27日12時、
事故翌日正午、プリピャチ市民は、ラジオと拡声器で、原発事故が発生したことを伝えられ、身分証明書と3日分の食料、貴重品を持って集まるよう指示された。
14時、
45000人が1100台のバスで避難。
パニックと荷物の氾濫を防ぐために、
「避難は3日だけ」
と伝えられていたが、実際に戻れたのは数ヶ月後、しかも一時帰宅だった。
プリピャチ市内の放射線量は、
26日(事故が起こった日)9時 14~140ミリレントゲン/時
27日7時 180~600ミリレントゲン/時
27日17時 360~1000ミリレントゲン/時
と上昇しており、すでにたくさんの人が高レベルの放射性物質にさらされていた。
避難先で避けられたり、
「出て行け」
と非難される人もいた。
一方、現場では、ヘリコプターが4号炉へ消火物の投下を開始。
初日、110回の飛行で150tの砂袋が投下された。
高度100~200mからのぞくと、破壊された屋根が半開きのまぶたのように開いていて、その下に太陽のように熱せられた光がみえた。
クレーターからは放射能をタップリ含んだ熱気が上がってきて、投下の衝撃でさらに放射能が舞い上がり、高度110mの線量計は500レントゲン/時にも達っした。
担当したのは、キエフ軍のヘリコプター部隊。
アントキシン空軍少将は、ヘリコプターとパイロットの招集、投下する資材の確保から袋づめまで行った。
当初、袋詰めの作業員が足りず、政府要人もそれを手伝った。
「空軍、ヘリコプター部隊は実に正確に働いた。
これは高度の組織性を発揮した手本だった。
あらゆる危険を無視し、すべての乗組員がいかに困難かつ複雑な任務であろうとも、常にそれを遂行すべく努力した。最初の日々はとくに困難だった。
砂入りの袋を投下せよとの命令が出された。
なぜか地元機関は袋と砂を準備するのに十分な人数を、ただちに組織することができなかった。
乗組員の若い将校が、砂袋をヘリコプターに積み込み、飛び立ってそれらを目標に投下し、舞い戻ってきて、再び同じ作業をするのを私はこの目で見た。
もし私の記憶に誤りがなければ、その数は最初の一昼夜に数10t、次の3日目(昼夜)では数百t、最後にはアントシキン少将が夕刻の報告で、一昼夜に1100tの資材を投下したというまでになった」
(ヴァレリー・レガソフ)
4月28日(事故2日後)8時30分、
チェルノブイリ原発から北西へ約1100km、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所で、職員の靴からアラームが鳴るほど高線量の放射性物質が検出された。
フォルスマルク原発は、すぐに通報。
11時、
マスコミが
「フォルスマルク原発で放射能漏れ」
を報じ始め、120kmほど離れた首都:ストックホルムでも動揺が始まった。
12時、
スウェーデン国防軍の 防衛研究所は、国内7ヵ所の観測所で飛来してくる放射性物質を計測していた。
この日の朝7時に回収された観測装置のフィルターを分析器にかけられると、
「どこかの国で核戦争や核実験が起こったのかもしれない」
と思うほどの過去に例がない大量の放射性物質が検出された。
さらに詳しく分析してみると、原子爆弾ではほとんど生成されず、原子力発電で多量に生成されるセシウム-134が検出された。
13時30分、
スウェーデン政府は、フォルスマルク原発以外の国内の発電所や隣国フィンランドからも
「高い濃度の放射性物質を確認した」
という報告を受けた。
14時、
防衛研究所の要請を受け、スウェーデン気象庁は過去数日間の気象データから発生源を予測。
ソ連(ベラルーシ、ウクライナ)から放射性物質が風によって流れてきた可能性が出てきた。
スウェーデン空軍は、偵察機にサンプル収集装置6つを取りつけ、バルト海上300mを低空飛行しソ連領海ギリギリまで接近。
サンプルを分析した結果、「発生源はソ連」説が有力になった。
ときは東西冷戦中、西側に属するスウェーデン政府は、鉄のカーテンの向こうにいるソ連政府に説明を求めた。
15時30分、
フォルスマルク原発が運転を再開。
21時
ソ連政府は、
「2日前にチェルノブイリ原発で大爆発があった」
と短く発表。
世界は衝撃を受けた。
4号炉から放出された膨大な量の放射性物質は、まずロシアからスカンジナヴィア、ブリテン、次に風向きが変わってチェコやドイツなどの中欧へ拡散し、やがて北半球全体へと広がった。
放射性物質は空から落ち、土、水、植物、動物、そして食品や飲料に混入し、世界中に拡散した。
ヨーロッパ各国は国民に事故による大気と土壌の汚染を説明し、窓と戸を常に閉め、できるだけ外出を控えるように指示。
するとスーパーは買いだめ客であふれた。
事故前、あるいは屋内で生産された食品が売れ、生鮮食品や汚染の恐れがあるものは残った。
国は、汚染が予想される食品は残留放射能テストが行い、安全値を越える食物や汚染された恐れのある食物は破棄し、生産者に補償金を支給。
牛乳の汚染について、イオン交換法によって汚染が中和され解決したのは15ヵ月後。
チーズなどの乳製品、肉、野菜、果物、ヨーロッパの食卓は、大きな被害を受けた。
