Chernobyl 1986 チェルノブイリ原発事故 みえない放射能 英雄の戦い  国の理論

Chernobyl 1986 チェルノブイリ原発事故 みえない放射能 英雄の戦い 国の理論

1986年4月26日の早朝、ソ連(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原発4号機が爆発。人類史上最悪の放射能汚染が引き起こされた。そして25年後、東京電力福島第一原発で事故が発生。事故原因は異なるものの、事故直後、体を張った現場の人たち、被害者への補償が不十分なまま再稼動させようとする原発産業と政府という構図は重なってみえる。


目にみえない放射能は、未だ不透明

放射能は、宇宙初期に星の爆発によってつくられた。
地球は星のチリが集まってできたものなので、放射性物質は人類がこの地表にカビのように現れたはるか前から存在していた。

1789年、
マーチン・ クラプロートがウランを発見。
1895年、
レントゲンが、陰極線の実験で紙を透過し蛍光板を光らせる何かが発生していることを発見。
正体がわからないので「X線」と名づけた。
1896年 、
ベクレルが、ウラン鉱石からX線と同じようなものが出ていることを発見
(放射能の発見)
1898年、
キュリー夫妻が、1tのウラン鉱石から0.1gのラジウムを抽出。
ウラン鉱石の中には、ウラン以外にラジウムやポロニウムのような放射性物質が含まれていることを発見。

このように人類が放射能を発見したのは19世紀の終わり。
その正体はわからなかったが、20世紀に入ると、その力を利用し始めた。

1905年、
アインシュタインが「特殊相対性理論」で、世界で最も有名で最も美しい公式といわれる「E=mc2」を発表。

Eはエネルギー。
mは質量。
cは光の速度。
「物質が運動して光の速度に近づけば、そのエネルギーはだんだん最大に向かっていく」
「質量はエネルギーに変わり得る」
ということだが、突きつめれば
「質量には膨大なエネルギーが閉じ込められている」
ということになり、やがてこの方程式は、「原子力」という驚くべき力を暗示していることがわかった。

1912年、
ラザフォードが「原子核」を発見。
1932年、
チャドウィックが「中性子」を発見。
1934年、
ジョリオ・キュリーが人工放射性元素を合成。
1938年、
ハーン、シュトラスマン、マイトナーがウラン核分裂を発見。

1942年10月、
第2次世界大戦中、アメリカ、イギリス、カナダは、ドイツより先に原子爆弾を開発するために科学者、技術者を集め「マンハッタン計画」をスタート。
1945年7月16日、
アメリカ、ニューメキシコ州の砂漠において人類史上初の核実験「トリニティ」が行われ、成功。
8月6日、
日本の広島に原子爆弾「「Little Boy(リトルボーイ)」投下。
8月9日、
同じくの日本の長崎に原子爆弾「Fat Man(ファットマン)」が投下。
合計数十万人が犠牲となった。
第2次世界大戦終了後、
ソ連を中心とする共産・社会主義(東側)とアメリカを中心とした資本・自由主義(西側)に世界は二分され冷戦が勃発。
目には目を、核には核をと大量の核兵器を突きつけ合う事態となった。

このように46億年といわれる地球の歴史の中で、人類が放射能の存在を知って、100年程度。
まだまだ未知のシロモノだった。

原子 アトムとウラン

紀元前の哲学者:デモクリトスが
「元になっている粒子がくっつき合って、この世のすべてのものをつくり上げている」
といい、
「アトム(Atom、「これ以上分けることができない」という意味のギリシャ語)」
と名づけたように、すべての物質は「原子」という直径1/1億cmという小さな粒が集まってできている。
原子の中心には原子核があり、その大きさは、原子が甲子園球場だとすると1円玉くらいとさらにさらに小さい。
原子核の周囲は、電子、陽子、中性子が取り巻いている。
現在、確認されてる原子は118種類。
そのうち地球の自然界を構成しているのは92種類で、例えば、

水素 1個
ヘリウム 2個
炭素 6個
酸素 8個

というように原子の種類は陽子の数で決定する。
ウランは、92個の陽子を持つ自然界で最も重たい原子。
ウランは、1789年にドイツの化学者:マーチン・ クラプロートが発見し,1781年にドイツの天文学者:ウィリアム・ ハーシェルが発見した天王星(Uranus)に因んで名づけられた。

1gのウランが、石炭3t、石油2000ℓ分のエネルギーとなる原子力


例えば、水素が燃えると水素が酸素と化合し水になる。
(2H2+O2→2H2Oという化学反応)
水は蒸発すれば水蒸気になり凍れば氷になる。
二酸化炭素が凍ればドライアイス。
炭素が燃焼すると2酸化炭素が発生する。
このように原子と原子がくっついて気体、液体、固体、別の物質になることはある。
このとき原子はビクともせず、新しくできたり,別の原子に変わることはない。
この普通は「ビクともしない」原子核を分裂させてエネルギーを取り出す技術が「原子力」だった。
これは一般的な化学反応などとは本質的に違う現象で、 実際、(大昔に地下で生じた痕跡があるが、)地球上で自然に生じることはない。
科学が進み、こういう反応ができることを物理学者が気づき、核分裂の連鎖反応が人工的に実現された。
きっかけはウランだった。
化学において、物質はすべて不変な原子から構成されているという物質観が支配的で原子の変換は否定されてきた。
しかしそれはウランや放射能の発見などが契機となって、その不変性が崩されていった。
ウランは、原子核が中性子を吸収すると、2つ以上の別の原子に分裂するという性質があった。
これを「核分裂」という。
ウランが核分裂が起こすと

・中性子を放出する
・ヨウ素、キセノン、セシウム、ストロンチウムなど2つ以上の放射性物質と割れる(割れ方、何になるかは決まっていない)
・膨大な熱エネルギーが発生する

放出された中性子が、別のウラン原子核へ飛び込んで核分裂を引き起こし、さらに中性子が放出され・・・と核分裂の連鎖を引き起こし、熱エネルギーを得ることを「原子力」という。
1gのウランは、石炭3t、石油2000ℓ分のエネルギーとなる。
(石油の燃焼は、炭素(C)が燃焼し2酸化炭素(CO²)になる化学反応。
このとき熱エネルギーが生じるのは、反応の前後で質量差が生じているからで、その質量変化は1/100億程度。
一方、ウランの核分裂による質量変化は1/1000程度。
1000万倍もエネルギー転換効率が優れ、少ない資源量で多くのエネルギーを得ることができる)

放射性物質と放射線

ウランが核分裂を起こすと2つ以上の放射性物質となる。
電球が光を発するように、放射性物質は放射線を出す。
放射線は、原子核が壊れるときなどに放出される視覚では捉えられない高速の粒子や高エネルギーの電磁波で、目にみえない光線のようなもの。

・昼も夜もほぼ一定の強さで宇宙から地球に降り注ぐ放射線(宇宙線)、約0.38ミリシーベルト/年
・大地に含まれる放射性物質(ウラン、トリウム、ラジウム、カリウムなど)が絶え間なく出す放射線、年間約0.46ミリシーベルト/年
・飲食で体内に取り込まれる射線、約0.24ミリシーベルト/年
・空気中から呼吸によって受ける放射線、約1.30ミリシーベルト/年

というように場所によって差異はあるものの、地球上どこにいても自然放射線を受けている。
また

・工場での製品の検査
・病院でのX線検査、ガン治療
・農業での害虫駆除や品種改良
・研究分野での物質の検査や年代測定
・発電
・軍事

など人工放射線が様々な分野で利用されている。

放射線が体に及ぼす影響

目にみえない放射線は光の速さで進み、ほとんどの物質を通過する。
生物の細胞にぶつかると、その分子を破壊し、その際、「フリーラジカル」と呼ばれる分子のかけらが飛び散る。
フリーラジカルは強い毒性があり、これが他の分子を破壊してゆく。
生物は、一定量を超える放射線に対して防衛機能を持っておらず、短時間に多量の放射線を浴びると細胞、組織が破壊されてゆく。
放射線はDNA(遺伝子)も傷つけるため、その本人の肉体だけでなく、その子孫への遺伝的悪影響も危惧される。
DNAは、対になる2本の紐がらせん状に組み合わさった構造になっていて、どちらか一方の紐が損傷しても、もう一方が修復の設計図として機能する。
残された正常な紐をみれば欠けた部分の構造がわかるため、DNAの一部が欠けるとすぐに修復作業が行われる。
DNAの修復機能は必ずしも完璧ではなく、ミスが生じ、突然変異が起きることもある。
突然変異を起こした細胞は死んでしまう場合もあれば、そのまま増殖を続けることもある。
ちなみに「ゴジラ」は、放射能を浴びて突然変異したという設定である。

原爆と原発

原子力発電と原子爆弾は、共に核分裂で発生する熱エネルギーを利用するが、その仕組みは根本的に異なる。
原爆は、核分裂の連鎖を速く大きく行い、爆発的にエネルギーを放出させる。
そのため複数の中性子を発生させ、短時間で核分裂連鎖を増倍させる。
一方、原子力発電は、ウランを核分裂させ発生する熱で水を沸騰させ発電機を回し電気をつくる。
一定規模の核分裂反応を継続させることが重要で、急激に核分裂数が増加することはない。
しかし

・広島に落とされた「「Little Boy(リトルボーイ)」は、64.15kg のウランを搭載し反応を起こしたのは約910g
・長崎に落とされた「Fat Man(ファットマン)」は、6.2 kgのプルトニウムを搭載し反応を起こしたのは約1140g

と約1kgのウランやプルトニウムが甚大な被害を引き起こした。
それに対し、100万kwの原発では1日に約3kg、年間、約1tのウランが核分裂を起こしている。
核分裂の制御や冷却に失敗すれば大惨事になる可能性を秘めていた。

原発先進国、ソ連 RBMK原子炉

冷戦中、東西は互いに「仮想敵国」に勝つために力の拡大を続けた。
ソ連は、モスクワのソ連共産党による一党制で、ユーラシア大陸の複数の国により連邦共和国を形成し、約2240万km²という国土を誇る超大国だった。
(アメリカは963万km²、日本は23万km²)

・世界初の(原爆の数倍の破壊力を持つ)水素爆弾実験
・世界初の人工衛星「スプートニク1号」
・世界初の宇宙飛行士:ユーリイ・ガガーリン

と兵器開発と宇宙開発の競争でアメリカの先をいき、科学力を見せつけたこともあった。

世界初の原子力発電所もソ連だった。
1954年、モスクワの南西約100kmに世界最初の原子力発電所、オブニンスク原発が建造された。
それは原爆用プルトニウム製造の技術を転用したRBMK型と呼ばれる原子炉だった。
日本などで用いられているPWRやBWRといった原子炉(軽水炉)が、高さ4mくらいなのに対し、高さ7m、1700tの黒鉛ブロックを直径12mの円筒状に積み上げたRBMK型原子炉はかなり大きかった。
黒鉛(グラファイト)は、鉛筆の芯、自動車のブレーキパッド、新幹線のパンタグラフなどでも使われ、安価で、潤滑性、電導性、耐熱性、耐酸性、耐アルカリ性に優れ、優秀な減速材(核分裂時に放出される中性子の速度を下げる)でもあった。
巨大な黒鉛ブロックの中には、1661本の垂直孔(チャンネル)が空いていて、そこに圧力管が挿入される(圧力管チャンネル)
圧力管には、燃料棒集合体が1体が入っている。
燃料棒集合体とは

