
かつて森田家は満州にいた。
タモリの祖父母は子がいなかったので、祖父は夫を亡くした妹の子を、祖母は自分の12人兄弟の1番下の弟を、それぞれ養子にもらった。
祖父は満州鉄道の駅長をしていたが、養子の兄も満州の高校を出た後、満州鉄道の経理課で働いた。
この頃、地位の高い人間は賞金首となって馬賊に襲われることがあったが、祖父も襲撃を受け、走行中の車の両サイドから銃で撃たれたことがあった。
そのとき養子の妹は、伏せながらも少しだけ窓の外を見て、馬に乗る馬賊を目撃。
「スリルがあって面白かった」
という。
その妹は17歳のとき周囲の反対をきかずに単身、東京へ。
しかしそこで騙され、監禁され、命からがら脱出。
下関まで汽車を乗り継ぎ、船でソウルを経由し満州に戻った。
1938年、信心深かった祖母が突然、
「神のお告げがあった。
ここには火の柱が上がる」
といい出した。
家族は誰も信じなかったが、ガンコで強気な祖母が
「私だけ帰る」
といったために仕方なく帰国。
しかしその後、本当に戦争が始まり、財産を現地で処分した森田家は、結果的に健康も金銭も損なうことなく帰国することが出来た。
福岡県福岡市に帰った後、祖父は、山1つと7軒の借家の買って、それで生計を立て、死ぬまで働くことはなかった。
兄は、洋服の卸売り業を始め、その後、三光汽船で勤務。
やがて祖父母は、養子の兄妹に結婚するようにいった。
このとき妹は兄のことを好きではなかったが恩ある祖父母に逆らえず結婚。
一方、兄は妹に惚れていたという。
妹は20歳のときにタモリの姉、23歳のとき(終戦1週間後の1945年8月22日)にタモリを出産した。

タモリが3歳のとき、両親は離婚。
母親は、タモリたちと別居。
もともと祖父母と合ってなかった父親もやがて実家を出た。
こうしてタモリと姉は祖父母に育てられることになった。
森田家は長い坂道の途中に建っていた。
幼稚園に入ることになったタモリは、1人で見学しにいくことにした。
子供の足で20分以上かけてたどり着くと、
「♪ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む
ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む
まっかっかっか 空の雲
みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む♪」
という歌声が聞こえ、それに合わせてお遊戯する園児たちが見えた。
「とても恥ずかしくバカバカしく思えた」
というタモリは、家に帰ると
「あの輪には絶対に参加したくない」
と訴えた。
果たしてこの主張は受け入れられ、同級生たちが幼稚園に通う中、タモリは孤独に坂の上で過ごした。
「朝ごはん食べたら死ぬほどヒマ」だったタモリは、毎日、坂道に立って人間観察。
よくラジオで、落語、漫談、そして九州でしか受信できない米軍放送や北京放送を聞いた。
意味は分からないが言葉のリズムやおかしさが好きだった。
「韓国のラジオドラマは最高だったな。
家庭の風景の状況だけは音でわかる」
また地図や時刻表をみながら妄想で旅行した。
妄想に関しては現在でも
「妄想は1番金使わなくて体力も使わない遊び」
「普通、恥ずかしい妄想だと、そこで打ち切ってしまうが、我々は打ち切るどころかドンドン広げていってしまう。
恥ずかしいなんてこれっぽっちも思わない。
面白いっていうのはそれだけの差だけじゃないですか」
と肯定的で推奨している。

ラジオや工作など1人遊びの天才となっていたタモリだったが、小学校に入るとメンコやベーゴマなど友達と遊ぶことが面白くて仕方なかった。
はじめは周囲に従って遊んでいたが、やがてリーダー的な存在になり、人前でウケることも覚え、2年生になると級長になるなどクラスの中心にいた。
あるときみんなでかくれんぼしていたとき、防空壕跡に隠れたタモリは、偶然、好きだった女の子とバッティング。
2人は寄り添うように座って息を潜めていたが、このときタモリは彼女の腰を感じていた。
その後、
「キスというのは口と口を合わせるもの」
と知ったタモリは、寝ている祖父を相手に実践し、ものすごく怒られらた。

小3の下校途中、電柱のワイヤの結び目が右目に突き刺さって失明。
片目になると遠近感がつかめず、投げられたボールが捕らなくなったり、階段が同じ高さに見えて転んだり、コップに液体をつごうとするとこぼしてしまったりした。
ピーコ(ファッション評論家、映画評論家、コメンテーター)は、ガンで片目を摘出し義眼を入れ、テレビプロデューサーに
「目が気持ち悪いという投書があったからサングラスをかけてくれ」
といわれ、断ると番組を降ろされたという。
マイナス面やツラい思いをすることが圧倒的に多い一方、道端の小さな花に気づいたり、風を心地よく感じたり、空もよく見上げるようになったという。
それまで1人で生きていると思っていたピーコは、多くの人に支えられていることに気づいたり、新たに気づかされたこともあるという。
簡単にいってはいけないが、タモリのタモリとしかいいようのない独自の存在感や活動をみると、非常に大変な御苦労をされた上で片目を失ってみえたものもあったのかもしれない。

森田家には頻繁に親戚や知り合いがよく出入りしマージャンをしていた。
タモリは生涯で2冊だけ祖父に本を贈られたが、そのタイトルは
「マージャンの打ち方」
「マージャンの勝ち方」
それまで盛り上がる大人たちの横で姉とコソッとご飯を食べていたタモリは、小3からマージャンを覚え、輪に入り、同時期、酒も教わった。

祖父はまったく家事をせず、料理もお湯を沸かすことくらいしか出来なかった。
それに懲りた祖母は、
「これからの男は料理ができないとダメ」
とタモリを台所に立たせた。
タモリは、隣の部屋でみんなが盛り上がっている中、
「これ煮てる間に、今使ったフライパン洗わないと・・」
などと台所で料理をした。
タモリの料理上手は、コレがきっかけ。
現在住んでいる家は台所を重視して建て、客が来ると自分の手料理でもてなす。