西ヨーロッパから輸入された缶詰から放射性物質が検出されたり、東ヨーロッパから輸入された羊200頭が盲目だったり、事故現場から2000km以上離れたイギリスの羊からセシウムが検出されたり、 オランダ製の粉ミルクから放射性物質検出されたり、被害は世界中に拡散。
放射性物質は、8000km離れた日本にも飛んできた。
日本で「チェルノブイリ」という聞き慣れない言葉が広まったのは、事故から3日後、4月29日の天皇誕生日。
事故1週間後の5月3日、大阪府泉南にある京都大学原子炉実験所が雨水からチェルノブイリからの放射能を初観測。
日本政府は、
「日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きない」
と説明。
連日、マスコミは放射性物質の飛来を報道。
人々は、
「大丈夫なのか?」
と心配する一方、
「仕方ない」
と通常通りの生活を続けた。
チーズやパスタなどのヨーロッパ産食品を買わなくなり、
「ヨード卵・光が放射線に効く」
「雨を浴びたらハゲる」
などといわれブランド卵や傘が売り上げを伸ばした。
甲状腺にヨウ素を蓄積させておくと放射能(ヨウ素131)を体外へ排出させるため、原子力発電所とその周辺には、ヨード(ヨウ素)を含む薬剤が配備されていた。
大阪では「放射能予防お好み焼き」というヨード卵・光とわかめをつかったメニューを出す店もあった。
多くの人が、ソ連に対してネガティブな感情を持つ一方、世界中で医療や物資の派遣、募金活動などの支援活動も行われた。
実際、4号炉から半径600km、12万km²、日本の国土の1/3近くにも達っする地域の汚染は深刻で、そこに住む住民は、放射性物質が降り積もった大地から直接、放射線を浴び、さらに汚染された空気や水、食べ物が体内に入ることで体の中からも被爆し、2つの被爆を同時に受け続けていた。
4月29日、
事故から3日後、モスクワのソ連共産党は、ソ連首相:ルイシコフを議長とする対策グループを設置。
以降5月末まで、連日、会合が開かれた。
4月30日、
新聞(ソ連共産党中央委員会機関紙「プラウダ」)の2面右下段、目につきにくい欄に
-------------
ソ連政府発表
キエフから北に130kmに位置するチェルノブイリ原子力発電所において事故が発生しました。
事故現場では、ソ連政府副首相同志シェルビナ・B・Eの指導の下、関係省庁幹部、著名な学者や専門家から成る政府委員会が対応にあたっています。
最新の情報によれば、事故は第4発電ユニットの建屋のひとつで発生し、原子炉建屋の構造物の一部崩壊、破損、一定量の放射性物質の漏出につながりました。
他の3基の発電ユニットは正常に停止し、稼動待機状態にあります。
この事故によって2名が亡くなりました。
事故被害を防ぐため緊急措置が講じられています。
現時点では、発電所及びその周辺地域の放射線量は平常値に戻っており、被害者には適切な医療サービスが提供されています。
原発村及びその近隣の3居住区の住民は避難を終えています。
チェルノブイリ原発及び周辺地域の放射線量について常時モニタリングが続けられています」
-------------
という記事が掲載された。
5月1日、
4号炉の黒鉛がほぼ燃え尽き、放射性物質の放出が増え始めた。
ソ連は総力を上げてこの事態に取り組んでいて、チェルノブイリ原発へ向かう道路にはトラックが延々とつながっていた。
幾重にも検問所が設けられ、兵士が、人や機械の除染と検知を行い、放射能の拡散を防止する防壁となっていた。
「事故後2ヵ月間は本当に戦争のようだった」
(参謀総長アエロメーエフ元帥)
5月2日、
政府委員会が、4号炉から北西に3kmのプリピャチ市から南東12kmのチェルノブイリ市に移動。
政府委員会の入った建物は、関係者でゴッタ返し、道路の両脇は軍の野営地となり、テント、軍用車両、建設車両などでビッシリ埋まった。
同日、
現場では投下される資材の重さで原子炉の基礎コンクリートが破壊される恐れが指摘され、ヘリコプター作戦が中止となった。
原子炉の下には大量の水があり、核燃料と接触すれば大規模な水蒸気爆発が起こる可能性があった。
予測される爆発の規模は、200km²。
周囲の原子炉も吹き飛び、さらに大量の放射能汚染の恐れがあった。
ここまで
27日、150t
28日、300t
29日、750t
30日、1500t
1日 、1900t
と鎮火のための砂と粘土1800t、放射線吸収のため鉛2400t、中性子の吸収剤としてホウ素40t、ヒートシンク(放熱・吸熱)としてドロマイト600tなど合計5000tが投下されてきた。
30人のパイロットは、血液中からウランやプルトニウムを除去するために何度も血液交換が行った。
その英雄的な活動と犠牲は、原子炉を密封して放出される放射性物質の量を著しく減少させた。
しかし完全に封じ込めることはできなかった。
この後、放射能に汚染され使用できなくなったヘリコプターは、原発から南に25kmのラッソハ村に移動し、10年以上、放置された。
5月3日、
プリピャチ市以外の原発周辺30km圏内、70余りの市町村の住民、約12万人の強制避難が開始。
こうして3700km²(東京都面積の 1.7倍)は立ち入り禁止となった。
