高学年になると男女の性差が顕著になり、性への意識も高まっていっていった。
「そうなると中途半端な私に『なんかおかしいぞ?』という目が向けれるようになってくるんだよね
女子とも普通に仲良くしていられること自体が普通の男子ではないってことになるから」
誰かが
「徳光が変だ」
的なことをいったり、ときには
「おい、オカマ」
などといったりするとクラスに
(いっていいのか)
(ついに解禁か)
というようなムードが漂った。
そんなとき、
「オカマネタでからかわれるなどプライドが許さない」
「オカマで人生がつまずくことなどあり得ない、あってはならない」
というミッツ・マングローブは、
「そいつら」
を威圧して事態を収束させた。
小5になると中学受験の準備が始まった。
徳光家に
「受験をする?しない?」
「受験したい、したくない」
という発想はなく
「大きくなったら、お父さんやお爺ちゃんのように慶応(慶応義塾)にいく」
が決定事項で、ミッツ・マングローブも
「いかないとこの家の子じゃないんだろうな」
と思い込んでいた。
福沢諭吉によって創設され、「独立自尊」という教育理念を掲げる慶應義塾に入るチャンスは、中学、高校、大学と3回あったが、
「中学で入っちゃえば、そのまま大学までいけるから楽になれるな」
と思っていた。
その中等部に入るためには
1次試験 ・・・5科目の筆記テスト
2次試験 ・・・体育実技テスト、保護者同伴の面接
に合格しなければならない。
その偏差値は、なんと70。
この超難関を突破するため、ミッツ・マングローブは、Nバッグを持って日能研に通い始めた。
そこはわかりやすい競争社会で、性別など関係なく志す方向が同じだったので、居心地がよく楽しかった。
日能研は、毎週日曜に行われる塾内テストと年数回の全国公開模試の結果でクラスが決められる。
ミッツ・マングローブが通っていたところでは、普通クラス4クラス、上位クラスが2クラス、さらにその上に選抜クラス2クラスがあった。
この選抜クラスは、「栄冠1組」「栄冠2組」と呼ばれ、ミッツ・マングローブは、最初から栄冠1組、通称「栄1」に入れた。
そして超ハイレベルの競争を強いられた。
毎週の塾内テストといっても、それは全国共通テスト。
4教科合わせて500点満点で、400点を超えれば全国で100位以内、教室で10位以内に入ることができる。
だから
「まずは400点」
を目標にして勉強し、日曜日になると母親に
「頑張って400点とってらっしゃい」
といって送り出され、テストに挑んだ。
「だけどあんなに賢かった修平くんでも400点超えは難しく、母親の機嫌が悪くなるのが、いつも憂鬱だった。
でもクラス全体が、そんなプレッシャーをいっしょに抱えながら顔を合わせているわけでしょ。
そりゃ仲良くなるよね」
夏休みは「夏期講習」があって、30日間かけてミッチリ勉強。
「講習終盤になると成績が上がらない組と、ドンドン上がる組に分かれて、私は前者。
上位10人に入るよう子たちのようなポテンシャルもなければ、そこまで自分を追い込む根性がないことも薄々わかっていたんだよね」
そこで最後のテストのとき、成績が上がらない組をまとめてクーデーターを画策。
残り10分くらいになったところで先頭を切って
「終わった」
と大きな声でいった。
その後、成績が上がらない組が次々とテスト終えていき、教室のあちこちで解放感に浸った。
そうすることで学級を崩壊させることを狙ったのである。
中にはまだ問題を解いている人の答案を堂々とのぞいたりして、教室の弛緩を誘った。
残り5分くらいになって、テスト監督をしていたアルバイト大学生から報告を受けた先生が入ってきた。
ミッツ・マングローブは、思い切り頭を殴られた上、そして退室させられ
「お前らの答案は一切採点しない」
といわれた。
「頑張ったのになあ」
虚しさと恥ずかしさでガックリしながら電車に乗った。
家に着き扉を開けると、
「お帰り!
