
Francisco Filho
フランシスコ・フィリォ
1971年1月10日- ブラジル出身
186cm
108.7kg
一撃の怪物(Ichigeki Monster)
極真の怪物(Kyokushin Monster)
筑波大学スポーツ力学研究所で行なった測定で
パンチ力600kg以上、中段回し蹴り(ミドルキック)1t以上という数字を叩き出した。
フランシスコ・フィリォのトレーニング

フランシスコ・フィリォは
ブラジルで放送されていたアニメ『キックの鬼』(梶原一騎原作)をみて
キックの鬼の主人公:沢村忠に憧れ、強い男になりたいという思いが芽生えた。
11歳のとき、はじめてバーベルを握ってベンチプレスをした。
13歳で極真空手の道場に入門し
18歳のときには、
週に1~2時間、多い時には3~4時間、ウエイトトレーニングをするようになり、186cm92kgの肉体で南米チャンピオンになった。
もちろんフィリォにとってウエイトトレーニングは練習の1つであって
メインの空手の練習、ジョギング、ランニングなどの有酸素・無酸素運動、、その他様々な練習、トレーニングを合わせるとだいたい1日4~5時間。
これを週6日行う。
1997年当時のフィリォのウエイトトレーニング

1997年当時のフィリォのウエイトトレーニングメニューは以下のようなものである。
当時のウエイトトレーニングは週2回。
1日は、重量を軽くして回数を多く行う軽負荷多回数制、
もう1日は、重量を重くして回数を少なくして行っていた高負荷低回数制で行っていた。
軽い重さの日のメニュー

スクワット
スクワット
50kg×20回
常に一定の深さまで沈み込むため
尻の下に小さいイスを置いて
そのイスに尻がつくまでしゃがみ立ち上がる。

デッドリフト(スタンダードフォーム)
デッドリフト
50kg×20回
スモウ(ワイドスタンス)デッドリフトではなくスタンダードフォームで行う。

サムレスグリップ

ベントオーバーローイング
ベントオーバーローイング
30kg×20回
サムレスグリップで

シーティッド・バックプレス
シーティッド・バックプレス
30kg×20回
サムレスグリップで

ベンチプレス
ベンチプレス
50kg×20回
サムレスグリップで

シットアップ
シットアップ
50回
頭の後ろに5kgの鉄アレイを持って
この6種目を休憩なしで一気に行なって1セット
これを×5セット
1セットをだいたい6分~8分で行ない
15秒のインターバルをはさんで次セットに入る。
またスクワット、デッド、ベンチは
セットごとに50kgと70kgを交互に行い
ベントオーバーは30kgと40kgを交互に行なう。
重い重量で行なう日のメニュー
スクワット
50kg×20回×1セット
70kg×20回×1セット
100kg×10回×6セット
デッドリフト
50kg×20回×1セット
70kg×20回×1セット
100kg×10回×6セット
ベントオーバーローイング
40kg×20回×1セット
50kg×20回×1セット
70kg×10回×6セット
シーティッド・バックプレス
30kg×20回×1セット
40kg×20回×1セット
50kg×10回×6セット
ベンチプレス
50kg×20回×1セット
60kg×20回×1セット
80kg×10回×6セット
クランチ
100回
側筋(横向きでの腹筋)
左右50回ずつ
(1997年当時の)フランシスコ・フィリョの各種目のMAX(最高挙上重量)は
ベンチプレス 160kg
デッドリフト 215kg
スクワット 200kg
ベントオーバー 125kg
だった。
1997年当時のフィリョ

1997年当時のフランシスコ・フィリョといえば
極真空手の第1回全世界ウェイト制空手道選手権大会重量級で優勝した頃,
そしてK-1に初参戦した頃である。
その相手は前年度のK-1GP王者、アンディ・フグだった。
フランシスコ・フィリョとアンディ・フグには過去に大きな因縁があった。
それは極真空手の第5回世界大会で対戦したときのことである。
極真空手世界大会でアンディ・フグとの対戦

