1998年2月6日、メトロポリタンホテルで
「改めて分裂の真実や今後のことについて話しをしたい」
という大山智弥子に呼びかけにより3年ぶりに支部長協議会派と松井派が会合を持った。
参加者は、
大山智弥子、
大山喜久子(三女)、
西田幸夫、
三瓶啓二、
三好一男、
小林功、
緑健児、
大濱博幸、
松井章圭、
郷田勇三、
盧山初雄、
浜井識安、
山田雅捻、
廣重毅
の14名。
「私はこの現状がよくわからないんですよ。
だけどこのままじゃいけないんじゃないかなと思って。
この数年、体の具合もよくないんです。
神経の使いすぎなんですよ。
だから少し休ませてもらいたいというわがままから、今日は皆さんにお目にかかって、もう1度話し合ったらいいんじゃないかと思ったの。
そんな深い意味はないのよ。
どっちが悪いから謝りなさいとかそういうことではないの」
そういう大山智弥子には
「自分たちは事務長が健康で長生きして楽しい生活を送ってくれればいいんですよ」
「事務局長が納得できるようにしてください」
と気遣いをみせながらも松井派と支部長協議会派派は、数年前同様、話し合いではなく言い合いを始め、分裂騒動の責任を押しつけ合い、極真会館、商標権、大山倍達の墓石建立の権利を主張し合った。
また大山派は
「統一戦というのも面白いと思います」
と提案したが、松井章圭は、まずは組織の問題が先決と拒否した。
「今日は智弥子館長の呼びかけで集まり我々の関係をわかってもらうというのが目的です。
館長、おわかりいただけましたか」
(西田幸夫)
「よくわかりました。
こうしなさい、ああしなさいということは私は絶対にいいませんから。
どうも皆さんありがとうございました」
(大山智弥子)
「ありがとうございました。
押忍」
最後は全員がそろった。
極真を愛している気持ちは同じだった。
1998年4月18日、、フランス・パリのベルシー総合体育館で極真カラテ・ワールドカップ・パリ大会が開催された。
軽量・中量・軽重量・重量・無差別の5階級、5人1チームの団体戦で、世界8つのエリアで予選が行われ、パリで行われた決勝トーナメントの決勝戦で、日本Aチームとブラジルチームが対戦。
中量級で福田達也がアンデルソン・ダ・シルバに延長1回判定勝ち。
その延長戦でシルバが掴みの反則で減点1を取られたためブラジルは、-3ポイント。
重量級で高尾正紀がグラウベ・フェイトーザに上段膝蹴りで合わせ1本負けし、日本Aは、-5ポイント。
勝ち数は並んだが、2ポイント勝るブラジルは、引き分けでも優勝という場面で、無差別級の数見肇がセルジオ・コスタに本戦判定勝ち。
日本Aチームが優勝した。
試合後、数見肇ら日本チームは街を歩いた。
そこで海外の支部長たちに出会い、
「ついてこい」
とジェスチャーされレストランに入った。
オゴッてもらえると思った数見肇は腹がはち切れんばかりに食った。
食べ終わり、支部長を探すと彼らはすでに帰ってしまっていた。
お金もない、言葉もわからない数見肇たちは、仕方なく1人、1人とレストランを出た。
パリで食い逃げをした数見肇たちは翌日、松井章圭に怒られた。
1998年4月25日、松井派が総本部道場で、「大山倍達の4年祭」を行った。
外部からの参列者はなく少数で行われた。
4月26日、大山派が、東京都文京区の護国寺で「大山倍達5回忌法要」を行った。
遺族、遺族派、支部長協議会派、真樹日佐夫や杉原正康(白蓮会館館長)、佐藤勝昭なども100名以上が参列。
この中で、大山倍達の墓のお披露目式も行われた。
そして4年経ってやっと建ったお墓に遺骨が納められた。
「この風を起こしたのは誰でしょうか?
