中井祐樹 片目を失いながらも相手を叩きのめすなんて信じられない 

中井祐樹 片目を失いながらも相手を叩きのめすなんて信じられない 

小さな巨人、柔術ヒーロー、ラストサムライファイター、中井祐樹は体格は小さいのに本当に勇敢すぎる。片目を失いながらも相手を叩きのめすなんて信じられない。大きな代償を支払うことになったけれど、どの格闘家よりも多くを成し遂げたことは誰にも否定できない。


格闘技を楽しんでね!

もうだいぶん前のことですが、兵庫県の神戸で格闘技イベントがあり観戦に行ったときのことです。
教え子なのか、中井祐樹さんがセコンドについておられた試合がありました。
他の試合では、大声で技術的なアドバイスや鼓舞するセコンドもおられたのですが、中井祐樹さんはジッと黙ってなにかをと見つめておられました。
暗闇の中のその眼が今でも印象的です。
イベントが終わり駅のホームで電車を待っていると、なんと中井祐樹さんが前に並んでおられます。
練習か試合で痛められたのか、それとも少しなにか障害を持たれているのか、ただでさえ小柄な体を曲げて足を引きずるように歩いておられ、ますます小さく見えてしまいました。
そして電車に乗り込むと、座席に座られ、すでにカバーははなくなってしまい本体もボロボロになった文庫本を読んでおられます。
(いきなり後ろから殴ったらどうなるんだろうか?)
斜め後ろに立ち、そんなことを思っているとターミナル駅に着きました。
東京に帰られるであろう中井祐樹さんに、ここで声をかけないと一生後悔すると、迷惑を考えないようにして挨拶させていただきました。
「失礼ですが、中井祐樹さんですか?」
「はい」
後は感動と興奮で、しゃべりまくってしまいました。
いろいろ話していただいた後、最後にこういっていただきました。
「・・くん、格闘技を楽しんでね」
あの言葉と笑顔、忘れられません。
中井祐樹さんにお会いできたことは今でも一生の宝物になっています。
この後、地元にあったパレストラ(現:パラエストラ、中井祐樹の立ち上げられた道場)に見学にいったとき、プロの選手にそのことを話させていただくと、いかにもその方も中井祐樹を尊敬されておられるようで、いろいろすごいところを教えていただきました。
関西の悲しい性なのか、最後にテレビ番組の企画で中井祐樹さんが藤原紀香さんに三角締めをかけられ喜んでいたという話も教えていただきました。
ますますファンになりました。
今でも電車で読まれていた本を知りたくて仕方ありません。

高専柔道

七帝(ななてい)柔道

七帝(ななてい)柔道は
毎年7月に、
北海道大学、東北大学、東京大学、、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学の旧帝国大学の柔道部で行われる柔道の試合のことである。
(毎年1回、各大学持ち回りで開かれるため、7年に1度地元開催となる。)
ただし一般的な(講道館)柔道とはルールが異なる寝技中心の柔道である。
七大学柔道大会は昭和27年に始まったが、その母体である高専柔道大会は第2次大戦以前から行われていたので、それを含めると100年以上の伝統を誇る柔道である.
本来、柔道は立技と寝技を同等に修得して初めて完成されるが
講道館柔道は投技を掛けてもつれたときのみに寝技への移行が許される。
これに対し七帝柔道はいつでも寝技へ引き込むことが認められ、試合が始まるや投げ技を掛けることなくどちらかが引き込んで寝技になることも多い
もちろん立技で投げれば投げの一本勝ちも認められる。
このような環境下、講道館柔道はより投げ技を、高専柔道はより寝技が発達させてきた。
現在、柔道やブラジリアン柔術、総合格闘技などでも使われる三角絞め、袖車絞め、オモプラッタなどは、高専柔道で開発された技術もある。
また柔道では禁止されている脚への関節技、膝十字なども高専柔道で開発された。
戦後の七帝柔道でも、SRT(スーパーローリングサンダー、遠藤返し)などの新技術が多く開発されている。