チェルノブイリ市を除いて多くは農村地域だったが、人々は先祖伝来の農地や牧場から追い出され、放射性物質が付着しているという懸念から家畜も処分された。
多くの人が仕事を失い、慣れない生活環境に放射能汚染はもちろん、将来へ不安を募らせた。
当初、マスコミが事故現場に入ることは許されなかった。
ある記者は、それを記事にし、当局に現地にマスコミを入れて公開することを要請。
共産党の重鎮で「グラスノスチ(情報公開)の父」と呼ばれたアレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフが、その記事に注目。
事故発生から1週間後、記者はマスコミとして初めて現場に入れ、収束作業を撮影。
高線量の現場で、原子炉内から飛び散った黒鉛を手で除去する姿を目撃した。
「まさに地獄だった」
カメラマンのイーゴリ・コスティンは、何も知らない鳥が4号炉の上を飛んでいるのを目撃。
その背後には事故が起きた瞬間に止まった時計台があった。
「事故発生の11 時間後に撮った写真は、残念なことに、フィルムが放射線によって処理を受けてしまって、画像が砂を振り撒かれたような状態になった。
私が5 枚ないし10 枚の写真を撮影した後、カメラは作動しなくなった。
撮影はヘリコプタ-の窓越しに行った」
こうして撮影された映像は、翌年(1987年)まで公開を禁じられた。
依然、原子炉の真下にはコンクリートの壁を隔てて500万ガロンの水が入ったプールがあり、もし核反応を続ける燃料と接触すれば、大規模な爆発と核の拡散が起こる恐れがあった。
早急に水を抜く必要があったが、そのためには排水バルブを開かなくてはならず、ボリス・バラノフ、タービン、ワレリー・ベスパロフ、アレクセイ・アナネンコ、3人の原発職員は4号炉の真下にいくことになった。
厚いウェットスーツを着た3人は、防水ライトをもってに進み、水に潜って手でバルブを開いた。
次に消防隊の志願者12名が建屋に入り、24分間で排水ホースを引く作業を行ったが、その後、ホースが漏れたりしたため、何度か現場に戻らなければならなかった。
ボリス・バラノフ、タービン、ワレリー・ベスパロフ、アレクセイ・アナネンコの3人は致死的な被曝を受けたにも関わらず、その後も生存し、原子力の仕事を続けた。
彼らだけでなく多くの職員が、避難した家族と別れ、近くのキャンプ場「おとぎの国」を宿舎にして、当直制で事故処理作業に通った。
食事は、時間になると飛来する食堂ヘリで行われ、外から持ち込まれたものだけを食べた。
おとぎの国には設けられた掲示板には、全国各地から送られてきた励ましのメッセージが貼られた。
自分たちへの感謝のメッセージや家族からの手紙を読んだ職員は、
「どんなことがあっても守り抜く」
と強く意志を固めた。
多くが健康状態を悪化させ、やがて給料も未払いになったが、辞めるわけにはいかなかった。
5月6日、
3号炉からパイプを通じて4号炉に窒素を送り込むことに成功。
火災は鎮火。
これにより遠方への放射性物質の拡散も阻止された。
それはまるで映画のような劇的な終わり方だった。
これまで質量の大きな放射性物質は発電所の周辺に、質量は小さい揮発性の高い物質は煙と共に遠くまで拡散。
汚染物質を含む雲は風向きによって刻一刻と進路を変え、空を通り過ぎただけの場所は汚染を免れたが、雨が降ると落下した水滴によって土地を汚染した。
結局、4号炉は、世界中の原子力発電所が1年間に排出する廃棄物の3万倍に相当する放射性物質を環境中に放出。
今日でも人類が日々浴びている放射線の3%はこのチェルノブイリに由来するといわれている。
火災が止まり遠方への拡散が止まっても、放射能がなくなったわけではなく、4号炉はエネルギーを放ち続けていた。
この時点では不明だったが、後に調査によって、原子炉とその周辺の状態がわかってきた。
4号炉には10m以上の大きなコンクリートの壁が2枚、倒れ込んでいた。
水平だった2500tの上部構造板は、ほぼ垂直になって引っかかっていて、引きちぎられたチャンネル管が垂れ下がっていた。
下部構造板は、1/4が溶け、押し潰すように下に4mほど下がっていた。
1700 tあった黒鉛ブロックは少しだけ残っていて、それ以外は飛散したか、燃えてしまっていた。
事故時、4号炉には190tのウラン燃料が装てんされていた。
最も危惧されたのは残った核燃料が再び核分裂が始めることだったが、それはステンレスや岩、コンクリートなどと反応を起こし、溶岩状の物質となって流れ出て固まっていた。
原子炉下部のプールへ流れ落ちて固まった溶岩状物質は、その形状から「ゾウの足」と名づけられた。
もし水が抜かれていなかったら大惨事になっていた。
ゾウの足には、120tのウランが含まれ、その他、圧力チャンネル管の中、ガレキの下などにも大量の核燃料が埋まっていると推定された。
5月9日、
事故発生から10日足らずで、空き地に3つのコンクリート工場が完成。
(それまでは市外から運搬されてきていた)
40mの深さまでコンクリートを流し込み、地下水がドニエブル川に流れていかないようにする工事が150名によって行われていた。
5月14日、
