ミッツ・マングローブこと徳光 修平は、1975年4月10日、横浜の警友病院で、男として誕生した。
家は、神奈川県横浜市緑区にある母親の実家で、母方の曾祖父、祖父母、父親、母親、3歳下の弟の7人暮らし。
父親の治郎は、伊勢丹の宣伝部に勤務。
年の1/3は海外出張で、日本で初めてアメリカのブランド、カルバン・クラインを販売したり、パプアニューギニアからエリマキトカゲを連れてきた。
日本にいるときも
「ほぼ毎晩、午前様」
で、後に英国伊勢丹の初代社長、新宿伊勢丹の次長となった。
母親の由利子は、元博報堂のコピーライターで結婚後は専業主婦。
音楽好きで、いつも家にダイアナ・ロスやビートルズをかけていた。
「生まれ育った町は、横浜といっても海なんかちっとも見えない内陸で、当時は新幹線ひかり号もほとんど通過していた新横浜に近い鴨居という町。
生粋の浜っ子からは「あんなところ横浜じゃないじゃん」といわれ続け、今や千葉出身のマツコさんにまで「アンタは横浜出身って名乗っちゃいけない土地の出よ」といわれる。
近年、ようやく開発が進み、「ららぽーと」なんてショッピングモールや大きなIKEAができたり、地下鉄なんかも掘り出しちゃったりして、なんだか遅れてきた高度成長みたいなところなの。
その「ららぽーと」に新曲のキャンペーンでいったとき「鴨居が生んだスーパースター凱旋」なんて看板出してくれてね。
この町、大丈夫かなってちょっと心配になっちゃった」
父親の実家は、同じ神奈川県の湘南にあった。
その徳光本家の長は、ミッツ・マングローブにとって祖父に当たる徳光寿雄。
家の近くにあった映画製作会社に入り、宣伝部、助監督を経て監督に。
戦前、国策によってできた日本映画社のニュース映画部門で勤務し、戦後、取締役に。
テレビの報道局の立ち上げに関わった後、日本テレビの初代映画部長になると
「暴挙」
といわれながら外国映画を日本語吹替で放送し、その後、編成局次長、報道局次長、技能局次長を歴任した。
伯父(父の兄)は、アナウンサーの徳光和夫。
従兄弟(徳光和夫の二男)は、タレントの徳光正行。
そんなメディア一家だった。
「私の顔って思い切り父親似なの。
いわゆる徳光家顔とされる、目が細くて白黒写真にするとみんな帰還兵みたいな顔になっちゃう系統」
(ミッツ・マングローブ)
徳光和夫は、高校生のときに長嶋茂雄が東京6大学野球新記録となるホームランを放ち、仲間と一緒にベースを周る姿をみて
「人生のすべてを長嶋茂雄に捧げよう」
と決意。
長嶋茂雄がいた立教大学の全学部を受け、かろうじて社会学部に合格。
「長嶋さんがいた神宮(球場)で過ごしたい」
と応援団に入り、卒業後、長嶋茂雄が入団した巨人の実況がしたくて日本テレビのアナウンサーに。
「ズームイン!!朝!」の司会を務めていたとき、長嶋茂雄が巨人の監督を解任された翌日、球団を批判して
「読売新聞や報知新聞の購読を辞めます」
と発言したり
「巨人が優勝できなかったら頭を丸めます」
といって応援したものの、中日が優勝したために板東英二にバリカンで丸坊主にされたり、広島の優勝がほぼ決まっているのに
「巨人の優勝はあきらめない。
だって広島の選手が乗った飛行機が墜落するかもしれないでしょ?」
といった1ヵ月後、大規模な飛行機事故が起こって批判を浴びるなど、過激で熱烈な巨人ファンぶりを発揮。
ギャンブルも大好きで
「競馬は遊び、競艇は勝負」
といい、競艇は選手の心理状況から家族構成まで調べるが、競馬では大穴狙いをし、競輪やマージャンもやった。
徳光和夫は、5歳の甥っ子(ミッツ・マングローブ)と一緒にプロレスを観にいったとき、天龍源一郎をみる目が違うことに気づき、
「その世界を極める」
と予感した。
徳光正行もプロレス好きだったため、いとこであるミッツ・マングローブによく
「上半身を脱げ」
といってプロレスごっこをしていたが、大人になってから
「隠したかったのに裸になれっていうから。クセになっちゃった」
「マサ君のせいでこうなった」
とカミングアウトされた。
「僕は天龍とかジャンボ鶴田がカッコイイと思ってみていたけど、ミッツは小学生の頃からプロレスいやらしい目でみていたということですね」
「ミッツ・マングローブ」というステージネームは、徳光和夫が「徳さん」と呼ばれていたので
「自分は分家だから『徳光』の『ミツ』を使った」
マングローブは、
「大げさで洋風な名前」
をつけたくて、響きと字面で決めた。
だからそれが地球上の限られたエリアの海岸で潮間帯(満潮時の水位~干潮時の水位)に潮の満ち干きの響を受けながら棲息し、干潮時は普通の森林だが潮が満ちると「海の森」となる、クネクネと複雑な形をした植物の総称であることは知らなかった。