ある日の国語の授業中、先生が
「この作者はなにをいいたかったのでしょう?」
とみんなに聞いた。
小3のタモリは
(えっ?そこに全部書いてあるじゃない)
と思った。
それ以来、タモリは「意味」が嫌いになっていった。
意味ありげなもの、深刻ぶって過剰に意味を持たせたものに嫌悪感を抱くようになった。
「イヤなんです、意味が。
僕が音楽を好きなのは意味がないから好きなんです」
というタモリは、タカアンドトシのトシが爆笑問題の太田光のボケを
「意味がわからない」
とツッコんだときも
「意味なんてどうだっていいんだ」
といった。

学校では仲間と楽しくやってきたタモリだったが、小4のとき、体が大きくてケンカが強い、学年のボスのような存在が現れると仲間外れにされた。
その取り巻きに殴られたとき、その中に親友と思っていた友人を見つけ、殴られた痛みより悔しくて泣いた。
「あれからだよ、世の中を憎むようになったのは・・・」
タモリは、再び孤独に戻った。
急に友達がいなくなり、人見知りになったタモリは、「人見知り」ということについて、決してネガティブではなく肯定的に考えている。
いわく人見知りは、相手の言動や反応をよく観察し、嫌がることや喜ぶことを想像するのが得意になるため
「人見知りは才能」
だという。

小5のとき、母親がお見合いをするために半年ほど実家に戻ってきた。
そのとき
「久しぶりに一緒にお風呂に入ろう」
といわれたタモリは、黒いスリップ姿の母親にドキッとしてしまった。
以来、実母を女としてみてしまうようになった。

一方、父親も、ときどき子供たちに会いにきていた。
しかしタモリはある一言から父親が嫌いになった。
「オヤジがたまに来るとうれしいから、色んなことをしゃべってた。
するとオヤジが『お前はよくしゃべるね、うるさいよ』といったわけ。
それから嫌いになった。
この男、俺と違うなって・・・」
タモリは父親は真面目で「ネクラ」だったという。
「ネクラ」or「ネアカ」は、タモリの人の大きな判断基準の1つで、ネアカの特徴は柔軟性だという。
「根が明るいやつは、なんかガーッときたとき、正面から対決しない。
必ずサイドステップを踏んでいったん受け流したりする。
暗いやつは真正面から、四角いものは四角にみるので、力尽きちゃったり、悲観しちゃったりする」

中学時代、タモリは毎日のように近所にあった平尾バプテスト教会に通った。
台風の日でさえ、神父、R.H.カルペッパーの話を聞きに行った。
そして
「今日、ココニ集マッタカタガタコソ信仰フカイデス」
といわれ
「アナタハ敬虔ナヒトデス」
と入信を進められた。
しかし
「人間は生まれながらすでに悟っている」
という主義であるタモリが洗礼を受けることはなかった。
彼が教会に通っていた理由は、キリスト教ではなく神父、R.H.カルペッパー。
日本人でもあまり使わない
「アマツサエ」
「ナカンズク」
などの単語を織り交ぜた往々しい口調と言葉の響きがとても好きだった。
タモリが通っていた中学校は、全校生徒2300人超のマンモス学校。
「たのしさ・きびしさ・やさしさ・たくましさ」
を校訓とする学校でタモリは生徒会副会長となった。
しかし議事録等をまったく残さず
「中学始まって以来の無責任っぷり」
と教師に怒られ、通信簿にも
「責任感がない」
と書かれた。
しかしタモリは凹むことなく、ただ
「俺は無責任なんだ」
「俺は責任感がないんだ」
と素直に受け容れるだけだった。

母親は、
「いまに日本中にゴルフ場が出来て、みんなゴルフをする」
と祖父の援助を得て、ゴルフ用品店「森田ゴルフ」を開業。
ジャズ好きの母親は仕事中、店に流した。
父親はフラメンコに夢中で、姉はクラシックピアノを習っていて、タモリもよく音楽を聴いていた。
県内有数の進学高校に進学し、吹奏楽部に入ってトランペットを担当。
剣道部とアマチュア無線クラブにも入り、居合の道場にも通った。
教科書で長谷川等伯の松林図をみてうなり声をあげたこともあった。
「必要最小限の描写で単純なのにゾッとするほどすごい」

近所の高校の後輩の家でアート・ブレイキー(Art Blakey、ナイアガラ・ロールと呼ばれる特徴的な奏法で知られるジャズドラマー)と出合った。
「何がなんだかわかんない。
こんなわけのわかんない音楽は初めてで、とても癇に障った。
俺にわからない音楽なんてないと思ってましたから」
ワケのワカらないことに興味を持つというのは今も変わらないタモリの特性の1つだが、ジャズにはこの後、激しく傾倒していった。
タモリは、ジャズの最大の魅力は「セッション」、つまり「即興」だという。
その場で居合わせ、その場でしかできないものだから、聴いている側もノッてくるという。
セッションは、お笑いでいえばアドリブ。
「笑っていいとも!」では生放送終了後、約30分間、フリートークを行い、その一部が「増刊号」で放送されるが、これは完全に即興。
また明石家さんまとの雑談は生放送中にコーナー化されたが、テレビでの「雑談」はこれが日本初。
「タモリ・さんまの雑談コーナー」
「日本一の最低男」
「日本一のホラ吹き男」
「もう大人なんだから」
と名称を変えながら11年間、続いたコーナーで、作為的なことが嫌いで、我がなく流れに身を任せ
「やる気ある者は去れ」
といっていたタモリと、どんな話も強引にウソまでついて面白くしようとする自己顕示欲の権化、さんまとのセッションは、脱線を繰り返し、ときに激しくスウィングした。

