1993年4月30日、代々木第一体育館で「K-1」という新しい格闘技イベントが誕生した。
打撃系格闘技世界最強の男はいったい誰なのか?
「空手」「キックボクシング」「拳法」「カンフー」など、代表的な立ち技・打撃系格闘技の頭文字「K」
その中の世界最強、真のNo.1を決めんとする「K-1 GRAND PRIX′93 10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント」
競技、団体、階級の垣根を飛び越え世界王者同士による夢の異種格闘技ワンデイトーナメント。
8オンスグローブを着用。
3分3R(ラウンド)、あるいは3分5R。
頭突き、肘撃ち、バックハンドブロー、目付き、金的、投げ技、関節技は禁止。
その他の打撃技はすべてOKという打撃系格闘技ルール。
出場選手の中には8年間無敗の記録を持つキックの帝王:モーリス・スミスがいた。
そのモーリス・スミスの無敗神話に終止符を打ったオランダの怪童:ピーター・アーツもいたし、
この2人を破ったことがあるアーネスト・ホーストもいた。
佐竹雅昭は、UKFアメリカヘビー級王者、11戦11勝11KOのトド"ハリウッド"ヘイズを2R 0:45、右ローキックでKO。
ブランコ・シカティックの石の拳は、タイの英雄、最強のムエタイ戦士:チャンプア・ゲッソンリットをロープまでフッ飛ばした。
決勝戦ではブランコ・シカティックのパンチがアーネスト・ホーストのテンプルを打ち抜き失神KO勝ち。
波乱万丈の展開に加え、全7試合中6試合がKO決着。
衝撃的なK-1誕生の瞬間だった。
この後、「K-1」は、空前の格闘技ブームを引き起こしていく。
大手スポンサーがつき、東京だけでなく名古屋、大阪、福岡、やがて海外でもイベントを開催。
会場は多数の芸能人が訪れ、チケットのとれないモンスターイベントとなっていく。
1993年7月、アンディ・フグの移籍により大山倍達に絶縁されて1年、正道会館の角田信朗は館長である石井和義から電話をもらった。
「お前、スーツ持ってるか?」
「押忍」
「じゃあ今からすぐスーツに着替えて東京行きの新幹線に乗って、乗ったら電話してこい」
「押忍?」
「プーップーップーッ」
角田信朗はわけもわからないまま着替えて新幹線に乗った。
「押忍。
いま新幹線に乗りました。」
「あっそ、ご苦労さん」
「自分はどうさせていただいたらいいのでしょうか?」
「ホテルニューオータニでね、梶原一騎先生の7回忌の記念式典やってるんだけど、角田、俺の代わりに出席してきてよ」
「オッ、押忍!!??」
「極真の人たちもみんな来てるらしいよ」
「押忍!!!
そんな大事な席に自分のような者では館長の代わりはつとまりません!!」
「なにいってんの。
みんなお前が来るの待っとるで」
「押忍!!
しかし館長!!
極真会館さんからは絶縁状が届いている状態なのに、そんなところへ自分が行って大丈夫なんでしょうか!?」
「プーップーップーッ」
悲惨だった。
東京駅からタクシーでホテルニューオータニへ。
会場に着いた角田信朗はドアを少しだけ開け恐る恐る中を覗いてみた。
すぐ目の前に黄色のブレザーを着た50名ほどの屈強な男がビッシリと並んでいた。
しかも正面で大山倍達が挨拶をしている最中だった。
(ヤバい!!)
角田信朗は静かにドアを閉めた。
(こんな敵陣に絶縁状を回されている組織の幹部がノコノコ入っていったらどうなるのだろう?)
思案に暮れ、もう1度覗こうとしたとき、中からドアが開き、梶原一騎の弟:真樹日佐夫が出てきた。
「いやあ、角田君来てくれたのか」
その声に会場の中の全員が角田信朗をみた。
「ちょうどいい、大山総裁に紹介するよ」
「押忍。
いえでも・・・」
真樹日佐夫にズズッズズッと押されながら角田信朗は大山倍達の前まで来た。
「いやあ総裁。
紹介します。
正道会館の角田君」
「オ、押忍。
せ、正道会館の、か、角田であります。
ごぶたさ、いやご無沙汰しております」
角田信朗は極真空手の全国ウエイト制大会で4位に入ったことがあり、そのとき大山倍達にいわれた。
「君ぃ、世界大会も出てこい!」
(世界大会出場はケガのため実現しなかった)
大山倍達は右手で握手しながら左手で角田信朗の頬をパチパチ叩いた。
「いやあ!
もう1度会おう!」
(もう1度会おうか。
今会ってるのに)
角田信朗は心の中でツッコんだ。

1994年3月15日、若獅子寮の第22期生卒寮式が行われた。
卒寮生の中には、デンマークから空手修業のために17歳で単身来日したニコラス・ぺタスがいた。
大山倍達は祝辞を行ったが、公に姿を現したのは、これが最後となった。
ニコラス・ぺタスはK-1のリングにも上がり「極真会館最後の内弟子」「 青い目のサムライ」と呼ばれた。
3月17日、大山倍達が聖路加国際病院に緊急入院。
3月22日、病院側の制止を振り切り退院し総本部内の自室で静養。
4月15日の若獅子寮の第25期生入寮式には出られず、この日の夜、再び聖路加国際病院に入院。
そのとき大山倍達はいった。
「一部の側近と松井章圭以外は、家族といえども見舞うことは許さない」
急遽、大山倍達の名代としてネパールで開催される第6回アジア大会に行くことになった松井章圭は、その報告を兼ねてお見舞いに訪れた。
そして別れ際
「元気でね」
そう大山倍達にいわれ胸騒ぎがした。
大山倍達は肺ガンだった。
松井章圭はそれを知っていたが、大山倍達には最後まで告知されなかった。
そしてベッドでの排泄を拒否し、内弟子の肩につかまりながらトイレに通った。
担当医は大山倍達の寿命を
「あとわずか」
と診ていた。
大山倍達の病床には、妻の大山智弥子、身の回りの世話をする内弟子を除いて5人の男がいた。
入院中、3人の娘(留壹琴(長女)、恵喜(次女)、喜久子(三女))は1度の見舞いに来なかった。
1 梅田嘉明
東邦大学医学部入学と同時に同大空手部に入部し、極真空手一筋の道を歩み始め、全日本大会ではドクターを務める元極真会館相談役で横浜東邦病院院長。
2 黒澤明(元黒澤組組長)
極真会館相談役。
大山倍達が義兄弟の契りを交わした柳川次郎(殺しの軍団と呼ばれた柳川組の初代組長)の舎弟。
グリコ森永事件の主犯と疑われたことのあるカリスマ大物組長。
3 大西靖人
元全日本チャンピオン、世界大会で松井章圭に敗れた後、引退し、不動産会社や警備会社を経営。
岸和田市会議員、新進党大阪府第18総支部会長、新進党大阪府連常任幹事を務めた。
4 米津等史
大西靖人の城西支部の後輩。
資生堂の社長秘書、大山倍達の私設秘書。
5 米津稜威雄
弁護士
米津等史の父親

1994年4月17日と19日、2日間かけて、大山倍達自身の意向で危急遺言
(いますぐに遺言書を作成しないと遺言者の生命が失われてしまう場合など緊急事態に使われる遺言書。
緊急時に一般の人が対応できないことや、対応方法を知っている人間がいても、妻や子供など利害関係者を除き、証人となりうる人間が3名必要なため、危急時遺言は使用事例が少ない)
が作成された。
自分の病状を知らない大山倍達に死期を悟らせないように危急遺言を選んだと5人はいう。
妻の智弥子もいたが、大山倍達は、家族に知られたくないことがあり、退院できればそれはなかったことにしたいので遺言書の作成に同席させなかった。
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遺言者大山倍達は、平成6年4月17日聖路加病院971号室において、証人米津稜威雄、同梅田嘉明、同黒澤明、同大西靖人、同米津等史立ち合いの下に、証人米津稜威雄に対し次のとおり遺言を口述し、米津稜威雄はこれを筆記した。
一 遺言者死亡のときは次の通りにすること。
1 極真会館、国際空手道連盟を一体として財団法人化を図ること。
2 梅田嘉明は、財団法人極真奨学会理事長、株式会社グレートマウンテン(新会館建設のため現会館の隣の土地を買うために設立された新会社)社長を勤めて欲しい。
3 極真会館国際空手道連盟の大山倍達の後継者を、松井章圭と定める。世界各国、日本国内の本部直轄道場責任者、各支部長、各分支部長は、これに賛同し協力すること。
4 松井章圭は、極真会館新会館建設の第2次建設委員会長として新会館を設立すること。
5 梅田嘉明は、極真会館国際空手道連盟、財団法人極真奨学会、株式会社グレートマウンテン、有限会社パワー空手等、極真空手道関連事業を監督し、松井章圭の後見役として勤めて欲しい。黒澤明は、梅田嘉明を補佐し協力して欲しい。米津稜威雄、長嶋憲一(極真会館相談役、弁護士)もこれに協力して欲しい。
6 池袋の極真会館の土地建物は、新会館の土地を含めて、極真会館国際空手道連盟に寄贈する。これらに対する出費等も同じ。これらは極真空手道のためのみに使用すること。これらの手続きは、米津稜威雄において執って欲しい。
7 妻智弥子と三女喜久子には、石神井の土地家屋を持分平等の割合で与える。
右土地家屋には建築ローンが残存しているので、これを極真側で責任をもって支払って欲しい。千葉御宿の土地、大山倍達個人の預金、現金は智弥子に与える。なお智弥子に対しては、極真側で毎月100万円またはこれに相当する金額を支払って生涯面倒をみて欲しい。
8 「パワー空手」は、極真空手道の機関紙であって欲しい。機関誌として存続する限り、三女喜久子に毎月100万円宛支払って欲しい。
二 遺言執行者を次のとおり定める。
遺言執行者 弁護士 米津稜威雄
米津稜威雄は、右筆記事項を遺言者および証人梅田嘉明、同黒澤明、同大西靖人、同米津等史に読み聞かせ、右各証人はその筆記の正確なことを承認し、次に署名押印した。
筆記者 証人 米津稜威雄
証人 梅田嘉明
証人 黒澤明
証人 大西靖人
証人 米津等史
『遺言書(追記)』
遺言者 大山倍達
一 韓国ソウル特別市在住の・・・・、・・・・、・・・・(ソウルにいる妻子、住所)には、極真側で各金1500万円を支払って欲しい。
一 北海道在住の・・・・(女性の名前)には、極真側で金1000万円を支払って欲しい。
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このように大山倍達は、後継者に松井章圭を指名した。
遺言書は全14項目。
1~5項までは、極真会館と関連組織の運営
6~12項は、家族に対するケア
13、14項には、追記という形式で北海道と韓国にいる愛人と子供に対するケア
について記されていた。

1994年4月26日8時、大山倍達が肺ガンによる呼吸不全によって、あまりに波瀾万丈だった人生を70歳で終えた。
同時刻、松井章圭は予定を早めてネパールから帰国し、日本の空港にいた。
東京の妻と3名の娘も死に目に会えなかった。
その後、棺桶に納めれた大山倍達は、聖路加病院から極真会館の2階の総本部道場に帰った。
入口には
「本日の稽古はございません」
という張り紙が張られた。
昼前、大山留壹琴(長女)の夫で関西本部長の津浦伸彦が到着し、大山倍達の義理の息子として弔問者に対応した。
12時、喪服を着た支部長たちが続々と到着。
「朝9時に電話で亡くなられたと聞きました。
もう信じられなくて、まさかという感じで・・・
すぐに飛んでいって昼の3時半に東京に着いて総裁に挨拶をしました」
(七戸康博)
「鹿児島で大会がありまして、空港に今朝の10時ごろ着いたんですけど、自宅に電話入れるように呼び出しがあって、連絡したら・・・
もうパニック状態でした。
信じられないというか。
飛行機の都合で東京に着いたのは6時10分でした」
(緑健児)
極真会館の周囲はマスコミやファンで埋め尽くされた。
13時、大山留壹琴(長女)が到着。
建物に入る前、玄関先で梅田嘉明に食ってかかった。
梅田嘉明は苦虫を噛み潰したよう顔をして相手するのを避けて人波に消えた。
その後ろでは大山智弥子未亡人が、笑顔であいさつをして回っていた。
16時、梅田嘉明、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、米津等史 らが記者会見を開き、大山倍達が死亡したこと、その志を継ぐこと、遺言書の存在を発表した。
大山智弥子は、このとき遺言書があることを知った。
それまでその内容も存在も知らなかった。
「私は毎日主人の看病にいってましたが遺言書の事なんかひと言も聞いてません。
私だけが知らされていなかった事になりますよね」
遺言書には韓国と北海道に大山倍達の愛人と子供がいることが明らかになっていた。
「皆さんはその事に気遣って 私に遺言書を見せなかったとおっしゃるんですよ。
でも私が今更ヤキモチを焼くような歳ですか。
50年近く連れ添って、外に子供がいることくらい何の不思議もない人だったことは私が一番知ってますよ
19時、通夜が始まり、支部長、道場生、OB、ファン、格闘家、各界の著名人など500人が参列した。

1994年4月27日12時半、極真会館総本部で告別式が大山智弥子未亡人を喪主にして行われた。
西袋公園はファンとマスコミであふれた。
14時、三瓶啓二、松井章圭、八巻建志、数見肇ら歴代チャンピオンたちによって大山倍達の入った棺桶が霊柩車に乗せられた。
その後、遺族代表として津浦伸彦が挨拶。
そして梅田嘉明が
「生前、大山総裁は遺言状を遺されています。
そこには後継者として松井章圭君が指名されています」
と発表。
突然の発表を、松井章圭は、参列者1500名と共に直立不動で聞いた。
31歳の松井章圭を、後継者の指名したのは、いかにも大山倍達らしかった。
多くは松井章圭が2代目となることに好印象を持った。
しかし快く思わない人間もいた。
同夜、臨時全国支部長会議が行われ
「お前は本当に2代目の指名を受ける気なのか?」
郷田雄三を筆頭に多くの先輩支部長詰め寄られ、2年前に支部長になったばかりの松井章圭は、
「受けます」
と答えた。
その後、会議は紛糾し、なにも決定されないまま終わった
1994年4月28日、告別式の翌日、大山喜久子(三女)がニューヨークから帰国した。
大山恵喜(次女)もアメリカにいたが、大山倍達が死去した日(1994年4月26日)に娘:桃果林を出産したため、来日が遅れていた。

1994年5月1日、神奈川県湯河原で強化合宿が行われた。
毎年春先に行われる恒例行事で、国内だけでなく海外の支部長も参加し、世界大会や全日本大会の優勝者も同行させ、大山倍達が直接指導を行っていた。
没後間もないということで
「今年は中止すべき」
という意見もあったが、松井章圭は
「こういうときだからこそ」
と予定通り、合宿を開催した。
「いま湯河原駅に着いたから出てきてくれ」
合宿初日、三瓶啓二から電話がかかってきて松井章圭は駅前の喫茶店で会うことになった。
三瓶啓二はいった。
「松井、みんなお前じゃダメだといっている。
海外の支部長も国内の支部長もみんな、お前が後継者ということに納得していないんだよ」
「先輩、みんなというのは誰ですか?
誰と誰がどのような理由で僕ではダメだといっているんですか?
具体的な支部長の名前を教えてください。
そうでないと対応の仕様がありません」
「だから誰とかじゃなくてみんながお前ではイヤだといっているんだよ。
松井、これからは民主的に組織を運営して、すべてをガラス張りにしていかなくてはダメだ。
そういっている支部長はたくさんいる。
総裁のときのような独裁じゃ組織は発展しない。
そのためには些細なことも会議で決定する合議制を取り入れたり、館長を選挙で公平に任命する任期制を取り入れたり、みんなで話し合って決める必要があるんだ」
「先輩、僕はいつでも皆さんの話を聞きますし、納得してもらえるような説明をしますから。
だからとにかく仕事をさせてください。
僕は今も合宿のためにここに来ているんです。
支部長たちも、もう集まってるんですよ。
そういった仕事を滞りなく果たせるようにサポートしてください。
お願いします」
「松井、みんなお前のことを心配してるんだよ。
もちろん応援したいと思っている。
俺だってお前のことを考えたからこそここに来たんだ。
とにかく1度、支部長たちの話を聞いてやってくれよ」
「意見があるなら僕はいつでも皆さんの話を聞きますよ。
でも具体的に誰が何をいっているのかもわからず『みんながいっているから』という曖昧な理由だけで『わかりました、ではそうしましょう』とはいえないんですよ。
先輩、物事を進めるには手順というものがあるでしょう」
去り際、松井章圭に試合で3戦3勝の三瓶啓二はいった。
「俺はお前の味方だからな。
俺はお前を応援するから」

