極真分裂.03 他流試合

極真分裂.03 他流試合

大山倍達没後、2年目。一見、クールだが一番ガンコな松井章圭 vs 不屈の男、三瓶啓二。


1995年7月19日午前3時、
「遺言書が却下されたのに居座る松井から力ずくでも総本部を奪い返す」
と三瓶啓二ら十数名の支部長協議会派がガードマンを連れて総本部に乗り込んだ。
中から玄関を開けたのは大山恵喜(次女)だった。
中江辰巳(城西田無支部長)と青木英憲(横浜東支部長)、杉村多一郎ら総本部指導員、内弟子が寝ていたが、大勢の足音で目が覚め、部屋を飛び出し、廊下で増田章、緑健児、三瓶啓二、三好一男、小林功らと鉢合わせた。
中江辰巳はすぐに連絡しようとしたが
「まあまあ」
と三瓶啓二に携帯電話を取り上げられた。
「どういうことですか」
(中江辰巳)
「お前らなんで松井の方にいるの?
遺言書は却下されたんだよ」
(小林功)
「自分は山田先生についていくだけです」
(中江辰巳)
「松井館長を尊敬していますから」
(青木英憲)
小林功は説教を続け、松井章圭を罵倒する三好一男に杉村多一郎が対峙した。
多勢の支部長協議会派は、松井派を一室に軟禁。
水口敏夫(岡山県支部長)らが見張りについた。
中江辰巳が窓から外をみると増田章と目が合った。
(すまない)
増田章は両手を合わせ、三和純はそれをみて笑った。
そして支部長協議会派は会館の入り口のカギを交換。
中江辰巳、青木英憲、杉村多一郎、総本部指導員、内弟子を外に出してから帰っっていった。
帰り際、緑健児は松井派の面々に頭を下げた。
中江辰巳が仕事で九州にいた山田雅捻に連絡。
午前5時、松井章圭が警察を伴い総本部へ。
「当分の間、会館を閉鎖します」
と入り口に張り紙がされていあった。
大山智弥子を呼び出すと
「もうすぐ代理人が来る」
といった。
やがて両方の弁護士が顔を合わせ、松井章圭の依頼により業者がカギは再び交換。
9時からの稽古はいつも通り始まった。

1995年7月25日、遺族派は大山智弥子名義で東京都千代田区の事務所からマスコミにFaxを送った。
「明日13時、極真会館総本部2階で、全国の支部長同席の上、記者会見を行います」
1995年7月26日、
「そんな記者会見認められない」
松井章圭は、遺族派と支部長協議会派が会館に入ることを許さなかった。
揉め続けて30分後、大山智弥子が4階の自宅から降りてきた。
「私のお客さんを自分の家に招いて何がいけないのですか?」
「1階から3階は私が運営しているし道場生の稽古もあります。
どうしても記者会見をするのでしたら、4階のご自宅でやってください」
13時15分、少し遅れて記者会見がスタート。
「こういった場所での会見となり申し訳ございません」
(手塚暢人)
「今まで支部長協議会派とか遺族派というような派閥争い的な形で捉えられていたと思いますが我々の目的はあくまでも組織の一本化です。
健全な組織運営を図るために試行錯誤してきましたが、この度、大山智弥子総裁夫人を極真会館館長および名誉会長という形で定礎に基づき支持いたしました。
遺族派、支部長協議会派の支部長合意のもとに決定したことです」
(西田幸夫)
「このように合流できましたので、遺族派、支部長協議会派ではなく今後は正当な極真会館という形で捉えていただきたいと思います。
「松井派といわれる支部の方もいます。
松井側に属している支部長だってこちらに結集することがあれば当然それは一本化になると思います」
(手塚暢人)
「館長は智弥子夫人と決定しているわけです。
これに賛同する支部長には是非集まってほしいと思います。
松井君は1度会館を出るべきです。
いろいろな方法で出ていってもらうことを考えています。
法的な手段も行いますが、仮にいつまでも出て行かないということであれば、館長の決定次第ではこの建物を壊してしまうこともできるんです」
(三瓶啓二)
14時、会見終了し関係者は会館を出て行った。
15時、三瓶啓二、三好一男、(高知県支部長)、柳渡聖人ら約20名の支部長協議会派が業者と共に再び会館に入り電話、電気、水道を止めた。
松井章圭はすぐに復旧させた。
翌日、「正当な極真会館」は、
「大山智弥子の許可はもらった」
と電話の名義を変更。
松井章圭は業務に支障をきたすのを防ぐために会館近くに新しく事務所を借りることにした。
遺族派と支部長協議会派が合流した組織は、「大山派」と呼ばれた。

合併むかつく

がっぺむかつく

高木薫は支部長協議会派との合流に不満だった。
高木薫は大山倍達の死後、1度も松井章圭の2代目を認めなかったが、支部長協議会派の支部長たちは1度は松井体制を認め、その下で高木薫の除名に賛成した。
「もし合流するなら自分たちが除名された後の出来事は、大会も含めてすべて白紙に戻すべきだ」
とゴネる高木薫をみて三瓶啓二は
「後で何とでもなる」
と手塚暢人ら他の遺族派に働きかけ積極的に合流を進めていった。
合流後、大山派の代表は西田幸夫、副代表は三瓶啓二で、遺族派は誰もポストに就くことはなかった。
「私は合併の話があった時から反対でした。
三瓶という男の本性を知っていたからです。
彼は常に皆の陰に隠れ周囲を欺き陰謀をめぐらす。
私は支部間のテリトリー問題などで散々三瓶の汚さをみてきました。
しかし他の支部長が三瓶の口車に乗ってしまった」
(高木薫)
「三瓶さんはもともと福島テレビの局内に道場を開くことのみを大山総裁に認められていました。
当時の福島県支部長は和気嘉兵衛さんというひとでしたが、三瓶さんの道場開設はテレビ局に限って和気さんも容認していました。
しかし1981年に和気さんが亡くなると、福島県支部は北支部と南支部に分かれ、三瓶さんが北の支部長に私が南の支部長に就任することになりました。
ただちょうど真ん中で分けると会津若松市、郡山市、いわき市など都市部はすべて県南にあり、県北は人口が少なくなってしまいます。
そこで地理的には南に属する白河市を境にテリトリーを分けることで私が譲歩しました。
これは生前の大山総裁が決定したことです。
ところが三瓶さんは総裁の許可なく県南にも道場を広げ始めました。
話が違うと郷田師範に間に入ってもらい改めて地図に線を引いてテリトリーの確認をしました。
そして三瓶さんは1年半から2年の間に私のテリトリーから撤退するという文書を書いてハンコも押しました。
しかし三瓶さんがノラリクラリと撤退しない間に総裁が亡くなってしまった。
遺族派と支部長協議会派が一緒にやっていこうとしているにもかかわらず、今度は勝手に郡山市にも道場を出したのです」
(安済友吉)
西田幸夫は、遺族派と合流することには賛成だった。
しかし遺族を敬い大切にしたいという気持ちはあったが、組織運営に参加するのは絶対に反対だった。
遺族派との合流もあくまで遺族派の支部長と話し合おうとした。
しかし三瓶啓二は、単独で遺族と交渉し、大山智弥子に館長になることを認めさせ、西田幸夫には事後報告した。
西田幸夫は憤慨したがどうしようもなかった。
支部長協議会派の多くの支部長は、大山智弥子が館長になることを歓迎した。
「西田さんが遺族はいらないというのを聞いて支部長協議会派は失敗だと思いました。
総裁あっての極真、極真あっての我々。
遺族を大事にするのは弟子の役目。
空手の父が総裁なら母は奥さん。
だから遺族は絶対に必要だと思いました」
(長谷川一幸)
しかし以後、会議で決定したことを遺族や遺族の意向を受けた三瓶啓二が簡単に覆してしまうことが起こり始めた。
西田幸夫の懸念は的中した。