今でも瞼を閉じれば総裁の大きな背中が語りかけてきます。
大山総裁の息吹にふれた心を伝える者の1人として責任を感じています。
強さとは何か?
答えはまだ出ていませんが、極真の旗のもとに集う者は1つと信じています。
墓石、記念碑の建立も皆様のご協力の賜物です。
この場所を聖地として1人でも多くの青少年に大山総裁の心を継承して欲しいと思います」
そう挨拶したのは、墓碑建設委員会長となった緑健児だった。
西田幸夫は、資金援助などは協力はするが、基本的に遺族が建てるべきいうスタンスで、あまり積極的ではなく、緑健児が資金集めに奔走した。
松井派は誰も参列していなかったが、三瓶啓二や緑健児は、もし松井章圭が来れば1番後ろに座らす予定だった。
松井章圭は立派な墓を建てたかったが叶わなかった。
「ご遺族の意志が優先されなければならない。
そしてなぜかご遺族は私に遺恨を抱いていらっしゃる。
何度もお墓を建てさせていただきたいと奥様に申し上げても、どういう理由か協議会派から拒否の返事が来る」
1998年5月26日、大山派が全国支部長会議を開き、人事の改編が行われ、西田幸夫は特別相談役になり、三瓶啓二が新代表になった。
代表:三瓶啓二
副代表:緑健児
専務:大濱博幸
理事:小林功、柳渡聖人、七戸康博
その後、大山倍達の墓の名義が緑健児であることを知った遺族は、墓の名義を遺族に返すよう求めた。
資金はすべて大山派が出していたが、大山喜久子(三女)は
「父の墓を返して!」
と強く主張した。
大山智弥子はそれほどでもなかった。
大山恵喜(次女)もニューヨークでのスキャンダル以降、三瓶啓二と三女に不信感を抱き距離を置いていた。
大山派と親密だった大山喜久子(三女)が豹変した理由は、三瓶啓二だった。
「すべての元凶は三瓶師範だと思います。
喜久子さんとの関係について、あまりにも無責任すぎました。
三瓶師範への幻滅が喜久子さんの意識を変えたのです。
実際、私たち支部長の多くが協議会派を離れたのもそれが大きな理由だったくらいですから・・・」
(増田章)
1998年11月、商標権を持つ松井章圭が、
「自分の有する極真の商標を使用することは商標権の侵害に当たるので、自分の許可がない限り使用しないように」
と圧力をかけ始めた。
松井派を脱退後も極真の名前で活動している団体や個人と裁判沙汰が増えた。
1998年12月14日、会館に使用に関する問題で、松井章圭が1度も裁判所に出頭しないままの調停は続いていたが、この日も裁判所に松井章圭が現れなかったため
「もはや相手方に調停する意向はないものといわざる得ない」
と遺族側が調停を取り下げた
1998年12月31日、これまでK-1で一撃旋風を巻き起こしてきたフランシスコ・フィリョが、マイク・ベルナルドのパンチでKO負け。
大山派は
「松井は館長を解任されているので正当な極真会館は我々であり、極真空手は敗れていない」
「我々はアマチュア精神に則り、これからも大山総裁の意志である「最強の空手」を受け継いでいく」
と訴えた。
1999年2月17日、
・3月31日までに極真会館を明け渡す
・明け渡しまで、1日4万円を10日間ずつ遺族に支払う
などの条件で遺族と松井章圭の和解が成立。
この裁判を最後に、大山恵喜(次女)は分裂騒動から身を引いてアメリカに帰っていった。
「三瓶さんが大泉の家に居ついている姿は何度もみました。
悪びれる様子もみせず当たり前のように父が着ていたパジャマを着て、父が使っていた茶碗で箸で食べて、父が使っていた茶碗でお茶を飲み、父が使っていた布団で寝ていた。」
挙句に妹を妊娠させて。
