極真分裂.01  後継者の資格

極真分裂.01 後継者の資格

1994年に大山倍達が亡くなられる前年(1993年)までを、その後に起こる分裂騒動のキーマンを中心にまとめ。


「これは事実談であり、この男は実在する」
空手バカ一代は、そういって始まるが、多くのフィクションが含まれていた。
特に大山倍達の死後、それが明らかになったが、マンガそのままだったのは、圧倒的な強さと人間的な魅力だった。
普通は逆だけど・・・・
やっぱり大山倍達はすごい!
大山倍達は、日韓併合によって、まるで沖縄や北海道のように日本の一部となり、その統治下にあった大韓民国(韓国)の
全羅北道(チヨルラブクド)金堤郡(キムジエグン)龍池面伏龍里(ヨンジミヨンワリヨンニ)の大きな農家で生まれた。
農場で働いていた人の中にボクシング経験者がいて、
小学校に入ったばかりの大山倍達は指導を乞うて、毎日、サンドバッグを叩き、シャドーボクシングをした。
学校ではたくさんの子分を従えるガキ大将だったが、弱い者いじめや卑怯なこと、自分の正義に背くことはしなかった。
日本の軍事教育やナポレオン、ビスマルクなどの伝記を読んで軍人になることを夢み、
吉川英治の『宮本武蔵』を読んで欲望を断ち切りひたすら武の道を追求する生き様、
ブレーズ・パスカルの哲学書『パンセ』の「正義なき力は圧倒なり、力なき正義は無能なり」という一文に心打たれた。
中学校は地元ではなくソウルの学校に1人暮らしをして通った。
そして学校の近くにあったYMCAで本格的にボクシングを習い始め、15歳のとき、市民大会のウェルター級で優勝。
ある日、ソウル市内を流れる漢江(ハンガン)沿いをランニングしていていると、
数人の男に言い寄られ、嫌がっている女学生グループを発見し、追い払った。
数日後、ボクシングの試合で勝利した後、女性に花束を渡されたが、
それは女学生グループの1人だった。
2人は、その後何度がデートをした。
しかしこの女性には日本人の婚約者がいて、浮気を知ると怒った婚約者は、仲間を引き連れ大山倍達の下宿先に乗り込んだ。
そして警察が出動するほどの大乱闘となった。
警察沙汰になったことで大山倍達は学校は退学処分、両親からも勘当された。
大山倍達は、兄が留学している日本行きを決意。
大山倍達が日本へ行く方法は密航しかなかった。
まず釜山に行き、兄の婚約者が経営する製紙工場で働きながら、その準備をした。
この密航の準備期間中、後に空手の師となる曺寧柱と出会った。
曺寧柱は、中学生の頃から朝鮮独立運動に参加。
朝鮮独立のためには共産主義しかないと共産主義運動が盛んだった日本の京都大学に留学。
共産主義の教授が不当解雇されたことでデモが起こり、参加していた曺寧柱は京都大学を退学させられ、同じ京都の立命館に入学。
共産党指導者が転向声明を発表し、党員の大量転向が起き、曺寧柱は共産主義に失望。
朝鮮ですでにボクシングとウエイトトレーニングを経験し、来日後、空手を学び、すぐに関西随一の実力者となっていたが、
闘争心のはけ口を武道の稽古に求め、憂さは酔いでまぎらわした。
やがて釜山港から船に乗り山口県下関に上陸。
「アジアが一致団結し、いつか来るアメリカとの最終決戦に備えるべきだ」
という東亜連盟の運動に身を投じるようになった。
釜山で行われた講演会で、曺寧柱は民族協和を訴えたが、大山倍達は話よりも鍛えられた肉体に魅かれ、講演後、自分から話しかけた。
曺寧柱は技をみせた。
その突きは、ボクシングのパンチとは違った。
その蹴りは、背丈以上の高さに達した。
大山倍達は、もうすぐ日本へ行くことを告げ、再会の約束をした
やがて釜山港から船に乗り山口県下関に上陸。
兄のいる東京に行きたかったが警察の目を考え曺寧柱のいる京都へ向かった。
そして東亜連盟の寮に住み、毎日、曺寧柱から空手を習った。

数ヵ月後、大山倍達は軍人になる夢を曺寧柱に相談。
京都大学を中退し立命館に学んだ曺寧柱はその想いを理解した。
しかしその年の陸軍士官学校の受験はすでに終わっていたし、大山倍達は中学を中途退学していたので、
まず山梨県の飛行機の整備技術を教える学校を卒業してから改めて士官学校に入ることを薦めた。
こうして18歳の大山倍達は、山梨の航空学校に入学し寮に入った。
親とは絶縁、3人の兄は戦争を危惧してすでに帰国していたため、お金を得るために授業の後に輪タク(自転車タクシー)のアルバイトに出て、
たまに夜の町で不良やヤクザにケンカを売ってお金をまきあげた。
そうやって3年間、勉強と京都で学んだ空手の稽古を続けたが陸軍士官学校の試験は不合格。
大山倍達は京都に戻ろうと思ったが、頼りの曺寧柱は治安維持法違反の容疑で拘置所に収監されていた。
そこで都議会議員に立候補するという東亜連盟の先生の東京の自宅に書生として居候しながら、ポスター貼りや接待、ボディガードなどをした。
そして松濤館に通い、空手の稽古を行い、8ヵ月後には初段となった。
異例のスピード昇段だった。
第2次世界大戦で日本軍の敗色が濃くなってくると徴兵、徴用が拡大。
大山倍達も千葉県館山に徴用工として配属され、1945年8月15日の終戦は千葉県で迎えた。
終戦は36年間日本に支配された朝鮮半島が解放された日でもあった。
(その後、朝鮮半島は南北をソ連とアメリカが分割統治したことで北朝鮮と韓国という2つの国に分断される)
アメリカは圧倒的な軍事力で日本を叩きのめした後、GHQを進駐させた。
GHQは、
自らを含む戦勝国民を第1国人、
敗戦国民(日本人)を第2国人、
(朝鮮人を含む)戦勝国民でも敗戦国民でもない人を第3国人
とした。
第1国人は、第2国人に対しても第3国人に対しても強かった。
第2国人は、第1国人に対しても第3国人に対しても弱かった。
第3国人は、第1国人には弱かったが、第3国人には強かった。
こういった特殊な治外法権下で、一部の在日朝鮮人は、不法占拠、略奪などを行った。
闇市の縄張り争いなどで日本人ヤクザと争い、QHQの取り締まりにも抗った。
大山倍達も仲間とあちこちの軍事施設から食料や物資を奪い闇市に流して現金を得た。

また共産主義国家樹立を求める「朝連(在日朝鮮人連盟)」 と
民主主義による朝鮮の建国を目指す「建青(在日朝鮮建国促進青年同盟)」という在日朝鮮人同士の抗争も起こった。
大山倍達は、建青の千葉県館山支部のリーダー格でメンバーを空手で鍛えた。
それは寸止めや型の空手ではなく、対武器、対多人数を含む実戦を想定した空手だった。
そして千葉から各地の建青の活動に参加した。
最初の戦いは、150人の朝連と50名ほどの建青の戦いだった。
その強さは異様で、次々に相手を殴り倒し数十名に重傷を負わせた。
その後も、5人で20人と戦ったり、1人で7、8人を相手にした。
あるとき5人をのばした後、右手の親指が痛いのでみてみると相手の歯が刺さっていた。
また大山倍達の左腕には何本も傷跡があった。
その必勝パターンが、左腕で相手の攻撃を受け、右拳を叩き込むというものだったためで、左前腕にベルトを巻いて戦うこともあった。
右顎と唇の間にも傷跡があった。
顎を短刀で刺され、刃先が歯ぐきを突き抜け口の中にあったが、そのまま戦い続けたという。
大山倍達の活動は関東全域、そして関西にも及び、「空手の大山」」と恐れられた。
建青は東京の青山にあった旧日本陸軍大学を占拠し本部とし、
GHQや旧日本軍から手に入れた物資を闇市で売ったり、歌やスポーツイベントを催し資金を稼いだ。
歌謡ショーを催したとき、客として来ていた米兵が、日本人女性の肩に手を回して話しかけ始めた。
女性は恐怖で動けなかった。
警備をしていた大山倍達は部下をやってやめさせようとしたが、米兵はまったく相手にしなかった。
怒った大山倍達は、走っていってその米兵の顔面に突きを入れた。
すると仲間の米兵がかかってきたので、これにも突きや蹴りを叩きこんだ。
すると勤務中の米兵も集まってきたため、建青と米兵の大乱闘になった。
ショーは中断。
客は逃げ出した。
結局、大山倍達らは捕まり留置場に入れられた。
留置場から胸を張って出てくる大山倍達をみて、曺寧柱は危険なものを感じ、抗争から遠ざけるべく岐阜の東亜連盟の先生宅に入れた。
しかし大山倍達は岐阜から各地の建青の活動に参加した。
内心、敵の襲撃を期待しながら・・・
ある集会で朝連から殴り込みを受けると乱闘の先頭に立って相手を潰していった。
栃木に戻るとどんな忙しくても、毎日数時間の空手の稽古だけは欠かさなかった。

