原爆と原発
原子力発電と原子爆弾は、共に核分裂で発生する熱エネルギーを利用するが、その仕組みは根本的に異なる。
原爆は、核分裂の連鎖を速く大きく行い、爆発的にエネルギーを放出させる。
そのため複数の中性子を発生させ、短時間で核分裂連鎖を増倍させる。
一方、原子力発電は、ウランを核分裂させ発生する熱で水を沸騰させ発電機を回し電気をつくる。
一定規模の核分裂反応を継続させることが重要で、急激に核分裂数が増加することはない。
しかし
・広島に落とされた「「Little Boy(リトルボーイ)」は、64.15kg のウランを搭載し反応を起こしたのは約910g
・長崎に落とされた「Fat Man(ファットマン)」は、6.2 kgのプルトニウムを搭載し反応を起こしたのは約1140g
と約1kgのウランやプルトニウムが甚大な被害を引き起こした。
それに対し、100万kwの原発では1日に約3kg、年間、約1tのウランが核分裂を起こしている。
核分裂の制御や冷却に失敗すれば大惨事になる可能性を秘めていた。
原発先進国、ソ連 RBMK原子炉
冷戦中、東西は互いに「仮想敵国」に勝つために力の拡大を続けた。
ソ連は、モスクワのソ連共産党による一党制で、ユーラシア大陸の複数の国により連邦共和国を形成し、約2240万km²という国土を誇る超大国だった。
(アメリカは963万km²、日本は23万km²)
・世界初の(原爆の数倍の破壊力を持つ)水素爆弾実験
・世界初の人工衛星「スプートニク1号」
・世界初の宇宙飛行士:ユーリイ・ガガーリン
と兵器開発と宇宙開発の競争でアメリカの先をいき、科学力を見せつけたこともあった。
世界初の原子力発電所もソ連だった。
1954年、モスクワの南西約100kmに世界最初の原子力発電所、オブニンスク原発が建造された。
それは原爆用プルトニウム製造の技術を転用したRBMK型と呼ばれる原子炉だった。
日本などで用いられているPWRやBWRといった原子炉(軽水炉)が、高さ4mくらいなのに対し、高さ7m、1700tの黒鉛ブロックを直径12mの円筒状に積み上げたRBMK型原子炉はかなり大きかった。
黒鉛(グラファイト)は、鉛筆の芯、自動車のブレーキパッド、新幹線のパンタグラフなどでも使われ、安価で、潤滑性、電導性、耐熱性、耐酸性、耐アルカリ性に優れ、優秀な減速材(核分裂時に放出される中性子の速度を下げる)でもあった。
巨大な黒鉛ブロックの中には、1661本の垂直孔(チャンネル)が空いていて、そこに圧力管が挿入される(圧力管チャンネル)
圧力管には、燃料棒集合体が1体が入っている。
燃料棒集合体とは
・ウラン粉末を直径1cm×高さ1cm×1cmの円筒形に焼き固めたのが「ペレット」
・ペレットをたくさん詰めた4mほどの金属管が「燃料棒」
・18本の燃料棒を束ねたのが「燃料棒集合体」
ウランの核分裂によって生じる放射性物質のほとんどは、ペレットや燃料棒内部に閉じ込められる。
圧力管チャンネルに冷却水が入り、燃料を燃やし(核分裂させ)蒸気を発生させ、タービン(かんたんにいうと扇風機のハネ)を回転させて発電する。
原子炉の中では、核分裂によって中性子が大量に生じ、それが次から次に原子核に吸い込まれ、さらに核分裂が生まれ、連鎖反応が継続される。
中性子の数が多ければ核分裂の規模は大きくなり、中性子の数を減らせば小さくなる。
巨大な黒鉛ブロックの中には、211本の制御棒チャンネルと少数の計装用チャンネルもあって、核分裂をコントロールする。
制御棒には、中性子を非常によく吸収するホウ素が含まれていて、それを原子炉の中に深く挿入すれば原子炉の中の中性子は制御棒に吸い取られ、核分裂は減り、抜くと再び核分裂連鎖反応が増える。
RBMK型は、軽水炉に比べ、安価で大出力を得ることができた。
その反面、安全性では劣っていた。
冷却水には、
・蒸発してタービンを回す
・燃料棒を冷却する
・中性子を吸収し核分裂を安定させる
という役割があった。
水を減速材、冷却材として使う軽水炉では、核分裂が増え、蒸気が増え、冷却水が減ると、燃料は燃えにくく(核分裂しにくく)なるという「自己制御性」があった。
本来、原子炉は、このように出力がプラスになると、それに伴いマイナスの反応も増すように設計されるのが望ましい。
しかし中性子の減速を主に黒鉛で行うRBMK型では、温度が上昇し、蒸気が増え冷却水が減ると、核分裂は促進され、さらに燃料棒の温度が上がり蒸気が増え冷却水が減り・・・というプラスの連鎖が起きて暴走してしまう可能性があった。
