経費をかけた結果、できた製品はペットボトル1本、1500円。
高すぎてまったく売れないまま、水は出続け、商品を作り続け、新しい倉庫を借りた。
神社長は
「とにかく水を売れ」
と厳命し、社員総出で宣伝したが、まったく売れず、1991年冬、すべて手放した。
この後、神新二、鈴木浩充は別々の道を歩み始めた。
1999年2月21日、前田日明が引退時試合を行ったが、鈴木浩充 は会場にいって神新二に託された詫び状を渡した。
前田は過去のことして水に流した。
さらに19年後の2018年7月10日、鈴木浩充は、「ありがとうU.W.F. 母さちに贈る」を自費出版、Amazon限定で販売。
鈴木浩充は、営業や経理を担当しマッチメイクにはタッチしておらず、営業の過酷さ、団体を支える裏方の苦労、団体崩壊寸前のきな臭い雰囲気などを克明に記した。
同時期(2018年7月)、神新二は、奈良県桜井市に「NEW VISION アカデミー」を開校。
これは2016年11月に大阪につくった一般社団法人「NEW VISION」 が移転したもの。
神はUWF関連の取材のオファーが多く受けたが、全て断り、公には何も語っていないが、会社のHPには、UWFへの想いを語ることもあった。
それを読むと、恐らく前田日明への恨み言と思われる部分もあるが、UWFがいかに純粋な男たちの純粋な夢の結晶だったことがわかる。
まさに前田日明の著書名「パワー・オブ・ドリーム」 だった。