1995年3月、郷田勇三は西田幸夫から電話を受けた。
「多くの支部長が松井章圭に我慢できないといっているので、支部長協議会か全国支部長会議を開いて話し合いたい」
そして数日後、突然、連絡もなしに西田幸夫がやってきた。
「師範、全員そのつもりですから。
師範もどうか自分たちに協力してください。
みんな待ってますから。
明後日です。
お願いします」
「全員って本当かよ。
それは支部長協議会でやるのか?
それとも支部長会議なのか?」
「一応、支部長協議会です」
「西田、そんなにすげなく帰るなよ。
今日はいい鰹が手に入ったから一緒に飯でも食いながら話そう」
「申し訳ありません。
今日はこれで失礼します」
郷田勇三は背中を向ける大山道場時代からの後輩にいった。
「支部長協議会なら議長であるおまえにも開く権利はあるが、支部長会議となれば館長の要請か了承がないと開けないぞ」
西田幸夫が帰ると郷田勇三は盧山初雄と松井章圭に電話を入れた。
1995年3月9日、メトロポリタンホテルに、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、西田幸夫、廣重毅が集まった。
西田幸夫、廣重毅から話を聞き、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄事態は深刻さを知った。
「お前は明日の会議に出ない方がいい」
(盧山初雄)
「それはおかしいでしょう」
(松井章圭)
「お前がいたらみんな何もいえないんだよ」
(廣重毅)
「とにかくまず私たちが意見を聞いてくるから」
(盧山初雄)
「わかりました。
その代わりに10日の会議で出た内容を踏まえて11日にもう1度会議を開いてください」
1995年3月10日、全国の支部長がメトロポリタンホテルに集まり、支部長協議会議長である西田幸夫が議事を進めていった。
「なぜ密葬のときに後継者を発表してしまったのか?」
「本葬後、香典は銀行が管理することになっていたのに松井が持って帰った」
「松井は極真のマークやロゴを個人名義で商標登録した」
「松井は館長になってから先輩に対する態度が横柄だ」
「松井はヤクザとつながっている」
など松井章圭に対する疑問や批判が挙げられ、意見が話し合われた。
そして
「密葬のときに梅田先生に2代目を発表させたのは山田師範と聞いたのですが本当ですか?」
と柳渡聖人が山田雅捻に質問した。
「いってません。
あれは梅田先生の意志でやったことでしょう」
そういわれても三瓶啓二を除く反松井派は
(それもお前がいわせたんだろう)
と思っていた。
「でも浜井先輩、山田師範が梅田先生を説得して密葬の場で発表させたって自分にそういいましたよね」
(三瓶啓二)
「知らないよ」
(浜井識安)
「そうですか」
反松井派は、追求することなく三瓶啓二に肩透かしを食らった。
西田幸夫は
1 絶対に松井体制を支持できない
2 松井が支部長たちの意見を真摯に受け止め改めるところを改めるなら松井体制を支持する
3 無条件で松井体制を支持する
の3択で支部長たちに挙手させることにした。
結果、大多数が2に手を挙げた。
1は、長谷川一幸、大石大吾、西田幸夫、三瓶啓二、三好一男、小林功、柳渡聖人、大濱博幸、藤原康晴、七戸康博など十数名。
3は、山田雅捻、1人だけだった。
郷田勇三と盧山初雄は、1で挙手した西田幸夫に驚いた。
1995年3月11日、昨日のメンバーに松井章圭が加わって改めて会議が行われた。
議長は西田幸夫。
松井章圭は、質問を受けて説明し誤っていたと認めれば謝罪した。
「本葬の香典は銀行に預けると支部長会議で決まっていたはずだよね。
それなのになぜ持ち帰ってしまったのか。
我々はそれにものすごく不信感を抱いているんだ」
(三好一男)
「銀行はお金の合計額は出してくれても誰がいくら包んでくれたという詳細まで出してくれませんので、それではお礼の際に困ると思い、私が持ち帰り事務員たちと一緒にその明細をつくりました。
その後、お金は銀行に預けました。
ただそのときに事情をきちんと説明するべきでした」
(松井章圭)
「いったん会議で決まったことも勝手に変更したよね。
それでは会議を開く意味がないし独断でしょう。
極真会館は松井の私物じゃない。
例えば「総裁」の呼称は今後誰も使用しないと決まったのにどうして総裁を名乗っているんだ」
(三好一男)
「私は総裁と名乗ったことはありません」
(松井章圭)
「封筒に総裁・松井章圭と書いてあるじゃないか」
「それはそもそも会則に「国際空手道連盟総裁は極真会館の館長を兼ねる」という明文がありますよね。
だから従来の書式に倣って封筒には「国際空手道連盟総裁 極真会館館長 松井章圭」と書いてあります。
これは1つの規定ですから。
でも私は「総裁の松井です」と名乗ったことは1度もありません」
(松井章圭)
「独断といえば極真の商標権を松井の個人名義で登録したのも自分らは聞かされていない。
故人の名義なんておかしいし、極真を私物化している証拠だろう」
(三好一男)
「大山総裁存命中ならまだしも、亡くなられたことで「極真」というブランドがどのような形で悪用されるかわかりません。
そうならないためにも商標登録は急務だと考えていました。
ただ極真会館はまだ法人としての登記がなされていません。
法的に組織としてみなされていないのです。
商標を登録する法人格がないため、まず長である私の名前で登録しました。
いずれ財団法人など法人格を取得した際にはそちらに移行させるつもりです」
(松井章圭)
「皆さんから挙がった問題点をみると、とても細かい内容まで書いてあるけど、基本的に支部長会議は年に2回しかないわけでしょう。
全支部長の許可を得ないと何も進まないのでは組織は円滑に動かない。
要は館長の権限をどこまで認めるかという部分が重要であって、それについては支部長たちの間にかなりの誤認の差がある気がするよね」
(浜井識安)
「でも商標権の登録は大きなことですよ。
それを支部長の意見をまったく聞かずに個人の名前で登録するなんておかしいでしょう。
しかも総裁が亡くなった直後に動いているなんて納得できるわけがないじゃないですか」
(三好一男)
「皆さんの意見を聞かず話を進めてしまったことは謝ります。
ただ迅速にかつ個人名義で登録せざる得なかった状況についてはわかっていただきたい」
(松井章圭)
「山田師範にも腑に落ちない点が多々あります。
例えばニューヨーク支部長になった五来っていますね。
いつの間にかニューヨーク支部長になっていた五来ですよ。
彼はもともと山田師範の弟子でしたが極真を辞めてUS大山に入門した人間でしょう。
それを総裁が亡くなってすぐに極真に戻して、しかも支部長どころか国際秘書にまでしてしまった。
これも自分たちには何も知らされていないんですよ。
おかしいですよね」」
(三好一男)
「いやそれは誤解だよ。
総裁がまだ生きてらしたときに総裁自身が五来を支部長に任命したんですよ。
ちゃんと認可状もあるから確認してください」
(山田雅捻)
「大西(靖人、遺言状の承認の1人)もそうですよね。
彼も元城西支部じゃないですか。
しかも大西は極真を離れて極真に対抗するような団体を勝手に作った。
いわば極真を裏切った人間ですよ」
(三好一男)
「大西は極真に戻っていないでしょう。
大西は総裁に「極真に戻って支部長になれといわれたけど断った」といっていたよ。
組織の人間ではなく違った形で極真を応援していきたいといったら総裁は喜んでくれたと。
私とはまったく関係のない人脈で大西は総裁に再会した。
私には総裁に合ってこういう話をしましたとわざわざ報告してくれただけです。