ひと夏よく頑張ったね。
お疲れ様」
母親に笑顔で労われると堰を切ったように涙があふれてきた。
「何よ、何よ。
どうしたの?」
ビックリする母親に嗚咽しながらすべて話した。
するとあんなに優しかった母親は、一瞬で鬼の表情に変わり
「もう知らない。
やめちゃいなさい。
2度と顔もみたくない」
といい捨て、どこかへ行ってしまった。
なんとか夏を乗り切り、その後も勉強に励んだ結果、なんとか400点をとれるようになった。
この頃には
「学校なんてどうでもよくなっちゃった。
学校の授業より塾の方が先に進んでいるし、学校でトップ争いしたり、権力闘争を繰り広げていてもしょうがないやと思うようになったんだよね」
塾が中心となり、学校で
「当時は最も苦手とするタイプの熱血教師、今思い出すと若くてかわいい顔をしていた」
という担任の先生に
「徳光!
学校と塾とどっちが大事なんだ!」
といわれると
「塾です」
と答えた。
「運動会が終わった秋くらいだったかな。
ハミ出し者が嫌われ者になっていくのをヒシヒシと感じた」
「450点とれないと全国で20位以内に入れないみたいなことをいわれたけど、私は450点は1回しか出したことがない。
そのときの順位は全国11~12位くらい」
というミッツ・マングローブだが、それでも慶応義塾中等部に入るのは
「ちょっと難しいんじゃないかな」
と思っていた。
ところが小4の2月から日能研に通い始めて約1年経った小5の1月、突然、父親にロンドンに転勤になったことを告げられた。
受験、進学を含め、
「一緒にロンドンに行くか、よく考えてほしい」
という父親に
(受験しなくていいんだ!)
(400点とか、もうどうでもいいんだ!)
とうれしさいっぱい。
(ダイアナ妃、ビートルズ、大きな帽子をかぶった兵隊、黒いタクシー、2階建てバス・・・)
次々にイギリスのイメージが浮かんできて、聖闘士星矢の超合金で遊んでいた弟に
「ねえ漢字も覚えなくていいし、ファミコンもやり放題のところに行きたくない?」
「何それ。
行きたい!」
「行くんだよ。
ロンドンだよ」
「何、ロンドンて?
駅ビル?」
「それはロンロン。
隣駅のの駅ビル」
兄弟はノリノリで盛り上がった。
こうして家族でイギリスへ引っ越しすることが決定。
慶応受験を回避できたことは、とてつもない解放感だった。
成田、アラスカ、アンカレッジ経由して到着した初めてのロンドンは、どんよりと雨が降っていた。
100坪くらいの庭がある家に引っ越すと、すぐに学校へ。
ロンドン日本学校は、小、中合わせて1000人近くの在英日本人児童が通っていた。
小学6年生の新学期に転校生になったミッツ・マングローブは、密かに
「転校生ならではの神秘性を漂わせた目立ち方」
「好奇と期待の目で注がれる特等感」
を期待していたが、同じような転校生が各クラスに10人近くいたために叶わなかった。
しかも同級生の多くの親が、国家公務員や一流企業の「栄転組」
親の職種、肩書は、無意識に格付けされ、トップは大使館、金融、商社、航空会社がそれに続き、これが子供の立場にも影響し、母親同士の争いなども起こった。
また
「ここ進学塾?」
と思うほど学校全体の偏差値が高く、小学生にして英語を話せる「エリート子女」、「帰国子女予備軍」がわんさかいた。
「バブル真っ只中ですよ、87年っつったら。
1番日本がイケイケドンドンで、しかもイギリスに赴任される社員っていったら出世コースなわけですよ。
そうすると出世コースのエリートサラリーマンの息子、娘たちってムチャクチャ頭がいいのよ。
クラスが40人くらいいたんだけど、そのうちの15人が東大いってんのよ。
日能研に入ったときよりも挫折感がすごくて・・・」
授業も教科書も日本語だったが、クラスの会話や校内のいろいろな場所で知らない英語に遭遇。
週3回ある英会話の授業は、レベルに応じて6クラスに分かれていたが1番下のクラスに入れられ、
密かに描いていた
「謎の転校生、ブッチギリで成績トップ」
というシナリオもなくなってしまった。
年下の日本人の子供が英語をペラペラしゃべっていたり、同学年の女の子と一緒に初めてマクドナルドに入ったとき、