1994年5月10日、湯河原で三瓶啓二と松井章圭が話した9日後、郷田勇三が臨時全国支部長会議を開いた。
大山道場時代からの最古参の支部長であり人望も厚い郷田勇三のもとには、松井章圭の2代目に対して否定的な声や極真の未来を憂う声が多く届いていた。
「松井は支部長として経験も浅く年齢的にも1番若い。
末っ子がいきなりトップに立つのだから面白くない支部長が出てきても仕方ない。
でも極真は個人の感情が通用するほど小さい組織ではない」
当日、松井章圭は郷田勇三と共に極真最古参の盧山初雄と一緒に会場に向かった。
支部長会議は、会場の席は、支部長会議はキャリアの長さや実績の大きい支部長から順番で前から座るようになっていた。
松井章圭はいつものように1番後ろに、盧山初雄は上座に座った。
会議が始まり、まず郷田勇三が遺言書の内容を読み上げ、そして松井章圭2代目の賛否を問うた。
長谷川一幸(愛知県支部長)は
「私は松井君でもいいと思います。
遺言書にそう書いてあるのだし。
ただ時期尚早なのではないでしょうか?
とりあえず今回は辞退するべきだと思います。
そしていろいろと勉強した後に3代目と形で館長になったらいいのではないですか」
と発言。
長谷川一幸は、165㎝と体は小さいが第2回全日本大会で、第1回世界大会で優勝する佐藤勝昭を左上段回し蹴りで一本勝ちするなどして優勝した。
大石大吾、西田幸夫(東京城北、神奈川東支部長)も同様の意見を述べた。
大石大吾は
「あの切れ味は、誰にも真似できないよ」
と大山倍達にいわせた足技の天才で、その蹴りは
「妖刀村正」
と呼ばれた。
総本部内弟子を5年間務め、第3回全日本大会3位、第6回全日本大会で4試合連続1本勝ち、第1回世界大会4位。
西田幸夫は、第1~6回全日本大会連続出場。
郷田勇三、盧山初雄が最古参だが、長谷川一幸、大石大吾、西田幸夫はそれに次ぐ極真の重鎮だった。
まるで神話のような地獄稽古に耐え抜き、数々の武勇伝を持つ彼らは、極真を志す者にとっては生きる神様のような存在だった。
3人は、郷田雄三や盧山初雄が館長になった後、松井章圭が引き継ぐべきと主張した。
続く三好一男 (高知県支部長)は
「私は松井が後継者ということ自体おかしいと思います」
と発言。
その後は同様の意見が続いた。
「生前、松井ほど総裁の悪口をいっていたやつはいない」
「まだ若い」
「好き放題にされる」
以前と同様、会議は紛糾し始めた。
その流れを盧山初雄が止めた。
「ちょっと待て。
松井はそんな男じゃないだろう。
全日本、世界大会を含めて3連覇し100人組手も完遂したんだぞ。
空手の実績もあって頭もいい。
私は松井が悪い人間だとは思わない。
1番下の弟子が館長になるのだからおもしろくないのはわかる。
でもそれが総裁の意志なんだよ。
誠、お前も松井を頼むと総裁からいわれたんだよな?」
「押忍」
中村誠(兵庫県支部長)は大きな声で答えた。
「自分は亡くなられる数日前、総裁に呼ばれて病院に行きました。
総裁は『人間は和合だ、和合が大事だよ』とおっしゃられた後に『松井を頼む』といいました。
『君も不満はいろいろあるだろうが、その不満をいまこの場でいってほしい』と。
自分は『不満はありません』と答えました。
だから自分は松井2代目館長に異論はありません」
盧山初雄も中村誠も、入院中の大山倍達を見舞い、直接
「松井を頼む」
といわれていた。
その顔は青白く頬はこけ顔面の半分がマヒし動いていなかった。
郷田勇三、盧山初雄、中村誠らにとって、自分や支部長の個人的な感情など問題ではなかった。
遺言状もさほど重要ではない。
大事なのは「大山倍達の意志」だった。
改めて郷田勇三は前の支部長から順番に1人1人、答えを聞いていくことにした。
「遺言書に書いてあるならいいのではないでしょうか」
「自分もそう思います」
「自分も・・・」
そして三瓶啓二は
「これ以上聞いても時間の無駄じゃないですか?」
と発言。
これにより以降のの意見は省かれ、郷田勇三が
「松井2代目館長に反対の人は挙手をお願いします」
と聞いた。
すると1人も手を挙げなかった。
「館長として会議を進めなさい」
盧山初雄にいわれ松井章圭は前に出て、その後、会議を進行させていった。
そして意見を募った。
複数の支部長が、大山倍達のときのようなワンマンではなく民主的な組織運営を行うことを望んだ。
そして以下の2点が決められた。
・2代目以降の館長に、「総裁」という呼称は使用しない。
・郷田勇三と盧山初雄が館長を補佐する「最高顧問」となる。

1994年5月11日、会議翌日、松井章圭は東京都北区田端の郷田勇三の道場を訪ねた。
「師範、昨日はどうもありがとうございました。
館長になったからには私心を捨てて頑張ります。
よろしくお願いします」
「引き受けた以上、船はもう岸を離れたんだ。
何があっても絶対に戻るな。
とにかく前に進め。
いいな」
「師範も一緒に船に乗ってくれますか?」
「俺は船酔いするからいやだな」
「師範、お願いします。
一緒に乗ってください」
「心配するな。
お前が頑張り続ける限り乗り続けるよ。
だから絶対の弱気になって引き返すなよ」
その後、2人は極真会館総本部の4階の大山倍達の家を訪ねた。
大山智弥子未と喜久子(三女)がいた。
「事務局長、松井が2代目館長になりましたのでどうぞよろしくお願いいたします」
郷田勇三が報告すると2人は笑顔で答えた。
「あら、そう。
私も総裁からそう聞いていたわ」
(大山智弥子)
「2代目を継ぐのは松井さんしかいないわよね。
松井さん、よろしくお願いします。
頑張ってね」
(大山喜久子)
大山智弥子は極真会館事務局長だった。
よく4階から3回の事務所に下りていって事務局で職員と雑談を交わしたが、仕事も空手もやったことはなかった。
「本部道場ができた頃、ヤクザみたいな人がいっぱい出入りしてたんですよ。
母はこれではいけないというんで自分1人でそういう人たちをほうき片手にみんな追い出しちゃったそうです」
(大山喜久子(三女))
1994年5月18日、松井章圭は、自分の個人名義で「極真会館」「極真空手」の商標申請を行った。
商標権とは、商品やサービスの目印(商標)を独占できる権利。
仕事、ビジネスは、必ず何かしらの商品やサービスを売っている。
客は、たくさんある商品、サービスから選んで買う。
仕事、ビジネスをする側は、客に自分の商品、サービスを選び出し買ってもらわなければならない。
商標は、客が商品、サービスを選ぶための「目印」で、その「目印」が「商標」である。
特許庁に出願して登録を認められれば商標権を主張できる。
商標は、早い者勝ちで、先に出願されたものが優先して登録され、同一の商標、類似していると思われる商標は、特許庁に拒絶される。
たとえ昔から自社で使っているネーミングやロゴでも、他者や他社が出願し登録してしまうと商標権を侵害している側になってしまう。

郷田勇三と松井章圭が大山家を訪ねた10日後、大山智弥子から全国の支部長に手紙が届いた。
遺言書のコピーを手に入れた大山智弥子は、作成されたとき、まだ元気だった大山倍達の直筆の署名がないことやその内容に不審を抱いたという。
「この遺言書と称する書類は大山倍達の遺志に基づくものではないと判断するに至り、法的な相続人でもあり、かつ大山倍達と50年近く連れ添った私が、自分、家族、極真会館、そして何よりも大山倍達という名を守るために敢えてこうして人前に出ることを決意するに至りました。
大山倍達亡き今、大山倍達との契約は白紙し、今後、極真会館、極真空手、カラテ極真という名称や極真のマークなどの使用に関しましては相続人の私が管理し新たに再契約を行いたいと考えております。
つきましては平成6年6月1日午後1時30分から総本部総裁室にて今後の問題を話し合いたいと思いますので、お忙しい中恐縮ですがご出席願います。
極真会館にとって重大な問題ですので是非ご出席ください。
ご出席いただけない場合は極真会館を離れていくものと考えさせていただきます」
郷田勇三はすぐに支部長1人1人に連絡を入れた。
「事務長の呼びかけに応じる必要はない。
応えなくても「極真」の名称利用は保証するし支部長の立場を失うこともない」
遺言書に従い
「遺族は大切にしなければならないが組織運営に一切参加させない」
と決めていた。
しかし高木薫(北海道支部長)、小野寺勝美(岩手県支部長)、安済友吉(福島県南支部長)らは、遺族を組織のトップに置こうと考えていた。
大山智弥子が全国の支部長たちに手紙を送った背景には、高木薫の助言があった。
高木薫は、東京本部総裁秘書室室長の肩書をはく奪された後も、変わらず大山倍達に尽し続けた。
松井章圭を館長とする新体制には反対だった。
それは三瓶啓二らも同様だったが、一本気に大山倍達や大山智弥子を敬う高木薫は、合議制や民主的な組織運営を推す彼らとは違っていた。
また高木薫にとって極真は大山倍達1人で、支部長間で広くつき合ったり協調しようとせず、多数派の三瓶啓二らと違い一匹狼的なところがあった。
1994年5月27日、
「総裁が亡くなってからいろいろと大変だったと思います。
別荘で療養なされたらいかがですか?」
と梅田嘉明にいわれ
「そうね。
そうするわ」
大山智弥子は、千葉県一宮町の別荘へ向かった。
松井章圭らには6月1日の大山智弥子の招集を穏便に回避したいと意図があったと思われる。
6月1日、大山智弥子が全国に向けて招集をかけた当日、郷田勇三の意を受け、多くの支部長は総本部に来なかった。
また再契約を求めた差出人も東京にいなかった。
6月10日、大山智弥子は東京に戻った。
高木薫や大山倍達の娘は、
「松井たちに幽閉された」
「招集を阻止するために拉致した」
と非難した。
しかし大山智弥子は自分の意思で車に乗っていた。

6月17~19日、大阪府立体育館で第11回全日本ウエイト制大会が開かれた。
リアルな最強を追求する極真空手の試合は、元来、体重無差別制で行われてきたが、ある時期から体重別の大会も行われるようになった。
毎年、無差別制の全日本大会は秋の東京で、全日本ウエイト制大会は夏に大阪で行われる。
5月10日の会議で2代目館長となった松井章圭が会場に到着しても席を立って礼をしない支部長も多くいた。
「おうっ」
三好一男(高知県支部長)は椅子に座ったまま軽く手を挙げた。
「師範、自分はどこに座ったらいいですか?」
会場には松井章圭の席だけなく、盧山初雄最高顧問の指示を受けてやっと用意された。
「大山総裁が亡くなって最初に開催した全日本ウエイト制大会で、彼らにどれだけ新館長を立てようと気持ちがあったのか。
館長が会場入りしても挨拶もせず顔を背けて冷ややかな態度をとっていました。
会場内には館長が座る席も用意されていなかったのです。
彼らは最初から若い館長を支えていくという努力すらしなかったのです。
というよりそもそも支えるつもりがなかったのです」
(盧山初雄)
大会冒頭、松井章圭が大山倍達の遺影を持って入場するという企画があったが、直前になって津浦伸彦が
「自分が持つ」
といい出した。
津浦伸彦は、関西本部長であり、この大会の実行委員長であり、大山倍達の長女:留壹琴の夫である自分が遺族代表として遺影を持つのが当然と主張。
「どうしても譲れというなら私はこの大会に協力できません」
松井章圭に対して子供のような態度をとる支部長たちにしても、大山倍達に憧れ、空手道に身を投じ、苦しい稽古を耐え抜き、試合などで実績を残した猛者たちだった。
しかし津浦伸彦は娘婿というだけで空手の実力や実績はなかった。
支部長会議で他の支部長と並んで座ろうとして
「お前は何でそこに座っているんだ。
向こうに座れ」
と大山倍達に一喝されたこともあった。
今回は大会開始を30分も遅延させて粘ったが、
「いいか津村、今回は我慢しろ」
と盧山初雄に諭され応じた。
会場の照明が落ち、アナウンスがなった。
「今大会の最高審判長、大山倍達総裁の入場です」
空手バカ一代の主題歌が流れ、スポットライトが会場の隅を照らすと大山倍達の遺影を抱いた松井章圭。
松井章圭は大歓声の中を歩み、「最高審判長」と書かれた座席に遺影を置いた。
隣席は「大会審議委員長」の梅田嘉明。
郷田勇三、盧山初雄が続いた。
大会は滞りなく進行した。

大会初日の夜、廣重毅(城南支部支部長)は、三瓶啓二、三好一男、小林功らに
「5月の会議で松井を2代目館長と決めた以上、それに準ずる態度で接するべき」
と注意した上で話を聞いた。
そして盧山初雄に
「師範、もう1度話し合ったらいかがですか」
と進言。
こうして松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、長谷川一幸、大石大吾、西田幸夫、三瓶啓二、三好一男、小林功らが酒席を囲んだ。
盧山初雄が聞いた。
「お前ら、なぜまだあんな態度をとるんだ」
「松井の態度が生意気なんです」
三瓶啓二、三好一男、小林功らは延々と松井批判を続けた。
盧山初雄は怒りをこらえながら不満を吐き出させることに努めた。
「私からみても松井は足りないところだらけだ。
だったら松井の足りない部分をみんなでフォローしてあげればいいじゃないか。
そうやってみんなで極真を守っていくことが総裁に対する恩返しだと思うよ。
違うか?」
「師範、すみませんでした。
これからは松井を館長としてみんなで頑張っていきましょう」
三瓶啓二は頭を下げた。
しかし裏では、三好一男、小林功、柳渡聖人、大濱博幸(広島県支部長)、藤原康晴(長野県支部長)らに
「松井ではダメだ」
と伝えた。
大会3日目(最終日)、途中で高木薫が帰ってしまうアクシデントもあったが、第11回全日本ウエイト制大会は、
軽量級、優勝:谷川光 準優勝:成嶋竜 3位:有永浩太郎 4位:茂木浩之
中量級、優勝:三明広幸、準優勝:池田祥規、3位:小井泰三 4位:杉原健一
重量級、優勝:新保智 準優勝:鈴木国博 3位:ニコラス・ペタス 4位:塚本徳臣
という結果で終わった。

1994年6月20日、第11回全日本ウエイト制大会終了翌日、大阪のホテルで全国支部長会議が行われ人事が発表された。
会長:福田赳夫
(政界を引退していたが元総理大臣。
大山倍達存は1994年に亡くなったが、1993年の全日本大会のパンフレットには、会長:福田赳夫、顧問:大内啓伍、海部俊樹、倉成正、相談役:亀井静香、河野洋平、中山正輝、三塚博と大物政治家の名が並んでいた。
田中角栄、佐藤栄作、三木武夫、園田直、竹下登、安倍晋太郎の名があったこともある。
スポーツの大会に政治家が役員として名前を連ねることは珍しいことではないが、文科省の管轄下にない極真会館の大会にこれだけの政治家が名前を連ねるのは珍しい)
理事長:梅田義嘉
館長:松井章圭
主席師範、最高顧問:郷田勇三、盧山初雄
全国支部長協議会
議長:西田幸夫
副議長:長谷川一幸、三瓶啓二
(全国支部長会議は、通常年2回、館長の要請で臨時で行われることもある全支部長が集まる会議。
支部長協議会議は、通常月1回行われる会議。
全国支部長協議会議長の要請で臨時で行われることもある)
選手権大会審判長:松島良一(群馬県支部長)、副審判長:桝田博(茨木健支部長)
第6回世界大会日本代表
監督:三瓶啓二
コーチ:緑健児
(第6回世界大会は翌年(1995年)に開催。
この後、三瓶啓二と緑健児は急接近し、後に三瓶啓二は緑健児を北九州支部長に推薦した)

