目にみえない放射能は、未だ不透明
放射能は、宇宙初期に星の爆発によってつくられた。
地球は星のチリが集まってできたものなので、放射性物質は人類がこの地表にカビのように現れたはるか前から存在していた。
1789年、
マーチン・ クラプロートがウランを発見。
1895年、
レントゲンが、陰極線の実験で紙を透過し蛍光板を光らせる何かが発生していることを発見。
正体がわからないので「X線」と名づけた。
1896年 、
ベクレルが、ウラン鉱石からX線と同じようなものが出ていることを発見
(放射能の発見)
1898年、
キュリー夫妻が、1tのウラン鉱石から0.1gのラジウムを抽出。
ウラン鉱石の中には、ウラン以外にラジウムやポロニウムのような放射性物質が含まれていることを発見。
このように人類が放射能を発見したのは19世紀の終わり。
その正体はわからなかったが、20世紀に入ると、その力を利用し始めた。
1905年、
アインシュタインが「特殊相対性理論」で、世界で最も有名で最も美しい公式といわれる「E=mc2」を発表。
Eはエネルギー。
mは質量。
cは光の速度。
「物質が運動して光の速度に近づけば、そのエネルギーはだんだん最大に向かっていく」
「質量はエネルギーに変わり得る」
ということだが、突きつめれば
「質量には膨大なエネルギーが閉じ込められている」
ということになり、やがてこの方程式は、「原子力」という驚くべき力を暗示していることがわかった。
1912年、
ラザフォードが「原子核」を発見。
1932年、
チャドウィックが「中性子」を発見。
1934年、
ジョリオ・キュリーが人工放射性元素を合成。
1938年、
ハーン、シュトラスマン、マイトナーがウラン核分裂を発見。
1942年10月、
第2次世界大戦中、アメリカ、イギリス、カナダは、ドイツより先に原子爆弾を開発するために科学者、技術者を集め「マンハッタン計画」をスタート。
1945年7月16日、
アメリカ、ニューメキシコ州の砂漠において人類史上初の核実験「トリニティ」が行われ、成功。
8月6日、
日本の広島に原子爆弾「「Little Boy(リトルボーイ)」投下。
8月9日、
同じくの日本の長崎に原子爆弾「Fat Man(ファットマン)」が投下。
合計数十万人が犠牲となった。
第2次世界大戦終了後、
ソ連を中心とする共産・社会主義(東側)とアメリカを中心とした資本・自由主義(西側)に世界は二分され冷戦が勃発。
目には目を、核には核をと大量の核兵器を突きつけ合う事態となった。
このように46億年といわれる地球の歴史の中で、人類が放射能の存在を知って、100年程度。
まだまだ未知のシロモノだった。
原子 アトムとウラン
紀元前の哲学者:デモクリトスが
「元になっている粒子がくっつき合って、この世のすべてのものをつくり上げている」
といい、
「アトム(Atom、「これ以上分けることができない」という意味のギリシャ語)」
と名づけたように、すべての物質は「原子」という直径1/1億cmという小さな粒が集まってできている。
原子の中心には原子核があり、その大きさは、原子が甲子園球場だとすると1円玉くらいとさらにさらに小さい。
原子核の周囲は、電子、陽子、中性子が取り巻いている。
現在、確認されてる原子は118種類。
そのうち地球の自然界を構成しているのは92種類で、例えば、
水素 1個
ヘリウム 2個
炭素 6個
酸素 8個
というように原子の種類は陽子の数で決定する。
ウランは、92個の陽子を持つ自然界で最も重たい原子。
ウランは、1789年にドイツの化学者:マーチン・ クラプロートが発見し,1781年にドイツの天文学者:ウィリアム・ ハーシェルが発見した天王星(Uranus)に因んで名づけられた。
1gのウランが、石炭3t、石油2000ℓ分のエネルギーとなる原子力
例えば、水素が燃えると水素が酸素と化合し水になる。
(2H2+O2→2H2Oという化学反応)
水は蒸発すれば水蒸気になり凍れば氷になる。
二酸化炭素が凍ればドライアイス。
炭素が燃焼すると2酸化炭素が発生する。
