体の大きさに加え、母親の着せてくれる服が
「ハイセンスすぎ」
て、
「悪目立ち」
することも悩みとなった。
「例えば男の子だったら戦隊モノのズック水筒とか持つじゃない。
だけど私の場合、幼稚園に入って最初に持たされた水筒がアルプスの人が使うような、牛皮の角みたいな形をしたやつだった」
アルミ製の普通の水筒を望むと
「なんで?
わざわざ制服の色と合わせたのに。
センスないわね」
戦隊モノを含め、キャラクターものも
「そんなの野暮ったい」
と却下され、スイミングスクールに入ったときも、みんながスクールで売られている紺色のスタンダードな水着を履く中、1人オシャレブランドの真っ赤な海パン。
「もう完全に醜いアヒルの子状態。
おまけにコーチが陰で私のことを赤パンって呼んでるのを聞いてしまった」
母親の影響は絶大だった。
「ウチの母親って動物みたいな女で、計算とか下準備とかできない人なの。
ただ生まれ持った感性とバランス感覚は奇跡的に優れていて、顔面偏差値もすこぶる高い。
字もキレイだし、料理も雑だけど早くてうまい。
そういったポテンシャルでほぼすべてのことを切り抜けてきたような人で何かやる前からどうしようみたいなことは絶対にいわない。
結果が出てチキショーとかいってる姿はよくみたけど。
着る服や選ぶメニューに迷ったり、他人からの印象を気にするにはほとんどみたことがない。
正しい・正しくない、善い・悪いよりも、彼女にとって粋か・野暮かが最優先だった」
幼稚園のとき、すでに
「性格的なものや性のことを含め自分は普通とは違う」
という感覚があった。
年長さんクラスになって、それまで自分のことを
「修平はね」
といっていたのに
「僕」
を使うように指示されたとき
(ついにこのときが来てしまったか)
と思った。
決して
「わたし」
といいたいわけではなかったが、なかなか
「僕」
ということができず、しばらくの間、お茶を濁すように
「ワシ」
といった。
やがて
「僕」
は、ぎこちないながらもどうにかいえるようになったが
「俺」
などもってのほかで
「僕」
も大人になると再び使えなくなった。
「ピアノ習いたい?」
母親に聞かれて習い始めたのも幼稚園時代で、週2回、「お稽古」に通うようになった。
家にあったピアノでも母親と並んで座って練習したが、フテ腐れたりすると手が飛んできて、ピアノの前で泣いていると
「イヤならとっととやめなさい」
と庭に楽譜を捨てられたこともあった。
結局、ピアノは日本で7年、12歳でロンドンに引っ越してから4年、帰国してから高校、大学と6年間、合計17年間、続けることになる。
背が1番大きく、力もあり、男女関係なく仲良くできるミッツ・マングローブは、動作が女っぽいという懸念材料はあったものの、幼稚園で一定の権力を維持し、
「いわゆるマウンティングをしていた」
弱い者イジメはしなかったが
「私の築いてきた地位を脅かすのでは ?」
と思う人間は徹底的に攻撃。
幼稚園はキリスト系で、朝昼夕とお祈りの時間があった。
「年長さんのとき、ある1人の男の子をとことんイジメたの。
私より1㎝くらい背が低くて、背の順でも後ろから2番目。
頭が良くて勘の鋭い子で、ピアノも習っていたし、家も立派だった。
しかも彼はカトリックだったの。
だから普通の園児が知らないような難しいお祈りを知ってたわけ。
シスターや神父様が唱えるのを聞いて、最後に『アーメン』とだけいえばいいところを一緒になって祈ってる。
それがどうしても許せなくてね。
お祈りの時間は静かにしてなくちゃいけないことをいいことに、後ろからフトモモをつねりした。
上履きの踵を思い切り、踏んづけたりもした。
でも彼は私の愚かな行為なんか意にも介さず、黙々と祈り続けている。
陰湿な嫌がらせをさらにエスカレートさせると、ようやく泣き始めたの。
だけど涙を拭うわけでもなく『神様の前では強い子でいるから泣かない』『やりたかったら勝手にやればいい』とお祈りをしたままの姿勢で静かに泣く。
私には、その敬虔さと強さはない。
敗北感と嫉妬だけが蓄積されていった。
『だったら泣いていることがみんなにバレたら弱い子だよね?』と告げ口しないように仕向けて、礼拝が終わった後は、わざと先生の目が届くところで仲良さそうに手をつないだりジャレ合ったりしてみせてた。
愚かだよね。
それでも彼は伸び伸びと幼稚園生活を送っているようにみえて、それもまた疎ましかった。
卒園して、その子と別々になったんだけど、それがさらなる因縁を引き起こすことになったの」
ミッツ・マングローブは、横浜国大付属小学校をお受験するために学習塾へ。
勉強だけでなく縄跳びやケンケンパーなど運動、鳩サブレを配られて食べ方のマナーや行儀までレクチャーされた。
しかし1次試験は受かったものの2次で落ち、近所の公立学校に通い始めた。
元気に小学校1年生をしていたある日、幼稚園で同窓会があった。
みんなが集まったところで、先生が
「ではみなさん、順番に1年何組になったか教えてください」
というと、みんな、
「〇〇小学校1年〇組です」
と答えていった。
ミッツ・マングローブも自分の順番がくると胸を張って
「鳥居小学校1年1組です」
その後、卒園以来会っていなかった、礼拝堂でイジメた子が
「〇〇学園、1年B組です」
というと
「ワァ」
「カッコイイ」
と称賛の声が上がってザワついた。
ミッツ・マングローブは、その瞬間、誇らしげな表情の彼がこちらをみたのを見逃さなかった。
(もしかして当てつけ?