15人 vs 15人の団体戦

試合は15人の団体戦で、勝ったものが勝ち残って次の人間と戦っていく。
いわゆる抜き戦である。
試合時間は、先鋒から3将(13番目の選手)までが6分、副将と大将は8分である。
「有効」「効果」といったポイントはなく「一本勝ち」のみ。
寝技で膠着しても審判は「待て」をかけず延々と寝技の攻防が続く。
だから1試合終えるのに2時間以上かかることもある。
試合者が会場の縁で攻防していると主審は「そのまま」と試合を止め試合場中央で同じ体勢に組み合って試合再開となる
15人を終えて大将決戦になり引き分けになると両校が代表選手を選んで8分の代表戦を行う。
これも引き分ければまた代表を選び代表戦を延々と繰り返す。
何度でも勝負が決するまで繰り返し続ける。
(昭和39年の第13回大会の決勝戦、北大vs九大では、代表戦を繰り返し、延々4時間以上かけて深夜10時を過ぎても決着がつかず大会初の両校同時優勝が決まった。)
試合ごとにお互いに先鋒から大将までの15人の布陣表を審判部に提出する
各大学は抜き役(勝ちにいく役)と分け役(引き分けにいく役)の役割を明確に分けて選手を育てる。
抜き役は必ず取らなければいけないし分け役は必ず引き分けなければならない。
分け役の1分けは抜き役の1勝に相当する。
抜き役と分け役には、上下の区別はまったくなく、共に敬意を払い、互いの役割を果たすことによってチームが勝つのだという意識を共有している。
抜き役の中でもとくに強い選手を巨大戦艦になぞらえて「超弩級」と呼ぶ。
戦前の高専柔道では、全日本で優勝した野上智賀雄(京都帝大)、木村政彦(拓大予科)らがいる。

伝説の柔道家、木村政彦も高専柔道出身

日本柔道史上最強とうたわれる木村政彦は、立ち技はもちろん、その寝技でも、ブラジリアン柔術の祖、エリオ・グレイシーを完封して勝利した。
戦後の七帝戦でも、三本松進(東大)、岡本啓(京大)、川西正人(北大)、甲斐泰輔(九大)らがいる。
三本松はモントリオールオリンピック金メダルの上村春樹と講道館ルールで戦い試合場のど真ん中で投げ一本勝ちしている。
川西は全日本学生優勝大会で明治のキャプテンを大外で叩きつけた。
甲斐は、巨漢ながら緻密な寝技を身につけ、七帝戦本番で1試合で5人も6人も抜く怪物だった。
甲斐は入部が遅かったため七帝戦には2年生から出場したが、4年生までの3年間で抜いた数は24人。
これは今後も破られることはないだろう大記録である。

中井祐樹は大学から高専柔道を始めた

寝技は立技よりも天賦の才に左右される部分が少ないといわれ、かつ短期間で技術の向上ができるといわれている。
例えば中井祐樹は大学から始めわずか4年後には突出した寝技技術を身につけた。

そして6年後には日本の総合格闘技界の歴史を変えた。
「VTJ95(バーリ・トゥード・ジャパン・オープン95)」の準決勝で、ジェラルド・ゴルドーの悪質な反則攻撃に耐え抜いた末、勝利し、決勝ではヒクソン・グレーシーに負けたものの、その勇姿は歴史に残るものだった。
そしてこの日の試合で中井祐樹は右目を失明したのである。

北海道大学柔道部

極真空手をやるつもりだった

平成元年4月、18歳の中井祐樹は北海道大学の柔道場に見学にいった。
目の前で長時間、寝技の乱取りを繰り返されていた。
当時は京都大学が連勝街道を驀進中で、北海道大学は5年連続最下位という最悪の状況に陥っていた。
かつて優勝候補の一角に挙げられ、重量級のインターハイ選手をズラリと揃え、講道館ルールの大会でも全国トップクラスの大学と互角勝負をしていた面影はどこにもなかった。

毎年いろいろな工夫を続けさらに練習量を増やしていた。
しかしどうしても勝てずズルズルと最下位を続けていた。
15人で戦う七帝戦は総力戦。
だからとにかく部員を増やそうとした。
が、入れても入れても練習の苦しさに新入生が辞めていく。
悪循環だった。
七帝戦は3カ月後に迫っていた。
とにかくだましてでも新入部員を入れて鍛え上げねばならない。
2人の男(主将と副主将)が近づいてきたので中井は頭を下げた。
「中井祐樹といいます。」
「竜澤です。」
「増田(俊也、作家、著作『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』『七帝柔道記』等)です」
そして握手した。
中井は去年まで札幌北高でレスリングのキャプテンをしていた。
「うちは見てのとおり普通の柔道じゃないんだ。
寝技ばっかりだろ。
レスリング出身者は伸びるぞ。
もう入ることは決めたのかい?」
「いえ、それは・・・」
中井は頭をかいた。
実はすでに極真空手北海道支部道場へ入るつもりだった。
高校で組み技をやったので大学では打撃を身につけたいと思っていた。
柔道部が少し特殊だと聞いて覗きにきただけだった。
なにせ中学を卒業したらUWFに入ろうと思っていたくらいだったので、柔道部という発想はなかった。

