北海道大学柔道部
極真空手をやるつもりだった
平成元年4月、18歳の中井祐樹は北海道大学の柔道場に見学にいった。
目の前で長時間、寝技の乱取りを繰り返されていた。
当時は京都大学が連勝街道を驀進中で、北海道大学は5年連続最下位という最悪の状況に陥っていた。
かつて優勝候補の一角に挙げられ、重量級のインターハイ選手をズラリと揃え、講道館ルールの大会でも全国トップクラスの大学と互角勝負をしていた面影はどこにもなかった。
毎年いろいろな工夫を続けさらに練習量を増やしていた。
しかしどうしても勝てずズルズルと最下位を続けていた。
15人で戦う七帝戦は総力戦。
だからとにかく部員を増やそうとした。
が、入れても入れても練習の苦しさに新入生が辞めていく。
悪循環だった。
七帝戦は3カ月後に迫っていた。
とにかくだましてでも新入部員を入れて鍛え上げねばならない。
2人の男(主将と副主将)が近づいてきたので中井は頭を下げた。
「中井祐樹といいます。」
「竜澤です。」
「増田(俊也、作家、著作『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』『七帝柔道記』等)です」
そして握手した。
中井は去年まで札幌北高でレスリングのキャプテンをしていた。
「うちは見てのとおり普通の柔道じゃないんだ。
寝技ばっかりだろ。
レスリング出身者は伸びるぞ。
もう入ることは決めたのかい?」
「いえ、それは・・・」
中井は頭をかいた。
実はすでに極真空手北海道支部道場へ入るつもりだった。
高校で組み技をやったので大学では打撃を身につけたいと思っていた。
柔道部が少し特殊だと聞いて覗きにきただけだった。
なにせ中学を卒業したらUWFに入ろうと思っていたくらいだったので、柔道部という発想はなかった。
竜澤宏昌主将
「そうか
まあ練習をみていってくれよ」
そういって男たちは練習に戻った。
「よし、一本やろうか」
「お願いします」
中井の目の前で乱取りが始まった。
いきなり副主将の飛びつき腕十字が極まった。
極められた方は悲鳴を上げて手を叩いた。
そして立ち上がって再び組んだ。
次の瞬間、脇固めが極まった。
「痛い!」
とまた声を上げながら畳を叩いた。
中井は思わず身を乗り出した。
好奇心で目が輝いていた。
そこから寝技が続き、腕十字、腕絡み、三角からの腕固め、オモプラッタ、・・・、副主将の関節技が10秒に1回のペースで極まり続けた。
6分が終わり、乱取り交代の合図があった。
極められ続けた方はフラフラしながら礼をした。
そして練習後のミーティングで中井はいった。
「入部します!」
寝技仙人
こうして中井祐樹は白帯から柔道を始めた。
2年目から先輩たちを押しのけて七帝戦のレギュラーとなった
部員は45人。
白帯から始めてわずか1年3カ月で15人のメンバーに入るのは驚異的なことだったが、引き分け役としてキッチリと役割を果たした。
3年目から本格的な寝技師として立派な抜き役に成長した。
インターハイ3位の実力者を下から返して簡単に抑えて周囲を驚かせた。
講道館柔道でも、体重別個人戦で北海道予選を勝ち抜き、正力杯でベスト16に入った。
とても大学で白帯から始めたとは思えない化け物のような寝技師に育っていった。
佐々木洋一コーチは、旭川東高校柔道部から3浪して北海道大学柔道部に入り、大学卒業後も道場に通い学生を指導し続けている。
現役時代は小柄な体で東大の超弩級:三本松進と分けるなど活躍した。
その独特の雰囲気から学生たちに「寝技仙人」と呼ばれている。
佐々木は中井祐樹についてこういう
「夜の練習が終わると、練習熱心なやつらは居残って技の研究とか腕立て伏せ1000回だとかウエイトトレーニングとかやってるだろ。
ああいうことやってる連中は強くなってるよな、みんな。
努力すれば当然強くなる。
だけどな、中井はそんなことしてなかったよ。
だからその強くなった連中以上に飛び抜けて強くなったんだ。
中井は道場の真ん中で大の字になって1時間くらい動けないで天井仰いでるんだ。
それくらい乱取りで全力を尽くしてるんだよ。
一本一本の乱取りでいっさい手を抜いてないんだ。
だから研究とかウェイトとかやる余力が残っていなかったんだ。
俺は200人近く選手を見てきたけどそんな選手は中井しかいなかった。
技術的には教えたこと教えたことすべて吸収しちまいやがる。
さらにそれをアレンジして自分流にしてしまうんだ。
そして「もっと教えてください」って何度も何度もやってくる。
しつこかったよ。
そのうち教えることがなくなっちゃったよ。
あとは自分の力でスルスルと高みにのぼりつめていったんだ。」
10連覇中の京都大学に勝つも、九州大学の甲斐泰輔に負ける
甲斐泰輔と中井祐樹
中井の入部後、1年目、北海道大学は七帝戦で3位となった。
2年目も、3位。
そして3年目は、準決勝で10連覇中の京大を破った。
決勝は怪物甲斐泰輔を擁する九州大学だった。
大将決戦でも勝負は決まらず代表戦になった。
九大はもちろん甲斐が出た。
北大は本戦2人目で甲斐を止めた128kgの巨漢、4年生の副主将の後藤康友を出した。
甲斐は二重絡みで守る後藤をそのまま袖車で絞め落とした。
甲斐泰輔はとてつもなく強い男だった。
110kgの体で軽量級のような寝技をやった。
誰も止められなかった。
15人目の大将にはチームで最も弱い大将を置かれる。
甲斐は副将に坐り、相手校が5人残っていようが6人残っていようがすべて抜き去ってしまう。
まさに怪物だった。
戦前の高専柔道も、早川勝、野上智賀雄、木村政彦、木村光郎ら名選手をたくさん輩出しているが、
戦後の七帝柔道で最も強かった選手は間違いなく甲斐である
長い間、京大柔道部を指導し、『国立七大学柔道戦史』の大著もある丹羽権平氏も
「史上最強は甲斐君だ」
と断言する