「西島洋介山」インタビュー!
西島洋介山と聞けば、読者の方の多くがご存知のプロボクサーであろう。
1973年生まれの彼は1990年代中盤にNABO北米クルーザー級、OPBF東洋太平洋クルーザー級、WBF世界クルーザー級で続けざまに王座戴冠。日本国内唯一のヘビー級選手と称され、地下足袋で闘うそのスタイルに「日本人ヘビー級チャンピオン」の夢を抱いた人も多かったのではないだろうか。
現役時代、その階級ゆえに主戦場をアメリカに求めた西島洋介山。
プロボクサーを引退した後、国内で総合格闘技やキックボクシングに闘いの場を求めた西島洋介。
今回ミドルエッジ編集部(ミド編)は、現在「マスターにし」としても活動されている西島洋介さんにお話を伺う機会を頂戴した。
柔和な表情と謙虚な人柄、そしてボクシングへの一途な想いが同居する西島洋介さん。
40代前半、いまだ夢の途中にある西島さんのボクシング人生を、本稿を通してお伝えしたい。
「成功への道」はこれから
取材当日、定刻に現れた西島さんはブラックスーツを身に纏っていた。
世界で闘ったその闘気を包み隠すようなスーツ姿に、ミド編は思わず「あ、西島洋介山だ!」と心の中で叫ぶ。
当日はシックなスーツ姿で取材に臨んでいただいた
そんな当方の胸の内を悟ったか、柔和な表情で話しかけて下さる西島さん。
最初の話は、ミド編がテーブルに置いていたノートPCに関する話題から始まった。
「パソコン、ブラインドタッチ出来ますか?」
「???」
コチラからインタビューすることで頭がいっぱいのミド編に、西島さんは穏やかに尋ねてくる。
聞けば、西島さんはなんとこれまでの数十年、毎日ノート日記を書き続けているのだという。
「ブラウン管の向こうでスポットライトを浴びていた男の半生を!」と過剰に意気込んでいたミド編だったが、西島さんのこの言葉で場が一気に和むことに。
話はまず、西島さんの「これから」で始まった。
「大好きなボクシングを目いっぱい教えたい、ビジネス抜きで(笑」
「いずれはボクシングジムを経営したいんです。」西島さんはそう語る。
「だけど…」
「ボクシングは楽しく教えたいんだ」この言葉を繰り返し仰る西島さん。
ボクシング→総合格闘技→キックボクシングと渡り歩いた彼のキャリアにおいて、いかにボクシングが大切なものであったかが伝わってくる。
話は、そんな西島さんとボクシングの出会いにまで遡った。
マイク・タイソンをみてボクシングを志す
「180センチで大きな奴をなぎ倒す、夢がありますよね」
1988年に東京ドームで行われたマイク・タイソンの試合は、後々まで西島さんの記憶に残る試合に。
【東京ドーム(1988年3月21日)マイク・タイソンがトニー・タップスを2R2:54TKO】
西島さんとトニー・タップスは後年、アメリカで同じジムに。
そのトニー・タップスの強さを目の当たりにして、今更ながらにマイク・タイソンの強さを思い知ることになったのだそうだ。
西島さんはマイク・タイソンと同じ180センチ
1992年3月、18歳でプロデビュー
プロデビューまでは自身でもラッキーと語るほど、順調に進んでいったのだという。
中学でマイク・タイソンに憧れた男は高校2年でボクシングを始め、高校卒業と同時に憧れの男と同じ世界に飛び込んだのだ。
7人のボクサーを参考にしてファイトスタイルを創り上げた
ミド編)憧れのマイク・タイソンのテクニックを研究されましたか?
「地下足袋で闘うボクサー」
デビューしてほどなく「日本国内唯一のヘビー級選手」として注目を集め始めた西島選手は1995年にNABO北米クルーザー級、1996年にOPBF東洋太平洋クルーザー級、1997年にWBF世界クルーザー級と続けざまに王座を戴冠。
この頃に、メディアを通じて「西島洋介山」を知った読者は数多いことだろう。
所属ジム会長との仲違い、渡米
プロボクサー人生の後半、西島選手は所属していたオサムジムとの確執から渡米してカリフォルニア州でライセンスを再取得することに。
当時のことを西島さんはこのように語ってくれた。
ボクサーとしての強さを追い求めたかった西島選手。
プロボクサーとしてのキャリア形成で意見の異なった会長と袂を分かち、ボクサー人生の後半は渡米してカリフォルニア州のライセンスで闘うこととなる。
当時の決断を後悔はしていない西島さんだが、「踏みとどまっていたら最後までプロボクサーとしてのキャリアを全う出来ていたかも知れない」という一言が、とても率直で印象的だった。
ボクサー引退から総合格闘技、キックボクシングの世界へ
西島選手のボクサーとしての引退試合は2003年7月10日、カリフォルニア州クルーザー級王座決定戦だった。
勝てばカリフォルニア州クルーザー級王座戴冠となったこの試合、結果は2RTKOで敗北。
悔しくて、強さを証明したくて総合格闘技、キックボクシングへ
ボクサー引退から2年半経った2006年2月26日、PRIDE.31でマーク・ハントと対戦し総合格闘技デビューを果たした西島選手。
2009年8月11日にはK-1 WORLD GP 2009 IN TOKYOでピーター・アーツと対戦し、キックボクシングの領域にまで戦いの場を広げることに。
ミド編)総合格闘技、キックボクシングに拳のみで挑もうとされました。
ただ、こんな正直なコメントも飛び出した。
結果としては勝ち星に恵まれない総合格闘技、キックボクシング時代だったが当時を客観的に振り返っていただいた。
ミド編)ボクシング出身の選手たちは、なかなか総合格闘技やキックボクシングで勝てません。
自身の戦績が振るわなかったことは承知の上で、あえてこう語って下さった西島さん。
さらにもう一つ、質問させていただいた。
ミド編)現在、村田諒太選手がWBA世界ミドル級2位にランクされています。この先、日本人がもっと活躍するためには?
この質問から、話は西島さんの夢へと繋がっていった。
親子二代でボクシングヘビー級チャンピオンの夢を
ミド編)そのためには、西島ジムを構えないといけませんね!
「理想とするボクシングを、思う存分に伝えてみたい」
実は空手を習得して現在五段の腕前でもある西島さんは、ボクシングの拳の技術と空手の精神力を融合させたいと語る。
ボクシングについて夢中で語る西島さん
「マスターにし」に込めた想い
ミド編)現在、ボクシングを教える際「マスターにし」という名前を用いていらっしゃいます。
この名前が、総合格闘技やキックボクシングのリングで使われることはなかった。
現在、西島さんは「マスターにし」をボクシングを教える先生としての、自分のリングネームとして使っている。
無骨でストレート、ボクシングを純粋に愛する男
西島さんが現役プロボクサーから退いたのは2003年。
その後は総合格闘技、キックボクシングに闘いの場を求める一方、その知名度とは全く無縁の世界で黙々と仕事を続けてきた。
「愚直なまでに無骨な求道者」といったら大げさかもしれないが、彼が求めたのはスポットライトを浴びることや巨額のマネーを手にすることでなく、憧れのマイク・タイソンのようにボクシングで強くなりたかった、ただそれを志した男。
本稿をお読みいただけば、いまなお変わらぬ彼のボクシングへの想いが伝わるのではないかと思う。
いま、彼が夢見ているのは親子二代で目指すボクシングの道。
叶うか叶わないかは分からない、ただその夢を胸に彼は今もボクシングの夢を追い続ける。
マスターにしの「ワルチャン エクササイズ」
マスターにしのBoxing Philosophy