竜澤宏昌主将

「そうか
まあ練習をみていってくれよ」
そういって男たちは練習に戻った。
「よし、一本やろうか」
「お願いします」
中井の目の前で乱取りが始まった。
いきなり副主将の飛びつき腕十字が極まった。
極められた方は悲鳴を上げて手を叩いた。
そして立ち上がって再び組んだ。
次の瞬間、脇固めが極まった。
「痛い!」
とまた声を上げながら畳を叩いた。
中井は思わず身を乗り出した。
好奇心で目が輝いていた。
そこから寝技が続き、腕十字、腕絡み、三角からの腕固め、オモプラッタ、・・・、副主将の関節技が10秒に1回のペースで極まり続けた。
6分が終わり、乱取り交代の合図があった。
極められ続けた方はフラフラしながら礼をした。
そして練習後のミーティングで中井はいった。
「入部します!」

寝技仙人

こうして中井祐樹は白帯から柔道を始めた。
2年目から先輩たちを押しのけて七帝戦のレギュラーとなった
部員は45人。
白帯から始めてわずか1年3カ月で15人のメンバーに入るのは驚異的なことだったが、引き分け役としてキッチリと役割を果たした。
3年目から本格的な寝技師として立派な抜き役に成長した。
インターハイ3位の実力者を下から返して簡単に抑えて周囲を驚かせた。
講道館柔道でも、体重別個人戦で北海道予選を勝ち抜き、正力杯でベスト16に入った。
とても大学で白帯から始めたとは思えない化け物のような寝技師に育っていった。

佐々木洋一コーチは、旭川東高校柔道部から3浪して北海道大学柔道部に入り、大学卒業後も道場に通い学生を指導し続けている。
現役時代は小柄な体で東大の超弩級:三本松進と分けるなど活躍した。
その独特の雰囲気から学生たちに「寝技仙人」と呼ばれている。
佐々木は中井祐樹についてこういう
「夜の練習が終わると、練習熱心なやつらは居残って技の研究とか腕立て伏せ1000回だとかウエイトトレーニングとかやってるだろ。
ああいうことやってる連中は強くなってるよな、みんな。
努力すれば当然強くなる。
だけどな、中井はそんなことしてなかったよ。
だからその強くなった連中以上に飛び抜けて強くなったんだ。
中井は道場の真ん中で大の字になって1時間くらい動けないで天井仰いでるんだ。
それくらい乱取りで全力を尽くしてるんだよ。
一本一本の乱取りでいっさい手を抜いてないんだ。
だから研究とかウェイトとかやる余力が残っていなかったんだ。
俺は200人近く選手を見てきたけどそんな選手は中井しかいなかった。
技術的には教えたこと教えたことすべて吸収しちまいやがる。
さらにそれをアレンジして自分流にしてしまうんだ。
そして「もっと教えてください」って何度も何度もやってくる。
しつこかったよ。
そのうち教えることがなくなっちゃったよ。
あとは自分の力でスルスルと高みにのぼりつめていったんだ。」

10連覇中の京都大学に勝つも、九州大学の甲斐泰輔に負ける

甲斐泰輔と中井祐樹

中井の入部後、1年目、北海道大学は七帝戦で3位となった。
2年目も、3位。
そして3年目は、準決勝で10連覇中の京大を破った。
決勝は怪物甲斐泰輔を擁する九州大学だった。
大将決戦でも勝負は決まらず代表戦になった。
九大はもちろん甲斐が出た。
北大は本戦2人目で甲斐を止めた128kgの巨漢、4年生の副主将の後藤康友を出した。
甲斐は二重絡みで守る後藤をそのまま袖車で絞め落とした。