このように原子と原子がくっついて気体、液体、固体、別の物質になることはある。
このとき原子はビクともせず、新しくできたり,別の原子に変わることはない。
この普通は「ビクともしない」原子核を分裂させてエネルギーを取り出す技術が「原子力」だった。
これは一般的な化学反応などとは本質的に違う現象で、 実際、(大昔に地下で生じた痕跡があるが、)地球上で自然に生じることはない。
科学が進み、こういう反応ができることを物理学者が気づき、核分裂の連鎖反応が人工的に実現された。
きっかけはウランだった。
化学において、物質はすべて不変な原子から構成されているという物質観が支配的で原子の変換は否定されてきた。
しかしそれはウランや放射能の発見などが契機となって、その不変性が崩されていった。
ウランは、原子核が中性子を吸収すると、2つ以上の別の原子に分裂するという性質があった。
これを「核分裂」という。
ウランが核分裂が起こすと
・中性子を放出する
・ヨウ素、キセノン、セシウム、ストロンチウムなど2つ以上の放射性物質と割れる(割れ方、何になるかは決まっていない)
・膨大な熱エネルギーが発生する
放出された中性子が、別のウラン原子核へ飛び込んで核分裂を引き起こし、さらに中性子が放出され・・・と核分裂の連鎖を引き起こし、熱エネルギーを得ることを「原子力」という。
1gのウランは、石炭3t、石油2000ℓ分のエネルギーとなる。
(石油の燃焼は、炭素(C)が燃焼し2酸化炭素(CO²)になる化学反応。
このとき熱エネルギーが生じるのは、反応の前後で質量差が生じているからで、その質量変化は1/100億程度。
一方、ウランの核分裂による質量変化は1/1000程度。
1000万倍もエネルギー転換効率が優れ、少ない資源量で多くのエネルギーを得ることができる)
放射性物質と放射線
ウランが核分裂を起こすと2つ以上の放射性物質となる。
電球が光を発するように、放射性物質は放射線を出す。
放射線は、原子核が壊れるときなどに放出される視覚では捉えられない高速の粒子や高エネルギーの電磁波で、目にみえない光線のようなもの。
・昼も夜もほぼ一定の強さで宇宙から地球に降り注ぐ放射線(宇宙線)、約0.38ミリシーベルト/年
・大地に含まれる放射性物質(ウラン、トリウム、ラジウム、カリウムなど)が絶え間なく出す放射線、年間約0.46ミリシーベルト/年
・飲食で体内に取り込まれる射線、約0.24ミリシーベルト/年
・空気中から呼吸によって受ける放射線、約1.30ミリシーベルト/年
というように場所によって差異はあるものの、地球上どこにいても自然放射線を受けている。
また
・工場での製品の検査
・病院でのX線検査、ガン治療
・農業での害虫駆除や品種改良
・研究分野での物質の検査や年代測定
・発電
・軍事
など人工放射線が様々な分野で利用されている。
放射線が体に及ぼす影響
目にみえない放射線は光の速さで進み、ほとんどの物質を通過する。
生物の細胞にぶつかると、その分子を破壊し、その際、「フリーラジカル」と呼ばれる分子のかけらが飛び散る。
フリーラジカルは強い毒性があり、これが他の分子を破壊してゆく。
生物は、一定量を超える放射線に対して防衛機能を持っておらず、短時間に多量の放射線を浴びると細胞、組織が破壊されてゆく。
放射線はDNA(遺伝子)も傷つけるため、その本人の肉体だけでなく、その子孫への遺伝的悪影響も危惧される。
DNAは、対になる2本の紐がらせん状に組み合わさった構造になっていて、どちらか一方の紐が損傷しても、もう一方が修復の設計図として機能する。
残された正常な紐をみれば欠けた部分の構造がわかるため、DNAの一部が欠けるとすぐに修復作業が行われる。
DNAの修復機能は必ずしも完璧ではなく、ミスが生じ、突然変異が起きることもある。
突然変異を起こした細胞は死んでしまう場合もあれば、そのまま増殖を続けることもある。
ちなみに「ゴジラ」は、放射能を浴びて突然変異したという設定である。
原爆と原発
原子力発電と原子爆弾は、共に核分裂で発生する熱エネルギーを利用するが、その仕組みは根本的に異なる。
