最高の左腕投手。奪三振の山を築き上げる男、江夏豊

江夏豊(えなつゆたか)
江夏豊の獲得タイトル・主な表彰と記録
最多勝:2回 (1968年、1973年)
最優秀防御率:1回 (1969年)
最多奪三振(当時連盟表彰なし):6回 (1967年 - 1972年) ※セントラル・リーグでは、1991年より表彰
最優秀救援投手:5回 (1977年、1979年 - 1982年) ※最多タイ。他には赤堀元之、佐々木主浩
MVP:2回 (1979年、1981年) ※両リーグでの受賞は史上初
沢村賞:1回 (1968年)
ベストナイン:1回 (1968年)
最優秀投手:1回 (1968年)
ファイアマン賞:2回 (1981年、1982年)
シーズン401奪三振:1968年 ※世界記録(但し、MLB以外の記録は世界記録と認定されない)
1試合16奪三振:1968年8月8日、対中日ドラゴンズ17回戦(中日スタヂアム) ※セ・リーグ記録
23イニング連続奪三振:1968年8月8日 - 8月21日
41イニング連続無失点:1969年4月12日 - 5月15日
オールスターゲーム15連続奪三振(1970年 - 1971年) ※オールスター記録
江夏豊の野球に対するプレースタイル

一匹狼の天才投手
江夏豊の野球感覚は飛び抜けたものがある。ファンの間でも、20世紀の一番素晴らしい投手は誰かと尋ねると、江夏豊の名前が数多く出るであろう。
剛腕の速球派というよりも、ずば抜けた制球力と、配球の上手さが目立つ投手です。
スピードも150km弱で、球種もカーブとストレートのみで、ここまでの大投手になっているのですから、相当なコントロールの持ち主でしょう。
江夏豊の生い立ちとプロに入るまでの軌跡
先発として、三振と勝利の山を築き上げた阪神時代

1966年のドラフトで4球団から指名を受け、くじの結果、指名権を得た阪神タイガースに入団することになる。当時、球団が準備していた背番号は、1,13,28だった。1はライバルの鈴木啓示と被る理由から拒否。13は縁起が悪いという数字から拒否。結果、28しか残らなかったので28となった。28という番号は完全数ですが、江夏からすると完全数とはなにって感じらしい。
高校時代から野球を始めた江夏は、球種など全くといっていいほど知らない。1968年から投手コーチになった林義一によって、フォームの癖を徹底的に直され、球界を代表する投手へと育てられた江夏は、林のことをお師匠さんと呼び慕うように。
更に、ストイックな野球観を持つ村山実に感銘を受けて、ありとあらゆる村山の行動を観察し、参考にしてきた。
が、江夏が着々と実績を上げていくと、村山は露骨に江夏を避けるようになったという。なんて小さい男だと嘆いていたが、のちに、一人前の投手と認めたがゆえの行動だと知ると「勝負師のあり方を教えてもらった」と語っている。
抑えとしての第一歩。南海時代からの江夏豊

江夏は、周りの選手との同調することが苦手であり、特に当時の監督、吉田監督とそりがあわなかった。それに江夏の普段のイメージの悪さもあいまって、阪神タイガースから南海ホークスに移籍することが決まった。
もちろん、そのまま聞き入れる江夏ではない、南海ホークスに移籍する気は全くなく、そのまま現役を引退する気であったが、野村克也監督と会談をした時に、野村の野球観に大いに感銘し、南海ホークスへ移籍することを決めました。
南海ホークスに移籍が決定したが、体力的に50球ほどしか投げれなくなっている江夏に対し、野村はリリーフ投手を打診した。抑え投手と言えば、当時は格下に見られた投手だったので、プライドの高い江夏は反発し続けたが、「野球界に革命を起こそう」という説得に、江夏の心が納得したのであった。
当時のリリーフと言えば、さほど技術的なものはなく、調整法も定まっていない時代に、江夏はメジャーばりの調整法を取り入れ、周りからの非難は相当なものであったらしい。
投球スタイルも、阪神時代とはうって変わり、神に近い投球術で打者を翻弄する投手に変わっていった。周囲の評価ではなく、野村克也と言う江夏が惚れた男に対して、野球をやっていたといえるであろう。

野村監督の退団と共に、南海ホークスを退団した江夏は、広島東洋カープに移籍。投球術も更に冴えわたり、江夏の21球でも知られてるように、打者を翻弄しつづけていった。
わずか、3年で日本ハムへ移籍することになったが、江夏自身は、広島時代は最も楽しかった時代だと語っている。
その後、日本ハムも3年。西武へ1年プレーし、36歳で日本プロ野球を引退することとなった。
遥か海の向こうに渡った挑戦者
江夏豊の伝説「オールスター9者連続三振」
江夏豊の伝説「ノーヒットノーラン」
江夏豊の伝説「江夏の21球」
1979年の日本シリーズ最終第7戦。近鉄バッファローズとの闘いであったが、9回裏に1点リードでノーアウト満塁のピンチから、近鉄の反撃を鮮やかに21球で絶った伝説の試合である。
その様子は、本にもなり、今でもプロ野球の名場面として語られている。
江夏豊の伝説「奪三振記録」
野球選手の現役を引退して・・・

野球選手を引退して野球解説者を務め、タレント、俳優とマルチな活躍をしていたが、波乱万丈な江夏の人生は一言では語れない。
野球に高いプライドを持ち、高い技術で投手を務め、自分のためではなく、南海ホークスの野村克也。広島東洋カープの衣笠祥雄。日本ハムの大沢啓二。男に惚れて野球を続けていた人間性が伺える。
各球団とも短い年数ではあるが、その短い年数で広島、日本ハムを優勝に導いていることから優勝請負人とも言われたほどである。