漫画家に

1987年、板垣恵介は、漫画家になろうとと小池一夫主催の「劇画村塾」に入塾した。
「最強になりたかった。
最強を目指し始めたボクシングは残念ながら辰吉のような才能には恵まれてなかった。
自分には何かあるのか。
必死に考えた。
ガキの頃から最高の趣味が1番才能あるものかもしれない。
それは絵を描くこと」
1989年、「メイキャッパー」でデビュー。
小池原作の「傷追い人」の主人公;茨城圭介と妻:惠子から、ペンネームを「板垣恵介」とした。
1991年、週刊少年チャンピオンで「グラップラー刃牙」の連載が開始した。
「これまですっと考えていた。
大山倍達、モハメド・アリ、ジョージ・フォアマン、カール・ゴッチ、アントニオ猪木、・・・
誰が1番強いんだ。
最強を追いかけ最強の男を描いてみたい」
中村日出夫

「グラップラー刃牙」の連載が始まった頃
「誰か会ってみたい人がいたら取材できるよう段取りします」
と担当者にいわれ、板垣恵介は迷わず答えた。
「中村日出夫」
中村日出夫は、朝鮮半島の平壌で生まれた。
あまりのワンパクぶりから山寺に預けられ武道家だった叔父に武術を教えられた。
14歳で日本へ渡り、京都の平安中学に入学。
通りがかった寺の境内で稽古していた空手に興味を覚え、手ほどきを受けた。
その後、京都第三高等学校へ入学すると共に武道専門学校(武専)へ入り本格的に空手を学んだ。
武専は、日本武道を統括していた大日本武徳会に付属する武道の教師を養成する組織だった。
軍隊とも不可分の関係にあり、特殊部隊の兵士の養成所としての側面もあった。
そのため
「弾が尽き、銃剣が折れ、それでも目の前にいる敵を倒す」
とその稽古は熾烈を極め、修行で死亡事故が起こっても
「ウチの息子が情けなくてすいませんでした」
と遺族が謝った。
中村日出夫はそんな武専の修行だけでは足りずに、さらにむちゃむちゃな自主鍛錬を行った。
山ごもりを行ったり、雪深い京都から滋賀県の琵琶湖まで走り、分厚い氷を叩き割り、20分の水浴し、また走って帰ったり・・・
その握力は青竹を握り割り、4mmの鉄線を引きちぎった。
肉体だけでなく勉強も優秀で、京都大学法学部にも合格した。
武専では20歳にして指導的立場となり、30歳で六段錬士を授与された。
終戦後(1947年)、山梨県甲府へ移り、土木業を営みながら道場:修得館を開設。
1日10時間にも及ぶ猛稽古が行われた。
そして全国に先駆けて山梨県空手道連盟を結成し初代会長に就任。
連盟結成を記念して第1回空手演武大会が行われた。
この演武会には、大山倍達、金城裕、藤本貞治、翌年の第2回大会には、金城裕、藤本貞治、山口剛玄、中山正敏、金澤弘和など大物空手家が流派を超え、集まっていた。
そこで中村日出夫は素手による「垂木切り」を行った。
「垂木切り」は、短い角材を持たせ、スタスタと近づき、いきなり正拳、手刀、蹴りなどを繰り出す。
するとその瞬間、角材はまさにスパッと切れた。
さらに2つに折れた角材を重ねて持たせ再び4つに切った。
ある日、中村日出夫は、木でも切ってみようと思い、大木の枝を毎日打ち続け、3年かけて切る事に成功したという。
角材の持ち役をした者は
「ほとんど衝撃を感じなかった」
という。
中村日出夫によると、
「とにかくスピードが大事」
で、ビールやサイダーを飲むときも栓抜きを使わず手刀で栓を飛ばした。
1968年、東京へ居を移した中村日出夫は、
「空手の本質を拳に求め、拳の道を全うする」
という意味で、自己の空手道を「拳道」と命名し、道場:「拳道會」という小さな道場をつくった。
中村日出夫は
「空手は空手であり流派などいらない」
といい、生涯、小さな道場に留まり自流は立ち上げなかった。
売名行為も嫌い、メディアの露出も極端に少なかった。
中村日出夫は、空手の全国的な連合組織をつくるために
「各流派の代表が試合をして勝った流派、一番強い人に合わせていきましょう」
と提案した。
誰も賛同しない中、1人だけ
「やりましょう」
といったのは、大山倍達だった。
中村日出夫は、暴力団とモメた人に頼まれたりすると単身、素手で暴力団事務所に行き、相手が話し合いに応じずかかってくれば血祭りに上げた。
ヤクザ18人くらいに囲まれたときもあったが全員伸ばしてしまった。
報復を狙うヤクザをみつけたら絶対に逃げないで、逆に相手のほうにいき
「俺を襲うんだったらいつでも来いよ」
と笑いながら声を掛けた。
「こそこそ逃げていると絶対やられます」
かつて1日200本も吸うヘビースモーカーだった。
これは人体への影響を検証するためだったが、部屋がヤニで真っ黒になり注意されると
「では辞めよう」
といい、ピタリと辞めた。
61歳のときに喉にガンができて、医師に手術を勧められたが、
「(声帯を切除して)声が出なくなると指導に差し障る」
と拒否。
10cmほどの針金の先を釣り針のように曲げて、火で真っ赤に焼き、喉に突っ込み、手探りでガンを焼き切り、ウイスキーでうがいをして消毒。
これを週1回×12回行い完治させ、医師を驚愕させた。
「振り下ろされた拳に魂がこもる時、それはまさしく鉄拳となる」
中村日出夫は、体と心が、技を使うときにどういう働きをするべきかということを徹底的に鍛えた。
その技術と深い精神性は驚異的だった。

