ミッツ・マングローブ  修平くんだった時代  徳光家の呪い  宿命の慶應義塾 覚醒と解放

ミッツ・マングローブ 修平くんだった時代 徳光家の呪い 宿命の慶應義塾 覚醒と解放

高身長、高学歴、アサーティブネス、オネエ、「これでハーフだったら完璧だったのにね」という超レアハイブリッド。「男は男らしく、女は女らしく」から「自分らしく」に変わっていった時代の先駆け。その幼少期から学生時代にズームイン!


ミッツ・マングローブこと徳光 修平は、1975年4月10日、横浜の警友病院で、男として誕生した。
家は、神奈川県横浜市緑区にある母親の実家で、母方の曾祖父、祖父母、父親、母親、3歳下の弟の7人暮らし。
父親の治郎は、伊勢丹の宣伝部に勤務。
年の1/3は海外出張で、日本で初めてアメリカのブランド、カルバン・クラインを販売したり、パプアニューギニアからエリマキトカゲを連れてきた。
日本にいるときも
「ほぼ毎晩、午前様」
で、後に英国伊勢丹の初代社長、新宿伊勢丹の次長となった。
母親の由利子は、元博報堂のコピーライターで結婚後は専業主婦。
音楽好きで、いつも家にダイアナ・ロスやビートルズをかけていた。
「生まれ育った町は、横浜といっても海なんかちっとも見えない内陸で、当時は新幹線ひかり号もほとんど通過していた新横浜に近い鴨居という町。
生粋の浜っ子からは「あんなところ横浜じゃないじゃん」といわれ続け、今や千葉出身のマツコさんにまで「アンタは横浜出身って名乗っちゃいけない土地の出よ」といわれる。
近年、ようやく開発が進み、「ららぽーと」なんてショッピングモールや大きなIKEAができたり、地下鉄なんかも掘り出しちゃったりして、なんだか遅れてきた高度成長みたいなところなの。
その「ららぽーと」に新曲のキャンペーンでいったとき「鴨居が生んだスーパースター凱旋」なんて看板出してくれてね。
この町、大丈夫かなってちょっと心配になっちゃった」

父親の実家は、同じ神奈川県の湘南にあった。
その徳光本家の長は、ミッツ・マングローブにとって祖父に当たる徳光寿雄。
家の近くにあった映画製作会社に入り、宣伝部、助監督を経て監督に。
戦前、国策によってできた日本映画社のニュース映画部門で勤務し、戦後、取締役に。
テレビの報道局の立ち上げに関わった後、日本テレビの初代映画部長になると
「暴挙」
といわれながら外国映画を日本語吹替で放送し、その後、編成局次長、報道局次長、技能局次長を歴任した。
伯父(父の兄)は、アナウンサーの徳光和夫。
従兄弟(徳光和夫の二男)は、タレントの徳光正行。
そんなメディア一家だった。
「私の顔って思い切り父親似なの。
いわゆる徳光家顔とされる、目が細くて白黒写真にするとみんな帰還兵みたいな顔になっちゃう系統」
(ミッツ・マングローブ)

徳光和夫は、高校生のときに長嶋茂雄が東京6大学野球新記録となるホームランを放ち、仲間と一緒にベースを周る姿をみて
「人生のすべてを長嶋茂雄に捧げよう」
と決意。
長嶋茂雄がいた立教大学の全学部を受け、かろうじて社会学部に合格。
「長嶋さんがいた神宮(球場)で過ごしたい」
と応援団に入り、卒業後、長嶋茂雄が入団した巨人の実況がしたくて日本テレビのアナウンサーに。
「ズームイン!!朝!」の司会を務めていたとき、長嶋茂雄が巨人の監督を解任された翌日、球団を批判して
「読売新聞や報知新聞の購読を辞めます」
と発言したり
「巨人が優勝できなかったら頭を丸めます」
といって応援したものの、中日が優勝したために板東英二にバリカンで丸坊主にされたり、広島の優勝がほぼ決まっているのに
「巨人の優勝はあきらめない。
だって広島の選手が乗った飛行機が墜落するかもしれないでしょ?」
といった1ヵ月後、大規模な飛行機事故が起こって批判を浴びるなど、過激で熱烈な巨人ファンぶりを発揮。
ギャンブルも大好きで
「競馬は遊び、競艇は勝負」
といい、競艇は選手の心理状況から家族構成まで調べるが、競馬では大穴狙いをし、競輪やマージャンもやった。

徳光和夫は、5歳の甥っ子(ミッツ・マングローブ)と一緒にプロレスを観にいったとき、天龍源一郎をみる目が違うことに気づき、
「その世界を極める」
と予感した。
徳光正行もプロレス好きだったため、いとこであるミッツ・マングローブによく
「上半身を脱げ」
といってプロレスごっこをしていたが、大人になってから
「隠したかったのに裸になれっていうから。クセになっちゃった」
「マサ君のせいでこうなった」
とカミングアウトされた。
「僕は天龍とかジャンボ鶴田がカッコイイと思ってみていたけど、ミッツは小学生の頃からプロレスいやらしい目でみていたということですね」

「ミッツ・マングローブ」というステージネームは、徳光和夫が「徳さん」と呼ばれていたので
「自分は分家だから『徳光』の『ミツ』を使った」
マングローブは、
「大げさで洋風な名前」
をつけたくて、響きと字面で決めた。
だからそれが地球上の限られたエリアの海岸で潮間帯(満潮時の水位~干潮時の水位)に潮の満ち干きの響を受けながら棲息し、干潮時は普通の森林だが潮が満ちると「海の森」となる、クネクネと複雑な形をした植物の総称であることは知らなかった。

最初は志村けんだった。
とにかくテレビで女装をしている人をみるのが好きだったが、それは女の格好をしていればなんでもOKというワケではなく、大事なのは
「女装チャンネルのある人」
ということ。
女装チャンネルがある人がする女装とそうでない人がする仮装は全く異なり、例えば、木梨憲武の女装は
「細やかすぎる性があふれ出てしまっている」
コロッケの桜田淳子は
「もはやモノマネとは違うところにある譲れない業みたいなものを感じる」

そして女装チャンネルがある人には、必ずスイッチがあるという。
「そもそも化粧してスカートはくことだけが女装じゃない。
女装というのはその人の中にあるチャンネルを合わせてスイッチを入れる行為であって、目にみえる形でなければ成立しないものではないの。
だから「脳内女装」「指先女装」、なんでもアリ。
設定は自由だから年齢も関係ない
女性っぽい香水をつけるだけでスイッチが入るのであれば「匂い女装」というのも奥ゆかしくていいかもね。
あくまで女装チャンネル、女装スイッチが、その人の中にあるかどうかの話。
単に女々しいとか、肌質が女っぽい男とは違う。
アッ、「文章女装」とかもありだと思う。
人によってスイッチがバラバラだから面白い。
つけマツ毛という人もいれば、パンティをはかないとスイッチが入らないって人もいる。
マスカラを厚塗りしていくうちにギアが上がっていく人やタバコの吸い口に口紅をつけるのがスイッチだという人もいる。
それぞれに女の記号があって、みんな幼い頃からそれを密かに濃縮・醸造させてきた」