私が大西と総裁を会わせたのではありません」
(山田雅捻)
「J-NETWORK事件も廣重師範の許可なく城南のテリトリーにジムを出すっていうのはおかしでしょう。
しかも分支部長をやりながらキックボクシングのジムを出すなんて何を考えているんですか。
松井がJ-NETWORKの役員をやっているとも聞いているし」
(柳渡聖人)
「ちょっと待て。
確かにその話はしたけどJ-NETWORKについてはもう終わったから。
俺はちゃんと説明を受けたから問題ないんだよ。
みんなにも連絡が行ったでしょう?」
(廣重毅)
「そうですか・・・
じゃあJ-NETWORKについてはいいですけど・・・」
(柳渡聖人)
「よくないですよ。
終わっていません。
それを含めて全部、山田雅捻が仕組んだのではないですか」
(緑健児)
その後、山田雅捻への追求が続き、怒声が飛び交った。
「じゃあ私が責任を取って辞めればいいんでしょう!」
少しキレた山田雅捻がいった瞬間、松井章圭は拳で机を叩いた。
「みなさんは何をやっているんですか。
今回の会議の論点は僕のはずです。
山田支部長を集中攻撃するようなことはやめてください」
この大声で会議場は静かになった。
その後も何も決まらぬまま会議は進んだ。
「そもそも密葬のときに2代目を発表してしまったことが大きな問題だと思うんだよね、自分は。
だからいったん松井は館長を降りて、公平かつ公正にみんなで館長を選任すればいいんじゃないですか。
高木さんたちが事務長の館長就任を発表したことも踏まえて、事務長にもいったん館長を降りてもらって、どっちが館長としてふさわしいか選んだらいいのではないですか。
それならみんな納得すると思うんだけど」
(廣重毅)
「ちょっと待ってよ。
それはあり得ないでしょう。
みんなのいい分に納得できないのに松井が館長を降りるのはおかしいよ。
それに奥さんと松井を天秤にかけるというのも筋が通らない。
そもそも奥さんを担いだ高木さんたちは除名された人たちですよ」
(浜井識安)
「廣重、それじゃ大山総裁の意志はどうなるんだ。
松井を2代目に選んだのは大山総裁だろう。
松井を気に入らないからと総裁の意志を反故にして弟子が勝手に2代目を決めてもいいのか」
「松井がいったん降りても自分が必ず松井を再選させます。
もしそうならなかったら腹を切ります」
(廣重毅)
こうして会議は終わった。
「遺族派」に続いて、第3の極真、「支部長協議会派」が姿を現した。
彼らはその後、同志を集めていったが、松井章圭は
「たとえ1人になっても戦う」
と腹をくくった。
数日後、郷田勇三の道場に廣重毅が駆け込んだ。
「松井が100人組手で八巻を潰そうとしています。
許せません」
八巻建志は、前年10月の全日本大会で優勝し、11月の世界大会でも日本代表の筆頭だった。
その全日本大会の1週間前に松井章圭は八巻建志に電話を入れた。
「今晩、食事でもしませんか」
そして夜、レストランで会った。
「大会終了後、100人組手をやりませんか?」
「それだけは勘弁してください」
「何故できないんですか?」
「世界大会に勝ちたいんです。
100人組手で体を壊したら元も子もありません」
「そうかな。
勝つためにやるんじゃないの?
君は1度限界をみておくべきですよ」
「でも100人組手だけは・・・」
「限界のわかった人間は強いよ
これは私が保証します」
「しばらく考えさせてください」
八巻建志に相談されて廣重毅は
「あまり難しく考えず
とりあえず100人と戦って立っていられたらいいんじゃないか」
といった。
八巻建志はやることに決めた。
その後、廣重毅は館長である松井章圭に、1人当たり1分30秒で行うように依頼し認められた。
ところが緑健児に
「当日は2分で戦わせるつもりですよ」
といわれ、すぐに総本部に電話を入れて100人組手の時間を聞くと、事務員の黒田都士は
「2分です」
と答えたという。
郷田勇三はすぐに松井章圭に電話をして問い正した。
「1分30秒ですけど・・・・」
「廣重が黒田に確認したら2分だっていっていたらしいぞ」
「ちょっと待ってください」
3階の館長室を遺族にカギをかけられ、2階の事務所で事務員と共に業務していた松井章圭は、目の前で働いている黒田都士に確認した。
黒田都士は過去の100人組手の記録をみて答えただけだった。
廣重毅はこの件を三瓶啓二にも伝えた。
すると
「私が審判するから大丈夫ですよ。
任せてください」
といわれた。
1995年3月18日、八巻建志と前回の世界大会でアンディ・フグを失神KOしたフランシスコ・フィリョの100人組手が行われた。
西池袋の極真会館総本部の2階道場には全日本ベスト8を含む対戦相手が勢ぞろいした。
土曜日で休みだったが、廣重毅は知り合いの病院に頼んで待機してもらった。
これは増田章のアドバイスによるもので、増田章は日曜日に挑戦し病院が休みだったために翌日に入院したため腎不全が悪化し入院は2ヵ月に及んだ。
松井章圭は100人組手を
「70人目になると相手を殺したくなる。
80人目になるとそんなことも忘れ90人目以降は立っているのだやっと」
といった。
事実、松井章圭は67人目で頭突きと道着をつかんでの膝蹴りを行い、増田章は76人目で相手に噛みついた。
八巻建志のセコンドには緑健児がついた。
次の世界大会の優勝候補であるブラジル支部の磯辺師範が鋭い視線でみていた。
八巻建志の挑戦の後、弟子であるフランシスコ・フィリョが挑戦することになっていた。
10時21分、太鼓が鳴らされ100人組手が開始。
1人目は八巻建志の後輩の塚本徳臣。
やりにくそうな2人に松井章圭が檄を飛ばした。
「チンタラやっていたらダメだよ!」
3人目、再度、松井章圭が注意。
「力を抜いてやったら中止にしますよ。
意味のない100人組手にしないでください」
この言葉で場内の空気が変わり、遠慮気味だった対戦相手が一気にヒートアップした。
10人目を超えると汗で重くなった両腕のサポーターを外した。
30人目黒幕くらいまでは、上段、中段の蹴り、膝蹴り、踵落とし、後ろ回し蹴りなどの大技も出ていたが、徐々に相手の軸足を刈って下段突きを決めるケースが増えた。
40人目が終わったところで右膝のテーピングとサポーターを手早く外してコールドスプレーで冷やした。
50人目を終えた時点で負け無し。
脚は動かず相手の攻撃を受けることが多く、相手の攻撃をブロックしても、ブロックした腕に激痛が走った。、
60人目を終えたところで15分インターバル。
汗を含んで重くなった道着を着替え大の字に寝転がりマッサージを受ける八巻建志を緑健児が励ました。
「大丈夫いける。
絶対いける」
両脚、両腕は腫れ上がり相手の攻撃をブロックするたびに激痛が走り、ガードが甘くなりなんでもない攻撃をもらい後退するシーンが目立つ。
80人目を終えて廣重毅が檄を飛ばした
「八巻、100人組手はここからだ!」
(そうだ!これからだ)
「やめ」
「はじめ」
意識が薄く、主審の声が遠くに聞こえた。
苦痛に顔が歪み相手の攻撃を身をよじって避けようとして90人目で初めて負けた。
「あと10人」
「アーアー」
攻撃をもらうと泣き声とも呻き声ともつかない声が口から漏れた。
100人目の数見肇は容赦ない突きと蹴りを先輩に叩き込んだ。
その1発1発は先輩、がんばれと励ましているようでもあった。
2人は脚を止めて打ち合い、終了の太鼓が鳴った
八巻建志が天を仰ぐと天井がグラリとゆれて体がよろけた。
所要時間3時間27分
1本勝ち22
優勢勝ち61(技あり23)
引き分け12
負け5
すぐに車で病院に直行し治療が始まった。
「どうしてこんなひどいことになったの?