栃木から東京に戻った大山倍達は早稲田大学に入学。
(2年後に退学)
ある講演会でお手伝いをしていた智弥子夫人に出会った。
1946年6月に2人は結婚した。
「式は井の頭公園でお弟子さんの前でボートに乗ってそれで終わり(笑)。
その後、主人と一緒に田中清玄(東大在学中に共産党に入党し書記長となり武装共産党を指導、大物フィクサー)先生のところに結婚のご報告に行ったんです。
それ以前から主人は田中先生にはずいぶんお世話になっていたみたいですね。
そのときに田中先生はこうおっしゃったんです。
『大山さん、結婚するといってもどこに住んで何をやって食べさせるんだ。
そんなこともちゃんとできないで人の大事なお嬢さんをもらいましたといっても人生は通らないよ。
君がちゃんと生活できるようになるまでは奥さんは私たち夫婦が預かっておきます。
家庭を持てる状態になったら、いつでも迎えにいらっしゃい』
で、それから1年近く田中先生のところで坊ちゃんのお守りのようなことをしながら、お世話になったんです」
大山智弥子の元の名は「照子」だったがほかの男から呼ばれていた名を嫌った大山倍達に、「置八子」、「智弥子」と2度、変えさせられた。
「本当に大山倍達と暮らした50年間は毎日、いや1秒1秒がドラマでした。
本当に凄い人でしたよ。
ヤクザかといったらそれは違う。
かといって生真面目な人間かといったらそれも当たらない。
大山倍達をただの空手バカという人もいますけど、私は決してそうは思いません。
本当に並の星の下に生まれた人じゃなかったですね。
あんな破天荒な行き方をしたのに、理解して応援してくれる人はたくさんいましたからね」
大山智弥子はそういうが、彼女もかなりだった。
父親は県会議員というお嬢さん育ちで、ミス東京に選ばれ、芸能界や宝塚からも誘いがあったが、結婚後、千葉県のトイレもないボロ屋で暮らし始めた。
大山倍達はほとんど家に帰ってこず、どこに行っているのかもわからず、近所から「愛人ではないか」と疑われたこともあった。
電気代が払えず電気が止まると家の板や柱を燃料にしてしのいだ。
京都で武道大会が開催され、大山倍達はこれに優勝。
優勝カップを持って家に帰ると、妻:智弥子は長女を出産していた。

大山倍達は、若木竹丸にウエイトトレーニングを習った。
若木竹丸は中学時代に相撲で関東学生選手権2位。
ウエイトトレーニングは相撲の鍛錬の1つとして始めた。
大学ではボクシングや柔道を学びウエイトトレーニングの研究を続け、日本腕相撲選手権で優勝。
著書「怪力法(怪力法並びに肉体改造体力増進法)」を出版した。
そのトレーニングは合理的で、バーベルの重量が限界に近づいてきたら、トタン板のプレートを使いグラム単位で増やしていった。
こういった方法に加え、大山倍達はバーベルが挙げられなくなると、お尻に畳針を刺してもらい、飛び上がるような痛みで、瞬発力をつけて、バーベルを挙げた。

大山倍達は、巻き藁を突き、バーベルを挙げ、板やレンガを割り、組手をして稽古に没頭した。
そしてケンカが起こると真っ先に飛んで行った。
それは決して民主主義思想のためではなかった。
1人で何人倒せるか。
自分の技の威力はどれだけか。
戦うこと、強い自分が好きだった。
空手も、型より組手、技より力主義だった。
あるとき、建青の訓練所で剣道を指導していた日本人の先生が大山倍達を一目みて曺寧柱に忠告した。
「あいつは狂っている。
精神を鍛錬しなければいつか殺されるかダメになってしまう。」
こうして大山倍達は、曺寧柱の指示で数か月間、身延山の久遠寺に入り、修業を行った。
そこで地元の猟師や農家と仲良くなってお土産をもらったため、山を下りるとき入る前よりたくさんの食料を持ち帰った。
やがて大山倍達は、7年に及ぶ在日朝鮮人同士の抗争から身を引いた。
建青を抜け、千葉から東京へ引っ越した。
そして山口剛玄の道場に入り稽古を積んだ。
(2年後には剛柔流6段となる)
空手一筋になったのはよかったが、収入がなくなったためヤクザの用心棒をしてしのいだ。
そんなときにアメリカ遠征の話が舞い込んできた。
アメリカに渡ってプロレスのリングで戦ってみないかという。
このとき受け取った契約金で東京都豊島区目白に大きな家を建てた。
この家の庭で空手の稽古と指導を行った。
「目白の野天道場」と呼ばれた。