原爆は、核分裂の連鎖を速く大きく行い、爆発的にエネルギーを放出させる。
そのため複数の中性子を発生させ、短時間で核分裂連鎖を増倍させる。
一方、原子力発電は、ウランを核分裂させ発生する熱で水を沸騰させ発電機を回し電気をつくる。
一定規模の核分裂反応を継続させることが重要で、急激に核分裂数が増加することはない。
しかし
・広島に落とされた「「Little Boy(リトルボーイ)」は、64.15kg のウランを搭載し反応を起こしたのは約910g
・長崎に落とされた「Fat Man(ファットマン)」は、6.2 kgのプルトニウムを搭載し反応を起こしたのは約1140g
と約1kgのウランやプルトニウムが甚大な被害を引き起こした。
それに対し、100万kwの原発では1日に約3kg、年間、約1tのウランが核分裂を起こしている。
核分裂の制御や冷却に失敗すれば大惨事になる可能性を秘めていた。
原発先進国、ソ連 RBMK原子炉
冷戦中、東西は互いに「仮想敵国」に勝つために力の拡大を続けた。
ソ連は、モスクワのソ連共産党による一党制で、ユーラシア大陸の複数の国により連邦共和国を形成し、約2240万km²という国土を誇る超大国だった。
(アメリカは963万km²、日本は23万km²)
・世界初の(原爆の数倍の破壊力を持つ)水素爆弾実験
・世界初の人工衛星「スプートニク1号」
・世界初の宇宙飛行士:ユーリイ・ガガーリン
と兵器開発と宇宙開発の競争でアメリカの先をいき、科学力を見せつけたこともあった。
世界初の原子力発電所もソ連だった。
1954年、モスクワの南西約100kmに世界最初の原子力発電所、オブニンスク原発が建造された。
それは原爆用プルトニウム製造の技術を転用したRBMK型と呼ばれる原子炉だった。
日本などで用いられているPWRやBWRといった原子炉(軽水炉)が、高さ4mくらいなのに対し、高さ7m、1700tの黒鉛ブロックを直径12mの円筒状に積み上げたRBMK型原子炉はかなり大きかった。
黒鉛(グラファイト)は、鉛筆の芯、自動車のブレーキパッド、新幹線のパンタグラフなどでも使われ、安価で、潤滑性、電導性、耐熱性、耐酸性、耐アルカリ性に優れ、優秀な減速材(核分裂時に放出される中性子の速度を下げる)でもあった。
巨大な黒鉛ブロックの中には、1661本の垂直孔(チャンネル)が空いていて、そこに圧力管が挿入される(圧力管チャンネル)
圧力管には、燃料棒集合体が1体が入っている。
燃料棒集合体とは
・ウラン粉末を直径1cm×高さ1cm×1cmの円筒形に焼き固めたのが「ペレット」
・ペレットをたくさん詰めた4mほどの金属管が「燃料棒」
・18本の燃料棒を束ねたのが「燃料棒集合体」
ウランの核分裂によって生じる放射性物質のほとんどは、ペレットや燃料棒内部に閉じ込められる。
圧力管チャンネルに冷却水が入り、燃料を燃やし(核分裂させ)蒸気を発生させ、タービン(かんたんにいうと扇風機のハネ)を回転させて発電する。
原子炉の中では、核分裂によって中性子が大量に生じ、それが次から次に原子核に吸い込まれ、さらに核分裂が生まれ、連鎖反応が継続される。
中性子の数が多ければ核分裂の規模は大きくなり、中性子の数を減らせば小さくなる。
巨大な黒鉛ブロックの中には、211本の制御棒チャンネルと少数の計装用チャンネルもあって、核分裂をコントロールする。
制御棒には、中性子を非常によく吸収するホウ素が含まれていて、それを原子炉の中に深く挿入すれば原子炉の中の中性子は制御棒に吸い取られ、核分裂は減り、抜くと再び核分裂連鎖反応が増える。
RBMK型は、軽水炉に比べ、安価で大出力を得ることができた。
その反面、安全性では劣っていた。
冷却水には、
・蒸発してタービンを回す
・燃料棒を冷却する
・中性子を吸収し核分裂を安定させる
という役割があった。
水を減速材、冷却材として使う軽水炉では、核分裂が増え、蒸気が増え、冷却水が減ると、燃料は燃えにくく(核分裂しにくく)なるという「自己制御性」があった。