・ウラン粉末を直径1cm×高さ1cm×1cmの円筒形に焼き固めたのが「ペレット」
・ペレットをたくさん詰めた4mほどの金属管が「燃料棒」
・18本の燃料棒を束ねたのが「燃料棒集合体」

ウランの核分裂によって生じる放射性物質のほとんどは、ペレットや燃料棒内部に閉じ込められる。
圧力管チャンネルに冷却水が入り、燃料を燃やし(核分裂させ)蒸気を発生させ、タービン(かんたんにいうと扇風機のハネ)を回転させて発電する。
原子炉の中では、核分裂によって中性子が大量に生じ、それが次から次に原子核に吸い込まれ、さらに核分裂が生まれ、連鎖反応が継続される。
中性子の数が多ければ核分裂の規模は大きくなり、中性子の数を減らせば小さくなる。
巨大な黒鉛ブロックの中には、211本の制御棒チャンネルと少数の計装用チャンネルもあって、核分裂をコントロールする。
制御棒には、中性子を非常によく吸収するホウ素が含まれていて、それを原子炉の中に深く挿入すれば原子炉の中の中性子は制御棒に吸い取られ、核分裂は減り、抜くと再び核分裂連鎖反応が増える。

RBMK型は、軽水炉に比べ、安価で大出力を得ることができた。
その反面、安全性では劣っていた。
冷却水には、

・蒸発してタービンを回す
・燃料棒を冷却する
・中性子を吸収し核分裂を安定させる

という役割があった。
水を減速材、冷却材として使う軽水炉では、核分裂が増え、蒸気が増え、冷却水が減ると、燃料は燃えにくく(核分裂しにくく)なるという「自己制御性」があった。
本来、原子炉は、このように出力がプラスになると、それに伴いマイナスの反応も増すように設計されるのが望ましい。
しかし中性子の減速を主に黒鉛で行うRBMK型では、温度が上昇し、蒸気が増え冷却水が減ると、核分裂は促進され、さらに燃料棒の温度が上がり蒸気が増え冷却水が減り・・・というプラスの連鎖が起きて暴走してしまう可能性があった。
設計者は、これを補償するため、常に原子炉内に常に何本かの制御棒を挿入しておくことを求めた。

事故発生

1986年、
ソ連では15基のRBMK型原子炉が稼動していて、チェルノブイリ原子力発電所には、その内の4基があり、さらに2基を新設中という世界最大級の規模を誇る発電所だった。
4月25日(AM)1時、
4号炉(電気出力100万kW、熱出力320kW)は、点検修理のため、1983年12月の運転開始以来、初めて停止作業に入った。
この停止に際して、いくつかのテストが行われる予定だった。
その1つが、停電時、非常用発電機が立ち上がるまでの数十秒間、タービンの慣性回転を利用し発電し、それを電源にしてポンプを回すというテストだった。
14時、
予定に従って制御棒を徐々に挿入し停止作業が進み、定格の半分(160万kW)まで降下していたが、キエフ(ウクライナの首都)の司令所から給電要請が入ったため運転継続。
23時、
キエフからの依頼を終え、出力降下作業を再開。
約10時間、160万kWという低出力を維持したため、原子炉内にはキセノン135が蓄積した。
通常運転であれば、中性子を吸収して直ちにキセノン136となるキセノン135は、中性子を吸収する作用を持ち、核分裂を抑制し、運転制御を困難にしてしまう物質だった。
4月26日0時、
運転班が交代。
予定は大幅に遅れ、この運転班は、本来、原子炉停止後の冷却を行う予定だった。
このとき1~4号炉には、176人の運転員、少し離れたところで建設中の5、6号炉には、268人の作業員がいた。
4号炉の制御室には、14人がいた。
テスト責任者は、ジャトロフ副技師長。
アキーモフ班長(33歳)とトプトゥーノフ技師(25歳)が原子炉を運転した。
0時30分、
熱出力70kW のところで電源テストが行われる予定だったが、出力コントロールに失敗し、原子炉の出力は0~3万kWまで低下。
(キノセン135の影響と思われる)
ジャトロフ副技師長の指示で、運転員は、(おそらくその危険性を知らずに)ほぼすべての制御棒を引き抜き、出力回復に努めた。
制御棒が完全に引き抜くと、その下には黒鉛の棒がブラ下っていて、さらにその下の原子炉の中には、直径11.4cm、高さ1.25mほどの水柱ができていた。
(この制御棒の下にブラ下がる黒鉛棒も、構造的な欠陥といわれ、事故の大きな原因とされている)
1時、
その結果、出力は20万kWまで回復。
このとき原子炉内は、核分裂反応が急上昇している危険な状態だった。

1時23分4秒、
テスト開始。
タービンへの蒸気弁を閉鎖。
タービンの慣性回転で発電されたテスト電源に接続されたポンプは、流量を若干低下させたが、炉は安定していて、警報など運転員の操作を促す兆候は何もなかった。
1時23分39秒、
タービンの回転速度減少に伴い、ポンプの流量も減少。
少なくなった冷却水は大量の蒸気となり、燃料棒はますます温度を上げた。
タービンの回転数が予定の毎分2500回転に下回ったところで、運転員は
「原子炉停止」
といい、AZ-5ボタン(事故防御第5ボタン)を押した。
運転マニュアルには
「出力5%(16万kW)以下のときは、低出力自動制御系かAZ-5ボタンで停止させる」
とあり、AZ-5ボタンが押されると、ホウ素が含む制御棒が一斉に挿入され、マイナスの反応が加わり原子炉は停止するはずだった。
しかしすべての制御棒が引き抜かれ、出力が急上昇した状態の原子炉に、すべての制御棒が一気に入れられたことで
(中性子を吸収していた冷却水からほとんど中性子を吸収しない黒鉛棒に替わったことで)
大きな反応が起こった。
こうしてAZ-5ボタンを押したことにより止まるはずの原子炉は逆に暴走を起こした。
1時23分41秒、
「出力上昇率高」と「出力高」の警報。
予期せぬ出力上昇に気づいた運転員は、2度目のAZ-5ボタンを押した。
1時23分44秒、
核分裂は止まらず出力は定格の100倍に達し、爆発が起こった。
1時23分49秒、
2度目の爆発。
原子炉が空中に浮くほど大きな爆発で、建屋も崩壊。
250tの屋根は、建屋から8m離れたところへ落下。
140tの構造物、黒鉛ブロック、核燃料は飛散し、あちこちで火災が発生。
1.5km飛ばされたコンクリートブロックもあった。
外にいた目撃者によると、2度の爆発と共に花火のような火柱が夜空に吹き上がったという。

爆発で原子炉そのものと、クレーンがある原子炉中央ホールは壊滅したが、離れた場所にある制御室では、爆発の衝撃と警報で緊急事態が発生したことはわかったものの、何が起こったかは把握できなかった。
制御棒の位置を示す計器は、挿入の途中で止まってしまっていることを示し、運転日誌には
「1時24 分、強い爆発、制御棒は原子炉の下端まで達せずに停止」
と記されていた。
彼らがまず考えたのは、とにかく原子炉を守ることで、そのために制御棒を完全に挿入し、冷却水を送り冷却することだった。
プロスクリャコフ(30歳)とクドリャフツェフ(28歳)、2人の運転技師補は、現場でハンドルを回して制御棒を挿入するために原子炉中央ホールへいった。
そして崩れた建屋と噴火口のように燃え上がる原子炉をみた。
その数分で致死量の放射線を浴びた。
2人は制御室へ戻り、原子炉が吹き飛び、パイプが破損し周囲が水浸しであることを報告。
しかしジャトロフ副技師長は、原子炉が破壊されたことを認めたくないのか
「緊急用水タンクが爆発したのであって、原子炉そのものは無事」
といい張った。
運転していたアキーモフ班長(33歳)とトプトゥーノフ技師(25歳)は、現場に給水バルブを開きにいったことが死につながった。
アキーモフ班長、トプトゥーノフ技師、プロスクリャコフ運転技師補、クドリャフツェフ運転技師補は、後にモスクワの病院で死亡。
AZ-5ボタンを押したのはアキーモフ班長だといわれ、足の皮膚が靴下のように剥がれるほどの放射線を浴びた上、多くの人からの非難も浴び、つらい思いをした。
彼は最期まで
「私は指示の通りすべての操作を正しく行った。
何も間違ってはいなかったはずなのに」
と訴え続けた。
事故後、生き延びたジャトロフ副技師長も
「AZ-5を押したのは電源テストが終了し原子炉を停止するためだった。
AZ-5 ボタンを押すまで何も異常を示すものはなく平穏そのものであった。
出力増などの警報が出たのはボタンを押して3秒後のことである。
反応度操作余裕が低下していたことも運転員が非難されるいわれはない。
それを直接示す計器はなかった」
と主張した。
原子炉近くのポンプ室でポンプをみていた原子炉機械係のホデムチゥク(34歳)は行方不明のまま、数ヵ月後、完成する「石棺」に埋葬された。
原子炉下の配管室で計器をみていたシャシェーノク(44歳)は、大ヤケドを負いながら救出されたが、数時間後、死亡。
原子炉係のクルグーズ(27歳)とゲンリフは、原子炉中央ホール脇の小部屋で休憩していた。
クルグーズは、約1ヵ月後、死亡。
ゲンリフは、600レントゲンもの放射線を浴びながらも生き延びた。
もう1人の機械係、デグチャレンコ(31才)は死亡。
機械係の班長、ペレボズチェンコ(38歳)も、部下たちを救出するため崩壊現場で活動し、命を落とした。

4号炉の隣のタービン建屋では火災が起こった。
屋根を貫いて落ちてきた破片や燃料棒が転がる中で、消火活動や発電機から燃料を抜く作業が行われた。
タービン係からは、ペルチゥク(33歳)、ヴェルシーニン(26歳)、ブラジニク(28歳)、ノビク(24歳)、電気係からは、レレチェンコ(47歳)、バラーノフ(32歳)、ロパチューク(25歳)、シャポバロフ(45歳)、コノヴァル(43歳)が犠牲となった。
中でも電気係次長のレレチェンコは、積極的に危険な場所へ赴き、急性症状のため一旦医務室へ引き上げたが、応急処置を受けた後、再び現場に戻り、事故の拡大を防いだ。
発電所備えつけの放射線線量計は、最大目盛りが1000マイクロレントゲン/秒(3.6レントゲン/h)で、至るところで振り切れていたが、
「せいぜい5レントゲン/h程度だろう」
となった。
仮に被曝線量の限度を25レントゲンとすると5時間作業可能ということになる。
人体は自然放射線によって年間0.1レントゲンほど被曝しているが、短時間に多量の放射線を浴びると異常を起こす。
被曝線量が100レントゲンを超えると、吐き気、おう吐が始まり、400レントゲンでは、骨髄の造血機能が破壊され、数週間から2ヵ月くらいで約半数が死に、600レントゲンでは、ほとんどの人が死亡するといわれている。
これら急性の放射線障害に加え、被曝して数年後、数十年後、ガン、白血病、脳障害、遺伝障害などが起こる晩発性放射線障害の恐れもあった。