ミッツ・マングローブの女装スイッチは、ハイヒールだった。
「玄関に置いてある母親や祖母のハイヒールをこっそり履いて自分の足元を見下ろすと足の甲から膝にかけてのラインがスッと伸びてみえる。
その瞬間にスイッチが入るのがわかった」
ミッツ・マングローブの女装チャンネルの中には、シンボル的な「いい女」が何人かいて、いしだあゆみ、中森明菜は女装人格に影響を与えた。
純粋に理想の顔は、麻生祐未。
あらゆる外見的な要素で、ずっとアイコンだったのは浅野温子。
「細かくいうと1987年から91年までの浅野温子。
顔立ち、髪質、雰囲気、細さ、素肌感、ファッション、表情。
頑張れば自分の素質で近づけるんじゃないかと思わせてくれる部分と、私が生まれ持った気質とは真逆なあの雰囲気を「演じたい」と思わせる部分とが、絶妙なバランスで混在してるの。
そして何より、その仕草や表情を彼女にさせた80年代半ば以降の時代感がたまらなく好き。
女装した自分がワンレンの黒髪をかき上げるイメージは、指の通し方から、その後の首の傾け方まで、中学生の時点ですでに完成していたから。
きっと女装癖がある人って、誰もがそういう脳内過程を長年経ているから、いざ女装したら初々しさに欠けるんだよね。
外見的な女性像ももちろんだけど、例えば竹内まりあさんの「駅」という曲に描かれているシチュエーションやストーリーも私の中ではシンボリックな女装チャンネルの1つだったりするの。
駅ごっこを学校帰りに電車に乗りながら散々やった記憶がある」

ミッツ・マングローブは、すごく賢い子供だった。
しかし悩みは
「背が大きいこと」
で不必要に目立ち、近所の人に
「大きいね」
「うらやましい」
といわれるのが恥ずかった。
幼稚園の入園式で列の最後を歩いていくと会場がどよめき、
「お願いだからスルーしてよ !」
上履きを注文するときも
「サイズはいくつですか?」
「20cmです」
「いえ、お母様ではなく、息子さんのサイズです
「ですから20㎝です!」
と一悶着。
入園後も頭もデカいために、赤白帽をかぶるだけで周囲は笑われた。
「頭がデカいのか顔がデカいのか、とにかく帽子が似合わなかった。
帽子なんて子供なら誰でもそれなりにみえるものの代表格じゃない?
だけど何か変なの」
大人になって衣装さんに頭の鉢、深さ、ツバの大きさ、すべてミッツ仕様の帽子を制作してもらい
「世界中の人が何も考えずかぶるものを、ようやく克服できた気がした」

足、頭、手、耳、すべてのパーツが大きいのに、鼻の穴だけがふさがったように小さかったので、からかわれたり、驚かれたり、ただジッとみられたりした。
「そんな特別感、ホントにいらない。
デカいならデカいで統一してほしかった」
大人になっても
「整形?」
と聞かれたり
「整形に失敗した鼻」
といわれ、
「何がハイビジョンよ。
何がデジタル化よ」
と嘆いた。
中学校の恩師は、
「どんな災害に巻き込まれても、普通の人は歯だけど、あなたは鼻をみれば身元が確認できる。
何があっても歯だけは守りなさい」
とアドバイスし、現在でもテレビでミッツ・マングローブをみると鼻を手がかりに徳光修平と照合している。

体の大きさに加え、母親の着せてくれる服が
「ハイセンスすぎ」
て、
「悪目立ち」
することも悩みとなった。
「例えば男の子だったら戦隊モノのズック水筒とか持つじゃない。
だけど私の場合、幼稚園に入って最初に持たされた水筒がアルプスの人が使うような、牛皮の角みたいな形をしたやつだった」
アルミ製の普通の水筒を望むと
「なんで?
わざわざ制服の色と合わせたのに。
センスないわね」
戦隊モノを含め、キャラクターものも
「そんなの野暮ったい」
と却下され、スイミングスクールに入ったときも、みんながスクールで売られている紺色のスタンダードな水着を履く中、1人オシャレブランドの真っ赤な海パン。
「もう完全に醜いアヒルの子状態。
おまけにコーチが陰で私のことを赤パンって呼んでるのを聞いてしまった」

母親の影響は絶大だった。
「ウチの母親って動物みたいな女で、計算とか下準備とかできない人なの。
ただ生まれ持った感性とバランス感覚は奇跡的に優れていて、顔面偏差値もすこぶる高い。
字もキレイだし、料理も雑だけど早くてうまい。
そういったポテンシャルでほぼすべてのことを切り抜けてきたような人で何かやる前からどうしようみたいなことは絶対にいわない。
結果が出てチキショーとかいってる姿はよくみたけど。
着る服や選ぶメニューに迷ったり、他人からの印象を気にするにはほとんどみたことがない。
正しい・正しくない、善い・悪いよりも、彼女にとって粋か・野暮かが最優先だった」

幼稚園のとき、すでに
「性格的なものや性のことを含め自分は普通とは違う」
という感覚があった。
年長さんクラスになって、それまで自分のことを
「修平はね」
といっていたのに
「僕」
を使うように指示されたとき
(ついにこのときが来てしまったか)
と思った。
決して
「わたし」
といいたいわけではなかったが、なかなか
「僕」
ということができず、しばらくの間、お茶を濁すように
「ワシ」
といった。
やがて
「僕」
は、ぎこちないながらもどうにかいえるようになったが
「俺」
などもってのほかで
「僕」
も大人になると再び使えなくなった。

「ピアノ習いたい?」
母親に聞かれて習い始めたのも幼稚園時代で、週2回、「お稽古」に通うようになった。
家にあったピアノでも母親と並んで座って練習したが、フテ腐れたりすると手が飛んできて、ピアノの前で泣いていると
「イヤならとっととやめなさい」
と庭に楽譜を捨てられたこともあった。
結局、ピアノは日本で7年、12歳でロンドンに引っ越してから4年、帰国してから高校、大学と6年間、合計17年間、続けることになる。