実際に中村日出夫と対面した板垣恵介は、まずその大きくて太くて、コロコロとした手が印象的だった。
(これで箸は持てるのか?)
そして慇懃な態度や自ら咽頭を焼いたためしゃがれた声にも本物を感じた。
「今日はお土産を持っていっていただこうと思いまして・・・」
中村日出夫はカバンから垂木を出した。
「持ってくれますか?」
「いえ、ボクは試し割り、持った経験ないんで・・」
「いや、落とさんように持ってくれたらいいから・・・」
「・・わかりました」
板垣恵介が垂木を持つと、斜め前に中村日出夫は立った。
そしてウォーミングアップもなにもせずに
「ハァー」
息を吐き出し腕を振った。
「シュッ」
「サクッ」
垂木は切れた。
折れたのではなく切れた。
板垣恵介は切れていない垂木をもらって帰った。
コンクリートの階段に立てかけ踏んでみたがビクともしなかった。
何度蹴ってもダメなので、底が硬いブーツに履き替え、助走をつけて跳び上がり踏みつけた。
「メキッ」
垂木にヒビが入り、少しだけ曲がった。
「拳が角材に当たった瞬間、コッと乾いた音がしたかと思うと木が切れていた。
後に専門家に問い合わせたところ
『それは大きな力を持った物体が高速で貫通した時独特の現象だ。
本来人間の出せるスピードではない』
と説明された」
「底の厚いブーツで思い切り踏みつけてようやく少し曲がるぐらいの硬い角材が、背広を着たまま準備運動もせずに放った手刀の一撃で簡単に折れた」
「一番分厚い手であった格闘家であり、あれを超える格闘家は相撲の朝青龍に会うまで会ったことも無かった」
板垣恵介は、理想の空手家を「愚地独歩」として表現した。
それは大山倍達と中村日出夫を融合させたものである。
K-1

1993年4月30日、代々木第一体育館で新しい格闘技イベントが誕生した。
打撃系格闘技世界最強の男はいったい誰なのか?
「空手」「キックボクシング」「拳法」「カンフー」など代表的な立ち技・打撃系格闘技の頭文字「K」
その中の世界最強、真のNo.1を決めんと
競技、団体、階級の垣根を飛び越え世界王者同士による夢の異種格闘技ワンデイトーナメント、
「K-1 GRAND PRIX′93 10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント」
である。
8オンスのグローブを着用。
3分3R(ラウンド)、あるいは3分5R。
頭突き、肘撃ち、バックハンドブロー、目付き、金的、投げ技、関節技は禁止。
その他の打撃技はすべてOKという打撃系格闘技ルール。
出場選手の中には8年間無敗の記録を持つキックの帝王:モーリス・スミスがいた。
そのモーリス・スミスの無敗神話に終止符を打ったオランダの怪童:ピーター・アーツもいたし、この2人を破ったことがあるアーネスト・ホーストもいた。
佐竹雅昭は、UKFアメリカヘビー級王者、11戦11勝11KOのトド"ハリウッド"ヘイズを2R 0:45、右ローキックでKO。
ブランコ・シカティックの石の拳で、タイの英雄、最強のムエタイ戦士:チャンプア・ゲッソンリットがロープまでフッ飛んだ。
決勝戦ではブランコ・シカティックのパンチがアーネスト・ホーストのテンプルを打ち抜き失神KO勝ち。
波乱万丈の展開に加え、全7試合中6試合がKO決着。
衝撃的なK-1誕生の瞬間だった。
この後、「K-1」は、空前の格闘技ブームを引き起こしていく。
大手スポンサーがつき、東京だけでなく名古屋、大阪、福岡、やがて海外でもイベントを開催。
会場は多数の芸能人が訪れ、チケットのとれないモンスターイベントとなっていく。
板垣恵介は、ブランコ・シカティックをみて
「スポーツマンじゃない」
と直感した。
普通の格闘家とは違う異質の凄みに
「殺し屋だ」
と感じた。
UFC(Ultimate Fighting Championship、アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)

