1984年
「1984年」と言えば、イギリスの作家ジョージ・オーウェルの小説。近未来世界の恐怖を描いているこの小説を読んでいた者にとっては、この年なにが起こるんだ!とドキドキしたものですが、日本においては特別なんにも起こりませんでしたね。
若干肩透かしを食らった感はありましたが、同じく近未来のディストピアを描いたスタジオジブリのアニメ映画「風の谷のナウシカ」が公開されたのはこの年の3月11日でした。

風の谷のナウシカ
あ、そうそう、この年男性にとって忘れ難い出来事がありました。それまで「トルコ風呂」と呼ばれていた例の場所が12月19日をもって「ソープランド」に改称されたんでした。
そんな1984年。日本ではどのような曲が売れていたのでしょう?1984年の邦楽ヒット曲 ランキング。売上枚数「年間ベスト10」いってみましょう
10位 サザン・ウインド 9位 北ウイング
セカンド・シングル「少女A」で早々とブレイクし、前年にはサード・シングル「セカンド・ラブ」が年間売上ランキング第8位に入っていた中森明菜がこの年も快調です。もう完全にトップアイドル。1984年売上枚数「年間ベスト10」に2曲連続でランクインしました。

サザン・ウインド
作詞が来生えつこであれば、作曲は来生たかおとくるところですが、10位となった「サザン・ウインド」の作曲者は安全地帯の玉置浩二。うん、これも良いコンビですね。
そして第9位には「北ウイング」。これまた良い曲ですよ。

北ウイング
因みに中森明菜にとって「サザン・ウインド」は8枚目、「北ウイング」は7枚目のシングルになります。
ただ単にカワイイと言うだけでなく、大人っぽいというか、陰りがあるというのか、そこんところが個性になっていますよね。デビュー当時のキャッチフレーズ「ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)」に偽りなしです!よく分からんけど。
8位 星屑のステージ
1983年9月21日「ギザギザハートの子守唄」でデビューし、明菜と同じく1984年1月21日発売の2枚目のシングル「涙のリクエスト」でブレイクを果たしたチェッカーズ。売上枚数「年間ベスト10」の第8位には4枚目のシングル「星屑のステージ」でランクイン!

星屑のステージ
奇抜なヘアースタイルに派手な衣装を上手に着こなしてました。プロモーションも素晴らしかったですが、アイドルになり切ったチェッカーズはやはり凄かったです。
1984年は、チェッカーズと明菜が大活躍した年だったんですよね。旋風を巻き起こしたと言ってもいいでしょう。
第7位 娘よ
毎年毎年新しいアイドルが現れ、様々な音楽がブームとなっても、常に演歌には一定のファンがついていますね。この年は雁ちゃんこと芦屋雁之助です。「娘よ」です。
若いころは漫才師、その後は喜劇役者として人気を博し徐々に演技の幅を広げていった芦屋雁之助。喜劇以外も演じる役者となったことで多くのドラマに出演していますが、強く印象に残っているのは1980年のテレビドラマ「裸の大将放浪記」ですね。
「裸の大将放浪記」の山下清役は大評判となり、そんな中で発売されたのが「娘よ」でした。

娘よ
当然と言えば当然なのですが、「娘よ」を歌う芦屋雁之助を観たお茶の間の多くの方々は、裸の大将とは随分違った雰囲気に戸惑ったのではないかと思います。
勿論ね、勿論、この曲を山下清の役柄通り、坊主頭にランニングシャツ姿で歌われてもねぇ。そりゃ、やっぱり合いませんわね。
「娘よ」はトータルで150万枚を超える大ヒットとなっています。
また、この年には紅白歌合戦に出場していますし、ドラマ「裸の大将放浪記」と「佐渡島他吉の生涯」によって菊田一夫演劇賞を受賞しています。
第6位 十戒
9枚目のシングル「十戒」、1984年の売上ベスト10に3曲目のラインクイン。またまた中森明菜です。
ジャケット写真がちょっとコワい。しかし、このイメージが当時の若者のハートを捉えたんですよ。

十戒
「北ウイング」「サザン・ウインド」と比べてこの「十戒」が特別優れているという感じはしません。と言うのも、80年代の明菜のシングルはどれも粒揃いだからなんですよ。
作詞は当時売れっ子だった売野雅勇に、サディスティック・ミカ・バンドを経てギタリストとして実力、人気共にトップに立った高中正義が作曲。悪かろうはずがありませんです。
う~む、やっぱりカワイイですね。カワイイだけではなく、当時のアイドルの中では頭一つ抜き出た歌唱力。これがまた大きな魅力でした。
第5位 哀しくてジェラシー 第4位 涙のリクエスト
売上枚数「年間ベスト10」に明菜が3曲入ってくるのなら俺たちだって!と思ったかどうかは分かりませんが(思ってないですね)、チェッカーズも3曲ランクイン。第5位「哀しくてジェラシー」、第4位「涙のリクエスト」は、それぞれ彼らのセカンド・シングルとサード・シングルです。