甲斐泰輔はとてつもなく強い男だった。
110kgの体で軽量級のような寝技をやった。
誰も止められなかった。
15人目の大将にはチームで最も弱い大将を置かれる。
甲斐は副将に坐り、相手校が5人残っていようが6人残っていようがすべて抜き去ってしまう。
まさに怪物だった。
戦前の高専柔道も、早川勝、野上智賀雄、木村政彦、木村光郎ら名選手をたくさん輩出しているが、
戦後の七帝柔道で最も強かった選手は間違いなく甲斐である
長い間、京大柔道部を指導し、『国立七大学柔道戦史』の大著もある丹羽権平氏も
「史上最強は甲斐君だ」
と断言する


「打倒!九大」 「打倒!甲斐」、北海道大が12年ぶりに優勝

吉田寛裕と中井祐樹

4年目、中井祐樹は副主将となった。
主将は吉田寛裕だった。
吉田は、小柄だが闘志の塊のような男で、寝技の緻密さでは中井に劣るものの、投げ技を合わせた総合力では上だった。
そして柔道衣を脱げば豪快な笑顔をみせる男だった。
入学当初は寝技中心の部の方針に反発していたが、先輩たちが七帝戦のたびにみせる涙に感化されて主将になった頃には柔道部精神の権化のような男に育っていた。
北海道大学柔道部は
「打倒!九大」
「打倒!甲斐」
を目標に1年間対策を練った。
そして大阪で行われた七帝戦の1回戦で九大と激突。
作戦通り中井が甲斐を止めて1人残しての辛勝。
敗者復活を勝ち上がってきた九大と決勝で再び相まみえ、これを破って12年ぶりに優勝旗を奪還した。

大学中退 - 立技と寝技、武道とスポーツ、生きることと死ぬこと

中井祐樹は、大学4年目の七帝戦を終えると、8月に北海道大学を中退した。
そしてプロシューティング(後のプロ修斗)に進んだ。
この3年後には「VTJ95(バーリ・トゥード・ジャパン・オープン95)」に出場し、伝説の試合を行うわけだが、その3年の間に大切な男を2人が亡くなっている。
甲斐泰輔は北大へ雪辱するため5年目の七帝戦にかけて猛練習を続けていたが、急性膵臓炎で22歳の短い命を閉じた。
吉田寛裕もその後を追うように24歳で逝った。
この2人の戦友の死は、元来、真剣勝負、ホンモノの強さを求める中井祐樹に、より死生観を与えたかもしれない。
あのジェラルド・ゴルドーの悪意と恐怖に満ちた反則を受けても、逃げずに戦い続ける姿は決してスポーツではない。
尋常ではない反則を上回る尋常ではないファイティングスピリッツがそこにはあった。
「今1991年春頃の事を思い出しています。
或いは初夏のことだったでしょうか。
その日僕は同期の吉田寛裕と珍しく練習後2人きりで(最初で最後か)銭湯に来ていました。
(僕は何故か実は誰かと2人で行動する事が極端に少ないのです。)
当時3年目の僕はいらいらしていました。
西岡さんを始め4年目の先輩方も辛そうに見えました。
かつて全国一に輝いた伝統ある部を引き継いでいるんだという誇り、しかしそれを望んでも叶えられない現実と力不足、全てが遠く感じられていました。
湯船に浸かりながら僕らはどうしていくべきかを延々と語りました。
吉田は少しばかり驚いているようでした。
僕はあまり現状を悲観しない人間だと思われていたのかも知れません。
いや悲観じゃなくただ泣きつきたかったのでしょう。
4年目の七大戦まではこの部に賭けようと考えていた僕を吉田は実にポジティブに受け止めてくれました。
そしてスッキリした僕はそれっきりネガティヴな想いを消しました。
結果この年は限りなく優勝に近い準優勝。
西岡さんの背負い投げは今も瞼に焼き付いたままです。
秋には吉田の援護射撃のつもりで出た個人戦でまさかの正力杯への切符を掴む事となります。
翌年我々は優勝カップを奪回する事に成功しました。
そして僕は北大を離れました。
あれから15年以上の時が流れましたが僕は未だ問い続けています
立技、寝技。
武道か、スポーツか。
生きる事、死ぬ事。
闘う事の面白さ。
そして闘う意味を世に問う事は僕のライフワークとなりました。
今も北大時代は僕の中ではずっと変わらぬいい思い出です。」
(中井祐樹)