1993年11月28日、
「最強の格闘技とは何か?
最も有効な戦闘技術を有する格闘技とは一体何か?
ノールールの戦いの勝者こそが最強だ」
というテーマを掲げ、アメリカコロラド州デンバー、マクニコルススポーツアリーナで、UFC(Ultimate Fighting Championship、アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)1: The Beginningが開催された。
キックボクサーのパトリック・スミス、ケビン・ローズイヤー、元極真でキックボクサーのジェラルド・ゴルドー、伝統派空手のジーン・フレジャー、プロレスラーで総合格闘技家のケン・シャムロック、相撲のテイラ・トゥリ(元・高見州)、プロボクサーのアート・ジマーソン、ブラジリアン柔術のホイス・グレイシーという8名の選手によるノールールトーナメント。
ルールは、1R5分の無制限ラウンド制。
(8試合すべてが5分以内に決着がついた)
判定決着は無し。
目潰し・噛み付き・金的以外はあらゆる攻撃が有効。
グローブ・シューズ・道着などの着脱は自由。
1回戦でジェラルド・ゴルドーは、 ダウンしたテイラ・トゥリの顔面を蹴り上げ、顔面を殴りつけた。
試合は26秒でレフリーがストップ。
テイラ・トゥリは歯が折れ顔面を骨折。
ジェラルド・ゴルドーも右拳、右足甲を骨折した。
ケン・シャムロックはパトリック・スミスにヒールホールドを極めた。
この2人はメジャーな格闘技選手だったが、優勝したのは無名のブラジリアン柔術家:ホイス・グレイシーだった。
1回戦でアート・ジマーソン、準決勝でケン・シャムロック、決勝でジェラルド・ゴルドーにすべて一本勝ちした。

試合をビデオで観戦した板垣恵介は、すでに「刃牙」で闘牛場からヒントを得て八角形の試合場を描いていたため、オクタゴンの金網付の八角形のリングをみて
「パクられてる?」
と思った。
そしてバーリトゥード(何でもあり)というルール、現実に実戦に最も近い戦いの場が用意され最強が選定されるということに震撼し圧倒された。
そして1994年3月11日に行われた「UFC2 No Way Out」はアメリカで現地で観戦した。
目潰し・噛み付き・金的以外はあらゆる攻撃が有効。
時間無制限一本勝負。
判定決着は無し。
16人ワンナイトトーナメント。
忍術のインストラクターは顔面に肘を浴びて顔面を骨折。
軽量級のムエタイ選手は、重量級の柔道選手を素手のパンチとキックで積極的に攻めた。
しかしテーピングを巻いた手首を持たれて投げられ袈裟固めで抑えこまれた。
それでも下から暴れて脱出を試みるムエタイ選手に、柔道家は何度も肘を落とした。
その頭部は床に叩きつけられ跳ね上がりムエタイ選手は失神した。
凄惨な試合が続く中、武道的、格闘技的に意義のある試合もあった。
この大会には日本から市原海樹が参戦。
市原海樹は、フルコンタクト空手の中でも最も実戦的といわれた「大道塾」の選手で、170cm90kgと小柄ながら、野生的な風貌とパワーを持ち、スーパーセーフ(顔面の防具)をパンチで破壊し、キックボクシングやムエカッチューア(素手のムエタイ、テーピングしただけの拳で殴り合い、肘打ち、頭突き、金的攻撃もOK)でも勝っていた。
そして1回戦でホイス・グレイシーと対戦。
試合前日、掴まれないようにと、自分ではさみで髪の毛を切った市原海樹は、積極的に蹴りやパンチで攻めた。
しかしローキックを捕まれてダウン。
仰向けになった市原海樹にホイス・グレイシーは馬乗りになってパンチ。
市原海樹も下から肘を打って抵抗していたが、やがてパンチを嫌がり下に向き丸まった。
ホイス・グレイシーは亀状態になった市原海樹の背後について手をねじ込んでスリーパーホールドで首を絞め、市原海樹はタップ(まいった)させた。
大道塾は、極真空手の全日本大会で優勝し世界大会でも4位になった東孝が、顔面パンチや投げ技、締め技、関節技を認めた実戦空手。
その大道塾の無差別級のトーナメントで優勝した市原海樹がが何もできずに負けてしまったことに、板垣恵介は衝撃を受けた。
「これが現実なのか」
グレイシー柔術