交通事故?」
医者が驚くほどの惨状だった。
極度の全身打撲で筋肉の組織が破壊され、急性腎不全を併発していた。
尿道に管を差し小便を出すと色がドス黒くポツポツと肉の塊のようなものが浮いていた。
破壊された細胞の破片だった。
点滴がうたれ酸素マスクを口に当てられた。
「人工透析しなきゃダメだな」
医者がいった。
八巻建志はできれば自然治癒させたいといった。
「10日して尿の潜血などの数値が下がらないようだと透析に踏み切らざる得ない」
フランシスコ・フィリョは、八巻建志のように打ち合わず、相手と距離を保って強力な蹴りで戦い、
1本勝ち26
優勢勝ち50(技あり38)
引き分け24
負け0
と史上初の無敗で100人組手を達成した。
大したダメージもなく翌日には茨木健武道館で行われた全関東大会を観戦しブラジルに帰っていた。
その頃、八巻建志は病院でウンウン唸っていた
フランシスコ・フィリョが観戦した全関東大会(1995年3月19日)には、城西支部の分支部長である黒澤浩樹もいた。
大会後のレセプションで城西支部の先輩である三和純に声をかけられた。
「話がある」
そして別室に移動すると増田章がいたが、三和純に耳打ちしただけで部屋を出て行った。
増田章は、城西支部では黒澤浩樹の後輩だった。
「廣重師範が黒澤に会いたがってるから、これから会ってくれないか」
三和純にいったが、それは変な話だった。
城南支部と城西支部はライバルだったし、廣重師範と黒澤浩樹は個人的にも犬猿の仲だった。
黒澤浩樹が城南支部の道場生に
「城西支部の選手は弱い」
といい、それを聞いたカチンときた廣重師範が試合に勝つことに燃え始めた。
1988年の第20回全日本大会3回戦で、黒澤浩樹は吉岡肇と対戦。
黒澤浩樹はガンガン押して優勢に試合を進めていた。
中盤、 吉岡智の上段後ろ回し蹴りが側頭部に巻きついたが腕でブロック。
黒澤浩樹は、体勢を崩したがダメージはなく攻撃を続行し、吉岡智を場外に押し出した。
しかし副審の広重毅師範が笛を吹いて、吉岡肇の「技あり」をアピール。
流していた主審が、あわてて試合を止めて、4人の副審の確認をとった。
すると全員が旗が上がって、黒澤浩樹は「技あり」をとられた。
(倒せばいいんだろ!!)
黒澤浩樹は怒りを爆発させ、すぐに吉岡智をダウンさせ「技あり」を取り返した。
ここで冷静に戻れば確実に勝っていただろうが、黒澤浩樹はアクセルを戻さず強引な攻撃を続けた。
吉岡智は、間合いを詰めて攻撃してくる黒澤浩樹に冷静に下がりながら左上段回し蹴りを合わせた。
黒澤浩樹はマットに倒れ、技あり、合わせて一本。
そして退場後、
「すまん。
俺はないと思ったけど、廣重師範が笛を吹くもんだから・・・」
と主審が声にかけられた。
「どうして自分が廣重師範に会わないといけないんですか。
何の用事があるんですか。
それになぜ三和先輩が廣重師範の代理で自分にそんなこというんですか。
おかしいじゃないですか」
「自分と増田は三瓶先輩からいろいろ極真の現状を聞かされた後、三瓶先輩にいわれて廣重師範に会いに行った。
廣重師範からも話を聞いてこのままじゃいけないと思ったんだ。
松井さんが館長では極真は潰れる。
三瓶師範と西田師範は支部長協議会のトップとして松井さんを館長から降ろして民主的な合議制で極真を運営していかないといけないとおっしゃってる。
そうしないと極真は松井さんの独裁になってヤバイ連中に乗っ取られてしまうんだぞ。
だから自分と増田は支部長協議会の一員として極真を守っていこうと思う。
それで廣重師範が黒澤を呼んでくれというのでお前に話をしているんだよ。
山田師範は松井さんと一心同体なんだ。
山田師範のもとにいたら自分たちはみんな飼い殺しだよ。
一生支部長になれない
今離れないと大変なことになるぞ」
三和純と増田章は100人組手が行われた日に廣重毅と会った。
三和純は、城西支部の古い黒帯で、山田雅捻の代わりに城西支部本部道場の指導を任せれるほど優秀な分支部長だった。
として城西支部を支えていた。
増田章も、城西支部分支部長だった。
元々は石川県支部出身で最初に空手を習ったのは浜井識安。
そして城西支部に移籍後、山田雅捻の指導を受け、全日本で優勝し、世界大会で2位になり、100人組手を達成した。
三瓶啓二と中村誠の「山誠時代」の後の極真は、松井章圭、黒澤浩樹、増田章の「三強時代」だった。
黒澤浩樹も増田章も松井章圭に試合で1度も勝てなかったが、
「ケンカでは勝っていた」
と評価されるほど、その強さでは負けていなかった。
2人は師である山田雅捻に弓を引くことになることを承知で、その場で支部長協議会派に入ることを決めた。
支部長協議会派に入った支部長は、松井支持の支部長や支持不支持が明確でない支部長を勧誘していった。
中でも猪突猛進の増田章とその小さな体で無差別級の世界大会で優勝した「小さな巨人」緑健児の存在は大きく、支部長協議会派は急激に人数を増やしていった。
「会いたくありません。
自分は廣重師範が嫌いですから」
黒澤浩樹は、そういってレセプションを欠席し帰宅してしまった。
三和純の話も、コソコソ耳打ちして出て行った増田章の態度も気に入らなかった。
黒澤浩樹は松井章圭と同年齢だったが、まだ現役だった。
分裂騒動も、第6回世界大会を目指し汗をかき続ける黒澤浩樹にとって問題ではなかった。
(勝ちたい!)
(燃え尽きたい!)
それがすべてだった。
家に帰ると廣重師範が電話をかけてきたが居留守を使った。
翌日も電話があり、さすがに受話器をとった。
「松井への反発がものすごく大きくなっている。
このままでは松井はやっていけなくなるだろう。
今は何としても選手を中心にまとまらなければならないんだ。
だから黒澤君も私たちと一緒に動いてくれ」
「自分は結構です」
「君はそんないい加減なことでいいのか!」
説教が始まったが黒澤浩樹は、
「押忍」
といいながら聞き流した。
1995年3月31日、大山倍達の遺族の遺言書の無効と執行差し止め請求に対して、東京家庭裁判所は
1 証人の梅田嘉明が株式会社グレートマウンテンの代表取締役になっていて利害関係があること
2 遺言書で娘の名前が間違って表記されていること
3 智弥子夫人を遺言書作成から排除し」、死後数日たってから知らせたこと
という点から遺言書の無効を認めた。
1995年4月、極真空手の月刊機関紙「パワー空手」が、「ワールド空手」に名前を変え創刊された。
それまで「パワー空手」は、大山倍達が代表取締役だった「(有)パワー空手出版社」が発行権を持って、ぴいぷる社が制作を委託されていたが、大山倍達死後、妻の智弥子が(有)パワー空手出版社の代表となった。
そして遺族派によって2代目館長に立てられた大山智弥子は、「パワー空手」で松井章圭館長関連の記事は掲載を禁じた。
ぴいぷる社はそれを拒否し、新たに契約を結び直し「ワールド空手」を創刊。
内容はほぼ同じだった。
同月、「パワー空手」臨時増刊号が
「家裁の審判下る!
遺言書は無効」
という見出しで発刊された。
(その後、発刊されず廃刊になったかと思われたが、2年後の1997年11月、「大山倍達が総裁が残した極真唯一の機関紙が復活」と過去の記事を編集し発刊。
さらに半年後の1998年5月、6月と立て続けに発刊。
その後消えた)
松井章圭は、全国の支部長に新しい人事を発表した。
相談役:黒澤明
理事長:梅田義嘉
理事:大西靖人、米津等史
統括本部を創設し本部長:山田雅捻
副本部長:浜井識安、廣重毅
遺言書の証人や自分の支持する支部長を役職につけるやり方に、廣重毅は
「こんな人事を発表したら反発される」
と反対したが、郷田勇三に
「気に入らない奴は辞めてくれて結構だ」
といわれた。
そして廣重毅は支部長協議会派に入った。
1995年4月4日早朝、三和純と増田章は山田雅捻の家を訪ねた。
「どうした?」
増田章は松井館長を支持できないと話し出した。
「わかった。
要は三瓶さんたちと一緒にやりたいんだろう?
