こだわり抜いたステイヤー血統
スーパークリークは1985年5月27日北海道の柏台牧場で産まれた。
父・ノーアテンションはフランスで活躍したステイヤー。
母の父・インターメゾもまた、イギリスのセントレジャーステークスを勝った
ステイヤー。
珍しいほど長距離にこだわった血統は「天皇賞・春や菊花賞を勝てる馬づくり」
という牧場のポリシーによるものであった。

父・ノーアテンション
伊藤師の慧眼
スーパークリークは左前脚が外向していたため、2度セリに出されたがなかなか買い手が
現れず、最終的な落札価格は810万円だった。
スーパークリークを購入した馬主の木倉氏が「今は小川 (Creek) でも、いつか大河になって欲しい」という意味を込め「スーパークリーク」と名付けたことは有名な話である。
木倉氏に購入を勧めたのは、栗東の伊藤修司調教師。
脚は外向しているが、良い動きをするスーパークリークに才能を感じ取っていたのだ。

伊藤修司調教師
苦しい船出
スーパークリークの競走馬生活は順調なスタートとは言えなかった。
体調不良でデビューが遅れる。
2戦目で勝ち上がり、5戦目でオープン特別すみれ賞を勝つが、その後骨折。
日本ダービーへの出走を棒に振った。
6か月半の休養を経て神戸新聞杯に出走するも3着、続く京都新聞杯で6着。
賞金からして菊花賞は出走できない状況にあったが、賞金上位馬が回避したことにより
出走が可能になった。
人馬そろって初G1制覇!
滑り込みセーフで迎えた菊花賞。
8枠17番を引いていたが、道中では武豊の巧みなコースどりで、いつの間にかインへ。
中団から手ごたえ抜群に4角を回ると内ラチ沿いに進路をとった。
直線で抜け出すと大きな完歩でグイグイと他馬を引き離し、2着ガクエンツービートに
5馬身差をつけての圧勝だった。
菊花賞への牧場のこだわりが花開いたと共に、鞍上の武豊騎手は初G1制覇にして
史上最年少クラシック制覇を成し遂げた。
秋のG1シーズン直前に贈る競走馬の深イイ話!「落馬した騎手を死守」「武豊を逆指名」|「マイナビウーマン」
しばし休養
菊花賞の次は、初の古馬対決となる有馬記念。
1着オグリキャップの0.2秒差で3位入線と力を見せたが、直線で他馬の進路を妨害した
ため失格処分となってしまう。
年が明け筋肉痛を発症。春シーズンは全休となった。
平成三強の頂点に
秋初戦の京都新聞杯。
9か月半の休養明けだったが、1番人気に応え1着。
天皇賞・秋に駒を進める。
平成三強と呼ばれたオグリキャップ・イナリワンが初めて一堂に会したこのレース。
人気はオグリキャップに譲ったが、レースでは強気の先行策。
不利な大外からの競馬だったが、またしても武豊騎手の絶妙な進路どりで、直線は
内をついて力強く伸びてくる。
オグリキャップも猛然と差し込んできたが、スーパクリークはクビ差でしのぎ
記念すべき第100回秋の天皇賞馬に輝いた。
強きライバルたち
翌月のジャパンカップでは、1番人気に推されたスーパークリーク。
道中4番手で追走し、直線懸命に脚を伸ばしたが、ホーリックスとオグリキャップの
叩き合いに加わることはできなかった。
去年の雪辱を期して臨んだ有馬記念では、直線一旦は先頭に立つも、イナリワンの
強襲に遭い2着に敗れた。
春の淀で偉業達成!
翌1990年。
3か月の休養を経て産経大阪杯に出走し優勝。
天皇賞・春を1.5倍という堂々の1番人気で迎えた。
道中は外目を回されるが、直線に入ってもその脚は衰えることなく、後ろに迫っていた
イナリワンに今度は抜かせなかった。
スーパークリークは、史上初の天皇賞春秋制覇という偉業を達成した。

無念の引退
次走には宝塚記念を予定していたが、またもや筋肉痛を発症し回避。
5か月半の休養を経て京都大賞典を連覇し、天皇賞・秋を目指したが、脚部不安のため
見送り。
復帰は叶わず、ターフを去ることとなった。
25年の生涯を閉じる
2010年8月29日。スーパークリークは繋養されていた北海道・浦河の日高スタリオン
ステーションで息を引き取った。25歳だった。
ライバルだったオグリキャップが同年7月にこの世を去っており、まるで追いかけて
いったかのような最期だった。