取り巻き連中を集めてお酒を飲んでドンチャン騒ぎするし、妹は女房気取りでいるし、母親は何もいわず笑っているし、私は何もかもが嫌になりました。
妹を責める気も母親も責める気もなくなって・・・
ただ三瓶さんの行為だけは許せなかった。
不倫ですよ、不倫。
子供までつくって。
私は絶対に天罰が下ると信じています。
そんなわけで私は父の遺言書とか極真の問題にかかわるのをやめたのです」
1999年3月6日、松井章圭は、東京都豊島区西池袋2丁目38-1の6階建てのビルを丸ごと借りて「極真会館総本部」を開設。
新会館にはたくさんの花が届いたが、その中に大山智弥子から贈られたものもあった。
1999年3月13日、移転1週間後、数見肇の100人組手が行われた。
新会館は旧会館に比べ道場が狭いため、対戦相手は10人ずつ入れ替わり、それ以外は階下で待機した。
遺言書は棄却され、正式な2代目館長という法的根拠を失い、総本部も返還することを余儀なくされ、それでも松井章圭は強気な姿勢を崩さなかった。
東京都豊島区池袋に「BODY PLANT」が設立。
その名目は貸しスタジオ。
総合格闘技、キックボクシング、中国拳法など格闘技団体が入った。
また松井章圭を実行委員長とする「Kネットワーク」という組織が創設された。
これはプロとアマチュア、団体と団体、さまざまな垣根を超え、選手や技術の交流のためという名目だった。
これらは、K-1、キックボクシング、総合格闘技などに挑戦する極真の選手のサポートや養成を行うためのものでもあった。
「極真からプロのリングに多くの選手を送り出している現状を考えると出場は認めるが後は勝手にやれではあまりに無責任すぎる。
そこでK-1などへの出場を希望する選手に経験や学習を積ませる場をつくろうということでKネットワークは誕生しました」
(松井章圭)
1999年6月、大山派が第13回全日本ウエイト制大会を開催。
遺族派からは支部長も選手も1人の参加もなかった。
1999年8月、大山智弥子が大山派の館長を辞任。
三瓶啓二と大山喜久子(三女)のスキャンダル、墓の名義問題などによって遺族と大山派の信頼関係は崩れた。
「分裂後、支部長協議会派は「松井が館長を続ければ極真はなくなる」と母を口説き、私たちは彼らを「白馬に乗った王子様」のように思った。
だが自分たちの利益を追うばかりで、母に支払うと約束したお金もいろいろな理由をつけて払わなかった。
やがて生活費に困って、練馬に勝った家のローンが払えず、父の預金通帳まで差し押さえられてしまった。
私たちには墓を建てる資金がなかった。
父名義の大口取引があった銀行の通帳は松井さんに管理されていた。
半ばあきらめかけていた墓だが、若手支部長だった緑健児さんが建設計画を熱心に勧めてくれた。
緑さんは母からも信頼され
「僕を実の息子だと思って墓建設をやらせてください。
総裁への恩返しです」
と母を説得した。
墓碑建設委員会をつくり、母を会長に、緑さんは実行委員長に就任した。
全国の支部長に声をかけ、母名義の通帳に寄付を募ってくれた。
だが父の墓は政治的に利用され緑さんの名義に変えられた」
(大山喜久子(三女))
当初、遺族、遺族派、支部長協議会派が一体となって大山派はできた。
それが次々と離散し、結局、三瓶派となった。
1999年11月、第7回世界大会では、決勝戦でフランシスコ・フィリョと数見肇が対戦。
2度の延長戦でも明確な差が出ず、試割り判定にもつれ込み、1枚差でフランシスコ・フィリョが勝った。
初の外国人チャンピオンだった。
「極真が世界中に拡散して約半世紀が経ち、王座流失という事態はある意味必然といえるかもしれません。
極真空手、すなわち直接打撃制空手という新しい格闘技文化が、海外にも正しい形で根づき、