「森田ゴルフ」は、大量に商品を仕入れて準備をしたが、1年経っても2年経ってもゴルフは流行らず、3年目に閉店。
その後間もなくゴルフブームが到来したが、母親は3度目の結婚をして横浜に移住。
母親は、生涯で3度結婚し、それぞれ2人、計6人の子供を生んだ。
タモリは、数多くのプロを輩出している「早稲田大学モダンジャズ研究会」、通称「ダンモ」の存在を知り、早稲田大学に行きたくなった。
そして1963年、18歳のとき、早稲田大学を受験し不合格。
高校卒業後、1年間、東横線の「都立大学駅」近くに住む、早稲田大学法学部に入っている友人のアパートに居候しながら浪人。
このときタモリは
「ひょっとして日本で1番スケベなのはオレじゃないか」
と思うほど性欲が強く、友人の六法全書の売春防止法の項目、
「金銭を目的に不特定多数と成功する・・・・」
を読むだけで、激しく妄想してしまい勉強に集中できない。
向かいの部屋には新婚夫婦が住んでいて、夜中、泣き声のような声が聞えてきて、最初タモリはアパートに住んでいる「マロン」という猫だと思い
「マローン、マローン」
と呼びかけると泣き声がピタリと止んだ。
「おかしいな」
と思ったが、ハッと気づいたタモリは、翌晩、始まるのを待って、開始されるとドアを開けて顔を出して、その声を聞いた。

初体験は、渋谷の喫茶店のウエイトレス。
一目ぼれしたタモリは、友人の援護射撃を得て付き合うことになった。
数ヵ月後、彼女の1人暮らしの部屋に
「ご飯食べにこない」
と誘われ、コタツに入っていた彼女を押し倒した。
しかし彼女とはこの1回だけで終わってしまい、ますます性欲の塊となってしまったタモリは風俗に行くことにした。
手当たり次第、エロ雑誌を漁って情報収集。
川崎のソープランドに決め、
「早い時間に行ったほうがいい」
という情報から朝8時に家を出て9時半に到着。
まだ開店前で近所をブラブラし時間を潰し、数時間後、入店。
「入浴料」しか持っていなかったタモリは、ここで初めてそれ以外にも料金が発生することを知った。
アリ金を全部出した上、少しだけマケてもらい、イザッ夢の国へ。
おっぱいをさわろうとして、緊張して急に黙ってしまい、
「ダメッ」
といわれ
「ハイ」
と手を引いた。
イキそうになったとき、先っぽがこっちを向いていたので
「ヤバえ、伏せろ」
とよけたが、よけた方向に飛んできてかかった。
お金を使い果たしてしまったタモリは、交番で電車賃500円を借りて帰った。

あまりの雑念の多さにタモリは座禅を組むことにした。
足の組み方など正式なやり方はわからなかったが、とにかく部屋の隅でアグラをかいて目をつむった。
数時間続けていると、
「変な状態」
になっていき、
「とにかく目だけは閉じておこう」
と続けたが、やがて、
「もうどうでもいい」
とヤケクソの心境になってフッと目を開けると、窓の外の木が目に飛び込んできて、見慣れたはずの木がなぜか新鮮で美しく思え、感動した。
そのとき
「言葉は余計だ」
と確信した。
「もしかしたら小さい頃はいろんなものがこの木のように見えていたのかもしれない。
それがだんだんそう見えなくなったのは、言葉のせいではないか」
と思ったという。
以来、
「言葉が邪魔をしている」
という感覚が常にあるという。
活字や本は
「危ない」
「怪しい」
という意識を持って冷めた目で読む。
言葉に関しては
「話せばわかる」
ということも信じておらず、
「話せば話すほどますまずわかんなくなる。
話せばわかるじゃなく離せばわかる」
といっている。
やがてタモリは言葉を壊すしかないと考えるようになった。
言葉から逃げることは出来ないなら、面白くして「笑いものにして遊ぶ」しかないと。

1浪の末、またしても早稲田大学を不合格となり、1965年、2浪の末、20歳で早稲田大学第二文学部に合格。
念願の「早稲田大学モダンジャズ研究会」、通称「ダンモ」に入った。
ダンモは、1960年の創立以来、数多くのプロを輩出してきた伝統あるサークル。
早稲田だけでなく他大学生も入会でき、初心者からプロを目指す者まで様々な部員が在籍。
地下にあるスタジオには、ドラムセット、グランドピアノ、ウッドベースなどの設備があり自由に使用可能。
週1回のセッション、2ヵ月に1回のライブ、年1度の合宿が行われる。
合宿は毎年夏に行われ、朝から晩までバンド練習やセッションをして技術の向上を目指し、最終日の夜、発表ライヴが開かれる。
花火やバーベキューなどもあって部員同士の親睦が図られる。
このとき先輩から
「ただ今よりキーム使用」
と号令がかかった。
「キーム使用」とはパンツを「むく」、つまり脱がすことを意味し、先輩は新人のパンツを次々に脱がしていった。
自分の順番が回ってきたタモリは、自らパンツを脱いで全裸になり、
「ハーレム・ノクターン」
といいながらストリップを始め、大絶賛された。
その後、タモリは、色っぽく流し目で体をよじりながらスルスルと脱ぎ、1枚ずつ落としていくストリップ芸をはじめ裸芸を極めていく。
鶴瓶の家を訪ねたとき、ガラスのテーブルを支える裸体の彫刻をみて、
「この人、ずいぶんと長い間、同じ姿勢で苦労してるな。
俺も少しでも役に立てるかな」
といって全裸になって頭に花瓶を乗せ、無言でひざまずいた。