戦後、すでに柔道はアメリカにも普及していたが、空手は初上陸だった。
初戦は、シカゴの1万人を超えるプロレスファンが集ったホールだった。
初戦といっても、プロレスをするのではなくプロレスのリングでデモンストレーションを行うことが目的だった。
その控室でのこと。
大部屋にたくさんの外人レスラーが入っていて、その巨体と筋肉に圧倒された。
「何か準備するものはありますか?」
主催者に聞かれ、大山倍達は
「1インチの板5、6枚とレンガを数個」
と注文した。
やがて時間が来て大山倍達はリングに上がった。
そして一礼してから、まずは型。
わけのわからないダンスにブーイングが起こった。
次は試し割り。
「こんな板、割れるのか?」
板を持つパートナーが聞いた。
そこには板が2枚あり、1枚は注文通り1インチほどの板だったが、もう1枚は5インチ(約12㎝)もある板だった。
1インチの板は難なく割れた
続いて分厚い板。
深く息を吸い込み、それを吐き出し、半歩下がって構え、拳を放つと板は真っ二つになった。
そしてすでに拳は、そこにはなかった。
一瞬の出来事だった。
歓声が起こった。
続いて、手刀でのレンガ割り。
しかしリングの柔らかいマットのせいで2度失敗。
3度目は、台座をリング中央からコーナー寄りに移して、衝撃の吸収を少しでも下げ、かつ肘に替えてなんとか成功させた。
客の溜息と拍手を聞きながら、大山倍達は礼をしてからリングを下りた。
初めてのアメリカでの空手のデモンストレーションは成功した。
翌日、新聞のスポーツ欄には、「KARATE」の文字が躍った。
ある日、控室にいた大山倍達がビジネスパートナーと打ち合わせをしていると1人のプロレスラーが近づいてきて、大山倍達の足に唾を吐き、仁王立ちで挑発した。
ビジネスパートナーは囁いた。
「このまま引き下がったらダメ。
なにかこの男脅す方法ない?」
大山倍達は躊躇いながらも、両手の親指と人差し指だけで逆立ちをした。
「ヘイ・ユー・ルック」
丸太のような腕を組んでみていたプロレスラーは冷蔵庫から瓶のコーラを取り出し、歯で栓を抜き、中身を飲み干し、肘に白い布をかぶせ、そこに瓶を挟み、呻き声を上げながら肘を曲げて瓶をバリバリと砕いた。
退いたら負け。
次は大山倍達の番だった。
中身を半分ほど残したコーラ瓶をテーブルの上に立てた。
その前に立って、深く息を吸い込み、カーッと吐き出した。
そして腰を落として決め、手刀をつくり、首の後ろに振りかぶり、気合もろとも瓶口めがけ打った。
すると小さな塊が壁に飛んで、床に転がった。
テーブルには首がなくなったコーラ瓶が立っていた。
瓶切りが成功した。
首が吹き飛んだ瓶をみて誰かがいった。
「オー・マイ・ゴッド・・・」
こうして大山倍達の手は「ゴッドハンド」となった。
その後、大山倍達は、シカゴ、イリノイ、アイオワ、ミシガン、ミネソタ、カナダ、インディアナ、ジョージア、サウスカロライナ、フロリダ、キューバと全米を周った。
そして5セント銀貨を人差し指と中指に親指の3本で曲げて潰したり、手の甲の拳ダコをハンマーで叩かせたり、自然石を手刀で割ったり、アトラクションとしてプロレスと試合を行った。
飛び入りの挑戦者を相手に賞金を賭けて対戦したこともあった。
アイオワ州で警官の挑戦を受けたときは、相手の乱暴な攻めに怒った大山倍達が組みつこうとする相手の右手を左手で払いのけて飛び込み、右手で相手の両目を突き上げ、右膝で金的を蹴り上げた。
そして相手の胸板に拳を叩き込み、肋骨を7本折った。
なんでもアリのルールだったが、観衆は怒り出しリングになだれこもうとしたため、大山倍達は警備員の力を借りてリングを去った。
しかし群衆はホテルまで押しかけたため、警官にシカゴまで護送された。
プロレスのレフリーをつとめていたジャック・デンプシー(元プロボクシングヘビー級チャンピオン)が大山倍達がデモンストレーションをみて、控室を訪ね、その拳をさすったこともあった。
2度目の渡米時には、シカゴで牛を相手に角折のデモンストレーションを行った。
「KARATE」と「Hand of Got」は、アメリカで爆発的な人気を得た。

大山倍達は、牛と戦うことを空手家の宿題と考えていた。
1953年、アメリカのシカゴで、牛と格闘し、手刀で角を折った。
1954年、千葉県館山の八幡海岸で「猛牛と戦う空手」という記録映画が撮られた。
1000名以上の見物客と4台のカメラが見守る中、大山倍達は、トランクスに上半身裸で登場。
そして450㎏を超える牛の根元の太さは10㎝超、長さ約40㎝という大きな角をつかみ、ねじり倒そうとした。
牛の角で腹部から出血しながらもなんとか倒し、起き上がろうともがく牛の頭を押さえ込んだ。
そして牛の角を左手でつかみ、右手を振り上げ、もう一方の角に振り下ろし、角を叩き折り、表皮だけでつながった角をもぎとり高々とかかげた。
1956年にも田園コロシアムで「牛との格闘」が公開された。
そして「牛殺しの大山」といわれた。

大山倍達は目白の豪邸から板橋区のアパートに転居し、大山道場を立ち上げた。
この道場は後に豊島区西池袋のバレエスタジオに移った。
道場といってもオンボロ木造アパートの1階にあった板張りのスペースだったが、
野天道場に比べ、屋根があり、床があり、鏡もあった。
水道も電気もあったので、門下生300名は夜も練習できた。
大山道場の稽古は地獄そのものだった。
近年、アルティメットやバーリトゥードなどなんでもありの格闘技がクローズアップされてきたが、
大山道場は、突き蹴りだけではなく投げも絞めも許された。
また大山道場の組手は真剣勝負だった
強さを目指す者にとって、大山道場は憧れと同時に恐怖の対象だった。
大山倍達自身、まだ自分自身が強くなることに一生懸命で、
去る者は去れ、ついて来れる者だけついて来いという感じで、
ほとんどの者がその厳しさに耐えられずたった数日でやめていった。
それまでの空手は寸止めの空手や、実際に当てる組手を行っても防具をつけたりしていた。
大山道場の空手は、組手=倒すことであり、また当て合うことで当てられても倒れないからだをつくった。

1964年、国際空手道連盟極真会館ができた。
目白の野天道場で2年、オンボロバレエスタジオで8年、10年間のときを経て、大山道場は「極真会館」となり、実戦空手、武道空手の聖地となった。
「寸止めではなく、実際に当ててみなければ、真の強さを極めることはできない」
大山倍達は「実戦空手」を提唱した。
そして世間からは「空手は悪い人間がやるもの」といわれ、空手界からは「ブチ壊しの空手」「ケンカ空手」と異端視され続けた。
1970年代、「空手バカ一代」が大ヒット。
「これは事実談であり、この男は実在する。」という冒頭のフレーズに多くの若者が惹きこまれた。
そして空前の空手ブームが起こった。
極真会館には連日、入門希望者の列ができて、道場に入りきれず廊下やロビー、路上でも稽古が行われた。
また全国各地に支部がつくられていった。
極真は、
「千日をもって初心とし、万日をもって極みとする」
という格言に因んでいる。
「初めて武道を志し、修行によってようやく初心に達するまでに千日(3年)が必要で、その極意、境地に至るためには万日(30年)はかかる」
という意味で、大山倍達は
「武道を志す者は、毎日稽古に没頭し、例えば拳の握り方ひとつについて常に悩み、工夫、研鑚を重ね、ただただ奥義を究めるべく不断の努力をしている1人の求道者に過ぎない」
「中途半端な強さではなく、真の勇者たれ」
という。
どんな困難にも決して「あきらめない」という精神的姿勢は極真空手家に強くみられる特徴である。
大山倍達は、極真空手は、スポーツでも、格闘技でもなく、「武道」であるという。
そして
「武の道の探求は、断崖をよじ登るがごとし。
休むことなく精進すべし」
「空手の修行は急ぐことはない。
階段を1段づつ上がるように、ゆっくりと歩めばよい。
しかしそれは稽古をやりたくなければ休めばいい-ということではなく、焦るな-ということ。
稽古は休まず地道に続ける。
毎日続ける。
しかし精神的に決して急がない。
自分にあったペースで、自分の稽古を積み上げていくこと。
それが武道の修行である」
という。
その願いは
「極真空手を志したすべての人が本当に強くなって胸をはって生きていけるようになってほしい」
ということだった。

松井章圭は、「極真会館」ができる前年(1963年)に生まれた。
父親は19歳のときに漁船に乗って広島県の尾道に渡り、2年後、東京で愚連隊に因縁をつけられていたところを「松井」という親分に命を助けられ、日本での通名(外国籍の者が日本国内で使用する通称名)を「松井」にした。
その後、働きながら法政大学を卒業。
喫茶店を始め、数年後には広い庭つきの2階建ての家を建てたが、借金の保証人になったことで、数億円の借金を背負い、家も喫茶店もとられ、4畳半のアパートに移った。
その後、10年間、スナック、サウナ店、焼鳥屋、食堂と転々と経営し、13回引越しをしながら、借金を返し続けた。
アパートにうつったとき松井章圭は小学生だった。
体が小さく、色白でぽっちゃりし、勉強も体育も真ん中だったが、強い正義感を持っていた。
また偏見を持つ日本人から差別を受けた経験から自然と
「2倍も3倍も努力しなくては認めらない」
と認識していた。
学校で、女子につい傷つけるような言葉をいってしまったあとは自己嫌悪に陥り、その子のところにいって謝り
「これからは絶対に悪口をいわないからな」
といって握手した。
部活動で後片付けをサボっている上級生5人に
「みんなで後片付けをするのが決まりじゃないですか」
と注意すると、翌日、その5人に体育館の倉庫に連れ込まれ殴られ蹴り回された。
松井章圭は、悔しくて眠れなかった。
「正しいことを行うためには強くなければならない」
ある日、松井章圭が、「週刊少年マガジン」を立ち読みをしていると
「これは事実談であり、この男は実在する」
という見出しに遭遇した。
「空手バカ一代」だった。
松井章圭は、大山倍達の超人追求物語をみて、まるで神の啓示に打たれたような心境になった。
その後、「空手バカ一代」だけではなく、大山倍達の著作も読破していった。
それらはすべて強くなるための方法が書かれたもので、すべて松井章圭のバイブルになり本棚に並んでいった。
そして1人で極真空手の基本稽古、拳立て伏せなどのトレーニングをやり始めた。
1975年11月、東京体育館において極真空手の第1回世界大会が行われた。
これは「地上最強のカラテ」というドキュメンタリー映画となり、松井章圭は映画館でそれを観た。
やがて電柱や壁など硬いものがあると拳を当てて鍛えるようになった。
そして隣町に極真の道場ができると親に通わせて欲しいと頼んだ。
母親は、800人中、300~400番くらいの成績だった息子に
「100番以内に入ったら許します」
といった。
すると60番まで上がった。