同日13時、
「大山倍達総裁の遺言状の疑義について、午後2時より記者会見を行う」
というFaxが東京のマスコミ各社に届き、テレビ2社を含む20名が極真会館総本部に集まった。
14時、大阪で全国支部長会議が開かれている裏で、大山倍達が死去した日に誕生した生後2ヵ月の娘:桃果林を抱いた大山恵喜(次女)と大山喜久子(三女)が記者会見を開いた。
大山恵喜(次女は
「遺言書の内容はさておいて、その作成過程に疑義があり、今後の極真会館の発展のためにも到底用委任できるものではない」
といい、その理由を
・大山倍達の自筆の署名も口授の録音テープもないこと
・遺言書の証人に利害関係のない第3者がいないこと
・遺言書の作成時に母親が病室から出されたこと
とした。
「松井館長を認めないか?」
と聞かれると
「遺言書に疑いがある以上、指名された松井さんは真の後継者とはいえない。
でも松井さんはすでに館長気取りで会館にいます」
と答えた。
「6月1日に母が緊急全国支部長会議を招集しましたが梅田さんや松井さんがストップをかけて母を千葉県に拉致してしまったり、彼らの遺族に対する扱いに不満を持っています」
「遺言は代筆による不完全なものであり、大山倍達自身の署名も捺印もなければ、口述を録音したテープもない。
その上、遺言の作成遇程にあまりに不明な点が多く、偽造の可能佳が高い。
よってその遺言書に記されてる松井章圭氏を、自分たちは後継として認める事は出来ない」
「自分たちは大山倍達の死因そのものにも大きな懐疑を抱いている」
と訴えた。
そして遺言書の無効と執行差し止め請求を東京地裁に提訴することを発表した。
遺言書では、智弥子未亡人、長女の留壱琴、二女の恵喜、三女の喜久子に対し、毎月それぞれ100万円支払われる。
石神井の自宅、御宿の土地、湯河原の別荘など不動産も未亡人と娘たちが相続。
極真会館へ寄贈が指示されてる本部道場の土地と建物は相続税を考慮すれば、遺族にとって不利とはいえない。
「文面の通りにお金をいただけるんなら、こんなありがたい遺言書はない。
母はともかく、私たちは働く事が出来ます。
本部道場の建物と土地にしても、確かに遺言書通り極真会館に寄付した方が、金銭的に有利な事もわかってる。
不満なのは、お金のことではない。
遺言書がインチキで、作成に関わった人と、それに動いてる人たちが許せないといってるんです。
とにかく松井さんたちとは一緒にやっていくつもりはありません。
遺言書の偽造を一日も早く証明して、あの人たちには本部道場から出ていってもらいたいんです。
建物の相続税がかかるならば、石神井の家を売ってでもそれを払って、父が建てたあの建物を守りたいと思っています。
とにかく、あの人たちに父が残したものをこれ以上好きにされるのは、絶対に許せないんです」
大山恵喜(次女)は
「マスコミの皆さんの力を借りてこれら疑惑を晴らしたいと思っています」
と会見を締めくくった。
このショッキングな会見は、テレビ、新聞、雑誌などで報道され、新体制の極真会鎗と大山倍達の遺族との間に確執があることが露見した。
1994年6月23日、大山恵喜(次女)と大山喜久子(三女)の記者会見から3日後、盧山初雄、西田幸夫、廣重毅、山田雅捻が記者懇談会を開いた。
建前は新体制の人事の発表。
しかし実は遺族が開いた会見に対する釈明だったが、総本部ではなく池袋のメトロポリタンホテルで開いたり、呼ばれたのは格闘技専門誌の記者ので、名称も「懇談会」とするなど遺族を尊重する姿勢をみせた。
「遺言書は家庭裁判所に提出中で、手続きが完了次第、遺族に原本を返却する予定です。
遺族の方々に対しては今後も大山総裁の生前と変わらぬ思いで接していきたいと思っています」
(山田雅捻)
「裏で遺族を焚きつけている一部の支部長がいることをか突き止めています。
彼らに対しては処分も考えています」
(盧山初雄)
と説明した。
遺言書に大山倍達の署名捺印がないことについて、極真会館相談役でもある長島憲一弁護士はおかしなことではないという。
「民法では病気やケガで本人自身が遺言書を作成することが困難な場合、3名以上の証人の立ち会いのもとに代理人が口述筆記を行なうことが認められています。
これを危急時遺言といいますが、この遺言書がまさにそれに当たります。
遺族の方は本人の署名がないのがおかしいとおっしゃっていますが危急時遺言の場合は署名があるとかえって無効になってしまうのです」
格闘技ファンや門下生を含め世間はマスコミが伝える「極真の内紛」を静観するしかなかった。

6月26日、東京都港区の青山葬儀所で大山倍達の葬儀が営まれ、国内外から6000名が訪れた。
その中には新日本プロレスの坂口征二社長、リングスの前田日明、シュートボクシングのシーザー武志、
USA大山カラテの大山茂と泰彦兄弟、正道塾の中村忠、佐藤塾の佐藤勝昭、大道塾の東孝、正道会館の石井和義などもいた。
遺影の中の大山倍達は、空手着を着て10段を示す10本の線が入った黒帯を握りしめていた。
松井章圭は弔辞のとき「館長」ではなく「葬儀委員長、松井章圭本部師範」と呼ばれた。
そして大山智弥子、津浦伸彦と退場通路に並んで参列者を見送った。
そのとき会場の外、弔問者の列の横で、大山恵喜(次女)と大山喜久子(三女)が、大山倍達の遺骨と位牌を持って抗議活動を始めた。
「父の死には不審な点があります。
遺言書についてもおかしな点があたくさんあります。
皆さん、真実を知ってください」
そういいながら先日の記者会見と同様の声明文を配った。
やがて盧山初雄の指示を受けた支部長や門下生300名が周囲を取り囲んだ。
この異様な光景は翌日のスポーツ紙によって報道された。
抗議活動を止められた大山恵喜(次女)は
「中に入りたくない」
と式は途中だったが遺骨を東京都練馬区上石神井の大山家に持ち帰り、押し入れの中に入れた。
押し入れには掃除機なども入っていたが、以後3年、ここが大山倍達の居場所となった。
弔問者は遺骨も位牌もない祭壇に手を合わせ続けた。
その夜、港区赤坂の明治記念館で、弔問のために来日した海外の支部長と国内の支部長が参加して臨時支部長会議が開かれた。
まず海外の支部長たちが松井章圭の2代目館長の是非が問われ、承認された。
そして「裏で遺族を焚きつけている一部の支部長」として高木薫が盧山初雄から追求された。
「お前が事務長や娘さんたちをけしかけているんだろう。
一体何をしているんだ」
「違います」
「事務長に手紙を出させたり娘さんたちに記者会見や抗議活動をさせたりしたのはお前じゃないのか」
「私がけしかけたのではありません。
師範、それはいいがかりですよ」
「あることないこと週刊誌に暴露しようとしているじゃないか」
「総裁の死や遺言書におかしな点があるから相談に乗ってほしいと奥さんにいわれたので話を聞いただけです」
「お前が極真の商標権をとろうと動いていることも知っているんだぞ。
ウエイト制では途中で帰ってしまうし、それが支部長のやることか」
郷田勇三も厳しい声を上げた。
高木薫は突っぱね続け、3人の押し問答は1時間以上も続いた。
結局、郷田勇三と盧山初雄は、「高木薫の除名処分」について、それまで黙って聞いていた約40名の他の支部長たちに問うた。
すると過半数の支部長が除名処分に賛成した。
しかし
「長年一緒にやってきた仲間をこのような形で簡単に除名するのはよくないと思います」
松島良一(群馬県支部長)
「採決は採決としてもう1度高木と話し合ってから結論を出したほうがいいのではないですか」
桝田博(茨木県支部長)
極真会館の審判長と副審判長というポストにある2人が反対を表明。
しかし高木薫は潔く
「いや。
私はもう皆さんと考え方が合わないし一緒にもやりたくない」
と自ら席を立ち去っていった。
4人の支部長(手塚暢人、安済友吉、小野寺勝美、林栄次郎)がそれを追った。
5人の支部長が会場から姿を消し、松井章圭はいった。
「自ら出て行ってしまったのだから仕方ありません。
改めて高木支部長は除名処分でよろしいですね?」
こうして高木薫は除名処分、他の4名は処分保留となった。
9月11日、6月26日の会議で高木薫を追って退場し、その後、松井章圭の呼びかけを拒否し続けた4名の支部長の除名処分が決まった。
9月26日、高木薫、手塚暢人、安済友吉、小野寺勝美、林栄次郎が東京地方裁判所に松井章圭に対して「職務停止」と「地位保全」の仮処分を申し立てた。
「家庭裁判所の確認が下りていない遺言書で指名された松井が2代目館長を名乗るのはおかしいし、我々を処分する権利はない」
この後、5人は遺族と頻繁に会合を重ね、旧知の支部長たちに連絡を送った。
「松井は故大山総裁に対し生前も現在 も「 裏切り者」 呼ばわり を し て い ます。
これ は大山 総裁 が国籍を韓国 から日本 へ移し、しかも大会 等では「 君が代」 の もと に平伏し て いる こと に対する 非難 です」
「偉大なる師、大山倍達亡き後、健全なる組織として極真会を一層発展させるために、我々、5支部長と共に立ち上がってくれる有志からの連絡を待ち望んでいます」

10月3日、松井章圭は自らを取締役として「(有)極真」を法務局に登記した。
それまで極真会館は、法律上、「権利能力なき社団」だった。
法人は大きく分けて、
1 社団法人、財団法人
2 株式会社などの営利法人
3 学校法人、社会福祉法人、中小企業協同組合
があるが、いずれも法律の規定に従って設立される必要があり、これら法律によって設立された法人以外の団体はすべて「権利能力なき社団」となる。
極真は、世界中に多くの支部と門下生を抱える巨大組織でありながら、大山倍達の個人商店だった。
しかし松井章圭はに極真を法人化させる必要があった。
「大山総裁存命中も、グレートマウンテンという財務管理目的の株式会社がありましたが、株主が総裁だったり遺族に帰属する部分があったりと権利関係の問題が複雑だったため、まっさらな状態で我々が運用・処理できる法人をつくる必要がありました。
総裁が亡くなった時点で極真会館は「権利能力なき社団」であり、これを代表するのは個人ですが個人で財務管理するわけにはいかないため便宜的に法人をつくろうということで(有)極真をつくったのです」
(松井章圭)
青少年育成を目的とする武道団体として、また税金の優遇を受けられるという点でも、社団法人、財団法人化することが望ましかったが、その審査は非常に厳しく、当面の策として有限会社を設立された。

10月29日、30日、第26回全日本大会が開催された。
翌年の第6回世界大会の日本代表の選抜も兼ねた大会の決勝戦は、八巻建志 vs 数見 肇。
2人共、廣重毅の城南支部だった。
廣重毅は独特の空手観を持っていた。
「ウエイトトレーニングで全身をパワーアップさせ、砂袋で拳や脛を強くして攻撃すれば相手は倒れる」
というような単純明快なパワー空手を
「力任せの空手では、より力が強い相手には負ける」
とフォーム、呼吸、脱力などにも重点を置いて指導した。
また道場生1人1人の体格や体格に合わせて空手を考え指導する空手の職人だった。
その指導や厳しくも愛情に満ちていて、弟子との信頼関係は深かった。
かつて全日本大会で松井章圭を苦しめ、大山倍達に審判を替えさせ、判定で勝った松井章圭に
「勝った気がしない」
といわせた堺貞夫も城南支部だった。
松井章圭はその後、決勝戦で黒澤浩樹に勝ったが、黒澤浩樹は城西支部だった。
廣重毅の城南支部は1978年6月、山田雅捻の城西支部は1978年8月に設立された。
その後、隣り合うテリトリーで長年ライバル関係を続けてきた。
大山倍達が亡くなった1994年の全日本大会のベスト8のうち7名を城西支部と城南支部で占めた。
極真の試合のルールでは顔面を突くことを禁じられていたが、顔面パンチはないとばかりに前へ前へ出ていく方が、特に初級レベルでは有利だった。
しかし本当に強い空手を追求していた廣重毅は、そういうことを
「試合のルールの悪用」
「実戦的ではない」
と否定。
城南の道場生には、そういった戦い方を禁じ、顔面ナシの試合でも顔面アリの空手を望んだ。
合理的な考え方と練習をする城西支部は、試合で倒す組手、勝つ組手を実践し、全日本大会など大きな大会でも派手に勝っていた。
それに比べ城南支部はあまり活躍できていなかった。
あるとき城西支部の道場生が城南支部の道場生に
「城南は弱い」
といったことがあった。
それを知って「カチンときた」廣重毅は、本気で試合で勝つことに取り組み始めた。
ただし
「あのような組手はやらない」
と誓いながら。
そして緑健児、八巻建志 、数見 肇、塚本徳臣など世界クラスの強豪を育てた。
城南支部の道場生に「城南は弱い」といったのは黒澤浩樹だといわれている。

12月26日、高木薫、手塚暢人、安済友吉、小野寺勝美、林栄次郎の訴えを東京地方裁判所は却下した。
同日、大山留壹琴(長女)は、極真の関係者に手紙を送った。
「そもそも遺言という言葉を聞いたのは、父が死去した当日、梅田氏の話からです。
私たち遺族は父の口からは何も聞かされなかったので不思議に思いました。
ただ説明を求める間もありませんでした。
後で知ったことですが、第3者が数日かけて仕上げ、5人の方々が署名捺印した後、危急時遺言として家庭裁判所に提出したといいます。
遺言書なるものに記して内容は私たち遺族は絶対に納得できません。
私はいたずらに騒ぎを大きくするよりも家庭裁判所に遺言書が却下されれば混乱している弟子の方たちと話し合えばいいと思っていたし、不本意な結果となったら起訴して真実を知りたいと思っていました。
ところが遺言書に指名されたとして2代目館長を名乗る松井一派は、あたかも遺言書が法的に認知されたかのごとく行動しています。
なぜ家庭裁判所の手続きが終わるまで待てなかったのか。
彼らの既成事実の積み上げをただ黙認すれば、より大きな混乱の原因になると思い手紙を書きました」
大山智弥子、大山恵喜(次女)、大山喜久子(三女)は、高木薫らと一緒に行動をとったが、大山留壹琴(長女)だけは参加せず、独自路線をいった。
1974年生まれで、まだ大山道場だったため貧しい少女時代を過ごした長女は、極真会館になった後に生まれ、アメリカで暮らす妹たちを
「生まれながらのお嬢様で内弟子や支部長たちにチヤホヤされて育ったせいか、何でも自分の思い通りになると思っている」
大山倍達がかわいがっていた高木薫に助力を求められると受け入れてしまう母親も
「母は支部長たちはみんな父の弟子という感覚。
松井さんもかわいい弟子。
三瓶さんもかわいい弟子。
みんな同じくかわいい弟子。
だから分裂騒動もきちんと把握できないしなにもできない」
と思っていた。
夫:津浦伸彦こそ後継者にふさわしいという信念を持ち、この後も何度か関係者に手紙を送った。

1995年1月11日5時、総本部道場で稽古初め。
全国の支部長と道場生が気合を入れて汗をかいた。
稽古後、メトロポリタンホテルで支部長会議が行われ、松井章圭は、
「今年から会員制度を実施したいと思っています」
と発表した。
2代目館長就任後、当面の課題は、6月の第11回全日本ウエイト制大会と10月の第26回全日本大会、そして翌年に行われる第6回世界大会の開催だった。
巨額の費用が必要だったが、生前、大山倍達が
「極真は君たち門下生全員のものなんだよ。
もしも私が死んだ後に金が遺してあったら、私の墓に来て唾を吐きなさい」
といっていたように総本部の金庫は空同然だった。
門下生数1200万人というのは、累積入門者数なので実質的な道場生数はおそらく1/10以下。
極真会館の主な収入源は、道場生の入会費、月謝、昇級・昇段の認可料、大会の入場料などがあるが、それらを合わせて総本部に集まってくるお金はおそらく年間2~3億円。
そこから職員や指導員の人件費、会館の運営費まで出していかなければならない。
松井章圭は、全国を飛び回って、資金援助をしてくれる企業や後援者を訪ね歩いた。
そして何とか開催にこぎつけた第11回全日本ウエイト制大会と第26回全日本大会は、お家騒動のおかげもあって大観衆が詰めかけた。
「いつまでも他人様の米びつで飯は食えない。
やはり日々の組織活動の中から活動資金を捻出できなければいけない」
と松井章圭は、総本部による門下生の一元管理システムを導入しようと決意した。
当然、支部長から反対されることが予想されたが、松井章圭は
「支部長たちは門下生を自分だけの弟子と考えているが、門下生は等しく極真の会員で大山倍達総裁の弟子である」
と考えていた。
「組織を発展させるためにも総本部が末端組織まで一元管理することは必要不可欠です。
本来、総本部が道場生の実数を把握していないのはおかしな話です。
これはどんな組織であれ当たり前に行っていることです。
私は極真会館にもこの制度を導入しようと考えています」
まだ前時代的だった会員管理をコンピューターを導入し行うことを提案した。
支部は、入門者のすべての道場生と入門者をコンピューター登録。
総本部と支部のコンピューターはオンラインで結ばれ、情報を共有。
登録された道場生は、年会費と月会費を払い、写真つき会員証カードや、会報、グッズの割引販売、再入門時の入会費の免除などのサービスなどを受けられる。
年会費は、総本部が100%徴収。
月会費は、総本部が一括回収し、数%を徴収した後に各支部に戻される。