本来、原子炉は、このように出力がプラスになると、それに伴いマイナスの反応も増すように設計されるのが望ましい。
しかし中性子の減速を主に黒鉛で行うRBMK型では、温度が上昇し、蒸気が増え冷却水が減ると、核分裂は促進され、さらに燃料棒の温度が上がり蒸気が増え冷却水が減り・・・というプラスの連鎖が起きて暴走してしまう可能性があった。
設計者は、これを補償するため、常に原子炉内に常に何本かの制御棒を挿入しておくことを求めた。
事故発生
1986年、
ソ連では15基のRBMK型原子炉が稼動していて、チェルノブイリ原子力発電所には、その内の4基があり、さらに2基を新設中という世界最大級の規模を誇る発電所だった。
4月25日(AM)1時、
4号炉(電気出力100万kW、熱出力320kW)は、点検修理のため、1983年12月の運転開始以来、初めて停止作業に入った。
この停止に際して、いくつかのテストが行われる予定だった。
その1つが、停電時、非常用発電機が立ち上がるまでの数十秒間、タービンの慣性回転を利用し発電し、それを電源にしてポンプを回すというテストだった。
14時、
予定に従って制御棒を徐々に挿入し停止作業が進み、定格の半分(160万kW)まで降下していたが、キエフ(ウクライナの首都)の司令所から給電要請が入ったため運転継続。
23時、
キエフからの依頼を終え、出力降下作業を再開。
約10時間、160万kWという低出力を維持したため、原子炉内にはキセノン135が蓄積した。
通常運転であれば、中性子を吸収して直ちにキセノン136となるキセノン135は、中性子を吸収する作用を持ち、核分裂を抑制し、運転制御を困難にしてしまう物質だった。
4月26日0時、
運転班が交代。
予定は大幅に遅れ、この運転班は、本来、原子炉停止後の冷却を行う予定だった。
このとき1~4号炉には、176人の運転員、少し離れたところで建設中の5、6号炉には、268人の作業員がいた。
4号炉の制御室には、14人がいた。
テスト責任者は、ジャトロフ副技師長。
アキーモフ班長(33歳)とトプトゥーノフ技師(25歳)が原子炉を運転した。
0時30分、
熱出力70kW のところで電源テストが行われる予定だったが、出力コントロールに失敗し、原子炉の出力は0~3万kWまで低下。
(キノセン135の影響と思われる)
ジャトロフ副技師長の指示で、運転員は、(おそらくその危険性を知らずに)ほぼすべての制御棒を引き抜き、出力回復に努めた。
制御棒が完全に引き抜くと、その下には黒鉛の棒がブラ下っていて、さらにその下の原子炉の中には、直径11.4cm、高さ1.25mほどの水柱ができていた。
(この制御棒の下にブラ下がる黒鉛棒も、構造的な欠陥といわれ、事故の大きな原因とされている)
1時、
その結果、出力は20万kWまで回復。
このとき原子炉内は、核分裂反応が急上昇している危険な状態だった。
1時23分4秒、
テスト開始。
タービンへの蒸気弁を閉鎖。
タービンの慣性回転で発電されたテスト電源に接続されたポンプは、流量を若干低下させたが、炉は安定していて、警報など運転員の操作を促す兆候は何もなかった。
1時23分39秒、
タービンの回転速度減少に伴い、ポンプの流量も減少。
少なくなった冷却水は大量の蒸気となり、燃料棒はますます温度を上げた。
タービンの回転数が予定の毎分2500回転に下回ったところで、運転員は
「原子炉停止」
といい、AZ-5ボタン(事故防御第5ボタン)を押した。
運転マニュアルには
「出力5%(16万kW)以下のときは、低出力自動制御系かAZ-5ボタンで停止させる」
とあり、AZ-5ボタンが押されると、ホウ素が含む制御棒が一斉に挿入され、マイナスの反応が加わり原子炉は停止するはずだった。
しかしすべての制御棒が引き抜かれ、出力が急上昇した状態の原子炉に、すべての制御棒が一気に入れられたことで
(中性子を吸収していた冷却水からほとんど中性子を吸収しない黒鉛棒に替わったことで)
大きな反応が起こった。
こうしてAZ-5ボタンを押したことにより止まるはずの原子炉は逆に暴走を起こした。