三瓶啓二は、東京都練馬区上石神井の大山家にも頻繁に出入りし、泊ることもあった。
大山倍達が使っていた箸や茶碗で食事をし、大山倍達のパジャマを着て大山倍達の布団で寝ていた寝た。
大山倍達の愛用していたバスローブを着てビールを飲む三瓶啓二の横には大山喜久子(三女)が寄り添っていた。
妻帯者である三瓶啓二は大山喜久子(三女、独身)と不倫関係になった。
そして大山喜久子(三女)は妊娠した。
大山智弥子はそれを容認していた。
「極真の3代目ができて一安心だわ。
三瓶さんが2代目館長というのがいいんじゃないかしら」
(大山智弥子)
「その事実は私も知っていますよ。
親戚中を巻き込んで大騒動になったんですから・・・
もう何も話したくありません」
(三瓶啓二の妻)
「三瓶さんが大泉の家に居ついている姿は何度もみました。
悪びれる様子もみせず当たり前のように父が着ていたパジャマを着て、父が使っていた茶碗で箸で食べて、父が使っていた茶碗でお茶を飲み、父が使っていた布団で寝ていた。
挙句に妹を妊娠させて。
取り巻き連中を集めてお酒を飲んでドンチャン騒ぎするし、妹は女房気取りでいるし、母親は何もいわず笑っているし、私は何もかもが嫌になりました。
妹を責める気も母親も責める気もなくなって・・・
ただ三瓶さんの行為だけは許せなかった。
不倫ですよ、不倫。
子供までつくって。
私は絶対に天罰が下ると信じています」
(大山恵喜(次女))

1995年8月、雑誌「格闘技通信」が、
「今回の分裂騒動の中で若い指導者の人はどう考えているのか?
松井館長と年齢が近い人の意見を聞きたい」
と緑健児、増田章、七戸康博、桑島保浩(元全日本チャンピオン、香川県支部長)の座談会を掲載。
「総裁がおられたときは1人で決められていた。
でも次は誰になってもどうやって進めていくかというのは考え直さないとダメだと思うんですよ」
(七戸康博)、
「トップが間違いを起こしたときにチェックする機能、審議とか任期がないと・・」
(桑島保浩)
「定礎、規約、ルールをつくってそれを軸にして運営していこうと考えています」
(増田章)
「あの3点(松井章圭の館長解任理由、極真会館の私物化、独断専行、不透明な経理処理)は形式上のもので根っこの部分は、一言でいえば人間関係の崩壊なんです」
(緑健児)
9月、支部長協議会派は、自らの機関紙「月刊 極真魂」を創刊。
一方、竹和也、川畑幸一、三村恭司(大分県支部長)、水口敏夫が支部長協議会派を抜けて松井派に復帰。
1995年9月16日、17日、津浦信彦、大山留壹琴(長女)によって、遺族派と共催を阻まれた支部長協議会派が、東京ベイNKホールで、第12回全日本ウエイト制大会を開催。
7月に大山派となったはずだったが大山智弥子館長は出席しなかった。
極真の名が入った同じ大会が3回行われた行われたことに、
「いつかはまた1つになってくれるだろう」
と期待していたファンは暗い気持ちに襲われた。

1995年9月21日6時30分、内弟子が総本部の掃除をしていると会館前に数台の車が停まった。
その後、20数名の支部長協議会派の若手支部長らは内弟子たちを軟禁。
入り口を封鎖し会館に篭城。
は会館近くで待機。
昼にはマスコミに、
「ご報告 極真会館事務局」
「警告 極新会館議長、西田幸夫」
「声明文 極新会館議長、西田幸夫」
「告 大山倍達遺族代表 大山智弥子」
の4通のFaxが届いた。
・大山智弥子の依頼で西田幸夫を議長とする極真会館の支部長たちが会館を封鎖。
・以後は西田幸夫を議長とする極真会館以外の使用を認めない
という内容だった。
この日は千葉県の清澄山で行われていた世界大会強化合宿の最終日だったが、松井章圭は所用で東京にいた。
連絡を受けて郷田勇三、盧山初雄の両最高顧問に報告。
清澄山の郷田勇三が帰ってくるまで様子をみることを決めた。
しかし盧山初雄は、様子をみるために会館に向かった。
途中、事態を知った山田雅捻、浜井識安も同行した。
到着してみてみると入り口のガラス戸は施錠された上、中にチェーンが巻かれていた。
黒岡八寿、小林功ら数名の姿がみえた。
振り返った黒岡八寿と盧山初雄は目が合ったが、黒岡八寿は気づかぬ振りをして奥にいった。
瞬間、郷田勇三や松井章圭を待っていなければいけないことはわかっていたが盧山初雄は決めた。
(今やらなければダメだ)
ガラス戸をガンガン叩いた。
「コラーッ、貴様ら、ここを開けろ」
相手がいうことを聞かないことがわかると正拳でガラス戸を割ろうと構えた。
あわてて浜井識安が止めた。
「先輩、こっちの窓が開きます」
3人は指導員室の窓から入ったが再び鍵がかかったガラス戸があった。
盧山初雄が前蹴りで蹴破ろうと構えたが
「先輩、ここにバットがあります」
と浜井識安がバットを渡した。
盧山初雄がガラス戸を叩き割ると、支部長協議会派は逃げ出した。
「お前ら、ちょっと待て!」
盧山初雄は、追い討ちをかけたが外に逃げられてしまった。
数名の若手支部長が残っていたが、山田雅捻、浜井識安に
「お前らやばいぞ。
盧山先輩が本気で怒ってる。
早く行け」
と促されると全員が出て行った。
しばらくすると西田幸夫、三瓶啓、緑健児らがやってきた。
「てめえら、この野郎!
お前は館長になりたいんだろう。
このガキが。
お前らもっとおとなしくせんか」
(盧山初雄)
「そんなつもりはありません」
三瓶啓二は、その剣幕に反抗せずに説明を始めた。
やがて松井章圭が現場に到着。
まず盧山初雄をなだめ、三瓶啓二に
「話し合いしましょう」
と働きかけた。
三瓶啓二は応じたが、しばらくすると
「話にならない」
と帰ろうとした。
帰り際、柳渡聖人は松井章圭にいった。
「松井、本部時代、お前の面倒を見てやったじゃないか」
「面倒を見てくれた人がどうしてこんなことまでするんですか」
怒って松井章圭に詰め寄ろうとする柳渡聖人を山田雅捻が制した。

