ロック御三家
世良公則&ツイスト、原田真二と共にロック御三家と呼ばれていた時期があるChar。アイドルでした。当時はまだ日本の音楽市場においてロックというものが確立されえちなかったので、アイドルでもなんでもやるしかなった!とは本人の弁です。

Char
アルバムでロックをやるためにシングルでは歌謡曲を歌う。当時はそうする以外にメジャーで活動することが出来なかったと言います。不本意だったかもしれませんが、そうしたCharたちの地道な活動があったからこそ日本の音楽界にロックが根付いたんですね。功績はデカイです。
しかし、です。このアイドル期のCharは、今振り返ると面白いんですよね。日本を代表するギタリストCharの不本意だったアイドル時代。行ってみましょう!
NAVY BLUE
記念すべきデビュー曲は1976年6月にリリースされた「NAVY BLUE」です。作曲・編曲はChar自身で、作詞をNSPの天野滋が担当しています。珍しいというか、以外と言うか、今や貴重ですね。

NAVY BLUE
同年9月には、代表曲「Smoky」を収録したアルバム「Char」がリリースされます。これがヒットしていればCharの音楽人生はスムーズにいったのでしょうが、残念ながらそうはなりませんでした。つまり、全く売れなかった。
結果、方向転換を余儀なくされるわけですが、それがアイドル路線と言うわけです。
ソフト&メロウといいますか、哀愁漂う曲で悪くないですよね。でも、まぁ、売れませんでした。地味。新人にしては、20歳の若者にしては地味だったのかもしれないですね。
気絶するほど悩ましい
1年ぶりのシングルということになります。2枚目のシングル「気絶するほど悩ましい」は前作の商業的な失敗を踏まえ職業作家陣が投入されれることに。しかし、流石というしかありません。この曲は30万枚を超えるヒットとなります。
そして、結果として歌謡ロックと言う新たなジャンルが築かれることになるんですね。

気絶するほど悩ましい
阿久悠が作詞を担当したからでしょうか、それとも意図的に狙ったのでしょうか、なんとなくこの曲は沢田研二を感じさせます。当時ジュリーは人気絶頂ですからね。参考にしたということかもしれませんが、むしろジュリーに歌ってほしい曲ですね。
いい曲ですよね。それを証明するように「気絶するほど悩ましい 」は、沖田浩之、香坂みゆき、藤井フミヤから中森明菜まで、多くのミュージシャンにカバーされています。
逆光線
ジュリー風の曲調は変わらないものの、「気絶するほど悩ましい」がヒットしたことで信頼を得たのでしょうか、作詞は阿久悠ながらも曲はCharが担当した「逆光線」。

逆光線
ロック御三家と呼ばれた3組のアーティストの素晴らしいところは、当時ロック・ミュージシャンはメディアには登場しない(出られない?)というのが一般的だったところ、お構いなしにテレビや雑誌にバンバン出たところですね。
女性ファンの「キャー」という歓声が何とも70年代アイドルしてますね。
沢田 研二
雰囲気なのか、曲調なのか、はたまた共通の作詞家:阿久悠が絡んで知るせいなのか当時の沢田研二とCharには共通点があるように思えます。
個人的な交流があったかどうかは定かではありませんが、沢田研二とはテレビで共演してるんですね。
う~ん、やはり2人は同じ匂いがします。いくら「サティスファクション」を演ってもロックな感じが希薄だという。時代でしょうかねぇ。
闘牛士
アイドル時代の最後を飾る4枚目のシングル「闘牛士」。1978年3月25日のリリースでした。まぁ、とにかくこの曲はイントロのギターカッティングに尽きますね。「薔薇を投げるなら 明日にしてくれ」から始まる無国籍にしてリアリティの全くない阿久悠の歌詞が歌謡ロックを盛り上げます。

闘牛士
Charが芸能界でも成功した最大の原因は、曲の良さやギターテクニックもさることながら、イケメンってことですよね。
いやぁ、いい曲です。歌謡ロックの最高峰かもしれません。が、しつこいようですが、この手の曲はどうしてもジュリーを感じてしまいます。
アイドル時代
やはりCharにとってアイドル時代は苦労の連続だったようです。当時のエピソードをChar自身が語っています。
大変な時代だった。それでも素晴らしい曲を残しているわけですから、流石としか言いようがありませんね。
Charたちの活躍があって徐々にロックが日本のお茶の間にも浸透していくわけです。
しかし、時に1978年。世界的にはパンクの年です。遅い。日本でもパンクバンドの走りとしてアナーキーなどがデビューしていますが、世間一般の目はそこまでは行き届いていません。ここから加速度的に浸透していくとはいえ、まだまだ日本にロックが根付くには時間が必要だったということですね。