伝説の左腕【江夏豊】はとてつもない大物だった。

伝説の左腕【江夏豊】はとてつもない大物だった。

オールスター9者連続三振や、江夏の21球など、数々の伝説を作ってきた男、江夏豊。プロ野球の5球団を渡り歩き、獲った三振の数は2987奪三振と三振の山を築きました。先発でも活躍し、抑えても大活躍の投手はなかなかいないでしょう。人間としても魅力的な江夏豊の今と昔を振り返ります。


最高の左腕投手。奪三振の山を築き上げる男、江夏豊

1948年5月15日生まれ
身長179cm、体重90kg
左投げ左打ち
ポジション:投手

阪神タイガースから始まり、6球団とメジャーまで渡り歩いた左腕投手。1960年代から1980年代にかけて、セ・パ両リーグの名選手から三振を奪い続けた剛腕投手です。
1シーズン400奪三振は、今でも破られていない世界記録を樹立しました。

江夏豊(えなつゆたか)

江夏豊の獲得タイトル・主な表彰と記録

最多勝:2回 (1968年、1973年)
最優秀防御率:1回 (1969年)
最多奪三振(当時連盟表彰なし):6回 (1967年 - 1972年) ※セントラル・リーグでは、1991年より表彰
最優秀救援投手:5回 (1977年、1979年 - 1982年) ※最多タイ。他には赤堀元之、佐々木主浩

MVP:2回 (1979年、1981年) ※両リーグでの受賞は史上初
沢村賞:1回 (1968年)
ベストナイン:1回 (1968年)
最優秀投手:1回 (1968年)
ファイアマン賞:2回 (1981年、1982年)

シーズン401奪三振:1968年 ※世界記録(但し、MLB以外の記録は世界記録と認定されない)
1試合16奪三振:1968年8月8日、対中日ドラゴンズ17回戦(中日スタヂアム) ※セ・リーグ記録
23イニング連続奪三振:1968年8月8日 - 8月21日
41イニング連続無失点:1969年4月12日 - 5月15日
オールスターゲーム15連続奪三振(1970年 - 1971年) ※オールスター記録

江夏豊の野球に対するプレースタイル

打者が素晴らしければ素晴らしいほど、燃える左腕投手である。401奪三振という前代未聞の金字塔を打ち立て、現在でも破られることはないであろう。

一匹狼の天才投手

江夏豊の野球感覚は飛び抜けたものがある。ファンの間でも、20世紀の一番素晴らしい投手は誰かと尋ねると、江夏豊の名前が数多く出るであろう。

剛腕の速球派というよりも、ずば抜けた制球力と、配球の上手さが目立つ投手です。

スピードも150km弱で、球種もカーブとストレートのみで、ここまでの大投手になっているのですから、相当なコントロールの持ち主でしょう。

江夏豊の生い立ちとプロに入るまでの軌跡

子供の頃には、近所の子供達と粗末な道具で野球を楽しんでいた。そんな折に兄から「お前は左でやれ」と左利き用のグラブを買い与えられ、右利きであったにもかかわらず強制的に左利きへと矯正された。 中学生となってからは一度野球部に入部するが、入部2か月を経ても球拾い程度で練習をさせてもらえないことに不満を抱き上級生に直訴、これが乱闘騒ぎとなってしまい野球部を退部となる。この時、野球部の監督だった教師から「野球はいろんなスポーツの結晶だから、いろんなスポーツを体験しろ」と諭され、バレーボールやラグビー、相撲などを経験、最終的に陸上部に落ち着いた。陸上部では砲丸投の選手として活躍し、県大会で準優勝したこともある。 本格的に野球を始めるのは、当時は弱小野球部だった大阪学院大学高等学校に入学してからのことである。高校時代は制球に難があり、またそれを理由に変化球を一切教えられてこなかったが、球威のある直球と様々な駆け引きで活躍。3年時(1966年)の夏の甲子園府予選では準決勝に進出するが、後に阪神の同僚となる桜塚高の奥田敏輝投手と投げ合い0-1で惜敗。しかし予選7試合を1人で投げ、わずか3失点という成績を残した。この時の活躍がプロのスカウトの目に留まり、「直球もよいが、なかなか頭の使える選手だ」として1位指名に踏み切らせるきっかけとなった。なお、高校時代には一度も柵越えのホームランを打たれたことがなく、唯一平野光泰(明星高校)にランニングホームランを喫したのみである[4]。 江夏は高校時代を振り返って、衝撃的だった出来事として鈴木啓示との対戦を挙げている。大阪学院大学高校は江夏が2年生の時、鈴木を擁する育英高等学校と練習試合をして延長15回0-0の引き分けに終わった。この試合で、江夏が15イニングを投げ抜き15奪三振を挙げる好投を見せた一方、育英の3年生エースだった鈴木はそれを大きく上回る27奪三振をマーク。4番打者として打席に立った江夏は、速度のある直球と落差の鋭いカーブに手も足も出ず、「1球もかすらなかった」と述懐している[5]。この時以来、カーブを習得したい願望が芽生えたという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%A4%8F%E8%B1%8A#.E7.94.9F.E3.81.84.E7.AB.8B.E3.81.A1