設計者は、これを補償するため、常に原子炉内に常に何本かの制御棒を挿入しておくことを求めた。
事故発生
1986年、
ソ連では15基のRBMK型原子炉が稼動していて、チェルノブイリ原子力発電所には、その内の4基があり、さらに2基を新設中という世界最大級の規模を誇る発電所だった。
4月25日(AM)1時、
4号炉(電気出力100万kW、熱出力320kW)は、点検修理のため、1983年12月の運転開始以来、初めて停止作業に入った。
この停止に際して、いくつかのテストが行われる予定だった。
その1つが、停電時、非常用発電機が立ち上がるまでの数十秒間、タービンの慣性回転を利用し発電し、それを電源にしてポンプを回すというテストだった。
14時、
予定に従って制御棒を徐々に挿入し停止作業が進み、定格の半分(160万kW)まで降下していたが、キエフ(ウクライナの首都)の司令所から給電要請が入ったため運転継続。
23時、
キエフからの依頼を終え、出力降下作業を再開。
約10時間、160万kWという低出力を維持したため、原子炉内にはキセノン135が蓄積した。
通常運転であれば、中性子を吸収して直ちにキセノン136となるキセノン135は、中性子を吸収する作用を持ち、核分裂を抑制し、運転制御を困難にしてしまう物質だった。
4月26日0時、
運転班が交代。
予定は大幅に遅れ、この運転班は、本来、原子炉停止後の冷却を行う予定だった。
このとき1~4号炉には、176人の運転員、少し離れたところで建設中の5、6号炉には、268人の作業員がいた。
4号炉の制御室には、14人がいた。
テスト責任者は、ジャトロフ副技師長。
アキーモフ班長(33歳)とトプトゥーノフ技師(25歳)が原子炉を運転した。
0時30分、
熱出力70kW のところで電源テストが行われる予定だったが、出力コントロールに失敗し、原子炉の出力は0~3万kWまで低下。
(キノセン135の影響と思われる)
ジャトロフ副技師長の指示で、運転員は、(おそらくその危険性を知らずに)ほぼすべての制御棒を引き抜き、出力回復に努めた。
制御棒が完全に引き抜くと、その下には黒鉛の棒がブラ下っていて、さらにその下の原子炉の中には、直径11.4cm、高さ1.25mほどの水柱ができていた。
(この制御棒の下にブラ下がる黒鉛棒も、構造的な欠陥といわれ、事故の大きな原因とされている)
1時、
その結果、出力は20万kWまで回復。
このとき原子炉内は、核分裂反応が急上昇している危険な状態だった。
1時23分4秒、
テスト開始。
タービンへの蒸気弁を閉鎖。
タービンの慣性回転で発電されたテスト電源に接続されたポンプは、流量を若干低下させたが、炉は安定していて、警報など運転員の操作を促す兆候は何もなかった。
1時23分39秒、
タービンの回転速度減少に伴い、ポンプの流量も減少。
少なくなった冷却水は大量の蒸気となり、燃料棒はますます温度を上げた。
タービンの回転数が予定の毎分2500回転に下回ったところで、運転員は
「原子炉停止」
といい、AZ-5ボタン(事故防御第5ボタン)を押した。
運転マニュアルには
「出力5%(16万kW)以下のときは、低出力自動制御系かAZ-5ボタンで停止させる」
とあり、AZ-5ボタンが押されると、ホウ素が含む制御棒が一斉に挿入され、マイナスの反応が加わり原子炉は停止するはずだった。
しかしすべての制御棒が引き抜かれ、出力が急上昇した状態の原子炉に、すべての制御棒が一気に入れられたことで
(中性子を吸収していた冷却水からほとんど中性子を吸収しない黒鉛棒に替わったことで)
大きな反応が起こった。
こうしてAZ-5ボタンを押したことにより止まるはずの原子炉は逆に暴走を起こした。
1時23分41秒、
「出力上昇率高」と「出力高」の警報。
予期せぬ出力上昇に気づいた運転員は、2度目のAZ-5ボタンを押した。
1時23分44秒、
核分裂は止まらず出力は定格の100倍に達し、爆発が起こった。
1時23分49秒、
2度目の爆発。
原子炉が空中に浮くほど大きな爆発で、建屋も崩壊。
250tの屋根は、建屋から8m離れたところへ落下。
140tの構造物、黒鉛ブロック、核燃料は飛散し、あちこちで火災が発生。
1.5km飛ばされたコンクリートブロックもあった。