マイルス・デイビスに憧れていたタモリは、トランペッターを目指していたが、先輩に
「マイルスのペットは泣いているが、お前のは笑っている」
と酷評された挙句、
「司会をやれ」
といわれマネージャー兼司会に転向させられてしまった。
その後、マイルス・デイビスが、「マイルス・スマイル」というレコードを発売したため、先輩と
「マイルスも笑ってる」
と大笑いした。
モダン・ジャズ研究会は、春の1ヵ月、夏の2ヵ月、全国を回ってコンサートを行っていた。
この間、マネージャー兼司会のタモリも大学に行く暇もなく全国を演奏旅行。
コンサートの打ち合わせや段取りなどはマネージャーの仕事で、接待などで夜、飲むこともあった。
「貧乏で特急とか乗れませんからね。
急行に乗るんですけど1番長いので鹿児島から青森までいったことがありましたね。
鹿児島から東京へ朝着いて、上野を午後発つんです」
司会としてもドンドン頭角を現し、
「通常は先輩から学年順でやるのが普通ですが、今日は顔のいい順に紹介します。
まずは司会の私!」
という鉄板ネタに始まり、演奏よりもタモリのトークの方が長いときもあり、
「お前のしゃべりの間に演奏が入る」
「俺たちはお前のツナギじゃねえ」
という苦情が出るほどしゃべった。
コンサートではギャラが出て、演奏旅行に出ると、大卒の初任給が2万円だった時代に1ヵ月でに30~40万円をもらえた。

また早稲田大学の同期同学部に、清純派女優の吉永小百合がいた。
かつて吉永小百合は芸能活動のために進学高校を中退。
そして大検を合格し20歳で早稲田大学の夜間部に入学した。
(2人は同級生。
そして吉永小百合は次席で卒業、タモリは中退)
熱狂的サユリストだったタモリは学食のおばさんにリサーチをかけ、吉永小百合は週2回は友人と夕食を食べに訪れ、メニューは決まって中華丼であることを聞き出した。
以後、10日間、18時になると学食で中華丼を食べ続けたが、会えずじまい。
しかしその後も学食に通い続け、ついにそのときはきた。
タモリが、かき揚げが1つ入った「栄養ラーメン」をすすっていると、前の席にコーヒーとトーストを持った吉永小百合が座ったのだ。
そして吉永小百合はトーストを1切れ食べた後、2切れ目は少しかじっただけで残し、席を立った。
目の前に残されたパンをみながらタモリは煩悩に身をよじらせた。
『持って帰ろう』
「いやオレは硬派だからダメだ」
『でもやっぱり欲しい』
強い自分と弱い自分、悪魔と天使が戦いを繰り広げているとウエイトレスが全部持って行ってしまった。

以後も一貫してタモリの理想の女性は吉永小百合。
「偶然にしろ何兆分の一の確率で出来た顔だと思います。
それ故、守り続けていかなければ・・・
国が保護して国民の宝として有形文化財にしなければと痛切に感じております」
初めて吉永小百合と料亭で食事したときは、
「座布団の端のフサフサを全部むしりとってしまった」
といい、一緒にラグビー観戦したとき、吉永小百合にチョコレートを1粒もらい、半分だけかじって
「もったいないから家に飾っとこうかな」
試合後、吉永小百合がどうやって帰るか決めていないのを知ると
「送ります」
と真っ赤な顔で志願。
吉永小百合が座ったベンツの後部シートは
「小百合ちゃん御席」
と張り紙し、誰も座らせなかった。
ある対談で
「あんな足の太い女のどこがいいんだと思うんだけどさあ」
といわれたときは
「聞き捨てなりませんな」
と気色ばんだ。

そんな清純派女優が大好きなタモリはノーマルな男性でありつつ
「男って1/3くらい女を持っている」
「男って女に添加物を入れて出来たものなのよ。
人間の完全な標本を残すとしたら必ず女なんだって。
だから男っていっても男の部分と女の部分があると思う」
と中性的な一面も持っていて、ゲイに対して
「あれが男本来の姿」
と自由な生き方に憧れを抱く。

変態についても肯定的で
「犬が雌犬を縛ったりしますか?
変態というのは人間しかいないんだよ。
変態というのはエッチ以外のものにシフトしていくわけですよ。
想像力でシフトしていくわけです。
だから人間しかできないんです」
「創造性豊かな人は変態であるべき。
変態というのは1番身近で簡単にできる創造的行為」
「男は変態の一つもたしなんでいないと」
「人類みな変態」
「恋愛は変態の第1歩」
と推している。

生涯で1度も女性から告白されたことがないというタモリだが決して草食系ではない。
いい人止まりで終わってまったくモテないと悩む男子には、
「とにかく相手にしゃべらせろ。
女性は解決しようと思ってるわけじゃなくて、喋りたい、全部喋りたいと思ってるわけ。
だから女性との会話に「No]とか「Why」とかはいらない。
「Yes」だけでいい」
とアドバイス。
恥をかくのを恐れて告白しないという男子には
「それはダメだね。
選択権は女にあるんだから男はエントリーしなきゃダメ。
恥をかいて恥をかいて、泥まみれになってケダモノとかいわれながら成長していくんだ。
行かなきゃ!
ケダモノ呼ばわりされて足蹴にされて、それでもハイヒールに喰らいついていくんだ」
となにも考えずに前に出ること、そして討ち死する重要性を説いた。

苦労して入った早稲田大学だが、結局、タモリは中退になった。
同級生2人と旅行に行くことになり、
「後で返す」
という2人の分を立て替えたが返してもらえず、学費を滞納したため末籍処分となったのだ。
大学は辞めさされたが、モダンジャズ研究会の活動と、同級生2人との友人関係も続いた。
大学を辞めさされた後もモダン・ジャズ研究会のマネージャーと司会として収入を得ていたが、23歳のとき、祖母が他界。
親族に「祖父の面倒をみろ」といわれ福岡に戻った。
実家に帰ると祖父が1人暮らしをしているはずなのに玄関に女モノの草履があった。
「客かな?」
と客間をのぞいたが誰もいない。
そして2階の祖父の部屋に行くと、祖父の横に見知らぬ女性がいた。
76歳の祖父は、すでに62歳の女性を再婚していた。
後に
「デキるの?」
と聞くと祖父は
「私どもの年になるともうダメだね。
1週間に1ぺんくらいかね」
と答えた。