1時28分、
爆発から5分後、発電所の消防隊が現場に到着。
原子炉から炎と黒煙が上がり、隣のタービン建屋や3号炉の屋根でも火災が発生していた。
消防隊長:プラヴィーク中尉(24歳)は
「まず延焼を防ぐべき」
と判断。
タービン建屋屋上の消火を開始。
1時33分、
爆発から5分後、発電所消防隊から5分遅れ、キベノーク中尉を隊長とするプリピャチ市の消防隊が到着。
原子炉建屋中央ホールの消火に着手。
放射能を恐れて消火活動を拒否する者は1人もいなかったが、途中から気分が悪くなりおう吐する者が続出。
放射線によって目の色が茶から青に変色した者もいた。
この2隊から17名が病院へ運ばれ、6人が死亡。
そのうち5人はキベノーク隊の隊員で、彼らは後から到着し被爆時間は短かったが、4号炉に近く、被爆強度が高かったためと考えられる。
もう1人は、タービン建屋の火災を鎮火させた後、キベノーク隊の応援に入ったプラヴィーク中尉だった。
救急隊も燃える炉の中から数十人もの人を助け出した。
この夜、総員186人、車両81台の消防隊が出動。
(被爆した車両は2度と使われることはなかった)
彼らの活躍で火災は夜明けまでに消された。
しかし原子炉そのものは燃え続けていた。

2時30分、
爆発の7分後、ブリュハノフ所長が発電所内の緊急シェルターに到着。
「重大な放射線事故が発生したが原子炉は無事だと思うし、火事も消防隊が消しつつあり、原子炉への給水作業も進みつつある」
と報告を受けた。
3時、モスクワのソ連共産党中央委員会原子力発電部長:マリインの自宅に電話し
「事故が起こったが原子炉は無事」
と報告すると
「とにかく原子炉への給水を続けるように」
と指示を受けた。
その頃、現場では原発防衛隊が到着。
ソロビョフ隊長が持っていた線量計は250レントゲン/時まで測れるものだったが、至るところで振り切れた。
ソロビョフ隊長は、それをブリュハノフ所長に報告したが、
「ソロビョフのは故障している」
と取り合わなかった。
4時30分、
フォーミン技師長が緊急シェルターに到着。
ブリュハノフ所長同様、原子炉そのものが破壊したことを受け入れようとしなかった。
シトニコフ副技師長(45歳)は、ブリュハノフ所長とフォーミン技師長の指令を受け、事故現場の状況を確かめるため中央ホールなどをみてまわったことが死につながった。
彼は、原子炉は破壊されたと報告したが、所長らはそれを無視し、炉心への給水作業を続けさせた。
チェルノブイリ市から出張し制御室で電源テストに立ち会っていたパラマルチゥクは、運転員らと一緒に負傷者の救出に当たった。
ハリコフ市から出張していたタービン技術者のポポフも、タービン係と一緒に消火を行い、犠牲となった。
さらに原子炉建屋の外にいた女性警備員、ルズガーノフとイワニェンコも死亡。
事故当日、約300人が病院に収容され、約240人が急性放射線障害と診断され、その中には5、6号炉の建設作業員、釣り人(チェルノブイリ原子力発電所は、ドニエプル川沿いの人工湖畔にあった)も含まれていた。
事故当日に亡くなったのは31名(放射線障害28人、行方不明1人、火傷1人、病気1人)だった。
医師たちは全力を尽くし、自ら輸血に参加した医師もいた。

5時、
事故から3時間半後、ウクライナの反応は早かった。
ウクライナは、ソ連(ソビエト連邦)に所属する一国で、チェルノブイリ原発は、その国土の北端にあり、首都のキエフ市は、その近くにあった。
内務省次官:ヴェルドフ少将は現場を確認すると、すぐに1000人以上の治安警察隊で周辺の道路を封鎖。
住民を避難させるためのバスをキエフ市に集めた。
7時、
原発から北西に3kmのプリピャチ市は、人口5万人の大半がチェルノブイリ原子力発電所の従業員とその家族で、独身者や子供も多く、平均年齢は26歳と若かった。
市章に原子モデルをあしらい、エレベーター完備の集合住宅、学校、病院、文化会館、室内プール、公園、スタジアム、遊園地などがある近代的な街だった。
一部の住民は発電所で事故が起きたことを把握していて、窓を閉め切ったり、外出を控えたり、自主的に避難する人もいた。
街から煙を上げる4号炉が目視でき、病院はいっぱいで、警官の数も普段より多かったが、多くの市民は、普段通り土曜日を過ごし、子供たちは(屋外活動が中止された)学校にいき、店は買い物客で賑わい、ホールでは結婚式が行われ、乳母車を押す母親や外で遊ぶ子ども多くいた。
空は晴れ渡り、アパートの屋上で4号炉を眺めながら日光浴をした人もいたが、普段よりよく焼けたという。
しかし一帯はすでに汚染されていた。
事故当日のプリピャチを撮った映像をみると、ときどき画面上の一部が白く光っていた。
強烈な放射線にフィルムが感光したためだった。
建物にも地面にも人にも放射性物質が付着していた。

9時、
ソ連政府が専門家に招集をかけた。
ソ連軍化学部隊のピカロフ大将も、参謀総長アフロメーエフ元帥から緊急指令を受け、隊員と共に、ウクライナのハリコフ州の森の外れにある演習場から出発した。
彼らは通常訓練に加え、核兵器・化学兵器・生物兵器に備え訓練を積んでいた。
16時、
政府関係者と政府に集められた専門家たちが、モスクワ市内にあるヴヌーコヴォ国際空港国際空港を飛び立った。
彼らは、ソ連の政府委員会となった。
議長は、ソ連副首相:シチェルビナ。
メンバーは、電力電化大臣:マイオレーツ、保健省次官:ウォロビョフ、原子力産業省次官:シャシャーリン次官、原子力発電部長:マリイン、クルチャトフ原子力研究所副所長:レガソフなどだった。
1時間後、キエフに着くと空港にはウクライナの政治家が待っていて、黒塗りの公用車に乗り込み、事故現場へと向かった。
18時、
政府委員会が、プリビャチに入ると、プリビャチの党幹部に出迎えられ、中央広場の横のあった市議会の建物に入り
「第4発電所で規定を外れたタービンの慣性回転実験が行なわれ、その過程で2回の爆発が起こり、原子炉建屋が破壊されました。
数百人が放射線を浴び、2名が死亡しました。
他に市内の病院に収容されている者もいます。、
第4ブロックの放射線の状態は相当やっかいなようですが、プリビヤチ市内は、平常のレベルを大幅に上回っていますが、住民に大きな危険をもたらすまでにはいたっていません」
という報告を受けた。
数km手前からみえる原発は設備やパイプが非常に整っていて、何も放出していないようにみえた。
20時、政府委員会が事故現場に到着。
事発電所幹部とエネルギー省の幹部が出迎え、1号炉、2号炉、3号炉の運転員は勇敢にも職場を離れておらず、4号炉の中にさえ、さまざまな任務を遂行している人間がいた。
深夜1時半に事故が発生し消火作業が開始されて以来、まだ4号炉に向かって放水が続けられていて周辺は水浸しになっっていた。
政府委員会は、直ちに1~3号炉の運転停止と冷却を命じた。
そしてピカロフ大将率いる化学部隊と空軍のヘリコプター部隊が呼ばれ、4号炉を空から観測。
原子炉が完全に破壊され、原子炉室を覆っていた蓋は吹き飛ばされ、隅の方でほぼ垂直に突っ立ち、原子炉上部は完全に壊れ、断片となったり、原型をとどめたままの黒鉛ブロックが転がっていて、黒鉛の燃焼による煙が、原子炉の上にあいた穴から、数百m上空まで絶え間なく煙が立ち上っていた。
原子炉の炉心内部には、白く光るいくつかの大きな斑点がみえた。
空中視察の結果、2つの重要なことがわかった。

1.強力な放射性物質が測定され原子炉、またはその一部が働いている、つまり核分裂反応が続いている
2.4号炉の開口部から、放射性微粒子の強い流れが放出されている

黒鉛が燃焼して生じる粒子が、かなり多くの放射能を運び出す。
黒鉛の燃焼速度は通常、1時間でおよそ1t。
4号炉には2500tの黒鉛が積んであったので、240時間、燃え続け、放射能が広い地域に拡散し、強度に汚染されることになる。
政府委員会は会議を開き、まず原子炉は無事だというブリュハノフ所長ら発電所幹部の報告は偽りで、事態は極めて深刻なものであることを認めた。
そしてその後、精力的な会議が行われ、まずすべきことは

・住民の避難
・燃え続ける原子炉の火災をどうやって消すか

とした。
23時、
28名の重傷患者が、バスでプリピャチ市を出発し、キエフ空港から特別機でモスクワへ向かった。
(モスクワ第6病院は、13名に骨髄移植を行うなど努力したが、全員が2~3週間後に亡くなった)
同じ頃、
「放射線の状況はよい方向へ変化しないことが予想され、避難が必要である」
という医療と科学の専門家の強い主張を聞いて、シチェルビナ議長は、翌日にプリピャチ市の住民を強制避難させることを決定。
その後の過程で、政府委員会は、現場の人間とも会議を行った。
彼らから意見を聞くと共に、いついかなるときにどんな任務も応じられる用意をしておくことを求めた。
あらかじめ書かれた指示書も参考文献もなしに、状況を判断し、仕事の計画を立て組織化することができたのは政府委員会だけだった。
事故処理は長期で巨大なものだったため、彼らの責任と権限も非常に大きくなっていった。

原子炉の消火については、大議論の末、ヘリコプターで上空から、砂を投下することになった。
ヘリコプターから砂を投下することを提案したのは、ヴァレリー・レガソフだった。
「原子炉が燃え尽きるまで待つべき」
という意見も出たが
「2500tの黒鉛が燃え尽きるまで3ヵ月かかり、1日にまき散らされる放射能は、過去のすべての原発事故で放出された量を上回るのです。
今、止めなければ、放射能は世界に拡散する」
と猛反対。
事故翌日、核分裂反応が続いているかどうか確認するため装甲車で4号炉の原子炉近くまでいったヴァレリー・レガソフは、絶えずモスクワにいるA・アレクサンドロフ(クルチャートフ原子力研究所所長)、原子力研究所の同僚たち、エネルギー省の専門家たちと連絡をとりながら進めていった。
事故翌日には、早くも諸外国から、さまざまな黒鉛火災を鎮火させる方法が、電報で提案されてきて、それらを検討した結果、温度の安定剤として2つの物質、鉛とドロマイトも投下物に選ばれた。
また研究室が設置し、ヴァレリー・レガソフはピカロフ大将の化学部隊、原発職員、専門家らと綿密に放射線の測定と管理を実施。
放射性物質の組成、その活動分布の特徴を調べ、それに基づいて対策が決められた。
しかし空気の動きの変化に伴い、4号炉の燃焼とそれに伴う物質の放出も移り変わった。
チェルノブイリ原発には、周辺数km範囲の放射線レベルを自動的に測定記録する装置がなく、測定データを得るために、多くの人を組織しなければならなかったが、放射能防護マスク、個人用線量計は必要なだけそろっていなかった。
放射線測定器を積んだ無人飛行機もなく、相当数の飛行士も必要だった。
「準備不足、無秩序、恐怖。
1941年の(ドイツのモスクワ侵攻)ようだったが、なお酷かった」
という現場で、ヴァレリー・レガソフは線量計に注意を払わないこともしばしば
「滞在は最大2週間」
とされた現場で4ヵ月間休みなく働き続けた。
すぐに放射線ヤケド、脱毛、やがて咳、睡眠障害も起こり始めた。
「自分が何をしているか、自分がどれくらいの放射線に晒されているか、よく理解していた」
ヴァレリー・レガソフは、事故処理の責任者として過酷な仕事に負けず,ソ連体制側の学者でありながら国のずさんさを鋭く批判する良心と勇気を持つ人だった。