1時23分41秒、
「出力上昇率高」と「出力高」の警報。
予期せぬ出力上昇に気づいた運転員は、2度目のAZ-5ボタンを押した。
1時23分44秒、
核分裂は止まらず出力は定格の100倍に達し、爆発が起こった。
1時23分49秒、
2度目の爆発。
原子炉が空中に浮くほど大きな爆発で、建屋も崩壊。
250tの屋根は、建屋から8m離れたところへ落下。
140tの構造物、黒鉛ブロック、核燃料は飛散し、あちこちで火災が発生。
1.5km飛ばされたコンクリートブロックもあった。
外にいた目撃者によると、2度の爆発と共に花火のような火柱が夜空に吹き上がったという。
爆発で原子炉そのものと、クレーンがある原子炉中央ホールは壊滅したが、離れた場所にある制御室では、爆発の衝撃と警報で緊急事態が発生したことはわかったものの、何が起こったかは把握できなかった。
制御棒の位置を示す計器は、挿入の途中で止まってしまっていることを示し、運転日誌には
「1時24 分、強い爆発、制御棒は原子炉の下端まで達せずに停止」
と記されていた。
彼らがまず考えたのは、とにかく原子炉を守ることで、そのために制御棒を完全に挿入し、冷却水を送り冷却することだった。
プロスクリャコフ(30歳)とクドリャフツェフ(28歳)、2人の運転技師補は、現場でハンドルを回して制御棒を挿入するために原子炉中央ホールへいった。
そして崩れた建屋と噴火口のように燃え上がる原子炉をみた。
その数分で致死量の放射線を浴びた。
2人は制御室へ戻り、原子炉が吹き飛び、パイプが破損し周囲が水浸しであることを報告。
しかしジャトロフ副技師長は、原子炉が破壊されたことを認めたくないのか
「緊急用水タンクが爆発したのであって、原子炉そのものは無事」
といい張った。
運転していたアキーモフ班長(33歳)とトプトゥーノフ技師(25歳)は、現場に給水バルブを開きにいったことが死につながった。
アキーモフ班長、トプトゥーノフ技師、プロスクリャコフ運転技師補、クドリャフツェフ運転技師補は、後にモスクワの病院で死亡。
AZ-5ボタンを押したのはアキーモフ班長だといわれ、足の皮膚が靴下のように剥がれるほどの放射線を浴びた上、多くの人からの非難も浴び、つらい思いをした。
彼は最期まで
「私は指示の通りすべての操作を正しく行った。
何も間違ってはいなかったはずなのに」
と訴え続けた。
事故後、生き延びたジャトロフ副技師長も
「AZ-5を押したのは電源テストが終了し原子炉を停止するためだった。
AZ-5 ボタンを押すまで何も異常を示すものはなく平穏そのものであった。
出力増などの警報が出たのはボタンを押して3秒後のことである。
反応度操作余裕が低下していたことも運転員が非難されるいわれはない。
それを直接示す計器はなかった」
と主張した。
原子炉近くのポンプ室でポンプをみていた原子炉機械係のホデムチゥク(34歳)は行方不明のまま、数ヵ月後、完成する「石棺」に埋葬された。
原子炉下の配管室で計器をみていたシャシェーノク(44歳)は、大ヤケドを負いながら救出されたが、数時間後、死亡。
原子炉係のクルグーズ(27歳)とゲンリフは、原子炉中央ホール脇の小部屋で休憩していた。
クルグーズは、約1ヵ月後、死亡。
ゲンリフは、600レントゲンもの放射線を浴びながらも生き延びた。
もう1人の機械係、デグチャレンコ(31才)は死亡。
機械係の班長、ペレボズチェンコ(38歳)も、部下たちを救出するため崩壊現場で活動し、命を落とした。
4号炉の隣のタービン建屋では火災が起こった。
屋根を貫いて落ちてきた破片や燃料棒が転がる中で、消火活動や発電機から燃料を抜く作業が行われた。
タービン係からは、ペルチゥク(33歳)、ヴェルシーニン(26歳)、ブラジニク(28歳)、ノビク(24歳)、電気係からは、レレチェンコ(47歳)、バラーノフ(32歳)、ロパチューク(25歳)、シャポバロフ(45歳)、コノヴァル(43歳)が犠牲となった。
中でも電気係次長のレレチェンコは、積極的に危険な場所へ赴き、急性症状のため一旦医務室へ引き上げたが、応急処置を受けた後、再び現場に戻り、事故の拡大を防いだ。