ブラジリアン柔術の始祖となったのは日本人だった。
1878年(明治11年)12月18日、青森県弘前市で前田光世は生まれた。
19歳で講道館に入門。
講道館四天王の一人:横山作次郎などに鍛えられ、メキメキと頭角を現し、入門4ヵ月後、初段昇段審査を受け、嘉納治五郎(講道館初代館長)に前田光世のみ15人抜きを命ぜられ達成し初段となった。
柔道をはじめて1年以内に2段となったが、これも前例のないことだった。
23歳で3段になり、早稲田大学、陸軍幼年学校、学習院の柔道師範となる。
アメリカ大統領:セオドア・ルーズベルトは、日露戦争で大国ロシアを破った日本の軍人を評価していた。
また講道館の四天王の1人:山下義昭とジョージ・グランドという大男のレスラーの試合があり、山下義昭は自分の2倍はありそうな大男を体落とし、横捨て身で投げ、抑え込んだ。
大学時代、レスリング選手だったルーズベルトは、その技に感動し、海軍兵学校に柔道を取り入れたいと考えた。
そして強い柔道家を招き試合をさせたいと外務省を通じて嘉納治五郎に依頼。
嘉納治五郎は1番弟子:富田常治郎を派遣し、前田光世もついていくこととなった。
渡米すると、ホワイトハウス内に試合場が設営されていた。
前田は進言した。
「試合は私にさせてくれ」
富田常次郎は、講道館四天王の1人で、当時の最高段位の六段だったが、他の四天王(西郷四郎・横山作次郎・山下義昭)に比べて明らかに実力が劣っていた。
講道館立ち上げ以前から嘉納治五郎と共に行動し、六段は功労者的な意味合いが大きかった。
「自分が責任者だから君たちを出すことはできない。
文句をいわずに君たちはみていればいいんだ。」
富田はいった。
試合は、大統領、大統領夫人、その令嬢、政府・軍関係者、各スポーツのトップ選手、
日本大使、駐在武官、大使館員、マスコミ関係者なども観戦していた。
富田常次郎は、身長は160cm足らず、体重60kg足らず。
アメリカ側の代表は、陸軍士官学校の学生でフットボール選手。
身長192cm、体重110kg。
試合の始まると、フットボール選手は富田の両肩をつかんで力ずくで押さえた。
富田は、もがいたが鷹に捕まった小鳥のように逃げられず、そのままフォールされてあっけなく負けてしまった。
アッという間だった。
会場は拍子抜けし、ルーズベルトは柔道がなにもできず負けたことに衝撃を受けた。
日本大使館員は
「日本男児の面目丸つぶれ」
といい、前田光世は唇を噛み締めた。
マスコミによって試合結果はアメリカ全土に伝えられた。
「柔道を貶めたまま日本に帰れない」
前田光世は、失墜した柔道の権威を取り戻すため、富田と袂を分かってアメリカに残った。
そして自ら柔道の強さを示すため、単身陸軍士官学校や大学で柔道の試合やデモンストレーションを行い、誰にも負けなかった。
こうした活動に注目したアメリカ人の後押しによってニューヨークに道場を持った。
入門者は多かった。
しかし前田光世は相手が誰でも遠慮なくビシビシ畳へ投げつけ容赦なく指導したため、誰も道場に来なくなった。
前田光世は、道場のオーナーと相談し、新聞で1000ドルの懸賞金つきの真剣勝負を呼びかけ公開の場で決戦することにした。
最初に挑戦してきたのは、世界一の怪力男、ヘビー級レスラーのブッチャー・ボーイ。
新聞は
「史上初の異種格闘技戦」
と書き会場は超満員となった。
前田光世は、165cm66kg。
ブッチャー・ボーイは、185cm115kg。
試合は3本勝負。
両者、柔道着を着用。
関節技・絞め技・投げ技で戦い、「まいった」するか、失神、戦闘不能、レフリーストップ、あるいは両肩をマットにつけたら1本。
2本先取したほうが勝ち。
前田光世は、体落としや巴投げでブッチャーボーイをマットに叩きつけ、首投げにきたブッチャーボーイを抱きついて投げて両肩をマットにつけて1本目先取。
3分後、跳びつき腕ひしぎ十字固めでブッチャーボーイは「まいった」し2本目を取り勝利した。
「実力を示し続けさえすれば柔道の真価は必ず理解される。
富田が貶めた柔道への評価などは取り返せる。
それには自分が勝ち続けることだ」
この後も前田光世は、アメリカ各地を転戦し他流試合を行った。