「ハンバーガー」
「フライドポテト」
とオーダーしたがカタカナ言葉がまったく通じず、見かねた女の子が横から注文するのを目の当たりにして強烈な悔しさを感じた。
「自分のできないことをサラリとやってのける子供がたくさんいるという事実。
それが私の闘争心に火をつけた」
「よく『10歳の壁』っていって、語学習得能力は10歳を超えると遅くなるといわれている。
12歳で、しかもほぼ日本語のみの環境にいた私なんか、よほど勉強するなり環境を変えるなりしない限り、いわゆるペラペラの域には達するのは無理だといわれていた。
だからといって、はい、そうですかと引き下がるわけにはいかない。
学校の勉強に関しては生まれてこの方ずっとトップクラスにいた私が、ここまでの追う立場になったのは初めてだった」
どうやったら英語を習得できるのか、わからなかったが、まずは
「私は英語を話せる人間だ」
「私はアイ・キャン・ノット・スピーク・イングリッシュの人ではない」
と自己暗示をかけ続けた。
そして週2回、家庭教師に来てもらい、その日あった出来事からに日本のアイドルのことまで、2、3時間、とにかく英語で話し、フレーズや単語を教わった。
近所の人にも積極的に話しかけ、隣家のドイツ人家族と塀越しに仲良くなることに成功。
学校から帰ってくると毎日、ゲローという名の男の子と遊んだ。
そんな努力や出会いのお陰で、英語力はかなりの速度で上達。
学校の英会話のクラスも、中2の終わりにはトップクラスまで上り詰めた。
「やるだけのことはやった。
それでも現地学校に通ったことのある生徒との差は歴然で、英語が母語になってしまうようなレベルではなかったし、ラジオやテレビを完璧に理解することも難しかった。
やはり日本人として基質が確立されていたということが大きかった。
それこそが10際の壁なんだろうね。
それをブチ破って、いわゆる「人としてのノリ」までネイティブになることは不可能だったし、自分でも望んでいなかった」
イギリスの学校でどんなに偏差値や言葉の壁に打ちのめされても、日本同様、
「権力志向」
「仕切り魂」
は健在。
大きな体と口達者で存在感を示し
「自分なりの価値観や判断基準を育むことができた」
しかし思春期の学校社会で地位を築くために
「下ネタへの適応能力の無さ」
は大きな足かせとなった。
「SOAP」という英単語、工藤静香の「恋一夜」という曲タイトル、日常を取り巻くすべての事象をシモに結びつけ、無限のエロを想像して興奮して喜ぶ周囲の男子、日に日にエスカレートしていくエロ社会についていけなかった。
小さな頃から男の裸に興奮し
「普通ではない」
と自覚していたミッツ・マングローブは、エロに目覚めてから誰にもいえず、ずっと1人で育ててきたため、非常に無知でウブ。
「みんながエロやセックスに興味があるわけではない」
「世の中の7割くらいは誰かを好きになったり恋愛や結婚はしてもセックスなんて一生しない」
「他人の裸に興奮する人間は、普通の人ではなく、男なのに男に興奮する人間は普通ではない人の中でも、さらに普通ではない」
と本気で信じていた。
だから中1になってセックスがどういうものなのか知ると
「私の求めるセックスは、種の保存、子孫繁栄という自然の法則にも、人間の本能にも結びついていない」
「こんなことを周囲に知られていいはずない」
と改めて自分が性においてマイノリティーであることを確認したが、それよりもショックだったのは、
「人間の全員がエロい」
ということだった。
エロを解禁したのは中2。
様々なエロの悩みから救ってくれたのは、父親の本棚にあったマンガと母親が聴いてたカセットテープだった。
マンガの名前は「コージ苑」
相原コージ作、ギャグマンガでありながら哲学、大マジメありで世の中の事象を斬りまくる4コママンガ。
そして母親が聴いていたのは「スネークマンショー」
本来はラジオ音楽番組の名前だったが、先鋭的な選曲と曲間のコメント、コントトークが話題となってアルバム化したもの。
これらを夜通し勉強した結果、
「エロを下ネタとして面白がる」
という感覚をつかみ、一晩で
「下ネタ大王」
が降臨。
周りが驚くほどのエロトークを繰り広げ始めた。