発電所備えつけの放射線線量計は、最大目盛りが1000マイクロレントゲン/秒(3.6レントゲン/h)で、至るところで振り切れていたが、
「せいぜい5レントゲン/h程度だろう」
となった。
仮に被曝線量の限度を25レントゲンとすると5時間作業可能ということになる。
人体は自然放射線によって年間0.1レントゲンほど被曝しているが、短時間に多量の放射線を浴びると異常を起こす。
被曝線量が100レントゲンを超えると、吐き気、おう吐が始まり、400レントゲンでは、骨髄の造血機能が破壊され、数週間から2ヵ月くらいで約半数が死に、600レントゲンでは、ほとんどの人が死亡するといわれている。
これら急性の放射線障害に加え、被曝して数年後、数十年後、ガン、白血病、脳障害、遺伝障害などが起こる晩発性放射線障害の恐れもあった。
1時28分、
爆発から5分後、発電所の消防隊が現場に到着。
原子炉から炎と黒煙が上がり、隣のタービン建屋や3号炉の屋根でも火災が発生していた。
消防隊長:プラヴィーク中尉(24歳)は
「まず延焼を防ぐべき」
と判断。
タービン建屋屋上の消火を開始。
1時33分、
爆発から5分後、発電所消防隊から5分遅れ、キベノーク中尉を隊長とするプリピャチ市の消防隊が到着。
原子炉建屋中央ホールの消火に着手。
放射能を恐れて消火活動を拒否する者は1人もいなかったが、途中から気分が悪くなりおう吐する者が続出。
放射線によって目の色が茶から青に変色した者もいた。
この2隊から17名が病院へ運ばれ、6人が死亡。
そのうち5人はキベノーク隊の隊員で、彼らは後から到着し被爆時間は短かったが、4号炉に近く、被爆強度が高かったためと考えられる。
もう1人は、タービン建屋の火災を鎮火させた後、キベノーク隊の応援に入ったプラヴィーク中尉だった。
救急隊も燃える炉の中から数十人もの人を助け出した。
この夜、総員186人、車両81台の消防隊が出動。
(被爆した車両は2度と使われることはなかった)
彼らの活躍で火災は夜明けまでに消された。
しかし原子炉そのものは燃え続けていた。
2時30分、
爆発の7分後、ブリュハノフ所長が発電所内の緊急シェルターに到着。
「重大な放射線事故が発生したが原子炉は無事だと思うし、火事も消防隊が消しつつあり、原子炉への給水作業も進みつつある」
と報告を受けた。
3時、モスクワのソ連共産党中央委員会原子力発電部長:マリインの自宅に電話し
「事故が起こったが原子炉は無事」
と報告すると
「とにかく原子炉への給水を続けるように」
と指示を受けた。
その頃、現場では原発防衛隊が到着。
ソロビョフ隊長が持っていた線量計は250レントゲン/時まで測れるものだったが、至るところで振り切れた。
ソロビョフ隊長は、それをブリュハノフ所長に報告したが、
「ソロビョフのは故障している」
と取り合わなかった。
4時30分、
フォーミン技師長が緊急シェルターに到着。
ブリュハノフ所長同様、原子炉そのものが破壊したことを受け入れようとしなかった。
シトニコフ副技師長(45歳)は、ブリュハノフ所長とフォーミン技師長の指令を受け、事故現場の状況を確かめるため中央ホールなどをみてまわったことが死につながった。
彼は、原子炉は破壊されたと報告したが、所長らはそれを無視し、炉心への給水作業を続けさせた。
チェルノブイリ市から出張し制御室で電源テストに立ち会っていたパラマルチゥクは、運転員らと一緒に負傷者の救出に当たった。
ハリコフ市から出張していたタービン技術者のポポフも、タービン係と一緒に消火を行い、犠牲となった。
さらに原子炉建屋の外にいた女性警備員、ルズガーノフとイワニェンコも死亡。
事故当日、約300人が病院に収容され、約240人が急性放射線障害と診断され、その中には5、6号炉の建設作業員、釣り人(チェルノブイリ原子力発電所は、ドニエプル川沿いの人工湖畔にあった)も含まれていた。
事故当日に亡くなったのは31名(放射線障害28人、行方不明1人、火傷1人、病気1人)だった。