好きにやっていいよ」
(山田雅捻)
「自分は支部長協議会派でやっていくことにしました」
(三和純)
「岡本はどうするんだ?」
全日本大会で4位になった岡本徹は三和純が育てた選手だった。
「自分についてきてくれると思います」
「そうか、いい弟子を持ったな」
支部長協議会派は、すでに過半数の支部長を獲得していたので、館長解任の決議を行うことを決めた。
支部長協議会ではなく支部長会議を開くことを全国の支部長に通達した。
1995年4月5日、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安は「支部長協議会」と思って会場に向かった。
支部長会議は正装である黄色のブレザーの着用が義務付けられていたが、支部長協議会は私服が認められていたので4人は私服だった。
しかし会議室に入るとみんな黄色のブレザーを着て座っていた。
「どうしてみんなブレザーを着ているんだ?」
浜井識安が聞いても誰も答えなかった。
硬い表情で目も合わせなかった。
14時、
「これから支部長会議を始めます。
議題のある人は挙手願います」
西田幸夫が会議をスタート。
すぐに三瓶啓二が手を挙げた。
「議長、館長の解任を議案します」
異議を唱える者はおらず
「では館長解任の議案が出たので決議を行います」
館長解任に賛成の人は立ってください」
議長(西田幸夫)、副議長(三瓶啓二)を含む38名が立ち上がった。
(支部長は欠席を含めて全部で48人いた)
「お前ら、これはどういうことだ」
郷田勇三、盧山初雄、浜井識安は、西田幸夫、三瓶啓二に詰め寄った。
「何も話すことはありません。
これが現実なんです」
(西田幸夫)
松井章圭は支部長の顔をみたが、みんな下を向いて目を合わせようとしなかった。
「皆さんは僕の何がそこまで気に入らないんですか?」
「俺はお前の話し方も歩き方も、お前の全部が嫌いなんだ」
(柳渡聖人)
「ではこれで支部長会議を終わります」
西田幸夫は、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安の抗議を無視し強引に閉会を宣言。
支部長たちは我先に会場を出て行った。
「松井、絶対に立つなよ。
堂々と座っていろ。
いいか、我々でなくあいつらが出ていくんだからな」
(盧山初雄)
会場の残ったのは、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安、浜井良明(富山県支部長)、湖山彰夫(鳥取、島根県支部長)の6名。
山田雅捻は所用で欠席。
廣重毅も所用で遅刻していて、着いたときはすでに約20分間の会議は終わっていた。
「よかったな、松井。
みんな出て行ってくれた。
これで本当の空手ができる。
私たちを支持してくれる人間だけで精一杯極真を守っていこう」
(盧山初雄)
そして総本部へ戻ることにした。
ホテルの入り口に記者にいた。
「重要な発表があるとFaxが届いたのですが何の会見ですか?」
「記者会見?
そうですか。
そういうことですか。
最悪の事態になってしまいました。
極真会館派分裂です」
支部長協議会派は同じホテルで記者会見を行う手はずを整えていた。
15時45分、記者会見が始まった。
緑健児、松島良一(審判長)、三瓶啓二、西田幸夫、長谷川一幸、桝田博(副審判長)が並び、その他の支部長が記者席の後ろに陣取っていた。
三瓶啓二は「館長解任の宣言文」を読み上げていった。
「松井章圭君を極真会館館長から解任することを決定いたしました」
「解任理由は、極真会館の私物化、独断専行、不透明な経理処理」
「今後は西田幸夫支部長協議会議長を中心にした新体制」
「(遺族派が大山智弥子を館長としているので)館長という名称は使わない」
「智弥子未亡人にはできれば組織に入ってもらいたいと思っています」
「松井君は速やかに極真会館総本部から身を退き明け渡すべき」
「松井君が自らの行動の非に気づき反省した上で一支部長として我々と汗を流したいというのであれば、いつでもこれを受け入れる」
松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、浜井識安は総本部に戻った。
「あいつら本部にやってくるから今夜はここに籠城するしかないぞ」
盧山初雄の言葉に笑いが起こった。
しかしその通り、西田幸夫、三瓶啓二を先頭に支部長協議会派の支部長が押し寄せてきて、総本部のロビーで対峙した。
「解任されたのだから出ていけ」
「そうだ、そうだ」
「決議に従って退去」
「館長を降りろ」
多勢に無勢だったが、盧山初雄は怯むことなく声を張り上げた。
「なぜ松井が出ていかなければならないんだ。
あんな茶番劇は認められない。
そもそも支部長会議にも支部長協議会にも館長を解任する権限はないはずだ。
お前らがやったことはクーデター以外の何物でもない。
それに松井が気に入らないと極真から出ていったのはお前らのほうだろう。
勘違いするな」
「38名もの支部長が松井ではダメだといっているんです。
それを認めるべきでしょう。
松井解任に異議がある人も出て行ってくださいよ」
(三瓶啓二)
「お前ら上等じゃないか。
ふざけるな。
そこまでいうなら俺はそのケンカを買うぞ」
(郷田雄三)
押し問答が続いたが、誰かはわからないが
「もう疲れたら帰ろう」
という一言で支部長協議会は帰り始めた。
「また出直してきます」
三瓶啓二もそういって引き上げた。
翌日(1995年4月6日)、山田雅捻は城西支部の分支部長を招集した。
「一昨日の朝、三和と増田が家に来て、「自分たちは松井を立てることはできないから向こうの組織にいきます」といって帰った。
お前らも彼らと一緒に支部長協議会派でやっていきたいならいってもいいぞ」
黒澤浩樹を含む分支部長たちは
「山田師範についていきます」
といった。
19時、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、浜井識安、湖山彰夫の6名は、マスコミ懇談会を開いた。
「昨日記者会見が行われたこともあり、私共としましてもお話したいことがありますので、お聞きいただければと思います。
今後の体制ですが、新執行部という形で統括本部を置き、私が本部長を務めることになりました。
副本部長は、浜井識安支部長です。
また城西支部の分支部長だった5名が今後はそれぞれ支部長として活動します。
城西中野支部長に黒澤浩樹、城西吉祥寺支部長に小笠原和彦、城西田無支部長に中江辰美、城西三軒茶屋支部長に田口恭一、城西国分寺支部長に江口芳治が就任しました。
次に昨日、支部長協議会名で出された文書に関して、支部長協議会として召集されたものがいきなり支部長会議となって、緊急動議で解任ということでしたが、大山総裁の医師が2代目館長は松井ということでしたので、私共は総裁の意志を継いでいく所存です」
(山田雅捻)
「極真会の問題で皆様にご迷惑、ご心配をおかけいたしました。
お騒がせしていますことをこの場を借りてお詫び申し上げます」
松井章圭はそういってから、解任の理由とされた極真会館の私物化、独断専行、不透明な経理処理について説明していった。
私物化については
「極真会館という商標は極真のトレードマークですよね。
あの商標権が全て私の個人名で登録されているという部分で支部長たちが不信感をおっしゃったようですけれども、
実際、私の個人名による登記となっております。
とはいえ個人のものではありませんから将来、法人化ができれば速やかにそこに移します」
独断専行については
「私が館長に就任してから10ヵ月間、私個人も仕事に100%間違いがなかったとは断言できないかもしれません。
実際反省すべき点もあると思います。
ただ日々の組織運営上、全国の点在する支部長たちに逐一報告と承認を得ることが物理的に不可能であったことは歪めなかった。
このことは理解の範疇内であると思っています」
不明瞭な会計処理については
「極真会館がこれまできちんとした形で法人化されてこなかったために運営資金が会館の業務として使われていた分、また大山倍達個人の分、という形で預金が分けられていなかったりですね。
いろんな形で重なっていた部分があったものですから、それは極真会館側も遺族側も当然困った部分ではあったんです。
けれどもそれに対して極真会館が活動する上での当座に必要な運営資金が足りない部分があったことを知った上での批判ではなかったのではないかといいたい」
とし、
「支部長協議会側の解任理由や悔い改めて共に汗を流すなら1支部長として認めるという条件受け入れられません。
