全球団勝利を達成した投手はわずか3人
セ・パ交流戦がなかった頃、公式戦でセ・パ全12球団から勝利を挙げるのは至難の業でした。交流戦があれば最低2球団に所属すれば達成できる記録ですが、交流戦がないと少なくともセ・パ各2球団(計4球団)に所属しないと達成できません。5球団を渡り歩いた大投手、あの江夏豊でさえも達成できなかった大記録。12球団になった1958年から交流戦が始まる前年の2004年までで、全球団勝利を達成した投手は以下の3人です。
野村収(1983年に達成)
古賀正明(1983年に達成)
武田一浩(2002年に達成)
今回はこの中から、最後に全球団勝利を達成した武田一浩の記録を振り返ります。
身長171cmで「小さな大投手」と呼ばれた、武田投手の全12球団初勝利を時系列で見てみましょう。
1988年8月3日 ロッテオリオンズ
武田は、プロ入り前は、明治大学のエースとして活躍。1986年、3年時の東京六大学・秋季リーグでは5完封・7連勝し、チームの優勝に貢献します。1987年オフのドラフト会議では、日本ハムファイターズから1位指名を受け、プロ入りを果たしました。
入団初年の1988年は20試合に登板。この年唯一の勝利が、8月3日ロッテ戦でした。3対4で1点ビハインドの6回途中からリリーフ登板すると、8回に味方打線が逆転。イニング数は1回2/3ながら、見事プロ初勝利を収めました。
1989年5月3日 福岡ダイエーホークス
翌1989年は、2年目ながら先発ローテーションの一員となります。4月は近鉄、ロッテに黒星を喫しますが、迎えた5月3日ダイエー戦。味方打線が絶好調で、9回までになんと19安打10得点を挙げます。武田も5安打2失点と好投し、プロ先発初勝利とプロ初完投勝利を同時に達成しました。

日本ハム時代の武田一浩
1989年7月2日 西武ライオンズ
その後はしばらく中継ぎに回り、7月に入って再び先発ローテーションに戻ります。その最初の試合が、7月2日西武戦。西武の先発は、エース工藤公康です。
味方打線が先制するも、6回まで2対0の投手戦。追加点を挙げたのは、日本ハムでした。7回に2点を追加し、工藤をノックアウト。武田は、8安打打たれるもなんとか零封。工藤を相手に、プロ初完封勝利を挙げました。
1989年7月8日 近鉄バファローズ
中5日で先発登板した、7月8日近鉄戦。近鉄の先発はエース阿波野秀幸です。2試合連続で、相手チームのエースとの対決。この日は福島県営あづま球場での試合で、武田、阿波野共に好投し、息詰まる投手戦となります。
8回を終わって0対0。武田は、9回表も0点に抑えます。するとその裏、ベテラン強打者・大島康徳がサヨナラ二塁打。なんと、2試合連続で完封勝利を収めました。
1989年8月19日 オリックス・ブレーブス
好調の武田は、7月15日のロッテ戦も先発。8回までゼロ行進で、3試合連続完封の可能性もありました。しかし、肝心の味方打線が得点できず、結局、好投空しく9回裏にサヨナラ負けを喫します。これが悪かったのか、次の7月20日オリックス戦は、4回0/3で6失点と大乱調。しばらく勝ち星から遠ざかることになります。
そして迎えた8月19日オリックス戦。この日は、2対3で1点ビハインドの6回に、先発の西崎幸広をリリーフします。7回に1失点を喫しますが、味方打線が打ちまくって逆転。7対4で勝利し、これで自球団を除くすべてのパ・リーグ敵チームから勝ち星を挙げました。