医師たちは全力を尽くし、自ら輸血に参加した医師もいた。
5時、
事故から3時間半後、ウクライナの反応は早かった。
ウクライナは、ソ連(ソビエト連邦)に所属する一国で、チェルノブイリ原発は、その国土の北端にあり、首都のキエフ市は、その近くにあった。
内務省次官:ヴェルドフ少将は現場を確認すると、すぐに1000人以上の治安警察隊で周辺の道路を封鎖。
住民を避難させるためのバスをキエフ市に集めた。
7時、
原発から北西に3kmのプリピャチ市は、人口5万人の大半がチェルノブイリ原子力発電所の従業員とその家族で、独身者や子供も多く、平均年齢は26歳と若かった。
市章に原子モデルをあしらい、エレベーター完備の集合住宅、学校、病院、文化会館、室内プール、公園、スタジアム、遊園地などがある近代的な街だった。
一部の住民は発電所で事故が起きたことを把握していて、窓を閉め切ったり、外出を控えたり、自主的に避難する人もいた。
街から煙を上げる4号炉が目視でき、病院はいっぱいで、警官の数も普段より多かったが、多くの市民は、普段通り土曜日を過ごし、子供たちは(屋外活動が中止された)学校にいき、店は買い物客で賑わい、ホールでは結婚式が行われ、乳母車を押す母親や外で遊ぶ子ども多くいた。
空は晴れ渡り、アパートの屋上で4号炉を眺めながら日光浴をした人もいたが、普段よりよく焼けたという。
しかし一帯はすでに汚染されていた。
事故当日のプリピャチを撮った映像をみると、ときどき画面上の一部が白く光っていた。
強烈な放射線にフィルムが感光したためだった。
建物にも地面にも人にも放射性物質が付着していた。
9時、
ソ連政府が専門家に招集をかけた。
ソ連軍化学部隊のピカロフ大将も、参謀総長アフロメーエフ元帥から緊急指令を受け、隊員と共に、ウクライナのハリコフ州の森の外れにある演習場から出発した。
彼らは通常訓練に加え、核兵器・化学兵器・生物兵器に備え訓練を積んでいた。
16時、
政府関係者と政府に集められた専門家たちが、モスクワ市内にあるヴヌーコヴォ国際空港国際空港を飛び立った。
彼らは、ソ連の政府委員会となった。
議長は、ソ連副首相:シチェルビナ。
メンバーは、電力電化大臣:マイオレーツ、保健省次官:ウォロビョフ、原子力産業省次官:シャシャーリン次官、原子力発電部長:マリイン、クルチャトフ原子力研究所副所長:レガソフなどだった。
1時間後、キエフに着くと空港にはウクライナの政治家が待っていて、黒塗りの公用車に乗り込み、事故現場へと向かった。
18時、
政府委員会が、プリビャチに入ると、プリビャチの党幹部に出迎えられ、中央広場の横のあった市議会の建物に入り
「第4発電所で規定を外れたタービンの慣性回転実験が行なわれ、その過程で2回の爆発が起こり、原子炉建屋が破壊されました。
数百人が放射線を浴び、2名が死亡しました。
他に市内の病院に収容されている者もいます。、
第4ブロックの放射線の状態は相当やっかいなようですが、プリビヤチ市内は、平常のレベルを大幅に上回っていますが、住民に大きな危険をもたらすまでにはいたっていません」
という報告を受けた。
数km手前からみえる原発は設備やパイプが非常に整っていて、何も放出していないようにみえた。
20時、政府委員会が事故現場に到着。
事発電所幹部とエネルギー省の幹部が出迎え、1号炉、2号炉、3号炉の運転員は勇敢にも職場を離れておらず、4号炉の中にさえ、さまざまな任務を遂行している人間がいた。
深夜1時半に事故が発生し消火作業が開始されて以来、まだ4号炉に向かって放水が続けられていて周辺は水浸しになっっていた。
政府委員会は、直ちに1~3号炉の運転停止と冷却を命じた。
そしてピカロフ大将率いる化学部隊と空軍のヘリコプター部隊が呼ばれ、4号炉を空から観測。
原子炉が完全に破壊され、原子炉室を覆っていた蓋は吹き飛ばされ、隅の方でほぼ垂直に突っ立ち、原子炉上部は完全に壊れ、断片となったり、原型をとどめたままの黒鉛ブロックが転がっていて、黒鉛の燃焼による煙が、原子炉の上にあいた穴から、数百m上空まで絶え間なく煙が立ち上っていた。