事故後(事故翌日以降)

27日12時、
事故翌日正午、プリピャチ市民は、ラジオと拡声器で、原発事故が発生したことを伝えられ、身分証明書と3日分の食料、貴重品を持って集まるよう指示された。
14時、
45000人が1100台のバスで避難。
パニックと荷物の氾濫を防ぐために、
「避難は3日だけ」
と伝えられていたが、実際に戻れたのは数ヶ月後、しかも一時帰宅だった。
プリピャチ市内の放射線量は、

26日(事故が起こった日)9時 14~140ミリレントゲン/時
27日7時 180~600ミリレントゲン/時
27日17時 360~1000ミリレントゲン/時

と上昇しており、すでにたくさんの人が高レベルの放射性物質にさらされていた。
避難先で避けられたり、
「出て行け」
と非難される人もいた。

一方、現場では、ヘリコプターが4号炉へ消火物の投下を開始。
初日、110回の飛行で150tの砂袋が投下された。
高度100~200mからのぞくと、破壊された屋根が半開きのまぶたのように開いていて、その下に太陽のように熱せられた光がみえた。
クレーターからは放射能をタップリ含んだ熱気が上がってきて、投下の衝撃でさらに放射能が舞い上がり、高度110mの線量計は500レントゲン/時にも達っした。
担当したのは、キエフ軍のヘリコプター部隊。
アントキシン空軍少将は、ヘリコプターとパイロットの招集、投下する資材の確保から袋づめまで行った。
当初、袋詰めの作業員が足りず、政府要人もそれを手伝った。
「空軍、ヘリコプター部隊は実に正確に働いた。
これは高度の組織性を発揮した手本だった。
あらゆる危険を無視し、すべての乗組員がいかに困難かつ複雑な任務であろうとも、常にそれを遂行すべく努力した。最初の日々はとくに困難だった。
砂入りの袋を投下せよとの命令が出された。
なぜか地元機関は袋と砂を準備するのに十分な人数を、ただちに組織することができなかった。
乗組員の若い将校が、砂袋をヘリコプターに積み込み、飛び立ってそれらを目標に投下し、舞い戻ってきて、再び同じ作業をするのを私はこの目で見た。
もし私の記憶に誤りがなければ、その数は最初の一昼夜に数10t、次の3日目(昼夜)では数百t、最後にはアントシキン少将が夕刻の報告で、一昼夜に1100tの資材を投下したというまでになった」
(ヴァレリー・レガソフ)

4月28日(事故2日後)8時30分、
チェルノブイリ原発から北西へ約1100km、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所で、職員の靴からアラームが鳴るほど高線量の放射性物質が検出された。
フォルスマルク原発は、すぐに通報。
11時、
マスコミが
「フォルスマルク原発で放射能漏れ」
を報じ始め、120kmほど離れた首都:ストックホルムでも動揺が始まった。
12時、
スウェーデン国防軍の 防衛研究所は、国内7ヵ所の観測所で飛来してくる放射性物質を計測していた。
この日の朝7時に回収された観測装置のフィルターを分析器にかけられると、
「どこかの国で核戦争や核実験が起こったのかもしれない」
と思うほどの過去に例がない大量の放射性物質が検出された。
さらに詳しく分析してみると、原子爆弾ではほとんど生成されず、原子力発電で多量に生成されるセシウム-134が検出された。
13時30分、
スウェーデン政府は、フォルスマルク原発以外の国内の発電所や隣国フィンランドからも
「高い濃度の放射性物質を確認した」
という報告を受けた。
14時、
防衛研究所の要請を受け、スウェーデン気象庁は過去数日間の気象データから発生源を予測。
ソ連(ベラルーシ、ウクライナ)から放射性物質が風によって流れてきた可能性が出てきた。
スウェーデン空軍は、偵察機にサンプル収集装置6つを取りつけ、バルト海上300mを低空飛行しソ連領海ギリギリまで接近。
サンプルを分析した結果、「発生源はソ連」説が有力になった。
ときは東西冷戦中、西側に属するスウェーデン政府は、鉄のカーテンの向こうにいるソ連政府に説明を求めた。
15時30分、
フォルスマルク原発が運転を再開。
21時
ソ連政府は、
「2日前にチェルノブイリ原発で大爆発があった」
と短く発表。
世界は衝撃を受けた。

4号炉から放出された膨大な量の放射性物質は、まずロシアからスカンジナヴィア、ブリテン、次に風向きが変わってチェコやドイツなどの中欧へ拡散し、やがて北半球全体へと広がった。
放射性物質は空から落ち、土、水、植物、動物、そして食品や飲料に混入し、世界中に拡散した。
ヨーロッパ各国は国民に事故による大気と土壌の汚染を説明し、窓と戸を常に閉め、できるだけ外出を控えるように指示。
するとスーパーは買いだめ客であふれた。
事故前、あるいは屋内で生産された食品が売れ、生鮮食品や汚染の恐れがあるものは残った。
国は、汚染が予想される食品は残留放射能テストが行い、安全値を越える食物や汚染された恐れのある食物は破棄し、生産者に補償金を支給。
牛乳の汚染について、イオン交換法によって汚染が中和され解決したのは15ヵ月後。
チーズなどの乳製品、肉、野菜、果物、ヨーロッパの食卓は、大きな被害を受けた。
西ヨーロッパから輸入された缶詰から放射性物質が検出されたり、東ヨーロッパから輸入された羊200頭が盲目だったり、事故現場から2000km以上離れたイギリスの羊からセシウムが検出されたり、 オランダ製の粉ミルクから放射性物質検出されたり、被害は世界中に拡散。

放射性物質は、8000km離れた日本にも飛んできた。
日本で「チェルノブイリ」という聞き慣れない言葉が広まったのは、事故から3日後、4月29日の天皇誕生日。
事故1週間後の5月3日、大阪府泉南にある京都大学原子炉実験所が雨水からチェルノブイリからの放射能を初観測。
日本政府は、
「日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きない」
と説明。
連日、マスコミは放射性物質の飛来を報道。
人々は、
「大丈夫なのか?」
と心配する一方、
「仕方ない」
と通常通りの生活を続けた。
チーズやパスタなどのヨーロッパ産食品を買わなくなり、
「ヨード卵・光が放射線に効く」
「雨を浴びたらハゲる」
などといわれブランド卵や傘が売り上げを伸ばした。
甲状腺にヨウ素を蓄積させておくと放射能(ヨウ素131)を体外へ排出させるため、原子力発電所とその周辺には、ヨード(ヨウ素)を含む薬剤が配備されていた。
大阪では「放射能予防お好み焼き」というヨード卵・光とわかめをつかったメニューを出す店もあった。

多くの人が、ソ連に対してネガティブな感情を持つ一方、世界中で医療や物資の派遣、募金活動などの支援活動も行われた。
実際、4号炉から半径600km、12万km²、日本の国土の1/3近くにも達っする地域の汚染は深刻で、そこに住む住民は、放射性物質が降り積もった大地から直接、放射線を浴び、さらに汚染された空気や水、食べ物が体内に入ることで体の中からも被爆し、2つの被爆を同時に受け続けていた。
4月29日、
事故から3日後、モスクワのソ連共産党は、ソ連首相:ルイシコフを議長とする対策グループを設置。
以降5月末まで、連日、会合が開かれた。
4月30日、
新聞(ソ連共産党中央委員会機関紙「プラウダ」)の2面右下段、目につきにくい欄に
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ソ連政府発表

キエフから北に130kmに位置するチェルノブイリ原子力発電所において事故が発生しました。
事故現場では、ソ連政府副首相同志シェルビナ・B・Eの指導の下、関係省庁幹部、著名な学者や専門家から成る政府委員会が対応にあたっています。
最新の情報によれば、事故は第4発電ユニットの建屋のひとつで発生し、原子炉建屋の構造物の一部崩壊、破損、一定量の放射性物質の漏出につながりました。
他の3基の発電ユニットは正常に停止し、稼動待機状態にあります。
この事故によって2名が亡くなりました。
事故被害を防ぐため緊急措置が講じられています。
現時点では、発電所及びその周辺地域の放射線量は平常値に戻っており、被害者には適切な医療サービスが提供されています。
原発村及びその近隣の3居住区の住民は避難を終えています。
チェルノブイリ原発及び周辺地域の放射線量について常時モニタリングが続けられています」

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という記事が掲載された。

5月1日、
4号炉の黒鉛がほぼ燃え尽き、放射性物質の放出が増え始めた。
ソ連は総力を上げてこの事態に取り組んでいて、チェルノブイリ原発へ向かう道路にはトラックが延々とつながっていた。
幾重にも検問所が設けられ、兵士が、人や機械の除染と検知を行い、放射能の拡散を防止する防壁となっていた。
「事故後2ヵ月間は本当に戦争のようだった」
(参謀総長アエロメーエフ元帥)
5月2日、
政府委員会が、4号炉から北西に3kmのプリピャチ市から南東12kmのチェルノブイリ市に移動。
政府委員会の入った建物は、関係者でゴッタ返し、道路の両脇は軍の野営地となり、テント、軍用車両、建設車両などでビッシリ埋まった。
同日、
現場では投下される資材の重さで原子炉の基礎コンクリートが破壊される恐れが指摘され、ヘリコプター作戦が中止となった。
原子炉の下には大量の水があり、核燃料と接触すれば大規模な水蒸気爆発が起こる可能性があった。
予測される爆発の規模は、200km²。
周囲の原子炉も吹き飛び、さらに大量の放射能汚染の恐れがあった。
ここまで
27日、150t
28日、300t
29日、750t
30日、1500t
1日 、1900t
と鎮火のための砂と粘土1800t、放射線吸収のため鉛2400t、中性子の吸収剤としてホウ素40t、ヒートシンク(放熱・吸熱)としてドロマイト600tなど合計5000tが投下されてきた。
30人のパイロットは、血液中からウランやプルトニウムを除去するために何度も血液交換が行った。
その英雄的な活動と犠牲は、原子炉を密封して放出される放射性物質の量を著しく減少させた。
しかし完全に封じ込めることはできなかった。
この後、放射能に汚染され使用できなくなったヘリコプターは、原発から南に25kmのラッソハ村に移動し、10年以上、放置された。
5月3日、
プリピャチ市以外の原発周辺30km圏内、70余りの市町村の住民、約12万人の強制避難が開始。
こうして3700km²(東京都面積の 1.7倍)は立ち入り禁止となった。
チェルノブイリ市を除いて多くは農村地域だったが、人々は先祖伝来の農地や牧場から追い出され、放射性物質が付着しているという懸念から家畜も処分された。
多くの人が仕事を失い、慣れない生活環境に放射能汚染はもちろん、将来へ不安を募らせた。