ソ連共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長が国営テレビで演説。
「先日、チェルノブイリ原発で不幸な事故が発生しました。
被害は深刻な事態を招いています。
暴走する原子力という巨大な力と我々は衝突してしまいました。
この非常事態に政治局は全力で処理に当たっています。
莫大な労働力と責任がウクライナとロシアにかかっています。
これまで299人が入院し、7人が死亡しました。
中央委員会および政府は、死亡者の家族、同僚、その他すべての被害者に同情の意を表します」
と事故原因にはふれず、死傷者数も少なく発表。
「ペレストロイカ(再建)」 と「グラースノスチ(公開)」をスローガンにソ連共産党のトップとなったミハイル・ゴルバチョフだったが、70年以上続く一党独裁体制の闇は深かった。
一方、現場では4号炉建屋の外から原子炉の下へ向けてトンネルが掘られ始めた。
核燃料が基礎コンクリートを貫通しないよう、その下にコンクリートを流し込んで補強すると共に冷却用の配管を設置する工事だった。
この工事には、約400人が24時間、3時間8交替で従事。
地上では、飛び散った残骸の片づけが始まった。
4号炉の周りには、爆発で崩れた壁や屋根がガレキとなって積み上がり、黒鉛ブロックや燃料棒がゴロゴロ転がっていた。
ある黒鉛の塊に放射線測定器を近づけると、2000レントゲン/時を示していた。
ソ連軍化学部隊は、ピカロフ大将を含め、全員がバケツを持って、それらを手づかみで拾っていった。
そしてバケツがいっぱいになると金属のコンテナに歩いていって中身を移した。
この他にも化学部隊は、30km圏内を調査し、汚染地域を特定し、軍はプリビャチ市を含め、樹木、住宅、道路の除染作業をやりとげた。
彼らの3ヶ月間の活動によって、チェルノブイリは次のプロセスへ進むことができた。
事故後、原発職員と軍人主導で処理が行われていたが、やがてソ連各地から予備役兵(平常は市民生活を送り、訓練や非常時に召集されて軍務に服する)や一般の専門家や愛国者たちが30km圏内に集められ、様々な作業を行うようになり、5月末には現場から正規軍人はほとんどいなくなった。
彼らは
「リクヴィダートル(事故処理作業従事者、ロシア語で「清算活動をする人」)」
と呼ばれた。
事故後、4年間で約80万人のリクヴィダートルが活動。
積極的な志願者もいたが、危険性が知ると作業を拒否する者も続出。
実際、4号炉の近い場所で作業を行ったリクヴィダートルは、事故時に現場に居合わせた原発職員や消防士たちに次いで被爆が大きかった。
リクヴィダートルのために新しい道路と町が建設され、原発への行き帰りは装甲車やバス。
チェルノブイリに集められた医師たちは、放射能による災害に初めて直面した。
最初は基本的な衛生習慣もなく、汚染されているはずの室内で食べ物や飲み物はむき出しで置いてあったが、注意すると数日後には手や口に入れるものは洗うようになった。
医療の専門家たちは、最悪の状況の中で、許容線量を定め、放射線による障害を予防しようとした。
作業者の被曝管理は、原子力産業省、中機械製作省、国防省の3つにわかれていて、中機械製作省と国防省は自分のところのスタッフ、それ以外は原子力産業省が担当。
被曝限度は25レントゲンとされ、それを超えると作業を離れるという規則だったが、愛国心か、管理の甘さか、かなりの人が基準をオーバーして作業した。
「深夜、仕事をしていると若い兵隊が私のところへやって来て、『被曝証明書を書いてくれ』という。
『いったいどこで作業をしていたのか』と地図を示しながら聞くと廃液貯蔵所を指した。
そこには60レントゲン/時と放射線量が記入してあった。
どのくらいの時間いたのか聞くと『約30分です』と答えた。
私は不意に気分が悪くなった。
彼らは測定器を持っていなかった。
『他にはどこにいたか』と聞くと35レントゲン/時の場所と50レントゲン/時の場所を示した。
それぞれに30分ずついたとすれば、合計で70~75レントゲンにもなる。
彼のグループ6人の名前を聞き、被曝証明書を作成してやった」
(医師)
多くのリクヴィダートルは、国に対する誇りと義務感を抱いていた。
なにか同意できないことがあっても、そのことについて話すのは難しいと感じていたかもしれない。
建設現場の技術者や監督が、道具や材料の不足を訴えると迅速に補充された。
ある学者は、農作物をつくることが禁止された30km圏内の土地を元の土に戻す研究を行った。
ジャーナリズムを学んでいた大学生がチェルノブイリに入り、発電所の壁新聞「前線」の記事を書いた。
ある作業員は、大学を卒業したばかりで作業員として軍隊に採用され、制限区域のすぐ外の野営地で55日間を寝泊りしながら、4号炉の近くで毎日12時間、除染作業を行った。
ある作業員は、道路を通過する車両や機械にホースで水をかけて洗浄。
道路自体も洗浄車両で除染された。
ある作業員は、原発周辺の汚染された木々の伐採。
ある作業員は、原発周辺の村の建物を重機で壊して土に埋めた。
壊すことができない大きな建物は水をかけて洗われ、水が滴り落ちた地面は土を引っくり返さなくてはならなかった。
発電所内の作業は、分刻みで交代が行われた。