1976年6月12日、松井章圭は13歳で極真に入門した。
家からバスで30分のところにあった極真会館千葉北支部流山道場は、20畳ほどのプレハブ小屋で、指導していたのは加藤重夫だった。
加藤重夫は、155㎝50㎏。
160㎝60㎏の松井章圭より小さかった。
16歳のときに大山道場に入門し、空手に熱中するあまり高校卒業後勤めた豊島区役所も8ヵ月で辞め、血まみれになりながら稽古を続けた。
そして相手の蹴りや突きを肘で受ける受け技「落とし」を体得。
国内だけでなく、オーストラリア支部へ派遣され指導を行った。
また映画「007は二度死ぬ」では姫路城の屋根の上のシーンを演じた。
(1985年、極真会館の千葉北支部の師範代の任を辞し、埼玉県新座市に「藤ジム」というキックボクシングのジムを設立。
やがて魔裟斗を輩出。
空手で松井章圭を、キックボクシングで魔裟斗、2人の世界チャンピオンを育てた)
加藤重夫は松井章圭に入門の動機を聞いた。
「将来、空手家になりたいんです。
極真空手を一生続けていくつもりで来ました」
「よし、わかった。
それならば
お前は極真のチャンピオンになりたいんだな?」
「はい」
「よし、がんばれよ。
そのかわり今日から『つらい』『苦しい』『痛い』という3つの言葉だけは絶対にいうな。
できるか?」
「はい」
松井章圭はさっそく練習に参加した。
まず
「押忍」
という挨拶の仕方を覚えた。
そして稽古は神前への礼、師範への礼、門下生同士の礼から始まった。
準備体操が終わると拳立伏せ、腹筋、背筋などの補強運動。
そして基本稽古。
正拳突き、裏拳、肘打ち、手刀、上段受け、中段外受け、内受け、下段払い、前蹴上げ、内回し蹴り、外回し蹴り、膝蹴り、金的蹴り、前蹴り、横蹴り、関節蹴り、後ろ蹴り、回し蹴り・・・
各30本、気合をかけながら行う。
その後は深く腰を落とし背骨を立てたまま移動し基本の技を出す移動稽古。
「苦しいときこそ足の親指に力を入れろよ。
親指があらゆる技を出すときの源なんだからなあ」
加重夫の怒声に
「押忍」
と全員が答え汗にまみれながら動いた。
「いいか、苦しくなってきてからの頑張り、すなわち一枚腰ってやつは誰だって持ってるんだ。
これを乗り越えて次にやってくる苦しさで半分のやつは音を上げるんだ。
ここまでが二枚腰ってやつだ。
さらに苦しさが増す。
だがさらに自分を追い込んで逃げないやつ。
根性で食らいついてくる人間。
こいつこそが三枚腰の人間なんだ」
「押忍」
移動稽古後は、2人1組で攻撃側、防御側に分かれて技をかけあう約束組手。
その後、さらに型の稽古を行う。
そしてやっと組手となる。
直接技を当て合う直接打撃制の組手を1~3分、相手を変えながら行う。
加藤重夫は、入ったばかりの松井章圭にも組手を命じた。
相手は緑帯を締めた同じ中学校に通う同級生だったが、松井章圭は突きで押しまくられ、鼻に蹴りをもらった。
鼻血を出して倒れたが、痛みや屈辱よりも
(やっぱり極真は強い)
という感動と興奮のほうが大きかった。
組手が終わると柔軟体操。
そして正座して黙想。
全員、大きな声で道場訓読み、礼をして稽古は終わった。
その夜、松井章圭は自宅の鏡の前に買ったばかりの左胸に紺色の糸で「極真会」と刺繍された道着を着て立った。
「俺は絶対に黒帯になる」

千葉県の一宮海岸で行われた夏合宿に参加したとき、松井章圭は大山倍達を初めて生でみた。
合宿2日目の夜、大山倍達は、サングラスに道着のズボン、白いランニングシャツで登場し講話を行ったた。
白帯の松井章圭は最後列だったが、一言も聞き漏らさないように正座したまま話を聞いた。
「バシッ!」
技を説明するために大山倍達が左手に右肘を打ちつけると、全身が反応した。
「君たち、1度立ち会ったら1発で相手を倒さなければならないよ」
講話が終わっても松井章圭は正座を崩せなかった。
白帯の松井章圭が初めて昇級審査に参加したとき、再び神様
と遭遇した。
審査課題の中に「拳立て伏せ×50回」があったが、松井章圭は42回しかできなかった。
すると審査に来ていた大山倍達が声をかけた。
「君は何回やったんだね?」
「押忍、42回です」
「なんでそのあと8回ができないのか。
死ぬ気になればできるよ」
大山倍達は激しく怒られ松井章圭は落ち込んだ。
自分の取り組み方が甘かったと、夜の縄跳び1000回、風呂に入った後のストレッチに加え、腹筋、背筋、拳立て伏せも毎日行うようにした。
こういった得意な部分を伸ばすことよりも、自分の弱点の克服に全力を尽くす稽古の方向性も松井章圭の特徴だった。
中学3年生になり茶帯の昇級審査を受けた松井章圭は、再び大山倍達に声をかけられるになる。
基本稽古、移動稽古の審査ではひときわ高く美しい蹴りを、組手の審査では、大人を相手に、跳び2段蹴り、後ろ回し蹴り、上段回し蹴りを連続的に繰り出して華麗な組手を行った。
「君、ほんとに14歳?」
「押忍」
「うーん」
と大山倍達はうなり
「君は必ず強くなるから頑張って稽古しなさい」
と励ました。
こうして入門1年という異例の速さで茶帯に昇級した。
極真空手の帯は、白帯から、青帯、黄帯、緑帯、茶帯と昇級していき、有段者になると黒帯となる。
黒帯の端には締めている者の段位を、初段なら1本というように金糸の線が刺繍され、段位が上がる度に1本ずつ増えていく。
この頃、黒帯になれるのは、門下生数百名に1人だった。