「どういうことですか」
「理由がわかりません」
「得をするのは総本部だけじゃないですか」
「総裁もしなかったことをなぜやるのか」
「そんな権利があるのか」
とほぼ全支部長が反対。
松井章圭は
「最大の目的は会員数や会員の情報を総本部が把握することです。
そういう情報を得ることで組織運営の方向性がみえてきます。
当然、運営資金を確保する意味もあります。
総本部だけが得をするといいますが、総本部は支部と違い大規模な大会開催や海外視察など支出も支部の比ではありません。
それに皆さんにもメリットはあります。月会費は銀行引き落としにするわけですが国内に100万人以上の会員を持つ極真会館は銀行からすれば大口の顧客となるのでいろいろ便宜をはかってくれます。
支部ごとに行うより間違いなく引き落とし手数料を低く設定できます。
数%総本部が徴収しても安くなった手数料分で補える支部もあるでしょう。
それに大手の銀行と取引すれば、地元の支店を通して後援者などを紹介してもらえたり融資も個人契約より便宜をはかってくれたりするでしょう。
つまりスケールメリットが高いということです」
と説明した。
しかし多くの支部長は聞く耳を持たず、結局、会員情報の一元管理は決まったが、月会費の一括徴収は先送りとなった。
これまで新しく入門者が入ると、支部は書類に記入してもらい総本部に提出。
総本部はそれを帳面に書きこんだ。
緩い管理の下で、入門者を報告しなかったり、道場生の数を少なくする支部もあった。
3段以上は総本部で受けなければならないが、2段までは昇級昇段試験は支部で行われる。
受験料は10000円で、昇級、昇段すれば手数料が発生する。
支部は受験料の一部と手数料を総本部に納め、総本部は帯を発行する。
そういう取り決めだったが、お金を納めずに帯も自分のところで発行する支部もあった。
こうしたことを大山倍達も総本部も見て見ぬふりをしてきたが、会員制度が実現すればそれは不可能となる。
これまで三瓶啓二を中心としたグループや高木薫たちが反松井を表明していたが、これ以降、これまで松井章圭を受け入れ支持していた支部長たちも密かに批判の声を上げ始め、反松井派は数を増していった。
「支部長たちはその裏にある危険な意図を敏感に感じ取ったわけです。
いったん本部に全部お金が入って、そこからというシステムにしたかったみたいですが、そうなると支部長は松井君の単なる雇われマダムになる危険性があるわけです。
彼の人間性ならそれをやりかねない」
大濱博幸(広島県支部長)

1995年1月17日、阪神大震災が発生。
自宅や本部道場、分支部道場など甚大な被害を被り、
「後継者どころじゃなかった」
という中村誠に、反松井から合流を促す電話やFaxが届いた。
しかし松井章圭は現地へ訪ねていき、大先輩に対して心からのねぎらいの言葉をかけただけで帰っていった。
「反松井派の連中は自分のことしか考えず電話で一方的にいいっぱなしなのに、館長はそんなゴタゴタなんかなあーんもいわずに、ただお見舞いときた。
よし、俺はこの男を、なにがなんでも守り立てちゃろうと思った」
1995年2月、廣重毅は西田幸夫に電話を入れた。
「自分のところに多くの支部長から松井に対する苦情が入っています。
かなり深刻なので支部長協議会議長である先輩にも彼らの話を聞いてほしいのですが・・・・」
「私も以前から松井ではダメだと思っていた。
長谷川(一幸)師範と大石(大吾)師範と3人で何度か話している。
彼らも松井に館長を任せておくことはできないといっている」
廣重毅は、郷田勇三、盧山初雄に次ぐ極真の3重鎮が松井章圭に不信感を持っていることに驚いた。
廣重毅は、独走する松井章圭の反省を促すことを考えていたが、西田幸夫らは松井章圭の2代目自体に不満を持っているようだった。
廣重毅は、三好一男(高知県支部長)、小林功[栃木県支部長]、柳渡聖人(岐阜県支部長)、大濱博幸(広島県支部長)、藤原康晴(長野県支部長)らに会合を開くことを伝えた。
三瓶啓二にも連絡したが
アフリカ遠征が控えていると参加は断られ
「帰国後、会合の内容を教えてほしい」
といわれた。

ケープタウンでに行われるアフリカ選手権を視察し、その後、各支部で指導を行うため、松井章圭、三瓶啓二、緑健児、通訳として五来克仁(国際秘書、ニューヨーク支部長)、小林洋(極真会館公認契約カメラマン)は、2週間のアフリカ遠征に出発した。
到着した南アフリカのホテルでは、松井章圭がスイート、三瓶啓二と緑健児にはツインルームが用意されていた。
「押忍」
朝、松井章圭がホテルのロビーに出ていくと南アフリカ支部の支部長と門下生は立ち上がって十字を切った。
「押忍」
松井章圭は同じ挨拶を返した。
このときロビーにいた三瓶啓二はソファーに腰を下ろしたままだった。
ホテルのドアも車のドアも南アフリカの支部長が開けてくれたが三瓶啓二は松井章圭より先に入り、乗った。
夕食のときに松井章圭はいった。
「僕は先輩として三瓶師範を尊敬しています。
ただ僕は館長としてここにきているのです・
ですから公的な場では僕を立ててください。
お願いします」
「わかった」
三瓶啓二は松井章圭のほうをみずに答え、その後も態度を変えることはなかった。
五来克仁は松井章圭を館長として敬ったが、緑健児は三瓶啓二に従うような態度もみせた。
会議の会場に松井章圭が入るとアフリカの支部長たちは全員立ち上がって迎えたが、三瓶啓二だけは座ったまま無視。
逆に自分の前を挨拶もしないで通り過ぎる松井章圭に怒りの表情みせた。
緑健児はさすがに立ち上がったが、松井章圭の三瓶啓二に対する態度に不満の表情をみせた。
その後、三瓶啓二は
「おいおい、それはそうじゃなくてこうしろ」
と会議を進行していた松井章圭の肩を突いて発言を遮った。
松井章圭は最初は無視していたが、あまりにしつこいので
「おとなしく座っていてください」
といってジェスチャーでなだめた。
それでも三瓶啓二は態度を変えないので
「いま会議中ですから黙っていてください。
ご意見は後程伺いますから」
といった。
会議後、三瓶啓二と緑健児はいった。
「松井は何をカリカリしているんだ」
(三瓶啓二)
「松井先輩、館長だからって気取ってますよね。
何ですか、あの三瓶師範に対する態度は・・」
(緑健児)
三瓶啓二の非常識な態度と行動は、その後もずっと続いた。

「三瓶師範、ちょっと話があるんですけど。
緑君も一緒に。
もしよろしければ小林さんも立ち会ってください」
帰国3日前、五来克仁も加わり5名全員が松井章圭の部屋に入った。
松井章圭はベッドに、三瓶啓二はそこから1番遠いソファーに座り松井章圭のほうをみようもしない。
「館長という立場上、三瓶先輩に対しては僭越といえるような態度や言動があったと思います。
まずそのことを謝ります。
失礼しました」
「いや、別にそんなことはどうでもいいよ」
「いいえ三瓶先輩、あえて先輩と呼ばせてもらいますが、自分にはまだいいたいことがあります」
松井章圭は三瓶啓二の数々の問題行動を挙げ、溜まりに溜まった鬱憤をぶちまけた。
「これらの行為が極真会館の将来を本当に思っておられる先輩のとる態度ですか。
自分は遊びで来ているんじゃない。
極真会館の公職としてこういう立場に立っているんです。
そのような場においては先輩後輩という立場を超えた立場というものがあってしかるべきじゃないですか。
このことを理解して、まずお互いが尊重し合うという関係に立てないですか。
僕は三瓶先輩を先輩として思わない日は1日もありません。
先輩が僕を館長として立ててくだされば僕だって先輩にキチンと対応します。
先輩が「館長、どうぞ」といってくれれば僕は「師範の方が先輩なのでどうぞ」といえるんです」
三瓶啓二も
「今日は直接打撃性でいこう」
と対応した。
やりとりが2時間ほど続いた後、三瓶啓二はいった。
「わかったよ。
今回は俺の負けだ。
これからはお前を立てるよ。
まあ、がんばれよ」
「やっとわかってくれた。
ここでのやりとりは他言無用にしよう」
と松井章圭がいい、小林洋が入れたワインで全員が乾杯。
しばらく談笑が続いたが
「それでもさ・・・・」
三瓶啓二が再び話を戻そうとした。
すると松井章圭がキレた。
「先輩、2時間もかけて話し合って、そこまでいうんでしたら話にならない。
さっき直接打撃制でいこうといいましたよね。
表へ出ましょう。
後輩が先輩に対してここまでのことをいうからには腹をくくっているんですよ。
やりましょうよ」
睨み合いが続いたが、先に目をそらしたのは三瓶啓二だった。
「いや、悪かったよ」
松井章圭は緑健児に目を移した。
「緑君もずっと僕に対して反発的な態度をとり続けていましたが、それは三瓶先輩への僕の態度が気に入らなかったということだけが理由ですか?」
松井章圭と緑健児は、大山倍達の生前は親しかった。
千葉県大会で戦ったこともあり、空手や稽古やトレーニングのことをよく話し合い、共に世界大会で優勝した。
「それだけじゃありません。
自分たちはまったく英語がわからないんです。
それなのに五来克仁は館長につきっきりで自分たちをケアしてくれない。
何をいっているかわからないしこちらの気持ちを伝えることもできませんでした」
「そうでしたか。
それじゃ次からはもう1人通訳をつけます。
三瓶先輩もわかってくれたなら僕はそれでいいですから、今までのことは全部水に流しましょう」
改めて全員で乾杯し、笑いを交えた雑談が続いた。
「最初はどうなることかと思ったが最後は空手家らしくきれいに終わった。
これが極真だね」
(小林洋)
翌朝、同部屋の三瓶啓二と緑健児は朝食のためにレストランにいった。
ビュッフェスタイルの朝食だったが椅子に座ったまま三瓶啓二は動かなかった。
「三瓶師範、取りにいかないんですか?」
「俺は館長を待ってるからいきたかったらお前は先にいけ」
結局、緑健児も一緒に待ち、松井章圭がレストランに姿を現すと立ち上がり
「おはようございます」
と頭を下げあいさつした。
松井章圭も丁寧にあいさつを返した。

1995年2月15日、松井章圭がアフリカ遠征中、新宿京王プラザホテルで、大山智弥子を真ん中にして極真会館から除名された5名、高木薫、手塚暢人、安済友吉、小野寺勝美、林栄次郎が並んで
「大山智弥子・極真会館2代目就任」
の記者会見を開いた。
5人は
「松井たちがヤクザのように極真会館を乗っ取った」
「遺言書は総裁が死んだ後につくられた可能性もある」
「松井たちが預金通帳、現金、実印、土地建物の権利証を奪い、遺族の支払いも減らされ困っている」
「松井は全日本チャンピオン、世界チャンピオンにあったが、それは私は偶然じゃないかと」
と松井章圭を厳しく糾弾した。
大山智弥子
「あまり役に立ちそうにない館長ですけど、役に立ちたいと思っています。
私はね、館長という名をいただくほどの立場ではないんですよ。
でもやっぱり自分の気持ちを偽ってまで仏さんをお守りできないのでお仲間に入れてもらいました。
よろしくお願いします」
「私の気持ちとしては皆さんが松井さんともっと話し合ってほしいなという思いはあります。
夢にまでみますもん。
みんながニコニコしてるのを・・・
うれしいなと思っても実際に下に降りるともう嫌になっちゃう」
「私たち家族を大切にしてくれるなら私は松井さんでもいいのよ。
皆さん、極真が仲良く素晴らし団体になるようによろしくお願いしますね」
と何かが少しズレていた。
しかし大山智弥子の館長就任によって1つだった極真が割れた。
「極真会館」を名乗る団体が2つになり、松井章圭を館長とする極真を「松井派」、大山智弥子を館長とする極真は「遺族派」と呼ばれるようになった。
同時期、長谷川一幸、大石大吾、西田幸夫、廣重毅、小林功[栃木県支部長]、大濱博幸(広島県支部長)が東京港区新橋の第一ホテルで集まった。
「自分の後援会の人が、松井さんたちのやり方はヤクザの乗っ取りの手法だといっていました
許永中が乗っ取ろうとしているみたいですよ」
「それは俺も聞いている。
松井はヤクザの襲名披露のようなことをしようとしているらしい」
批判を繰り返し
「松井が館長ではダメだ」
という意見にまとまっていった。

アフリカから帰国後、松井章圭は遺族派への対応を、郷田勇三と盧山初雄らと相談した。
その内容は不誠実なものに思えたが、遺族への配慮を含めて反対会見などは行わないことにした
これまで遺族には毎月200万円を支払われていた。
遺言書に記載されている400万円(妻と3人の娘に100万円ずつ)は満たしていなかったが、財務状況から仕方がなかった
また東京駅のホテル国際観光ホテルで、長谷川一幸、大石大吾、西田幸夫、廣重毅、小林功、大濱博幸ら1度目のメンバーに、アフリカら帰国した三瓶啓二、七戸康博、田畑繁(山形県支部長)、藤原康晴(長野県支部長)などを加え、2度目の会合が開かれた。
「もう松井ではダメだ。
松井の独占を許してはいけない。
我々が極真を守っていくべきだ」
西田幸夫がいうと大半は同調した。
「先輩、どういうことですか。
自分はアフリカでこれからは松井を立てて頑張っていくと松井本人と話してきたんです。
いろいろ不満もあったけどそういうことも全部話して、経理を公開するという言質もとって和解したんですよ。
それなのに戻ってきたら松井を降ろす話になっている」
それまで1番激しく松井章圭を批判していた三瓶啓二の変わりように全員が驚いた。
しかし三瓶啓二は
「でも先輩たちがそういうのなら自分は協力せざる得ないですよね。
自分は松井と頑張っていこうと話してきたけれどそういうことであれば先輩たちに従います」
と続けた。
その後は全員が松井体制の問題点を挙げていった。

「そういえば密葬のときに梅田(義嘉)先生に後継者を発表させたのは山田(雅捻)先輩だと浜井(識安、石川県支部長)さんがいっていました」
(三瓶啓二)
反松井派にとって山田雅捻は疑惑の人物だった。
遺言の5人の証人のうち、大西靖人 、米津等史 が城西支部出身。
通夜の夜の記者会見(1994年4月26日)で何の肩書もない山田雅捻が司会を務め、「後継者は6月の全日本ウエイト制大会までにに発表する」といっておきながら、告別式(1994年4月27日)の出棺時に梅田義嘉が「遺言書に後継者として松井章圭君が指名されている」と発表。
その遺言書は大山倍達の直筆サインも口述録音もなく、書き直された疑いがある。
アフリカ遠征に通訳として同行した五来克仁も城西支部出身だったが、1度、極真をやめてUS大山に入門し、大山倍達の死後、すぐにニューヨーク支部長、そして国際秘書となった。
また「J-NETWORK事件」もあった。
少し以前に城西支部旧三軒茶屋分支部長で第1回全日本ウェイト制大会軽量級優勝者でもある大賀雅裕が、城南支部のテリトリー内にJ-NETWORKというキックボクシングのジムを出すという噂があると
緑健児は廣重毅に報告したことがあった。
「大賀さんが城南にキックのジムを出そうとしています。
これはルール違反だから抗議した方がいいと思います。
極真の分支部長がキックボクシングのジムを出すこと自体おかしいし指導員のほとんどが城西の人間らしいですよ。
J-NETWORKは城西支部のダミー道場なんじゃないですか?
もしジムを出すことを認めてしまったら全国にどこでもJ-NETWORKという名前で城西の道場ができてしまいます」
廣重毅は山田雅捻に抗議したことが、そのジムは城西支部の管轄下にあり、大賀雅裕は大山倍達が亡くなる直前に極真を退会していたことがわかった。
廣重毅は理解。
大賀雅裕は新しくジムを出すときは、事前にその地の極真の支部長に報告すると約束した。
その後、廣重毅は松井章圭から「大賀雅裕が新しいジムを出す」と連絡を受けた。
「大賀が神泉(東京都渋谷区)にジムを出すらしいぞ。
松井がいってきたよ。
もうすでに不動産なんかの契約はしたんだけどいいかって。
もしダメならやめさせるといってたけど了承したよ」
話を聞いた緑健児は、ますますJ-NETWORKが城西支部のダミー道場であり、山田雅捻と松井章圭が支援しているという疑いを強めた。
「師範、それはおかしいですよ。
賃貸契約した後に電話してくるというのは筋が通っていません」
そういった事実から反松井派は
「山田雅捻が黒幕ではないか?」
と疑った。
「密葬(告別式)のときに後継者の名前を発表させたのが山田師範なら、松井より松井の取り巻きが悪いのではないですか?
だったら山田師範を落とせばいいんですよ。
梅田先生に2代目を発表させたのが山田師範だということが明らかになれば、他の支部長も黙っていないでしょう。
山田師範の責任を問うはずです。
山田師範を極真から追放すれば松井もおとなしくなりますよ」
(柳渡聖人)
「浜井(識安)さんにその話を聞いたとき、いずれ証言してもらう日が来ると思うから、そのときは絶対に知らないといわないでほしいと頼んだら了解してくれた。
だから俺が会議の場で浜井さんから改めて言質を取り責任をもって山田先輩を追求する」
(三瓶啓二)
こうして彼らは全国の支部長を集め、松井章圭とその取り巻きを弾劾する会議を開くことを決めた。
そして彼らの呼びかけを受けた全国の支部長たちは、臨時全国支部長会議を開くことに賛成した。
この後、三瓶啓二は浜井識安に確認をとったが
「そんなことあるはずないだろう。
梅田先生も自分の意志だったといっているぞ」
といわれてしまった。
梅田義嘉は
「総裁が荼毘にふされ灰になる前に総裁の意志を伝えておきたいと、善かれと思い出棺の前に発表した」
といっていた。
しかし先輩を含む仲間に
「間違いだった」
とはいえなかった。