江夏豊 - Wikipedia

先発として、三振と勝利の山を築き上げた阪神時代

1966年のドラフトで4球団から指名を受け、くじの結果、指名権を得た阪神タイガースに入団することになる。当時、球団が準備していた背番号は、1,13,28だった。1はライバルの鈴木啓示と被る理由から拒否。13は縁起が悪いという数字から拒否。結果、28しか残らなかったので28となった。28という番号は完全数ですが、江夏からすると完全数とはなにって感じらしい。

高校時代から野球を始めた江夏は、球種など全くといっていいほど知らない。1968年から投手コーチになった林義一によって、フォームの癖を徹底的に直され、球界を代表する投手へと育てられた江夏は、林のことをお師匠さんと呼び慕うように。

更に、ストイックな野球観を持つ村山実に感銘を受けて、ありとあらゆる村山の行動を観察し、参考にしてきた。
が、江夏が着々と実績を上げていくと、村山は露骨に江夏を避けるようになったという。なんて小さい男だと嘆いていたが、のちに、一人前の投手と認めたがゆえの行動だと知ると「勝負師のあり方を教えてもらった」と語っている。

抑えとしての第一歩。南海時代からの江夏豊

江夏は、周りの選手との同調することが苦手であり、特に当時の監督、吉田監督とそりがあわなかった。それに江夏の普段のイメージの悪さもあいまって、阪神タイガースから南海ホークスに移籍することが決まった。
もちろん、そのまま聞き入れる江夏ではない、南海ホークスに移籍する気は全くなく、そのまま現役を引退する気であったが、野村克也監督と会談をした時に、野村の野球観に大いに感銘し、南海ホークスへ移籍することを決めました。
南海ホークスに移籍が決定したが、体力的に50球ほどしか投げれなくなっている江夏に対し、野村はリリーフ投手を打診した。抑え投手と言えば、当時は格下に見られた投手だったので、プライドの高い江夏は反発し続けたが、「野球界に革命を起こそう」という説得に、江夏の心が納得したのであった。

当時のリリーフと言えば、さほど技術的なものはなく、調整法も定まっていない時代に、江夏はメジャーばりの調整法を取り入れ、周りからの非難は相当なものであったらしい。

投球スタイルも、阪神時代とはうって変わり、神に近い投球術で打者を翻弄する投手に変わっていった。周囲の評価ではなく、野村克也と言う江夏が惚れた男に対して、野球をやっていたといえるであろう。

野村監督の退団と共に、南海ホークスを退団した江夏は、広島東洋カープに移籍。投球術も更に冴えわたり、江夏の21球でも知られてるように、打者を翻弄しつづけていった。

わずか、3年で日本ハムへ移籍することになったが、江夏自身は、広島時代は最も楽しかった時代だと語っている。

その後、日本ハムも3年。西武へ1年プレーし、36歳で日本プロ野球を引退することとなった。

遥か海の向こうに渡った挑戦者

1985年、ミルウォーキー・ブルワーズの春季キャンプに参加。「アメリカでの野球生活を終えて日本に移るメジャーリーガーが多い中、日本での野球生活を終えて36歳でメジャーに挑戦するルーキー」として地元マスコミからも注目された。 キャンプでは順調に結果を出し、オープン戦でも好調を維持して開幕ロースター入り最終選考まで残るものの、最後の最後で調子を落とし、開幕メジャーリーグとはならなかった。この時、球団からはマイナー契約を打診されていたが、実質的には戦力構想外であったという。また当時のブルワーズの発表によると、やはり36歳という高齢がチーム編成においてネックであったとされており、本人も「そこまでやる気はない」として、現役を完全に退いた。 この時江夏と最後までメジャー枠を争ったテディ・ヒゲーラは、この年に投手として15勝、翌年は20勝を挙げる活躍を見せた。後にヒゲーラが日米野球で来日したとき、かつてはビールを買う金すら持ち合わせていなかったヒゲーラの生活の変わりぶりに、江夏は「これがアメリカンドリームか」と驚いたという。 渡米の際には、現役時代につけていた日記や試合ノートを全て焼却したと語っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%A4%8F%E8%B1%8A#.E5.B9.B4.E5.BA.A6.E5.88.A5.E6.8A.95.E6.89.8B.E6.88.90.E7.B8.BE