福岡にいる理由がなくなったタモリだったが、親族に半ば強制的に就職させられた。
その仕事は朝日生命の保険の営業。
「理論で屈服させてやる」
と勧誘時にしゃべり続けたものの成績に結びつかず、
「人間は理論で押しまくられると感情で反発する」
と学んだ。
苦戦するタモリに、2歳上の先輩、春子が
「この人のところに行きなさい」
と自分の得意先を紹介。
これがきっかけになって2人は交際を始め、やがて結婚した。
「自宅に仕事とセックスは持ちこまない。
仕事に家庭は持ちこまない」
というタモリは、女性スキャンダルが少ない。
夫婦の間に子はいないが、常に犬や猫を飼った。
自称、「日本成猫餌付け協会会長」のタモリは、博多で2回、学生時代に2回、結婚後1回、「ノラ猫の餌付け」に挑戦し、2勝2敗1引き分け。
2勝はいずれもKO勝ちで、うち1回は薬物入りオレンジを使用。
ノラ猫は人間をなかなか信用せず、餌付けには、
「忍耐、努力、理解、暇」
を要する上、
「家と自分が傷つく危険、理解のない女房とのいさかいが起き家庭が破壊される」
などのリスクがあるというが、餌付けに成功した猫は、タモリより春子婦人になついた。
パトラという猫は、ほとんど家族以外になつかなかったが、なぜか黒柳徹子だけにはすぐに心を許し、マツコ・デラックスには、これまでみたことがないほどの敵意で威嚇した。

朝日生命を4年で退職したタモリは、早稲田大学の先輩、高山博光(後の福岡市議会議員)が経営する旅行会社「日田観光会館」に転職し、傘下のボウリング場(大分県日田市)の支配人となり、さらに数年経つと喫茶店のマスターとなり
「ウインナーコーヒー」
と注文されるとソーセージ入りのコーヒーを出していた。
あるとき博多で渡辺貞夫と山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威男)によるジャズコンサートが行われた。
学生時代からの友人が渡辺貞夫のマネージャーをやっていたため、公演後、タモリは彼らの泊まるタカクラホテル福岡に行き、一緒に飲んでいた。
午前2時頃、家に帰るために部屋を出て廊下を歩いていると、ドンチャン騒ぎする笑い声が聞こえてきた。
それは山下洋輔(ピアノ)の部屋だった。
ドア越しに会話を聞いて
「こいつらとは気が合う」
と思ったタモリは、ドアを少しだけ開けて中をうかがった。
すると浴衣姿の中村誠一(サックス)が頭に籐のゴミ箱をかぶって虚無僧となり歌舞伎口調で奇声を上げていた。
(俺の出番だ)
とっさに思ったタモリは、
「ヨォ~」
と同じく歌舞伎口調で部屋に乱入。
中村誠一からゴミ箱を奪ってかぶり、踊った。

中村誠一は、数年前、
「初めて日本語を聴いた外人に、日本語はどう聞えるのだろう?」
という疑問を発見し、以後、デタラメな日本語に始まり、デタラメな各国語を習得していった。
そしてゴミ箱を奪われると、ものすごい勢いでデタラメの韓国語をまくしたてた。
するとなんとタモリは、その3倍の勢いのインチキ韓国語で応戦してきた。
驚いた中村誠一は中国語に切り替えたが、タモリは5倍の速さで中国語を話した。
ちなみにタモリの中国語は
「痛いところ突きやがった」→「痛所指摘」
「じゃあな」→「後日再会」
「気をつけて」→「交通安全」
「よろしくお願いします→「愛玩希望」
など四文字熟語風なものが多い。
その後、ドイツ、イギリス、イタリア、フランス、アメリカを各国のデタラメ言葉で勝負が続いたが、すべてタモリが圧倒。
最後はアフリカ人になってスワヒリ語をしゃべり、中村誠一に敗北を認めさせた。
そうやって騒いでいるうちに夜が明け、
「あ、いけね。
帰ります。」
タモリがいうと山下洋輔は
「ちょっと待って。
アンタ一体誰?」
と呼び止めた。
「あっモリタと申します」

衝撃を受けた山下洋輔は、東京に帰った後、新宿ゴールデン街のバー「ジャックと豆の木」で
「九州にモリタというすごいやつがいる」
と話した。
するとママ、柏原A子(匿名ではなく通称)の発案で、山下洋輔、奥成達(詩人、編集者)、高信太郎(マンガ家)、長谷邦夫(マンガ家)、坂田明(ジャズサックス奏者)、三上寛(フォークシンガー、俳優)、長谷川法世(マンガ家)、南伸坊(イラストレーター、マンガ雑誌「ガロ」編集長)ら常連客が「伝説の九州の男・モリタを呼ぶ会」を結成。
「ジャズファンに違いない」
ホテルでの出来事から半年後、山下洋輔は、福岡で1番古いジャズ喫茶「COMBO」を訪ねた。
「モリタという男を知らないか?」
店主、有田平八郎は、
「知っているよ」
と答え、すぐに常連客だったタモリに電話。
こうして2人は再会した。
1975年6月、「呼ぶ会」から新幹線代をもらったタモリは7年ぶりに上京。
ジャックと豆の木で「呼ぶ会」の前で
・北京放送
・中国人の田中角栄
・中国製のターザン映画
・宇宙飛行士になった大河内傅次郎が宇宙船の中で空気漏れで苦しんでいるのを韓国語で
・日本製ウイスキーを、これは悪しき飲み物であると説教しながら飲み始めた中国人が、やがてこんなすばらしいものはないと言い始める
・4カ国語麻雀(ベトナム人が中国人の捨てた牌に『ロン』といい、中国人が『チョンボ』とクレームをつけ、アメリカ人が仲裁し、それを後ろから見ていた田中角栄が口を出して乱闘に発展する)
・アメリカの宇宙飛行士と中国の宇宙飛行士の絡み合い
・国連Aセット(台湾国連脱退をめぐる韓国、台湾、中国の演説、Bセット、Cセットもあった)
・強要特別番組、李参平と白磁の由来
・明日の農作業の時間
・松正丸事件の真相
・肥前ナイロビ・ケニヤ線乗換え
・産まれたての仔馬
・コンドルの着地
などを披露。
その後、福岡で生活しつつ、「呼ぶ会」のカンパによって月1回上京し即興芸を披露し、メンバーの家で一定期間居候するという二重生活を始めた。