最初は志村けんだった。
とにかくテレビで女装をしている人をみるのが好きだったが、それは女の格好をしていればなんでもOKというワケではなく、大事なのは
「女装チャンネルのある人」
ということ。
女装チャンネルがある人がする女装とそうでない人がする仮装は全く異なり、例えば、木梨憲武の女装は
「細やかすぎる性があふれ出てしまっている」
コロッケの桜田淳子は
「もはやモノマネとは違うところにある譲れない業みたいなものを感じる」
そして女装チャンネルがある人には、必ずスイッチがあるという。
「そもそも化粧してスカートはくことだけが女装じゃない。
女装というのはその人の中にあるチャンネルを合わせてスイッチを入れる行為であって、目にみえる形でなければ成立しないものではないの。
だから「脳内女装」「指先女装」、なんでもアリ。
設定は自由だから年齢も関係ない
女性っぽい香水をつけるだけでスイッチが入るのであれば「匂い女装」というのも奥ゆかしくていいかもね。
あくまで女装チャンネル、女装スイッチが、その人の中にあるかどうかの話。
単に女々しいとか、肌質が女っぽい男とは違う。
アッ、「文章女装」とかもありだと思う。
人によってスイッチがバラバラだから面白い。
つけマツ毛という人もいれば、パンティをはかないとスイッチが入らないって人もいる。
マスカラを厚塗りしていくうちにギアが上がっていく人やタバコの吸い口に口紅をつけるのがスイッチだという人もいる。
それぞれに女の記号があって、みんな幼い頃からそれを密かに濃縮・醸造させてきた」
ミッツ・マングローブの女装スイッチは、ハイヒールだった。
「玄関に置いてある母親や祖母のハイヒールをこっそり履いて自分の足元を見下ろすと足の甲から膝にかけてのラインがスッと伸びてみえる。
その瞬間にスイッチが入るのがわかった」
ミッツ・マングローブの女装チャンネルの中には、シンボル的な「いい女」が何人かいて、いしだあゆみ、中森明菜は女装人格に影響を与えた。
純粋に理想の顔は、麻生祐未。
あらゆる外見的な要素で、ずっとアイコンだったのは浅野温子。
「細かくいうと1987年から91年までの浅野温子。
顔立ち、髪質、雰囲気、細さ、素肌感、ファッション、表情。
頑張れば自分の素質で近づけるんじゃないかと思わせてくれる部分と、私が生まれ持った気質とは真逆なあの雰囲気を「演じたい」と思わせる部分とが、絶妙なバランスで混在してるの。
そして何より、その仕草や表情を彼女にさせた80年代半ば以降の時代感がたまらなく好き。
女装した自分がワンレンの黒髪をかき上げるイメージは、指の通し方から、その後の首の傾け方まで、中学生の時点ですでに完成していたから。
きっと女装癖がある人って、誰もがそういう脳内過程を長年経ているから、いざ女装したら初々しさに欠けるんだよね。
外見的な女性像ももちろんだけど、例えば竹内まりあさんの「駅」という曲に描かれているシチュエーションやストーリーも私の中ではシンボリックな女装チャンネルの1つだったりするの。
駅ごっこを学校帰りに電車に乗りながら散々やった記憶がある」
ミッツ・マングローブは、すごく賢い子供だった。
しかし悩みは
「背が大きいこと」
で不必要に目立ち、近所の人に
「大きいね」
「うらやましい」
といわれるのが恥ずかった。
幼稚園の入園式で列の最後を歩いていくと会場がどよめき、
「お願いだからスルーしてよ !」
上履きを注文するときも
「サイズはいくつですか?」
「20cmです」
「いえ、お母様ではなく、息子さんのサイズです
「ですから20㎝です!」
と一悶着。
入園後も頭もデカいために、赤白帽をかぶるだけで周囲は笑われた。
「頭がデカいのか顔がデカいのか、とにかく帽子が似合わなかった。
帽子なんて子供なら誰でもそれなりにみえるものの代表格じゃない?
だけど何か変なの」
大人になって衣装さんに頭の鉢、深さ、ツバの大きさ、すべてミッツ仕様の帽子を制作してもらい
「世界中の人が何も考えずかぶるものを、ようやく克服できた気がした」
足、頭、手、耳、すべてのパーツが大きいのに、鼻の穴だけがふさがったように小さかったので、からかわれたり、驚かれたり、ただジッとみられたりした。
「そんな特別感、ホントにいらない。
デカいならデカいで統一してほしかった」
大人になっても
「整形?」
と聞かれたり
「整形に失敗した鼻」
といわれ、
「何がハイビジョンよ。
何がデジタル化よ」
と嘆いた。
中学校の恩師は、
「どんな災害に巻き込まれても、普通の人は歯だけど、あなたは鼻をみれば身元が確認できる。
何があっても歯だけは守りなさい」
とアドバイスし、現在でもテレビでミッツ・マングローブをみると鼻を手がかりに徳光修平と照合している。