分裂騒動に心を痛めていた三宅進、斉藤英毅、松尾悟という松井派の3長老が
「今日、社会的評価を広く低落させている極真の危機につき、時期を逸し遅きに失しましたが、一大決意を持って立ち上がりました。
『己を滅して他を益せよ』
『切磋琢磨して和合せよ』
これは極真精神の真髄を顕す象徴的な言葉であります。
怨讐を越えて謙虚の美徳を実践するときではありませんか」
と全国の松井派、大山派の支部長に通知。
大山智弥子の捺印つき「委任状」と具体的な解決案を示す「改革原案」も同封し、
「自分達3人に和解調停と改革を委任するかどうか、至急、連絡してほしい」
とした。
大山智弥子は大山派の館長でありながら3人の差し出した委任状に快く印鑑を押していた。
三宅進は、戦後の焼け野原で稽古する大山倍達、待田京介らと出会った。
大山倍達に興味を持って、その後も稽古を見学しに行ったが入門は断り続けた。
47歳のときに仕事の得意先の友人から道着をプレゼントされ極真会館へ入門。
血気盛んな若者が中心の道場で異色の存在だった。
黒帯を取ったとき
「私は、極真の中で一番弱い黒帯です」
といい、52歳のとき合宿で行われたマラソン大会で250人中16位になった。
婦人之友社の社長となったときに大山倍達に
「君の雑誌に私の特集記事を出してもらえんかね?」
と聞かれ道場では
「押忍(Yes)」
としかいわなかったが
「ダメです」
とキッパリ断った。
以降、大山倍達からの相談事が多くなり、昇段審査会では隣の席に座った。
3人の呼びかけに、高木薫ら遺族派と松井章圭たち松井派は、細かい部分で不満や修正点を挙げつつも和解には賛成。
三瓶啓二ら支部長協議会派は和解に反対した。
その後、3人は3派を和解させるべく動いたが、活動の過程で各派を以下のように分析した。

遺族派
有力な支部長がおらず、松井派支部長協議会派との連携も、遺族からの支持もなく、極真を引っ張っていく力量も継承する根拠もない。

松井派
有力紙部長に支持され、一致団結して取り組んでいる。

協議会派
1/3以下の強硬派、残る2/3が良識、穏健派に分かれている。

そして最終的に以下のように全国の支部長に通知した。
「我々長老有志は、松井館長支持を決定しました。
松井派は極真再建のために新支部開設プランがありますが、和解のときは中止になりますので早急に和解行動されますよう・・・」

K-1、UFC、総合格闘技、世は空前の格闘技ブームだった。
「極真も地上波で放映しなければ時代に乗り遅れてしまう」
松井章圭は、各テレビ局や新聞各社を駆け回り、テレビ朝日と日刊スポーツと提携を確定していた。
第6回世界大会まで日刊スポーツがシリーズで記事を掲載し、大会はテレビ朝日が特番で放映される予定だっだ。
しかし分裂騒動によって契約直前で白紙化。
そこでフジテレビのプロデューサーであり極真の門下生でもある立川善久の働きで、急遽、フジテレビの地上波での放映が決まった。
その後、立川善久は「フジテレビ格闘技委員会」というプロジェクトを立ち上げ、その会長になったのが、専務で、「ライヴUFO」というK-1の第1回目放送を企画した出間廸男だった。
後に出間廸男は松井章圭に極真のK-1参戦を要請することになる。
1995年11月3、4、5日、東京体育館で第6回世界大会が開催され、
「極真」
と書道家:野呂雅峰が書いた20畳の大きさの布が東京体育館の天井に吊り下げられた。
世界大会は、
4年に1度、3日間かけて行われるビックトーナメントだった。
開会式には168名の選手が勢ぞろい。
優勝するには8回勝たないといけない。
「八巻、格好つけるなよ。
世界大会だと必要以上に気負って自意識過剰になりやすい。
それで実力を出し切れず負けてしまう選手が多いんだ。
俺もそうだったよ」
廣重毅は第2回世界大会で足刀の試割で失敗し3回戦で判定負けした経験から弟子のおごりと油断を戒めた。
そして城南支部のメンバーは選手をガードし、飲み物や食べ物への薬物混入を防ぐために管理した。
2日目、フランシスコ・フィリョが試合場に初登場。
183cm、108kg、上腕は丸太のように太い。
スティーブン・クラーン(イギリス)はしゃにむに突っ掛けていった。
フランシスコ・フィリョは冷静に相手を捌き、数発の中段回し蹴りで圧倒し3-0で判定勝ち。
4年前の世界大会より体が厚みを増し、組み手もドッシリと腰が落ちて安定感を増してた。
2日目を終えて、空手母国の威信にかけて王者を死守せんとする日本人選手が2人が敗れた。
3日目、東京体育館は10時の開場と共に12000人で満員になった。
試合前、32人の選手にドーピング検査が行われた。
松井章圭は、氷柱を裏拳で割る演武を行った。
4回戦で外国人特有のパワーや多彩な技に日本人選手の敗退が続出した。
瀬戸口雅昭はポーランドのユーゲウス・ダデズダフに判定負け。
高尾正紀はブラジルのルシアーノ・バジレに判定負け。
成嶋竜はオーストラリアのギャリー・オニールに判定負け。
中量級王者の青木英憲は大きなフランシスコ・フィリョに前蹴り1発で場外のカメラマン席まで吹っ飛ばされた。
フランシスコ・フィリョと同じブラジル支部のグラウベ・フェイトーザもシュナーベルトを膝蹴りで一蹴した。
5回戦、八巻建志は、杉村多一郎が左目の上を13針縫う大ケガを負って棄権したため不戦勝。
田村悦宏がブラジルのルシアーノ・バジレに破れ、岩崎達也はギャリー・オニールに破れ、池田政人はフランシスコ・フィリョの重い突きを叩き込まれ右下段回し蹴りで1本負け。
高久昌義はニコラス・ペタスに技ありを取られて負け、市村直樹はグラウベ・フェイトーザに顎に高角度の蹴りを何発も食らい判定負け。
5回戦を終えベスト8が決まった。
日本人選手が3人。
ブラジル選手が3人。
日本代表は16名が出場していたが、ブラジルは代表枠4人中3人が生き残っていた。

準々決勝で八巻建志と黒澤浩樹が対戦した。
松井章圭と同年齢の黒澤浩樹は、準々決勝までの4試合を延長戦は1つもなく本戦で決め、技ありを2つとっての1本勝ちが2つあった。
八巻建志の前蹴りと黒澤浩樹の下段回し蹴り、両者一歩も引かず打ち合い、本戦を終え、延長かとも思われたが旗が3本上がり判定で八巻建志が勝った。
2人は歩み寄って握手を交わした。
「次も頑張ってください」
「ありがとうございます」
試合場を下りた後、花道を引き上げながら格闘マシンは泣いた。
最後の戦いと決意し挑んだ世界大会。
しかしその結果は中途半端で不完全燃焼なものだった。
本来は延長戦だったが、黒澤浩樹より若く、より優勝が期待できる八巻建志をできるだけ少ないダメージで勝たせたいという意向があったのかもしれない。
空手母国の威信を守るために日本人同士の潰し合いはマイナスだったのかもしれない。
しかし他の国からみれば、それはアンフェアでダーティーな行為であり、なによりも黒澤浩樹にとっては人生を破壊されるような行為だった。
やはり決着がつくまでやるべきだった。
次に数見肇が「雷帝」グラウベ・フェイトーザと対戦。
遠い間合いで勝ち目のない数見は、城南支部独特の練り足で腰を落としたまま滑らかに入って突きと下段回し蹴りを狙った。
グラウベ・フェイトーザは高角度の膝蹴りを突き上げ、数見肇がかわすと突きをラッシュし渾身の中段回し蹴り。
「ドカンッ」
凄まじい音が響いた。
前半は雷帝が台風のような猛攻で圧倒したが、後半に入って数見肇がコツコツ当てていた下段回し蹴りが効き始め、195cmの巨体がみるみる失速し左右に揺れだした。
数見肇は確実に攻撃をヒットさせていった。
グラウベはベタ足になりながらも懸命に攻撃。
本戦では決着がつかず延長に入り、明らかにダメージがあるグラウベ・フェイトーザの脚を数見肇は外科医のように情け容赦なく蹴った。
グラウベ・フェイトーザは必死に踏ん張り1発逆転を狙った左膝を突き上げる。
数見肇は見切り軸である右足を蹴った。
グラウベ・フェイトーザの意志を断ち切ろうと数見肇は左下段回蹴りを連打。
グラウベ・フェイトーザはマットに両手をついた。
「技あり!」
立ち上がり脚を引きずるグラウベ・フェイトーザに数見肇はとどめのラッシュ。
グラウベ・フェイトーザは敵に背中を向けてしまった。
「一本」