色も形も匂いもない放射線は作業中は気にならないが、確実に体に蓄積されていく。
先に調査を入れながら慎重に作業を進めていった。
ある作業員は、現場に大急ぎでかけこみ、シャベルで土を引っくり返して逃げてくる。
作業時間は6分間。
1日の作業はわずかそれだけだった。
その後はどこへいってもよいが、送迎バスは頻繁に運行されず、できるだけ放射線に曝されないよう地下2階にある食堂で待機。
ある作業員は、医師だったという理由で、爆発の現場をみたいというモスクワの党幹部に同行。
放射線を遮るために鉛で覆われた車に乗っていったが、現場に近づくにつれ車の中のガイガーカウンターが
「ツ、ツ、ツ」
と頻繁に鳴るようになり、さらに近づくと
「ツーーー」
と断続音ではなくひと続きの長い音になり、エンジンが止まったという。
リクヴィダートルの多くは、放射線についてほとんど何も知らなかった。
共産主義政権下、ほとんど何の装備もないまま機械が故障するような所に送り込まれ働いた彼らは、例えようもない「自己犠牲」だった。
6月、
火災は止まったといっても、破壊された原子炉はムキ出しのままで放射能を放出し続けていた。
これをまるごとコンクリートで覆ってしまおうという工事が始まった。
高さ60m×縦70m×横70m、巨大な「石棺」の建設だった。
大量の技術者と作業者、遠隔操作の建設機械が投入された。
周辺の地面はコンクリートで覆われたり、土を入れ換えられた。
それでも放射線量は、150~180レントゲン/時もあるところもあったが、まず石棺の壁の建設が始まった。
また1号炉と2号炉の運転再開が決定され、その準備も進められていった。
6月4日、
モスクワのソ連首相:ルイシコフを議長とする対策グループは、国内および外国に対し
「急性放射線障害の診断は187名の被災者(全員発電所職員)に対してなされ、うち24名が死亡(他に2名が事故時に死亡)した。
病院に収容された住民には、子供も含め、放射線障害の診断は認められていない」
と発表することを決定。
実際は多くの一般住民や子供、幼児が急性障害が出して病院に収容されていた。
6月末、
溶岩化した燃料が基礎コンクリートを貫くのを防ぐためにトンネルを掘ってコンクリートを流し込み補強すると共に冷却用配管を設置する工事が完了。
400人のリクヴィダートルは、機械はほとんど使えないまま、24時間3時間8交替で140mのトンネルを掘り切った。
7月3日、
ヴァレリー・レガソフは、モスクワに呼ばれ、事故後の経過を報告。
説明を聞いたミハイル・ゴルバチョフは、1ヵ月後にウィーンで行われるIAEA(国際原子力機関)の会議に自分の代わりに出席するように指示。
ヴァレリー・レガソフは、他の専門家たちと膨大な資料をチェックし、事故の主な原因は、RBMK型原子炉の構造的な欠陥であると確信していた。
「爆発は原子炉の構造上の欠陥やヒューマンエラーなど数多くの要因によるものだという結論に達した。
原発の職員は欠陥に気づいておらず、彼らが行った試験が爆発を招いた可能性があった」
しかし会議前、ソ連共産党は、ヴァレリー・レガソフのつくったレポートを改ざんし、ウィーンでは事故原因を「人為的ミス」と発表するよう要請。
熱心な党員でもあったヴァレリー・レガソフは仕方なく同意した。
「事故から2週間後に4号炉の制御室にいた職員たちが亡くなり始めました。
みんな自業自得だと思っていました。
しかしそこにはむごい真実がありました。
彼らは体を張って被害を食い止めようとしました。
そんな職員たちに我々上層部は隠していたのです。
制御棒や原子炉の構造に致命的な欠陥があったという事実を・・・」
(ヴァレリー・レガソフ)
事故直後から、
「事故は原子炉の構造的な欠陥が原因」
といわれていて、1991年に行われた調査でも
「事故の原因は、運転員の規則違反ではなく、設計の欠陥と責任当局の怠慢にあり、チェルノブイリのような事故はいずれ避けられないものであった」
と結論づけられた。
7月半ば、
「石棺」の最初の壁が完成。
それが放射線の遮蔽物となり、作業はかなりやりやすくなり、さらに上へと壁が重ねられていった。
現場から少し離れた場所でコンクリートを流し込む枠をつくり、原子炉建屋まで運び、組み立てられ、コンクリートを流し込まれた。
作業は24時間、急ピッチで進められ、毎日5000tのコンクリートが使われた。
また防疫施設が設けられるなど、放射線管理の体制も整えられてきた。
作業員は仕事が終わり、発電所を出ると防疫施設にいき、服や靴を脱ぎ捨て、さらに宿舎に入る前にもう1度体を洗った。
それまでは原発内にいた人間が宿舎のいたるところで放射能のチリをまき散らし、部屋の中の方が屋外より放射線量が高かった。
8月、
ウィーンのIAEA(国際原子力機関)でチェルノブイリ事故についての会議が開かれた。
ソ連は、それまでの秘密主義を覆し、400頁を超える詳細な報告書を提出。
そのオープンな態度で西側を驚かせた。
「事故原因は、運転員による規則違反の数々のたぐいまれな組み合わせ。
6つの違反の結果、原子炉が暴走をはじめ、それに気づいた運転員が制御棒一斉挿入ボタン(AZ-5)を押したが、間に合わなかった」