外にいた目撃者によると、2度の爆発と共に花火のような火柱が夜空に吹き上がったという。
爆発で原子炉そのものと、クレーンがある原子炉中央ホールは壊滅したが、離れた場所にある制御室では、爆発の衝撃と警報で緊急事態が発生したことはわかったものの、何が起こったかは把握できなかった。
制御棒の位置を示す計器は、挿入の途中で止まってしまっていることを示し、運転日誌には
「1時24 分、強い爆発、制御棒は原子炉の下端まで達せずに停止」
と記されていた。
彼らがまず考えたのは、とにかく原子炉を守ることで、そのために制御棒を完全に挿入し、冷却水を送り冷却することだった。
プロスクリャコフ(30歳)とクドリャフツェフ(28歳)、2人の運転技師補は、現場でハンドルを回して制御棒を挿入するために原子炉中央ホールへいった。
そして崩れた建屋と噴火口のように燃え上がる原子炉をみた。
その数分で致死量の放射線を浴びた。
2人は制御室へ戻り、原子炉が吹き飛び、パイプが破損し周囲が水浸しであることを報告。
しかしジャトロフ副技師長は、原子炉が破壊されたことを認めたくないのか
「緊急用水タンクが爆発したのであって、原子炉そのものは無事」
といい張った。
運転していたアキーモフ班長(33歳)とトプトゥーノフ技師(25歳)は、現場に給水バルブを開きにいったことが死につながった。
アキーモフ班長、トプトゥーノフ技師、プロスクリャコフ運転技師補、クドリャフツェフ運転技師補は、後にモスクワの病院で死亡。
AZ-5ボタンを押したのはアキーモフ班長だといわれ、足の皮膚が靴下のように剥がれるほどの放射線を浴びた上、多くの人からの非難も浴び、つらい思いをした。
彼は最期まで
「私は指示の通りすべての操作を正しく行った。
何も間違ってはいなかったはずなのに」
と訴え続けた。
事故後、生き延びたジャトロフ副技師長も
「AZ-5を押したのは電源テストが終了し原子炉を停止するためだった。
AZ-5 ボタンを押すまで何も異常を示すものはなく平穏そのものであった。
出力増などの警報が出たのはボタンを押して3秒後のことである。
反応度操作余裕が低下していたことも運転員が非難されるいわれはない。
それを直接示す計器はなかった」
と主張した。
原子炉近くのポンプ室でポンプをみていた原子炉機械係のホデムチゥク(34歳)は行方不明のまま、数ヵ月後、完成する「石棺」に埋葬された。
原子炉下の配管室で計器をみていたシャシェーノク(44歳)は、大ヤケドを負いながら救出されたが、数時間後、死亡。
原子炉係のクルグーズ(27歳)とゲンリフは、原子炉中央ホール脇の小部屋で休憩していた。
クルグーズは、約1ヵ月後、死亡。
ゲンリフは、600レントゲンもの放射線を浴びながらも生き延びた。
もう1人の機械係、デグチャレンコ(31才)は死亡。
機械係の班長、ペレボズチェンコ(38歳)も、部下たちを救出するため崩壊現場で活動し、命を落とした。
4号炉の隣のタービン建屋では火災が起こった。
屋根を貫いて落ちてきた破片や燃料棒が転がる中で、消火活動や発電機から燃料を抜く作業が行われた。
タービン係からは、ペルチゥク(33歳)、ヴェルシーニン(26歳)、ブラジニク(28歳)、ノビク(24歳)、電気係からは、レレチェンコ(47歳)、バラーノフ(32歳)、ロパチューク(25歳)、シャポバロフ(45歳)、コノヴァル(43歳)が犠牲となった。
中でも電気係次長のレレチェンコは、積極的に危険な場所へ赴き、急性症状のため一旦医務室へ引き上げたが、応急処置を受けた後、再び現場に戻り、事故の拡大を防いだ。
発電所備えつけの放射線線量計は、最大目盛りが1000マイクロレントゲン/秒(3.6レントゲン/h)で、至るところで振り切れていたが、
「せいぜい5レントゲン/h程度だろう」
となった。
仮に被曝線量の限度を25レントゲンとすると5時間作業可能ということになる。
人体は自然放射線によって年間0.1レントゲンほど被曝しているが、短時間に多量の放射線を浴びると異常を起こす。
被曝線量が100レントゲンを超えると、吐き気、おう吐が始まり、400レントゲンでは、骨髄の造血機能が破壊され、数週間から2ヵ月くらいで約半数が死に、600レントゲンでは、ほとんどの人が死亡するといわれている。
これら急性の放射線障害に加え、被曝して数年後、数十年後、ガン、白血病、脳障害、遺伝障害などが起こる晩発性放射線障害の恐れもあった。