1995年3月、郷田勇三は西田幸夫から電話を受けた。
「多くの支部長が松井章圭に我慢できないといっているので、支部長協議会か全国支部長会議を開いて話し合いたい」
そして数日後、突然、連絡もなしに西田幸夫がやってきた。
「師範、全員そのつもりですから。
師範もどうか自分たちに協力してください。
みんな待ってますから。
明後日です。
お願いします」
「全員って本当かよ。
それは支部長協議会でやるのか?
それとも支部長会議なのか?」
「一応、支部長協議会です」
「西田、そんなにすげなく帰るなよ。
今日はいい鰹が手に入ったから一緒に飯でも食いながら話そう」
「申し訳ありません。
今日はこれで失礼します」
郷田勇三は背中を向ける大山道場時代からの後輩にいった。
「支部長協議会なら議長であるおまえにも開く権利はあるが、支部長会議となれば館長の要請か了承がないと開けないぞ」
西田幸夫が帰ると郷田勇三は盧山初雄と松井章圭に電話を入れた。
1995年3月9日、メトロポリタンホテルに、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、西田幸夫、廣重毅が集まった。
西田幸夫、廣重毅から話を聞き、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄事態は深刻さを知った。
「お前は明日の会議に出ない方がいい」
(盧山初雄)
「それはおかしいでしょう」
(松井章圭)
「お前がいたらみんな何もいえないんだよ」
(廣重毅)
「とにかくまず私たちが意見を聞いてくるから」
(盧山初雄)
「わかりました。
その代わりに10日の会議で出た内容を踏まえて11日にもう1度会議を開いてください」

1995年3月10日、全国の支部長がメトロポリタンホテルに集まり、支部長協議会議長である西田幸夫が議事を進めていった。
「なぜ密葬のときに後継者を発表してしまったのか?」
「本葬後、香典は銀行が管理することになっていたのに松井が持って帰った」
「松井は極真のマークやロゴを個人名義で商標登録した」
「松井は館長になってから先輩に対する態度が横柄だ」
「松井はヤクザとつながっている」
など松井章圭に対する疑問や批判が挙げられ、意見が話し合われた。
そして
「密葬のときに梅田先生に2代目を発表させたのは山田師範と聞いたのですが本当ですか?」
と柳渡聖人が山田雅捻に質問した。
「いってません。
あれは梅田先生の意志でやったことでしょう」
そういわれても三瓶啓二を除く反松井派は
(それもお前がいわせたんだろう)
と思っていた。
「でも浜井先輩、山田師範が梅田先生を説得して密葬の場で発表させたって自分にそういいましたよね」
(三瓶啓二)
「知らないよ」
(浜井識安)
「そうですか」
反松井派は、追求することなく三瓶啓二に肩透かしを食らった。
西田幸夫は
1 絶対に松井体制を支持できない
2 松井が支部長たちの意見を真摯に受け止め改めるところを改めるなら松井体制を支持する
3 無条件で松井体制を支持する
の3択で支部長たちに挙手させることにした。
結果、大多数が2に手を挙げた。
1は、長谷川一幸、大石大吾、西田幸夫、三瓶啓二、三好一男、小林功、柳渡聖人、大濱博幸、藤原康晴、七戸康博など十数名。
3は、山田雅捻、1人だけだった。
郷田勇三と盧山初雄は、1で挙手した西田幸夫に驚いた。

1995年3月11日、昨日のメンバーに松井章圭が加わって改めて会議が行われた。
議長は西田幸夫。
松井章圭は、質問を受けて説明し誤っていたと認めれば謝罪した。
「本葬の香典は銀行に預けると支部長会議で決まっていたはずだよね。
それなのになぜ持ち帰ってしまったのか。
我々はそれにものすごく不信感を抱いているんだ」
(三好一男)
「銀行はお金の合計額は出してくれても誰がいくら包んでくれたという詳細まで出してくれませんので、それではお礼の際に困ると思い、私が持ち帰り事務員たちと一緒にその明細をつくりました。
その後、お金は銀行に預けました。
ただそのときに事情をきちんと説明するべきでした」
(松井章圭)
「いったん会議で決まったことも勝手に変更したよね。
それでは会議を開く意味がないし独断でしょう。
極真会館は松井の私物じゃない。
例えば「総裁」の呼称は今後誰も使用しないと決まったのにどうして総裁を名乗っているんだ」
(三好一男)
「私は総裁と名乗ったことはありません」
(松井章圭)
「封筒に総裁・松井章圭と書いてあるじゃないか」
「それはそもそも会則に「国際空手道連盟総裁は極真会館の館長を兼ねる」という明文がありますよね。
だから従来の書式に倣って封筒には「国際空手道連盟総裁 極真会館館長 松井章圭」と書いてあります。
これは1つの規定ですから。
でも私は「総裁の松井です」と名乗ったことは1度もありません」
(松井章圭)
「独断といえば極真の商標権を松井の個人名義で登録したのも自分らは聞かされていない。
故人の名義なんておかしいし、極真を私物化している証拠だろう」
(三好一男)
「大山総裁存命中ならまだしも、亡くなられたことで「極真」というブランドがどのような形で悪用されるかわかりません。
そうならないためにも商標登録は急務だと考えていました。
ただ極真会館はまだ法人としての登記がなされていません。
法的に組織としてみなされていないのです。
商標を登録する法人格がないため、まず長である私の名前で登録しました。
いずれ財団法人など法人格を取得した際にはそちらに移行させるつもりです」
(松井章圭)
「皆さんから挙がった問題点をみると、とても細かい内容まで書いてあるけど、基本的に支部長会議は年に2回しかないわけでしょう。
全支部長の許可を得ないと何も進まないのでは組織は円滑に動かない。
要は館長の権限をどこまで認めるかという部分が重要であって、それについては支部長たちの間にかなりの誤認の差がある気がするよね」
(浜井識安)
「でも商標権の登録は大きなことですよ。
それを支部長の意見をまったく聞かずに個人の名前で登録するなんておかしいでしょう。
しかも総裁が亡くなった直後に動いているなんて納得できるわけがないじゃないですか」
(三好一男)
「皆さんの意見を聞かず話を進めてしまったことは謝ります。
ただ迅速にかつ個人名義で登録せざる得なかった状況についてはわかっていただきたい」
(松井章圭)
「山田師範にも腑に落ちない点が多々あります。
例えばニューヨーク支部長になった五来っていますね。
いつの間にかニューヨーク支部長になっていた五来ですよ。
彼はもともと山田師範の弟子でしたが極真を辞めてUS大山に入門した人間でしょう。
それを総裁が亡くなってすぐに極真に戻して、しかも支部長どころか国際秘書にまでしてしまった。
これも自分たちには何も知らされていないんですよ。
おかしいですよね」」
(三好一男)
「いやそれは誤解だよ。
総裁がまだ生きてらしたときに総裁自身が五来を支部長に任命したんですよ。
ちゃんと認可状もあるから確認してください」
(山田雅捻)
「大西(靖人、遺言状の承認の1人)もそうですよね。
彼も元城西支部じゃないですか。
しかも大西は極真を離れて極真に対抗するような団体を勝手に作った。
いわば極真を裏切った人間ですよ」
(三好一男)
「大西は極真に戻っていないでしょう。
大西は総裁に「極真に戻って支部長になれといわれたけど断った」といっていたよ。
組織の人間ではなく違った形で極真を応援していきたいといったら総裁は喜んでくれたと。
私とはまったく関係のない人脈で大西は総裁に再会した。
私には総裁に合ってこういう話をしましたとわざわざ報告してくれただけです。
私が大西と総裁を会わせたのではありません」
(山田雅捻)

「J-NETWORK事件も廣重師範の許可なく城南のテリトリーにジムを出すっていうのはおかしでしょう。
しかも分支部長をやりながらキックボクシングのジムを出すなんて何を考えているんですか。
松井がJ-NETWORKの役員をやっているとも聞いているし」
(柳渡聖人)
「ちょっと待て。
確かにその話はしたけどJ-NETWORKについてはもう終わったから。
俺はちゃんと説明を受けたから問題ないんだよ。
みんなにも連絡が行ったでしょう?」
(廣重毅)
「そうですか・・・
じゃあJ-NETWORKについてはいいですけど・・・」
(柳渡聖人)
「よくないですよ。
終わっていません。
それを含めて全部、山田雅捻が仕組んだのではないですか」
(緑健児)
その後、山田雅捻への追求が続き、怒声が飛び交った。
「じゃあ私が責任を取って辞めればいいんでしょう!」
少しキレた山田雅捻がいった瞬間、松井章圭は拳で机を叩いた。
「みなさんは何をやっているんですか。
今回の会議の論点は僕のはずです。
山田支部長を集中攻撃するようなことはやめてください」
この大声で会議場は静かになった。
その後も何も決まらぬまま会議は進んだ。
「そもそも密葬のときに2代目を発表してしまったことが大きな問題だと思うんだよね、自分は。
だからいったん松井は館長を降りて、公平かつ公正にみんなで館長を選任すればいいんじゃないですか。
高木さんたちが事務長の館長就任を発表したことも踏まえて、事務長にもいったん館長を降りてもらって、どっちが館長としてふさわしいか選んだらいいのではないですか。
それならみんな納得すると思うんだけど」
(廣重毅)
「ちょっと待ってよ。
それはあり得ないでしょう。
みんなのいい分に納得できないのに松井が館長を降りるのはおかしいよ。
それに奥さんと松井を天秤にかけるというのも筋が通らない。
そもそも奥さんを担いだ高木さんたちは除名された人たちですよ」
(浜井識安)
「廣重、それじゃ大山総裁の意志はどうなるんだ。
松井を2代目に選んだのは大山総裁だろう。
松井を気に入らないからと総裁の意志を反故にして弟子が勝手に2代目を決めてもいいのか」
「松井がいったん降りても自分が必ず松井を再選させます。
もしそうならなかったら腹を切ります」
(廣重毅)
こうして会議は終わった。
「遺族派」に続いて、第3の極真、「支部長協議会派」が姿を現した。
彼らはその後、同志を集めていったが、松井章圭は
「たとえ1人になっても戦う」
と腹をくくった。

数日後、郷田勇三の道場に廣重毅が駆け込んだ。
「松井が100人組手で八巻を潰そうとしています。
許せません」
八巻建志は、前年10月の全日本大会で優勝し、11月の世界大会でも日本代表の筆頭だった。
その全日本大会の1週間前に松井章圭は八巻建志に電話を入れた。
「今晩、食事でもしませんか」
そして夜、レストランで会った。
「大会終了後、100人組手をやりませんか?」
「それだけは勘弁してください」
「何故できないんですか?」
「世界大会に勝ちたいんです。
100人組手で体を壊したら元も子もありません」
「そうかな。
勝つためにやるんじゃないの?
君は1度限界をみておくべきですよ」
「でも100人組手だけは・・・」
「限界のわかった人間は強いよ
これは私が保証します」
「しばらく考えさせてください」
八巻建志に相談されて廣重毅は
「あまり難しく考えず
とりあえず100人と戦って立っていられたらいいんじゃないか」
といった。
八巻建志はやることに決めた。
その後、廣重毅は館長である松井章圭に、1人当たり1分30秒で行うように依頼し認められた。
ところが緑健児に
「当日は2分で戦わせるつもりですよ」
といわれ、すぐに総本部に電話を入れて100人組手の時間を聞くと、事務員の黒田都士は
「2分です」
と答えたという。
郷田勇三はすぐに松井章圭に電話をして問い正した。
「1分30秒ですけど・・・・」
「廣重が黒田に確認したら2分だっていっていたらしいぞ」
「ちょっと待ってください」
3階の館長室を遺族にカギをかけられ、2階の事務所で事務員と共に業務していた松井章圭は、目の前で働いている黒田都士に確認した。
黒田都士は過去の100人組手の記録をみて答えただけだった。
廣重毅はこの件を三瓶啓二にも伝えた。
すると
「私が審判するから大丈夫ですよ。
任せてください」
といわれた。

1995年3月18日、八巻建志と前回の世界大会でアンディ・フグを失神KOしたフランシスコ・フィリョの100人組手が行われた。
西池袋の極真会館総本部の2階道場には全日本ベスト8を含む対戦相手が勢ぞろいした。
土曜日で休みだったが、廣重毅は知り合いの病院に頼んで待機してもらった。
これは増田章のアドバイスによるもので、増田章は日曜日に挑戦し病院が休みだったために翌日に入院したため腎不全が悪化し入院は2ヵ月に及んだ。
松井章圭は100人組手を
「70人目になると相手を殺したくなる。
80人目になるとそんなことも忘れ90人目以降は立っているのだやっと」
といった。
事実、松井章圭は67人目で頭突きと道着をつかんでの膝蹴りを行い、増田章は76人目で相手に噛みついた。
八巻建志のセコンドには緑健児がついた。
次の世界大会の優勝候補であるブラジル支部の磯辺師範が鋭い視線でみていた。
八巻建志の挑戦の後、弟子であるフランシスコ・フィリョが挑戦することになっていた。
10時21分、太鼓が鳴らされ100人組手が開始。
1人目は八巻建志の後輩の塚本徳臣。
やりにくそうな2人に松井章圭が檄を飛ばした。
「チンタラやっていたらダメだよ!」
3人目、再度、松井章圭が注意。
「力を抜いてやったら中止にしますよ。
意味のない100人組手にしないでください」
この言葉で場内の空気が変わり、遠慮気味だった対戦相手が一気にヒートアップした。
10人目を超えると汗で重くなった両腕のサポーターを外した。
30人目黒幕くらいまでは、上段、中段の蹴り、膝蹴り、踵落とし、後ろ回し蹴りなどの大技も出ていたが、徐々に相手の軸足を刈って下段突きを決めるケースが増えた。
40人目が終わったところで右膝のテーピングとサポーターを手早く外してコールドスプレーで冷やした。
50人目を終えた時点で負け無し。
脚は動かず相手の攻撃を受けることが多く、相手の攻撃をブロックしても、ブロックした腕に激痛が走った。、
60人目を終えたところで15分インターバル。
汗を含んで重くなった道着を着替え大の字に寝転がりマッサージを受ける八巻建志を緑健児が励ました。
「大丈夫いける。
絶対いける」
両脚、両腕は腫れ上がり相手の攻撃をブロックするたびに激痛が走り、ガードが甘くなりなんでもない攻撃をもらい後退するシーンが目立つ。
80人目を終えて廣重毅が檄を飛ばした
「八巻、100人組手はここからだ!」
(そうだ!これからだ)
「やめ」
「はじめ」
意識が薄く、主審の声が遠くに聞こえた。
苦痛に顔が歪み相手の攻撃を身をよじって避けようとして90人目で初めて負けた。
「あと10人」
「アーアー」
攻撃をもらうと泣き声とも呻き声ともつかない声が口から漏れた。
100人目の数見肇は容赦ない突きと蹴りを先輩に叩き込んだ。
その1発1発は先輩、がんばれと励ましているようでもあった。
2人は脚を止めて打ち合い、終了の太鼓が鳴った
八巻建志が天を仰ぐと天井がグラリとゆれて体がよろけた。
所要時間3時間27分
1本勝ち22
優勢勝ち61(技あり23)
引き分け12
負け5
すぐに車で病院に直行し治療が始まった。
「どうしてこんなひどいことになったの?
交通事故?」
医者が驚くほどの惨状だった。
極度の全身打撲で筋肉の組織が破壊され、急性腎不全を併発していた。
尿道に管を差し小便を出すと色がドス黒くポツポツと肉の塊のようなものが浮いていた。
破壊された細胞の破片だった。
点滴がうたれ酸素マスクを口に当てられた。
「人工透析しなきゃダメだな」
医者がいった。
八巻建志はできれば自然治癒させたいといった。
「10日して尿の潜血などの数値が下がらないようだと透析に踏み切らざる得ない」