ベアナックル(素手)のメキシコ人ボクサーには、下からの十字固めを極めた。
中国拳法家は、蹴り足を掴んで膝十字固めで勝利。
柔道着を着ていないと使えない柔道の技もあった。
またいくら投げても勝ちにならないので、確実に勝つためには、関節技・絞め技でギブアップさせるしかない。
数多く異種格闘技戦をこなすうちに、前田光世は独自の戦法を編み出していった。
さらに開発は突き蹴りという打撃技にまで進んでいった。
「僕の経験によれば、飛び込んで組みつきさえすればすぐに勝てる。
しかし柔道家にとって1番安全な方法は、まず当身を練習し、拳法家の突きを避けるくらいの腕前を磨き上げることだ」
それは師:嘉納治五郎の講道館柔道とは全く別ものだった。
「柔道は、究めるものであり、金をとり観客にみせるものではない」
アメリカで転戦する前田光世を講道館は破門した。
もともと講道館四天王の1人の富田が負けたため、柔道の真価をみせようと、敢えて異国に留まった。
しかし海外でのあまりに高い名声、次々に編み出される前田独自の柔道技術が講道館を嫉妬させ、恐れさせたのかもしれない。
前田光世は気にせず、アメリカを周り終えイギリスに渡り、ヨーロッパを周った。
ベルギーで異種格闘技戦、100戦100勝を達成。
やがて有名になりすぎ相手が見つからなくなった。
そこで偽名を考えた。
しかしよい名が思い浮かばなかった。
困った。
では「前田困る」にしよう。
「コマル」では語呂が悪いから「コマ」はどうか。
伯爵という意味の「コンデ」をつけて「コンデ・コマ(Conde Koma)」
これがリングネームとなった。
「困る伯爵」ならぬ「コマ伯爵」というワケである。
29歳でメキシコへ。
32才で中南米(グァテマラ、ニカラグア、パナマ、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリー、アルゼンチン、ウルグアイ)を巡った。
1913年(大正2年)、ブラジルへ入った。
前田光世はブラジルのアマゾンの大自然に魅せられ決心した。
「アマゾン川流域開発に残る人生を賭けよう」
ここまでアメリカ、中南米、ロシア、ヨーロッパを周り、世界の格闘家と試合し続け、およそ2000回戦いに挑んだ。
うち1000回余りは柔道着を着て、それ以外は柔道着なしで戦った。
敗れたのは2度だけ。
いずれも柔道着なしで挑んだもので、うちの1回が、ジミー・エチソン戦。
195cm、132kg。
世界レスリングチャンピオン大会の決勝戦でのものだった。
1917年(大正6年)、前田光世は道場を開設した。
1921年(大正10年)、前田光世は、ブラジル政府より70万エーカー(青森県より広い)の土地を無償で与えられた。
このとき政府と前田の仲介をしたのが、ガストン・グレイシーという政治家だった。
グレイシー一家は、スコットランドからの移住者で、ガストンはブラジルで3代目だった。
「息子に柔術で鍛えてくれ」
ブラジルの治安の悪さと長男カーロス・グレーシーの素行の悪さに悩んでいたガストンは頼んだ。
こうしてガストンの5人の息子たちは柔道を始めた。
前田光世は彼らにその技術と精神を教えた。
1925年(大正14年)、4年間、みっちり柔道を習ったグレイシー兄弟は、共同で「柔術アカデミー」という道場を開いた。
前田光世は講道館から破門されていたので「柔道」という名前を使わせなかった。
この「柔術アカデミー」が、やがてグレイシー柔術となり、ブラジリアン柔術となるわけだが、末弟のエリオ・グレイシーは、身体が小さく、前田の柔術をさらに改良し、力を使わず誰にでも使いこなせる技術体系を完成させた。
だから現在でもグレイシー柔術宗家は、ストロングスタイルのカーロス派と、合理的で技巧派のエリオ派に大別される。

エリオ・グレイシーは、木村政彦と対戦した。
木村政彦は、全日本選手権10連覇、15年間不敗、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれる不世出の柔道家だった。
戦後、師匠である牛島辰熊が起こしたプロ柔道に参加。
格付け(ランキング)戦でもトップに君臨し続けたが、半年ほどで興行自体が屯坐した。
木村政彦は、難病を患った妻のため、プロレスラーになることを決意し海外へ渡った。
1951年、木村政彦は、サンパウロの新聞社の招待でブラジルへ渡り、プロレスと柔道の指導を行った。
同年9月23日、同行していた加藤幸夫がエリオ・グレイシーが試合を行い、絞め落とされた。
それまでにもエリオ・グレイシーは、加藤幸夫だけではなく、何人もの日本の柔道家を破っていた。
10月23日、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで、木村政彦とエリオ・グレーシーが対戦。
ルールは、立技での一本勝ちは無し。
ポイント無し。
抑え込み30秒の一本も無し。
決着は、「参った(タップ)」か、絞め落とすこと。
寝技専門のエリオ・グレイシーに対し、木村政彦は気絶狙いの大外刈り。
気絶は失敗したが、そのまま寝技に移行し、終始、有利なポジショニングを維持し、最後は、腕絡みでエリオ。グレイシーの腕を折った。
しかしエリオ・グレイシーは強靭な精神力でギブアップせず、木村政彦も折れた腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた。
試合開始から13分後、セコンドのカーロスがリングにかけ上がり木村政彦の体をタップし、木村政彦の一本勝ちとなった。
「何という闘魂の持ち主であろう。
腕が折れ骨が砕けても闘う。
試合には勝ったが勝負への執念は私の完敗であった」
ヒクソン・グレイシー