中井祐樹のシューティング入りには否定的、あるいは反対する意見のほうが圧倒的に多かった。
しかし数少ない肯定派、賛成者の1人、岩井(北海道大学柔道部)監督はこういっている。
「副主将の中井は大学から柔道を始めたが北大を代表する寝技師に成長した。
3年の時には体重別71kg以下級で準優勝。
更に全日本では関西代表選手を寝技で破り、北大の寝技が全国・国際ルールでも充分通用することを示してくれた。
彼の特徴は何といってもそのガッツであり、稽古の時から気力に溢れ、道場の窓が開いている時は武道館に近づくにつれ、窓が閉まっている時には武道館のドアを開けると彼の掛け声が聞こえ、私自身気が引き締まる思いがした。
7月の出陣式の際、「今年は僕、甲斐でいいですよ」と中井から切り出してきたが、その言葉に彼のFor The Team、七大戦にかける意気込みを感じたし、おぼろげながらにイメージしていた対九大の作戦が固まっていった。
彼は「シューティング」という格闘技の道に進んだ。
「何故」と首をかしげる人もいるだろうがそれも1つの生き方であり、私自身としては彼の今後の活躍を楽しみにしたい。」

プロシューティング(現;プロ修斗)

横浜(シューティング横浜ジム)へ

中井祐樹は、横浜へ移り「シューティング横浜ジム」に入門した。
以下は横浜から北海道に向け送ったものである。

「皆さん、お元気ですか?
僕は今、バイトに稽古にと多忙な日々を送っております。
結構シンドイと感じることもありますがどうにかこうにかやっています。
北大にいた3年4カ月を現在、冷静になってみて素晴らしいと言えるのはやはり柔道があったからだと思う。
食事や睡眠など生活のほとんど全てをそそぎ込み熱中した柔道。
技術を創り上げることとは何か。
そしてその喜びを知った柔道。
自分の考え方を生み出す原動力(あるいは基準、アンチテーゼ)となった柔道(部)。
講道館柔道に七帝柔道など自分の中で柔道は様々な表情をしていたとつくづく感じる。
そんな中で七大戦を優勝で飾ることが出来たということは取りも直さずやるべきことはやったということを意味していた。
だからこそ僕は今ここにいるのだ。
七帝前の壮行会で酔った椛島(次期主将)に「中井さんには(進路は知っているけど)もう1年やって欲しいんです」といわれた。
でも僕は「俺が柔道部に残ることは楽なことなんだよ」と答えた。
真意が伝わったかどうかわからないが、僕には心の安らぐ場所であった柔道部、そして北大を去ることの方が長い目でみてベターであると思っていた。
ただそれだけのことだった。
諸先輩の方々、14人の同輩達、後輩諸君、本当にどうもありがとうございました。
シンドイ時は皆さんの励ましの言葉を思い出して、元気を出したいと思っています。
それでは、ジムに行ってきます。
もう昔は振り返りません。
サンキュー、じゃあね」

4月、本来ならば大学を卒業して就職していたであろうときに中井祐樹はデビュー戦を戦った。
「前略 辺りもすっかり暖かくなりました。
皆様如何お過ごしでしょうか。
さて私が横浜にてシューティングを始めてから8カ月の時が流れました。
そしてこの度、4月26日(月)の後楽園ホール大会に於て当日の第1試合として私のデビュー戦が決定致しました。
(当日は6時開場、6時半試合開始となっております。)
なんとかここまで漕ぎ着けることが出来ましたのも皆様のご支援のおかげです。
感謝の念に堪えません。
私にとりましてこれが出発点であり、これからも理想に向け精進してゆく所存です。
今後も変わらぬご指導宜しくお願い致します。
草々」
そして中井祐樹は則次宏紀に53秒で快勝。
2カ月後の6月24日には倉持昌和に2R1分36秒ヒールを極めて連勝した。

佐山聡(初代タイガーマスク、シューティング(現:修斗)創始者)

佐山聡は、アントニオ猪木に憧れ新日本プロレスに入り、初代タイガーマスクとして空前のプロレスを巻き起こし、その後、会社(新日本プロレス)と袂を分かち、前田日明と共にUWFで格闘技ブームを起こした後、独自の理想の格闘技「シューティング」を立ち上げた。

しかし中井祐樹は怒っていた

佐山聡の理念

しかし世間の認知度は低かった。
「シューティング? 
あんな小さいやつらがごちゃごちゃやってなんになる?」 
プロレスファンはそういって笑った。
プロレスが真剣勝負だと思っている人がまだたくさんいた時代だった。