「女のオッパイや女性器の話をしたところで、所詮、他人事。
私自身が興奮しないわけだし、むしろ目の前にいる男子のシャツやパンツの中に興味があるんだからね。
そんな冷静さと客観性がエロ法師として適していたのかもしれない。
ほとばしる欲求をみんなと共有することはできなかったけど」
男好きという自分自身のエロは悟られないようにしたが、誰かが
「森高千里の足がイイ」
「田中美奈子の方がエロい」
というのを聞いて
「イヤッ、1番足がキレイなのはユーミンでしょ」
と通常ではあり得ない正論を披露してしまい、
(痛恨のミス)
と反省することもあった。
同時期、幼馴染の女の子がいる家族が伊勢丹パリ支社に赴任。
週末や連休にロンドンから343㎞離れたパリに行くことがあった。
ある夜、両母親に連れられ、夜のパリをドライブ。
ブローニュの森という大きな公園に通ったとき、公園内の道の両脇におびただしい人が立っていた。
そこはパリ随一の売春地区で、裸に金髪で、毛布1枚羽織っただけの娼婦や女装した男娼もいた。
「サファリパークみたいでしょ?」
「あなたたちもそろそろ、セックスってものが何なのか考えなきゃいけない歳だからね。
よくみておきなさい」
そんな大人たちの声をよそに、ミッツ・マングローブは、とてつもない衝撃を受けていた。
「森の中に立っている人たちをみながら、どこか自分の中にあって、でも開いたことがなかった扉の向こう側をみた気がしたの。
それと同時に突出した性やエロは武器になるんじゃないかって」
同じく中2のとき、高校受験のために「ひのきインターナショナル」という塾に入った。
それはロンドン、香港、台北、シドニー、ニューヨーク、パリ、アムステルダムなど海外に拠点を持つ日本の塾で、イギリスで中学を卒業後、東京に帰ってからも勉強を続け、慶応を受験する体制を整えたのである。
日本はバブル景気真っ只中で、ロンドンに伊勢丹と高島屋が出店し、日本航空に加え、全日空も就航。
ピカデリーサーカス(ロンドン中心の大通りが合流する場所にある円形の公園)の電光掲示板に日本の電機メーカーのロゴが映し出されるのをみて、ミッツ・マングローブは
「今、日本は怖いものなしなんだ」
と思った。
長年、司会を務めた芳村真理の勇退記念として「夜のヒットスタジオ」がパリから生中継されることになったとき、芳村真理の夫と先輩後輩の関係という父親に中森明菜のサインをせがんだ。
芳村真理は
「アキちゃんのね。
任せて。
すぐにもらってきてあげる」
といって八代亜紀のサインを父親に渡し、日本に帰っていった。
その後、日本では「バンドブーム」が到来。
結果、アイドルは衰退していった。
イギリスでもピアノのレッスンを続け、行き帰りのスクールバスで流れるFMで流行りの曲をチェックしながら、中森明菜や工藤静香ではしゃいでいたミッツ・マングローブは、中2のときにプリンセスプリンセスの「Diamond」という曲に遭遇。
「♪好きな服を着てるだけ。
悪いことしてないよ♬」
という歌詞に一気に魅了され、
「この先、これをずっと心に刻みながら生きていくんだろうな」
と思った。
そして以後、何か大事なことがあったり、気合を入れたいときは、必ずこの曲は聴いた。
数ヵ月後の秋、同級生男子5人でバンドを結成。
担当は、キーボード。
ボーカルは、学年一、顔がよく、学年一の悪ガキ。
ギターは、後の生徒会長。
目標は
「3年生の秋の文化祭でライブをする」
で一致していたが、問題は
「何を演るか?」
もっと正確にいうとコピーバンドだったので
「誰のコピーをするか?」
ということだったが、他の4人が
「BOOWY」
をやりたいというので、
「プリプリ」
といい出すことができないまま、決定。
しかしBOOWYにはキーボードがおらず
「徳ちゃんは必要ない」
といわれかねない状況になったので、「さして思い入れもない」BOOWYを聞き込んで、シンセサイザーの音を拾って譜面に起こし、
「この音色がないと雰囲気出ないよ」
と説明。
音楽の知識はバンドで1番あった。
中3の夏休みが終わってもバンド活動にうつつをぬかし、母親に
「いつまでそうやって神輿の上に立ってるつもり?