極真会館が真に国際的な組織として深く根を下ろしたということの証明であるのかもしれません」
厳密にはそういう松井章圭自身が第4回に置いて優勝した時点で初の外国人チャンピオンである。
数見肇は、第24回~30回全日本大会まで7年連続決勝戦に進出、優勝4回。
世界大会は2回連続2位。
すさまじい戦績だったが、初めて外国人に王座を明け渡した戦犯として極真の十字架にかけられることになる。
1999年12月4、5日、三瓶派が東京体育館で第7回世界大会を開催。
最終日の試合終了後、
「重大発表がある」
と急遽、代表:三瓶啓二、副代表:緑健児、高知県支部長:三好和男らが記者会見を開いた。
「先月行われた松井側の世界大会で外国人選手がチャンピオンになり日本敗北と騒がれていますが、日本は負けていないと。
僕らとしては極真は1つだと思っていますが、もう1つ世界大会があったことは事実であり、それなら世界一を決める統一戦も辞さない。
日本は絶対に負けていないということを伝えたいと、もしあちらが望むのであれば受ける方向で考えています」
意気込んで臨んだ会見だったが
「松井派側は望んでるんですか?」
「望まれれば受けるという受け身の姿勢なのか、自ら働きかけて実現の方向に持っていきたいという攻めの姿勢なのか、どちらなのでしょうか?」
「選手は知っているのですか?」
などとマスコミの反応は鈍かった。
テレビなどメディアの露出で勝る松井派にとって統一戦や対抗戦にメリットがあるとは思えなかった。
明らかに塚本徳臣の優勝を見届けた三瓶啓二の見切り発車だった。
1999年12月6日、世界支部長会議(三瓶派)で、西田幸夫は組織離脱を表明した。
「松井派と接触するのは、ここ数年の自分たちを否定すること」
(西田幸夫)
西田幸夫だけでなく多くの支部長が三瓶啓二の統一戦発言に強い違和感を持った。
「統一選構想は首脳陣の暴走」
(桑島保浩)
「自分たちが否定した団体に対抗戦を呼びかける自体、大きく矛盾していますよ。
なぜあんな暴挙に出たのか理解できない」
(増田章)
三瓶啓二の統一戦の呼びかけを松井派は相手にしなかった。
「うちの選手と戦いのであれば我々の主催する大会に参加すればいいのではないのでしょうか」
(松井章圭)
「大山総裁のマネをしたのでしょうが何をバカなことをいっているんだという感じでした」
(浜井識安)
2000年1月、増田章、中川幸光(岡山県支部長)が三瓶派を離脱。
この後、三瓶派所属の道場の指導者や選手、道場生が大量離脱が始まると
「西田による引き抜き」
「西田主導のクーデター」
と疑う声も出たが、西田幸夫は自分の道場「極真空手・西田道場(現:極真空手・清武会)」に専念し、以後、騒動に加わることは
2000年1月24日、津浦伸彦が、極真会館総本部(旧会館)で記者会見を開き、「極真会館宗家」の発足と「大山倍達記念館」の設立を発表。
極真会館宗家の宗主は、大山智弥子。
記念館は、道場の横の一室に併設され、道場の指導は、世界大会で優勝した塚本徳臣が行うという。
しかし塚本徳臣は、三瓶派所属の選手だった
取材を受けた塚本徳臣は
「組織は辞めません。
移籍といえば移籍ですが(三瓶派の)大会にはドンドン出ます。
組織には許可を取っているし智弥子さんのためにがんばりたいという気持ちです」
といったが、三瓶啓二や緑健児が許さすとは思えなかった。
次に
「総裁のご遺族と指摘に関係を持った挙句に絶縁される。
そんな代表に誰がついていけますか?、
長年尊敬してきた先輩ではありますが、三瓶師範には心底失望しました」
と三瓶派を脱退した増田彰を宗家師範代にするという案が浮上。