哀しくてジェラシー
作詞の売野雅勇と作曲の芹澤廣明のコンビは、9枚目のシングル「神様ヘルプ!」を除いて、「涙のリクエスト」から11枚目のシングル「Song for U.S.A.」まで続きます。この2人がチェッカーズを作り上げたと言ってもいいでしょう。
このコンビによる代表的なというか、象徴的な曲はやはり「涙のリクエスト」かな。

涙のリクエスト
もちろん、チェッカーズ自体も素晴らしかったです。しっかり歌いこなしてアイドルを演じきったという。そんな彼らにピッタリの曲でしたね。
チェッカーズは12枚目のシングルから楽曲を自作するようになり、チェッカーズにおける売野、芹澤コンビは解消。
その後は、作曲の芹澤廣明は、自らも歌いつつ岩崎良美が歌って大ヒットしたテレビアニメ番組「タッチ」のテーマソングをはじめ多くのミュージシャンに楽曲を提供し続けています。
また、作詞の売野雅勇もラッツ&スター「め組のひと」、麻倉未稀「ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO」、郷ひろみ「2億4千万の瞳〜エキゾチック・ジャパン〜」などホントに多くの楽曲を提供して一時代を築きました。
第3位 Rock'n Rouge
明菜やチェッカーズだけではない!80年代は私の時代よと言ったかどうかは分かりませんが(言ってないです)、アイドルと言えばやはりこの人。そう、松田聖子です。1984年も勿論健在です。

Rock'n Rouge
「Rock'n Rouge(ロックン・ルージュ)」は、松田聖子の16枚目となるシングルです。チェッカーズが売野雅勇なら、松田聖子は松本隆。更に曲は呉田軽穂という最強ともいえる強力コンビ。呉田軽穂はご存じの通り、ユーミンのペンネームですね。
タイトルからも伺えるように、この曲はカネボウ化粧品「レディ80BIO リップスティック」「84年春のバザール」で使われたCMタイアップ曲でした。
ユーミンは、この曲をABBAのようなヨーロピアン・ディスコ調にしたいと最初から考えていたのだそうです。ABBAといえば70年代に「ダンシング・クイーン」など多くの曲が日本でも大ヒットしたスウェーデンのグループです。
何故だか分かりませんが、フランク・ザッパ、アリス・クーパー、リッチー・ブラックモアにレッド・ツェッペリン。更にはセックス・ピストルズ、エルヴィス・コステロからオアシスとゴリゴリのいかついミュージシャンにABBAのファンが多いんですよね。
第2位 ワインレッドの心
アイドルとはちょっと違いはしますが、80年代にアイドル並みの人気を誇った安全地帯がブレイクするきっかけとなった曲「ワインレッドの心」。この曲は彼らの4枚目のシングルです。
デビューは1982年ですが、バンド結成は1973年といいますから結構な苦労人ですね。しかし、その苦節10年は無駄ではなかった!そのことを「ワインレッドの心」が証明しています。

ワインレッドの心
売れなかった頃に安全地帯が井上陽水のバックバンドをしていたのは有名な話です。その縁もあってでしょう「ワインレッドの心」の作詞は井上陽水です。玉置浩二、井上陽水のコンビは後に稀代の名曲「夏の終りのハーモニー」を生むことになります。
「ワインレッドの心」は、サントリー「赤玉パンチ」のCMソングでした。当時は玉置浩二は勿論のこと安全地帯は無名に近い状態だったからでしょうか、この曲は歌詞の素晴らしさばかりが評価されていた印象があります。が、聴けばわかる通り曲も素晴らしい。
しかし、このようなタイプの曲は玉置浩二にとっては不本意だったようで、売れる曲を作る必要に迫られて渋々作ったのだとか。運命とは皮肉なものですね。このことで日本の音楽界は大きな才能を手に入れることになったのです。
第1位 もしも明日が…。
さぁ、いよいよ1984年度の第1位。それは明菜でもチェッカーズでも安全地帯でもなく「わらべ」です。わらべの「もしも明日が…。」が栄冠に輝きました。
前年の「めだかの兄妹」に続いて、それはもう爆発的に売れに売れました。

もしも明日が…。
高部知子の脱退によって2人になったわらべでしたが、その不安を吹き飛ばしましたね。「めだかの兄妹」を上回る大ヒットです。
親しみやすい楽曲の良さもさることながら、これはもう萩本欽一というか、バラエティ番組「欽ちゃんのどこまでやるの!?」の出演者、スタッフによる総力戦の勝利というべきでしょう。
わらべは1984年12月に3枚目となるシングル「時計をとめて」を発売し、1985年3月の番組リニューアルを機に解散してしまします。
ベスト10のうち、中森明菜とチェッカーズでなんと6曲も占めるという非常に偏った1984年の音楽界でしたが、さてさて1985年はどうなるのでしょうか?この2組の活躍は続くのか?新たな新人が飛び出してくるのか?楽しみですね。が、それはまたの機会に。