もちろん筋が通った大義があり、それが正論ならば私は降りるべきだと思います」
と結論づけた。
「こうなってしまったことは残念ですが、関係改善の可能性がある限り話し合いをして、これからも松井館長を支持していきたいと思います」
(郷田勇三)
「昨日の彼らの行動をみても勇み足ではなかったかというのが実感です。
彼らは感情だけで行動を起こしてしまったのだと思います」
(盧山初雄
「昨日の支部長会議でも急に三瓶支部長が立ち上がって解任動議をすると、西田議長が仕切って解任を決定し、我々の意見も聞かずに勝手に会議を終わらせてしまった。
支部長協議会側を非難するわけではなくいろいろと行き違いもあると思います。
つまり決裂したというのではなく支部長たちはいつでも帰ってきてほしいと本部の門は開けて待っているといいたいですね」
(浜井識安)
1995年4月9日、郷田勇三は、手紙を全国の支部長に送った。
見出しは
「すべての支部長に呼びかける」
で
・過ぎたことは一切問わず明日からのことを前向きに話し合いたい
・松井館長を除くすべてを白紙に戻し、みんなの合意で改めて人事を決定したい
・大山智弥子夫人の呼びかけで4月25日、総本部で故・大山倍達総裁の1年祭が執り行われるので出席するように
・4月24日に全支部長による話し合いを行いたい
とした。
仏式で「1回忌」と呼ぶものが神式では「1年祭」になる。
当初、遺族と遺族派は、1年祭は4月23日に行うことを決めていたが、松井章圭と話し合った結果、25日に大山智弥子個人を主催者にして共同で行うことを決めていた。
1995年4月11日、入院当初、八巻建志は、体全体がむくみ顔は黒くパンパンに腫れ上がり、食事は液状の栄養食で塩分、油、タンパク質は一切禁じられたが、その後、超人的な回復力をみせていた。
見舞いにきた関係者に
「分裂は悪化する一方だ。
君にはいろいろ吹き込みにくる人間も多くなるはずだ。
一刻も早く退院したほうがいい」
と忠告されたため、医者に
「もう1ヶ月の入院したほうがいい」
といわれたが退院。
3週間の入院で100人組手に挑戦したとき107kgだった体は90kg台まで落ちていた。
1995年4月12日、退院翌日の早朝、自宅の電話が鳴り緊迫した声で
「記者会見を開くから2時間以内に来て下さい」
といわれ、八巻建志は歩くことさえ困難だったが這うようにタクシーに乗ってホテル国際観光へ向かった。
そして西田幸夫、三瓶啓二、長谷川一幸、廣重毅、増田章と共に「記者懇談会」を行った。
「要は信頼関係が失われたということ」
と西田幸夫、三瓶啓二、長谷川一幸、廣重毅は、松井派の批判と解任の正当性を主張。
八巻建志はマスコミに意見を求められ
「自分は選手なので今まで以上にしっかり練習して頑張ってまとまっていきたいと思います」
とコメント。
後で
「なんだ、お前のあの話は。
いうべきときにいわないのは武道家ではない。
もっといろんなことをいえばよかったんだよ」
と嫌味をいわれた。
(一体何をいえというのか。
松井館長への誹謗中傷か。
松井館長にも大変お世話になっているし、一方のいい分を聞いただけで判断するような軽率な真似はしたくない。
それに選手は世界の強豪と覇を競うため血のにじむような苦しくて辛い稽古に耐えているのに、極真が大山倍達総裁の遺志を受け継いで一致団結していくこと以外、何を望むというのだ。
それに私の師は廣重師範1人だ。
弟子として師範の選択に従うのは当然だろう)
その後、
「お前はどうしたいんだ」
と廣重毅に尋ねられた八巻建志は
「強い人間のいるところで戦いたい。
それだけです」
と答えた。
「そうだな。
そうしたほうがいいな」
廣重毅は静かに頷いた。
この時点で、国内は反松井派の数が松井支持派を大きく上回っていた。
分裂は海外にも波及し、世界各地で支部や選手の取り合いが起こった。
「別に松井君に極真から去れ、といっているのではないのです。
もう一度、支部長からやり直してこれまでのことを精算してほしいのです。」
(三瓶啓二)
「松井先輩、もう一度支部長からやり直しましょう」
(緑健児)
「全国で半分以上の支部長たちが辞めてくれといっているんです。
だから松井先輩は辞めるべきです」
(増田章)
「いろんな意味で松井君は急ぎましたね。
松井君は館長に就任するなり5人の支部長を事実関係もあいまいなままいとも簡単に除名にしました。
大山総裁も、生前は何人かの支部長を破門、除名にしましたが、
その際も何回も支部長会議を開き、除名にするのを最後の最後までためらったものですよ」
(松島良一)
「もし松井君たちと和解することがあるなら彼が元通り、1番下の支部長として出直すときだけですね」
(三好和男)
「松井館長は極真のためを思ってやったことかもしれませんが、あまり他の支部長のことや会議で決まったことを優先せず物事を決めて、それが裏目に出てしまった」
(七戸康博)
「松井先輩を公私にわたり尊敬してきました。
しかし館長になってから人が変わったように仕切りたがるようになった。
あまりにも自分の好きなようにやってしまうことが多く、不信感が募っていきました」
(黒岡八寿裕、和歌山県支部長)
などと明確に三瓶啓二を否定する支部長もいたが、
「具体的な話はあまりよく知らないまま会議に出席してしまいました。
松井君からは何も聞いていないし、西田議長や三瓶副議長、山田師範とは共に本部で汗を流した仲間なので複雑です」
(川畑幸一、京都府支部長)
「自分は松井館長が解任されたという支部長会議は所用で欠席したし、これまでも一方的な話ばかりで詳しい事情はほとんど聞かされていません」
(柿沼英明、千葉県北支部長)
「松井君とは直接つき合いがないからよくわからないけど、ワンマンという部分はあった気がする。
田舎の支部で情報もまた聞きだったのでそれほど切迫した状況だとは思いもしませんでした。
みんな急ぎ過ぎていますよ。
私個人としては今は静観するしかないと思っています」
竹和也(鹿児島県支部長)
館長解任決議後、支部長たちはそれぞれ心境を抱えていた。
しかし
「2代目は松井で間違いない。
あっちが正しいとかこっちが悪いとか、松井館長に支部長たちがケンカしかけて何の意味があるんや。
こんなことで大会を開けるのか心配です。
選手のことを考えてなぜ一緒にできないのかと思う。
自分はあくまで選手や生徒のことを考えて大会を開催する方を応援します。
東京ではずいぶん前から松井館長を批判して三瓶君たちがゴタゴタやっていたみたいだけど、結局は1つの極真なんだよ」
と中村誠は松井館長支持を表明。
世界大会2連覇のキング・オブ・キョクシンを敵に回すことになった反松井派の支部長は動揺した。
1995年4月12日、支部長協議会派の会見の翌日、大山倍達の遺族は
「遺言書は家庭裁判所で無効と判定された」
と発表。
(裁判所が無効を決定したのは3月31日、通達が届いたが4月12日だった)
夜中、高木薫ら遺族派の支部長が、中から大山智弥子にカギを開けてもらい総本部に侵入。
内弟子から報告を受けて松井章圭は総本部に向かった。
インターホンを押すと大山智弥子が出てカギを開けてくれた。
中にいたのは2人のガードマンだけで、高木薫たちはいなかった。
後にガードマンを残し帰ったことについて高木薫は、
「自分が残れば会館は血の海になる」
といった。
たとえ口論でもいいから松井章圭と対峙していれば男は上がったかもしれないが説得力はなかった。
1995年4月1 4日、松井章圭と遺言書の証人たちが、「遺言書は有効」と東京高等裁判所に抗告。
1995年4月18日、
「郷田師範、とにかく4月26日の総裁の命日までに何とか和解しましょう」
廣重毅は郷田勇三と会い
・松井を館長と認める
・松井派に戻る人間の過去の言動はすべて不問にする
・増田章と三和純を支部長にする
と3つの和解案を出した。
「どう考えても三瓶と三好は不問にするわけにはいかないだろう」
「でも師範、こいつはよい、こいつはダメと線引きしてたらまとまるものもまとまりません。
どうか全員不問でお願いします」
「大体、若いやつを引っ張っていったのはお前だろう。
いまさら何いってるんだ」
郷田勇三は廣重毅を責めたが
・松井を館長と認める
・松井派に戻る人間の過去の言動はすべて不問にする
の2つの和解案を書いた手紙を支部長協議会派を含む全国の支部長に送った。
廣重毅は支部長協議会派にも和解を進言したが、
「廣重さん、遺言書が却下になって我々に有利に進んでいるのに、なぜこんな案を松井に出す必要があるんですか?」
(西田幸夫)
「勝手なことはしないでください」
(三瓶啓二)