背が1番大きく、力もあり、男女関係なく仲良くできるミッツ・マングローブは、動作が女っぽいという懸念材料はあったものの、幼稚園で一定の権力を維持し、
「いわゆるマウンティングをしていた」
弱い者イジメはしなかったが
「私の築いてきた地位を脅かすのでは ?」
と思う人間は徹底的に攻撃。
幼稚園はキリスト系で、朝昼夕とお祈りの時間があった。
「年長さんのとき、ある1人の男の子をとことんイジメたの。
私より1㎝くらい背が低くて、背の順でも後ろから2番目。
頭が良くて勘の鋭い子で、ピアノも習っていたし、家も立派だった。
しかも彼はカトリックだったの。
だから普通の園児が知らないような難しいお祈りを知ってたわけ。
シスターや神父様が唱えるのを聞いて、最後に『アーメン』とだけいえばいいところを一緒になって祈ってる。
それがどうしても許せなくてね。
お祈りの時間は静かにしてなくちゃいけないことをいいことに、後ろからフトモモをつねりした。
上履きの踵を思い切り、踏んづけたりもした。
でも彼は私の愚かな行為なんか意にも介さず、黙々と祈り続けている。
陰湿な嫌がらせをさらにエスカレートさせると、ようやく泣き始めたの。
だけど涙を拭うわけでもなく『神様の前では強い子でいるから泣かない』『やりたかったら勝手にやればいい』とお祈りをしたままの姿勢で静かに泣く。
私には、その敬虔さと強さはない。
敗北感と嫉妬だけが蓄積されていった。
『だったら泣いていることがみんなにバレたら弱い子だよね?』と告げ口しないように仕向けて、礼拝が終わった後は、わざと先生の目が届くところで仲良さそうに手をつないだりジャレ合ったりしてみせてた。
愚かだよね。
それでも彼は伸び伸びと幼稚園生活を送っているようにみえて、それもまた疎ましかった。
卒園して、その子と別々になったんだけど、それがさらなる因縁を引き起こすことになったの」

ミッツ・マングローブは、横浜国大付属小学校をお受験するために学習塾へ。
勉強だけでなく縄跳びやケンケンパーなど運動、鳩サブレを配られて食べ方のマナーや行儀までレクチャーされた。
しかし1次試験は受かったものの2次で落ち、近所の公立学校に通い始めた。
元気に小学校1年生をしていたある日、幼稚園で同窓会があった。
みんなが集まったところで、先生が
「ではみなさん、順番に1年何組になったか教えてください」
というと、みんな、
「〇〇小学校1年〇組です」
と答えていった。
ミッツ・マングローブも自分の順番がくると胸を張って
「鳥居小学校1年1組です」
その後、卒園以来会っていなかった、礼拝堂でイジメた子が
「〇〇学園、1年B組です」
というと
「ワァ」
「カッコイイ」
と称賛の声が上がってザワついた。
ミッツ・マングローブは、その瞬間、誇らしげな表情の彼がこちらをみたのを見逃さなかった。
(もしかして当てつけ?
復讐?)
そして再び、心の中でロックオン。

数ヵ月後、ピアノの稽古の帰り道、バッタリと出会った彼に
「あっ、久しぶり」
と話しかけ、そっけなく対応する相手を、
「あらかじめ用意しておいた会話で」
追い詰めていき、かぶっていたベレー帽を奪い取ることに成功。
そこで泣きついてきたら、とっておきのセリフを吐いてやろうと思っていたが、相手はサッサといってしまった。
完全に肩透かしを食らい、バツが悪く、恥ずかしくなって、ベレー帽を近くのバラ園に投げ捨てた。
帰宅後、夕飯を食べているとイジメた相手の母親から電話がかかってきて、自分の母親に耳を引っ張られて夜のバラ園へいき、ベレー帽を探した。
「圧倒的に彼の方が強かった。
改めてそれがわかってホントに悔しかった」

小1のとき、神奈川県民ホールでピアノの発表会に参加。
周囲が「ピアノ練習曲第〇〇番」や「〇〇のワルツ」などといった曲を弾く中、与えられたのは「あまりにも大胆な」という曲。
ステージへ出るとき、
「プログラムナンバー〇〇番、徳光修平君。
曲は『あまりにも大胆な』」
と紹介されて、いきなり笑われた。
しかし「大胆な」をマドンナやモンタナみたいに誰かの名前だと思っていたので何が面白いのかわからなかった。
小3になるとピアノが大好きになり、自分で弾きたい曲を探すなど、自発的、かつ積極的に練習し始めたので、母親がつきっきりの練習はなくなった。
しかしそれでも台所から
「アッ、今の感じキライ」
「そこ、そんなに速く弾いたら野暮ったい」
と注文が飛んできた。

学校で勉強は、ずっとトップクラス。
性格は明るく、友達も多かった。
湘南の伯父、徳光和夫の影響で、横浜の徳光家でも、テレビで巨人戦のナイター中継があれば、疑問を持つこともなく観戦。
少年野球に入ったり、進んでキャッチボールをやったりするほどではなかったが野球は好きで、学校で話題でついていけないことはなく、やっても下手なりにみんなと一緒に楽しんでいた。
基本的に世渡り上手で、野球以外にもドッジボールや缶蹴りもしていたが、内心では
「ムダに走ったり動いたりするのは嫌い」
「創造性がなくて、ただただ無邪気で、意味なく声を出すとか苦手」

本当に好きだったのは
「ごっこ遊び」
だった。
それは戦隊ヒーローものからママゴト、人形遊び、法事ごっこ、PTAごっこに至るまで、
「ごっこ遊びの総合商社」
で、
「今日は〇〇ちゃんと〇〇ちゃんがいるから、〇〇君を呼べば、かなり壮大なシーンが再現できる」
などと企て
「ちょっと結納ごっこしてるんだけど、お父さん役と親戚のおばちゃん役として仲間に入らない?」
と交渉&キャスティング。
メンバーが集まるとイニシアチブを握りながら進行していった。
例えば戦隊ヒーローものなら、普通なら戦闘シーンがメインだが、変身前の基地でのやり取りや悪の女王が命令を下す場面、敵を倒して平和が戻ったシーンなども詳細に演出。
もちろん戦闘シーンも
「男の子ってすぐに必殺技を出しちゃうし、ひどいときは乱発したりする。
それじゃ意味がないの。
敵とのにらみ合いがあって、1度必ず劣勢に立たされる。
そこから策を練りつつ反撃に出るけど、またやり返されてしまう。
いよいよ後がないところまで攻め込まれた場面で最後に放つのが必殺技」
と細部までこだわった。
ときにちょっとした男女のプラトニックなやり取りも入れ、かなりの演技力を求めた。
「そこまで追求してこそのごっこ遊びなの。
表面をなぞるだけでなく、その役の過去・未来を含めた人生に寄り添いながらじゃないと」