フランシスコ・フィリョは、八巻建志のように打ち合わず、相手と距離を保って強力な蹴りで戦い、
1本勝ち26
優勢勝ち50(技あり38)
引き分け24
負け0
と史上初の無敗で100人組手を達成した。
大したダメージもなく翌日には茨木健武道館で行われた全関東大会を観戦しブラジルに帰っていた。
その頃、八巻建志は病院でウンウン唸っていた
フランシスコ・フィリョが観戦した全関東大会(1995年3月19日)には、城西支部の分支部長である黒澤浩樹もいた。
大会後のレセプションで城西支部の先輩である三和純に声をかけられた。
「話がある」
そして別室に移動すると増田章がいたが、三和純に耳打ちしただけで部屋を出て行った。
増田章は、城西支部では黒澤浩樹の後輩だった。
「廣重師範が黒澤に会いたがってるから、これから会ってくれないか」
三和純にいったが、それは変な話だった。
城南支部と城西支部はライバルだったし、廣重師範と黒澤浩樹は個人的にも犬猿の仲だった。
黒澤浩樹が城南支部の道場生に
「城西支部の選手は弱い」
といい、それを聞いたカチンときた廣重師範が試合に勝つことに燃え始めた。
1988年の第20回全日本大会3回戦で、黒澤浩樹は吉岡肇と対戦。
黒澤浩樹はガンガン押して優勢に試合を進めていた。
中盤、 吉岡智の上段後ろ回し蹴りが側頭部に巻きついたが腕でブロック。
黒澤浩樹は、体勢を崩したがダメージはなく攻撃を続行し、吉岡智を場外に押し出した。
しかし副審の広重毅師範が笛を吹いて、吉岡肇の「技あり」をアピール。
流していた主審が、あわてて試合を止めて、4人の副審の確認をとった。
すると全員が旗が上がって、黒澤浩樹は「技あり」をとられた。
(倒せばいいんだろ!!)
黒澤浩樹は怒りを爆発させ、すぐに吉岡智をダウンさせ「技あり」を取り返した。
ここで冷静に戻れば確実に勝っていただろうが、黒澤浩樹はアクセルを戻さず強引な攻撃を続けた。
吉岡智は、間合いを詰めて攻撃してくる黒澤浩樹に冷静に下がりながら左上段回し蹴りを合わせた。
黒澤浩樹はマットに倒れ、技あり、合わせて一本。
そして退場後、
「すまん。
俺はないと思ったけど、廣重師範が笛を吹くもんだから・・・」
と主審が声にかけられた。
「どうして自分が廣重師範に会わないといけないんですか。
何の用事があるんですか。
それになぜ三和先輩が廣重師範の代理で自分にそんなこというんですか。
おかしいじゃないですか」
「自分と増田は三瓶先輩からいろいろ極真の現状を聞かされた後、三瓶先輩にいわれて廣重師範に会いに行った。
廣重師範からも話を聞いてこのままじゃいけないと思ったんだ。
松井さんが館長では極真は潰れる。
三瓶師範と西田師範は支部長協議会のトップとして松井さんを館長から降ろして民主的な合議制で極真を運営していかないといけないとおっしゃってる。
そうしないと極真は松井さんの独裁になってヤバイ連中に乗っ取られてしまうんだぞ。
だから自分と増田は支部長協議会の一員として極真を守っていこうと思う。
それで廣重師範が黒澤を呼んでくれというのでお前に話をしているんだよ。
山田師範は松井さんと一心同体なんだ。
山田師範のもとにいたら自分たちはみんな飼い殺しだよ。
一生支部長になれない
今離れないと大変なことになるぞ」

三和純と増田章は100人組手が行われた日に廣重毅と会った。
三和純は、城西支部の古い黒帯で、山田雅捻の代わりに城西支部本部道場の指導を任せれるほど優秀な分支部長だった。
として城西支部を支えていた。
増田章も、城西支部分支部長だった。
元々は石川県支部出身で最初に空手を習ったのは浜井識安。
そして城西支部に移籍後、山田雅捻の指導を受け、全日本で優勝し、世界大会で2位になり、100人組手を達成した。
三瓶啓二と中村誠の「山誠時代」の後の極真は、松井章圭、黒澤浩樹、増田章の「三強時代」だった。
黒澤浩樹も増田章も松井章圭に試合で1度も勝てなかったが、
「ケンカでは勝っていた」
と評価されるほど、その強さでは負けていなかった。
2人は師である山田雅捻に弓を引くことになることを承知で、その場で支部長協議会派に入ることを決めた。
支部長協議会派に入った支部長は、松井支持の支部長や支持不支持が明確でない支部長を勧誘していった。
中でも猪突猛進の増田章とその小さな体で無差別級の世界大会で優勝した「小さな巨人」緑健児の存在は大きく、支部長協議会派は急激に人数を増やしていった。
「会いたくありません。
自分は廣重師範が嫌いですから」
黒澤浩樹は、そういってレセプションを欠席し帰宅してしまった。
三和純の話も、コソコソ耳打ちして出て行った増田章の態度も気に入らなかった。
黒澤浩樹は松井章圭と同年齢だったが、まだ現役だった。
分裂騒動も、第6回世界大会を目指し汗をかき続ける黒澤浩樹にとって問題ではなかった。
(勝ちたい!)
(燃え尽きたい!)
それがすべてだった。
家に帰ると廣重師範が電話をかけてきたが居留守を使った。
翌日も電話があり、さすがに受話器をとった。
「松井への反発がものすごく大きくなっている。
このままでは松井はやっていけなくなるだろう。
今は何としても選手を中心にまとまらなければならないんだ。
だから黒澤君も私たちと一緒に動いてくれ」
「自分は結構です」
「君はそんないい加減なことでいいのか!」
説教が始まったが黒澤浩樹は、
「押忍」
といいながら聞き流した。


1995年3月31日、大山倍達の遺族の遺言書の無効と執行差し止め請求に対して、東京家庭裁判所は
1 証人の梅田嘉明が株式会社グレートマウンテンの代表取締役になっていて利害関係があること
2 遺言書で娘の名前が間違って表記されていること
3 智弥子夫人を遺言書作成から排除し」、死後数日たってから知らせたこと
という点から遺言書の無効を認めた。
1995年4月、極真空手の月刊機関紙「パワー空手」が、「ワールド空手」に名前を変え創刊された。
それまで「パワー空手」は、大山倍達が代表取締役だった「(有)パワー空手出版社」が発行権を持って、ぴいぷる社が制作を委託されていたが、大山倍達死後、妻の智弥子が(有)パワー空手出版社の代表となった。
そして遺族派によって2代目館長に立てられた大山智弥子は、「パワー空手」で松井章圭館長関連の記事は掲載を禁じた。
ぴいぷる社はそれを拒否し、新たに契約を結び直し「ワールド空手」を創刊。
内容はほぼ同じだった。
同月、「パワー空手」臨時増刊号が
「家裁の審判下る!
遺言書は無効」
という見出しで発刊された。
(その後、発刊されず廃刊になったかと思われたが、2年後の1997年11月、「大山倍達が総裁が残した極真唯一の機関紙が復活」と過去の記事を編集し発刊。
さらに半年後の1998年5月、6月と立て続けに発刊。
その後消えた)

松井章圭は、全国の支部長に新しい人事を発表した。
相談役:黒澤明
理事長:梅田義嘉
理事:大西靖人、米津等史
統括本部を創設し本部長:山田雅捻
副本部長:浜井識安、廣重毅
遺言書の証人や自分の支持する支部長を役職につけるやり方に、廣重毅は
「こんな人事を発表したら反発される」
と反対したが、郷田勇三に
「気に入らない奴は辞めてくれて結構だ」
といわれた。
そして廣重毅は支部長協議会派に入った。
1995年4月4日早朝、三和純と増田章は山田雅捻の家を訪ねた。
「どうした?」
増田章は松井館長を支持できないと話し出した。
「わかった。
要は三瓶さんたちと一緒にやりたいんだろう?
好きにやっていいよ」
(山田雅捻)
「自分は支部長協議会派でやっていくことにしました」
(三和純)
「岡本はどうするんだ?」
全日本大会で4位になった岡本徹は三和純が育てた選手だった。
「自分についてきてくれると思います」
「そうか、いい弟子を持ったな」
支部長協議会派は、すでに過半数の支部長を獲得していたので、館長解任の決議を行うことを決めた。
支部長協議会ではなく支部長会議を開くことを全国の支部長に通達した。
1995年4月5日、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安は「支部長協議会」と思って会場に向かった。
支部長会議は正装である黄色のブレザーの着用が義務付けられていたが、支部長協議会は私服が認められていたので4人は私服だった。
しかし会議室に入るとみんな黄色のブレザーを着て座っていた。
「どうしてみんなブレザーを着ているんだ?」
浜井識安が聞いても誰も答えなかった。
硬い表情で目も合わせなかった。
14時、
「これから支部長会議を始めます。
議題のある人は挙手願います」
西田幸夫が会議をスタート。
すぐに三瓶啓二が手を挙げた。
「議長、館長の解任を議案します」
異議を唱える者はおらず
「では館長解任の議案が出たので決議を行います」
館長解任に賛成の人は立ってください」
議長(西田幸夫)、副議長(三瓶啓二)を含む38名が立ち上がった。
(支部長は欠席を含めて全部で48人いた)
「お前ら、これはどういうことだ」
郷田勇三、盧山初雄、浜井識安は、西田幸夫、三瓶啓二に詰め寄った。
「何も話すことはありません。
これが現実なんです」
(西田幸夫)
松井章圭は支部長の顔をみたが、みんな下を向いて目を合わせようとしなかった。
「皆さんは僕の何がそこまで気に入らないんですか?」
「俺はお前の話し方も歩き方も、お前の全部が嫌いなんだ」
(柳渡聖人)
「ではこれで支部長会議を終わります」
西田幸夫は、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安の抗議を無視し強引に閉会を宣言。
支部長たちは我先に会場を出て行った。
「松井、絶対に立つなよ。
堂々と座っていろ。
いいか、我々でなくあいつらが出ていくんだからな」
(盧山初雄)
会場の残ったのは、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安、浜井良明(富山県支部長)、湖山彰夫(鳥取、島根県支部長)の6名。
山田雅捻は所用で欠席。
廣重毅も所用で遅刻していて、着いたときはすでに約20分間の会議は終わっていた。
「よかったな、松井。
みんな出て行ってくれた。
これで本当の空手ができる。
私たちを支持してくれる人間だけで精一杯極真を守っていこう」
(盧山初雄)
そして総本部へ戻ることにした。
ホテルの入り口に記者にいた。
「重要な発表があるとFaxが届いたのですが何の会見ですか?」
「記者会見?
そうですか。
そういうことですか。
最悪の事態になってしまいました。
極真会館派分裂です」

支部長協議会派は同じホテルで記者会見を行う手はずを整えていた。
15時45分、記者会見が始まった。
緑健児、松島良一(審判長)、三瓶啓二、西田幸夫、長谷川一幸、桝田博(副審判長)が並び、その他の支部長が記者席の後ろに陣取っていた。
三瓶啓二は「館長解任の宣言文」を読み上げていった。
「松井章圭君を極真会館館長から解任することを決定いたしました」
「解任理由は、極真会館の私物化、独断専行、不透明な経理処理」
「今後は西田幸夫支部長協議会議長を中心にした新体制」
「(遺族派が大山智弥子を館長としているので)館長という名称は使わない」
「智弥子未亡人にはできれば組織に入ってもらいたいと思っています」
「松井君は速やかに極真会館総本部から身を退き明け渡すべき」
「松井君が自らの行動の非に気づき反省した上で一支部長として我々と汗を流したいというのであれば、いつでもこれを受け入れる」
松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安は総本部に戻った。
「あいつら本部にやってくるから今夜はここに籠城するしかないぞ」
盧山初雄の言葉に笑いが起こった。
しかしその通り、西田幸夫、三瓶啓二を先頭に支部長協議会派の支部長が押し寄せてきて、総本部のロビーで対峙した。
「解任されたのだから出ていけ」
「そうだ、そうだ」
「決議に従って退去」
「館長を降りろ」
多勢に無勢だったが、盧山初雄は怯むことなく声を張り上げた。
「なぜ松井が出ていかなければならないんだ。
あんな茶番劇は認められない。
そもそも支部長会議にも支部長協議会にも館長を解任する権限はないはずだ。
お前らがやったことはクーデター以外の何物でもない。
それに松井が気に入らないと極真から出ていったのはお前らのほうだろう。
勘違いするな」
「38名もの支部長が松井ではダメだといっているんです。
それを認めるべきでしょう。
松井解任に異議がある人も出て行ってくださいよ」
(三瓶啓二)
「お前ら上等じゃないか。
ふざけるな。
そこまでいうなら俺はそのケンカを買うぞ」
(郷田雄三)
押し問答が続いたが、誰かはわからないが
「もう疲れたら帰ろう」
という一言で支部長協議会は帰り始めた。
「また出直してきます」
三瓶啓二もそういって引き上げた。

翌日(1995年4月6日)、山田雅捻は城西支部の分支部長を招集した。
「一昨日の朝、三和と増田が家に来て、「自分たちは松井を立てることはできないから向こうの組織にいきます」といって帰った。
お前らも彼らと一緒に支部長協議会派でやっていきたいならいってもいいぞ」
黒澤浩樹を含む分支部長たちは
「山田師範についていきます」
といった。
19時、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、浜井識安、湖山彰夫の6名は、マスコミ懇談会を開いた。
「昨日記者会見が行われたこともあり、私共としましてもお話したいことがありますので、お聞きいただければと思います。
今後の体制ですが、新執行部という形で統括本部を置き、私が本部長を務めることになりました。
副本部長は、浜井識安支部長です。
また城西支部の分支部長だった5名が今後はそれぞれ支部長として活動します。
城西中野支部長に黒澤浩樹、城西吉祥寺支部長に小笠原和彦、城西田無支部長に中江辰美、城西三軒茶屋支部長に田口恭一、城西国分寺支部長に江口芳治が就任しました。
次に昨日、支部長協議会名で出された文書に関して、支部長協議会として召集されたものがいきなり支部長会議となって、緊急動議で解任ということでしたが、大山総裁の医師が2代目館長は松井ということでしたので、私共は総裁の意志を継いでいく所存です」
(山田雅捻)
「極真会の問題で皆様にご迷惑、ご心配をおかけいたしました。
お騒がせしていますことをこの場を借りてお詫び申し上げます」
松井章圭はそういってから、解任の理由とされた極真会館の私物化、独断専行、不透明な経理処理について説明していった。
私物化については
「極真会館という商標は極真のトレードマークですよね。
あの商標権が全て私の個人名で登録されているという部分で支部長たちが不信感をおっしゃったようですけれども、
実際、私の個人名による登記となっております。
とはいえ個人のものではありませんから将来、法人化ができれば速やかにそこに移します」
独断専行については
「私が館長に就任してから10ヵ月間、私個人も仕事に100%間違いがなかったとは断言できないかもしれません。
実際反省すべき点もあると思います。
ただ日々の組織運営上、全国の点在する支部長たちに逐一報告と承認を得ることが物理的に不可能であったことは歪めなかった。
このことは理解の範疇内であると思っています」
不明瞭な会計処理については
「極真会館がこれまできちんとした形で法人化されてこなかったために運営資金が会館の業務として使われていた分、また大山倍達個人の分、という形で預金が分けられていなかったりですね。
いろんな形で重なっていた部分があったものですから、それは極真会館側も遺族側も当然困った部分ではあったんです。
けれどもそれに対して極真会館が活動する上での当座に必要な運営資金が足りない部分があったことを知った上での批判ではなかったのではないかといいたい」
とし、
「支部長協議会側の解任理由や悔い改めて共に汗を流すなら1支部長として認めるという条件受け入れられません。
もちろん筋が通った大義があり、それが正論ならば私は降りるべきだと思います」
と結論づけた。
「こうなってしまったことは残念ですが、関係改善の可能性がある限り話し合いをして、これからも松井館長を支持していきたいと思います」
(郷田勇三)
「昨日の彼らの行動をみても勇み足ではなかったかというのが実感です。
彼らは感情だけで行動を起こしてしまったのだと思います」
(盧山初雄
「昨日の支部長会議でも急に三瓶支部長が立ち上がって解任動議をすると、西田議長が仕切って解任を決定し、我々の意見も聞かずに勝手に会議を終わらせてしまった。
支部長協議会側を非難するわけではなくいろいろと行き違いもあると思います。
つまり決裂したというのではなく支部長たちはいつでも帰ってきてほしいと本部の門は開けて待っているといいたいですね」
(浜井識安)

