かつて森田家は満州にいた。
タモリの祖父母は子がいなかったので、祖父は夫を亡くした妹の子を、祖母は自分の12人兄弟の1番下の弟を、それぞれ養子にもらった。
祖父は満州鉄道の駅長をしていたが、養子の兄も満州の高校を出た後、満州鉄道の経理課で働いた。
この頃、地位の高い人間は賞金首となって馬賊に襲われることがあったが、祖父も襲撃を受け、走行中の車の両サイドから銃で撃たれたことがあった。
そのとき養子の妹は、伏せながらも少しだけ窓の外を見て、馬に乗る馬賊を目撃。
「スリルがあって面白かった」
という。
その妹は17歳のとき周囲の反対をきかずに単身、東京へ。
しかしそこで騙され、監禁され、命からがら脱出。
下関まで汽車を乗り継ぎ、船でソウルを経由し満州に戻った。
1938年、信心深かった祖母が突然、
「神のお告げがあった。
ここには火の柱が上がる」
といい出した。
家族は誰も信じなかったが、ガンコで強気な祖母が
「私だけ帰る」
といったために仕方なく帰国。
しかしその後、本当に戦争が始まり、財産を現地で処分した森田家は、結果的に健康も金銭も損なうことなく帰国することが出来た。
福岡県福岡市に帰った後、祖父は、山1つと7軒の借家の買って、それで生計を立て、死ぬまで働くことはなかった。
兄は、洋服の卸売り業を始め、その後、三光汽船で勤務。
やがて祖父母は、養子の兄妹に結婚するようにいった。
このとき妹は兄のことを好きではなかったが恩ある祖父母に逆らえず結婚。
一方、兄は妹に惚れていたという。
妹は20歳のときにタモリの姉、23歳のとき(終戦1週間後の1945年8月22日)にタモリを出産した。
タモリが3歳のとき、両親は離婚。
母親は、タモリたちと別居。
もともと祖父母と合ってなかった父親もやがて実家を出た。
こうしてタモリと姉は祖父母に育てられることになった。
森田家は長い坂道の途中に建っていた。
幼稚園に入ることになったタモリは、1人で見学しにいくことにした。
子供の足で20分以上かけてたどり着くと、
「♪ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む
ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む
まっかっかっか 空の雲
みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む♪」
という歌声が聞こえ、それに合わせてお遊戯する園児たちが見えた。
「とても恥ずかしくバカバカしく思えた」
というタモリは、家に帰ると
「あの輪には絶対に参加したくない」
と訴えた。
果たしてこの主張は受け入れられ、同級生たちが幼稚園に通う中、タモリは孤独に坂の上で過ごした。
「朝ごはん食べたら死ぬほどヒマ」だったタモリは、毎日、坂道に立って人間観察。
よくラジオで、落語、漫談、そして九州でしか受信できない米軍放送や北京放送を聞いた。
意味は分からないが言葉のリズムやおかしさが好きだった。
「韓国のラジオドラマは最高だったな。
家庭の風景の状況だけは音でわかる」
また地図や時刻表をみながら妄想で旅行した。
妄想に関しては現在でも
「妄想は1番金使わなくて体力も使わない遊び」
「普通、恥ずかしい妄想だと、そこで打ち切ってしまうが、我々は打ち切るどころかドンドン広げていってしまう。
恥ずかしいなんてこれっぽっちも思わない。
面白いっていうのはそれだけの差だけじゃないですか」
と肯定的で推奨している。
ラジオや工作など1人遊びの天才となっていたタモリだったが、小学校に入るとメンコやベーゴマなど友達と遊ぶことが面白くて仕方なかった。
はじめは周囲に従って遊んでいたが、やがてリーダー的な存在になり、人前でウケることも覚え、2年生になると級長になるなどクラスの中心にいた。
あるときみんなでかくれんぼしていたとき、防空壕跡に隠れたタモリは、偶然、好きだった女の子とバッティング。
2人は寄り添うように座って息を潜めていたが、このときタモリは彼女の腰を感じていた。
その後、
「キスというのは口と口を合わせるもの」
と知ったタモリは、寝ている祖父を相手に実践し、ものすごく怒られらた。