「師範、みんなで頑張っていこうとしているときにこんな提案は裏切りですよ」
(緑健児)
と冷たく反対された。
それでも廣重毅は
「こんな争いを続けるのはよくない。
もう極真の看板を下ろそう」
と説得を続けたが
「そんなことをしたら自分たちが正統ではないとといっているようなものでしょう」
(三瓶啓二)
「そんなことしたら生徒が来なくなりますよ」
(前田政利、大阪府北支部長)
「師範、なにいってるんですか。
とんでもないですよ。
そんなバカみたいな話はもうやめてください」
(緑健児)
と厳しい言葉を浴びせられた。
その後、支部長協議会派は廣重毅を冷遇した。
「用事で遅れます」
と事前に報告し遅刻して会議に参加すると、以前は前の方にあった自分の席が用意されておらず、後ろの方に座ったが、全員に配られている書類を差し出してくれる人はいなかった。
1995年4月23日、極真会館の入り口に張り紙がされた。
「お知らせ
故・大山倍達の1年祭を4/23(日)に行う予定と雑誌等で掲載しておりましたが、急遽、4/25(火)に変更になりました」
しかしその夜、遺族たちは
「1年祭には出席しない」
という内容の手紙を事務所の机の上に置いた。
郷田勇三が「すべての支部長に呼びかける」と全国の支部長に送った手紙の
・松井館長を除くすべてを白紙に戻し、みんなの合意で改めて人事を決定したい
という部分を問題視し、
「出席すれば松井さんを館長として容認することになってしまう」
というのが理由だった。
1995年4月24日、東京都豊橋区池袋のハナシンビルに郷田勇三の呼びかけに応じ、支部長たちが集結。
イザ、郷田勇三が進行しようとすると
「師範、もう話し合いの時期ではないでしょう」
と三瓶啓二が遮った。
「わかった。
じゃあ話し合いではなくこちらの話を聞きてほしい。
支部長たちは我々と支部長協議会、双方の話を聞いてそのあとで判断してくれればいい。
ただ聞く聞かないはお前たちの自由だ」
「それじゃ、みんな帰ろう」
三瓶啓二に促され大半の支部長は部屋を出ていき、残ったのは、中村誠やいったん館長解任に賛同した河岡博など十数名だった。
1995年4月25日13時、総本部2F道場で大山智弥子主催の故・大山倍達総裁の1年祭が執り行われた。
郷田勇三、盧山初雄、浜井識安、山田雅捻と中村誠、河岡博ら、昨日、会議場に残ったメンバー、磯部清次(ブラジル支部長)を始めとする海外の支部長たち、元極真の中村忠、加藤重夫、格闘家の前田日明、総本部道場と城西支部の分支部長、指導者、道場生らが参加した。
しかし松井章圭も主催者の大山智弥子もおらず、遺族からは大山恵喜(次女)だけ参加。
三瓶啓二ら支部長協議会派も高木薫ら遺族派もいなかった。
24日から大山智弥子と連絡が取れなくなった松井章圭は参加を自粛し事務所に待機し、仏教の焼香やキリスト教での献花にあたる榊の枝に白い紙(紙垂)をつけた玉串の奉奠のみ行った。
玉串奉奠が終わり斎主が去ると、大山恵喜(次女)がマイクを持った。
「遺言書却下による内部分裂の中で1年祭は3度行われる予定でした。
しかし松井さんたちと話し合った結果、松井さんが主催者を降りるということで大山智弥子の名前で執り行うことになりました。
でも郷田さんからの手紙をみると1年祭に出席することは松井政権を認めるととれる。
遺族は欠席することにしましたが、招待状は母の名で送っているため、私は非難を覚悟で出席しました」
「香典を松井さんに持ち逃げされる懸念があるため自ら受付に立つつもりでした」
式後、メトロポリタンホテルでレセプションが行われたが、遺族は1人も参加しなかった。
1995年4月25日、支部長協議会派が1年祭を行った。
それを認めない松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、浜井識安らは朝早くから総本部で待機。
11時、黄色のブレザーを着た支部長たちが続々と姿を現した。
「お前らふざけるな。
こっちは松井を外して譲歩したにも関わらず昨日は来なかったくせに、また1年祭をやるのか!!」
郷田勇三の怒声を3階で聞いた松井章圭はすぐに降りていった。
すると支部長たちの集中砲火を浴び、郷田勇三からも
「お前が来るとややこしいから上にいろ!!」
と大声で怒鳴られた。
その後、郷田勇三は用意してあった花を怒鳴りながら支部長たちに投げつけた。
対照的に盧山初雄は
「もっと気持ちを大きく持って」
「じっくり話し合おうじゃないか」
と笑顔で支部長たちに話しかけ、
「同じ釜の飯を食った仲じゃないか。
なあ、三瓶」
と穏やかな顔で三瓶啓二の肩をたたいた。
三瓶啓二は直立不動でなにもできなかった。
やがて郷田勇三も笑顔で長谷川一幸らに話しかけると他の支部長たちも笑顔になっていった。
13時30分、松井章圭、郷田勇三、盧山初雄、山田雅捻、浜井識安らが譲歩する形で支部長協議会派による1年祭が、予定より大幅に遅れて始まった。
なぜか正装ではなく、セーターにカーディガンという普段着の大山智弥子。
そして高木薫ら遺族派と西田幸夫、長谷川一幸、大石大吾、三瓶啓二、廣重毅、緑健児ら支部長協議会派の支部長たち。
八巻建志、数見肇、市村直樹など数名の選手。
そして前日の1年祭にも出席した海外の支部長たちが参列。
彼らは状況がよくわからないため遺族、松井章圭、支部長協議会派、どちらにもフェアに接した。
しかしブラジル支部の磯部清次は最初から松井章圭を支持し、支部長協議会派の1年祭にはいなかった。
1年祭で合流した遺族派と支部長協議会派は、毎年、夏に大阪で行われる全日本ウエイト制大会も合同で開くことを話し合い、全日本ウエイト制大会を仕切っていた津浦信彦に打診。
津浦信彦とその妻、大山留壹琴(長女)は、松井派、遺族派、支部長協議会派、いずれにも属さず独自の活動を続けていた。
大山留壹琴は、
「どんなに規模が小さくなっても父の言いつけを守り大阪府立体育館でウエイト制大会をやっていきたい」
と遺族派や支部長協議会派との合同開催を反対。
やがて遺族派と開催することは認めたが、支部長協議会派が入ってくることは許さなかった。
1995年4月29日、埼玉県戸田市の戸田スポーツセンターで第1回全日本少年大会が行われた。
小学校1、2年生の部、3、4年生の部、5、6年生の部に分けて行われるこの大会は、少年部の育成に力を入れていた盧山初雄が年々、大会の規模を拡大していき、そして初めての全国大会だった。
しかし支部長協議会に属する支部は、急遽、参加を取りやめた。
大会申し込みは分裂騒動が激化する前で、この試合に向けて純粋に努力し続けてきた子供たちもいたが、わけのわからない大人の騒動の犠牲になった。
「本当にこれでいいのか?」
支部長、指導者、選手、道場生、少年部の保護者など極真関係者はもちろん格闘技ファンや一般の人も、多くの人がそう思った。
1995年5月、反松井派を見切って、松井章圭の極真会館に戻る者が出てきた。
和歌山県支部の指導員であり総本部内弟子出身の北本久也は、支部長の黒岡八寿が支部長協議会派だったが
「納得できない」
と単身、松井派へ復帰。
同様に大石大吾の下で指導員をしていた石黒康之も松井派を選んだ。
その後、滋賀県支部長の河西康宏も松井派復帰を希望。
「長谷場譲や田畑繁たちも戻りたいといっています」
と訴えたが、2人は支部長協議会派に残った。
松井章圭は自ら強引な勧誘はしなかった。
「自分はどうしたらいいでしょうか」
と相談されると
「君の考えた通りにすればいい」
と答えた。
(大義はこちらにある。
甘い言葉や復帰の条件などで釣っても裏切る人間はまた裏切る。
去る者は追わず、戻ってくる者は拒まずという方針は崩さない)
松井章圭は東京の料亭で緑健児と会った。
「なぜ緑君は僕についていけないと思ったの?」
「理由はいろいろありますけど、八巻の100人組手とか・・・」
「八巻君の100人組手がなに?」
「1人1分30秒といっておきながら2分にして八巻を潰そうとしたじゃないですか」
「そんなことしてないよ。
だいたい日本のエースをなんで僕が潰す必要があるの。
何のメリットもないでしょう」
「でもそれだけじゃないですから・・・
許永中から流れてきたアングラマネーが極真の運営に使われているとか、山口組や韓国ルートの話とかいろいろよくない話も聞こえてきます」
「許永中先生については個人的に恩義を感じているのは事実だよ。
でも僕より大山総裁が先に許永中先生と知り合って大阪の本部事務所や津浦さんの自宅などを無償で貸してもらっていた。
それだけ極真に貢献してくれた人であることは緑君も知っているでしょう?