目潰し、嚊みつき、急所へ攻撃以外は何でもありという初期のUFCにおいて、ホイス・グレイシーは柔術着を着て戦い、圧倒的な強さでアッサリと勝った。
そしてリング上で
「兄ヒクソンは私の5倍は強い」
と発言した。
エリオ・グレイシーには6人の息子がいて、ホイス・グレイシーもヒクソン・グレイシーもエリオ・グレイシーの息子だった。
そして1994年7月29日、佐山聡は、ヒクソン・グレイシーを招聘し「VALE TUDO JAPAN OPEN(バーリ・トゥード・ジャパン・オープン) 1994」を開催。
修斗からも2選手が出場したが、共に1回戦で敗退。
「世界最弱」と叩かれた。
初来日したヒクソン・グレイシーは、1回戦では西良典、準決勝でダビッド・レビキ、決勝でバド・スミスにほぼ無傷で勝利し優勝した。
テイクダウンからマウント、絞めを狙う地味でシンプルな戦法だったが、圧倒的な強さを感じさせ、打撃重視、組技軽視の傾向にあった格闘技の概念を覆した。
この後、修斗はグラウンドパンチを段階的に解禁し、他の格闘技もその流れになっていった。
ヒクソン・グレイシーは、翌年行われた「VALE TUDO JAPAN OPEN(バーリ・トゥード・ジャパン・オープン) 1995」でも、。1回戦で山本宜久、準決勝で木村浩一郎、決勝で中井祐樹を、それぞれチョークスリーパーで下し、優勝した。
1997年10月11日「PRIDE(プライド)1」において、高田延彦と対戦し、1R、腕ひしぎ十字固めでギブアップを奪った。
1年後の1998年10月11日、「PRIDE.4」で高田延彦のリベンジマッチを受け、前回同様腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
2000年5月26日、「コロシアム2000」で船木誠勝と対戦。
鉄槌パンチを受けて左眼窩底を骨折し、一時視界を失ったが、ポーカーフェイスで船木誠勝に気づかせず、視界が回復後、反撃を開始。
グラウンドに持ち込んでバックをとると、片腕を首に巻きつけながらマウントパンチを浴びせ、チョークスリーパーで絞め落とした。
「最強ってなんだろう」
「最強は誰だろう」
プロレスラー、大山倍達、極真空手、少林寺拳法、ボクシング・・・
その他、たくさんの格闘家や武道家を板垣恵介はみてきた。
中でもヒクソン・グレイシーは、1番わかりやすく強さをみせた。
「実社会同様、格闘技界も価値観が多様化し、誰が最も強いのかは意見が分かれるだろう。
こんな状況で男として凄みを1番感じさせてくるのがヒクソンだ」
範馬勇次郎に負け、アメリカへ修行に出た刃牙は、700戦無敗のブラジルのバーリトゥーダー:ディクソンを訪ね、東京ドームの地下闘技場で敗れたことを聞かされた。
「強敵に出会いたいならトーキョーへ戻れ」
こうして刃牙は日本へ戻ることを決意した。
柔道という競技の崇高さ

1994年6月、福岡県で行われた柔道の全日本体重別選手権86kg級の決勝で、中村佳央と岡田弘隆が対戦した。
中村佳央は、前年の世界選手権で優勝した現役の世界チャンピオンだった。
岡田弘隆は、過去に2度、世界選手権で優勝した。
しかしソウルオリンピックでは直前に国内での練習でケガをして3回戦負け。
バルセロナオリンピックは万全のコンディションで、頭を剃り上げて気合を入れて現地に入ったが、試合2日前の練習でケガをしてしまう。
それでも勝ち進み、3回戦では見事な巴投が決めたが、勢いがよすぎて相手の体が回りすぎ、主審と1人の副審が「有効」の判定。
結局、残り30秒で、四つん這いになった所をひっくり返されて「技あり」を取られて負けた。
2年後のアトランタオリンピックがラストチャンスと思っていた。
そしてこの試合で岡田弘隆は、中村佳央の腕挫十字固が極められた。
体勢は完璧で、中村佳央のパワーを考えると逃げられるとは思えず、誰もが試合は終わったと思った。
しかし岡田弘隆は、
「まいった」
をしなかった。
肘はありえない方向に曲がっていた。
中村佳央も容赦なくさらに力を込めた。
耐え続ける岡田弘隆に、ついに主審が
「待て」
をかけた。
岡田弘隆の左肘は、靭帯が切れ、脱臼し、剥離骨折していた。
試合は、中村佳央の優勢勝ちとなった。
「そこでまいったをしたら自分にはもう未来はないと思った」
そういう岡田弘隆は、
「ケガを理由に引退はしたくない」
と現役を続行。
半年後、指の感覚が戻らない状態で出た講道館杯で3位に入った。
中村佳央と岡田弘隆の試合をみた板垣恵介は、柔道という競技の崇高さを感じた。
「あの勝負へのこだわりは生理的な思考で生み出せるモノとは思えない。
いったん試合場に上がったら最後、目の前の敵と一騎打ち。
男対男。
意地と誇り、そしてどれだけ多くの犠牲と共に精進してきたかという部分が、病的とも思える勝負へのこだわりを生み出すに違いない。
明日なき瞬間を彼らは生きていた」
「負けても仕方ないんだよ。
彼らがどんなに大きなものを失ったかは俺にはわからない。
でも彼らは失ったものと同じだけのものを得ただろう。
そしてそれ以上に多くのものを人々に与えてくれたんだ」
空手家の蹴り