小3の下校途中、電柱のワイヤの結び目が右目に突き刺さって失明。
片目になると遠近感がつかめず、投げられたボールが捕らなくなったり、階段が同じ高さに見えて転んだり、コップに液体をつごうとするとこぼしてしまったりした。
ピーコ(ファッション評論家、映画評論家、コメンテーター)は、ガンで片目を摘出し義眼を入れ、テレビプロデューサーに
「目が気持ち悪いという投書があったからサングラスをかけてくれ」
といわれ、断ると番組を降ろされたという。
マイナス面やツラい思いをすることが圧倒的に多い一方、道端の小さな花に気づいたり、風を心地よく感じたり、空もよく見上げるようになったという。
それまで1人で生きていると思っていたピーコは、多くの人に支えられていることに気づいたり、新たに気づかされたこともあるという。
簡単にいってはいけないが、タモリのタモリとしかいいようのない独自の存在感や活動をみると、非常に大変な御苦労をされた上で片目を失ってみえたものもあったのかもしれない。
森田家には頻繁に親戚や知り合いがよく出入りしマージャンをしていた。
タモリは生涯で2冊だけ祖父に本を贈られたが、そのタイトルは
「マージャンの打ち方」
「マージャンの勝ち方」
それまで盛り上がる大人たちの横で姉とコソッとご飯を食べていたタモリは、小3からマージャンを覚え、輪に入り、同時期、酒も教わった。
祖父はまったく家事をせず、料理もお湯を沸かすことくらいしか出来なかった。
それに懲りた祖母は、
「これからの男は料理ができないとダメ」
とタモリを台所に立たせた。
タモリは、隣の部屋でみんなが盛り上がっている中、
「これ煮てる間に、今使ったフライパン洗わないと・・」
などと台所で料理をした。
タモリの料理上手は、コレがきっかけ。
現在住んでいる家は台所を重視して建て、客が来ると自分の手料理でもてなす。
ある日の国語の授業中、先生が
「この作者はなにをいいたかったのでしょう?」
とみんなに聞いた。
小3のタモリは
(えっ?そこに全部書いてあるじゃない)
と思った。
それ以来、タモリは「意味」が嫌いになっていった。
意味ありげなもの、深刻ぶって過剰に意味を持たせたものに嫌悪感を抱くようになった。
「イヤなんです、意味が。
僕が音楽を好きなのは意味がないから好きなんです」
というタモリは、タカアンドトシのトシが爆笑問題の太田光のボケを
「意味がわからない」
とツッコんだときも
「意味なんてどうだっていいんだ」
といった。
学校では仲間と楽しくやってきたタモリだったが、小4のとき、体が大きくてケンカが強い、学年のボスのような存在が現れると仲間外れにされた。
その取り巻きに殴られたとき、その中に親友と思っていた友人を見つけ、殴られた痛みより悔しくて泣いた。
「あれからだよ、世の中を憎むようになったのは・・・」
タモリは、再び孤独に戻った。
急に友達がいなくなり、人見知りになったタモリは、「人見知り」ということについて、決してネガティブではなく肯定的に考えている。
いわく人見知りは、相手の言動や反応をよく観察し、嫌がることや喜ぶことを想像するのが得意になるため
「人見知りは才能」
だという。
小5のとき、母親がお見合いをするために半年ほど実家に戻ってきた。
そのとき
「久しぶりに一緒にお風呂に入ろう」
といわれたタモリは、黒いスリップ姿の母親にドキッとしてしまった。
以来、実母を女としてみてしまうようになった。
一方、父親も、ときどき子供たちに会いにきていた。
しかしタモリはある一言から父親が嫌いになった。
「オヤジがたまに来るとうれしいから、色んなことをしゃべってた。
するとオヤジが『お前はよくしゃべるね、うるさいよ』といったわけ。
それから嫌いになった。
この男、俺と違うなって・・・」
タモリは父親は真面目で「ネクラ」だったという。
「ネクラ」or「ネアカ」は、タモリの人の大きな判断基準の1つで、ネアカの特徴は柔軟性だという。
「根が明るいやつは、なんかガーッときたとき、正面から対決しない。
必ずサイドステップを踏んでいったん受け流したりする。
暗いやつは真正面から、四角いものは四角にみるので、力尽きちゃったり、悲観しちゃったりする」