「1人ごっこ遊び」も「死ぬほどやった」という。
ベーシックな「中森明菜ごっこ」や「竹内まりあごっこ」
そしてピアノ先生のマンションにいったときに行う「エレベーターガールごっこ」など数分のストーリー。
はたまた自転車を使って何時間もかけてやる「電車モノ」まであった。
電車モノは、近所の道や家々を鉄道や駅に見立て、路線図や時刻表を作成。
「あの家は門構えが立派だから急行停車駅」
「あそこの空き地はターミナル駅」
などと決め
「臨時特急、ここから先は〇〇線に入ります。
お乗り間違えのないよう、今1度ご確認ください」
と車内や駅アナウンスを入れながら自転車をこいだ。
また自分の中に生き続けている架空の人物たちを何年、何十年と育んでいく「人生ごっこ」というのもあった。
例えば、日本人として初めてウインブルドン決勝に進むもナブラチロワに惨敗した女子プロテニスプレーヤーは、その後、世界トップ4に登り詰め、93年に全豪と全仏、96年に念願のウインブルドンを制するという大快挙を成し遂げた。
その他、英国王室に嫁いだ国際線CAや女子フィギュアスケーターの人生もごっこした。

こうしたごっこ遊びは、現実に集約されていった。
ミッツ・マングローブいわく
「人生はごっこ遊び」
であり、
「女装も根本的にごっこ遊びと同じ」
だといい、実際、女装家が集まると、自然とごっこ遊びが始まってしまうという。
「そんなことばかりして生きてきた人たちの集まりだから、説明なしですんなりその世界に入れるの。
各々がひっそりと温めてきたカードを出し合っているようなもので、みんな次から次に出てくる。
マツコさんの中にいたフィギュアスケーターは、自分で構成したプログラムまで残ってるそうだからね。
1度は現役を引退したものの、トリノオリンピックを見据えて復帰を考えたらしく、ある晩、電話がかかってきた。
『実は内緒にしてたんだけど、私、トリノ目指そうかと思って』って。
みんなしてそんなことばっかりいってるの。
だけどマツコさんいわく私のごっこ遊びは設定が厚かましいらしい」

小4のとき、「キャプテン翼」によって空前のサッカーブームが、
「吹き荒れてしまい」
休み時間もサッカー一択、体育の授業で教師が
「今日はサッカーです」
というとお祭り騒ぎとなった。
それまで野球を含め、バスケットボール、水泳、すべてのスポーツに対し
「できないことはないが、あえてやらない」
というスタンスをとっていたが、サッカーは、その独特のノリと運動量に、まったくついていけず、初の「やらない」のではなく、「やれない」「できない」スポーツとなった。
サッカーは、
「普通男子としての最初の挫折」
「普通の男子になれないという最初の象徴」
と人生の大きな敗北ポイントとなったが、大人になると意外な変化が起こった。
「私ね、サッカーやってたという男は、それだけで無条件に好きになっちゃう節がある。
男をみるときって性や恋愛の対象として意識するのと同時に、同性同士として張り合おうとする気持ちが、いまもまだしっかりとあるんだよね。
負けてたまるか的な。
だからサッカーをやっていた男というのはハナから張り合う気持ちを持たずにすむし、自分ができなかったことを成し得た人としておのずと基礎点が高いの」

同じく小4のとき、ショパンコンクール(5年おきにショパンの命日の前後に開催される国際音楽コンクール)で、ソ連の19歳、スタニスラフ・ブーニンが優勝すると、母親と共に熱狂し、1日中、家でショパンをかけ、来日コンサートにもいった。
「だからフィギュアスケートで麻央ちゃんや羽生くんがショパンの練習曲で滑っていると、思わず懐かしくなって古い楽譜を引っ張り出してきては家で弾いているの」
音楽は「狂ったように」聴いていたが、映画はほとんど無関心。
しかし日曜洋画劇場で、モーツァルトの人生を描いた映画「アマデウス」が放送されるとビデオが擦り切れるくらい繰り返して観た。
「音楽家としてモーツァルトはもちろんだけど、核になっているのは父と息子の話なんだよね。
私、あの手の父-息子モノにめっぽう弱いの。
「北の国」しかり。
父親と肩を並べるとか、父の家業を継ぐ的な話はピンとこないけど、伝えきれない関係の中で葛藤や残像を抱えながらお互い騙し騙し生きていくみたいな父親との距離感が、ゲイにとっては1番堪えるし、ありがたい気がするの。
父親と息子ってある程度の年齢になると酒を酌み交わしたりするじゃない?
そういうの多分死ぬまでないと思うから。
オカマって罪作りな生き物だなとつくづく思う」

学校では、男子だけでなく女子ともよく交流し、特に女子の中でも1番華やかな「Aグループ女子」とチェッカーズやおニャン子クラブの話で盛り上がった。
そんな男女の壁を超越した存在だったため、クラスの誰が誰を好きなのか、ほぼ把握。
男子に女子の情報を与えたり、バレンタインのとき女子に頼まれて
「チョコなんていらねえよ」
とテレる男子を力づくで引っ張ってきたりした。
そうやって最初は、さりげなくお膳立てする程度だったが、やがてドンドン仕切り出し、
「告白するときは私を通してするように」
とお達しを出すに至り
「お見合いババア」
といわれた。

高学年になると男女の性差が顕著になり、性への意識も高まっていっていった。
「そうなると中途半端な私に『なんかおかしいぞ?』という目が向けれるようになってくるんだよね
女子とも普通に仲良くしていられること自体が普通の男子ではないってことになるから」
誰かが
「徳光が変だ」
的なことをいったり、ときには
「おい、オカマ」
などといったりするとクラスに
(いっていいのか)
(ついに解禁か)
というようなムードが漂った。
そんなとき、
「オカマネタでからかわれるなどプライドが許さない」
「オカマで人生がつまずくことなどあり得ない、あってはならない」
というミッツ・マングローブは、
「そいつら」
を威圧して事態を収束させた。

小5になると中学受験の準備が始まった。
徳光家に
「受験をする?しない?」
「受験したい、したくない」
という発想はなく
「大きくなったら、お父さんやお爺ちゃんのように慶応(慶応義塾)にいく」
が決定事項で、ミッツ・マングローブも
「いかないとこの家の子じゃないんだろうな」
と思い込んでいた。
福沢諭吉によって創設され、「独立自尊」という教育理念を掲げる慶應義塾に入るチャンスは、中学、高校、大学と3回あったが、
「中学で入っちゃえば、そのまま大学までいけるから楽になれるな」
と思っていた。
その中等部に入るためには

1次試験 ・・・5科目の筆記テスト
2次試験 ・・・体育実技テスト、保護者同伴の面接

に合格しなければならない。
その偏差値は、なんと70。
この超難関を突破するため、ミッツ・マングローブは、Nバッグを持って日能研に通い始めた。
そこはわかりやすい競争社会で、性別など関係なく志す方向が同じだったので、居心地がよく楽しかった。