1995年、板垣恵介は、極真空手の全日本大会と世界大会で優勝し100人組手も達成する八巻健志の蹴りをミットで受ける機会があった。
踵落としを受けたとき、2階から冷蔵庫が落ちてきたような衝撃を受けた。

佐竹雅昭の回し蹴りを受けたときも、体が宙に浮いてしまい、そのまま背中から落ちた。
彼らの蹴りは、どこに当たっても一撃必殺となる蹴りだった。
延藤直樹の負けん気がまぶしかった。
1995年9月29日、全日本キック CHALENGER-XIで立島篤史と延藤直樹が対戦。
立島篤史は中卒後、単身タイに渡りムエタイを修行。
夜間高校に通いながらキックボクサーとしてデビューし「最強の高校生」といわれた。
魂と気持ちで戦うファイトスタイルで圧倒的な人気を誇り、マイナーだったキックボクシングをメジャーなものにし、日本のキックボクサーとして初の1千万円プレーヤーとなった。
延藤直樹は以前から意識していた。
「これまでいい試合させてもらったどの選手にも危機感をもって臨んだのですが、彼だけは少し違いました。
絶対上がってくるな、そんな気がしたのです。
具体的なスタイルは若干違うかもしれないけれど、自分の存在が上塗りで消される、そんな気がしたのです」
立島篤史は、リングに上がるとお決まりの刀を振り下ろし相手を斬るパフォーマンスを行った。
すると延藤直樹は槍で突くようなパフォーマンスを返した。
延藤直樹は、立島篤史より歳は上だが後からデビュー。
キャリアでは劣るが、周囲を震え上がらせる雰囲気と眼光を持ち、立島篤史同様、気持ちで戦うスタイルだった。
1R、延藤直樹はローキックからガンガン攻めた。
立島篤史はヒザ&ヒジで対抗。
2R、立島篤史はアッパーからボディー。
明らかに効いた延藤直樹にさらにパンチ、ヒジの乱れ打ちから右ストレート2発。
ダウンを奪う。
コーナーでガッツポーズを決めた。
延藤直樹はカウント8で起きて、不適なスマイルでファイティングポーズをとった。
そして立島篤史に後ろ回し蹴りを放った。
しかし蹴りは空を切り、立嶋篤史はパンチと肘で延藤直樹をKOした。
「当日、会場の異様なまでの盛り上がりと歓声と罵声。
そして彼の持つ独特の空気が僕の頭の中を全て消し去りました。
あの日、あの場所にいた方ならわかってくれると思います。
声が痛いほど肌に当たりました。
地響き、地鳴り、後楽園ホールのリングで体感したのは3回だけです。
他にもあったとしても、あれが1番といっていい程の熱気でした。
罵声や延藤直樹のファンの鬼気迫る声援も後押ししたのかもしれません」
結局、延藤直樹は負けた。
しかし板垣恵介は感動した。
その負けん気がまぶしかった。
1999年、世紀末、42歳にして最強という底なし沼の落ちる