8月、3度目の上京を果たしたタモリが芸をしてると噂を聞きつけた赤塚不二夫がジャックと豆の木に来店。
大学時代に「天才バカボン」を読んで、
「こんなバカなことやっていいんだ、こんなバカなこと書いて出版してもいいんだ、アリなんだ」
と衝撃を受け、大ファンだったタモリはビックリ。
赤塚不二夫もタモリの才能に一目惚れ。
(この男を福岡に帰してはいけない)
と思い、
「君はおもしろい。
お笑いの世界に入れ。
今月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。
それまでは住むところがないから、私のマンションに居ろ」
と厳命。
タモリは、家賃17万円、4LDK、冷暖房完備の高級マンションで飲み放題食べ放題、服も着放題、ベンツ450SLC乗り放題、30万円の小遣い支給という好条件で居候を開始。

夜は毎晩、新宿で宴会。
「めちゃくちゃのためならなんでもする」
というタモリは半裸、全裸もいとわない上、
「俺の尻は色白でプリンプリンしていてキュンと持ち上げってて、すごくかわいくてカッコいい。
芸能界一だね、この美しさは」
と自負している。
あるときは何も知らない客がいる銭湯で素っ裸でイグアナのモノマネをして洗い場を這い、湯船に飛び込んだ。
あるときは全裸で足を組んで週刊誌を読み、そこから火をつけたロウソクをケツに突っ込み上げ気味で、4足歩行。
あるときは前触れもなく静かに服を脱ぎ出し、小道具を入れた紙袋からムチを取り出し、足を差し出し
「おナメ!」
と「SMローソクショー」
あるときは金粉を塗って半裸で踊り、黄金に輝く愛染恭子(AV女優)の胸を鷲づかみにする「金粉ショー」
その裸芸は新宿ゴールデン街で「恐怖の密室芸」といわれ恐れられた。

自分が居候し始めると赤塚不二夫はまったく家に帰って来ず、タモリは
「別に住むところがあるんだろう」
と思っていた。
しかし赤塚不二夫は自分の家に帰りづらくなって仕事場のロッカーを倒してベッド代わりにして泊まっていた。
どうしても必要なものがあって取りに帰るときは
「今から行っていい?」
とタモリにお伺いを立てた。
着る服がなくなりやむなく一時帰宅したとき、探していた服をタモリが着ていたこともあった。
居候を始めて半年後、赤塚不二夫が仕事場で寝泊まりしていることに知ったタモリは
「もう出ます」
と言おうと思ったが
「せっかくの好意がグチャグチャになっちゃあ居候道に反する」
と思い直した。
タモリいわく居候の秘訣は
「卑屈にならないこと」
だという。
「堂々としてなきゃ。
お前はすごいぞ、俺を見つけたんだからすごい!
そう思わせないと向こうもなんでこんな奴に金かけてやってるんだって、出ていけってことになる」
そういうタモリは福岡に残していた妻を呼び寄せ、2人で居候を続けた。

赤塚不二夫の家での居候開始と同時に、柏原A子ママを社長、山下洋輔が常務とするマネジメント事務所「オフィス・ゴスミダ」が設立され、タモリはタレントとして所属。
1975年8月30日、テレビ朝日の「土曜ショー」という番組の夏休み特集「マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」に出演しインチキ牧師などのパフォーマンスを披露。
たまたま番組を見ていた黒柳徹子は、その夜のうちに赤塚不二夫に電話。
「今の人、誰?
すごいじゃない」
そしてタモリは「徹子の部屋」の前身番組、「13時ショー」で2回目のテレビ番組出演を果たす。
秋になり京都大学の学園祭「11月祭」に出演。
このとき主催者と金銭トラブルが発生し、力不足を痛感したオフィス・ゴスミダは解散。
ステージ自体は好評で、タモリはその後、数年間、11月祭に呼ばれた。
「呼ぶ会」はすぐに次の所属事務所が探したが、特異な芸風から中々決まらず、やっと田辺エージェンシーと契約を結ぶことになったタモリは9ヵ月間の居候生活にピリオドを打ち、妻と共に赤塚不二夫邸を出た。

1976年、「欽ちゃんのドンとやってみよう」がスタートし、萩本欽一は素人イジりで大爆笑をとった。
素人をテレビに出すことに反対する意見もあったが、萩本欽一は
「プロを出せという人こそテレビの素人」
と素人や素人っぽさの重要性を主張。
同年、30歳のタモリは、バラエティ番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」の単独コーナー「タモリのなんでも講座」にもレギュラー出演。
半年後、深夜番組「空飛ぶモンティ・パイソン」内の「The TAMORI Show」という数分間のコーナーにもレギュラー出演。
萩本欽一の予言通り、会社勤めを経て30歳でテレビデビューを果たした最強のアマチュア、タモリは戦後最大の素人芸でブレイクした。
タモリは、萩本欽一と同様の意見を以下のように述べている。
「誰も厳密さなんて求めていないという気がするんですけど。
ナマだったらナマなりの期待があって、誰か失敗するんじゃないかとか・・・
少しくらい失敗してもそのほうがイキがいいわけでしょう。
テレビはそれをやったほうがいい」
「テレビは完成品には向いていない。
テレビっていうのは状況ですから。
状況を流すことに1番の威力を発揮するメディアだから、作られたものはちょっと向いていないかもしれない」