日能研は、毎週日曜に行われる塾内テストと年数回の全国公開模試の結果でクラスが決められる。
ミッツ・マングローブが通っていたところでは、普通クラス4クラス、上位クラスが2クラス、さらにその上に選抜クラス2クラスがあった。
この選抜クラスは、「栄冠1組」「栄冠2組」と呼ばれ、ミッツ・マングローブは、最初から栄冠1組、通称「栄1」に入れた。
そして超ハイレベルの競争を強いられた。
毎週の塾内テストといっても、それは全国共通テスト。
4教科合わせて500点満点で、400点を超えれば全国で100位以内、教室で10位以内に入ることができる。
だから
「まずは400点」
を目標にして勉強し、日曜日になると母親に
「頑張って400点とってらっしゃい」
といって送り出され、テストに挑んだ。
「だけどあんなに賢かった修平くんでも400点超えは難しく、母親の機嫌が悪くなるのが、いつも憂鬱だった。
でもクラス全体が、そんなプレッシャーをいっしょに抱えながら顔を合わせているわけでしょ。
そりゃ仲良くなるよね」

夏休みは「夏期講習」があって、30日間かけてミッチリ勉強。
「講習終盤になると成績が上がらない組と、ドンドン上がる組に分かれて、私は前者。
上位10人に入るよう子たちのようなポテンシャルもなければ、そこまで自分を追い込む根性がないことも薄々わかっていたんだよね」
そこで最後のテストのとき、成績が上がらない組をまとめてクーデーターを画策。
残り10分くらいになったところで先頭を切って
「終わった」
と大きな声でいった。
その後、成績が上がらない組が次々とテスト終えていき、教室のあちこちで解放感に浸った。
そうすることで学級を崩壊させることを狙ったのである。
中にはまだ問題を解いている人の答案を堂々とのぞいたりして、教室の弛緩を誘った。
残り5分くらいになって、テスト監督をしていたアルバイト大学生から報告を受けた先生が入ってきた。
ミッツ・マングローブは、思い切り頭を殴られた上、そして退室させられ
「お前らの答案は一切採点しない」
といわれた。


「頑張ったのになあ」
虚しさと恥ずかしさでガックリしながら電車に乗った。
家に着き扉を開けると、
「お帰り!
ひと夏よく頑張ったね。
お疲れ様」
母親に笑顔で労われると堰を切ったように涙があふれてきた。
「何よ、何よ。
どうしたの?」
ビックリする母親に嗚咽しながらすべて話した。
するとあんなに優しかった母親は、一瞬で鬼の表情に変わり
「もう知らない。
やめちゃいなさい。
2度と顔もみたくない」
といい捨て、どこかへ行ってしまった。

なんとか夏を乗り切り、その後も勉強に励んだ結果、なんとか400点をとれるようになった。
この頃には
「学校なんてどうでもよくなっちゃった。
学校の授業より塾の方が先に進んでいるし、学校でトップ争いしたり、権力闘争を繰り広げていてもしょうがないやと思うようになったんだよね」
塾が中心となり、学校で
「当時は最も苦手とするタイプの熱血教師、今思い出すと若くてかわいい顔をしていた」
という担任の先生に
「徳光!
学校と塾とどっちが大事なんだ!」
といわれると
「塾です」
と答えた。
「運動会が終わった秋くらいだったかな。
ハミ出し者が嫌われ者になっていくのをヒシヒシと感じた」

「450点とれないと全国で20位以内に入れないみたいなことをいわれたけど、私は450点は1回しか出したことがない。
そのときの順位は全国11~12位くらい」
というミッツ・マングローブだが、それでも慶応義塾中等部に入るのは
「ちょっと難しいんじゃないかな」
と思っていた。
ところが小4の2月から日能研に通い始めて約1年経った小5の1月、突然、父親にロンドンに転勤になったことを告げられた。
受験、進学を含め、
「一緒にロンドンに行くか、よく考えてほしい」
という父親に
(受験しなくていいんだ!)
(400点とか、もうどうでもいいんだ!)
とうれしさいっぱい。
(ダイアナ妃、ビートルズ、大きな帽子をかぶった兵隊、黒いタクシー、2階建てバス・・・)
次々にイギリスのイメージが浮かんできて、聖闘士星矢の超合金で遊んでいた弟に
「ねえ漢字も覚えなくていいし、ファミコンもやり放題のところに行きたくない?」
「何それ。
行きたい!」
「行くんだよ。
ロンドンだよ」
「何、ロンドンて?
駅ビル?」
「それはロンロン。
隣駅のの駅ビル」
兄弟はノリノリで盛り上がった。
こうして家族でイギリスへ引っ越しすることが決定。
慶応受験を回避できたことは、とてつもない解放感だった。

成田、アラスカ、アンカレッジ経由して到着した初めてのロンドンは、どんよりと雨が降っていた。
100坪くらいの庭がある家に引っ越すと、すぐに学校へ。
ロンドン日本学校は、小、中合わせて1000人近くの在英日本人児童が通っていた。
小学6年生の新学期に転校生になったミッツ・マングローブは、密かに
「転校生ならではの神秘性を漂わせた目立ち方」
「好奇と期待の目で注がれる特等感」
を期待していたが、同じような転校生が各クラスに10人近くいたために叶わなかった。
しかも同級生の多くの親が、国家公務員や一流企業の「栄転組」
親の職種、肩書は、無意識に格付けされ、トップは大使館、金融、商社、航空会社がそれに続き、これが子供の立場にも影響し、母親同士の争いなども起こった。

また
「ここ進学塾?」
と思うほど学校全体の偏差値が高く、小学生にして英語を話せる「エリート子女」、「帰国子女予備軍」がわんさかいた。
「バブル真っ只中ですよ、87年っつったら。
1番日本がイケイケドンドンで、しかもイギリスに赴任される社員っていったら出世コースなわけですよ。
そうすると出世コースのエリートサラリーマンの息子、娘たちってムチャクチャ頭がいいのよ。
クラスが40人くらいいたんだけど、そのうちの15人が東大いってんのよ。
日能研に入ったときよりも挫折感がすごくて・・・」
授業も教科書も日本語だったが、クラスの会話や校内のいろいろな場所で知らない英語に遭遇。
週3回ある英会話の授業は、レベルに応じて6クラスに分かれていたが1番下のクラスに入れられ、
密かに描いていた
「謎の転校生、ブッチギリで成績トップ」
というシナリオもなくなってしまった。
年下の日本人の子供が英語をペラペラしゃべっていたり、同学年の女の子と一緒に初めてマクドナルドに入ったとき、
「ハンバーガー」
「フライドポテト」
とオーダーしたがカタカナ言葉がまったく通じず、見かねた女の子が横から注文するのを目の当たりにして強烈な悔しさを感じた。
「自分のできないことをサラリとやってのける子供がたくさんいるという事実。
それが私の闘争心に火をつけた」