江夏豊 - Wikipedia

江夏豊の伝説「オールスター9者連続三振」

1971年7月17日、阪急西宮球場で行われたオールスターゲーム第1戦で、速球と正確なコントロールで打者のバットにことごとく空を切らせ、初の9者連続奪三振を記録した。オールスターゲームは、投手は規定で3イニングまでしか登板できないため、これは1試合における事実上最高の奪三振数であり[注 2]、現在でもオールスターにおける単独記録である。この後全セは、江夏の後を受けて登板した渡辺秀武、高橋一三、水谷寿伸、小谷正勝の継投で全パを1四球1失策16奪三振で無安打に抑えて、継投によるノーヒットノーランを達成している[10]。 この9連続三振の前年には連続5三振、翌日には1三振を奪っており、この3試合を合わせた連続15奪三振もオールスター記録となっている。更にこの試合で江夏は、1960年の巽一に次ぐ史上2人目となる、オールスターでの投手による本塁打を放っており、これを最後にオールスターにおける投手による本塁打は記録されていない。 この試合で、キャッチャーフライを追った田淵幸一に「捕るな!」と叫んだとされているが、実際には、スタンドに入るだろうしテンポ良く投げたかったため「追うな!」と叫んだものであると、江夏は著書の中で語っている。 この9連続奪三振を達成した時のボールは、江夏の手元にはない。これはこの時キャッチャーを務めていた田淵が、三振のコールを聞くと同時に無意識にボールを放り投げてしまい、そのために行方が判らなくなったためとされている。当時の映像でも、田淵がコールの確認直後に立ち上がり、ベンチ方向へと歩き出しながらボールを後方に放り投げる様子が確認できる。ただ、後年江夏が番組で王理恵と共演した際には、「(三振のあと)田淵というキャッチャーはボールを放り投げてしまった。でも君のお父さん(王貞治)が拾ってくれてスっと渡してくれたんだよ」とも述べている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%A4%8F%E8%B1%8A#.E5.BA.83.E5.B3.B6.E6.99.82.E4.BB.A3

江夏豊 - Wikipedia

江夏豊の伝説「ノーヒットノーラン」

江夏豊の伝説「江夏の21球」

1979年の日本シリーズ最終第7戦。近鉄バッファローズとの闘いであったが、9回裏に1点リードでノーアウト満塁のピンチから、近鉄の反撃を鮮やかに21球で絶った伝説の試合である。

その様子は、本にもなり、今でもプロ野球の名場面として語られている。

Amazon.co.jp: 江夏の21球 VHS: 本

Amazon.co.jp: 江夏の21球 VHS: 本

江夏豊の伝説「奪三振記録」

1968年9月17日、甲子園球場における対巨人戦で、稲尾和久の日本記録を塗りかえるシーズン354奪三振を記録[8]。試合に先立って江夏は、日本記録更新となる奪三振をONから取ると公言していた事が当日の新聞に載っている。そして試合では、日本記録タイとなる353奪三振を王の打席で記録したが、江夏本人はこれで日本記録を更新したものと勘違いをしており、ベンチに戻ってから捕手の辻恭彦にそれを指摘されて初めて気がついたという[8]。そこで後続の打者は全て意図的に凡打で打ち取り、再び王の打席が回ってきた時に、記録更新となる354個目の三振を奪う離れ業を実現してのけた[8]。江夏によると、「森(祇晶)さんと高橋(一三)さんからは三振を取らないようにするのが、むしろ大変だった。特に高橋さんを2ストライクまで追い込んだのが一番困った」という。しかもこの試合では、延長12回に自らサヨナラヒットを放って試合に勝利を収めている[8]。 この試合の様子にも表れているように、江夏は王から三振を奪うことに取り分けこだわっていた。これは村山実が節目の記録となる三振を常に長嶋茂雄から奪うようにしていたことを真似たものである(新人時代に村山がONを指さして「お前の相手はあれ〔王〕、俺はこっち〔長嶋〕や」と、王をライバルとするよう命じられたともされている[9])。これ以降も江夏は王との勝負に固執し、通算で57の三振を奪ったが、直球で勝負を挑んでいたために20本の本塁打も打たれている。王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く本塁打を打った打者もまた王である。 そしてこのシーズン、江夏は最終的な奪三振記録を401個にまで伸ばした。これは現在でも日本プロ野球記録であり、また世界記録として認定されていないものの、MLB記録(ノーラン・ライアンの383個)をも上回っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%A4%8F%E8%B1%8A#.E5.BA.83.E5.B3.B6.E6.99.82.E4.BB.A3