アンタみたいなのをお人好しのおめでたいヤツっていうんだよ。
いい加減に目を覚ましてちょうだい」
と怒られたが、秋の文化祭のライブまで継続した。
「BOOWYのコピーバンドをやっていたなんて貴重な経験値だよね
やはり男子がいきなりプリプリなんて贅沢したらダメだと思うの。
あそこでBOOWYを経たからこそ、オカマとしての奥ゆかしさが身につけられたんだと思ってる」
文化祭が終わると受験一色の日々が始まった。
中学受験を免れてから4年、2度目の慶応チャレンジ。
3度目、大学受験という手もあるが、
「どうしてもここで決めてしまいたかった。
慶応生にさえなってしまえば、後はどうなろうと私の自由」
そしてその選択肢は3つあった。
・横浜、日吉にある慶応義塾高校
・埼玉県志木市にあるにある志木高校
・アメリカ、ニューヨーク州ウェストチェスター郡にある慶応義塾ニューヨーク学院
慶応義塾高校と志木高校は、共に偏差値76という難関校で
「合格するには、それなりの奇跡が必要な状況」
だった。
一方、慶応義塾ニューヨーク学院は、1年前に開校したばかり。
入試はアメリカの高校と同じシステムで、テストも論文も面接も、すべて英語。
それでいて日本の慶応大学への進学率は9割という打ってつけの学校で合格する自信もあった。
「日本の受験をせずに慶応生になれて、しかも親元を離れてニューヨークで暮らせる。
英語もさらに上達できる上に、3年後には日本に帰れて大学へ行ける。
シナリオとしてはほぼ完璧。
偶然にもギターの生徒会長とドラムの子も受験するのを知り、すでに頭の中は、
『ニューヨークでもバンドができる。
ただしBOOWYはもうやんないよ』
しかなかった」
1990年12月、飛行機でアメリカに飛び、慶応義塾ニューヨーク学院の入試を受け、3人とも合格。
慶応生になるという徳光家の務めを果たし、後は日本に帰って残りの2校を
「記念に」
受けるだけで
「ニューヨークに住んでもブリティッシュな英語を貫こう」
などと意識はすでにアメリカに飛んでいた。
しかし両親に
「ニューヨークは学費が高すぎて行かせられない。
日本の慶応のどちらかに行けるよう、あと2ヵ月頑張れ」
といわれると思い描いていた未来は音を立てて崩れ、
「人でなし!」
と呪った。
イギリスの中学は1月卒業なので、その後は日本に戻って「ひのきインターナショナル」で本気の受験勉強を続けることになった。
1991年1月17日午前0時、多国籍軍がイランに空爆を開始。
(5ヵ月前にイランがクウェートに侵攻して以来、国際社会は徹底の要求と経済制裁を続けていた)
その日はロンドン日本人学校の卒業式、そして日本に帰国する日だった。
母親と弟は、中学受験のためにすでに日本に帰っていたので、ミッツ・マングローブは朝起きて父親とテレビをみて
「アッ・・・」
と言葉を失った。
空港は封鎖されたという情報もある中、中学を卒業。
日本大使館の人に、
「JALが一便だけ飛びます。
ただし空港に入れるのは搭乗する人だけです」
といわれ、父親と別れ、ひのきインターナショナルの先生に引率されて、灯りがほとんど消えた厳戒態勢のヒースロー空港へ。
飛行機に乗り込み、見送りもないまま追い立てられるように4年間過ごしたロンドンを後にした。
帰国すると、そのまま世田谷の塾の寮へ。
ロンドン、香港、台北、シドニー、ニューヨーク、パリ、アムステルダム、各都市の帰国子女が一堂に会し、ほぼ缶詰め状態での勉強が始まった。
期間は、約1ヵ月間。
しかし
「いろんな誘惑に、ほぼ負けた」
というミッツ・マングローブは、成績が上がらず
「このままじゃ本当にヤバい」
と思っていた。
志木高校のテストが1週間後に迫った夜、寮の外で1人の男に話しかけられた。
「君、どこ受験するの?」
「慶応ですけど・・・」
男はNHKのディレクターでドキュメンタリー番組の取材に来ているという。
「どこで放送されるんですか?」
「夕方6時のニュースの「帰国子女たちの受験戦線」という特集コーナーで全国に15分くらい流れます」
ミッツ・マングローブは流れで出演することになり、翌日から密着された。
そして試験日を迎え、テストが終わった直後、それなりの手応えがあったので、カメラに向かって
「奇跡が起きるかもしれませんよ。
フフフッ」
