小柄でバランスの良い馬体
ライスシャワーは、
父 リアルシャダイ 母 ライラックポイント
の間に誕生した、黒鹿毛の牡馬です。
1989年3月5日生まれ。生産は、栗林運輸の会長、栗林英雄氏が所有するユートピア牧場。小柄でバランスの良い体型でしたが、あまり活躍は期待されていませんでした。
因みに、ライスシャワーという馬名は、結婚式のライスシャワーのように、周りの人々に幸福を与えるように願ったという説と、秋篠宮文仁親王と紀子様の結婚の時期と重なり、お祝いの気持ちを込めたという説があります。
1991年にデビュー。3歳時は、新馬戦、芙蓉ステークス(OP)を勝利し、明け4歳を迎えます。
ブルボンの三冠を阻止
日本ダービー2着
ミホノブルボンとの初対決は、皐月賞トライアルのスプリングステークス(GII)。結果は12番人気の4着で、ミホノブルボンとは7馬身差でした。
続くクラシック初戦、皐月賞(GI)から、鞍上は的場均に変わります。結果は11番人気の8着。ミホノブルボンとは8馬身差で、力の差は歴然でした。
ダービートライアルのNHK杯(GII)は、8着の惨敗。その結果、日本ダービーは、18頭立ての16番人気と評価を下げます。ただ、的場は、ライスシャワーの調子の良さを感じていました。
日本ダービーでは、逃げるミホノブルボンのすぐ後ろ、好位2番手につけます。思い切った先行策で、道中は2番手を維持し続け、最後の直線へ。ミホノブルボンがスパートして後続と差をつける中、ライスシャワーはなんとか2番手をキープ。マヤノペトリュースに追い込まれますが、争いを制してハナ差の2着に入ります。1番人気の勝利ながら、16番人気のライスシャワーが2着に入り、馬連配当は29,580円の万馬券。波乱のレースとなりました。
クラシック対決は、ミホノブルボンの2連勝に終わりました。ただ、ライスシャワー陣営は手応えを感じ、秋は "打倒ブルボン" を目標に掲げます。
菊花賞制覇
秋初戦は、セントライト記念(GII)。好調馬レガシーワールドの2着と好走します。そして、続く京都新聞杯(GII)でミホノブルボンと4度目の対決。1馬身半差の2着に敗れますが、鞍上の的場は手応えを感じていました。レース後に、オーナー夫人に次のように話したといいます。
菊花賞(GI)は、シンボリルドルフ以来の "無敗の三冠" に挑戦するミホノブルボンが、単勝1.5倍の1番人気。ライスシャワーは、日本ダービー以降のレースが評価され、単勝7.3倍の2番人気に押されます。3番人気はマチカネタンホイザ。
レースは、的場の目論見通り、キョウエイボーガンがハナを奪う展開。ミホノブルボンは2番手、マチカネタンホイザは4番手、ライスシャワーは離れた5番手につけます。縦に長い展開から、4コーナーでは後続が押し寄せ、ここでミホノブルボンが先頭に。しかし、すぐ後ろからライスシャワーがやってきます。最後の直線では、マチカネタンホイザを含めた3頭の叩き合い。最後は、ライスシャワーがミホノブルボンを交わし、1馬身1/4差をつけて勝利しました。
走破タイムは3分5秒0。当時の芝3,000メートルにおける日本レコードです。しかし、レース直後の場内は、ミホノブルボン三冠への期待が高かったことからか、あまり歓迎ムードがなく異様な雰囲気でした。この時からライスシャワーは、不本意ながら "敵役" と呼ばれるようになります。
マックイーンの三連覇を阻止
年末の有馬記念(GI)は凡走しますが、1993年の明け5歳、目黒記念(GII)を2着、日経賞(GII)を1着と好走します。次のターゲットは天皇賞・春(GI)。メジロマックイーンとの初対決です。