江夏豊 - Wikipedia

野球選手の現役を引退して・・・

野球選手を引退して野球解説者を務め、タレント、俳優とマルチな活躍をしていたが、波乱万丈な江夏の人生は一言では語れない。

野球に高いプライドを持ち、高い技術で投手を務め、自分のためではなく、南海ホークスの野村克也。広島東洋カープの衣笠祥雄。日本ハムの大沢啓二。男に惚れて野球を続けていた人間性が伺える。

各球団とも短い年数ではあるが、その短い年数で広島、日本ハムを優勝に導いていることから優勝請負人とも言われたほどである。

関連する投稿


【藤川球児】広末涼子と同級生!? 火の玉ストレート誕生前の球児の球歴

【藤川球児】広末涼子と同級生!? 火の玉ストレート誕生前の球児の球歴

2025年より阪神タイガースの監督に就任した藤川球児。現役時代は、"火の玉ストレート" と呼ばれる "魔球" で活躍した名投手ですが、魔球誕生以前にもたびたび話題になっていた選手でした。球児という名前、ドラフト1位、広末涼子と同級生など、火の玉ストレート誕生前の藤川球児のエピソードを振り返ります。


【13球団から勝利!?】日本のプロ野球史で工藤公康だけが達成したとんでもない記録!

【13球団から勝利!?】日本のプロ野球史で工藤公康だけが達成したとんでもない記録!

現役生活29年、通算224勝、MVP2回の大投手で、選手として監督としてチームを何度も日本一に導いてきた人物といえば、もちろん工藤公康投手。実はあまり知られていませんが、日本のプロ野球史上、工藤投手だけが達成したとんでもない記録があります。セ・パ両リーグで活躍した、工藤投手ならではの意外な記録とは?


【追悼・吉田義男監督】1985年阪神日本一の立役者!"移籍組" が活躍した日本シリーズ!

【追悼・吉田義男監督】1985年阪神日本一の立役者!"移籍組" が活躍した日本シリーズ!

2025年2月、阪神タイガースで二度の監督を務めた吉田義男氏が亡くなりました。その吉田監督の功績といえば、1985年、球団史上初の日本一。バース・掛布・岡田ばかりが注目される年ですが、日本シリーズでは、阪神への "移籍組" が彼らと同等以上に活躍しました。シリーズを牽引したとも言える "移籍組" の活躍を振り返ります。


昭和100年に甦る「昭和野球」の魂!江本孟紀が令和のプロ野球に喝を入れる新刊『昭和な野球がオモロい!』が発売決定!!

昭和100年に甦る「昭和野球」の魂!江本孟紀が令和のプロ野球に喝を入れる新刊『昭和な野球がオモロい!』が発売決定!!

マガジンハウスより、日本プロ野球界のご意見番・エモやんこと江本孟紀が、昭和100年の節目に「令和のプロ野球」に痛烈なメッセージを投げかける新刊『昭和な野球がオモロい!』が発売されます。


吉田敬がM-1を獲るまで!!!

吉田敬がM-1を獲るまで!!!

ブラックマヨネーズ 吉田敬 飲んで、打って、買って、どケチで女性に超アグレッシブ。本当にどうかしてるぜ。ヒーハ~!


最新の投稿


世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

世界が熱狂!葛飾商店街×『キャプテン翼』コラボ「シーズン2」開催!新エリア&限定メニューで街を駆け抜けろ!

葛飾区商店街連合会は、2025年10月10日より『キャプテン翼』とのコラボイベント「シーズン2」を亀有・金町・柴又エリアで開催。キャラクターをイメージした限定メニューやスタンプラリーを展開し、聖地巡礼と地域活性化を促進します。


キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

人気アニメ『キン肉マン』の「完璧超人始祖編」の名言・名場面を題材にした英会話学習書『キン肉マン超人英会話』が、2025年11月29日(土)にKADOKAWAより発売されます。超人たちの熱い言葉を通じて、楽しみながら実用的な英語表現をインプットできます。TOEIC満点保持者やプロレスキャスターなど、豪華プロ集団が監修・翻訳を担当した、ファン必携の英語学習本です。


【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

【カウントダウン】あと2日!古舘伊知郎&友近「昭和100年スーパーソングブックショウ」いよいよ開催迫る!豪華ゲスト集結の東京国際フォーラムは「昭和愛」で熱狂へ!

開催直前!TOKYO MX開局30周年記念「昭和100年スーパーソングブックショウ」が10月16日に迫る。古舘伊知郎と友近がMC、豪華ゲストと共に贈る一夜限りの昭和ベストヒットに期待高まる!


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。