とコメント。
しかし結果は不合格。
やりきれない気持ちで、ディレクターに逆ギレした。
しかしこれでいよいよ後がなくなった。
滑り止めに早稲田高を受ける予定だったが、たとえそれに受かっても慶応大学に入るために、また一から受験勉強しなければいけない。
「それだけは絶対にイヤだ」
そこで考えついたのは、
「慶応以外の可能性を自ら葬ってしまえばいい」
そうすることで仮に慶応義塾高校に落ちて、慶応義塾ニューヨーク学院しか行けるところがなくなっても
「大学受験したり浪人したりするよりも安いか、そんなに変わらないんじゃないか」
そう企むと、すぐに公衆電話から実家に電話。
「滑り止めは受けないから」
母親にそう告げるとすぐに切り、その場で早稲田高の受験票を破り捨てた。
「これで落ちたらニューヨーク」
開き直ると思った以上にスッキリ。
受験の前夜には、さらにスッキリしてしまう。
「前の晩にね、
初体験を、その合宿所でしたのね。
夜中の1~2時くらいまでぐちゅグチュグチュグチュやってね」
そうやって解放したのがよかったのか、慶応義塾高校に合格。
親的にもNHK的も、そして自分的にも最高の終わり方となった。
「いまだ、なぜ受かったのかわからない。
試験問題は、ヤマが外れて全然できなかったし、実は前の日、受験前夜だというのに夜中まで友達とチチクリ合ってたんだよね。
だから寝不足の上、昨夜の初体験のことで頭がいっぱいだった。
そんな男が慶応生になってしまった」
受験が終わってまず真っ先にやったのは、横浜アリーナで行われたプリンセスプリンセスのコンサート。
念願の生Diamondを体験し、高校に入学する日の朝も、この曲を聴いて気合を入れた。
「そうでなきゃ、詰襟の学ランなんか着て電車に乗れない」
慶応義塾高校は、1学年900人近く、18~19クラスもあり、900人×3学年の全員が男というマンモス男子校で、校風は、運動部が幅を利かす縦社会だった。
そんな男の世界の中、偶然、クラスで隣の席になったのが、やたら明るいKだった。
すぐに意気投合し、授業中も休み時間も2人で、クラスメイトや浅野温子のモノマネ、ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」の再現、Winkの振り付けなどを周りにお構いなしでやり続け
た。
しばらくすると教室だけだった2人の活動の場は、カラオケボックスに拡大。
「そこでハッキリ目覚めてしまったんだよね。
歌手だ!って」
ミッツ・マングローブは、歌うことに覚醒。
寝ても覚めても歌がうまくなることばかり考えるようになった。
「DREAMS COME TRUEの吉田美和の声に心をワシ掴みにされ、ホイットニー・ヒューストンの「ボディガード」に打ちのめされた。
美空ひばり、和田アキ子、都はるみ、欧陽菲菲 ・・・日々いろいろな歌手の強い声を勉強しながら、マライア・キャリー、ジャネット・ジャクソンなど来日コンサートに行きまくって、1日中、ベッド・ミドラーごっこをしていることもあった」
「私にとって歌を通して最初に夢をみさせてくれたが中森明菜だとしたら、音楽を演る楽しみを教えてくれたのはプリプリだった。
そして唄うことへの欲求に火をつけてくれたのが吉田美和で、音楽や歌の世界をつくり上げる衝動へ導いてくれたのはユーミンだった。
もう1人、数年ぶりに日本のテレビをつけたらとんでもない衝撃を放つ人がいた。
美川憲一さん。
それまでコロッケさんと一緒に出ている姿なんかはみたことがあったものの、私がいない間に日本のブラウン管は美川さんに席巻されていたの。
親へのお務めも果たし、『ここから先はあらゆるものを解き放っていく毎日だわ!』と心に決めた私を、まるで待っていてくれたかのようだった。
美川さんに魅了され、美川さんに心躍ることこそが、私にとって勇気や希望そのものだったのかもしれない。
学食でラーメンを頼むときも『ちょとアンタ、モヤシ多めに入れてちょうだい』なんれ、あの声と口調をマネしてた。
今も気がつくとやってるし、美川さんから留守番電話なんか入っていようものなら、その場で10回くらい聞いちゃう。
それまで人に悟られないようにしていた自分の普通でない部分に対する、明快な見せ方や切り口みたいなものを美川さんには教えてもらった」