1976年10月6日、テレビでレギュラー番組を持ったタモリは、ラジオでも毎週水曜、25時~27時の生放送「タモリのオールナイトニッポン」をスタート。
(そして7年間継続)
きっかけは新宿ゴールデン街のメンバーの1人、マンガ家の高信太郎がパーソナリティを務めるオールナイトニッポン(火曜日)への出演。
ゲスト出演していたアグネス・チャンに、熱狂的中国人ファンとしてブッツケ本番で電話し、デタラメな中国語を一方的に喋りまくり、会話は成立しなかったが、反響を得て初冠番組につながった。
オープニングは、銅鑼が鳴り、アメリカンショー風ナレーションが流れ、最後に、
「Mr.タモリィ・ショー!」
そしておなじみのオールナイトのサンバにつながる。
タモリは提供読みで
「社長の顔がデカい角川書店グループ」
「堅実な経営を誇る東芝EMI」
「股間の恋人B.V.D.フジボウ」
「ニューミュージックから演歌まで社長自身がタレント化して売り込むキャニオンレコード」
「人事異動はまだか 、人事異動が待ち遠しいCBSソニー」
「何をつくってるのかわからない武藤工業」
「(ここを出ても職が無いと言いかけたがディレクターからの指示があったのか言い直し)ここを出ればあなたも一流カメラマン東京写真専門学校」
「社長の息子が慶應永谷園」
「レモンとコーヒーがドッキングポッカコーヒー」
「アイドル映画も制作する東宝東和」
「数々の名作を提供する日本ヘラルド映画」
「若者の股間を締め付けるビッグジョン」
「お菓子ひとすじブルボン」
「名前が清潔白泉社」
「一生、寛斎、森英恵は卒業していない東京デザイナー学院」
「南極物語もウケた学研」
などと勝手にスポンサーにキャッチコピーをつけた。
そしてユニークでマニアックなコーナーをつくっていった。
代表的なのがNHKニュースの音源をつなぎ合わせデタラメのニュースをつくる「NHKつぎはぎニュース」
リスナーからカセットテープで作品を募り、ハイレベルな作品が集まり盛り上がったが、3ヵ月後、無断で使用していたためNHKから
「面白いんですけど、やめていただけませんか」
とクレームが入り終了。
その他、「青年の主張」「夜の憩い」など数々のNHKのパロディコーナが登場した。
タモリが中国語の放送をパロディ化したレコードを出そうとしたらレコード倫理委員会から「待った」がかかり、その委員の中に慶應大学の教授がいたため「大学対抗悪口合戦」というコーナーを開始。
麻上洋子の「おはよう・・・・海!」、扇ひろこの「新宿ゴールデン街」などのレコードを本来、45回転のところ、33回転で流し、回転を遅くすることでオカマのような声になった。
あのねのねが「みかんの心ぼし」という新曲を出したとき、タモリは
「ただかけるだけじゃあ面白くない」
と清水国明に毎週電話をかけさせ、クイズで出して正解したら「みかんの心ぼし」をかけ、答えられなかったらライバル曲をかけることにした。
2ヵ月間、清水国明は毎週電話したが、タモリが絶対答えられない問題をつくったため新曲がかかることはなかった。
「ハードコアコーナー」は、タモリが女性リスナーと電話で話し、最後は女性リスナーとのキスで終わった。
「森繁の口調を真似ると、なんでもないことまで全部ジンセイを感じさせる」
と前置きした後、
「クルマで信号待ちをしておりますとネ・・・・・
赤信号が青にかわる・・・・
人の世のイトナミもまたこのように儚い明滅でありましょうか・・・・」
などと20分間、1日の出来事を森繁久彌風に語った。
いきなり女性の声を短く聞かせ、
「このひとはだれでしょう?来週までに正解をハガキで募集します!」
とリスナーに挑戦。
多くのハガキの中で正解したのは2人。
声の主は、春子夫人。
タモリは
「なんでわかったのかね?!」
と驚いた。
耕運機をプレゼントし、当選したのは横浜在住のリスナーだったこともあった。

トンガッていたタモリは、日本文学、ミュージカル、演歌、評論家、名古屋人、さまざまな嫌いなモノや嫌いなヒトに牙を剥き、コキ下ろし笑いをとった。
タモリが埼玉県民を
「ダ埼玉」
といったこと語源となって
「ダサい」
という言葉が出来たという説もある。
タモリは日本の純文学と純文学作家が特に嫌いで
「何の役にも立たん!」
「日本の湿った文化風土」
「何がイヤってあの暗さ。
あれ最悪ですね。
暗ければいいという。
悩むことが人間の1番崇高なことであるとか。
なんかああいうのってイヤなんですね。
非常に」
「病人が作った文学でね。
本当、対処すりゃいいものをそこでとどまってジーっとねえ。
病んでいく自分が好きだとか」
「ワビ、サビっつうのは余計なおせっかいだと思うんですよね」
「芭蕉なんか日本の文化を悪くしているんだろうなあ」
と強く批判。
中でも五木寛之(「青春の門」などベストセラー多数)に対しては
「イカンなぁ。
あーゆーもんが文化人面してのさばられるとねえ……
あれはね、ちょっと殺さないかんのじゃない?」
「五木って人は、一体あのカッコつけたナリと態度で、どうやって女を口説いているのか。
遠くを見つめながら「人生は……」とか真面目くさって言うんだろうな。
イヤなやつ」
と悪意むき出し。
五木寛之はタモリと同じ福岡出身だが、福岡空港でスチュワーデスに
「お客様は禁煙席になさいますか?」
と聞かれ
「僕がタバコ吸わないの、君知らないの」
と横柄な態度をとる五木寛之をタモリが目撃したことに端を発するというが、深刻なフリ、高級なフリをして、威張ったりチヤホヤされたりすることにガマンならぬようだった。