準決勝第1試合は、八巻建志 vs ギャリー・オニール。
変幻自在なステップワークからスピーディーで大胆な攻撃を仕掛ける「鳥人」と一撃必殺の破壊力を持つ「不沈艦」の対決だったが、踵落としを出したギャリー・オニールの顔面に八巻建志が上段前蹴りを突き刺した。
そして下段回し蹴りで脚を潰し、ボディをパンチで突き上げ、さらに左右の下段回し蹴りを入れた。
2分間の延長戦の末、5-0で八巻建志が勝った。
ギャリー・オニールは苦笑いを浮かべ握手を求め、2人はがっちりと握手した。
八巻建志が通路を引き上げていくと前から数見肇が歩いてきた。
「数見、決勝で待っているぞ」
「押忍」
準決勝第2試合、フランシスコ・フィリョ vs 数見肇。
数見肇の左下段回し蹴りを左脚の内側に受けたフランシスコ・フィリョはムッとした表情で猛烈な正拳ラッシュから膝蹴りで数見肇を場外まで押し出した。
フランシスコ・フィリョは巨大なハリケーンのように並外れたパワーで蹴りを上段と中段に繰り出した。
数見肇は、それを紙一重、ドンピシャのタイミングでい下段回し蹴りで迎え撃った。
フランシスコ・フィリョは左脚をひきずりながら攻撃。
数見肇は下段回し蹴りと突きを情け容赦なく叩き込んだが、再延長戦も終了。
熱狂していた会場が静まり固唾を呑んで判定を待った。
審判の旗が3本以上、上がれば勝者が決まる。
しかし数見肇に2本上がるも引き分け。
体重判定も、フランシスコ・フィリョが103.5kg、数見肇が97.5kgで有効となる10Kg以上の差はなく引き分け。
決着は試し割り判定に持ち込まれた。
「フランシスコ・フィリオ選手22枚
数見 肇 選手24枚」
場内アナウンスが告げられると会場は再び大歓声に包まれた。
わずか2枚の杉板が明暗を分けた。
城南支部の控え室では、決勝戦まで体を休めるために先輩後輩が並んで寝ていた。
いつもならコメントを競って求めるマスコミ陣も、異様な光景をみているだけだった。
「ビリビリしたカミソリが飛び交うような緊張感が漂っていてとてもコメントなんか取れません。
同門の2人がこれから世界大会の決勝戦を戦うのに同じ控え室でしかも並んで横になっている。
あんな異様な雰囲気は初めてでした」
八巻建志はケガが慢性化している両足首をアイシングしてテーピングしたかったが、数見肇がいるため、素知らぬ顔でま寝ていた。
そんな控え室に廣重毅が入ってきた。
柔らかな笑顔で
「これは168名のファイナルマッチなんだ。
彼らの代表と思って戦って欲しい。
先輩後輩の意識は捨てて・・・・
そうだね。
悔いのない戦い、みる者を感動させる戦いを期待しています。
試合が終わったらいつもの2人に戻るんだから・・・
頑張ってください」

「ゼッケン21番、八巻建志、ニッポン」
場内アナウンスが鳴った。
「オッシャ!」
八巻建志は気合を入れて試合場に上がり強く拳を握った。
(ケガを恐れる必要なない。
力の限り叩きこんでやる)
数見肇は静かな表情でスクッと立っていた。
八巻建志、187cm103kg。
数見肇、180cm97kg。
2人とも筋肉の鎧をまとっていた。
礼が終わり、主審の「ハジメッ」を待っているとき八巻建志が軽く頷いた。
すると数見肇も頷いた。
本戦終盤、数見肇の左中段前蹴りを八巻建志は左腕で蹴り足をなぎ払い右フックをボディに打ち込んだ。
「ウッ」
数見肇がガクッと落ちた。
それでも正拳連打、前蹴りと反撃に転じた。
だが明らかにそのスピード・威力は落ちている。
八巻建志は構わず前に出て、前蹴り、下段回し蹴り、ボディに下突き。
数見肇は前蹴りで応戦。
八巻建志は再びそれを左腕で払い数見肇の左脇腹に全体重を乗せた強烈な右フックを打ち込んだ。
数見肇の動きが止まった。
八巻建志は前蹴り、右下段回し蹴り、正拳連打、そして再度、右下段回し蹴りと一気に攻め立てた。
容赦ない攻撃を受け、数見肇は苦悶の表情でたまらず後退。
そして本戦終了を告げる太鼓が鳴った。
八巻建志が本戦で3-0で勝ち、世界の頂点に立った。
第6回世界大会は、最終日に12000人、3日間で合計24000人の入場者数を記録し、大成功に終わった。
1995年11月6日、大会翌日、メトロポリタンホテルで全国紙部長会議が行われ、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄は支部長らの労をねぎらった。
そして大山派から復帰した数名の支部長を発表。
彼らはこれまでの経緯と今後の決意を述べた。

数日後、廣重毅は城南支部を「中立」から完全に「松井派」に所属することを決めた。
中立といいながらも一部の分支部長や指導員たちは公然と支部長協議派として活動を行っていた。
1995年11月中旬、城南支部蓮田道場に分支部長、指導員、選手クラスの黒帯を集め、
「私は松井派に行くことを決めました」
と自分の思いを告げた。
そして迷う人間もいるだろうと
「1週間後に各自の結論を出してくれ」
といった。
すると八巻建志、岩崎達也、数見肇、塚本徳臣らがすぐに
「自分は師範についていきます」
といった。
1週間後、
「みんな決めたか?」
廣重毅が聞くと
「押忍。
自分は師範の『死ぬとき後悔しないために支部長達とこの道を選んだ』という言葉を胸にまっしぐらに今日まで進んでまいりました。
自分は今でもそれが本音であると信じています。
自分は今後、支部長方と自分が信じた道を行きたいと思います。
師範の城南支部に負けないような強い道場、強い選手を育てるため頑張っていきます。
長い間お世話になりました。
押忍」
入来武久、木波利紀らは一礼して去った。
廣重毅はうなずいただけで黙って見送った。
「自分は師範についていきます。
でも世界大会には出させてください。
大会が終わったら必ず戻ります」
大山派の世界大会へ出場が決まっていた塚本徳臣はそういった。