当初、マスコミが事故現場に入ることは許されなかった。
ある記者は、それを記事にし、当局に現地にマスコミを入れて公開することを要請。
共産党の重鎮で「グラスノスチ(情報公開)の父」と呼ばれたアレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフが、その記事に注目。
事故発生から1週間後、記者はマスコミとして初めて現場に入れ、収束作業を撮影。
高線量の現場で、原子炉内から飛び散った黒鉛を手で除去する姿を目撃した。
「まさに地獄だった」
カメラマンのイーゴリ・コスティンは、何も知らない鳥が4号炉の上を飛んでいるのを目撃。
その背後には事故が起きた瞬間に止まった時計台があった。
「事故発生の11 時間後に撮った写真は、残念なことに、フィルムが放射線によって処理を受けてしまって、画像が砂を振り撒かれたような状態になった。
私が5 枚ないし10 枚の写真を撮影した後、カメラは作動しなくなった。
撮影はヘリコプタ-の窓越しに行った」
こうして撮影された映像は、翌年(1987年)まで公開を禁じられた。

依然、原子炉の真下にはコンクリートの壁を隔てて500万ガロンの水が入ったプールがあり、もし核反応を続ける燃料と接触すれば、大規模な爆発と核の拡散が起こる恐れがあった。
早急に水を抜く必要があったが、そのためには排水バルブを開かなくてはならず、ボリス・バラノフ、タービン、ワレリー・ベスパロフ、アレクセイ・アナネンコ、3人の原発職員は4号炉の真下にいくことになった。
厚いウェットスーツを着た3人は、防水ライトをもってに進み、水に潜って手でバルブを開いた。
次に消防隊の志願者12名が建屋に入り、24分間で排水ホースを引く作業を行ったが、その後、ホースが漏れたりしたため、何度か現場に戻らなければならなかった。
ボリス・バラノフ、タービン、ワレリー・ベスパロフ、アレクセイ・アナネンコの3人は致死的な被曝を受けたにも関わらず、その後も生存し、原子力の仕事を続けた。
彼らだけでなく多くの職員が、避難した家族と別れ、近くのキャンプ場「おとぎの国」を宿舎にして、当直制で事故処理作業に通った。
食事は、時間になると飛来する食堂ヘリで行われ、外から持ち込まれたものだけを食べた。
おとぎの国には設けられた掲示板には、全国各地から送られてきた励ましのメッセージが貼られた。
自分たちへの感謝のメッセージや家族からの手紙を読んだ職員は、
「どんなことがあっても守り抜く」
と強く意志を固めた。
多くが健康状態を悪化させ、やがて給料も未払いになったが、辞めるわけにはいかなかった。

5月6日、
3号炉からパイプを通じて4号炉に窒素を送り込むことに成功。
火災は鎮火。
これにより遠方への放射性物質の拡散も阻止された。
それはまるで映画のような劇的な終わり方だった。
これまで質量の大きな放射性物質は発電所の周辺に、質量は小さい揮発性の高い物質は煙と共に遠くまで拡散。
汚染物質を含む雲は風向きによって刻一刻と進路を変え、空を通り過ぎただけの場所は汚染を免れたが、雨が降ると落下した水滴によって土地を汚染した。
結局、4号炉は、世界中の原子力発電所が1年間に排出する廃棄物の3万倍に相当する放射性物質を環境中に放出。
今日でも人類が日々浴びている放射線の3%はこのチェルノブイリに由来するといわれている。

火災が止まり遠方への拡散が止まっても、放射能がなくなったわけではなく、4号炉はエネルギーを放ち続けていた。
この時点では不明だったが、後に調査によって、原子炉とその周辺の状態がわかってきた。
4号炉には10m以上の大きなコンクリートの壁が2枚、倒れ込んでいた。
水平だった2500tの上部構造板は、ほぼ垂直になって引っかかっていて、引きちぎられたチャンネル管が垂れ下がっていた。
下部構造板は、1/4が溶け、押し潰すように下に4mほど下がっていた。
1700 tあった黒鉛ブロックは少しだけ残っていて、それ以外は飛散したか、燃えてしまっていた。
事故時、4号炉には190tのウラン燃料が装てんされていた。
最も危惧されたのは残った核燃料が再び核分裂が始めることだったが、それはステンレスや岩、コンクリートなどと反応を起こし、溶岩状の物質となって流れ出て固まっていた。
原子炉下部のプールへ流れ落ちて固まった溶岩状物質は、その形状から「ゾウの足」と名づけられた。
もし水が抜かれていなかったら大惨事になっていた。
ゾウの足には、120tのウランが含まれ、その他、圧力チャンネル管の中、ガレキの下などにも大量の核燃料が埋まっていると推定された。

5月9日、
事故発生から10日足らずで、空き地に3つのコンクリート工場が完成。
(それまでは市外から運搬されてきていた)
40mの深さまでコンクリートを流し込み、地下水がドニエブル川に流れていかないようにする工事が150名によって行われていた。
5月14日、
ソ連共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長が国営テレビで演説。
「先日、チェルノブイリ原発で不幸な事故が発生しました。
被害は深刻な事態を招いています。
暴走する原子力という巨大な力と我々は衝突してしまいました。
この非常事態に政治局は全力で処理に当たっています。
莫大な労働力と責任がウクライナとロシアにかかっています。
これまで299人が入院し、7人が死亡しました。
中央委員会および政府は、死亡者の家族、同僚、その他すべての被害者に同情の意を表します」
と事故原因にはふれず、死傷者数も少なく発表。
「ペレストロイカ(再建)」 と「グラースノスチ(公開)」をスローガンにソ連共産党のトップとなったミハイル・ゴルバチョフだったが、70年以上続く一党独裁体制の闇は深かった。

一方、現場では4号炉建屋の外から原子炉の下へ向けてトンネルが掘られ始めた。
核燃料が基礎コンクリートを貫通しないよう、その下にコンクリートを流し込んで補強すると共に冷却用の配管を設置する工事だった。
この工事には、約400人が24時間、3時間8交替で従事。
地上では、飛び散った残骸の片づけが始まった。
4号炉の周りには、爆発で崩れた壁や屋根がガレキとなって積み上がり、黒鉛ブロックや燃料棒がゴロゴロ転がっていた。
ある黒鉛の塊に放射線測定器を近づけると、2000レントゲン/時を示していた。
ソ連軍化学部隊は、ピカロフ大将を含め、全員がバケツを持って、それらを手づかみで拾っていった。
そしてバケツがいっぱいになると金属のコンテナに歩いていって中身を移した。
この他にも化学部隊は、30km圏内を調査し、汚染地域を特定し、軍はプリビャチ市を含め、樹木、住宅、道路の除染作業をやりとげた。
彼らの3ヶ月間の活動によって、チェルノブイリは次のプロセスへ進むことができた。

事故後、原発職員と軍人主導で処理が行われていたが、やがてソ連各地から予備役兵(平常は市民生活を送り、訓練や非常時に召集されて軍務に服する)や一般の専門家や愛国者たちが30km圏内に集められ、様々な作業を行うようになり、5月末には現場から正規軍人はほとんどいなくなった。
彼らは
「リクヴィダートル(事故処理作業従事者、ロシア語で「清算活動をする人」)」
と呼ばれた。
事故後、4年間で約80万人のリクヴィダートルが活動。
積極的な志願者もいたが、危険性が知ると作業を拒否する者も続出。
実際、4号炉の近い場所で作業を行ったリクヴィダートルは、事故時に現場に居合わせた原発職員や消防士たちに次いで被爆が大きかった。
リクヴィダートルのために新しい道路と町が建設され、原発への行き帰りは装甲車やバス。
チェルノブイリに集められた医師たちは、放射能による災害に初めて直面した。
最初は基本的な衛生習慣もなく、汚染されているはずの室内で食べ物や飲み物はむき出しで置いてあったが、注意すると数日後には手や口に入れるものは洗うようになった。
医療の専門家たちは、最悪の状況の中で、許容線量を定め、放射線による障害を予防しようとした。
作業者の被曝管理は、原子力産業省、中機械製作省、国防省の3つにわかれていて、中機械製作省と国防省は自分のところのスタッフ、それ以外は原子力産業省が担当。
被曝限度は25レントゲンとされ、それを超えると作業を離れるという規則だったが、愛国心か、管理の甘さか、かなりの人が基準をオーバーして作業した。
「深夜、仕事をしていると若い兵隊が私のところへやって来て、『被曝証明書を書いてくれ』という。
『いったいどこで作業をしていたのか』と地図を示しながら聞くと廃液貯蔵所を指した。
そこには60レントゲン/時と放射線量が記入してあった。
どのくらいの時間いたのか聞くと『約30分です』と答えた。
私は不意に気分が悪くなった。
彼らは測定器を持っていなかった。
『他にはどこにいたか』と聞くと35レントゲン/時の場所と50レントゲン/時の場所を示した。
それぞれに30分ずついたとすれば、合計で70~75レントゲンにもなる。
彼のグループ6人の名前を聞き、被曝証明書を作成してやった」
(医師)
多くのリクヴィダートルは、国に対する誇りと義務感を抱いていた。
なにか同意できないことがあっても、そのことについて話すのは難しいと感じていたかもしれない。

建設現場の技術者や監督が、道具や材料の不足を訴えると迅速に補充された。
ある学者は、農作物をつくることが禁止された30km圏内の土地を元の土に戻す研究を行った。
ジャーナリズムを学んでいた大学生がチェルノブイリに入り、発電所の壁新聞「前線」の記事を書いた。
ある作業員は、大学を卒業したばかりで作業員として軍隊に採用され、制限区域のすぐ外の野営地で55日間を寝泊りしながら、4号炉の近くで毎日12時間、除染作業を行った。
ある作業員は、道路を通過する車両や機械にホースで水をかけて洗浄。
道路自体も洗浄車両で除染された。
ある作業員は、原発周辺の汚染された木々の伐採。
ある作業員は、原発周辺の村の建物を重機で壊して土に埋めた。
壊すことができない大きな建物は水をかけて洗われ、水が滴り落ちた地面は土を引っくり返さなくてはならなかった。
発電所内の作業は、分刻みで交代が行われた。
色も形も匂いもない放射線は作業中は気にならないが、確実に体に蓄積されていく。
先に調査を入れながら慎重に作業を進めていった。
ある作業員は、現場に大急ぎでかけこみ、シャベルで土を引っくり返して逃げてくる。
作業時間は6分間。
1日の作業はわずかそれだけだった。
その後はどこへいってもよいが、送迎バスは頻繁に運行されず、できるだけ放射線に曝されないよう地下2階にある食堂で待機。
ある作業員は、医師だったという理由で、爆発の現場をみたいというモスクワの党幹部に同行。
放射線を遮るために鉛で覆われた車に乗っていったが、現場に近づくにつれ車の中のガイガーカウンターが
「ツ、ツ、ツ」
と頻繁に鳴るようになり、さらに近づくと
「ツーーー」
と断続音ではなくひと続きの長い音になり、エンジンが止まったという。
リクヴィダートルの多くは、放射線についてほとんど何も知らなかった。
共産主義政権下、ほとんど何の装備もないまま機械が故障するような所に送り込まれ働いた彼らは、例えようもない「自己犠牲」だった。

6月、
火災は止まったといっても、破壊された原子炉はムキ出しのままで放射能を放出し続けていた。
これをまるごとコンクリートで覆ってしまおうという工事が始まった。
高さ60m×縦70m×横70m、巨大な「石棺」の建設だった。
大量の技術者と作業者、遠隔操作の建設機械が投入された。
周辺の地面はコンクリートで覆われたり、土を入れ換えられた。
それでも放射線量は、150~180レントゲン/時もあるところもあったが、まず石棺の壁の建設が始まった。
また1号炉と2号炉の運転再開が決定され、その準備も進められていった。
6月4日、
モスクワのソ連首相:ルイシコフを議長とする対策グループは、国内および外国に対し
「急性放射線障害の診断は187名の被災者(全員発電所職員)に対してなされ、うち24名が死亡(他に2名が事故時に死亡)した。
病院に収容された住民には、子供も含め、放射線障害の診断は認められていない」
と発表することを決定。
実際は多くの一般住民や子供、幼児が急性障害が出して病院に収容されていた。
6月末、
溶岩化した燃料が基礎コンクリートを貫くのを防ぐためにトンネルを掘ってコンクリートを流し込み補強すると共に冷却用配管を設置する工事が完了。
400人のリクヴィダートルは、機械はほとんど使えないまま、24時間3時間8交替で140mのトンネルを掘り切った。