それに僕が許永中先生に出会ったとき、経済犯罪に手を染めているなんて知らなかった。
知っていれば深い付き合いなんてできないよ。
許永中先生にはいろいろとお世話になり恩義を感じるようになった後、マスコミや周辺の人たちからイトマン事件の話を聞かされた。
だからといって恩ある人を簡単に犯罪者扱いして縁を切れないでしょう。
僕は人間として許永中先生と絶縁するようなことはできない。
罪は積み、恩は恩、それが筋だと思う。
それにアングラマネーっていうけど表に出せないからアングラマネーっていうのであって、それを公的な組織である極真会館の運営に使ったら大変なことになるし、そんな話、何の証拠もないし証人もいない。
ただの噂に過ぎないじゃないか。
断言するけどそんなことは絶対にしていない。
山口についても総裁の遺言書の立会人になった黒澤明さんとか黒澤さんの親分だった柳川次郎さんとか、2人とも元々あちらの人だというのはみんな知っていることじゃないか。
総裁が生きていた頃、誰1人、柳川さんが向こうの人だとか文句を口にした人はいないだろう?
総裁が親しくしていた人たちを僕の代になったからといってもう付き合えませんとはいえないでしょう。
韓国もそうだよ。
韓国ルートだなんて、まるで闇組織みたいにいうけど、それも悪意からくる憶測以外の何でもない。
あえて韓国ルートというなら、ずっと極真や大山総裁を応援してくれている人たちとの交友関係であって、僕の代から始まったことじゃない。
何もかも悪意ある噂じゃないか。
もし確証があるなら教えてほしいくらいだよ」
「そうだったんですか。
それじゃ自分が誤解していたみたいです」
「誤解が解けたなら支部長協議会派にいる必要はないんじゃない?
向こうの方が知り合いが多いだろうしこっちに来るとなると人脈も断ち切る覚悟が必要だからね。
それが難しいなら緑君は独立して緑道場でもつくって、あくまで中立的な立場で向こうともこっちとも付き合えばいいんじゃないか?」
「いえ、自分はそんな大それたことは考えていません。
自分は新体制で頑張ります」
「そうか。
まあどこにつこうがいいけどね。
お互いにえげつないことをするのはよそうな。
ところで緑君はいつから僕に反感を持ち始めたの?」
「アフリカ遠征からです」
「アフリカ?
だってあのときみんなで水に流そうっていって終わったはずじゃないか。
僕はそう理解していたけど」
結局、2人が昔のような関係に戻ることはなかった。
1995年5月9日、松井章圭、山田雅捻がヨーロッパ遠征に出発。
国際秘書で通訳の五来克仁と、まず共にロシア、イギリスの各支部を訪問。
両国は松井章圭を2代目館長と認めていた。
その頃、日本では月刊「噂の真相」に
「大山倍達死去で揺れる極真会館をめぐるすさまじき暗闘。
2代目を名乗る自称、文鮮明(統一協会の教祖)の血縁者や、なんとあの許永中まで登場・・・」
という記事が掲載された。
この中で松井章圭は文鮮明(統一協会の教祖)の血縁者であり信者であるとされた。
ずいぶん前から大山倍達が統一協会の信者であるという噂もあった。
統一協会の世界日報は、古くからの全日本大会のスポンサーだった。
第3回世界大会では、日本統一協全会長:久保木脩己が特別相談役として副委貝長の席に座っていた。
大山倍達と統一協会の繁がりは、第1回全日本大会(1969年)より少し前から始まった。
橋渡し役となったのは、極真を離れアメリカでUS大山を興した大山茂、泰彦兄弟。
大山兄弟の父親が日本統一協会の大物で、日本におけるコネクションが欲しかった統一協会とスポンサー不足に悩んでいた極真会と利害が一致し協力関係が生まれた。
「確かに主人は統一協全に何人か友人がいました。
久保木さんがよくうちに訪ねてきた時期もあります。
まあ、どっちが呼んでたのかは知りませんけどね。
最初はおだてられて協力してたんじゃないですかね。
でも主人が信者でなかったことは断言できますね。
もし本当に主人が信者だったのなら協会からお金を借りるなりして新しい本部の建物だってもっと早く建っていたはずですよ。
それに主人がお世話になっていてこんなことをいうのも何ですが、うちは私も娘もみんな統一協会が嫌いでしたから。何年か前に協会の方が会館に来て、主人に壷を持たせて写真を撮っていったことがあったんですよ。
そしたらその写真が霊感商法みたいなことをやっている会社の広告に使われてしまって。
『大山総裁は統一協会の信者なんですか』という電話が会館に何本もかかってきて。
あのときは本当に怒ってらっしゃいましたよ。
そんなこともあって、ここ最近はあまり協会の方とのお付き合いも少なくなっていたようてすね」
(大山智弥子)
1995年5月26日、松井章圭たちがルーマニア入り。
ボビー・ロー(ハワイ支部長、国際連盟委員長)、ルック・ホランダー(オランダ支部長、国際連盟相談役)、アントニオ・ピネロ(スペイン支部長、ヨーロッパ連盟委員長)、ジャック・サンダレス(国際連盟相談役)と会食。
そこにルーマニア支部の道場生がきて、翌日に行われるヨーロッパ大会に出場する選手が泊っているホテルで、支部長協議会派の西田幸夫、三瓶啓二、緑健児、増田章、七戸康博、七戸ベラ(七戸康博の妻)、柚井ウルリカ(東京都立川支部責任者である柚井知志の妻)がベラの翻訳つき「噂の真相」の記事のコピーを配っていると報告した。
「何か起こっても私が対処しますので安心してください」
(松井章圭はそういって、統一教会の会員でないこと、極真を離れていた時期にジャパニーズマフィアに世話になった経緯を説明した。
「ヨーロッパはマツイ館長を支持する」
(アントニオ・ピネロ)
「私もヨーロッパやアメリカでは名の知れたマフィアだ。
それを知ってマス大山は私を認めてくれた。
マフィアだろうと公私を分ければノープロブレムだ」
(ジャック・サンダレス)
1995年5月27日、ヨーロッパ大会が開かれた。
秋の世界大会の選考も兼ねており、満員の会場で白熱した戦いが繰り広げられた。
支部長協議会派は、料金を払って入場し、昨夜同様、記事のコピーを配った。
5月28日、大会翌日、ヨーロッパ支部長会議が開かれた。
1995年5月、全ヨーロッパ大会の会場が開かれた。
会議に参加を要請された松井章圭は
「まずはヨーロッパの支部長同士で態度を決めるべき」
といったが、ルック・ホランダーは
「まず松井館長が日本の状況を説明すべき」
と会議の開催前に松井章圭に発言を場を設けた。
松井章圭は日本国内の状況と配られた「噂の真相」の記事について15分間、説明を行った後、頭を下げて退場した。
2階の会議場を出て1階のロビーへ階段を下りていくと、すぐに西田幸夫、三瓶啓二、緑健児、増田章、七戸康博、七戸ベラ、柚井ウルリカが駆け上がってきた。
声をかけようとする松井章圭を無視し会議所に入っていった。
そして5分後、ソファーに座る松井章圭を無視して支部長協議会派はホテルを出て行った。
会議場に入った西田幸夫は、会議への参加を要求したが、アントニオ・ピネロは
「オフィシャルなメンバーではない」
とシャットアウトした。
「彼らはここまで来たが150万円を捨てに来たようなものだ」
(ジャック・サンダレス)
しかしアントニオ・ピネロは、この後、数名の支部長たちと支部長協議会派の話を聞くことにした。
その中に日本の総本部で内弟子の経験もあるハワード・コリンズ(スウェーデン支部長)もいた。
「松井館長は質問を一切受け付けてくれなかった。
一方的に説明し10分か15分で退席してしまった。
だが支部長協議会派はキチンと説明してくれたし我々の質問にも答えてくれた」