中井祐樹は横浜で1人闇のなかを走っているようだった。
自分が強くなっていることは実感できた。
しかし未来がみえなかった。
収入とか、そんなことではない。
総合格闘技の強さを伝えることができないことに焦った。
シューティングのリングに有名なプロレスラーが上がってくれたら勝つ自信があった。
しかし上がってくれるわけがなかった。
真剣勝負で戦ってる自分たちが「弱い」「小っちゃい」で片づけられ、真剣勝負じゃない格闘技系プロレスがマスコミに大きく取り上げられる。
中井祐樹は怒っていた。

UFC(The Ultimate Fighting Championship、ジ・アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)

中井祐樹が先輩寝技師である朝日昇と5Rフルに戦い判定で敗れたその少し前、
アメリカのデンバーで第1回UFC(The Ultimate Fighting Championship、ジ・アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)が開かれた。
優勝はホイス・グレーシー(ブラジリアン柔術)。
準決勝でケン・シャムロック(プロレスラー、総合格闘技パンクラス王者)
決勝でジェラルド・ゴルドー(空手、キックボクサー)を完全に制しての優勝だった。
世界の格闘技マスコミはこぞって報じた
地球規模で総合格闘技の夜明けが始まろうとしていた。

平成6年(1994)3月11日、
第2回UFC大会には、大道塾(空手)の市原海樹が参戦。
ホイス・グレーシーに完敗した。

VTJ(VALE TUDO JAPAN、バーリ・トゥード・ジャパン)

平成6年(1994)7月29日、プロシューティングはUFCに対抗するかのように「VTJ94(バーリ・トゥード・ジャパン・オープン94)」という トーナメント大会を開催した。
バーリ・トゥードとは「なんでもあり」という意味である。
中井祐樹は佐山聡に出場を直訴したが叶わなかった。
この大会にはヒクソン・グレイシーが参戦、日本に初登場した。
シューティングからは川口健次、草柳和宏、
またヤン・ロムルダー、ダビッド・レビキ、そして西良典などが参戦した。
そしてヒクソン・グレイシーが圧倒的な強さで優勝。
その陰でシューティングのエース、川口健次と草柳和宏は打撃系の選手に血まみれにされて負けた。

シューティング(現:修斗)ウェルター級チャンピオンとなる

「バーリ・トゥード・アクセス」というバーリ・トゥード・ジャパン・オープンルールを採用して行われたシューティングの大会で、中井祐樹は柔術黒帯のアートゥー・カチャーと対戦。
3R8分を戦い抜きドローまで持っていった。
その後、草柳和宏とのタイトルマッチで判定勝ち。
ウェルター級チャンピオンに上りつめた。
これにより来年の「VTJ95(バーリ・トゥード・ジャパン・オープン95)」に出場というレールが敷かれた。

VTJ95(バーリ・トゥード・ジャパン・オープン95)

「VTJ95(バーリ・トゥード・ジャパン・オープン95)」において、中井祐樹はシューティングの切り札だった。
しかしトーナメント組み合わせが発表されるとその危険性が騒ぎとなった。
1回戦の相手が第1回UFC準優勝のジェラルド・ゴルドーだったからである。

ジェラルド・ゴルドー(Gerard Gordeau)

ジェラルド・ゴルドーは198cm、100kg。
中井祐樹は170cm、71kg。
28cm、29kgの差がある。
しかもゴルドーは、UFCでハワイの相撲レスラー、テイラ・トゥリと戦ったとき、試合開始20秒、ガードが甘いトゥリの顔面を蹴り、歯が紙ふぶきのように飛び散り、いくつかの歯はゴルドーの足に刺さった。
そしてすぐに拳を顔面の同じ個所に叩き付けた。
この攻撃はまったく感情がない仏頂面のまま行われた。
体格差だけではなくキャラクター的にも非常に危険な相手だった。