大山喜久子(三女)は、増田彰に「2代目・大山倍達」を襲名することを提案した。
最終的に運営の金銭的な問題で折り合いがつかず増田章は宗家から身を引き、弟子の鈴木義和が指導員として宗家に移籍することになった。
師範代は、1995年に分裂騒動を仲介しようとした3長老の1人、三宅進が就任。
「宗家総本部は極真の中では吹けば飛ぶような存在ですが、「極真の父は大山倍達だ」と胸を張っていえるのは宗家だけでしょう」
津浦伸彦も最初は大阪から東京まで来て指導に参加していたが、大山喜久子(三女)と金銭的な問題で衝突し、やがて大阪の自派「極真大山道場」に専念するようになった。
大山倍達記念館は、生前、大山倍達愛用の品や、全国の有志からもらったり借りた物が飾られ、当初は多くのファンが訪れたが、次第に減って閉鎖された。
2000年3月9日、三瓶派の緊急理事会が開かれた。
理事会だったが本来出席しなくてもいい支部長が所属の指導者、選手、道場生の大量離脱に危機感を抱いて多数出席。
まるで支部長会議な異様な雰囲気のなか、代表である三瓶啓二主導で会議は進んでいった。
すると突然、数名の支部長が立ち上がった。
「会計が不透明で我々一支部長には各道場から上がる金銭が一体何に使われているのかまったくわからない状態です。
世界大会の収支報告もないというのはおかしいおんではないでしょうか」
「(会計担当の)大濱支部長は毎週のように広島から上京し、そのまま北海道に飛んで数日過ごしている。
支部を開拓する目的でいっていると聞いたが、実際はゴルフ三昧で、それらも組織から出ていると噂になっている」
「塚本(徳臣)の写真集も私たちが知らないうちに出版が決まっていたり、出版したらしたで何冊も支部に買い取らせたり、これも一切報告がないのはおかしいのではないですか」
「極真魂(機関紙)を毎月100部も買い取らされて、どれだけ売れているのかも何部発行しているのかも教えてもらえない」
「松井を降ろしたときの「会計の不明瞭」そのものじゃないか」
大濱博幸は平然と答えた。
「必要なものに金を使っているだけですよ」
「北海道でのゴルフはどう説明するんですか。
何人も証人がいるんですよ」
「まあゴルフくらいは自分で出すべきだと思うが、大濱も極真のために一生懸命動いている点は理解してやらないと」
三瓶啓二はフォローしたが納得できない支部長たちは収支報告を要求した。
「とにかく今は経済的に非常に苦しいところがある。
そんなに支部の支出が大変だというなら会員制度を導入して全国の道場生から年会費を徴収するようにすればいい。
それが1番効率的だ」
松井章圭が会員制度を導入しようとしたとき反対した大濱博幸がいった。
「この件は責任をもって善処する。
大濱にも反省するところは反省してもらいたい。
可能な限り極真会館として定期的に収支報告をしてもらう」
と三瓶啓二はなんとか収めた。
「ほかになにか議案はありますか?」
三瓶啓二の声に木元正資が手を挙げた。
「三瓶師範のスキャンダルについて全国的に噂になっている現状なので、あえて質問させていただきます。
例の一件は本当なのですか?
それともただの中傷ですか?
この場ではっきり答えていただけませんか?」
三瓶啓二は沈黙した。
「自分は真実が知りたいだけなんです。
事実なら事実として一言でいいから謝罪が欲しいだけです」
(桑島保浩)
「この数年で何人もの支部長が辞めていきました。
それも三瓶師範の問題と無関係ではない。
三瓶師範がここでちゃんとした態度を示していただけないと、また辞めていく者がでてきてしまいます。
どうなんですか、師範」
(木元正資)
三瓶啓二は腕を組んで苦笑い。
さらに数名から同じ質問を浴びた。
「先輩!