7月3日、
ヴァレリー・レガソフは、モスクワに呼ばれ、事故後の経過を報告。
説明を聞いたミハイル・ゴルバチョフは、1ヵ月後にウィーンで行われるIAEA(国際原子力機関)の会議に自分の代わりに出席するように指示。
ヴァレリー・レガソフは、他の専門家たちと膨大な資料をチェックし、事故の主な原因は、RBMK型原子炉の構造的な欠陥であると確信していた。
「爆発は原子炉の構造上の欠陥やヒューマンエラーなど数多くの要因によるものだという結論に達した。
原発の職員は欠陥に気づいておらず、彼らが行った試験が爆発を招いた可能性があった」
しかし会議前、ソ連共産党は、ヴァレリー・レガソフのつくったレポートを改ざんし、ウィーンでは事故原因を「人為的ミス」と発表するよう要請。
熱心な党員でもあったヴァレリー・レガソフは仕方なく同意した。
「事故から2週間後に4号炉の制御室にいた職員たちが亡くなり始めました。
みんな自業自得だと思っていました。
しかしそこにはむごい真実がありました。
彼らは体を張って被害を食い止めようとしました。
そんな職員たちに我々上層部は隠していたのです。
制御棒や原子炉の構造に致命的な欠陥があったという事実を・・・」
(ヴァレリー・レガソフ)
事故直後から、
「事故は原子炉の構造的な欠陥が原因」
といわれていて、1991年に行われた調査でも
「事故の原因は、運転員の規則違反ではなく、設計の欠陥と責任当局の怠慢にあり、チェルノブイリのような事故はいずれ避けられないものであった」
と結論づけられた。

7月半ば、
「石棺」の最初の壁が完成。
それが放射線の遮蔽物となり、作業はかなりやりやすくなり、さらに上へと壁が重ねられていった。
現場から少し離れた場所でコンクリートを流し込む枠をつくり、原子炉建屋まで運び、組み立てられ、コンクリートを流し込まれた。
作業は24時間、急ピッチで進められ、毎日5000tのコンクリートが使われた。
また防疫施設が設けられるなど、放射線管理の体制も整えられてきた。
作業員は仕事が終わり、発電所を出ると防疫施設にいき、服や靴を脱ぎ捨て、さらに宿舎に入る前にもう1度体を洗った。
それまでは原発内にいた人間が宿舎のいたるところで放射能のチリをまき散らし、部屋の中の方が屋外より放射線量が高かった。
8月、
ウィーンのIAEA(国際原子力機関)でチェルノブイリ事故についての会議が開かれた。
ソ連は、それまでの秘密主義を覆し、400頁を超える詳細な報告書を提出。
そのオープンな態度で西側を驚かせた。
「事故原因は、運転員による規則違反の数々のたぐいまれな組み合わせ。
6つの違反の結果、原子炉が暴走をはじめ、それに気づいた運転員が制御棒一斉挿入ボタン(AZ-5)を押したが、間に合わなかった」
「急性放射線障害が現われたのは237名。
全員が発電所職員と消防士で、うち28名が放射線障害により3ヵ月以内に死亡。
その他、傷で死亡した1名、行方不明1名、放射線障害以外の病気で1名を加え、死者は31名。
周辺住民には1件の急性障害も認められなかった」
「原子炉の埋葬はもうじき終了し、1号炉、2号炉が運転再開を準備中」
などとヴァレリー・レガソフは、ソ連代表として5時間、口頭で事故の様子と原因を報告。
終始、誠実で科学者らしい姿は、国際社会を安心させ、称賛を受けた。
ヴァレリー・レガソフは一躍有名となり、ヨーロッパで「今年の人」に選ばれ、「世界の科学者トップ10」にも入った。
しかしソ連の一部は
「機密情報の暴露」
「裏切り者」
ととらえた。
以後、レガソフは理解できない悪意に苦しみ続けることになった。
ミハイル・ゴルバチョフは
「他の科学者らが推薦していない」
という理由で、チェルノブイリでの活動に対する表彰者リストからレガソフを削除。
クルチャートフ研究所(ソ連最大の原子力発電所)の所長選でも、副所長のヴァレリー・レガソフは落選。
表彰されなかったことにはあまり落胆しなかったが、被災者のため、再発防止のために積極的に動けないことに苛まれた。
何度も「チェルノブイリは人災だった」という定説を覆す事実を公表しようとしたが、そのインタビューや論文が表に出ることはなかった。
ヴァレリー・レガソフの放射線障害は進行し、だんだん食事をしなくなり、眠らなくなっていった。

9月、
地上の除染はかなり進み、石棺の建設も屋根を乗せる段階に入ったが、3号炉建屋の屋上には、まだ事故のまま4号炉の破片が散らばっていた。
放射線量は500~800レントゲン/時もあり、屋根ができる前に、それらを石棺の中に投げ入れねばならなかった。
まずロボットが投入されたが、障害物や段差がある上、強い放射線で基盤を破壊され使いものにならなかった。
そこで大量の兵士を投入し、人海戦術で除染する「バイオロボット作戦」が決まった。
まず偵察隊が放射線量の測定し、上空から写真撮影。
屋上に散らばっている破片の量は140~150tと推定された。
バイオロボットには、志願者の中から35歳以上の精神的にも肉体的にも頑健な3000人が選ばれ、建設中だった5、6号炉の屋上で、ダミーの黒鉛や燃料棒片が置かれ訓練が行われた。
9月19日、
作業開始。
被曝線量の目安は20レントゲン。
例えば現場の線量が500レントゲン/時なら、作業時間は2.4分。
20~25kgの装備をつけたバイオロボットに与えられたノルマは、1人、黒鉛なら50kg、燃料片なら10~15kg。
彼らはそれらをシャベルで4号炉に投げ降ろした。
作業の様子はテレビカメラでモニターされ、時間になるとサイレンで知らせた。
10月1日、
黒鉛123.6t、圧力チャンネル管やその破片26.1tを撤去したバイオロボットは、勝利の証にソ連国旗を掲げた。
それをみた上官は、すぐに地上から旗を撃ち落とさせた。


3号炉屋上の除染終了を受け、石棺に屋根を乗せる工事が開始。
72m、165tの鉄骨をクレーンで持ち上げ、壁の上に設置。
その上にパイプを並べ、さらに薄い鉄板を敷かれた。
政府委員会の議長であるシチェルビナ副首相は、その上にコンクリートを乗せることを要求したが、設計グループ長のクルノソフは
「強度の保証ができない」
と拒否。
9月29日、
1号炉が運転再開。
11月、
「石棺」が完成
6000tの鋼材、50万m³のコンクリート、20億ドル(2000億円)を投じた石棺は、そのの大きさでアメリカの自由の女神像を凌いだ。
11月9日、
2号炉が運転再開。
12月、
3号炉が運転を再開。
チェルノブイリ原子力発電所を統括する企業「コンビナート」がつくられ、30km圏内の処理と管理を行うことになった。
ソ連は、巨額を原発政策に注ぎ込む一方、事故被害者への補償責任を放棄し、被害者が日々直面している被爆の現実を隠し、事故の被害を極小化を図った。
一方、原子力発電所を廃止する国もあった。
オーストリアは、事故から1ヵ月後、議会で廃止を決定。
イタリアは、事故から1年後、国民投票を行い、原子力発電所の運転や建設を禁止することを決めた。
フランス、ドイツ、イギリスでも、原子力発電所の必要性や安全性に疑問や不安をもつ人が多くなり、運転や建設に反対する声が高まった。
日本でも「反原発」という言葉が使われ始めた。

1988年4月26日、
事故2周年にあたるこの日、51歳のヴァレリー・レガソフは自殺。
4月27日、
ヴァレリー・レガソフの遺体が自宅で発見。
5月20日、
ヴァレリー・レガソフの告白を、ソ連共産党機関紙 「プラウダ」が掲載。
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ヴァレリー・アレクセーゲィチ・レガソフは「プラウダ」のためにこの手記を書いた。
現代科学技術の発展、とくに原子力発電についで思いを述べてくれるようかれに依頼したのは、昨年のことだった。
当時すぐに同アカデミー会員は、自分で「回想記」と名づけたこの手記にとりかかった。
レガソフは常に時間に追われていたので、彼は自分の考えをテープに吹きこんだ。
彼の悲劇的な死の直前、我々は彼と話をする機会があった。
「残念ながらチェルノブイリについての本はまだ少ない。
あの事故のあらゆる教訓はまだ分析されつくしていない」
と彼は述べた。
我々はレガソフを、チェルノブイリの核の炎を最初に消し止めた人の1人と呼んで間違いでないと思う。
私の考えでは彼がチェルノブイリで果たした功績は、まだ正当に評価されていない。
レガソフは、ドン・キホーテであると同時にジャンヌ・ダルクでもあった。
彼は周囲の人たちにとってなかなか厄介な、気むずかしい人物だったが、しかし人々は彼がいなければ人生にとって誰か近しい人を失ったような、空虚な感じをいただいた。
レガソフがなぜ死んだのか。
彼は人生の盛りのときに自ら死を選んだ。
その理由を理解したり説明したりすることは困難である。
我々のすべてがこの悲劇を教訓としなければならないが、またそれは、何ものにもまして平安と安泰のうえにあぐらをかいている人たちにとって、教訓とならなければならないだろう。

Ⅴ・グーバレ゙フ (「プラウダ」科学部長)
注:レガソフは 1988 年 4 月27日にピストル自殺した。

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という前書きに続いて、告白文が掲載された。
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50年の人生を生きただけだというのに、回想記を書かされるなど、私には思いもよらないことだった。
けれどもあれほどの大事故が起きてしまい、真っ向から対立する利害を持ち、その事件の原因についてさまざまな異なる解釈を持つ多数の人たちが、事件のかかわりをもった。
したがってここで私に求められているのは、あのできごとついて私が知り、理解し、見たことについて語ることだろう。
1986年4月26日のことだった。
土曜日ですばらしい天気だった。
大学の研究室に行くのもやめて(土曜日は私が研究室に出る日だった)、また朝10時から予定されていた党・経営活動者会議に行くのもよしにして、妻と友人とともに、どこかへ休息に出かけたいなどと思っていた。
だが私の性格と、長年の間培った習慣からして、私は党・経営活動者会議へ出かけた。
会議が始まる前に、チェルノブイリ原発で事故が起こったことを聞いた。
それを私に告げたのは、私たちの研究所を管轄している役所の幹部だった。
彼はいまいましそうな口ぶりだったが、落ち着いて話してくれた。
会議の報告が始まった。
正直にいって、その報告は決まり文句の、もう沢山というものだった。
我々の役所では万事順調でうまくいっている、業績指標はいいし、目標も立派に遂行している、といった報告には、馴れっこになっていた。
報告は勝った戦闘の報告に似ていた。
原子力発電を褒め称え、達成された大きな成果をうたい上げた報告者は、チェルノブイリで何か事故が起こったらしいことを、そそくさと付け加えた。
(チ原発は電力電化省の管轄だった)
「チェルノブイリで何かまずいことをしでかしたようです。
事故だと言っていますが、それが原発の発展をおしとどめるようなものではありません・・・・・