茶帯になった松井章圭は加藤重夫に、大山倍達が直接指導し圧倒的な強さを誇る総本部道場への出稽古を申し出た。
そして許可を得ると翌日、新しい茶帯を巻いた道着をもって電車で東京へ向かった。
地下のロッカールームで着替え、稽古が始まった。
加藤重夫の指導では、基本稽古は1つの技が30~50本だが、総本部は、そんな数では終わらず、最後の回し蹴りは500本だった。
組手稽古が始まると、最初の相手は、自分より体の小さな茶帯だった。
太鼓が鳴り構えた瞬間、右の顔面に衝撃が走り視界が曇った。
相手の左上段回し蹴りをもらっていた。
次の瞬間、体が宙を舞い背中に衝撃が走り息が詰まった。
相手は松井章圭の襟をつかんで体落としで床に投げつけていた。
「大丈夫か」
遠くに相手の声が聞こえた。
次の瞬間、腹部に強烈な痛みが走り完全に息が止まった。
相手は松井章圭の腹部に極めの足蹴りをめり込ませていた。
この後の組手でも、松井章圭は突かれ、蹴られ、投げられ、踏まれ続けた。
自分の技はまったく決まらず、逆に相手の技は1つ1つが、速く、痛く、重かった
やっと稽古が終わると、松井章圭は、逃げるようにして総本部を飛び出した。
電車の中では涙が出た。
(もうやめようか)
入門以来はじめて極真空手をやめることを考えた。
しかし数ヵ月後、1977年10月、入門して1年4ヵ月の松井章圭は昇段試験を受け合格し、黒帯になった。
まだ中学生。
極真史上最年少の黒帯だった。
黒帯になった松井章圭に、母親は高校受験のために半年間、極真空手の稽古をやめさせた。
しかし空手ができないことで勉強に集中できず逆に成績は落ち、志望校のランクを下げて受験するも不合格。
東京の東洋大学京北高等学校の2次募集に合格した。
道場に復帰した松井章圭は、自分の修行を行いながら、道場に3人しかいない黒帯の1人として大人を含めた門下生の指導も行った。
いつもポーカーフェイスで、わかりやすく技を説明し模範を示す松井章圭だったが、ツッパリや不良が入門してくると組手で痛めつけた。
ただ同じツッパリや不良でも1人で大勢と戦うような人間は受け容れた。
しかしハッタリだけで実は弱い人間は容赦しなかった。
またたるんだ練習を行う人間にも厳しかった。
1978年10月、入門時160㎝60㎏だった体が174㎝80㎏になった松井章圭は初めての試合、第1回東北大会へ出場。
1回戦、過度の興奮と緊張で、下段回し蹴りと合わせ技しか出せないまま、なんとか判定勝ちしたが、右足親指を骨折。
2回戦も何とか勝ったが、3回戦で後ろ蹴りを腹にもらって負けた。
骨折した箇所をかばいながら乗り込んだ帰りの電車は込んでいて、上野駅まで4時間、立ったままだった。

松井章圭は、加藤重夫の指示で、週2回、金曜日の夜と日曜日の昼に総本部で黒帯が集まり、大山倍達の指導により行われる黒帯研究会、通称「帯研」へ出稽古することになり、2年前、逃げるように帰った総本部の門を再びくぐった。
支部からきていた黒帯は松井章圭を含め6名いたが、大山倍達は
「支部からきた黒帯は3ヵ月間は茶帯研究会の方で稽古するように」
と命じた。
松井章圭は、茶帯研究会の練習にはついていけた。
しかし総本部の茶帯の筋肉質な肉体と、たとえ組手で劣勢でも決して弱気になることはなく戦い続ける姿勢に驚かされた。
3ヵ月後、帯研へ参加が許されたとき、6名いた支部から出稽古に来ていた黒帯は、松井章圭を含め2名になっていた。
このときの帯研は、第2回世界大会へ向けての強化合宿も兼ねていて、日本代表の選手も参加していた。
まだ体重別の大会もなく世界大会の代表選抜は全日本だけの1発勝負で、ベスト8と数名が推薦枠として出場できた。
中でも全日本大会で優勝したばかりの中村誠の強さは群を抜いていた。
「断ったら世界大会に出さない」
と大山倍達といわれ中村誠、三瓶啓二、三好一男が100人組手にも挑戦。
8月、映画「地上最強のカラテ」の撮影用のカメラとライトが入った道場は、温度も湿度も上がり、不快指数100%の炎熱地獄となった。
松井章圭も相手を務めたが、三瓶啓二は49人目、中村誠は35人目、三好一男は45人目で失敗した。
中村誠の空手は相手を叩き潰す組手。
自ら前に出ていき、重戦車のようになぎ倒し、キングコングのように吹っ飛ばしていった。
しかしこういう組手はエネルギー消費が激しく、20人を超えると動きが悪化。
やがてそしてサンドバッグ状態になり、35人目で大山倍達からストップがかかった。
100人組手の凄まじさを目の当たりにした松井章圭は、ウエイトトレーニング器具を購入し、ベンチプレスを30㎏×1000回、腹筋×500回、背筋×500回を追加し、毎日やっていた自宅でのトレーニングをボリュームアップさせた。
また道場へは稽古開始1時間前を目標に行き、相手を見つけて組手を行った。
総本部の強さの理由の1つが「稽古量」にあると悟ったからだった。

100人組手の3日後、挑戦した3人を含む日本代表は、アメリカ遠征に旅立った。
3人共、アメリカに着いて1週間は脱水症状でまともに動けなかった。
それでも世界大会で最大のライバルとなるウィリー・ウイリアムズスを含むアメリカ代表とケンカのような組手を行った。
そして世界大会では中村誠が優勝し、三瓶啓二が2位になった。
三瓶啓二は不屈の男だった。
福島から東京に上京し、早稲田大学の2部学生としての勉学、アルバイト、稽古、トレーニングをこなし、1日の睡眠時間は3時間しかしなかった。
第11回全日本大会から、この第2回世界大会にかけ、2年間、中村誠に勝てなかった。
三瓶啓二は、中村誠より少し先輩だったが、体格でも才能でも劣っていた。
「史上3連覇を成し遂げた三瓶君も生来体が硬い。
今でも股割りをさせても、ぴたっとは足がつかない。
それでも彼は努力を重ねて、あそこまでやった。
だから体が硬くても強くなれる」
素質じゃないよ。
努力だよ」
(大山倍達)
「彼は茶帯だったが後年のブルファイターぶりはその当時から目立っていた。
まだ大した技も持っていなかった。
しかし一歩も下がらずに前へ前へと出る試合ぶりで勝ち上がっていた。
だが私と対戦したときは、私の迫力に気後れしたのか後退する場面が多くしばしば場外に出てしまう」
(第1回世界大会優勝者、佐藤勝昭)
三瓶啓二は、もともと総本部にいたが、早稲田大学での稽古や指導のために、ほとんど総本部には顔を出していなかった。
「打倒、中村誠」
を誓った三瓶啓二は総本部に復帰。
朝の10時に始まる1部の稽古から参加するようになった。
総本部での稽古で意気投合した三好一男、柳渡聖人らと特訓を開始した。
総本部では、合同稽古とサンドバッグなどで自主練。
国立競技場トレーニング室で苛酷なウエイトトレーニングを行い極限まで自分を追いつめた。
「打倒 中村!!」
狂気スレスレの稽古を行う三瓶啓二に、三好一男(高知県支部長)、小林功[栃木県支部長]、柳渡聖人(岐阜県支部長)、大濱博幸(広島県支部長)、藤原康晴(長野県支部長)をはじめ多くの後輩が憧れた。
そして三瓶啓二も後輩たちの面倒をよくみた。