1995年4月9日、郷田勇三は、手紙を全国の支部長に送った。
見出しは
「すべての支部長に呼びかける」
で
・過ぎたことは一切問わず明日からのことを前向きに話し合いたい
・松井館長を除くすべてを白紙に戻し、みんなの合意で改めて人事を決定したい
・大山智弥子夫人の呼びかけで4月25日、総本部で故・大山倍達総裁の1年祭が執り行われるので出席するように
・4月24日に全支部長による話し合いを行いたい
とした。
仏式で「1回忌」と呼ぶものが神式では「1年祭」になる。
当初、遺族と遺族派は、1年祭は4月23日に行うことを決めていたが、松井章圭と話し合った結果、25日に大山智弥子個人を主催者にして共同で行うことを決めていた。
1995年4月11日、入院当初、八巻建志は、体全体がむくみ顔は黒くパンパンに腫れ上がり、食事は液状の栄養食で塩分、油、タンパク質は一切禁じられたが、その後、超人的な回復力をみせていた。
見舞いにきた関係者に
「分裂は悪化する一方だ。
君にはいろいろ吹き込みにくる人間も多くなるはずだ。
一刻も早く退院したほうがいい」
と忠告されたため、医者に
「もう1ヶ月の入院したほうがいい」
といわれたが退院。
3週間の入院で100人組手に挑戦したとき107kgだった体は90kg台まで落ちていた。
1995年4月12日、退院翌日の早朝、自宅の電話が鳴り緊迫した声で
「記者会見を開くから2時間以内に来て下さい」
といわれ、八巻建志は歩くことさえ困難だったが這うようにタクシーに乗ってホテル国際観光へ向かった。
そして西田幸夫、三瓶啓二、長谷川一幸、廣重毅、増田章と共に「記者懇談会」を行った。
「要は信頼関係が失われたということ」
と西田幸夫、三瓶啓二、長谷川一幸、廣重毅は、松井派の批判と解任の正当性を主張。
八巻建志はマスコミに意見を求められ
「自分は選手なので今まで以上にしっかり練習して頑張ってまとまっていきたいと思います」
とコメント。
後で
「なんだ、お前のあの話は。
いうべきときにいわないのは武道家ではない。
もっといろんなことをいえばよかったんだよ」
と嫌味をいわれた。
(一体何をいえというのか。
松井館長への誹謗中傷か。
松井館長にも大変お世話になっているし、一方のいい分を聞いただけで判断するような軽率な真似はしたくない。
それに選手は世界の強豪と覇を競うため血のにじむような苦しくて辛い稽古に耐えているのに、極真が大山倍達総裁の遺志を受け継いで一致団結していくこと以外、何を望むというのだ。
それに私の師は廣重師範1人だ。
弟子として師範の選択に従うのは当然だろう)
その後、
「お前はどうしたいんだ」
と廣重毅に尋ねられた八巻建志は
「強い人間のいるところで戦いたい。
それだけです」
と答えた。
「そうだな。
そうしたほうがいいな」
廣重毅は静かに頷いた。

この時点で、国内は反松井派の数が松井支持派を大きく上回っていた。
分裂は海外にも波及し、世界各地で支部や選手の取り合いが起こった。
「別に松井君に極真から去れ、といっているのではないのです。
もう一度、支部長からやり直してこれまでのことを精算してほしいのです。」
(三瓶啓二)
「松井先輩、もう一度支部長からやり直しましょう」
(緑健児)
「全国で半分以上の支部長たちが辞めてくれといっているんです。
だから松井先輩は辞めるべきです」
(増田章)
「いろんな意味で松井君は急ぎましたね。
松井君は館長に就任するなり5人の支部長を事実関係もあいまいなままいとも簡単に除名にしました。
大山総裁も、生前は何人かの支部長を破門、除名にしましたが、
その際も何回も支部長会議を開き、除名にするのを最後の最後までためらったものですよ」
(松島良一)
「もし松井君たちと和解することがあるなら彼が元通り、1番下の支部長として出直すときだけですね」
(三好和男)
「松井館長は極真のためを思ってやったことかもしれませんが、あまり他の支部長のことや会議で決まったことを優先せず物事を決めて、それが裏目に出てしまった」
(七戸康博)
「松井先輩を公私にわたり尊敬してきました。
しかし館長になってから人が変わったように仕切りたがるようになった。
あまりにも自分の好きなようにやってしまうことが多く、不信感が募っていきました」
(黒岡八寿裕、和歌山県支部長)
などと明確に三瓶啓二を否定する支部長もいたが、
「具体的な話はあまりよく知らないまま会議に出席してしまいました。
松井君からは何も聞いていないし、西田議長や三瓶副議長、山田師範とは共に本部で汗を流した仲間なので複雑です」
(川畑幸一、京都府支部長)
「自分は松井館長が解任されたという支部長会議は所用で欠席したし、これまでも一方的な話ばかりで詳しい事情はほとんど聞かされていません」
(柿沼英明、千葉県北支部長)
「松井君とは直接つき合いがないからよくわからないけど、ワンマンという部分はあった気がする。
田舎の支部で情報もまた聞きだったのでそれほど切迫した状況だとは思いもしませんでした。
みんな急ぎ過ぎていますよ。
私個人としては今は静観するしかないと思っています」
竹和也(鹿児島県支部長)
館長解任決議後、支部長たちはそれぞれ心境を抱えていた。
しかし
「2代目は松井で間違いない。
あっちが正しいとかこっちが悪いとか、松井館長に支部長たちがケンカしかけて何の意味があるんや。
こんなことで大会を開けるのか心配です。
選手のことを考えてなぜ一緒にできないのかと思う。
自分はあくまで選手や生徒のことを考えて大会を開催する方を応援します。
東京ではずいぶん前から松井館長を批判して三瓶君たちがゴタゴタやっていたみたいだけど、結局は1つの極真なんだよ」
と中村誠は松井館長支持を表明。
世界大会2連覇のキング・オブ・キョクシンを敵に回すことになった反松井派の支部長は動揺した。

1995年4月12日、支部長協議会派の会見の翌日、大山倍達の遺族は
「遺言書は家庭裁判所で無効と判定された」
と発表。
(裁判所が無効を決定したのは3月31日、通達が届いたが4月12日だった)
夜中、高木薫ら遺族派の支部長が、中から大山智弥子にカギを開けてもらい総本部に侵入。
内弟子から報告を受けて松井章圭は総本部に向かった。
インターホンを押すと大山智弥子が出てカギを開けてくれた。
中にいたのは2人のガードマンだけで、高木薫たちはいなかった。
後にガードマンを残し帰ったことについて高木薫は、
「自分が残れば会館は血の海になる」
といった。
たとえ口論でもいいから松井章圭と対峙していれば男は上がったかもしれないが説得力はなかった。
1995年4月1 4日、松井章圭と遺言書の証人たちが、「遺言書は有効」と東京高等裁判所に抗告。
1995年4月18日、
「郷田師範、とにかく4月26日の総裁の命日までに何とか和解しましょう」
廣重毅は郷田勇三と会い
・松井を館長と認める
・松井派に戻る人間の過去の言動はすべて不問にする
・増田章と三和純を支部長にする
と3つの和解案を出した。
「どう考えても三瓶と三好は不問にするわけにはいかないだろう」
「でも師範、こいつはよい、こいつはダメと線引きしてたらまとまるものもまとまりません。
どうか全員不問でお願いします」
「大体、若いやつを引っ張っていったのはお前だろう。
いまさら何いってるんだ」
郷田勇三は廣重毅を責めたが
・松井を館長と認める
・松井派に戻る人間の過去の言動はすべて不問にする
の2つの和解案を書いた手紙を支部長協議会派を含む全国の支部長に送った。
廣重毅は支部長協議会派にも和解を進言したが、
「廣重さん、遺言書が却下になって我々に有利に進んでいるのに、なぜこんな案を松井に出す必要があるんですか?」
(西田幸夫)
「勝手なことはしないでください」
(三瓶啓二)
「師範、みんなで頑張っていこうとしているときにこんな提案は裏切りですよ」
(緑健児)
と冷たく反対された。
それでも廣重毅は
「こんな争いを続けるのはよくない。
もう極真の看板を下ろそう」
と説得を続けたが
「そんなことをしたら自分たちが正統ではないとといっているようなものでしょう」
(三瓶啓二)
「そんなことしたら生徒が来なくなりますよ」
(前田政利、大阪府北支部長)
「師範、なにいってるんですか。
とんでもないですよ。
そんなバカみたいな話はもうやめてください」
(緑健児)
と厳しい言葉を浴びせられた。
その後、支部長協議会派は廣重毅を冷遇した。
「用事で遅れます」
と事前に報告し遅刻して会議に参加すると、以前は前の方にあった自分の席が用意されておらず、後ろの方に座ったが、全員に配られている書類を差し出してくれる人はいなかった。

1995年4月23日、極真会館の入り口に張り紙がされた。
「お知らせ
故・大山倍達の1年祭を4/23(日)に行う予定と雑誌等で掲載しておりましたが、急遽、4/25(火)に変更になりました」
しかしその夜、遺族たちは
「1年祭には出席しない」
という内容の手紙を事務所の机の上に置いた。
郷田勇三が「すべての支部長に呼びかける」と全国の支部長に送った手紙の
・松井館長を除くすべてを白紙に戻し、みんなの合意で改めて人事を決定したい
という部分を問題視し、
「出席すれば松井さんを館長として容認することになってしまう」
というのが理由だった。
1995年4月24日、東京都豊橋区池袋のハナシンビルに郷田勇三の呼びかけに応じ、支部長たちが集結。
イザ、郷田勇三が進行しようとすると
「師範、もう話し合いの時期ではないでしょう」
と三瓶啓二が遮った。
「わかった。
じゃあ話し合いではなくこちらの話を聞きてほしい。
支部長たちは我々と支部長協議会、双方の話を聞いてそのあとで判断してくれればいい。
ただ聞く聞かないはお前たちの自由だ」
「それじゃ、みんな帰ろう」
三瓶啓二に促され大半の支部長は部屋を出ていき、残ったのは、中村誠やいったん館長解任に賛同した河岡博など十数名だった。
1995年4月25日13時、総本部2F道場で大山智弥子主催の故・大山倍達総裁の1年祭が執り行われた。
郷田勇三、盧山初雄、浜井識安、山田雅捻と中村誠、河岡博ら、昨日、会議場に残ったメンバー、磯部清次(ブラジル支部長)を始めとする海外の支部長たち、元極真の中村忠、加藤重夫、格闘家の前田日明、総本部道場と城西支部の分支部長、指導者、道場生らが参加した。
しかし松井章圭も主催者の大山智弥子もおらず、遺族からは大山恵喜(次女)だけ参加。
三瓶啓二ら支部長協議会派も高木薫ら遺族派もいなかった。
24日から大山智弥子と連絡が取れなくなった松井章圭は参加を自粛し事務所に待機し、仏教の焼香やキリスト教での献花にあたる榊の枝に白い紙(紙垂)をつけた玉串の奉奠のみ行った。
玉串奉奠が終わり斎主が去ると、大山恵喜(次女)がマイクを持った。
「遺言書却下による内部分裂の中で1年祭は3度行われる予定でした。
しかし松井さんたちと話し合った結果、松井さんが主催者を降りるということで大山智弥子の名前で執り行うことになりました。
でも郷田さんからの手紙をみると1年祭に出席することは松井政権を認めるととれる。
遺族は欠席することにしましたが、招待状は母の名で送っているため、私は非難を覚悟で出席しました」
「香典を松井さんに持ち逃げされる懸念があるため自ら受付に立つつもりでした」
式後、メトロポリタンホテルでレセプションが行われたが、遺族は1人も参加しなかった。
1995年4月25日、支部長協議会派が1年祭を行った。
それを認めない松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、浜井識安らは朝早くから総本部で待機。
11時、黄色のブレザーを着た支部長たちが続々と姿を現した。
「お前らふざけるな。
こっちは松井を外して譲歩したにも関わらず昨日は来なかったくせに、また1年祭をやるのか!!」
郷田勇三の怒声を3階で聞いた松井章圭はすぐに降りていった。
すると支部長たちの集中砲火を浴び、郷田勇三からも
「お前が来るとややこしいから上にいろ!!」
と大声で怒鳴られた。
その後、郷田勇三は用意してあった花を怒鳴りながら支部長たちに投げつけた。
対照的に盧山初雄は
「もっと気持ちを大きく持って」
「じっくり話し合おうじゃないか」
と笑顔で支部長たちに話しかけ、
「同じ釜の飯を食った仲じゃないか。
なあ、三瓶」
と穏やかな顔で三瓶啓二の肩をたたいた。
三瓶啓二は直立不動でなにもできなかった。
やがて郷田勇三も笑顔で長谷川一幸らに話しかけると他の支部長たちも笑顔になっていった。
13時30分、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、浜井識安らが譲歩する形で支部長協議会派による1年祭が、予定より大幅に遅れて始まった。
なぜか正装ではなく、セーターにカーディガンという普段着の大山智弥子。
そして高木薫ら遺族派と西田幸夫、長谷川一幸、大石大吾、三瓶啓二、廣重毅、緑健児ら支部長協議会派の支部長たち。
八巻建志、数見肇、市村直樹など数名の選手。
そして前日の1年祭にも出席した海外の支部長たちが参列。
彼らは状況がよくわからないため遺族、松井章圭、支部長協議会派、どちらにもフェアに接した。
しかしブラジル支部の磯部清次は最初から松井章圭を支持し、支部長協議会派の1年祭にはいなかった。
1年祭で合流した遺族派と支部長協議会派は、毎年、夏に大阪で行われる全日本ウエイト制大会も合同で開くことを話し合い、全日本ウエイト制大会を仕切っていた津浦信彦に打診。
津浦信彦とその妻、大山留壹琴(長女)は、松井派、遺族派、支部長協議会派、いずれにも属さず独自の活動を続けていた。
大山留壹琴は、
「どんなに規模が小さくなっても父の言いつけを守り大阪府立体育館でウエイト制大会をやっていきたい」
と遺族派や支部長協議会派との合同開催を反対。
やがて遺族派と開催することは認めたが、支部長協議会派が入ってくることは許さなかった。

1995年4月29日、埼玉県戸田市の戸田スポーツセンターで第1回全日本少年大会が行われた。
小学校1、2年生の部、3、4年生の部、5、6年生の部に分けて行われるこの大会は、少年部の育成に力を入れていた盧山初雄が年々、大会の規模を拡大していき、そして初めての全国大会だった。
しかし支部長協議会に属する支部は、急遽、参加を取りやめた。
大会申し込みは分裂騒動が激化する前で、この試合に向けて純粋に努力し続けてきた子供たちもいたが、わけのわからない大人の騒動の犠牲になった。
「本当にこれでいいのか?」
支部長、指導者、選手、道場生、少年部の保護者など極真関係者はもちろん格闘技ファンや一般の人も、多くの人がそう思った。
1995年5月、反松井派を見切って、松井章圭の極真会館に戻る者が出てきた。
和歌山県支部の指導員であり総本部内弟子出身の北本久也は、支部長の黒岡八寿が支部長協議会派だったが
「納得できない」
と単身、松井派へ復帰。
同様に大石大吾の下で指導員をしていた石黒康之も松井派を選んだ。
その後、滋賀県支部長の河西康宏も松井派復帰を希望。
「長谷場譲や田畑繁たちも戻りたいといっています」
と訴えたが、2人は支部長協議会派に残った。
松井章圭は自ら強引な勧誘はしなかった。
「自分はどうしたらいいでしょうか」
と相談されると
「君の考えた通りにすればいい」
と答えた。
(大義はこちらにある。
甘い言葉や復帰の条件などで釣っても裏切る人間はまた裏切る。
去る者は追わず、戻ってくる者は拒まずという方針は崩さない)