音楽では、さだまさし、谷村新司、オフコースに代表されるニューミュージックを
「ハッキリいって音楽のガン」
「優しさ、思いやり、温かさ、青春、愛、こういう言葉を散りばめてりゃ、即ミュージシャンになっちゃうのがイヤ」
「彼らが売れるということは日本の文化も信用できない。
日本の音楽文化は絶望に近い」
「歌詞がまた愚劣なんです。
散文にもなっていない、文章にもなっていない」
と口撃。
音楽に対して
「思想のない歌こそ素晴らしい。
思想のある歌はゴミだ」
「歌は軽薄でいい」
「非現実的なほうがいい」
「無愛想で明るく単純に楽しむのが音楽」
というタモリは「ニューミュージック撲滅」を目的にテレビ朝日の「題名のない音楽会」をパロッた「思想のない音楽会」というコーナーをつくり、ニューミュージックとは対極にあるナンセンスソングを紹介。
高田浩吉が歌う「白鷺三味線」を
「この思想のなさ、ノリ1発という明るさ、コレですよ、コレ。
歌っていうのはこういうのではなきゃダメ」
と大絶賛。
「父親が飲み屋から持って帰ってきた」
という高校生リスナーから自主制作のレコードが送られてきて、タモリは謎の男性歌手がこぶしをつけずに淡々と歌うムード歌謡を気に入り毎週流した。
同曲、さいたまんぞう作、「なぜか埼玉」は、大手レコード会社から発売され、12万枚のヒット。
タモリのオールナイトニッポンにゲスト出演した井上揚水は
「僕の歌は今まで思想がありすぎました。
それに暗い。
これからは過去を断ち切って思想のない歌を歌います」
と反省の弁を述べ、タモリいわく、それから井上揚水の歌が明るく変わったという。

1977年3月20日、グイグイ知名度を上げたタモリはファーストアルバム、「タモリ」をリリース。
1 序曲“タモリのテーマ”
2 ハナモゲラ相撲中継
3 教養講座“日本ジャズ界の変遷”
4 CMブラジャー・ミシン
5 世界の短波放送
6 お昼のいこい
7 歌舞伎中継“世情浮名花模越”
8 料理の時間~大混線
9 FEN(ニュース~スリラーアワー~コミックショー)
10 第一回テーブル・ゲーム世界選手権大会 於 青森
11 武蔵と小次郎 part1~討入り前の蕎麦屋の二階
12 武蔵と小次郎 part2~演歌“けねし晴れだぜ花もげら”
13 武蔵と小次郎 part3~町の民謡教室
14 武蔵と小次郎 part4~アフリカ民族音楽“ソバヤ”
15 武蔵と小次郎 part5~中国語のハワイアン・メドレー~終曲
とタモリワールド全開の全15曲。
この後、1978年にセカンド・アルバム「タモリ2」、1981年にタモリがハードボイルドなナレーションをはさみ、歌いまくるサードアルバム「ラジカル・ヒステリー・ツアー」も発売された。
奥成達(詩人、ジャズ評論家)に
「思考活動をもはや中止してしまおうとするような思考活動」
と評された3作品は、いずれもレコードで、マニアの間で長年、高値で取引されていたが、2007年12月19日にCD化され3作品同時に再発された。
1977年8月11日、「徹子の部屋」に「森田一義」の名前で出演。
以後、「徹子の部屋」には毎年の最後の回に出演し、2013年12月27日で37回という番組最多出演数を記録した。

タモリの初主演テレビCMは、キャノンのカメラ、110EDデートマチック。
「こんばんは。
春はハナモゲラ。
今天然のモレカケサはハレしていまはゲシクナレヘコキシタ。
我命モノコトの我コユビロはハラモレタ。
パラモレカネフケモレサッサ。
そして今日付はヘケモシタ。
どうも失礼しました」
と意味不明の言語で撮影日が記録されるカメラを宣伝した。

1980年代に入ると、NHKの深夜番組「ばらえてい テレビファソラシド」、日テレ土曜日23:00~ 23:30の「今夜は最高!〜WHAT A FANTASTIC NIGHT!」、夕方の時間帯に生放送されたラジオ番組「だんとつタモリ おもしろ大放送!」など活躍の幅を広げた。
「だんとつタモリ おもしろ大放送!」では、主婦に
「昨日○○した方お電話ください」
などと呼びかけ、日常だけでなく夜の生活まで食いこんできわどいトークを展開し人気を集めた。
またお笑いオーディション番組「お笑いスター誕生!!」に審査員として出演。
とんねるずの革新的なネタに他の審査員があまり評価しない中、タモリと赤塚不二夫だけは
「なんかわけわかんないけど、お前等は面白い」
と絶賛。

工作舎の立ち上げて雑誌「遊」を創刊し編集長を務めた松岡正剛との対談企画では、大いに盛り上がって3時間経っても話が尽きる気配がなく、次の予定が入っていた松岡正剛は
「今日でも遅くてよければ再開したい」
と持ちかけた。
その予定とは絵本作家のレオ・レオーニの来日と新作「平行植物」の翻訳版発売を記念しイタリア大使館で行われるレセプション。
興味を持ったタモリは大使館に同行。
大使、大使館関係者、レオーニ夫妻、谷川俊太郎(詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家)、勝美勝(美術評論家、フランス文学者)、中原祐介(美術評論家、京都精華大学名誉教授)、高橋康成(英文学者、東京大学教養学部名誉教授)・・・
そうそうたるメンバーによって厳かに行われていた晩餐会でサングラスをかけたタモリは
デタラメのイタリア語によるイタリア映画の1シーン
イグアナのモノマネ
ショウジュウバエのモノマネ
4ヵ国語マージャン
デタラメ放送
天皇のモノマネ
など反文化的な芸で狂乱の宴に変えた。