三好一男が三瓶啓二と夜を徹して酒を飲んだとき、朝、目が覚めると、傍で寝ているはずの三瓶啓二がいなかった。
どんなに酒を飲んでも三瓶啓二は、早朝の自主トレを休まなかった。
「自分にとって、三瓶先輩と同時代を生きれたという事は、大きな財産だと思っています。
ただ黒帯を取れればいい、そんな程度にしか考えていなかった自分が、極真空手の本当の厳しさ、素晴らしさを知る事ができたのも、三瓶先輩のおかげですから」
「あの人が勝てなかったら、この世に神がいるということも、努力は報われるものだという話もみんなウソになると思いました。
それ程稽古をしたんです。
あの人は」
大学を口実に四国、愛媛県新居浜市から上京し、総本部に入門。
毎日、朝9時の朝礼、10時から始まる1部の稽古、2部の稽古が終わる18時まで、生活は道場にあった。
「出席率は常時トップでしたよ。
努力賞はいつも自分のものでした。
とにかく毎日稽古はした。
当時の稽古はそりゃ厳しかったです。
入門したばかりの頃から先輩方にはガッチリやられました。
組手をやっていたら一瞬目の前が真赤になって。
アレッ、どうしたのかなって思ったら顔中血みどろだったり。
でもあの頃は不思議と何でもなかったです。
だってあの極真空手をやっているんだもん、こんなことは当たり前だと思ってました」
(三好一男)
世界大会では4回戦でイギリスのバーナード・クレイトンと対戦。
エキサイトした三好一男は、大山倍達に
「試合態度が悪い」
と警告を受け意気消沈。
熱く燃えてない三好一男など、バットを持たずに打席に入ったバッターに等しく判定負け。
第12回全日本大会では1回戦で左足の指を骨折。
中指が完全に反り返り上を向いていた。
即、救急車で東京体育館に近い慶応病院へ。
待っている間も次の試合の順番が気が気ではなかった三好一男は医師に
「テーピングでなんとか試合できるようにしてくれませんか」
と頼んだがギブスを巻かれてしまった
「まいったなあ」
と思いながらも試合場に戻り、ギブスを巻いた足で胴廻し回転蹴りや上段廻し蹴りを放ったが、下段廻し蹴りだけは出さなかった。
「骨折している僕も痛いが相手だってギブスで蹴られれば痛い。
下段はその気になれば狙って蹴れる。
でもそうしては失礼だという気持ちがあった。
だから下段だけは蹴ってないです。
上段は、届くまでに時間もかかるし、相手にとってもよけやすい。
それにこれもダメだとなると僕の方も試合にならないので申し訳ないけど勘弁してもらいました」
上段廻し蹴りを放った結果、ギブスの一部が砕け、石膏がもうもうと舞い上がった。
後で極真史上、初の凶器使用と笑われた。
三好一男の空手は、さばいたり、回り込んだりというテクニックや器用さはなく、荒々しく豪快。
「どんな強い相手でも1歩も下がらず向かって行け」
という教えを守り
「絶対に負けない」
という強い気持ちだけ武器に戦い続けた。
19歳で全日本大会に出場してから、全日本大会と世界大会に9回連続出場。
高知県支部長となった。
取材にきた記者と夜明け近くまで一緒に飲み、最後の店を出たとき
「これでホテルまでタクシーで帰ってください」
と強引に千円札を掴ませ、自分は自転車で帰った。
そして数時間後、ホテルまで迎えにいき駅まで見送った。
「コーヒーでも飲もうよ」
と誘われ、
「もうカネがないんですわ」
と申し訳なさそうにいった。
愚直な大和魂の持ち主だった。

第1回千葉県大会で、松井章圭は、1、2回戦を判定で、3、4回戦を1本で勝った。
そして続く準決勝で、城南支部の緑健児と対戦した。
緑健児は、165㎝55㎏と体は小さかったが、その足技はパワフルでダイナミックだった。
試合は、ハイレベルな足技の攻防となったが、松井章圭のハイキックに緑健児が前蹴りを合わせたとき、バランスを崩しクルっと1回転してしまった松井章圭は体勢を崩したままパンチを放った。
これが緑健児の顔面を直撃。
この一撃にキレた緑健児はケンカ腰で前に出続けた。
そして松井章圭に前蹴りをボディに入れられ苦しくて動けないところを容赦なく攻められサンドバッグ状態になり判定負け。
緑健児は小学校で「空手バカ一代」を読み、中学生になると通信販売で買った道着を着て自己流で稽古に励んだ。
「小さかったからこそ、大きい奴には絶対に負けない、けんかに強くなりたいと思っていました」
極真会に入るために上京。
ヤンチャで有名だった私立目黒高校に入学。
方言をしゃべると笑われ、ホームシックで島へ帰ろうと思ったこともあったが、ケンカでは負けなかった。
「負け犬になるために東京に出てきたんじゃない」
と城南支部の稽古には台風が来ようが雪が降ろうがまじめに通う一方、都会の甘い誘惑にも素直で、酒、タバコをやり、ストリートファイトで派手に暴れた。
警察に捕まり留置所で
「このままではいけない」
と一念発起。
黒帯を取得し、城南支部渋谷道場を任された頃には空手一筋になっていた。
第4回世界大会(1987年)をベスト16で終わると引退し奄美大島に帰った。
「このままでいいのか」
空手も人生も投げ出してしまった感じで家業を継いだ。
しかし大山倍達にヨーロッパへ行くように指示され、さらに現地で急遽、試合に出ることになり、アンディ・フグと対戦し判定負け。
これにより復帰を決意し猛練習に明け暮れた。
第5回世界大会(1991年)で優勝したときは「小さな巨人」といわれた。
ちなみに千葉県大会で松井章圭と対戦したときは165㎝55㎏。
世界大会で優勝したときは、165㎝70㎏だった。
決勝戦に進んだ松井章圭は、加藤重夫の道場の先輩で、プロのキックボクシングの試合にも出場していた五十嵐裕己に敗れた。
加藤重夫は手紙で、大山倍達に、高校3年生の松井章圭を全日本大会に出場させてほしいと頼んだ。
大山倍達は加藤重夫を呼び出した。
「高校生を出させてケガでもしたらどうするんだ」
しかし加藤茂夫は一歩も引かず、2時間の押し問答の末、ついに大山倍達が折れた。
その手紙は大山倍達の死後も机の中にしまってあった。
そんな経緯を知らない松井章圭は、全日本大会出場を喜び、スタミナ不足という弱点を克服するため、毎日、3㎏のウエイトベルトをつけて5㎞を走り始めた。
1980年11月、第12回全日本大会に、松井章圭は最年少で出場。
1回戦、右上段回し蹴りで1本勝ち。
2回戦、判定勝ち。
3回戦、跳び後ろ回し蹴りで技ありを奪って勝った。
4回戦、前年の全日本大会6位の三好一男に2回の延長戦の末、勝利。
準々決勝戦も2回の延長戦の末、判定勝ち。
準決勝は、第2回世界大会2位の三瓶啓二の下段回し蹴りの連打の前に本戦で判定負け。
松井章圭は3位決定戦でも集中的に下段回し蹴りで攻められ負けた。
三瓶啓二は松井章圭より9歳上。
この全日本大会で初優勝(1980年)し、1981年、1982年も優勝し史上初の3連覇を達成する。

松井章圭は、全日本大会優勝を目標に計画を立てた。
「大学に進学したら東京でアパートを借りて総本部へ移籍する」
そして中央大学商学部経営学科への入学を決めた。
こうして松井章圭は13歳から18歳まで千葉県で加藤重夫の指導を受け、18歳か東京のら総本部道場へ移り大山倍達の指導を受けることになった。
1981年の春、大学に進学した松井章圭は、西池袋に古い木造2階建てのアパートに引っ越した。
若獅子寮に住む内弟子と朝稽古と朝食を共にした後、大学に通い、授業のない日は昼間も稽古に励み、夜は三瓶啓二、中村誠、川畑幸夫、柳渡聖人、 三好 一男、 七戸康博らの指導を受けた。
1食で3人前を食う松井章圭の胃袋は、月10万円の仕送りもすぐに消化した。
お金があるときは、安いラーメン屋に通い、お金が減ってくると、そのラーメン屋でどんぶり飯だけ注文し塩コショウをかけた。
さらにお金が無くなってくると、インスタントラーメン。
たまに若獅子寮でご飯を盗み食いした。
「400㏄献血すると1万円もらえる」
といわれ採血され待っていると、
慢性的なオーバーワークのため肝機能障害という検査結果が出たため、
現金ではなく牛乳を1パックもらって帰ったこともあった。
着るものは、
総本部に武道具メーカーやスポーツメーカーが持ち込んだ試供品で間に合わせ、
冬はミズノのジャージ、夏はTシャツに道衣のズボンにサンダルでどこへでも出かけた。
また総本部に移籍後、黒帯の名前を「松井章圭」という通名(外国籍の者が日本国内で使用する通称名)から「文章圭」という本名にした。
大学も本名で通い、まだ偏見はびこる日本社会で自らの出自を公にし、在日本韓国学生同盟に加盟し、同年代の同胞を交流を深めた。
中国に属国とされ、日本に植民地とされた歴史、
中国の漢字を拒否しハングル文字をつくった誇り高き母国の文化、そして韓国語を学び始めた。

