七色の変化球と緩急をつけた類まれな投球術を駆使する大投手!大野豊

大野豊(おおの ゆたか)
大野豊の獲得タイトル・主な表彰と記録
最優秀防御率:2回 (1988年、1997年)
最優秀救援投手:1回 (1991年)
月間MVP:3回 (1984年4月、1989年8月、1997年4月)
沢村賞:1回 (1988年)
ファイアマン賞:1回 (1991年)
野球殿堂入り(競技者表彰:2013年)
大野豊のプレースタイルはこれだ!

抜群の制球力と投球術を駆使した投手
大野豊のフォームは、独特なフォームでして決して真似ることの出来ない投球フォームの使い手でした。腰を極端に低くして、大地に踏ん張るように軸足を深く沈みこませるフォーム。沈み込ませてためを作り、打者のタイミングを外すことを持ち味としていた。
他には、優れた制球力と、多彩な変化球の数々で打者を翻弄させる投手でした。
勝手の名打者、王貞治と松井秀樹と対戦した投手であるが、あの松井秀樹が大野さんのボールは一生打てませんと言うほど、松井に嫌がられていた投手です。
大野豊の生い立ちから広島東洋カープに入るまで。
大野豊 (野球) - Wikipedia
広島東洋カープの大野豊はこうだった!

1年目のシーズンは、わずか1試合のみの登板で、それもアウトを1つ取っただけで、満塁本塁打を含む、5点を獲られ、防御率135.00という、考えられない成績を残してしまった。
2年目のシーズンが始まり、江夏豊との運命的な出会いが生じる。気難しい江夏に見初められた大野は、フォーム改造から変化球の取り組みまで2人三脚で取り組んでいった。江夏の自分の境遇に似ていたことから、弟として、江夏の後継者になるべく厳しい特訓をしていった。
キャッチボールから始まり、時には、投げ方が悪いと江夏の鉄拳が飛ぶ。当時のことを大野は、江夏には感謝、尊敬の念しかないと語るが、すぐ手が出ることから、ついていけないとも思ったらしい。
江夏との特訓が功を持して、広島の中継ぎ投手の柱に成長していった。その後、江夏がトレードされることとなり、江夏の代わりに大野が抑えの切り札としてシーズンを迎えることとなった。
気が弱いから無理ではないかと言われたが、8勝11セーブと翌年には、10勝11セーブと見事に抑えの投手をやりとげたのです。
1984年には、先発に転向し、日本シリーズ制覇、セ・リーグ優勝。1988年には13勝7敗、防御率1.70と素晴らしい成績で、最優秀防御率と沢村賞の栄冠を獲ったのであった。2010年現在で、史上最少の勝利数で沢村賞を獲ったのは大野だけである。
1993年には、メジャーから大野が欲しいとオファーがあった。今でこそ、メジャーに行き来する時代ではあるが、当時は、野茂英雄もメジャー挑戦していない時代であり、それに、38歳の高齢ということもあるので、条件は破格な内容ではあったが辞退しました。
メジャー挑戦はあっても、メジャーから呼ばれることは異例の出来事であった。
引退後の大野豊・・・
大野豊 (野球) - Wikipedia

大野豊という人物を振り返って
広島東洋カープに、テスト生で入団し、22年間カープのユニフォームに袖を通した大野豊。島根の英雄でもある大野は、広島市民球場に、モンキーでやってきたことを思い出します。
大野豊の試合を見ていると、打たれる気がしませんでした。江夏に似ている部分はありますが、ああの独特の投球フォーム同様に、大野の野球人生は特別なものではないでしょうか。
広島の投手王国をもう一度願う大野が自書を出していますので、読んでみてください。