初代タイガーマスクだった佐山聡は、1983年に人気絶頂のまま新日本プロレスを脱退。
その後、前田日明のUWFに参戦した。
やがてUWFでも、周囲とかみ合わず脱退。
さらなる理想と強さを追求するための格闘技集団「修斗」をつくった。
が、その強さと人気は比例せず、1989年にプロ化された後も選手は客が全然入っていない会場で戦い続けた。
1993年11月28日にアメリカでUFCが行われて以降、世界的な総合格闘技、なんでもありブームが到来し、やっと修斗は認知された。
そして1999年5月29日、横浜文化会館で行われた修斗の公式戦が行われ、その中でウェルター級のタイトルマッチとして佐藤ルミナ(修斗)と宇野薫(和術慧舟会)が対戦した。
佐藤ルミナは、高校卒業後、浪人中に、それまで格闘技の経験はなかったが修斗を始めた。
日体大に入るとレスリング部に入った。
全日本アマチュア修斗選手権で準優勝した後、1994年11月にプロデビュー。
1996年7月7日、6勝0敗で迎えた「VALETUDO JAPAN`96」でのジョン・ルイス戦で引き分け。
しかしその内容は完全に負けていた。
佐藤ルミナは、ビビッて動けなくなってしまった自分を恥じた。
その後はどんな相手に対してもリング上で動きを止めることがなくなった。
真剣勝負を挑み、なにがなんでも1本勝ちを狙うアグレッシブファイトで4連続一本勝ち。
「修斗のカリスマ」と呼ばれた。
そして「VALETUDO JAPAN`97」で、ジョン・ルイスに腕挫十字固を極めて勝った。
この宇野薫との試合の数ヶ月前にも、1R、開始6秒で、チャールズ・テイラーに飛びつき腕十字を極めて勝っていた。
佐藤留美奈という名の由来は、ラテン語の「月」を意味する「ルナ(Luna)」と「狼」を意味する「ルピナス(Lupinus)」の2つの単語を合わせて父親が命名した。
そのため「月狼」というニックネームがつけられた。
数々のファッション誌にモデルとして登場。
スノーボード、サーフィン、エアガンの収集、フリークライミング、野菜の栽培など趣味も多彩。
藤原紀香とのお泊まりデートをフライデーされたこともあった。
こうして佐藤ルミナは
「ダサイ」
「古臭い」
「男臭い」
という従来の格闘技のイメージを払拭し、格闘技界をリードして来た。
そして佐藤ルミナは、初めて修斗ウェルター級(-70kg)王座決定戦に挑み、宇野薫のスリーパーホールドでタップし一本負けを喫し、王座獲得に失敗した。

その翌日(1999年5月30日)、仙台で行われた大道塾の北斗旗体力別大会で加藤清尚が1回戦で敗退した。
加藤清尚は、163cm70kgの体で1991年の北斗旗無差別大会で優勝
1994年、アメリカやタイに渡ってムエタイやキックボクシングを開始。
WMTF北アメリカジュニアウェルター級王座、UKF世界スーパーライト級王座、WMTF世界ジュニアウェルター級王座を獲得。
1996年7月20日深夜、アメリカで自転車に乗っていてトラックと正面衝突。
左足頚骨粉砕骨折。
「全治3年」
「もう格闘技は不可能」
と診断された。
しかし加藤清尚はあきらめずにリハビリを開始。
1999年5月30日の大道塾の北斗旗体力別大会で復帰し1回戦で敗退した。
スリップ気味に転び「ダウン」と判断されての判定負け。
疲れもダメージもまったくなかった。
佐藤ルミナと加藤清尚が敗北に、その現実の厳しさに板垣恵介の心は捻られそうになった。
「切ない。
そして尊いよ」

1999年10月、中井祐樹が、本場ブラジルで行われたブラジル柔術選手権(ブラジレイロ) の黒帯ペナ級で3位となった。
1994年11月7日、修斗ウェルター(-70kg)チャンピオンになり、1995年4月20日、バーリトゥードジャパンオープン1995に参戦。
1回戦でジェラルド・ゴルドーと対戦し、4Rにヒールホールドで1本勝ちするも、この試合中にサミング(目に指を入れる、反則)を受け、右目を失明。
(本人は殴られて目が腫れてふさがりみえないと思っていたが、後日、判明)
2回戦、クレイグ・ピットマンを腕ひしぎ十字固めで1本勝ち。
決勝戦でヒクソン・グレイシーと対戦し、1R、スリーパーホールドで1本負けを喫した。
右目の失明により、距離感がなくなり打撃系格闘技は難しくなり、ブラジリアン柔術に専念した。
板垣恵介は、中井祐樹の気高さに心臓が締めつけられた。
そして42歳にして、強さ、最強への想いを、ますます深く、まるで底なし沼のように強めていった。
男なら、一瞬でもいい、範馬勇次郎になりたい。

範馬勇次郎は、板垣恵介の理想だった。
そして格闘技や武道を志す人間に、範馬勇次郎のような存在を見せつけてほしいという願望もある。
「俺だって最強になりたかった。
すべてを己の腕力で通してしまう、そういう体験をしてみたかった。
男として生まれたなら自我が誕生すると同時にそんな傲慢な欲求も生まれるんだ。
それがいろんな壁に出会い、次から次へのあきらめ、振り落とされてしまう。
傲慢なまま、その欲求を貫き通してしまった人間が、範馬勇次郎なんだ。
コンプレックスを持ったことがない、自分が世界最強ということを当たり前に考えている。
ヒトではない。
モノでもない。
強い、という圧倒的存在だ」
男とて生まれたなら、一瞬でもいい。
範馬勇次郎になりたい。