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それはソ連への批判を含む事故の真相で、この告白を元にイギリスBBCはドキュメンタリー番組「Surviving Disaster: Chernobyl Nuclear Disaster」 を制作した。
(2006年1月24日放映)

1989年、
事故から3年、ゴルバチョフのペレストロイカは行き詰まり、ソ連共産党の権威は低下。
各国で情報公開や放射能汚染対策を求める運動が起こっていた。
ベラルーシでは、チェルノブイリ事故による放射能汚染地図が新聞で公開された。
それまで原発周辺だけとされていたが、飛び地のように200km以上離れたところに高汚染地域があって、より広大であることがわかった。
3ヵ月後、ベラルーシ政府は、11万人を新たに移住させることを決定。
その他の構成国も、独自の汚染対策と住民保障を行っていった。
そうした構成国の動きを受け、ソ連政府は、IAEAに事故による放射線の影響と汚染対策の妥当性の調査を依頼した。
1990年、
ジャトロフ元副技師長が釈放された。
事故後、ブリュハノフ所長、フォーミン技師長と共に責任を問われ、被爆による障害にもかかわらず10年の禁固刑を宣告され、キエフやポルタヴァ州で服役し、4年後、請願書や健康状態の悪さが考慮され釈放された。
その後、非常に苦しんだ末に放射線による心不全で1995年に亡くなったが、最後まで
「設計上の欠陥が悲劇を引き起こし、ソ連はこのことに対する責任を認めることができなかったので、欠陥のある機器に取り組まざるを得なかった人々を非難した」
と主張し続けた。
「原子炉は30を超える標準設計要件を満たしていなかった。
爆発には十分すぎるほどだ。
別の言い方をすると、プロテクトが解除される前には、原子炉は核爆弾のような状態に達していて、しかも警報信号はなかった。
スタッフはどうやってそれについて知ることができたか?
匂いや触れることによって?
スタッフの過失について話す前に、それについて考えてほしい。
原子炉はその緊急システムのせいで爆発した」

1991年、
事故から5年後、ソ連政府の要請を受けたIAEAは、住民の健康状態を調査した結果

・放射能が直接に影響したと考えられる健康被害は認められない
・汚染対策はもっと甘くてもよいが社会状況を考えると現状でやむを得ない
・今後、起こり得る住民の健康被害については、将来、ガンあるいは遺伝的影響による増加があっても、それは自然の増加と見分けることは困難

と発表。
要は、汚染地域で、いろいろな病気が増加しているのは、ラジオフォビア(放射能恐怖症)による精神的ストレスが原因とした。
ベラルーシやウクライナは、抗議したが、結局、無視されてしまった。


IAEAの報告に反して、深刻な事態が起きていた。
異変は、まず子供たちに起きた。
本来、100万人に1人か2人しかかからない小児甲状腺ガンが、事故から4年後の1990年から急増。
(事故後10年、800人、20年、4000人、25年、6000人と増加)
甲状腺は、全身の代謝をコントロールし、体や脳の発達に不可欠な甲状腺ホルモンをつくる重要な器官で、子供は甲状腺の細胞の分裂が大人に比べて活発だった。
事故によって放出された放射性物質の1つ、ヨウ素131は、体内に入ると甲状腺に蓄積しやすく、ガンを引き起こした。
その結果、甲状腺ホルモンの分泌異常が起き、成長期の子供の脳や体の発達が遅れてしまう恐れがあった。
チェルノブイリ型の甲状腺ガンは、通常のタイプに比べ進行が早く転移しやすい特徴があった。
このため発見され次第、すぐに手術を受け、その後、治療を受け続けなければならなかった。
汚染の高い地域ほど小児甲状腺ガンになる人が多く、ガンのタイプが通常のものと違うことから、原因は放射能の影響に間違いはなかった。
事故当日、プリピャチに来ていた少女は、10年後、甲状腺ガンと判明したとき、すでに肺と脳にも転移しており治療は不可能で14歳で死亡したり、プリピャチで被曝しキエフ市に避難した少女が26歳で脳腫瘍によって死亡したり、若い年齢で死亡する人が増えた。
また汚染地域に住む妊婦にも異変が起こった。
貧血が事故前に比べ10倍に増え、子宮内出血や早期破水など、主に母体の異常で死産や早産が多発。
出産した母親の母乳にセシウムやストロンチウムなどの放射性物質が含まれていることもあった。

1991年3月、
ソ連政府が元リクヴィダートルへの支援を決定。
記憶力低下、うまくしゃべられない、幻覚や幻聴、、白内障、白血病、ガン、チェルノブイリから帰任したリクヴィダートルたちから深刻な症状が多く確認されていた。
にもかかわらず彼らは何の支援も補償も受けられなかった。
「生活を奪っておきながら、病気になれば事故とは関係がないといい張る。
まさに犯罪行為だった」
と声を上げる人もいた。
一方で退役軍人として扱われ年金をもらっているためか、国に尽くしたプライドのためか、国を悪くいうことをためらう人も多かった。
リクヴィダートルは、事故時に現場にいた人に次いで被ばく量が多いといわれているが、精神や脳の障害が多いのが特徴だった。
それまで脳は人体の中で最も放射能に対して耐性があるといわれていた。
元リクヴィダートルが起こすさまざまな精神症状も、原因はストレスとされた。
しかしその定説は覆された。
精神症状のある元リクヴィダートルの患者、173人を検査した結果、程度に差異はあるものの全員の脳に異常が発見された。
脳の血液の流れが悪いだけでなく、神経細胞の働きまで低下し、脳の萎縮もみられ、死亡した事故処理員の脳を解剖すると放射性物質が蓄積されていた。
作業中に大量に吸い込んだ放射性物質が血管を通って脳に入り込み、放射線を浴びせ続け、少しずつ神経細胞を破壊していった。
脳の中心部、脳幹や視床下部が破壊されると、食欲や性欲が失われたり、強い疲労感や脱力感に見舞われたり、手足の動きをうまくコントロールができなくなり、外側の脳が破壊されると知的な作業ができなくなったり、記憶力が低下した。
ソ連保険省は、事故から2年の間に事故処理に参加した1886人について8年間追跡調査した「事故処理員の後遺症と将来予測」で

・心臓病、脳、神経、精神の障害、ガンが多発している
・ガンの発病率は一般の人の3倍
・4人に1人は労働不能の状態に陥り
・30代の人がまるで50代の人のような体になっている
・事故のあった年の処理員の100%が西暦2000年には労働不能状態に陥り、平均死亡年齢は、44.5歳になるだろう

としている。

1991年8月18日、国家非常事態委員会と称するグループ(ヤナーエフ副大統領、クリュチコフKGB議長、ボリス・プーゴ内相、ドミトリー・ヤゾフ国防相、ヴァレンチン・パヴロフ首相、オレグ・バクラーノフ国防会議第一副議長、ワシリー・スタロドゥプツェフソ連農民同盟リーダー、アレクサンドル・チジャコフ国営企業・産業施設連合会会長)が、別荘で休暇中のゴルバチョフと面会し、大統領辞任を要求。
ゴルバチョフは拒否したため、そのまま軟禁された。
ソ連共産党の保守派グループが起こしたクーデターだった。
モスクワにはクーデター派の指示を受けた戦車部隊が現れ、モスクワ放送は占拠されアナウンサーは背中に銃を突きつけられながら放送を行った。
ロシア共和国大統領:ボリス・エリツィンは
「クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法」
と激しく非難。
自ら戦車の上に乗り旗を振り、市民に呼びかけ、兵士を説得。
それに応じた市民がロシア政府ビル(別名:ホワイトハウス)周辺にバリケードをはって、銃と火炎瓶で臨戦態勢をとった。
翌日には10万人の市民が集結し
「エリツィン!ロシア! エリツィン!ロシア!」
とコール。
8月21日0時、
戦車がロシア政府ビルへ向け前進。
市民側は火炎瓶を投げつけるなど抵抗し、10数名が死亡。
やがて戦車部隊が撤収すると、エリツィンは国家非常事態委員会に権力の放棄するよう通告。
実質的なリーダーだったクリュチコフKGB議長は、エリツィンにゴルバチョフ大統領との話し合いを申し出た。
その他の国家非常事態委員会メンバーは、辞任を表明したり、国外へ逃亡したり、拳銃や首を吊って自殺したり、また泥酔している者もいた。
ゴルバチョフは、クリュチコフKGB議長と同じ飛行機に乗ってモスクワに戻った。
しかし側近にクーデーターを起こされたゴルバチョフにも、一枚岩ではなくなったソ連共産党にも、ユーラシア大陸の複数の国を率いる力はすでになかった。

1991年12月25日、
構成国の相次ぐ民主化、独立により、ソ連崩壊。
事故から5年経って、汚染地域は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3ヵ国に分割され、その対策も分け合うことになった。
人々は隠蔽された事実や犠牲者が明らかにされ救済が進むことを期待したが、ソ連共産党の秘密文書や情報が公開されることはあったものの、国による被害者の無視や切捨ては続いた。
事故直後から住民の移住が始まったが、これは行政にとって大きな負担となっていて、連邦の崩壊すると各国の負担はますます増えた。
中でも最も大きな負担を抱え込んだのがべラルーシだった。
国土の約23%が放射能で汚染され、200万以上の人々がそこに暮らしていた。
これは国民の5人に1人の割合だった。
ベラルーシは毎年、国家予算の15%以上をチェルノブイリ対策につぎ込んでいたが、やがて悪化する一方の経済を理由に大幅見直しを決定。
移住中心をやめ、汚染地域で住む人たちに今後も住み続けてもらうため、汚染された薪や井戸水を使わなくてよいようガスや水道の整備を進めた。
それはは住民が汚染地域に住み続けなければならないことを意味した。
自給自足の農村では、放射能で汚染されている畑や森から食料や燃料となる薪を得ていて、以前は重い病気をする人など滅多にいなかったのに、病人がいない家はないほど健康状態は悪化した。
放射能が体内に蓄積され、免疫機能(体の抵抗力)が低下し、さまざまな病気を引き起こしていると考えられた。
ベラルーシ政府は水道やガスは供給してくれるが、安全な食品はくれないので自給自足の生活は続く。
汚染された食品を食べ続けることで体に何が起こるのか、不安は残る。
「私たちは国から見捨てられたんです。
汚染された食品を食べ続けてベラルーシが滅んでも地球全体には何の影響もないでしょう。
1つの民族が消えたという程度ですよ」

1996年、
自殺から8年後、ヴァレリー・レガソフは、ボリス・エリツィン大統領から「ロシア連邦英雄」の称号を授かった。
1997年、
ロシアの地質学専門誌:地質物理ジャーナルに「チェルノブイリ原発地域での地震事象」という論文が発表された。
「4号炉が爆発する約16秒前、チェルノブイリ原発近くで地震が発生しており、原子炉を停止しようとAZ25を押したが、この地震によって地震により制御棒の挿入が不可能となり4号炉が爆発した」
という内容だった。
ソ連では、地下核実験のデータ収集のために地震計が各地に設置されていて、チェルノブイリ原発の西方100〜108kmに設置されていた3カ所の地震計が、1986年4月26日1時23分39秒にマグニチュード1.4の地震を感知していた。
これに対して、
「4号炉の爆発に伴う振動を地震計が記録した」
という意見もある。
2000年12月15日、チェルノブイリ原子力発電所の全原子炉が停止。
無傷の1号~3号炉は稼働し続け、1991年から随時稼働を停止していき、事故後、15年後、ようやく原子の火は消えた。
しかし石棺の中の4号炉は依然として放射性物質が充満していた。