レースに向けて、メジロマックイーンに勝つための過酷な調教が行われました。厳しすぎると批判の声も上がったほどで、その結果、レース当日の馬体重は430kg。前走から12kg減です。ギリギリまで絞り込まれた馬体は、当時関西テレビの杉本清アナウンサーが形容したように、正に "研ぎ澄まされた鋼" でした。
人気は、春の盾三連覇を狙うメジロマックイーンが、単勝1.6倍の圧倒的1番人気。前年菊花賞馬のライスシャワーは、単勝5.2倍の2番人気でした。
レースは、メジロパーマーが逃げる展開で、メジロマックイーンは4番手の先行策。その直後にライスシャワーとマチカネタンホイザがつけます。3コーナーを過ぎて、メジロマックイーンが仕掛けると、それに連れてライスシャワーも動き出し、ぴったりこれをマーク。最後の直線ではメジロ2頭と並び、3頭の一騎打ちかと思わせます。ところが、ライスシャワーは2頭を楽々と交わし、そのままゴール。2着のメジロマックイーンに2馬身半差をつける横綱相撲でした。
走破タイムは、3分17秒1。菊花賞に続くレコード勝ちです。誰が見ても文句なしのレースで、実力を存分に証明してみせました。ところが、レース後は、メジロマックイーンを破ったことばかりが話題になり、不本意ながら "関東の刺客" とまで呼ばれるようになります。
ヘビーステイヤーの復活
勝てない2年間
天皇賞・春の勝利でさらなる活躍が期待されたライスシャワーでしたが、ここから2年間も勝利から遠ざかります。1番人気に4度も押されましたが、うち3つのレースが着外。1994年6歳時の日経賞2着、有馬記念3着と好走はするものの、その後すぐ凡走してしまいます。もうこの馬は走らないのか。。。そう思わせるレースが続きました。
天皇賞で復活
明け7歳、2年ぶりの出走を決めた天皇賞・春(GI)。ナリタブライアンが回避したことで、混戦の様相を呈していました。ライスシャワーは4番人気。凡走が続く中でも、実力馬として評価されている証しでした。
レースは、逃げ馬不在のスローペース。ライスシャワーは中段につけます。しかし、ここからまさかの展開に。ライスシャワーは徐々に順位を上げ、残り1,000メートルを過ぎた頃、なんと先頭に立ちます。意外なロングスパートに、どよめく場内。最後の直線では、一頭だけ完全に抜け出します。ゴール手前でステージチャンプが襲い掛かりますが、結果はハナ差の勝利。2年前の天皇賞以来の勝利で、ライスシャワー復活のレースとなりました。
これで、3,000メートル以上のレースは、3戦3勝。しかもすべてGI競走です。3,000メートル未満のレースでは本領を発揮できず凡走。一方、3,000メートル(または3,200メートル)のレースでは、リズムよく走って自ら積極的に動く。競馬評論家の大川慶次郎氏は、こうした長距離専門のライスシャワーのことを「ヘビーステイヤー」と呼んで賞賛しました。

1995年 第111回天皇賞(GI)
初めての主役
宝塚記念(GI)は、事前のファン投票で第1位に選ばれます。当初回避予定でしたが、この年だけ京都競馬場での開催だったこと、斤量も56kgだったことから、出走を決意。敵役としてではなく、初めてライスシャワーが主役として選ばれたレースでした。
しかし、ライスシャワーはレース中に転倒。粉砕骨折を発症しており、診療所まで運べずその場で安楽死の措置がとられました。感動の復活からわずか1ヶ月後の悲劇。多くの競馬ファンにとって、忘れられないレースとなりました。
その京都競馬場内には、ライスシャワーの遺髪が収められた記念碑が建立されています。京都の舞台でGIを勝利し、京都の舞台で生涯を閉じたライスシャワー。淀の坂を気持ちよく走るライスシャワーの姿が、今でもファンの脳裏に鮮明に残っていることでしょう。

1995年 第36回宝塚記念(GI)