「急性放射線障害が現われたのは237名。
全員が発電所職員と消防士で、うち28名が放射線障害により3ヵ月以内に死亡。
その他、傷で死亡した1名、行方不明1名、放射線障害以外の病気で1名を加え、死者は31名。
周辺住民には1件の急性障害も認められなかった」
「原子炉の埋葬はもうじき終了し、1号炉、2号炉が運転再開を準備中」
などとヴァレリー・レガソフは、ソ連代表として5時間、口頭で事故の様子と原因を報告。
終始、誠実で科学者らしい姿は、国際社会を安心させ、称賛を受けた。
ヴァレリー・レガソフは一躍有名となり、ヨーロッパで「今年の人」に選ばれ、「世界の科学者トップ10」にも入った。
しかしソ連の一部は
「機密情報の暴露」
「裏切り者」
ととらえた。
以後、レガソフは理解できない悪意に苦しみ続けることになった。
ミハイル・ゴルバチョフは
「他の科学者らが推薦していない」
という理由で、チェルノブイリでの活動に対する表彰者リストからレガソフを削除。
クルチャートフ研究所(ソ連最大の原子力発電所)の所長選でも、副所長のヴァレリー・レガソフは落選。
表彰されなかったことにはあまり落胆しなかったが、被災者のため、再発防止のために積極的に動けないことに苛まれた。
何度も「チェルノブイリは人災だった」という定説を覆す事実を公表しようとしたが、そのインタビューや論文が表に出ることはなかった。
ヴァレリー・レガソフの放射線障害は進行し、だんだん食事をしなくなり、眠らなくなっていった。
9月、
地上の除染はかなり進み、石棺の建設も屋根を乗せる段階に入ったが、3号炉建屋の屋上には、まだ事故のまま4号炉の破片が散らばっていた。
放射線量は500~800レントゲン/時もあり、屋根ができる前に、それらを石棺の中に投げ入れねばならなかった。
まずロボットが投入されたが、障害物や段差がある上、強い放射線で基盤を破壊され使いものにならなかった。
そこで大量の兵士を投入し、人海戦術で除染する「バイオロボット作戦」が決まった。
まず偵察隊が放射線量の測定し、上空から写真撮影。
屋上に散らばっている破片の量は140~150tと推定された。
バイオロボットには、志願者の中から35歳以上の精神的にも肉体的にも頑健な3000人が選ばれ、建設中だった5、6号炉の屋上で、ダミーの黒鉛や燃料棒片が置かれ訓練が行われた。
9月19日、
作業開始。
被曝線量の目安は20レントゲン。
例えば現場の線量が500レントゲン/時なら、作業時間は2.4分。
20~25kgの装備をつけたバイオロボットに与えられたノルマは、1人、黒鉛なら50kg、燃料片なら10~15kg。
彼らはそれらをシャベルで4号炉に投げ降ろした。
作業の様子はテレビカメラでモニターされ、時間になるとサイレンで知らせた。
10月1日、
黒鉛123.6t、圧力チャンネル管やその破片26.1tを撤去したバイオロボットは、勝利の証にソ連国旗を掲げた。
それをみた上官は、すぐに地上から旗を撃ち落とさせた。
3号炉屋上の除染終了を受け、石棺に屋根を乗せる工事が開始。
72m、165tの鉄骨をクレーンで持ち上げ、壁の上に設置。
その上にパイプを並べ、さらに薄い鉄板を敷かれた。
政府委員会の議長であるシチェルビナ副首相は、その上にコンクリートを乗せることを要求したが、設計グループ長のクルノソフは
「強度の保証ができない」
と拒否。
9月29日、
1号炉が運転再開。
11月、
「石棺」が完成
6000tの鋼材、50万m³のコンクリート、20億ドル(2000億円)を投じた石棺は、そのの大きさでアメリカの自由の女神像を凌いだ。
11月9日、
2号炉が運転再開。
12月、
3号炉が運転を再開。
チェルノブイリ原子力発電所を統括する企業「コンビナート」がつくられ、30km圏内の処理と管理を行うことになった。
ソ連は、巨額を原発政策に注ぎ込む一方、事故被害者への補償責任を放棄し、被害者が日々直面している被爆の現実を隠し、事故の被害を極小化を図った。
一方、原子力発電所を廃止する国もあった。
オーストリアは、事故から1ヵ月後、議会で廃止を決定。
イタリアは、事故から1年後、国民投票を行い、原子力発電所の運転や建設を禁止することを決めた。
フランス、ドイツ、イギリスでも、原子力発電所の必要性や安全性に疑問や不安をもつ人が多くなり、運転や建設に反対する声が高まった。
日本でも「反原発」という言葉が使われ始めた。
1988年4月26日、
事故2周年にあたるこの日、51歳のヴァレリー・レガソフは自殺。
4月27日、
ヴァレリー・レガソフの遺体が自宅で発見。
5月20日、
ヴァレリー・レガソフの告白を、ソ連共産党機関紙 「プラウダ」が掲載。
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ヴァレリー・アレクセーゲィチ・レガソフは「プラウダ」のためにこの手記を書いた。
現代科学技術の発展、とくに原子力発電についで思いを述べてくれるようかれに依頼したのは、昨年のことだった。
当時すぐに同アカデミー会員は、自分で「回想記」と名づけたこの手記にとりかかった。
レガソフは常に時間に追われていたので、彼は自分の考えをテープに吹きこんだ。