1995年11月24日、大山派が世界大会に向けて強化合宿を行った。
日本代表は
松井派の全日本大会でベスト8に入った5名
大山派の全日本ウエイト制大会で入賞した5名
支部長推薦で選ばれた6名
の16名が選ばれた。
遺族派の大会の入賞者は選ばれなかった。
1996年1月11日、松井章圭を総本部から追い出すことをあきらめた大山派が東京都新宿の小川町に「国際武道センター」を設立。
西田幸夫、三瓶啓二ら30数名で道場開きと初稽古を行った。
大山智弥子館長も、高木薫ら遺族派は1人も参加していなかった。
1996年1月27、28日、大山派が第6回世界大会を開催。
大山智弥子館長は着物を着て出席していたが、高木薫ら遺族派の姿はなかった。
「協力してほしいといわれました。
世界大会で審判をしてほしい、チケットを買ってほしい、新しくつくった道着を買ってほしいと。
審判はできないけれど大山智弥子館長を囲んで大会に行く形なら参加できると連絡しましたが、調整の中で一緒にやろうという気持ちは感じられませんした」
(高木薫)
数見肇は会場で、城南支部の塚本徳臣や川原穂樹を応援。
塚本徳臣が「マッハ蹴り」で、史上最年少、初出場初優勝を果たし、城南支部が松井派、大山派の2つの世界大会でチャンピオンとなった。
優勝インタビューで
「誰に優勝の喜びを伝えたいですか?」
と聞かれ
「師範に・・・」
と答えた。
その後、大山派は、6月に第13回全日本ウエイト制大会、8月に第1回全日本女子大会、第2回全日本ジュニア大会、10月に第28回全日本大会を行うと発表。
「世界大会には大会が終わったら必ず戻ります」
塚本徳臣は廣重毅にそういっていたが、緑健児は許さなかった。
こうして廣重毅、八巻建志、岩崎達也、数見肇らは松井派、緑健児、塚本徳臣たちは大山派(支部長協議会派)、城南支部は完全に分裂してしまった。

1996年、支部長協議会派との和解を断念した後、数で負けていた松井派は、分裂前に分支部長や指導員だった者を支部長に抜擢し、支部長協議会派の代表、西田幸夫と副代表の三瓶啓二のテリトリーをはじめ全国に送り出し新支部を設立させた。
支部長協議会派は遺族派と合流して大山派となったが、松井派は支部数で勝った。
松井章圭はさらに改革を進め、分裂の引き金となった「会員制度」を導入した。
支部は、入門者のすべての道場生と入門者をコンピューター登録。
総本部と支部のコンピューターはオンラインで結ばれ、情報を共有。
登録された道場生は、年会費と月会費を払い、写真つき会員証カードや、会報、グッズの割引販売、再入門時の入会費の免除などのサービスなどを受けられる。
年会費は、総本部が100%徴収。
月会費は、総本部が一括回収し、数%を徴収した後に各支部に戻される。
これにより運営資金、会員数や会員の情報を確保した。
黒澤浩樹は、実家の駐車場を道場にすることを考え、両親は東京都に売却する予定だったその土地を数千万円という税金を払ってキープしていたが、第6回世界大会後、大山派だった廣重毅が松井派に戻ってきたことで
「もう道場は出せない」
といわれた。
納得できない黒澤浩樹に、山田雅稔は
「黒澤、品川もいいけど名古屋で道場やらないか」
といい、松井章圭は
「ぼくは知らない」
といった。
黒澤浩樹は両親に申し訳なく「極真」とか「松井」と聞くと拒否反応が出て眠れなくなり鬱病のような状態になった。
それでも稽古とトレーニングだけは続けた。
しかし試合に出たいという気持ちは失せていた。
大山倍達がいなくなった後、極真は変わってしまったと感じていた。
試合場でも一部の支部長はハイヤーの送迎つきになり、弁当も豪華なものが配られた。
「誰がこんなことしてるんだ」
黒澤浩樹は怒り
「こっちで一緒に食べようと」
と誘われても断って、若い支部長や指導員たちと一緒にロークラスの弁当を食べた。
試合を観戦しながら酒や女の話をしている支部長もいた。
大山倍達がいた頃には考えられないことだった。

1996年1月27日、松井派が、アメリカ・ニューヨークのハンターカレッジ体育館で、第1回女子世界大会を開催。
体重無差別級、直接打撃制によるKO(ノックアウト)で勝者を決するという極真空手の試合は、女子には危険すぎると
これまで大きな大会は開かれてこなかったが、
・体重無差別級は行わず体重階級別で行う
・チェストガード、膝・脛サポーター、マウスピースなど防具の着用を認める
・試合時間は本戦2分、延長戦1分(男子は本戦3分、延長戦2分)と短くする
と安全面に強化され行われた。
それまで女子や壮年の人間が極真に入門するのはかなり勇気が必要だったが、1996年以降、急速に少年部、女子部、壮年部などの入会者が増えた。
松井章圭は、型の全日本大会、壮年部の全日本大会、大学生の全日本大会など、組手だけだった大会の幅を広げて増やした。
また入澤群(総本部指導員) vs グラウベ・フェイトーザ(ブラジル支部)のワンマッチも行われた。
トーナメントが主流だった極真で、これも大きな改革であり挑戦だった。
「トーナメントの宿命として対戦相手を選べないことや勝ち上がれば上がるほどダメージが蓄積され万全の状態で戦うことが困難になるなどマイナス点があることは歪めません。
私もそうでしたが選手であれば誰もが「あの選手とベストな状態で戦ってみたい」という願望を持っているものです。
またまだまだ戦える実力はあっても数試合勝ち抜かないといけないトーナメント戦は、ある程度の年齢になると難しくなってくる。
しかし1発勝負のワンマッチであれば戦える選手はたくさんいます」
(松井章圭)
1996年2月、松井派の「極真空手」第4号が出版。
これまで
1995年7月(第1号)、
1995年9月(第2号)、
1995年11月(第3号)、
1996年2月(第4号)
とほぼ隔月ペースで発刊され続けてきたが、これが最後となった。
廃刊の理由は大山留壹琴(長女)だった。
大山留壹琴は、学研の上層部には手紙を、現場にはFaxを送り続け、抗議し続けた。
訴訟を起こされることを恐れた学習研究社は廃刊を決めた。
1996年4月25日午前、松井派が総本部道場において、大山倍達の2年祭を行い、国内外の支部長、指導員、選手、60名が集まった。
午後、大山倍達が山籠もりをしたという千葉県の清澄山でも霊祭が行われた。
翌日の4月26日、大山派が国際武道センターで大山倍達の2年祭を行い、大山智弥子、大山恵喜(次女)、大山喜久子(三女)ら50名が集まった。
遺骨を持った大山智弥子は
「極真会館の象徴的な場所は池袋です。
なんとか総裁を池袋付近の立派な場所で眠らせてあげたい」
といった。
大山倍達の墓はまだ建っていなかった。