日本ハム時代の武田一浩
1996年5月31日 日本ハムファイターズ
その後、日本ハムには1995年まで在籍。1991年には最優秀救援投手のタイトルを獲得するなど、チームの主力投手として活躍しました。1995年オフに、下柳剛らとの2対2交換トレードで、福岡ダイエーホークスに移籍。この時、武田本人は、中日への移籍を希望しており、球団の勝手な振る舞いに激怒したと言われています。
ダイエーでの初年1996年は、その鬱憤を晴らすかのようにいきなり大活躍します。因縁の日本ハムとの初対決は、5月25日。しかし、この日は6回途中4失点で負け投手となってしまいます。
武田は、その直後リベンジを果たすべく、5月31日に再び日本ハム戦に登板。今度は前回の雪辱を果たし、味方打線が10得点と大爆発。武田も8回1失点で見事勝利を収めます。ついに、パ・リーグ全球団から勝利を達成しました。
この年の最終成績は15勝8敗。移籍初年で、勝利数の自己記録を更新しました。

ダイエー時代の武田一浩
1999年4月6日 横浜ベイスターズ
その後、ダイエーには1998年まで在籍。最終年は最多勝のタイトルを獲得し、チームの躍進に貢献します。1998年オフにFA権を行使すると、名乗りを上げたのは明治大学の先輩、中日・星野仙一監督。ついに、3年前に行けなかった中日ドラゴンズへの移籍が決定しました。
中日では、先発ローテーションの一角を担い、チームのリーグ優勝に貢献します。初勝利は、4月6日横浜戦。なんと、セ・リーグ初登板・初先発で、初勝利しかも初完封勝利を果たしました。チームも開幕4連勝と好調です。
1999年4月15日 ヤクルトスワローズ
続く登板は、4月15日ヤクルト戦。チームは開幕9連勝と絶好調で、10連勝のかかった大事な試合でした。試合は、味方打線が2回に3点を先制したのみで、追加点の取れない投手戦となります。ところが武田は、この試合も零封し、2試合連続で完封勝利を収めました。チームは、最終的に開幕11連勝を達成しています。
1999年6月19日 広島東洋カープ
その後は勝ち負けを繰り返しつつも、先発ローテーションは守り続けます。広島戦は6月5日に負け投手となりますが、6月19日にリベンジ再戦。この日は味方打線が爆発して6回まで10得点、武田も8回2失点に抑え完投勝利を収めます。6月に入って調子の落ちてきたチームを鼓舞するような、良い流れの勝利となりました。
1999年7月21日 読売ジャイアンツ
7月21日巨人戦。前回の7月7日の対戦では勝敗がつかず、この日は2試合目の登板です。先発して7回途中2失点で降板。5対2の3点リードで、先発の役割を果たします。その後、巨人に追い詰められますが、最後は6対4で逃げ切り勝ち。ついに、巨人から初勝利を収めました。

中日時代の武田一浩
2000年4月30日 阪神タイガース
結局、移籍初年は、阪神には勝てず、0勝2敗に終わります。そして移籍2年目の2000年、その日はすぐにやってきました。4月30日の阪神戦。先発で登板すると、チームが4回に一挙6得点を挙げます。武田も7回途中1失点に抑える好投。ついに、自球団を除くすべてのセ・リーグ敵チームから勝利を収めました。
しかし、その後は不調で、2001年オフに自由契約選手となります。
2002年5月7日 中日ドラゴンズ
自由契約選手として公示されると、獲得に名乗りを上げたのは巨人。自身4球団目となる、読売ジャイアンツへの移籍が決定します。記録については、武田自身も意識しており、入団会見では、"中日に勝てば全球団勝利" と明言していました。
開幕二軍スタートだった武田は、5月7日に一軍登録。即、中日戦で先発登板します。味方打線が5回まで6得点を挙げ、自身は6回2失点に抑える好投。リリーフ陣が中日打線を抑え、ついに最後の1球団、中日に勝利しました。4球団を渡り歩き、足掛け14年で全球団勝利の達成です。
2002年は先発登板はわずか4試合(実質3試合)ながら、2勝を挙げました。しかし、古傷の悪化で、その年で引退。現在は、NHKの野球解説者として長年活躍しており、日本のプロ野球だけでなく、MLBの解説者としても有名です。

巨人時代の武田一浩
武田 一浩(読売ジャイアンツ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構