しかし大山倍達は、松井章圭に日本への国籍変更を求めた。
「どうして自分で自分の民族を否定するようなことをしなければならないんですか」
(松井章圭)
「そう深刻に考えることじゃないんだ。
日本に住んでいる以上、便宜上、日本の国籍を取得するだけなんだよ」
(大山倍達)
「便宜上であればなおさら日本の国籍を取得する必要はありません」
(松井章圭)
「君は将来、私の片腕となって働かなければならない。
そのときに韓国籍ではどうしても困るんだ」
(大山倍達)
「総裁は自分の国に生まれて自分の国の言葉を知っていて民族の習慣や歴史やすべてを身をもってご存知です。
総裁は中身の詰まった韓国人なんです。
ですから日本の国籍に変更するというのは、おっしゃる通り日本人の衣を着るということだけなのかもしれません。
けれども私は日本で生まれ日本の教育を受けて日本の名前で今まで生きてきたんです。
その私から国籍というものを除いたら一体何が残るんですか。
民族を証明する根拠そのものがなくなってしまいます」
(松井章圭)
松井章圭は、日本に住み日本で活躍する「在日」という生き方にこだわりと誇りを持っていた。
力道山は、プロレス界の英雄なのに朝鮮人であることを隠し続けた。
一方、張本勲は、韓国人2世であることを隠さずプロ野球で第一人者となり、日本でも韓国でも英雄になった。
松井章圭の理想は後者だった。
大山倍達は1968年に日本国籍に帰化した。
プロレスラーの力道山も北朝鮮出身だったが、すべてが日本人のようでそうだとはわからなかったが、韓国出身の大山倍達は別段それを隠そうとせず、話し方などからすぐにわかった。
「法人認可や土地登記の問題で帰化しないと面倒なことが多いから帰化してくれと頼まれたんですよ」
(大山智弥子)
「主人は国籍なんて自分の好きなように生きやすいように選べばいい。
今は日本に住んで日本の人たちにお世話になって生活の地盤もこっちにある。
だから日本を大事にするのは当たり前だ。
韓国の故郷だって自分が生まれ育った場所だからさびれれば淋しいし切れないものはあるっておしゃってました」
(大山智弥子)
大山倍達は日本人以上に日本的精神を大事にした。
その一方で故国を大切にした。
「頼まれれば嫌といえない人だったので、いつも家族以外の人がうちに寝泊まりしてましたからね。
日本の人もいましたけどやっばり韓国の人が多かったですよ。
あちらから絵やバレエを習いに来た若い人たちをうちでお世話して」
(大山智弥子)
「父はよく私たちにいってました。
『君たちは日本人なんだからね。
日本人の心を忘れてはいけないよ』って。
そのくせ怒ったときなんか急に韓国語で怒鳴りだしたりして。
父が韓国人だったということを聞いたのは私が18歳くらいのときですね、
道を歩いていたときに急に『お前、知ってるのか』って。
私は小学校からインターナショナル・スクールに通ってましたからそんなことは大したことじゃないと思ってたんで、『知ってるよ』っていったら黙り込んじゃいましたけどね」
(大山喜久子、三女)

若獅子寮に住む内弟子の修業は1000日行といわれ、1日24時間空手漬けの生活を3年間続けて卒寮となる。
総本部周辺の清掃の後、6時から5㎞のランニング。
このとき踏切などでどうしても走れなくなると腕立て伏せを行う。
その後は坂道ダッシュを数本。
縄跳び。
腹筋、背筋、拳立て伏せ、スクワット。
当番が朝食を作っている間、他の者は道場に整列し寮歌を合唱。
朝食後は、館内の清掃。
9時30分、整列して大山倍達を待って朝礼。
その後は昼まで、受け付け、電話番など各自の仕事を行う。
昼食後は、週2回、内弟子稽古。
深夜まで続く稽古が終了するのを見届け就寝する。
毎年、全国から100名の応募があり、約10名が選ばれ入寮するが、脱走者が続出し年末には3、4名になった。
卒寮すると国内や海外の支部道場に指導員として派遣されるが、企業から採用を申し込まれることもあった。
内弟子を含め、総本部で修行をする者は、厳しい稽古に耐えているという誇りがあり、比較的アットホームな雰囲気で修行する支部を見下す風潮があった。
支部出身の黒帯(初段)が総本部に移籍した場合、1つ下の茶帯(1級)に戻るというしきたりがあったが、松井章圭はしなかった。
腕を組んで話を聞いていると殴られ、目をみて挨拶すると殴られ、組手で全力で倒しにこられるなど、一部の総本部の先輩たちからかわいがりを受けたが、総本部の習いと受け容れ、雑念を払いのけようと酒を流しこみ稽古に励み、なんとか総本部に溶けこもうと努力した。
「逃げることは許されない。
強くなって年に1度の全日本大会で堂々と決着をつけてやる」
夏の合宿では腕相撲大会が行われ、松井章圭は、理不尽なイジメを行ってくる先輩と対戦。
双方、ケンカ腰で勝負し、松井章圭は、1勝2敗で敗れたが、精神的には一歩も退かなかった。
また総本部で松井章圭は、マンガや本を通して憧れていたスター空手家に接っすることが多く、虚像と実物のギャップに愕然とさせられることもあった。
松井章圭は
「人間には表と裏がある。
人間を理解するには『清濁併せ呑む』ということが大切」
と考えるようになった。
松井章圭は、先輩から紹介され永田一彦トレーナーの指導を受けるようになった。
永田一彦は、パワーリフティングの日本記録者で、
「人間には計り知れない潜在的パワーが宿っている」
という信念を持っていた。
永田一彦のジム「ワークアウト」は山手線、五反田駅徒歩5分のところにあるビルの3階にあったが、弱音を吐くジム生を3階のベランダの手すりにぶら下げ、泣いて救いを求められても生まれて1度もできなかった懸垂ができるまで冷ややかに眺めていた。
サーキットトレーニングなど合理的なトレーニングに加え、2時間ブッ通しのスクワット、腕立て伏せ300回×3セット、腕立て伏せの姿勢で何分耐えられるかなど一見非合理的なトレーニングも行い
「鬼の永田」
と呼ばれた。
総本部に居場所がなかった松井章圭は、ジムの片隅のビニールマットで寝泊まりした。
また通常、ジムで必要なのは、ウェアとシューズとタオル、水分だけだが、松井章圭は、筆記用具と稽古&トレーニング日記も持っていた。