「よく『10歳の壁』っていって、語学習得能力は10歳を超えると遅くなるといわれている。
12歳で、しかもほぼ日本語のみの環境にいた私なんか、よほど勉強するなり環境を変えるなりしない限り、いわゆるペラペラの域には達するのは無理だといわれていた。
だからといって、はい、そうですかと引き下がるわけにはいかない。
学校の勉強に関しては生まれてこの方ずっとトップクラスにいた私が、ここまでの追う立場になったのは初めてだった」
どうやったら英語を習得できるのか、わからなかったが、まずは
「私は英語を話せる人間だ」
「私はアイ・キャン・ノット・スピーク・イングリッシュの人ではない」
と自己暗示をかけ続けた。
そして週2回、家庭教師に来てもらい、その日あった出来事からに日本のアイドルのことまで、2、3時間、とにかく英語で話し、フレーズや単語を教わった。
近所の人にも積極的に話しかけ、隣家のドイツ人家族と塀越しに仲良くなることに成功。
学校から帰ってくると毎日、ゲローという名の男の子と遊んだ。
そんな努力や出会いのお陰で、英語力はかなりの速度で上達。
学校の英会話のクラスも、中2の終わりにはトップクラスまで上り詰めた。
「やるだけのことはやった。
それでも現地学校に通ったことのある生徒との差は歴然で、英語が母語になってしまうようなレベルではなかったし、ラジオやテレビを完璧に理解することも難しかった。
やはり日本人として基質が確立されていたということが大きかった。
それこそが10際の壁なんだろうね。
それをブチ破って、いわゆる「人としてのノリ」までネイティブになることは不可能だったし、自分でも望んでいなかった」

イギリスの学校でどんなに偏差値や言葉の壁に打ちのめされても、日本同様、
「権力志向」
「仕切り魂」
は健在。
大きな体と口達者で存在感を示し
「自分なりの価値観や判断基準を育むことができた」
しかし思春期の学校社会で地位を築くために
「下ネタへの適応能力の無さ」
は大きな足かせとなった。
「SOAP」という英単語、工藤静香の「恋一夜」という曲タイトル、日常を取り巻くすべての事象をシモに結びつけ、無限のエロを想像して興奮して喜ぶ周囲の男子、日に日にエスカレートしていくエロ社会についていけなかった。

小さな頃から男の裸に興奮し
「普通ではない」
と自覚していたミッツ・マングローブは、エロに目覚めてから誰にもいえず、ずっと1人で育ててきたため、非常に無知でウブ。
「みんながエロやセックスに興味があるわけではない」
「世の中の7割くらいは誰かを好きになったり恋愛や結婚はしてもセックスなんて一生しない」
「他人の裸に興奮する人間は、普通の人ではなく、男なのに男に興奮する人間は普通ではない人の中でも、さらに普通ではない」
と本気で信じていた。
だから中1になってセックスがどういうものなのか知ると
「私の求めるセックスは、種の保存、子孫繁栄という自然の法則にも、人間の本能にも結びついていない」
「こんなことを周囲に知られていいはずない」
と改めて自分が性においてマイノリティーであることを確認したが、それよりもショックだったのは、
「人間の全員がエロい」
ということだった。

エロを解禁したのは中2。
様々なエロの悩みから救ってくれたのは、父親の本棚にあったマンガと母親が聴いてたカセットテープだった。
マンガの名前は「コージ苑」
相原コージ作、ギャグマンガでありながら哲学、大マジメありで世の中の事象を斬りまくる4コママンガ。
そして母親が聴いていたのは「スネークマンショー」
本来はラジオ音楽番組の名前だったが、先鋭的な選曲と曲間のコメント、コントトークが話題となってアルバム化したもの。
これらを夜通し勉強した結果、
「エロを下ネタとして面白がる」
という感覚をつかみ、一晩で
「下ネタ大王」
が降臨。
周りが驚くほどのエロトークを繰り広げ始めた。
「女のオッパイや女性器の話をしたところで、所詮、他人事。
私自身が興奮しないわけだし、むしろ目の前にいる男子のシャツやパンツの中に興味があるんだからね。
そんな冷静さと客観性がエロ法師として適していたのかもしれない。
ほとばしる欲求をみんなと共有することはできなかったけど」
男好きという自分自身のエロは悟られないようにしたが、誰かが
「森高千里の足がイイ」
「田中美奈子の方がエロい」
というのを聞いて
「イヤッ、1番足がキレイなのはユーミンでしょ」
と通常ではあり得ない正論を披露してしまい、
(痛恨のミス)
と反省することもあった。

同時期、幼馴染の女の子がいる家族が伊勢丹パリ支社に赴任。
週末や連休にロンドンから343㎞離れたパリに行くことがあった。
ある夜、両母親に連れられ、夜のパリをドライブ。
ブローニュの森という大きな公園に通ったとき、公園内の道の両脇におびただしい人が立っていた。
そこはパリ随一の売春地区で、裸に金髪で、毛布1枚羽織っただけの娼婦や女装した男娼もいた。
「サファリパークみたいでしょ?」
「あなたたちもそろそろ、セックスってものが何なのか考えなきゃいけない歳だからね。
よくみておきなさい」
そんな大人たちの声をよそに、ミッツ・マングローブは、とてつもない衝撃を受けていた。
「森の中に立っている人たちをみながら、どこか自分の中にあって、でも開いたことがなかった扉の向こう側をみた気がしたの。
それと同時に突出した性やエロは武器になるんじゃないかって」

同じく中2のとき、高校受験のために「ひのきインターナショナル」という塾に入った。
それはロンドン、香港、台北、シドニー、ニューヨーク、パリ、アムステルダムなど海外に拠点を持つ日本の塾で、イギリスで中学を卒業後、東京に帰ってからも勉強を続け、慶応を受験する体制を整えたのである。
日本はバブル景気真っ只中で、ロンドンに伊勢丹と高島屋が出店し、日本航空に加え、全日空も就航。
ピカデリーサーカス(ロンドン中心の大通りが合流する場所にある円形の公園)の電光掲示板に日本の電機メーカーのロゴが映し出されるのをみて、ミッツ・マングローブは
「今、日本は怖いものなしなんだ」
と思った。
長年、司会を務めた芳村真理の勇退記念として「夜のヒットスタジオ」がパリから生中継されることになったとき、芳村真理の夫と先輩後輩の関係という父親に中森明菜のサインをせがんだ。
芳村真理は
「アキちゃんのね。
任せて。
すぐにもらってきてあげる」
といって八代亜紀のサインを父親に渡し、日本に帰っていった。

その後、日本では「バンドブーム」が到来。
結果、アイドルは衰退していった。
イギリスでもピアノのレッスンを続け、行き帰りのスクールバスで流れるFMで流行りの曲をチェックしながら、中森明菜や工藤静香ではしゃいでいたミッツ・マングローブは、中2のときにプリンセスプリンセスの「Diamond」という曲に遭遇。
「♪好きな服を着てるだけ。
悪いことしてないよ♬」
という歌詞に一気に魅了され、
「この先、これをずっと心に刻みながら生きていくんだろうな」
と思った。
そして以後、何か大事なことがあったり、気合を入れたいときは、必ずこの曲は聴いた。