1996年7月、
「K-1に選手を出してくれないか」
とフジテレビの出間廸男が松井章圭に要請。
松井章圭は、石井和義が館長を務める正道会館は大山倍達が絶縁している団体なのでと断った。
しかし出間廸男は再度、要請。
出間廸男をはさんで松井章圭が上座、石井和義が下座に座り、会談が行われたが、様々な問題があって話は進まなかった。
しかしブラジルのフランシスコ・フィリョはK-1出場を望んでいた。
「極真は武道空手である。
断じてショー空手であってはいけない。
その信念は昔から変わりません。
ただ武士は食わねど高楊枝とはいいますが現実も考えないといけない。
1990年代のブラジルは深刻な不況下にありました。
フィリョは親兄弟を養わなければならない個人的な事情があり、道場を持たせ新支部を開かせるというだけでは不十分でした。
師として不甲斐ない話ですがフィリョは空手で生活できないならボクシングに転向するといってドイツのジムにいってしまった。
ドイツでプロの資格を取りボクシングのヘビー級チャンピオンを目指すというんです。
そんなとき極真にK-1から協力依頼がきているという話を聞きました」
(磯部清次、ブラジル支部長)
磯部清次から話を聞いた松井章圭はヨーロッパ出張の際、ドイツに足をのばした。
フランシスコ・フィリョは
「空手は続けたいし極真はやめたくない。
だからK-1には出られない。
でもそれでは生活ができない。
残された道はボクシングしかない」
と訴えた。
フランシスコ・フィリョのような多くの選手の窮状。
恩あるフジテレビからの依頼。
テレビ局を味方につければ分裂騒動、大山派との争いに大きく有利になること。
サム・グレコもアンディ・フグも元極真、ピーター・アーツやアーネスト・ホースのキックボクシングの師匠や師匠の師匠は極真OB、ミルコ・クロコップは20歳の頃に総本部で修業したことがあるなどK-1で活躍する選手が極真をルーツにしていること。
極真の今後。
松井章圭は
「K-1と絡まざる得ない」
と思い始めた。
またそうなると正道会館との絶縁を解消しなくてはならないが
「だからといって正道会館とだけ手打ちをするわけにはいかない」
「極真を破門・除名された先輩方は誰一人、極真の看板を掲げずに独力で道を歩んでおられる。
建前は別に総裁がいかなる理由で破門・除名にされたかわからない例もいくつもある。
かつて極真の発展に尽力された先輩方と先代時代の取り決めだけでお付き合いできない。
そんなしがらみを引き継いでいいのか?」
そして
「今回の正道との問題を機に総裁時代の除名・破門を解いてしまおう。
それが新しい極真会館のあり方だ」
と決め、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安、山田雅捻、廣重毅らに相談した。

アメリカは、五来克仁ニューヨーク支部長の働きかけもあって、多くの支部長が松井章圭を支持していた。
大山派は、自分たちの考えを聞いてもらおうと西田幸夫の派遣を決めた。
そしてアメリカの支部長にニューヨークで会議を行うと連絡した。
支部長協議会派の話を聞こうと集まったアメリカの支部長たちの前に現れたのは、三瓶啓二と大山喜久子(三女)だった。
大山喜久子は通訳として同行していたが、大山道場時代に入門し、極真会館となってからは総本部筆頭指導員を務め、1971年にアメリカに派遣され、1985年に当時の最高段位7段を大山倍達に允許され、分裂騒動後、早くから支部長協議会派だった金村清次は
「2人はまるで夫婦のようだった」
という。
三瓶啓二は
「私はマス大山の息子」
「私はマス大山の孫の父親」
といった。
そして
「だから私は正当な極真会館の代表」
といったが、大山喜久子は「代表」を2代目」と英訳した。
金村清次を含めて日本語もわかる支部長は三瓶啓二はもちろん、大山喜久子にも不信感を覚えた。
「私は以前から、三瓶君が総裁の住んでいた大泉の家に寝泊りして喜久子さんを女房扱いしているとか、総裁が生前愛用していたバスローブを着てビールを飲んでいたという話を聞いてはいましたが、単なる噂だと思っていました。
しかしあの2人の姿をみて驚きを隠せません。
日本では絶対にバレないようにしていたのでしょうが海外ということで気が緩んだのか、それとも「俺こそが総裁の後継者だ」ということを外国の支部長たちに印象付けようという計算があったのかはわかりません。
中南米の支部を回ったときも三瓶君は喜久子さんを同行させてニューヨークと同じような発言をしていたようです。
何人もの支部長から、「あの2人は夫婦なのか」とか、「結婚して三瓶が2代目館長になるのか」などと何度も質問されました。」
(金村清次)
西田幸夫は自分がアメリカにいくつもりだったが、その後、場所も日時も知らされないまま、三瓶啓二と大山喜久子(三女)が会議を行ったことを聞いた。

1996年8月、遺族派が、津浦信彦とその妻であり大山倍達の長女、留壹琴と共に大阪府立体育館で第13回ウエイト制大会を開催。
これによって合流して大山派となったはずの支部長協議会派と遺族派が再び分かれたことが発覚。
また大山智弥子館長が、この大会に不参加だったため、支部長協議会派に残ったことがわかった。
ガンに闘病中の大山留壹琴(長女)、夫の津浦信彦も不参加だった。
支部長協議会派と遺族派は再び分かれた。
高木薫ら遺族派は、筋を重んじ大義名分をもって遺族を立て、行動を共にしてきた。
それに対して支部長協議会派は、大山智弥子を館長にして権威を手に入れるために遺族派と合流した。
遺族を権力道具としかみていない支部長協議会派と高木薫がうまくいくはずがなく、頻繁に衝突を繰り返した。
「みんながみんなご遺族を道具と考えていたわけではありません。
ご遺族や遺族派の方々を利用することだけを目的に行動していたのは三瓶師範ら一部のグループのみで、西田師範はご遺族を松井派との闘争に巻き込むことを嫌っていたし、組織運営に取り込むことも極真に家族を一切関与させないという大山総裁の意志を尊重して消極的。
でした。
しかしご遺族との関係を良好に保とうという気持ちは誰よりも強かったし遺族派との協力も真剣に進めようとしていました。」
(坂本恵義、支部長協議会派)
この後、自分の知らないところで三瓶啓二と交渉し支部長協議会派との合流を主導した手塚暢人に対して不満を抱いていた高木薫が遺族派を離脱。
手塚暢人が代表となって10名ほどで活動を続けたが、数年後、松島良一、桝田博らが抜けた。
こうして遺族派は「手塚派」「松島派」に分かれ、全日本大会、世界大会を開いたが、その規模は極真会館の地方大会にも及ばなかった。
1996年9月、松井章圭は、各支部が発行していた昇級昇段認定証を総本部発行で統一。
会員登録をしていない道場生は認定を受けられなくなった。
1996年9月21日、大山留壹琴(長女)が、父親と同じ肺ガンのため、49歳で亡くなった。
津浦信彦は、この後、遺族派、支部長協議会派、松井派、いずれにも属さず独自の活動を続けていった。