復讐?)
そして再び、心の中でロックオン。
数ヵ月後、ピアノの稽古の帰り道、バッタリと出会った彼に
「あっ、久しぶり」
と話しかけ、そっけなく対応する相手を、
「あらかじめ用意しておいた会話で」
追い詰めていき、かぶっていたベレー帽を奪い取ることに成功。
そこで泣きついてきたら、とっておきのセリフを吐いてやろうと思っていたが、相手はサッサといってしまった。
完全に肩透かしを食らい、バツが悪く、恥ずかしくなって、ベレー帽を近くのバラ園に投げ捨てた。
帰宅後、夕飯を食べているとイジメた相手の母親から電話がかかってきて、自分の母親に耳を引っ張られて夜のバラ園へいき、ベレー帽を探した。
「圧倒的に彼の方が強かった。
改めてそれがわかってホントに悔しかった」
小1のとき、神奈川県民ホールでピアノの発表会に参加。
周囲が「ピアノ練習曲第〇〇番」や「〇〇のワルツ」などといった曲を弾く中、与えられたのは「あまりにも大胆な」という曲。
ステージへ出るとき、
「プログラムナンバー〇〇番、徳光修平君。
曲は『あまりにも大胆な』」
と紹介されて、いきなり笑われた。
しかし「大胆な」をマドンナやモンタナみたいに誰かの名前だと思っていたので何が面白いのかわからなかった。
小3になるとピアノが大好きになり、自分で弾きたい曲を探すなど、自発的、かつ積極的に練習し始めたので、母親がつきっきりの練習はなくなった。
しかしそれでも台所から
「アッ、今の感じキライ」
「そこ、そんなに速く弾いたら野暮ったい」
と注文が飛んできた。
学校で勉強は、ずっとトップクラス。
性格は明るく、友達も多かった。
湘南の伯父、徳光和夫の影響で、横浜の徳光家でも、テレビで巨人戦のナイター中継があれば、疑問を持つこともなく観戦。
少年野球に入ったり、進んでキャッチボールをやったりするほどではなかったが野球は好きで、学校で話題でついていけないことはなく、やっても下手なりにみんなと一緒に楽しんでいた。
基本的に世渡り上手で、野球以外にもドッジボールや缶蹴りもしていたが、内心では
「ムダに走ったり動いたりするのは嫌い」
「創造性がなくて、ただただ無邪気で、意味なく声を出すとか苦手」
本当に好きだったのは
「ごっこ遊び」
だった。
それは戦隊ヒーローものからママゴト、人形遊び、法事ごっこ、PTAごっこに至るまで、
「ごっこ遊びの総合商社」
で、
「今日は〇〇ちゃんと〇〇ちゃんがいるから、〇〇君を呼べば、かなり壮大なシーンが再現できる」
などと企て
「ちょっと結納ごっこしてるんだけど、お父さん役と親戚のおばちゃん役として仲間に入らない?」
と交渉&キャスティング。
メンバーが集まるとイニシアチブを握りながら進行していった。
例えば戦隊ヒーローものなら、普通なら戦闘シーンがメインだが、変身前の基地でのやり取りや悪の女王が命令を下す場面、敵を倒して平和が戻ったシーンなども詳細に演出。
もちろん戦闘シーンも
「男の子ってすぐに必殺技を出しちゃうし、ひどいときは乱発したりする。
それじゃ意味がないの。
敵とのにらみ合いがあって、1度必ず劣勢に立たされる。
そこから策を練りつつ反撃に出るけど、またやり返されてしまう。
いよいよ後がないところまで攻め込まれた場面で最後に放つのが必殺技」
と細部までこだわった。
ときにちょっとした男女のプラトニックなやり取りも入れ、かなりの演技力を求めた。
「そこまで追求してこそのごっこ遊びなの。
表面をなぞるだけでなく、その役の過去・未来を含めた人生に寄り添いながらじゃないと」