彼の悲劇的な死の直前、我々は彼と話をする機会があった。
「残念ながらチェルノブイリについての本はまだ少ない。
あの事故のあらゆる教訓はまだ分析されつくしていない」
と彼は述べた。
我々はレガソフを、チェルノブイリの核の炎を最初に消し止めた人の1人と呼んで間違いでないと思う。
私の考えでは彼がチェルノブイリで果たした功績は、まだ正当に評価されていない。
レガソフは、ドン・キホーテであると同時にジャンヌ・ダルクでもあった。
彼は周囲の人たちにとってなかなか厄介な、気むずかしい人物だったが、しかし人々は彼がいなければ人生にとって誰か近しい人を失ったような、空虚な感じをいただいた。
レガソフがなぜ死んだのか。
彼は人生の盛りのときに自ら死を選んだ。
その理由を理解したり説明したりすることは困難である。
我々のすべてがこの悲劇を教訓としなければならないが、またそれは、何ものにもまして平安と安泰のうえにあぐらをかいている人たちにとって、教訓とならなければならないだろう。
Ⅴ・グーバレ゙フ (「プラウダ」科学部長)
注:レガソフは 1988 年 4 月27日にピストル自殺した。
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という前書きに続いて、告白文が掲載された。
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50年の人生を生きただけだというのに、回想記を書かされるなど、私には思いもよらないことだった。
けれどもあれほどの大事故が起きてしまい、真っ向から対立する利害を持ち、その事件の原因についてさまざまな異なる解釈を持つ多数の人たちが、事件のかかわりをもった。
したがってここで私に求められているのは、あのできごとついて私が知り、理解し、見たことについて語ることだろう。
1986年4月26日のことだった。
土曜日ですばらしい天気だった。
大学の研究室に行くのもやめて(土曜日は私が研究室に出る日だった)、また朝10時から予定されていた党・経営活動者会議に行くのもよしにして、妻と友人とともに、どこかへ休息に出かけたいなどと思っていた。
だが私の性格と、長年の間培った習慣からして、私は党・経営活動者会議へ出かけた。
会議が始まる前に、チェルノブイリ原発で事故が起こったことを聞いた。
それを私に告げたのは、私たちの研究所を管轄している役所の幹部だった。
彼はいまいましそうな口ぶりだったが、落ち着いて話してくれた。
会議の報告が始まった。
正直にいって、その報告は決まり文句の、もう沢山というものだった。
我々の役所では万事順調でうまくいっている、業績指標はいいし、目標も立派に遂行している、といった報告には、馴れっこになっていた。
報告は勝った戦闘の報告に似ていた。
原子力発電を褒め称え、達成された大きな成果をうたい上げた報告者は、チェルノブイリで何か事故が起こったらしいことを、そそくさと付け加えた。
(チ原発は電力電化省の管轄だった)
「チェルノブイリで何かまずいことをしでかしたようです。
事故だと言っていますが、それが原発の発展をおしとどめるようなものではありません・・・・・
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それはソ連への批判を含む事故の真相で、この告白を元にイギリスBBCはドキュメンタリー番組「Surviving Disaster: Chernobyl Nuclear Disaster」 を制作した。
(2006年1月24日放映)
1989年、
事故から3年、ゴルバチョフのペレストロイカは行き詰まり、ソ連共産党の権威は低下。
各国で情報公開や放射能汚染対策を求める運動が起こっていた。
ベラルーシでは、チェルノブイリ事故による放射能汚染地図が新聞で公開された。
それまで原発周辺だけとされていたが、飛び地のように200km以上離れたところに高汚染地域があって、より広大であることがわかった。
3ヵ月後、ベラルーシ政府は、11万人を新たに移住させることを決定。
その他の構成国も、独自の汚染対策と住民保障を行っていった。
そうした構成国の動きを受け、ソ連政府は、IAEAに事故による放射線の影響と汚染対策の妥当性の調査を依頼した。
1990年、
ジャトロフ元副技師長が釈放された。
事故後、ブリュハノフ所長、フォーミン技師長と共に責任を問われ、被爆による障害にもかかわらず10年の禁固刑を宣告され、キエフやポルタヴァ州で服役し、4年後、請願書や健康状態の悪さが考慮され釈放された。
その後、非常に苦しんだ末に放射線による心不全で1995年に亡くなったが、最後まで
「設計上の欠陥が悲劇を引き起こし、ソ連はこのことに対する責任を認めることができなかったので、欠陥のある機器に取り組まざるを得なかった人々を非難した」
と主張し続けた。
「原子炉は30を超える標準設計要件を満たしていなかった。
爆発には十分すぎるほどだ。
別の言い方をすると、プロテクトが解除される前には、原子炉は核爆弾のような状態に達していて、しかも警報信号はなかった。
スタッフはどうやってそれについて知ることができたか?