死闘

試合当日、中井vsゴルドーは第2試合だった。
両者がリングに上がった。
「青コーナー、プロフェッショナルシューティングウェルター級王者、中井祐樹!」
中井はマウスピースを何度か噛み直しながら右手を挙げて応えた。
ゴルドーが紹介されると会場は一斉に沸いた。
明らかにゴルドーがUFCで見せた残虐性を期待していた。
ゴングが鳴った。
中井が上半身を振りながらタックルにいきゴルドーをつかまえた。
ゴルドーはそのまま後退しトップロープを左腕で抱えて倒されないようにしてから右腕で中井の頭を抱えた。
中井は左足をゴルドーの右膝裏にかけて倒そうとするがゴルドーがロープを抱えているので倒せない。
すぐにレフリーとリング下の係員が何か話しだした。
そしてレフリーの注意。
「ストップ! サミング」
レフリーは親指を立て
「コーション」
といった。
「ジェラルド・ゴルドー選手に注意1です」
場内アナウンスが入ると場内が沸いた。
このときすでに中井の右目はゴルドーの親指によって眼球の裏までえぐられていた。
しかし中井は黙ってゴルドーに抱きついたままだった。
その精神力は人間離れしていた。
第1Rはそのままの姿勢で終わった
セコンドはラウンド間のインターバルに中井の右目を氷で冷やした。

第2R、コーナーから飛び出す中井の右目から血が流れていた。
中井が軽く前蹴りにいったところにゴルドーが右ロー。
それに合わせて中井が滑り込むように、そのゴルドーの右脚を捕まえ下から両脚をからませる。
ヒールホールド(脚関節技)狙いだ。
しかしゴルドーは片手でロープをつかみ上から激しいパウンドを浴びせた。
ゴルドーの拳が打ち下ろされるたび、中井の後頭部がマットにぶつかる大きな音が響き、右目から鮮血が飛び散った。
試合は凄絶なものになっていた。
またゴルドーの激しいパウンドが始まる。
ロープ際からエプロンサイドに中井は逃げる。
それでもゴルドーは叩き続ける。
「ドント・ムーブ」
レフリーが両者の動きを止めリング中央に2人を移動させた。
だがそこからゴルドーは立ったまま腰に両手を当てて攻めない。
中井は仰向けに寝たまま両手で
「カモン!」
猪木vsアリ状態だ。
「カモン!」
と中井はゴルドーを誘い続ける
中井の心は折れていない。
2Rが終わった。
コーナーに戻った中井の顔の右半分は大きく腫れ上がり右目の出血もかなりひどくなっていた。
それを氷嚢で冷やされながら、しかし左目はずっと赤コーナーのゴルドーを見据えていた。
その後、試合は猪木vsアリを繰り返した。
タックルでつかまえる中井、ゴルドーはロープを抱える。
観客は飽き始めていた。
しかしリングでは8分無制限ラウンドが延々と続く。
4R、中井がタックルからゴルドーをコーナーに押し込んだ。
ゴルドーがフロントチョークを狙う。
中井がゆっくりと体を下げながらそれを外し、ゴルドーの左脚に自らの両脚をからみつけた。
観客がゴルドーの残酷なパウンドを期待して騒いだ。
しかしゴルドーがパウンドを打とうとしたその瞬間、中井が渾身のヒールホールドを仕掛けた。
ゴルドーの上半身がぐらりと揺れ、ゆっくりと倒れていった。
そしてゴルドーがマットを叩いた。
大歓声が起こった。
まさに中井は自らの力ですべてを引っくり返したのである。

クレイグ・ピットマン(Craig Pittman)

準決勝の相手、クレイグ・ピットマンは、アマレスの下地がある選手だったが、中井祐樹は下から腕十字をきっちり極めた。

ヒクソン・グレイシー(Rickson Gracie)

決勝の相手はヒクソン・グレイシーだった。
ヒクソンは顔を大きく腫らしリングに上がってきた中井祐樹に敬意を表したような戦い方をした。
2人の流れるような寝技戦で観る者を魅了した。
そして中井祐樹は敗れた。