このままでは何も解決しませんよ。
ハッキリしてください」
(柳渡聖人)
「要は俺に代表を降りろということか」
(三瓶啓二)
「自分にやましいことがあるなら辞めるべきなのではないですか」
(木元正資)
「それじゃ辞めさせればいいだろ」
(三瓶啓二)
「それは筋が違います。
辞めさせるのではなく辞任してください。
自ら責任を取って辞めてください」
(柳渡聖人)
「世界大会もいい形で終わって、ご勇退ということで結構ですから」
(坂本恵義)
「俺は噂を認めていない。
認めていない者が責任を取る必要はないだろう・
だから辞任はしない。
みんなに解任された形なら俺は認めていないんだから面目を保てる。
だから解任すればいいんだ」
「辞める、辞めさせるじゃなくて、あの噂についてデマならデマとハッキリ答えてください」
(桑島保浩)
「いいから、解任してくれればそれでいい」
(三瓶啓二)
「先輩、俺はあんたを見損なった
三好和男は立ち上がり議長席に詰め寄った。
「今まであんたを信じついてきた。
誰かが遺族との噂のことをいっていたら「そんなデマ信じるな」と口止めまでしてきた。
なのに事実をいわず、挙句に辞めさせればいいだろうなんて・・・
まるで事実と認めているようなもんじゃないですか。
これ以上議論しても仕方ない。
先輩が辞めるも何も理事会で決めればいいでしょう。
辞任も解任も関係ないですよ」
三好和男を無視する三瓶啓二をみて桑島保浩が席を立った。
「もういいです。
自分は辞めさせていただきます」
数名の支部長も続いた。
「もう1度話そう。
頼むから戻ってくれ」
緑健児が追ったが、さらに小鳩殉也(千葉県支部長)、三和純(城西支部長)、園田直幸(宮崎県支部長)らが出て行った。
残された面々は、しばらく時間をおいてから会議を仕切り直すことにした。
数時間後、会議が再開。
三瓶啓二は、自分が代表を降りる代わりに次の代表を選ばせて欲しいといった。
「三瓶先輩に続けてもらえばいいのではないか」
数名が三瓶啓二の代表継続を要求したが、大多数は無言で反対の意を表した。
「俺は代表を続けるつもりはない。
だが疑惑を認めていないし会計の問題は大濱が辞任することでケジメをつけたいといっている。
じゃあなぜ代表を降りるのか。
それはつまらない噂で会議を混乱させたから、だから解任しろといった。
特別大きなトラブルを起こしたわけじゃない。
ならばせめて次期代表の指名権くらいもらってもいいんじゃないのか」
しかし三好和男は、新理事は前理事の承認を得て選出され、倫理時による選挙で代表理事を選ぶという規約に則って新代表を決定しようと提案。
過半数の賛成を得た。
そしてまず新理事の選出が行われた。
緑健児、小林功、七戸康博、木元正資、入来武久、坂本恵義、三好和男、田畑繁が選ばれた。
すぐに8名の新理事による新代表の選挙が行われた。
緑健児 4票(緑健児、小林功、入来武久、三好和男)
七戸康博 3票(木元資、坂本恵義、田畑繁)
木元正資 1票(七戸康博)
こうして
代表:緑健児
理事:小林功、七戸康博、木元正資、入来武久、坂本恵義、三好和男、田畑繁
と決まった。
後で緑健児は坂本恵義にいった。
「なんで俺に入れてくれなかったんだ」
「先輩はなぜ自分に入れたんですか」
「自分しか適任者はいないと思ったから」
七戸康博が自分に入れていれば同票だった。
2000年3月1日、緑健児が記者会見で代表就任を発表。
緑健児には、松井章圭同様、クリーンなイメージがあるのに加え、単純明快でフレンドリーなイメージもあった。
緑派は、従来の全日本大会、全日本ウエイト制大会、世界大会を継続しつつ、会員制度、ワンマッチ、プロ格闘技への参戦など、かつて大山派、あるいは支部長協議会派時代に否定していた松井派の手法もどんどん導入するなど、柔軟で大胆な改革を行っていった。
「極真分裂.04 みんな極真を愛していた」に続きます。