こうしてハワード・コリンズは、外国人支部長として初めて支部長協議会派を支持した。
「ヨーロッパは2/3は味方についた」
(三瓶啓二)
「私の感覚ではヨーロッパの7割は我々と一緒にやりたいといっている」
(西田幸夫)
ヨーロッパで自信をつけた支部長協議会派は、帰国後、「ワールド空手」のぴいぷる社を訪れ、
「報道や編集に明らかに偏りがあり、編集方針に作為的な意図が推察されます。
極真会館監修となっている以上、松井派、支部長協議会派、遺族派、公平に扱うべきです」
と訴えた。
編集長の井上良一は
「機関紙とはいえ言論・出版の自由を脅かすものだ」
と反発。
また支部長協議会派は、自派の世界大会の開催について記者会見を開いた。
すると記者から質問が飛んだ。
「松井さんたちと統一の世界大会を開いたらどうでしょうか?」
「そんな必要はない」
(西田幸夫)
「昨年の全日本大会で決定した世界大会出場選手の8名はすべてこちらに所属しています。
松井君のほうには選手がいませんから、どっちみち向こうは世界大会を開けませんよ」
(三瓶啓二)
しかし8名のうち、城南支部の3名が松井派の大会出場を表明することになる。
支部長協議会派に見切りをつけた廣重毅は、郷田勇三に
「戻りたいんですけど人質をとられているので戻れないんです」
と相談。
人質とは世界大会での活躍が期待されている八巻建志や数見肇を含む弟子たちのことだったが郷田勇三は
「俺が何とかする」
と請け負った。
1995年6月10日、松井章圭、郷田勇三、廣重毅が会って話し合い復帰が決まった。
「松井側に戻ろうと思う」
復帰後、廣重毅はすぐに分支部長を集めていった。
「松井館長の問題をアレコレ挙げて支部長協議会を選んだのは師範じゃないですか」
「何で戻るんですか」
大多数が反対したが、突然、岩崎達也が
「自分は全日本ウエイト制に出場したいです」
といい出し、八巻建志と数見肇も
「世界大会に出たいです」
と続いた。
彼らが松井派の試合に出たいといった理由はフランシスコ・フィリョ。
松井章圭を支持するブラジル支部の磯部清次の弟子であるフランシスコ・フィリョは「史上最強の外人」と呼ばれ、これまで世界大会は日本人が優勝してきたが、「空手母国の最大の危機」といわれていた。
支部長協議会派に残りたい弟子と松井派に戻りたい弟子に挟まれ困る廣重毅に緑健児がいった。
「師範、戻らないでください。
せめて中立という立場でお願いします」
こうして廣重毅は中立を宣言した。
中立とは、松井派、支部長協議会派、どちらともつき合うという意味だった。
しかしこれまで通り反松井的な行動をとり続ける分支部長もいて、城南支部は分裂状態になった。
1995年6月12日、郷田勇三が支部長協議会派を含む全国の支部長に、
「22日に総本部集合。
来なければ除名」
という勧告書を送った。
1995年6月22日14時、東京都豊島区の東洋モーターズコーポレーションで松井派と支部長協議会派の話し合いが行われた。
「松井が降りないなら話すことはない」
(三瓶啓二)
「俺はお前の話し方も歩き方も全部嫌いなんだよ」
(三好一男)
話は折り合わず、同席していた俳優の待田京介が立ち上がった。
「先輩として一言いいたい」
終戦直後の館山に住んでいた大山倍達に待田京介の親が頼み弟子入り。
それまで大山倍達は弟子をとったことがなかったので1番弟子となり館山で稽古をつけられた。
大山倍達が東京に移ると追いかけて大山道場で稽古を続けた。
しかし三瓶啓二は
「先輩後輩は関係ありません」
と一蹴。
結局、20分で話し合いは終わった。
以後、松井章圭は支部長協議会派との和解を断念。
新たな支部の設立
統括本部長となった山田雅捻は、数で勝る反松井派への対策として「ランチェスター理論」を説明した。
「第2次世界大戦のときにイギリス空軍がドイツ空軍と戦うときに編み出したのがランチェスター理論なんだけど、これが極真を出ていった連中との戦いに有効だと思う。
イギリスが20機でドイツ機10機と戦ったとすると、敵機を全滅させたときの損害は5機で済むという計画が成り立つという理論なんだ。
もし10機対10機で戦ったとすると戦闘機の性能やパイロットの技術に差があったとしても双方が全滅ということになりかねないというんだ。
つまり相手が1支部に5つの道場を持っているなら、極真会館は10の道場を、若い指導員を道場主に指名して開設するという戦略でいけば、反松井派の道場は脅威でなくなる」
以後、極真会館は、元支部長のテリトリー内に次々と道場を開設し若い指導者を送り込んだ。
ランチェスター理論は、イギリスの航空工学者F.W.ランチェスターが提唱した戦闘の法則だが、経済問題にもでも応用されている。
1970年代前半にオイルショックが起こり日本はそれまでの高度経済成長期から一転して不況となった。
そのときそれまでのスピード勝負、体力勝負ではなく、科学的・論理的な経営戦略・営業戦略が求められ、多くの企業がランチェスター理論を取り入れた。
今日でもランチェスター理論は、競争戦略・販売戦略のバイブルといわれている。
この後、松井章圭は、北本久也を和歌山県支部長に、石黒康之を静岡県西遠支部長にした。
黒澤浩樹も道新しく道場を出すことをすすめた。
「黒澤、お前、品川に道場出せ」
(山田雅稔)
「いいんですか」
「もう関係ないから道場出せ。
いいよな、館長」
松井章圭も請け負った。
「いや、もうどんどん出したらいいんですよ」
黒澤浩樹は、第6回世界大会が終わったら実家の駐車場を道場にすることを考えた。
黒澤浩樹の話を両親は快諾。
その土地は、道路建設のために東京都に売却する予定だったが、数千万円という多額の税金を払って土地をキープした。
1995年6月18日、遺族派が大阪府立体育館で第12回全日本ウエイト制大会を開催。
館長の大山智弥子は体調不良で欠席。
大山留壹琴(長女)が代わりに挨拶に、高木薫、手塚暢人、安済友吉、小野寺勝美、林栄次郎らが審判に立ったが出場選手は52名と小さな大会だった。
1995年6月24日、25日、松井派が有明コロシアムで第12回全日本ウエイト制大会を開催。
全日本ウエイト制大会は大阪府立体育館で開催されるのが恒例だったが、大山留壹琴(長女)の夫である津浦信彦が押さえていたため使用できなかった。
軽量級は成嶋竜、中量級は瀬戸口雅昭、重量級は城南支部の岩崎達也が優勝し、世界大会出場を決めた。
黒澤浩樹も3位になり、秋の世界大会出場を決めた。
会場には八巻建志や数見肇が応援に駆けつけていた。
1995年6月26日、全日本ウエイト制大会翌日松井章圭は全国支部長会議を行った。
「今日、15名の新支部長を承認しました。
支部長協議会派に属する方々と軋轢が生じる支部もあるかもしれませんが、大山総裁の意志を継いでがんばってください」
(松井章圭)
「廣重支部長は支部長協議会派に脱退届を出しました。
八巻君と数見君をこちらの世界大会に出場させたいという意向を受けています」
(郷田勇三)
「城南支部は支部長協議会派を脱退し中立の立場をとる意思表示をされたようです。
我々は一貫した姿勢を通す必要があると思います。
門戸を閉ざさず選手の出場を受け入れる方向で対応しようと思っています」
(松井章圭)
1995年7月、学習研究社が機関紙「極真空手」の第1号を出版。
松井派の機関紙だったが、主に大会やイベントの情報を提供する「ワールド空手」と違い、「極真空手」の理念や技術、選手の人生、稽古、トレーニング法などを紹介した。
しかしこの後、この松井派の2冊目の機関紙は、大山留壹琴(長女)の攻撃されされる。
「極真分裂.03 他流試合」に続きます。