極真空手の第5回世界大会で
フランシスコ・フィリョとアンディ・フグは対戦した。
戦いは蹴りが得意な選手同士、高い蹴りが飛び交う華麗で危険な攻防戦となった。
試合終盤、両者がもつれ審判が「やめ」をコールしたその瞬間、
アンディはガードを解き
フィリョは(故意ではないが)アンディの顔面にキックを入れ
アンディは失神してしまうという事態となった。
当然、アンディサイドはフィリョの「反則!負け」を主張した。
「極真空手は武道である」

これに対し極真空手の長、大山倍達は
「極真空手は武道であるッ!
これは試合とはいえ真剣勝負であるッ!
真剣勝負には待てなど存在しない
待ての合図があったなどという言い訳は通用しない
明らかにこの試合は気を抜いたアンディの負けである」
という非常に厳しい裁定が下した
4年後の世界大会優勝に向けて

チューブトレーニング
こうして優勝候補だったアンディ・フグに勝ったフランシスコ・フィリョだったが
トーナメントで優勝することはできず、ベスト16となり、敢闘賞を受賞した。
フィリョの師、極真空手ブラジル支部長、磯部師範はこういう。
「そのときはベスト8で判定で負けてしまったんです。
ラテン気質というか
目標まではがんばるがそれを達成したらそれでおしまいという感じですよね。
(試合前、フィリョは「打倒、アンディ・フグ」を目標に練習していた。)
これじゃあチャンピオンになるというのは生易しいことではない。
選手育成はやめたと彼達を呼んで宣言したんです。
そうするとフランシスコが「本当に辞めてしまうのか」っていうんですよね。
「次の世界大会までの4年間だけ教えてくれないか」って頼むので
「本当に投げ出さないでがんばるか」って聞いたら、
「どんなことでも我慢しますから教えてくれ」っていったんです」
こうして4年後の世界大会優勝に向けて
フィリョはハードなトレーニングをこなしていった。
また新しいトレーニングも導入された。
チューブトレーニングもその1つで
フィリョは手足に太いゴムチューブをつけてサンドバックを突いて蹴る。
ゴムチューブを外すと羽が生えたように体が軽かった。
K-1でアンディー・フグとの対戦

しかし世界大会での大山倍達の裁定がきっかけとなって
アンディ・フグは極真会館を去り、正道会館に移籍することになった。
このアンディの引き抜きに対し、大山倍達は怒り、一方的に正道会館との絶縁を宣言した。
こうして極真会館と正道会館は犬猿の仲となり、互いにしのぎをけずりあった。
そして大山倍達が死後、、松井章圭がその跡を継いだ。
松井は正道会館との絶縁の解消し、フィリョのK-1参戦が決まった。

戦前の予想は「アンディ有利」だった。
その理由は、
フィリョは顔面アリのルールは初めてであること
(極真空手のルールは顔面への攻撃は蹴り技のみ、突きや肘などの手技を認めない)
アンディが前年度のK-1の王者であることだった。
が、結果は、1R、フィリオの右フックでアンディは失神してしまった。
フィリョはその後も快進撃を続け「一撃ブーム」を起こした。
この年のK-1GPは準決勝まで進んだ。
(準決勝で王者となったアーネストホーストに判定負け)
その強さでK-1のリングでブームを起こし多くのファンを獲得し愛されたフィリョだったが
彼の最大の夢はあくまで極真空手の世界大会だった。
(体重別の世界大会ではすでに世界王者だったが無差別の世界大会では勝っていない。)
このような状況で1997年当時のフィリョは稽古とトレーニングに明け暮れていた。
「彼は常に私の前を歩いている人でした」

フランシスコ・フィリョとアンディフグは犬猿の仲になってもおかしくないのだが
2人は尊敬し合っていた。
特にフランシスコ・フィリョにとってアンディ・フグは先輩であり、目標であり、憧れだった。
フィリョはアンディについて語っている。
「彼は常に私の前を歩いている人でした」