原子炉の炉心内部には、白く光るいくつかの大きな斑点がみえた。
空中視察の結果、2つの重要なことがわかった。
1.強力な放射性物質が測定され原子炉、またはその一部が働いている、つまり核分裂反応が続いている
2.4号炉の開口部から、放射性微粒子の強い流れが放出されている
黒鉛が燃焼して生じる粒子が、かなり多くの放射能を運び出す。
黒鉛の燃焼速度は通常、1時間でおよそ1t。
4号炉には2500tの黒鉛が積んであったので、240時間、燃え続け、放射能が広い地域に拡散し、強度に汚染されることになる。
政府委員会は会議を開き、まず原子炉は無事だというブリュハノフ所長ら発電所幹部の報告は偽りで、事態は極めて深刻なものであることを認めた。
そしてその後、精力的な会議が行われ、まずすべきことは
・住民の避難
・燃え続ける原子炉の火災をどうやって消すか
とした。
23時、
28名の重傷患者が、バスでプリピャチ市を出発し、キエフ空港から特別機でモスクワへ向かった。
(モスクワ第6病院は、13名に骨髄移植を行うなど努力したが、全員が2~3週間後に亡くなった)
同じ頃、
「放射線の状況はよい方向へ変化しないことが予想され、避難が必要である」
という医療と科学の専門家の強い主張を聞いて、シチェルビナ議長は、翌日にプリピャチ市の住民を強制避難させることを決定。
その後の過程で、政府委員会は、現場の人間とも会議を行った。
彼らから意見を聞くと共に、いついかなるときにどんな任務も応じられる用意をしておくことを求めた。
あらかじめ書かれた指示書も参考文献もなしに、状況を判断し、仕事の計画を立て組織化することができたのは政府委員会だけだった。
事故処理は長期で巨大なものだったため、彼らの責任と権限も非常に大きくなっていった。
原子炉の消火については、大議論の末、ヘリコプターで上空から、砂を投下することになった。
ヘリコプターから砂を投下することを提案したのは、ヴァレリー・レガソフだった。
「原子炉が燃え尽きるまで待つべき」
という意見も出たが
「2500tの黒鉛が燃え尽きるまで3ヵ月かかり、1日にまき散らされる放射能は、過去のすべての原発事故で放出された量を上回るのです。
今、止めなければ、放射能は世界に拡散する」
と猛反対。
事故翌日、核分裂反応が続いているかどうか確認するため装甲車で4号炉の原子炉近くまでいったヴァレリー・レガソフは、絶えずモスクワにいるA・アレクサンドロフ(クルチャートフ原子力研究所所長)、原子力研究所の同僚たち、エネルギー省の専門家たちと連絡をとりながら進めていった。
事故翌日には、早くも諸外国から、さまざまな黒鉛火災を鎮火させる方法が、電報で提案されてきて、それらを検討した結果、温度の安定剤として2つの物質、鉛とドロマイトも投下物に選ばれた。
また研究室が設置し、ヴァレリー・レガソフはピカロフ大将の化学部隊、原発職員、専門家らと綿密に放射線の測定と管理を実施。
放射性物質の組成、その活動分布の特徴を調べ、それに基づいて対策が決められた。
しかし空気の動きの変化に伴い、4号炉の燃焼とそれに伴う物質の放出も移り変わった。
チェルノブイリ原発には、周辺数km範囲の放射線レベルを自動的に測定記録する装置がなく、測定データを得るために、多くの人を組織しなければならなかったが、放射能防護マスク、個人用線量計は必要なだけそろっていなかった。
放射線測定器を積んだ無人飛行機もなく、相当数の飛行士も必要だった。
「準備不足、無秩序、恐怖。
1941年の(ドイツのモスクワ侵攻)ようだったが、なお酷かった」
という現場で、ヴァレリー・レガソフは線量計に注意を払わないこともしばしば
「滞在は最大2週間」
とされた現場で4ヵ月間休みなく働き続けた。
すぐに放射線ヤケド、脱毛、やがて咳、睡眠障害も起こり始めた。
「自分が何をしているか、自分がどれくらいの放射線に晒されているか、よく理解していた」
ヴァレリー・レガソフは、事故処理の責任者として過酷な仕事に負けず,ソ連体制側の学者でありながら国のずさんさを鋭く批判する良心と勇気を持つ人だった。