また松井章圭は、週1回、埼玉県の川口駅近くのビルの地下にあった盧山初雄の道場へも出稽古に通った。
この頃の極真の道場、特に支部道場では、科学的なトレーニングと合理的な稽古法が行われることが一般的だった。
しかし盧山道場の稽古は独特だった。
まず中国拳法の修行法である立禅、這い。
立禅は、高い椅子に腰掛けるように中腰になり、踵を少し浮かし足親指の付け根に重心をかける。
両手で大きなボールをかかえるように円をつくる。
顎は軽く引いて、目は軽く開きやや上の方を観て、意識を遠くに放つ。
頭は、天から吊り下げられている感覚、脚は、地面の中に埋まって根を張っている感覚で、この姿勢を20~30分続ける。
人間の内的な力(潜在能力)を強化し、瞬間的な爆発力(気の力、火事場のバカ力)を養成するのが目的である。
這いは、立禅の姿勢のまま、ゆっくり歩を進める鍛錬法
両腕は上げたまま、腰を落としたまま、ゆっくり前後に歩を進めることは非常にキツい。
しかし下半身の鍛錬はもちろん、骨盤を中心にした重心移動を体感することができ、実戦の速い動きの中に生かすことができる。
そして極真空手の基本、移動、型、組手を行った後に、砂袋(砂が入った麻袋)に、拳、手刀、肘、膝、脛、背足(足の甲)、中足(足の親指の付け根)を、それぞれ1000回打ちつける部位鍛錬を行った。
稽古の後、盧山初雄に連れられていった埼玉県の南浦和駅前の焼肉店「トラジ」で、松井章圭は、後に結婚する韓幸吟と出会った。
高校を卒業し池袋の銀行に勤め始めた韓幸吟が、偶然、池袋駅前で松井章圭と再会したことから付き合い始まった。
幸吟の母親、任福順は、松井章圭の父親と同じ済州島出身で、
兄の韓明憲、妹の幸吟が小学生のときに父親は亡くなり、その後はパチンコ店の清掃などをしながら貯めたお金でトラジを開いた。
松井章圭は、たびたびこの焼肉店に通い、任福順が用事ができれば留守番をしたり、注文を取ったりして店を手伝った。
朝鮮高級学校時代にサッカー選手だった2歳上の韓明憲と代々木国立競技場で行われたサッカー・ワールドカップスペイン大会アジア予選、日本代表 vs 北朝鮮代表戦を観戦。
韓国籍、北朝鮮籍の在日コリアン合同サポーターの一員となって銅鑼やチャンゴと共に北朝鮮代表の応援。
大雨の中の試合で、北朝鮮ゴール前の水たまりで止まったボールを日本代表が蹴り込んだゴールが決勝点となった。
試合終了後、松井章圭は涙を流した。

1981年11月、第13回全日本大会が東京体育館で開催された。
昨年、準決勝で三瓶啓二に敗れ4位だった松井章圭の目標は「打倒!三瓶」
そして準決勝で三瓶啓二と対戦し、突きと下段回し蹴りで攻められ本戦で判定負け。
3位決定戦は判定勝ちし3位となった。
優勝は、三瓶啓二。
昨年に続く2連覇達成だった。
この後、松井章圭は、週1回、城西支部の道場へ出稽古を開始した。
城西支部長の山田雅稔は、4名の(体重無差別の)全日本チャンピオンと5人の全日本ウエイト制チャンピオンを育てていた。
松井章圭は、城西支部で新鮮な練習を体験した。
本気で打ち合わないライトスパーリングは力まないため、正確なフォームで技を当てることやコンビネーションの習得に効果的だった。
練習や組手をビデオ撮影して後でチェックすることも自分を見直すのに効果的だった。
またこれまでウエイトトレーニングは、低~中負荷×高回数(軽い負荷でたくさん行う)方法だったが、高重量×低回数(重い負荷を少なく行う)も体験した。
公認会計士でもある山田雅稔は道場経営も練習も合理的だった。
新しい道場をつくって実力のある弟子に指導させる「分支部」制度を極真で初めて行い、分支部長は2週間に1度、山田雅稔の特別稽古を受けてミーティングを行ったり、定期的に支部内交流戦も行われた。
城西支部の道場の稽古は厳しいが雰囲気は楽しく明るかった。

1982年11月13~14日、第14回全日本大会が行われた。
松井章圭は準々決勝で「爆撃機」と呼ばれた増田章と対戦。
増田章は、肩幅が広く、背中は筋肉が発達し過ぎて猫背にみえ、道着の間からは岩のような大胸筋がみえ、マグロのような前腕についた拳は異様にデカかった。
下半身は、大きな臀筋で道着の裾が跳ね上がり、大腿部、ふくらはぎは野生動物のように発達していた。
ベンチプレスで185kg、、スクワットでは200kgを20回挙げた。
夏合宿で茨城県の海へ行ったとき、タンクトップ姿の増田章をみた地元の子供が
「ママ~、白熊がいるよ~」
といって大騒ぎした。
そして試合場では爆発的なラッシュで数多の強豪をマットに沈めた。
増田章のパワフルな突きと下段回し蹴りに体ごと持っていかれそうになりながら松井章圭は技を合わせていった。
途中、「やめ」がかかり、開始戦に戻り「はじめ」とかかると、いきなり右上段後ろ回し蹴り。
前に出る増田章の右顔面を松井章圭の右足踵が直撃。。
しかし増田章は倒れず、その後も猛攻を続けた。
結局、3度の延長戦の後、試し割り判定で松井章圭が勝った。
増田章で燃え尽きてしまった松井章圭は、た準決勝を本戦と2度の延長戦を引き分け、試割り判定で敗れた。
控室へ戻る途中、加藤重夫に怒鳴られた。
「自分から攻撃しなければ体重判定で負けることくらいわかっていながら前に出なかっただろう」
(大切なのは肉体的な強弱だけではない。
追いつめられて弱気になったり萎えてしまったときに、もう一息、頑張れるかどうかだ)
気持ちを切り替えた松井章圭は、3位決定戦を判定勝ちした。


第14回全日本大会後、総本部に君臨していた2大王者、三瓶啓二と中村誠が、それぞれ福島県と兵庫県の支部長となり去った。
三瓶啓二は20歳(1974年)で初出場し、1980年、1981年、1982年優勝の全日本大会3連覇。
世界大会には2度出場し2度2位になった。
1位は少し後輩の中村誠だった。
長年、全日本大会と世界大会の決勝は、ずっと三瓶啓二 vs 中村誠で「三誠時代」と呼ばれた
そして松井章圭が総本部の指導員となった。
下の者にも挨拶されても必ず
「押忍」
と返し、「殴られて、蹴られて体で覚えろ」方式だった指導も
「では正拳の握り方を解説します。
拳をつくって人差し指と中指のつけ根から第一関節にわたる部分が正拳です。
正しい握り方は、
手を大きく開いた状態から
小指から人差し指まで4本のそれぞれの指先が、それぞれの指のつけ根にピッタリつくように巻き込みます」
などと親切に解説し指導した。
また選手として自分のトレーニングと稽古も怠らなかった。
1983年11月12~13日に行われた第15回全日本は、翌年1月の第3回世界大会の日本代表選考会も兼ねていた。
日本代表は、全日本大会8位以上+大山倍達が推薦する3名。
松井章圭は大山倍達に直訴し、トーナメント3回戦から出場するシード権を放棄し、1回戦から出場。
そして1回戦、2回戦を圧勝。
3回戦も合わせ技で相手をひっくり返した。
(勝ったな)
油断した瞬間、相手の中段後ろ蹴りが脇腹にめり込み、判定で勝ったものの右の肋骨2本を折られた。
勝たなければベスト8に入れず、世界大会には出られない4回戦。
相手は、185㎝100㎏、その攻撃の破壊力は怪物と恐れられ、ウエイト制大会重量級、4回出場4回優勝の七戸康博。
体重判定がある無差別級の大会では、なぜか勝てなかったが、七戸康博は負けた後、言い訳を1度もしなかった。
ストイックな七戸康博​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​は、酒、タバコはもちろん夜遊びもせず、1日は稽古、練習、トレーニング、休養に費やした。
総本部指導員時代、
「歯をみせるな」
「手を抜くな」
と厳しくやりすぎ、ついていけない道場生が続出。
先輩に
「みんな緊張している
飲み会を開いて打ち解けよう」
と提案され、
「自分も代表入りしたばかりの頃は、先輩たちに緊張していた。
早速、飲み会を開こう」
となった。
道場生たちが呼ばれて行ってみるとテーブルの上には多量のミネラルウォーターとプロテインが並べてあった。
「おう、まあ座れや♪」
と七戸康博​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​は上機嫌だった。
その七戸康博​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​の巨体が松井章圭を圧した。
(気持ちだ)
松井章圭は踏みとどまって下段回し蹴りを連打。
下段回し蹴りをもらい続け後退した七戸康博にとどめの右下段回し蹴りで「技あり」をとった。
直後に本戦が終了し、松井章圭は勝った。
しかし5回戦は棄権した。

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