1996年9月25日、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、廣重毅、磯部清次、フランシスコ・フィリョが極真会館総本部で記者会見を行った。
「我々は過去、極真会館として公式に行われた除名、破門、また絶縁といった処分を解消する決定をいたしました。
ただ破門、除名、絶縁後も「極真」という名称を使用している団体は該当しません。
空手界の大同団結は大山総裁が生前からいわれていることもあり、私たちにとっても大きなテーマでした。
もちろん過去の経緯をきちんと整理した形で処理し対処していかなくてはいけませんが、基本的には門戸を開いて空手界の発展のためにお互いに切磋琢磨していきたいと思っています。
昨年の分裂騒動以来大同団結どころか極真本体が問題を抱えていましたが、いろいろと活動していく中でさまざまな団体・流派の諸先輩方からプライベートな形で応援をいただき、組織的にまとまってきた今、過去の経緯を解消する決定をしました。
ただ先方の方々あってのことなので、こちらの一方的な形になってはいけません。
まず我々の姿勢として門戸を開放して過去の経緯を解消していきたいという意思表示をしたということです。
その他の発表事項としては、世界ウエイト制大会の開催やランキング制の導入、ワンマッチ方式の試合などを行っていく予定です」
またプロ化、プロ格闘技への参戦について
「極真会館として他団体と交流する計画は今のところありません。
プロ団体のリングを借りてワンマッチを行うこともないと思います。
ただ選手が自分の活躍を求めていろいろなリングに上がることは常識が許せる範囲で応援していきたいと考えています」
K-1への参戦について
「可能性は十分あると思います」
今後の極真について
「極真こそ世界最強ということは常に理想として追いかけなければいけません。
ただ現在社会にあって、いろいろな形で社会貢献していくこと、組織を拡大していくことも目標の1つである。
その上で女子の大会が始まり、少年たちの活躍の場を設けていきます。
また4年に1度の世界大会、世界ウエイト制大会も、ある意味で空手を通じた国際交流という見方ができます。
空手道として最強を目指して実戦性を追求するという理念を忘れずに側面では競技性を高めていく必要もありません。
その中で最高であり最良の空手を目指していくことです。
ケンカ空手という代名詞からわかるように極真空手は一部の人しかできない特権的なものというイメージが強かったと思います。
しかし今後は老若男女を問わず目的に応じた自己啓発の場としていかなくてはいけないでしょう」
会見は、盧山初雄の発言で終わった。
「最後に1つ付け加えさせていただきますが、我々は極真会館ならびに格闘技界のさらなる発展を心から願っているということです。
また21世紀を目前に極真が大きく変質することはあり得ない。
大山総裁が創られたこの極真という組織を我々は完成に向かって発展させていかなければなりません。
今日の記者会見を通じて、この先、極真が大きく色を変えてしまうものではないことをくれぐれも理化していただきたいと思います。
あくまでも極真は武道空手としての道を目指すのであって、プロ化、ショーアップされた世界に進もうとしているのではないことは理解してください」
松井章圭はうなずいた。
大山倍達は、
「極真は武道空手である。
断じてショー空手であってはいけない」
といい、弟子がプロの大会に出ることを許さず、違反者は破門、除名された。
浜井識安、山田雅捻、廣重毅らはプロ化に肯定的だったが、郷田雄三、盧山初雄の両最高顧問もプロ化やプロ格闘技とかかわりを持つことに反対だった。
「私の目の黒いうちは正道やK-1と関係は持たない。
それが大山総裁の意志」
(郷田雄三)
「大山総裁の生前と時代も違いますから門戸を開放して他団体と交流を深めていくことには異議はありませんでした。
極真所属選手の他団体への参戦についてもルールの問題はあるにしろ選手の選択枝を広げるという意味では必要なことだとも思います。
井の中の蛙はいけませんから。
しかし極真会館はアマチュア団体であり、武道を提唱している以上、組織としてプロ団体とは一線を画すべきだというのが私の信念であり、亡き大山総裁の意志だと信じています」
(盧山初雄)

1996年10月16日、東京高等裁判所は、松井章圭らの控訴を棄却。
大山倍達の遺言書は無効となった。
1996年10月24日、大山派が東京プリンスホテルで記者会見を開いた。
大山智弥子を中央に、西田幸夫、三瓶啓二、三好一男、大濱博幸、小林功が並び、松井章圭に館長と名乗ることをやめ、総本部を返還することを要求した。
1996年10月26日、松井章圭、郷田雄三、山田雅捻、廣重毅が総本部で記者会見。
松井章圭は、
「最高裁判所に特別抗告する手続きを進めています。
裁判はあくまで遺言書の立会人の方々と遺族の間で争われているものです。
もちろん我々が立会人を支持していく姿勢は変わらないし、どういった判決が下ろうと今後も総本部道場の使用については何ら問題ないと思っています」
1996年11月6日、極真会館総本部の使用に関する裁判で仮処分の決定が下された。
仮処分とは債権者からの申立てにより裁判所が決定する暫定的処置で、松井章圭は仮処分は不服として自分たちが総本部を使用する正当性を訴えた。
裁判所は遺族と松井章圭に話し合いで解決する「和解」を提案。
遺族に会館を明け渡すように勧めた。
1997年2月、フランシスコ・フィリョのK-1参戦が決定した。
「フィリョのような実績のある選手が出たいと要求する以上、彼の意志を尊重するしかありません。
フィリョは現在の極真会館にとって大切な存在です。
それなのに生前の大山総裁がアンディ・フグやマイケル・トンプソンを破門したようにフィリョも破門してもいいのか?
私はそう思いませんでした。
フィリョ個人の立場だけでなく極真の将来を考えたとき、フィリョの意志を汲んでやるのがベストだと判断しました」
(松井章圭)
郷田雄三は
「将来を見据えあえて賛成した。
今後はすべて松井館長に一任する」
としぶしぶ認めたが、盧山初雄は
「正しい選択ではない」
と反対し続けた。
1997年3月17日、最高裁判所は、松井章圭らの控訴を棄却。
大山倍達の遺言書が無効が決定したことで、
「2代目も無効になった」
という意見が大きくなったが、松井章圭は沈黙を守り通し、極真会館での活動を続けた。

1997年4月20日、第1回世界ウエイト制大会が開かれた。
旧ソ連圏、ヨーロッパ、東アジア、中東・東南アジア、アフリカ、オセアニア、北米、南米で、軽量級、中量級、軽重量級、重量級の4階級で予選が行われ、勝ち抜いた選手たちが両国国技館に集った。
フランシスコ・フィリョは重量級で優勝。
2位は、グラウべ・フェイトーザだった。
「世界ウエイト制大会は、ランキング制の導入を考えています。
今回の第1回大会で初代のランキングが決まります。
大会自体は4年に1度のスパンで行いますが、毎年1回、ランキング1位の選手と挑戦者によるタイトル戦を開催する構想もあります。
どのように挑戦者を選ぶのかなど課題はありますが、タイトル戦はワンマッチで行います」
大会後、松井章圭はそういったが、その後、特別試合やエキシビジョンなどワンマッチは行われたが、ランキング制やタイトル戦は行われなかった。
体重無差別トーナメントである世界大会の優勝者と世界ウエイト制ランキング1位はどちらが真のチャンピオンなのか?
最強の意義や極真のヒエラキーが崩れることを懸念したためだった。
もしそれらが実現できば、極真のプロ部門の創設、プロ極真ができたかもしれないが、それは叶わずK-1など格闘技イベントに参戦することによる選手個人のプロ化が進んだ。
同日(1997年4月20日)、大山派、実質、支部長協議会派が、東京都文京区の護国寺で大山倍達の4回忌法要を行った。
1997年7月、黒澤浩樹に試合のオファーが入った。
3ヵ月後、東京ドームでヒクソン・グレイシーと高田延彦の試合が行われる格闘技イベント、「PRIDE1」への参戦を求められた。
完全燃焼できなかった世界大会。
変わっていく極真空手。
そして何より自分の力を信じて絶対に退かず前進する、未知の領域に果敢にチャレンジするという自分のスタイル。
「PRIDE1」は、格闘技を志す後輩にとって非常に有益なものに思えること。
さまざまな思いから、黒澤浩樹はこれを受けた。
しかし「PRIDE1」へ参戦すること、またKRS(格闘技レボリューション・スピリット、PRIDEの主催団体)と関りを持つことに松井章圭は反対した。
2人は激しく口論した。

1997年5月、鈴木国博(大山派所属)は地元のチンピラ2人にケンカを売られた。
手を出さないように対応していたが
「空手の師範?
んじゃお前の道場連れてけ!」
といわれ刺激しないように、2人を深夜誰もいない「国際空手道連盟極真会館 神奈川厚木道場」に連れて行った。
すると2人はいきなり道場においてあった鉄アレイを手にして鈴木国博に殴りかかった。
鈴木国博は、防御に勤めていたが、いつまで経っても収まらないので相手の腹部に正拳突きや回し蹴り。
2人の相手の内臓は破裂。
胃の2/3と十二指腸切除を余儀なくされた。
ことの流れを聞く限り、いたし方がないと思われるところもあるが、鈴木国博は逮捕された。