失明 - 24歳の男はたった1日、総合格闘家として強烈な光を放ち、消えた

試合翌日、中井祐樹は右目がみえないことに気づいた。
鏡の中で右目も開いているのにみえなかった。
病院に行くと診断は「動脈閉塞」だった。
眼球の奥にある動脈が潰れて閉じた状態で、眼球の奥にある動脈を外科手術で治療することは不可能だが、血が凝固して動脈を塞いでいる可能性もあるということで、点滴で目に薬を流し続ける治療が施され、2週間入院した。
退院後、名医がいるといわれる病院を何軒も行ったがいい結果は得られなかった。
西洋がダメなら東洋医学をと、鍼や気功の治療も受けた。
右目の失明は遠近感を狂わせる。
ペンをキャップに刺すことができなかったり、お碗に味噌汁をよそおうとして手にかけてしまったり、テレビも頭痛が起きてしまうため短時間しか楽しむことができなかった。
もちろん車の運転もできない。
普通、視力を完全に失った眼球は、萎縮してとれてしまうため、医者から義眼を勧められた。
しかし奇跡的なことに中井祐樹の右目は今も弾力とみずみずしさを保っている。
義眼にする必要がなかった。
「これって考えられないことらしいんですよ。
以前、ハワイの病院で診てもらったとき、そこの医者は『今は治す手立てがない』って言い方をするんです。
だからいつか治るんじゃないかって思ってます(笑)」

乗り気ではなかった柔術マッチ

中井祐樹の失明は秘匿された。
総合格闘技のイメージダウンを恐れたためである。
そしてその事実を隠したまま中井は復帰した。
ただしパンチや蹴りの距離感がつかめないため、シューティングルールではなく柔術ジャケットマッチだった。
対戦相手はブラジルの強豪ジアン・マチャド。
中井はこの試合に乗り気ではなかった。
総合格闘技をやりたくて北海道から出てきたのに、道衣を着るのは過去に戻るように思えたからだ。
結局、彼はこの試合を最後に、「ワールド修斗」の社員となり、背広を着てイベントのプランニングやプロモートを手懸けていくようになった。
しかし失明直後は、あまり落ち込んでいるようにみえなかった(みせなかった)中井祐樹は、興行の仕事をするようになってから寂しそうな姿をみせるようになった。

朝日昇の敗北

朝日昇

1996年7月に開催された「VTJ96(バーリ・トゥードジャパン96)」が中井祐樹のプロモーターとしての最後の仕事となった。
この大会で最も注目されたのが修斗ライト級王者、寝技の鬼、朝日昇 vs ヒクソンの実弟であるホイラー・グレイシーだった。
みんな、朝日昇の打倒、グレーシー柔術のシーンを期待した。
だが結果は朝日の惨敗。
これが中井祐樹の現役復帰への思いを決定的なものにした。
「朝日さんとホイラーの試合を観て圧倒的な技術差があると痛感しました。
日本人選手はもっと寝技のレベルを上げなくてはいけないし、自分が柔術に勝ちたいという欲望も湧いたんです。」
中井祐樹は、過去に戻るのではなく、寝技を極めるために再度、道衣をまとった。

柔術家、中井祐樹、そしてパレストラ(現:パラエストラ)

柔術家、中井祐樹が誕生した。
シューティングのリングで行った柔術のエキシビジョン・マッチを皮切りに、海外の柔術大会にも打って出た。
ブラジリアン柔術の帯は、下から青・紫・茶・黒と4つに分かれている。
また試合は、帯別に加えて、10階級の体重別で行われる。
中井祐樹のスタートは青帯の大会からだったが、海外で着実に実績を残していった。

そして1997年12月には会社(ワールド修斗)から独立して、自らの理想を実現するための柔術と修斗の道場、「PARESTRA TOKYO(パレストラ(現:パラエストラ)東京)」をスポンサーなしのALL自己資金で立ち上げた。
結婚から1年後の独立に夫人はこういう。
「てっぺんからどん底に落ちる経験をしたというのに彼は「目が見えなくなったのは神様からのプレゼントだ」っていうんですよ。
そんな彼を信じて自分のやりたいことを追いかけてほしいと思っています。」
現在、パレストラ(現:パラエストラ)は全国に広がっている。

一方、柔術家としても中井祐樹は頂点にのぼっていった。
純粋な日本人として初めてブラジリアン柔術の黒帯を取得。
世界選手権以上にレベルが高いといわれる大会、ブラジレイロ(ブラジル選手権)の黒帯の部、ペナ級(~66.9㎏)で3位となり、その実力が本場ブラジルでもトップレベルにあることを証明した。
しかしこれが到達地点ではない。
その目は常に前、そして上を向いている。

総合格闘技界

2010年、日本修斗協会会長に就任。

現在、総合格闘技で活躍している青木真也や北岡悟などはパラエストラ東京出身である。
中井祐樹は総合格闘技界にも多大な影響を及ぼしている。
多くの格闘技者が、多くの人々が中井祐樹に感動し、心酔し、憧れ、目標として今日も汗をかいている。

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