匂いや触れることによって?
スタッフの過失について話す前に、それについて考えてほしい。
原子炉はその緊急システムのせいで爆発した」
1991年、
事故から5年後、ソ連政府の要請を受けたIAEAは、住民の健康状態を調査した結果
・放射能が直接に影響したと考えられる健康被害は認められない
・汚染対策はもっと甘くてもよいが社会状況を考えると現状でやむを得ない
・今後、起こり得る住民の健康被害については、将来、ガンあるいは遺伝的影響による増加があっても、それは自然の増加と見分けることは困難
と発表。
要は、汚染地域で、いろいろな病気が増加しているのは、ラジオフォビア(放射能恐怖症)による精神的ストレスが原因とした。
ベラルーシやウクライナは、抗議したが、結局、無視されてしまった。
IAEAの報告に反して、深刻な事態が起きていた。
異変は、まず子供たちに起きた。
本来、100万人に1人か2人しかかからない小児甲状腺ガンが、事故から4年後の1990年から急増。
(事故後10年、800人、20年、4000人、25年、6000人と増加)
甲状腺は、全身の代謝をコントロールし、体や脳の発達に不可欠な甲状腺ホルモンをつくる重要な器官で、子供は甲状腺の細胞の分裂が大人に比べて活発だった。
事故によって放出された放射性物質の1つ、ヨウ素131は、体内に入ると甲状腺に蓄積しやすく、ガンを引き起こした。
その結果、甲状腺ホルモンの分泌異常が起き、成長期の子供の脳や体の発達が遅れてしまう恐れがあった。
チェルノブイリ型の甲状腺ガンは、通常のタイプに比べ進行が早く転移しやすい特徴があった。
このため発見され次第、すぐに手術を受け、その後、治療を受け続けなければならなかった。
汚染の高い地域ほど小児甲状腺ガンになる人が多く、ガンのタイプが通常のものと違うことから、原因は放射能の影響に間違いはなかった。
事故当日、プリピャチに来ていた少女は、10年後、甲状腺ガンと判明したとき、すでに肺と脳にも転移しており治療は不可能で14歳で死亡したり、プリピャチで被曝しキエフ市に避難した少女が26歳で脳腫瘍によって死亡したり、若い年齢で死亡する人が増えた。
また汚染地域に住む妊婦にも異変が起こった。
貧血が事故前に比べ10倍に増え、子宮内出血や早期破水など、主に母体の異常で死産や早産が多発。
出産した母親の母乳にセシウムやストロンチウムなどの放射性物質が含まれていることもあった。
1991年3月、
ソ連政府が元リクヴィダートルへの支援を決定。
記憶力低下、うまくしゃべられない、幻覚や幻聴、、白内障、白血病、ガン、チェルノブイリから帰任したリクヴィダートルたちから深刻な症状が多く確認されていた。
にもかかわらず彼らは何の支援も補償も受けられなかった。
「生活を奪っておきながら、病気になれば事故とは関係がないといい張る。
まさに犯罪行為だった」
と声を上げる人もいた。
一方で退役軍人として扱われ年金をもらっているためか、国に尽くしたプライドのためか、国を悪くいうことをためらう人も多かった。
リクヴィダートルは、事故時に現場にいた人に次いで被ばく量が多いといわれているが、精神や脳の障害が多いのが特徴だった。
それまで脳は人体の中で最も放射能に対して耐性があるといわれていた。
元リクヴィダートルが起こすさまざまな精神症状も、原因はストレスとされた。
しかしその定説は覆された。
精神症状のある元リクヴィダートルの患者、173人を検査した結果、程度に差異はあるものの全員の脳に異常が発見された。
脳の血液の流れが悪いだけでなく、神経細胞の働きまで低下し、脳の萎縮もみられ、死亡した事故処理員の脳を解剖すると放射性物質が蓄積されていた。
作業中に大量に吸い込んだ放射性物質が血管を通って脳に入り込み、放射線を浴びせ続け、少しずつ神経細胞を破壊していった。
脳の中心部、脳幹や視床下部が破壊されると、食欲や性欲が失われたり、強い疲労感や脱力感に見舞われたり、手足の動きをうまくコントロールができなくなり、外側の脳が破壊されると知的な作業ができなくなったり、記憶力が低下した。
ソ連保険省は、事故から2年の間に事故処理に参加した1886人について8年間追跡調査した「事故処理員の後遺症と将来予測」で
・心臓病、脳、神経、精神の障害、ガンが多発している
・ガンの発病率は一般の人の3倍
・4人に1人は労働不能の状態に陥り
・30代の人がまるで50代の人のような体になっている
・事故のあった年の処理員の100%が西暦2000年には労働不能状態に陥り、平均死亡年齢は、44.5歳になるだろう
としている。