数ヵ月後の秋、同級生男子5人でバンドを結成。
担当は、キーボード。
ボーカルは、学年一、顔がよく、学年一の悪ガキ。
ギターは、後の生徒会長。
目標は
「3年生の秋の文化祭でライブをする」
で一致していたが、問題は
「何を演るか?」
もっと正確にいうとコピーバンドだったので
「誰のコピーをするか?」
ということだったが、他の4人が
「BOOWY」
をやりたいというので、
「プリプリ」
といい出すことができないまま、決定。
しかしBOOWYにはキーボードがおらず
「徳ちゃんは必要ない」
といわれかねない状況になったので、「さして思い入れもない」BOOWYを聞き込んで、シンセサイザーの音を拾って譜面に起こし、
「この音色がないと雰囲気出ないよ」
と説明。
音楽の知識はバンドで1番あった。
中3の夏休みが終わってもバンド活動にうつつをぬかし、母親に
「いつまでそうやって神輿の上に立ってるつもり?
アンタみたいなのをお人好しのおめでたいヤツっていうんだよ。
いい加減に目を覚ましてちょうだい」
と怒られたが、秋の文化祭のライブまで継続した。
「BOOWYのコピーバンドをやっていたなんて貴重な経験値だよね
やはり男子がいきなりプリプリなんて贅沢したらダメだと思うの。
あそこでBOOWYを経たからこそ、オカマとしての奥ゆかしさが身につけられたんだと思ってる」

文化祭が終わると受験一色の日々が始まった。
中学受験を免れてから4年、2度目の慶応チャレンジ。
3度目、大学受験という手もあるが、
「どうしてもここで決めてしまいたかった。
慶応生にさえなってしまえば、後はどうなろうと私の自由」
そしてその選択肢は3つあった。

・横浜、日吉にある慶応義塾高校
・埼玉県志木市にあるにある志木高校
・アメリカ、ニューヨーク州ウェストチェスター郡にある慶応義塾ニューヨーク学院

慶応義塾高校と志木高校は、共に偏差値76という難関校で
「合格するには、それなりの奇跡が必要な状況」
だった。
一方、慶応義塾ニューヨーク学院は、1年前に開校したばかり。
入試はアメリカの高校と同じシステムで、テストも論文も面接も、すべて英語。
それでいて日本の慶応大学への進学率は9割という打ってつけの学校で合格する自信もあった。
「日本の受験をせずに慶応生になれて、しかも親元を離れてニューヨークで暮らせる。
英語もさらに上達できる上に、3年後には日本に帰れて大学へ行ける。
シナリオとしてはほぼ完璧。
偶然にもギターの生徒会長とドラムの子も受験するのを知り、すでに頭の中は、
『ニューヨークでもバンドができる。
ただしBOOWYはもうやんないよ』
しかなかった」

1990年12月、飛行機でアメリカに飛び、慶応義塾ニューヨーク学院の入試を受け、3人とも合格。
慶応生になるという徳光家の務めを果たし、後は日本に帰って残りの2校を
「記念に」
受けるだけで
「ニューヨークに住んでもブリティッシュな英語を貫こう」
などと意識はすでにアメリカに飛んでいた。
しかし両親に
「ニューヨークは学費が高すぎて行かせられない。
日本の慶応のどちらかに行けるよう、あと2ヵ月頑張れ」
といわれると思い描いていた未来は音を立てて崩れ、
「人でなし!」
と呪った。
イギリスの中学は1月卒業なので、その後は日本に戻って「ひのきインターナショナル」で本気の受験勉強を続けることになった。

1991年1月17日午前0時、多国籍軍がイランに空爆を開始。
(5ヵ月前にイランがクウェートに侵攻して以来、国際社会は徹底の要求と経済制裁を続けていた)
その日はロンドン日本人学校の卒業式、そして日本に帰国する日だった。
母親と弟は、中学受験のためにすでに日本に帰っていたので、ミッツ・マングローブは朝起きて父親とテレビをみて
「アッ・・・」
と言葉を失った。
空港は封鎖されたという情報もある中、中学を卒業。
日本大使館の人に、
「JALが一便だけ飛びます。
ただし空港に入れるのは搭乗する人だけです」
といわれ、父親と別れ、ひのきインターナショナルの先生に引率されて、灯りがほとんど消えた厳戒態勢のヒースロー空港へ。
飛行機に乗り込み、見送りもないまま追い立てられるように4年間過ごしたロンドンを後にした。

帰国すると、そのまま世田谷の塾の寮へ。
ロンドン、香港、台北、シドニー、ニューヨーク、パリ、アムステルダム、各都市の帰国子女が一堂に会し、ほぼ缶詰め状態での勉強が始まった。
期間は、約1ヵ月間。
しかし
「いろんな誘惑に、ほぼ負けた」
というミッツ・マングローブは、成績が上がらず
「このままじゃ本当にヤバい」
と思っていた。
志木高校のテストが1週間後に迫った夜、寮の外で1人の男に話しかけられた。
「君、どこ受験するの?」
「慶応ですけど・・・」
男はNHKのディレクターでドキュメンタリー番組の取材に来ているという。
「どこで放送されるんですか?」
「夕方6時のニュースの「帰国子女たちの受験戦線」という特集コーナーで全国に15分くらい流れます」
ミッツ・マングローブは流れで出演することになり、翌日から密着された。
そして試験日を迎え、テストが終わった直後、それなりの手応えがあったので、カメラに向かって
「奇跡が起きるかもしれませんよ。
フフフッ」
とコメント。
しかし結果は不合格。
やりきれない気持ちで、ディレクターに逆ギレした。

しかしこれでいよいよ後がなくなった。
滑り止めに早稲田高を受ける予定だったが、たとえそれに受かっても慶応大学に入るために、また一から受験勉強しなければいけない。
「それだけは絶対にイヤだ」
そこで考えついたのは、
「慶応以外の可能性を自ら葬ってしまえばいい」
そうすることで仮に慶応義塾高校に落ちて、慶応義塾ニューヨーク学院しか行けるところがなくなっても
「大学受験したり浪人したりするよりも安いか、そんなに変わらないんじゃないか」
そう企むと、すぐに公衆電話から実家に電話。
「滑り止めは受けないから」
母親にそう告げるとすぐに切り、その場で早稲田高の受験票を破り捨てた。
「これで落ちたらニューヨーク」
開き直ると思った以上にスッキリ。
受験の前夜には、さらにスッキリしてしまう。
「前の晩にね、
初体験を、その合宿所でしたのね。
夜中の1~2時くらいまでぐちゅグチュグチュグチュやってね」

