鹿取投手の球歴
高知商業時代は背番号10の控え投手として甲子園に出場した鹿取選手は、明治大学に進学。
明大伝統の猛練習により、日米大学野球の日本代表に選ばれるまでに成長します。
卒業後のドラフトで指名がなかったので、社会人に進む予定だった所、巨人からドラフト外で獲得の打診があり、1979年に鹿取選手は入団します。

鹿取投手の美しいピッチングフォーム
入団前の評価は「ドラフト外」だったものの、一年目の開幕戦から登板。その年のオフに長島監督が行った「伝説の伊東キャンプ」を経験すると、リリーフ投手として次第に鹿取選手はチームに欠かせぬ存在となっていきます。特に1984年に就任した王監督に重用され、サンチェ、角三男らと競って強固なリリーフ陣を形成。次第に好不調の波があったサンチェ投手に変わる守護神としての登板が増えていきます。
「ピッチャー、鹿取」
王監督がベンチを出てきました。この場面で出す投手はこの人しかいません。スタンドの観客も誰が出てくるのかは分かっています。王監督が交代投手を審判に告げる前に気の早いアナウンサーが彼の名前を告げます…「ピッチャー、鹿取」

交代を告げる王監督
守護神は少差でリードした場面のみに使われるのが今の時代の常識ですが、鹿取投手は同点の場面でも登板する事を厭わず投げ続け、1987年シーズンは64試合に登板。7勝4敗18セーブ、防御率1.90という好成績を挙げ、リーグ優勝に貢献しました。
※この当時は130試合制だったのでほぼ2試合に1回登板している計算。
※登板数や防御率の割に、勝敗、セーブ数が少ないのは勝敗・セーブに関係しない場面。今の時代ならセットアッパーが投げる様な展開でも鹿取投手が投げていた事の証拠でもあるのです。
宿敵・西武との日本シリーズ(1987年)
この様に鹿取選手の活躍もあって2位に大差をつけて、1987年日本シリーズで巨人が対戦したのは、宿敵・西武ライオンズ。このシリーズのハイライトと言えば・・・。
・クロマティ選手の緩慢な送球の隙を突き、辻選手が一塁から一気にホームイン。
・桑田選手・清原選手のK・K対決
・優勝決定直前、一塁守備位置で清原選手が号泣
などが挙げられます。

号泣する清原選手
この日本シリーズで鹿取投手は3試合に登板。計6回を自責点1に抑える活躍を見せました。
(第6戦では水野投手の後を受けて4イニングのロングリリーフを務めています。)
大明神を見捨てるのか?
巨人の守護神・「鹿取大明神」とまで言われた鹿取投手ですが、1989年に「先発完投」を良しとする藤田監督に変わると、試合の中での調整の難しさと、それまでの蓄積疲労から調子を崩し、敗戦処理として起用されるまでになりました。

端から桑田選手・槙原選手・斎藤選手
1989年の鹿取投手の登板数は21試合、2勝1敗3セーブという平凡な成績に終わると、その年のオフ西岡良洋選手との交換トレードで西武ライオンズに移籍する事になります。
功労者である鹿取投手を追い出すようにトレードに出した球団を「大明神を見捨てるのか?」と批判する巨人ファンは少なくなかった一方で、このトレードは鹿取投手自らが志願したとも言われています。

西武時代の鹿取選手
鹿取投手退団後の1990年シーズン、巨人は斎藤、槙原、桑田の「三本柱」ら先発投手陣の活躍でシーズン70完投を記録。藤田監督の目指す「先発完投型」のチームが完成し、2位以下を大きく引き離してリーグ優勝します。
※ちなみにこの年鹿取投手とトレードで獲得した西岡選手は外野手のバックアッププレーヤーとして活躍。特に左投手相手に抜群の強さを発揮した西岡選手は「左キラー」と呼ばれ、リーグ優勝に貢献しました。

西岡良洋選手
一方の鹿取投手も西武の森監督の下で復活。27セーブを挙げて最優秀救援投手を受賞する活躍を見せるのです。セットアッパー、潮崎投手から鹿取選手に繋ぐ投手リレーで接戦を拾い、秋山選手・清原選手・デストラーデ選手らの強力攻撃陣が相手投手を粉砕。どういう形でも勝てるという試合運びでリーグ優勝、正に黄金時代でした。
長年のライバル、巨人と西武が両チームとも「最強」と呼べる状態でぶつかり合う日本シリーズは、戦前の予想では好勝負になり、恐らく試合展開も接戦になるだろう。そんな場面で鹿取投手が登板する「因縁の対決」が楽しみだ・・・。という期待のもと、1990年の日本シリーズが始まったのです。
1990年・運命の日本シリーズ
1990年の日本シリーズ、第一戦で先発した槙原投手から初回にデストラーデ選手が特大3ランホームランで先制すると、その後も効果的に加点し、5-0の完勝。
(この時、なぜ第1戦の先発がエースの斎藤投手ではなく、槙原投手だったのか?と議論になりましたが巨人の藤田監督は2戦目を重視しての投手起用だったと言われています。)
巨人・藤田監督が重視した2戦で斎藤投手、3戦では桑田投手と、「先発三本柱」を完全に粉砕。
(スコアは2戦目が9-5。3戦目が7-0)。
そして第3戦には秋山選手の「あのパフォーマンス」が生まれます。

1990年の日本シリーズと言えば・・・
この前年の1989年の日本シリーズでは近鉄に3連敗で王手をかけられた状態から、奇跡の4連勝で日本一になった巨人ですが、西武相手には奇跡はおこらず、第4戦も7-3で西武の勝利。戦前の予想に反して西武の4連勝。この敗戦を受けて巨人の選手会長の岡崎選手は「野球観が変わった」と言葉を残す程の衝撃を巨人の選手達に与えました。
4戦全てが4点以上の大差がついた事も関係してか、鹿取投手の登板は2戦目の9回1イニングのみ。
しかし、完璧に古巣・巨人打線を抑え込んだのです

グランド一週する西武の選手
その後も鹿取選手は西武の投手陣を支え続け、日本シリーズで何度も登板します。
引退、そして今
そして鹿取投手は通算91勝46敗131セーブの大記録を残し、1997年に引退します。
(巨人:45勝29敗58セーブ、西武:46勝17敗73セーブ)
西武時代の成績の方が巨人時代を上回っているのです。
引退後すぐ1998年にジャイアンツの二軍投手コーチに就任。
その後も巨人の一軍投手コーチ、ヘッドコーチを歴任。
2002年には、かつてのトレード相手であった西岡良洋外野守備・走塁コーチと奇妙な縁で結ばれ、両者の古巣・西武ライオンズを下して日本一になっています。
※この時巨人には工藤選手、清原選手といった西武の黄金時代を支えた選手がいました。

2002年、日本一
巨人を退団後の2006年には第1回WBCの日本代表投手コーチ。2014年、侍ジャパンのアンダー世代である15U(中学生以下)代表監督に就任。2015年には第1回WBSCプレミア12の日本代表投手コーチを務めるなど、野球の日本代表選手を支えているのです。

WBSCプレミア12の日本代表投手コーチを務める鹿取氏