松井章圭は東京の料亭で緑健児と会った。
「なぜ緑君は僕についていけないと思ったの?」
「理由はいろいろありますけど、八巻の100人組手とか・・・」
「八巻君の100人組手がなに?」
「1人1分30秒といっておきながら2分にして八巻を潰そうとしたじゃないですか」
「そんなことしてないよ。
だいたい日本のエースをなんで僕が潰す必要があるの。
何のメリットもないでしょう」
「でもそれだけじゃないですから・・・
許永中から流れてきたアングラマネーが極真の運営に使われているとか、山口組や韓国ルートの話とかいろいろよくない話も聞こえてきます」
「許永中先生については個人的に恩義を感じているのは事実だよ。
でも僕より大山総裁が先に許永中先生と知り合って大阪の本部事務所や津浦さんの自宅などを無償で貸してもらっていた。
それだけ極真に貢献してくれた人であることは緑君も知っているでしょう?
それに僕が許永中先生に出会ったとき、経済犯罪に手を染めているなんて知らなかった。
知っていれば深い付き合いなんてできないよ。
許永中先生にはいろいろとお世話になり恩義を感じるようになった後、マスコミや周辺の人たちからイトマン事件の話を聞かされた。
だからといって恩ある人を簡単に犯罪者扱いして縁を切れないでしょう。
僕は人間として許永中先生と絶縁するようなことはできない。
罪は積み、恩は恩、それが筋だと思う。
それにアングラマネーっていうけど表に出せないからアングラマネーっていうのであって、それを公的な組織である極真会館の運営に使ったら大変なことになるし、そんな話、何の証拠もないし証人もいない。
ただの噂に過ぎないじゃないか。
断言するけどそんなことは絶対にしていない。
山口についても総裁の遺言書の立会人になった黒澤明さんとか黒澤さんの親分だった柳川次郎さんとか、2人とも元々あちらの人だというのはみんな知っていることじゃないか。
総裁が生きていた頃、誰1人、柳川さんが向こうの人だとか文句を口にした人はいないだろう?
総裁が親しくしていた人たちを僕の代になったからといってもう付き合えませんとはいえないでしょう。
韓国もそうだよ。
韓国ルートだなんて、まるで闇組織みたいにいうけど、それも悪意からくる憶測以外の何でもない。
あえて韓国ルートというなら、ずっと極真や大山総裁を応援してくれている人たちとの交友関係であって、僕の代から始まったことじゃない。
何もかも悪意ある噂じゃないか。
もし確証があるなら教えてほしいくらいだよ」
「そうだったんですか。
それじゃ自分が誤解していたみたいです」
「誤解が解けたなら支部長協議会派にいる必要はないんじゃない?
向こうの方が知り合いが多いだろうしこっちに来るとなると人脈も断ち切る覚悟が必要だからね。
それが難しいなら緑君は独立して緑道場でもつくって、あくまで中立的な立場で向こうともこっちとも付き合えばいいんじゃないか?」
「いえ、自分はそんな大それたことは考えていません。
自分は新体制で頑張ります」
「そうか。
まあどこにつこうがいいけどね。
お互いにえげつないことをするのはよそうな。
ところで緑君はいつから僕に反感を持ち始めたの?」
「アフリカ遠征からです」
「アフリカ?
だってあのときみんなで水に流そうっていって終わったはずじゃないか。
僕はそう理解していたけど」
結局、2人が昔のような関係に戻ることはなかった。

1995年5月9日、松井章圭、山田雅捻がヨーロッパ遠征に出発。
国際秘書で通訳の五来克仁と、まず共にロシア、イギリスの各支部を訪問。
両国は松井章圭を2代目館長と認めていた。
その頃、日本では月刊「噂の真相」に
「大山倍達死去で揺れる極真会館をめぐるすさまじき暗闘。
2代目を名乗る自称、文鮮明(統一協会の教祖)の血縁者や、なんとあの許永中まで登場・・・」
という記事が掲載された。
この中で松井章圭は文鮮明(統一協会の教祖)の血縁者であり信者であるとされた。
ずいぶん前から大山倍達が統一協会の信者であるという噂もあった。
統一協会の世界日報は、古くからの全日本大会のスポンサーだった。
第3回世界大会では、日本統一協全会長:久保木脩己が特別相談役として副委貝長の席に座っていた。
大山倍達と統一協会の繁がりは、第1回全日本大会(1969年)より少し前から始まった。
橋渡し役となったのは、極真を離れアメリカでUS大山を興した大山茂、泰彦兄弟。
大山兄弟の父親が日本統一協会の大物で、日本におけるコネクションが欲しかった統一協会とスポンサー不足に悩んでいた極真会と利害が一致し協力関係が生まれた。
「確かに主人は統一協全に何人か友人がいました。
久保木さんがよくうちに訪ねてきた時期もあります。
まあ、どっちが呼んでたのかは知りませんけどね。
最初はおだてられて協力してたんじゃないですかね。
でも主人が信者でなかったことは断言できますね。
もし本当に主人が信者だったのなら協会からお金を借りるなりして新しい本部の建物だってもっと早く建っていたはずですよ。
それに主人がお世話になっていてこんなことをいうのも何ですが、うちは私も娘もみんな統一協会が嫌いでしたから。何年か前に協会の方が会館に来て、主人に壷を持たせて写真を撮っていったことがあったんですよ。
そしたらその写真が霊感商法みたいなことをやっている会社の広告に使われてしまって。
『大山総裁は統一協会の信者なんですか』という電話が会館に何本もかかってきて。
あのときは本当に怒ってらっしゃいましたよ。
そんなこともあって、ここ最近はあまり協会の方とのお付き合いも少なくなっていたようてすね」
(大山智弥子)

1995年5月26日、松井章圭たちがルーマニア入り。
ボビー・ロー(ハワイ支部長、国際連盟委員長)、ルック・ホランダー(オランダ支部長、国際連盟相談役)、アントニオ・ピネロ(スペイン支部長、ヨーロッパ連盟委員長)、ジャック・サンダレス(国際連盟相談役)と会食。
そこにルーマニア支部の道場生がきて、翌日に行われるヨーロッパ大会に出場する選手が泊っているホテルで、支部長協議会派の西田幸夫、三瓶啓二、緑健児、増田章、七戸康博、七戸ベラ(七戸康博の妻)、柚井ウルリカ(東京都立川支部責任者である柚井知志の妻)がベラの翻訳つき「噂の真相」の記事のコピーを配っていると報告した。
「何か起こっても私が対処しますので安心してください」
(松井章圭はそういって、統一教会の会員でないこと、極真を離れていた時期にジャパニーズマフィアに世話になった経緯を説明した。
「ヨーロッパはマツイ館長を支持する」
(アントニオ・ピネロ)
「私もヨーロッパやアメリカでは名の知れたマフィアだ。
それを知ってマス大山は私を認めてくれた。
マフィアだろうと公私を分ければノープロブレムだ」
(ジャック・サンダレス)
1995年5月27日、ヨーロッパ大会が開かれた。
秋の世界大会の選考も兼ねており、満員の会場で白熱した戦いが繰り広げられた。
支部長協議会派は、料金を払って入場し、昨夜同様、記事のコピーを配った。
5月28日、大会翌日、ヨーロッパ支部長会議が開かれた。
1995年5月、全ヨーロッパ大会の会場が開かれた。
会議に参加を要請された松井章圭は
「まずはヨーロッパの支部長同士で態度を決めるべき」
といったが、ルック・ホランダーは
「まず松井館長が日本の状況を説明すべき」
と会議の開催前に松井章圭に発言を場を設けた。
松井章圭は日本国内の状況と配られた「噂の真相」の記事について15分間、説明を行った後、頭を下げて退場した。
2階の会議場を出て1階のロビーへ階段を下りていくと、すぐに西田幸夫、三瓶啓二、緑健児、増田章、七戸康博、七戸ベラ、柚井ウルリカが駆け上がってきた。
声をかけようとする松井章圭を無視し会議所に入っていった。
そして5分後、ソファーに座る松井章圭を無視して支部長協議会派はホテルを出て行った。
会議場に入った西田幸夫は、会議への参加を要求したが、アントニオ・ピネロは
「オフィシャルなメンバーではない」
とシャットアウトした。
「彼らはここまで来たが150万円を捨てに来たようなものだ」
(ジャック・サンダレス)
しかしアントニオ・ピネロは、この後、数名の支部長たちと支部長協議会派の話を聞くことにした。
その中に日本の総本部で内弟子の経験もあるハワード・コリンズ(スウェーデン支部長)もいた。
「松井館長は質問を一切受け付けてくれなかった。
一方的に説明し10分か15分で退席してしまった。
だが支部長協議会派はキチンと説明してくれたし我々の質問にも答えてくれた」
こうしてハワード・コリンズは、外国人支部長として初めて支部長協議会派を支持した。
「ヨーロッパは2/3は味方についた」
(三瓶啓二)
「私の感覚ではヨーロッパの7割は我々と一緒にやりたいといっている」
(西田幸夫)
ヨーロッパで自信をつけた支部長協議会派は、帰国後、「ワールド空手」のぴいぷる社を訪れ、
「報道や編集に明らかに偏りがあり、編集方針に作為的な意図が推察されます。
極真会館監修となっている以上、松井派、支部長協議会派、遺族派、公平に扱うべきです」
と訴えた。
編集長の井上良一は
「機関紙とはいえ言論・出版の自由を脅かすものだ」
と反発。
また支部長協議会派は、自派の世界大会の開催について記者会見を開いた。
すると記者から質問が飛んだ。
「松井さんたちと統一の世界大会を開いたらどうでしょうか?」
「そんな必要はない」
(西田幸夫)
「昨年の全日本大会で決定した世界大会出場選手の8名はすべてこちらに所属しています。
松井君のほうには選手がいませんから、どっちみち向こうは世界大会を開けませんよ」
(三瓶啓二)
しかし8名のうち、城南支部の3名が松井派の大会出場を表明することになる。

支部長協議会派に見切りをつけた廣重毅は、郷田勇三に
「戻りたいんですけど人質をとられているので戻れないんです」
と相談。
人質とは世界大会での活躍が期待されている八巻建志や数見肇を含む弟子たちのことだったが郷田勇三は
「俺が何とかする」
と請け負った。
1995年6月10日、松井章圭、郷田勇三、廣重毅が会って話し合い復帰が決まった。
「松井側に戻ろうと思う」
復帰後、廣重毅はすぐに分支部長を集めていった。
「松井館長の問題をアレコレ挙げて支部長協議会を選んだのは師範じゃないですか」
「何で戻るんですか」
大多数が反対したが、突然、岩崎達也が
「自分は全日本ウエイト制に出場したいです」
といい出し、八巻建志と数見肇も
「世界大会に出たいです」
と続いた。
彼らが松井派の試合に出たいといった理由はフランシスコ・フィリョ。
松井章圭を支持するブラジル支部の磯部清次の弟子であるフランシスコ・フィリョは「史上最強の外人」と呼ばれ、これまで世界大会は日本人が優勝してきたが、「空手母国の最大の危機」といわれていた。
支部長協議会派に残りたい弟子と松井派に戻りたい弟子に挟まれ困る廣重毅に緑健児がいった。
「師範、戻らないでください。
せめて中立という立場でお願いします」
こうして廣重毅は中立を宣言した。
中立とは、松井派、支部長協議会派、どちらともつき合うという意味だった。
しかしこれまで通り反松井的な行動をとり続ける分支部長もいて、城南支部は分裂状態になった。

1995年6月12日、郷田勇三が支部長協議会派を含む全国の支部長に、
「22日に総本部集合。
来なければ除名」
という勧告書を送った。
1995年6月22日14時、東京都豊島区の東洋モーターズコーポレーションで松井派と支部長協議会派の話し合いが行われた。
「松井が降りないなら話すことはない」
(三瓶啓二)
「俺はお前の話し方も歩き方も全部嫌いなんだよ」
(三好一男)
話は折り合わず、同席していた俳優の待田京介が立ち上がった。
「先輩として一言いいたい」
終戦直後の館山に住んでいた大山倍達に待田京介の親が頼み弟子入り。
それまで大山倍達は弟子をとったことがなかったので1番弟子となり館山で稽古をつけられた。
大山倍達が東京に移ると追いかけて大山道場で稽古を続けた。
しかし三瓶啓二は
「先輩後輩は関係ありません」
と一蹴。
結局、20分で話し合いは終わった。

以後、松井章圭は支部長協議会派との和解を断念。
新たな支部の設立
統括本部長となった山田雅捻は、数で勝る反松井派への対策として「ランチェスター理論」を説明した。
「第2次世界大戦のときにイギリス空軍がドイツ空軍と戦うときに編み出したのがランチェスター理論なんだけど、これが極真を出ていった連中との戦いに有効だと思う。
イギリスが20機でドイツ機10機と戦ったとすると、敵機を全滅させたときの損害は5機で済むという計画が成り立つという理論なんだ。
もし10機対10機で戦ったとすると戦闘機の性能やパイロットの技術に差があったとしても双方が全滅ということになりかねないというんだ。
つまり相手が1支部に5つの道場を持っているなら、極真会館は10の道場を、若い指導員を道場主に指名して開設するという戦略でいけば、反松井派の道場は脅威でなくなる」
以後、極真会館は、元支部長のテリトリー内に次々と道場を開設し若い指導者を送り込んだ。
ランチェスター理論は、イギリスの航空工学者F.W.ランチェスターが提唱した戦闘の法則だが、経済問題にもでも応用されている。
1970年代前半にオイルショックが起こり日本はそれまでの高度経済成長期から一転して不況となった。
そのときそれまでのスピード勝負、体力勝負ではなく、科学的・論理的な経営戦略・営業戦略が求められ、多くの企業がランチェスター理論を取り入れた。
今日でもランチェスター理論は、競争戦略・販売戦略のバイブルといわれている。
この後、松井章圭は、北本久也を和歌山県支部長に、石黒康之を静岡県西遠支部長にした。
黒澤浩樹も道新しく道場を出すことをすすめた。
「黒澤、お前、品川に道場出せ」
(山田雅稔)
「いいんですか」
「もう関係ないから道場出せ。
いいよな、館長」
松井章圭も請け負った。
「いや、もうどんどん出したらいいんですよ」
黒澤浩樹は、第6回世界大会が終わったら実家の駐車場を道場にすることを考えた。
黒澤浩樹の話を両親は快諾。
その土地は、道路建設のために東京都に売却する予定だったが、数千万円という多額の税金を払って土地をキープした。

1995年6月18日、遺族派が大阪府立体育館で第12回全日本ウエイト制大会を開催。
館長の大山智弥子は体調不良で欠席。
大山留壹琴(長女)が代わりに挨拶に、高木薫、手塚暢人、安済友吉、小野寺勝美、林栄次郎らが審判に立ったが出場選手は52名と小さな大会だった。
1995年6月24日、25日、松井派が有明コロシアムで第12回全日本ウエイト制大会を開催。
全日本ウエイト制大会は大阪府立体育館で開催されるのが恒例だったが、大山留壹琴(長女)の夫である津浦信彦が押さえていたため使用できなかった。
軽量級は成嶋竜、中量級は瀬戸口雅昭、重量級は城南支部の岩崎達也が優勝し、世界大会出場を決めた。
黒澤浩樹も3位になり、秋の世界大会出場を決めた。
会場には八巻建志や数見肇が応援に駆けつけていた。
1995年6月26日、全日本ウエイト制大会翌日松井章圭は全国支部長会議を行った。
「今日、15名の新支部長を承認しました。
支部長協議会派に属する方々と軋轢が生じる支部もあるかもしれませんが、大山総裁の意志を継いでがんばってください」
(松井章圭)
「廣重支部長は支部長協議会派に脱退届を出しました。
八巻君と数見君をこちらの世界大会に出場させたいという意向を受けています」
(郷田勇三)
「城南支部は支部長協議会派を脱退し中立の立場をとる意思表示をされたようです。
我々は一貫した姿勢を通す必要があると思います。
門戸を閉ざさず選手の出場を受け入れる方向で対応しようと思っています」
(松井章圭)
1995年7月、学習研究社が機関紙「極真空手」の第1号を出版。
松井派の機関紙だったが、主に大会やイベントの情報を提供する「ワールド空手」と違い、「極真空手」の理念や技術、選手の人生、稽古、トレーニング法などを紹介した。
しかしこの後、この松井派の2冊目の機関紙は、大山留壹琴(長女)の攻撃されされる。
「極真分裂.03 他流試合」に続きます。