事故後、4号炉周辺の針葉樹の森には、ストロンチウム、セシウム、プルトニウム、ウラン、さまざまな放射性物質が降り積もった。
数日間で数え切れない動物、昆虫、植物、微生物が命を落とし、何千本もの松の木が、赤くなり枯れ、死の「赤い森」といわれた。
復旧作業が始めると、赤い森は、拡散を防ぐべく、伐採され、土や砂で埋められ、かつて森や湿地、湖、川などが広がっていた原発周辺は、月面のような不毛地帯に変わり果てた。
何も知らない自然は、重機でならされ薬品がまかれた土地に触手を伸ばし、新しい森が包んでいった。
天変地異が起きた土地で、動植物は死に絶えるか、病に蝕まれ、さらにその子孫の先天的異常も予測された。
巨大化した植物、奇形動物の報告もあり
「奇形の生物が住む魔の森」
といわれた。
ある学者は、放射能汚染マップをみながら農場を回り、ツバメを捕獲し、突然変異の痕跡がないかを調べた。
すると左右非対称の翼や尾、部分的な色素の欠乏、くちばしや目の奇形、腫瘍などの異常がみられた。
そういった身体的変化は、放射能濃度の高い地域ほど強く、汚染されていない場所でこういった変化が起こる確率は低かった。
最も汚染のひどい地域では、ツバメの精子が死んでいて、卵と雛の死亡率も高かった。
長期的な放射線被曝に対する反応は種によってさまざまだった。
渡り鳥であるツバメは放射能に非常に敏感だったが、移動しない鳥はそれほどでもなかった。
針葉樹よりも広葉樹であるカバノキのほうが放射線に強かった。


4号炉から2km、放射線量が通常の1000倍の場所で罠にかかった鼠はとても元気だった。
地表近くで暮らし、食べ物による内部被曝と土が出す外部被曝に24時間毎日さらされ続ける上、次々に子供を産んで人間の1世代で40世代進むネズミは、放射線の遺伝的影響を調べる研究対象に適任だった。
彼らの体から出ている放射線を測定し、異常がないかどうかを調べると、体内に大量の放射性物質を蓄積されながら生きていて、見た目に異常はなかった。
爪のかけらを培養器に入れDNAの配列を1匹分ずつ解読してみても、突然変異の割合は非常に低かった。
「動物達の体に障害や異常があるのは明らか。
また放射能レベルが高い環境で暮らしているので、体にストレスがかかっていることや、損傷を修復するシステムがフル稼働していることは間違いない。
それにも関わらず調査したどの動物も放射線で受けた損傷を自ら修復し生きていけることがわかった。
これは防衛機能を持っていることを明らかに示している」

事故数日後に制限区域で採れた小麦の種子を汚染されていない土壌で発芽させると、多くの株で突然変異がみられ、それは25年経っても遺伝的に不安定な状態が続いた。
ところが原子炉付近で育った大豆では、放射線から身を守るための分子レベルの変化が起きた。
4号炉から18km離れたデイケアセンター施設は研究所に変わり、禁止されている食物の栽培が行われた。
採取した何千もの植物を検査し、2つの放射性物質、セシウム137とストロンチウム90が生物の組織にどうやって入り込むのか、仕組みを明らかにした。
それらは別の物質に成りすましていた。
放射性物質であるセシウムはカリウム、同じくストロンチウムはカルシウムと化学的に性質が似ていた。
そのためカリウムとカルシウムを大量に必要とするカバノキは、それらを大量に吸収してしまい、汚染を深刻なものにしていた。
人類がこうした物質を作り出すまで地球上になかったので、植物はセシウムをカリウムと間違え、ストロンチウムをカルシウムと間違って無防備に取り込んでしまうようだった。
どんな植物もカリウムとカルシウムがなくては生きていけないが、どのくらい必要とするかは種類によって違うためセシウムとストロンチウムをの吸収量も種類によって違った。
研究所は畑で採れた作物1つ1つ徹底的に分析。
被曝しても心配なく食べることにできる作物もあった。
自然は一見穏やかだが、生物の体内では放射線との戦いが繰り返されていた。
ある種はDNAが損傷し、ある種では適応が起こった。
人間は、ツバメなのか、ネズミなのか。
現在はリクヴィダートルの子供が子育てを行う、事故後、第3世代。
放射線被曝が人間の遺伝子に与える影響。
その答えが出るまでさらに数十年、あるいは数百年かかるかもしれない。


現在でも、4号炉との距離や風向きなどで「ホットスポット」と呼ばれる高線量エリアや赤い森は存在している。
しかし立ち入り禁止区域のほとんどで半減期の短い放射性物質は消滅し、長いものは徐々に土に沈み、風や動物や昆虫によって散り散りになり、野生動物が繁殖。
事故以前にはいなかった動物も外から移り住んできた。
人がつくり出した最強のエネルギー、原子力に犯された自然がどのように回復するのか、原発周辺は巨大な実験室と化した。
ある学者は、動物が好むにおいがする脂肪酸を置いた「セント(におい)ステーション」を各所に配置。
動物がにおいを嗅ぐとカメラが反応し、その姿を捉えた。
「写真はウソをつきません。
それがカメラのいいところですね」
立ち入り禁止区域の中で最も野生動物が多いのは、住民がいなくなった村の跡で、農地や庭園で豊かな暮らしを築き上げていた。
プリピャチの街も、建物の中にまで植物が入り込み、通りを野生動物が闊歩した。
ビーバーは、かつて4号炉の冷却水に使われていた湖で泳ぎ、ヒグマは森でコロニーを形成。
オオカミは、ウクライナの中でも特に天然な状態にあった。
この場合、「天然」とは、オオカミの食料に人間の食べ物が入っていないことを意味している。
通常、オオカミは、人間の居住地の近くにいて、家畜やペット、ゴミも食料になる。
チェルノブイリのオオカミは他の野生動物を捕食し、魚も捕ることもあった。
肉食だけでなく、果樹園跡では果物を採って食べた。


ウクライナの動物学者は、立ち入り禁止区域に絶滅危惧種のモウコノウマ30頭を解き放った。
彼らの繁殖に加え、彼らが繁茂した草を食べ山火事の危険性を下げる目的もあった。
やがてウクライナからベラルーシにかけ、約60頭が群を形成するようになった。
かつてモンゴル高原に生息していたモウコノウマは、暑さや蚊を避けるために古い納屋や建物に入り、中には横たわって寝ている馬もいた。
プリピャチ近くの実験農場では、「アルファ」、「ベータ」、「ガンマ」、「ウラン」と名づけられた3頭の雌牛と1頭の雄牛の観察が行われた。
初め、4頭は被曝線量が高く、不妊の状態にあったが、やがて回復し、子牛も誕生した。
鳥たちは石棺に巣をつくった。
半径約4.8km圏内で絶滅危惧種のオジロワシが捕獲され、ウクライナ全体でも100羽くらいしかいないといわれるワシミミズクが石棺付近の掘削機の上でうたた寝する姿も目撃された。
それどろこか4号炉の中にできた大きな穴を出入りする鳥もいた。
4号炉の壁面から、蓄積した放射能を食べるこで成長を続ける菌類も確認された。
この菌類は、放射性物質を分解し、エネルギーに変える力を持っているという。
自ら生み出した原子力から逃げ出した人間は、どんなに痛めつけられても自力で回復する自然の力強さを思い知らされた。
ガイア理論(地球と生物が関係し合い環境をつくり上げていることを、ある種の巨大な生命体とみなす仮説)の提唱者:ジェイムズ・ラヴロックは、
「熱帯雨林に放射性廃棄物を埋めれば人間の破壊行為から守ることができる」
と主張した。


事故直後、原発周辺はフェンスと武装した警備隊によって封鎖された。
その範囲は拡張され、96kmまでが立ち入り禁止となり、入り口には、スクリーニング(汚染検査)機器を備えた検問所が設けられた。
赤い森を含む一部の中心エリアについては依然、致命的な危険をはらんでいるが、多くの場所で放射能濃度が1/数百まで下がり、66種の哺乳類と11種の爬虫類、249種の鳥類が確認され、
「皮肉なことに立ち入り制限区域は稀にみる生物多様性の保護区になった」
と報告されるとウクライナ政府は、4号炉から9.7km圏内を除く比較的安全な地域を観光客に開放すると発表。
(またロシア設計の原子炉2基をウクライナ西部に建設する計画も承認。
ソ連崩壊後、ウクライナで新たに原子炉が稼働するのはこれが初めて)

プリピャチは事故翌日に、5万人が退去させられて以来、誰1人、帰還を許されていないゴーストタウンだったが、年間数万人が訪れウクライナの最もホットな観光地の1つとなった。
SNSには、一般的な風景や観光写真に混じって、ガスマスクをつけたコスプレ写真や不気味なイメージに装飾された写真もアップされた。
250ドルを支払い、チェルノブイリツアーに参加する観光客は、多くの作業員や学者と共に4号炉から15km離れたチェルノブイリ市に滞在する。
チェルノブイリ市には一定期間しか留まることが許されず、ホテルの従業員も3ヵ月交替で勤務していた。

30km圏内にある自宅に戻る人もいた。
強制的に退去させられた後、政府から賠償金と近郊の都市や町でアパートを与えられたが、約200人が自主的に立ち入り禁止区域内の我が家に帰還。
高齢化が進み、他の地域から寸断されているため、生活は苦しい。
「子供がキエフから訪ねてきたときは生きている実感があるけれど、それ以外は面白いことはありません。
でもここが私たちの土地、ふるさとです。
かけがえのない場所です」
4号炉からから90km、立ち入り禁止区域が設定されていたナロディチでは、30年にわたる調査の結果、食料生産や土地開発をしても安全だと結論づけられた。
事故前、幼稚園には360人の園児が通っていた。
事故3ヵ月後に帰宅許可が下りたが、大勢が放射能汚染を恐れ、子供は25人に減り、大半の親は仕事がなかった。
その後、次第に住民が戻り、幼稚園は130人の子供でにぎわうようになった。
政府はこうした汚染地域の調査と見直しを行っているが、ナロディチとは逆に、深刻な汚染を受けていながら住民に避難命令が出ていない地域がみつかることもある。

2016年、事故から約30年、石棺をすっぽりと覆う100mのアーチ状のシェルターが完成。
覆われた中では、ロボットクレーンが解体を行っている。
シェルターは最低でも100年の耐用期間があるということだが、依然として中には16tのウランとプルトニウムが眠っている。
周辺では、ヨウ素131はすでに崩壊し、ストロンチウムとセシウムの危険性も薄れた。
しかしプルトニウム241は崩壊すると、アメリシウム241に姿を変える。
アメリシウムは、プルトニウムよりも強力なアルファ線を出す上、より水に溶けやすく食物連鎖のなかに入り込みやすい。
さらにアメリシウム241が崩壊すると、これもまた強力なアルファ線を出すネプツニウム237に変わり、その半減期は200万年以上といわれている。

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