1997年7月20日、レーザー光線が飛び交うナゴヤドームの花道を、白い空手着をまとい両手にグローブをはめた2人の空手家が入場した。
極真空手の道着に黄色と緑のブラジルカラーのキックパンツのフランシスコ・フィリョ。
正道会館の道着に赤と白のスイスカラーのキックパンツのアンディ・フグ。
極真の世界大会での因縁に、いつも以上に緊張感を漂わせたアンディ・フグは、少し硬い動きで顔面パンチを見舞おうと間合いを詰めていった。
そして1R2分37秒、フランシスコ・フィリョの放ったフックで沈んだ。
極真空手時代と同じ負け方だった。
その後、フランシスコ・フィリョは、KO勝利を続け「一撃」ブームを巻き起こした。
「いつの時代も新たな挑戦に批判はつきもの」
と分裂騒動にも負けず組織改革を進め、K-1と連携した松井章圭は多くの支持を得た。
極真会館は勢いを増した。
この後、松井章圭は、自派の記事の扱いや大山派の記事の掲載についてクレームを入れたり取材を拒否するなど。マスコミに対する強硬な姿勢が目立ち始めた。
「K-1との関係が密接になっていくに従い松井派極真会館の知名度も急上昇しました。
遺言書の棄却、総本部返還、2代目の正当性の崩壊は陰に隠れてしまいました。
この頃から松井君は急激に変わっていった。
彼の強権的な態度に支部長たちは怯え、いつしか松井君は独裁者になってしまった」
(盧山初雄)
「あの頃の松井さんは裸の王様」
(山田英司)
「もう少しマスコミや後援者など周囲の人に気遣いがあれば、松井さんはもっと大きくなれるのに・・・と感じるようになったのが1999年、フィリョがK-1に出てフジテレビとの関係が強くなったころからです」
(北之口太、「一撃の拳」著者)

1997年9月、「PRIDE1」まで、1ヵ月を切っても対戦相手もルールも決まらず、黒澤浩樹は焦った。
総合格闘技対策として東海大学のレスリング部へ出稽古したが、具体的な相手もルールもわからないため、にわか仕込みの感が否めなかった。
やがて対戦相手は決まった。
イゴール・メインダート。
しかしその容姿や格闘技歴は不明だった。
黒澤浩樹は、試合が決まれば、それに向けてトレーニングを積み、様々な場面を想定した稽古を行ってきた。
アバウトな形で試合に出ていくことはなかった。
「こんなんじゃできない」
焦って、夜中、1人道場にいき受け身の練習をして、逆に首を痛めた。
試合2日前、ルールミーティングで初めてイゴール・メインダートと会った。
203cm、130㎏の巨体を見上げたとき、首が痛くて仕方なかった。
ルールミーティングを終え、帰ろうとしたときKRSのスタッフがいった。
「黒澤さん。
リングのRの文字のところで戦えば倒されてもすぐにロープへ逃げられるから、常にRの上で戦ってください」
ロープブレイクありのルールのため、
立ち技主体の黒澤浩樹はリングの端のほうで戦えば、倒されても、すぐにロープにふれることができる。
そしてレフリーのブレイクがかかり、苦手な寝技は止められ、再度立ち上がって戦い直すことができる。
そういうアドバイスだった。
しかし純粋な極真空手家には、この言葉はそう思えなかった。
(この人は何をいっているんだ。
俺はそんなレベルの戦いに出ていかなければならないのか)
同日、松井章圭から電話があった。
「黒澤君、どうなってるの?」
「どうもこうも2日後に試合をします」
1997年10月11日、突然、黒澤浩樹が、総合格闘技「PRIDE」のリングに上がった。
東京ドームで行われた「PRIDE1」は、高田延彦とヒクソン・グレイシー戦がメインだったが、黒澤浩樹が総合格闘技のリングに上がったことはそれ以上のインパクトがあった。
はたしてあのローキックは通用するのか?
かつて大山倍達はいった。
「世界で1番強い格闘技は空手。
その空手の中で1番強いのは極真だ」
リングに向かう黒澤浩樹の道着には「極真」の文字があった。
しかし松井章圭も山田雅稔も観に来ていなかった。
試合は、3分×5R。
基本的には総合格闘技ルールだが、顔面パンチなし、ロープブレイクありという変則ルール。
1R、黒澤浩樹は、イゴール・メインダートの投げ技をこらえようと踏ん張ったときに
「ブチッ」
という音がして右膝十字靱帯を断裂。
前十字靱帯は、膝の過伸展を抑制する靱帯。
このとき黒澤浩樹の膝は180°以上の伸びて靱帯が切れたと思われる。
黒澤浩樹は戦い続けたが、右膝が壊れたことで本来のアグレッシブでパワフルな攻撃が出ない。
戦い続けていると
「ブチッ」
という音がした。
このままでは右膝の靱帯がすべて切れてしまうかもしれない。
しかし黒澤浩樹が思ったことは、ただ
「やめない」
3R1分26秒にレフリーが試合を止めたのは妥当な判断だった。
TKO負けとなった黒澤浩樹は、自力で一歩も歩けず、両肩を抱えられ花道から控室へ移動。
「これが現実だったのか」
やり切れぬ思いと激痛だけがあった。
全試合終了後、松葉杖をついてリングに上がって挨拶。
それが済むとすぐに自衛隊病院へ直行。
レントゲン撮影して膝を固定してから帰宅。
松葉杖をつきながらトイレに行ったとき、油断して右足を床につけてしまった。
「グチャッ」
固定したばかりの膝が崩れ、倒れそうになった。
それだけで気持ちが悪くなり貧血を起こし、気がつくとトイレの床に倒れていた。
寝たら最後、動けなかった。
少しでも動こうとすると膝に激痛が走った。
不完全燃焼のまま敗れ大ケガを負った。
「何だったのか」
一晩中自問自答した。
その後、右膝靱帯断裂の手術を受け2ヵ月間、入院。
松井章圭が見舞いに訪れたとき、2人は再び激しく口論した。
黒澤浩樹は病院のベッドの上で極真会館を辞めることを決めた。

1997年12月、突然、
「医師からの指示で休養の必要があるため、健康上の理由により、国際空手道連盟極真会館環跳を辞任する」
という大山智弥子名義のFaxがマスコミに送られた。
しかし1週間後には
「体調は崩しているが一時的に静養しているだけ」
という訂正のFaxが送られた。
三瓶啓二と大山喜久子(三女)の関係を知ったとき、大山恵喜(次女)は激怒した。
そして三瓶啓二がいる大山派に見切りをつけ、松井派の大会に顔を出すなどこれまでと矛盾する行動も起こした。
それは母親の経済的なことを考えた上でのことと思われる。
このFax騒動には、大山恵喜(次女)と大山喜久子(三女)が母親を引っ張り合いをしたという説、1枚目のFaxは大山恵喜(次女)が、2枚目は大山派が送ったという説がある。
1998年1月、帝国ホテルで松井章圭と黒澤浩樹が会い話し合った。
2人はいいたいことをすべて吐き出し周囲の客が振り返るほど大喧嘩になった。
話は平行線で終わったが最後に互いに気持ちをぶつけ合うことはできた。
黒澤浩樹は翌日、退会届を書いて送った。
その後、中野区に新道場「黒澤道場(現:聖心館)」を開いた。
極真を離れるというのに多くの弟子が黒澤浩樹についていった。
極真は黒澤浩樹にとって青春のすべてだった。
自分のすべてを賭けた。
黒澤浩樹の気持ちは、極真を辞めても
「俺は極真」
だった。

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