そうやって解放したのがよかったのか、慶応義塾高校に合格。
親的にもNHK的も、そして自分的にも最高の終わり方となった。
「いまだ、なぜ受かったのかわからない。
試験問題は、ヤマが外れて全然できなかったし、実は前の日、受験前夜だというのに夜中まで友達とチチクリ合ってたんだよね。
だから寝不足の上、昨夜の初体験のことで頭がいっぱいだった。
そんな男が慶応生になってしまった」
受験が終わってまず真っ先にやったのは、横浜アリーナで行われたプリンセスプリンセスのコンサート。
念願の生Diamondを体験し、高校に入学する日の朝も、この曲を聴いて気合を入れた。
「そうでなきゃ、詰襟の学ランなんか着て電車に乗れない」

慶応義塾高校は、1学年900人近く、18~19クラスもあり、900人×3学年の全員が男というマンモス男子校で、校風は、運動部が幅を利かす縦社会だった。
そんな男の世界の中、偶然、クラスで隣の席になったのが、やたら明るいKだった。
すぐに意気投合し、授業中も休み時間も2人で、クラスメイトや浅野温子のモノマネ、ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」の再現、Winkの振り付けなどを周りにお構いなしでやり続け
た。
しばらくすると教室だけだった2人の活動の場は、カラオケボックスに拡大。
「そこでハッキリ目覚めてしまったんだよね。
歌手だ!って」
ミッツ・マングローブは、歌うことに覚醒。
寝ても覚めても歌がうまくなることばかり考えるようになった。
「DREAMS COME TRUEの吉田美和の声に心をワシ掴みにされ、ホイットニー・ヒューストンの「ボディガード」に打ちのめされた。
美空ひばり、和田アキ子、都はるみ、欧陽菲菲 ・・・日々いろいろな歌手の強い声を勉強しながら、マライア・キャリー、ジャネット・ジャクソンなど来日コンサートに行きまくって、1日中、ベッド・ミドラーごっこをしていることもあった」

「私にとって歌を通して最初に夢をみさせてくれたが中森明菜だとしたら、音楽を演る楽しみを教えてくれたのはプリプリだった。
そして唄うことへの欲求に火をつけてくれたのが吉田美和で、音楽や歌の世界をつくり上げる衝動へ導いてくれたのはユーミンだった。
もう1人、数年ぶりに日本のテレビをつけたらとんでもない衝撃を放つ人がいた。
美川憲一さん。
それまでコロッケさんと一緒に出ている姿なんかはみたことがあったものの、私がいない間に日本のブラウン管は美川さんに席巻されていたの。
親へのお務めも果たし、『ここから先はあらゆるものを解き放っていく毎日だわ!』と心に決めた私を、まるで待っていてくれたかのようだった。
美川さんに魅了され、美川さんに心躍ることこそが、私にとって勇気や希望そのものだったのかもしれない。
学食でラーメンを頼むときも『ちょとアンタ、モヤシ多めに入れてちょうだい』なんれ、あの声と口調をマネしてた。
今も気がつくとやってるし、美川さんから留守番電話なんか入っていようものなら、その場で10回くらい聞いちゃう。
それまで人に悟られないようにしていた自分の普通でない部分に対する、明快な見せ方や切り口みたいなものを美川さんには教えてもらった」

高1の秋、通っていた英語塾のハロウィンパーティーで初めて女装をした。
「とにかく女装癖が大爆発してしまい、あまりの本気具合に周りがドン引きしちゃった。
今と比べたら化粧やスタイリングの技術も全然なかった頃だから、とてつもない汚さだったはずなのに、なぜか冗談にならなかったの。
あの浮かれた空気が一瞬にして凍りついた感じは今でも鮮明に覚えてる」
その後も女装解放欲は高まる一方だったが、文化祭ではKを含むクラスメイトと「カラオケ喫茶」をやった。
その日は男子校である慶応義塾高校に女性が入ることが許され、彼女たちを相手にお茶を出しておしゃべりをして、教壇をステージ代わりに歌謡ショー。
女性に下心がまったくないためにオカマバー的なノリとなり、女性からすれば安心して入れたので売り上げが全校トップ5に入るほど人気だった。

とにかく毎日歌いまくった結果、成績はギリギリ落第を免れるくらいまでに低下。
なんとか高3になるとA組からR組まで18クラスある中、3年P組、略して「3P」になった。
「歌手になる」
と本気で思っているものの、何の根拠もプランもない。
それでも
「勘違い妄想」
は日に日にエスカレートしていき
「そろそろ歌手デビューが決まって、来年当たり紅白に出場する」
と思い込み、わざわざ職員室にいって担任教師に
「そういうことなので大学に進学できなくてもかまいません」
と申告。
後日、職員室に呼ばれ、
「卒業証書は親がお前に買ってくれたものなのだから、それを手にするためでは、たとえ意味がないと思っても学校に通いなさい」
と諭された。
「よくよく考えてみたら慶応大学を出るまでがお務めであって、入っただけでは、それを果たしたことにならないだよね。
ようやく歌と大学は関係ないということに気がついた」

慶應義塾高校の修学旅行は、男子校ならではのノリだった。
行き先は、北海道だったが、
「修学旅行にいく前に、教師がコンドームのつけ方とか教えて。
もう、配る勢いよ」
すすきのでの自由行動は、
「遊ぶ人とウニ丼食べる人たちの2班にわかれたの」
そういうミッツ・マングローブは、何回もお風呂に入った。
「のぞき放題っていえばのぞき放題だったからね。
班にわかれて入るんだけど、忘れ物したとか、班長でタイミング逃したっていって一晩で3回くらい入ってたのよ。
みたい子がいる時間にお風呂にいって」

ミッツ・マングローブは、慶応大学法学部政治学科に進学。
法学部に入ったのは、単に学校側が成績順に振り分けた結果だったが、偶然、Kと同じクラスになった。
「まさかの縁の強さに、しばしばつき合ってるんじゃないかといわれることもあったけど、ふざけて手をつないだことすらない」
そして大学1年の終わり頃、Kの姉に
「多分行ったら2人は楽しいと思う」
と半ば決めつけるようにいわれ、Kと一緒に新宿2丁目へ連れていかれた。
そこには
「みたことないような、みたことあるような男の人や得体のしれない変な人」
がたくさんいた。
彼らと自分が同じなのかはわからなかったが、
「好きなタイプの男の話をしてもいいんだ」
という解放感があった。
こうして見事に20歳で2丁目デビューを果たしたが、ミッツ・マングローブが、本格的に女装をし出しすのは20代半ばで、この頃は、まだ男性的な出で立ちをしていた。
「修平として生きる時間が多かったにも関わらず、男モノの服を買う余裕は金銭的にも気持ち的にもなかった。
だから修平はオシャレを放棄し、古い服をボロボロになっても着続けていた。
服だけでなく男としての趣味、好み、理想などもサッパリなくなってしまっていた」

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