日本のロックは、アメリカのバンド「ザ・ベンチャーズ」、イギリスのバンド「ビートルズ」「ローリング・ストーンズ」によって始まった。
彼らによって1960年代後半、エレキギターやエレキベースなどの電気楽器を演奏しながら歌う「グループ・サウンズ」ブームが到来。
かまやつひろし、堺正章、井上順が所属する「ザ・スパイダース」
萩原健一(ショーケン)が歌う「ザ・テンプターズ」
永遠のロックンローラー、内田裕也がボーカルを務める「ブルージーンズ」
「ブルー・コメッツ」
「ザ・ワイルドワンズ」
「ザ・フォーク・クルセダーズ」
「ヴィレッジ・シンガーズ」
「パープル・シャドーズ」
「ザ・ゴールデンカップス」
「ザ・サーベージ」
「ザ・モップス」
「バニーズ」
「ザ・ジャガーズ」
「オックス」
「ザ・カーナビーツ」
「ザ・ランンチャ-ズ」
「ザ・ダーツ」
など多くのグループが誕生し、現在の「バンド」の元祖となった。
その中でも頂点に立ったのは「ザ・タイガース」だった。
きっかけは京都の中学校の同級生である、
岸部一徳、(ベース、岸部シローの2歳上の兄)
加橋かつみ(ギター)
森本太郎(ギター)
と彼らの高校の後輩、
瞳みのる(ドラム)
という4人が、ベンチャーズのコンサートを観にいって
「女の子にモテたい」
という単純な動機で「サリーとプレイボーイズ」というバンド結成。
「サリー」とは、身長181㎝の岸部一徳のことで、由来はロックンロールの創始者の1人、トル・リチャードのヒット曲でエルビス・プレスリーやビートルズもカバーした「のっぽのサリー(Long Tall Sally)」
「サリーとプレイボーイズ」は、ベース、ギター、リズムギターー、ドラムという編成で、ボーカルのないインスツルメンタルバンド(歌なし、演奏だけのバンド)だった。
やがてボーカルの必要性を感じ、四条河原町のダンスホール「田園」でボーイをしながら「ザ・サンダース」のボーカルとして歌っていた沢田研二を勧誘。
沢田研二(ボーカル)
岸部一徳、(ベース)
加橋かつみ(ギター)
森本太郎(ギター)
瞳みのる(ドラム)
の5人は「ファニーズ」をいうバンド名で洋楽のコピーを行った。
中学生の岸部シローは、サリーの弟いうことでメンバーにかわいがられながら、演奏はしないがファニーズをサポート。
森本太郎は、岸部一徳に
「弟です」
と紹介された後、初対面、しかも4歳下の岸部シローに、
「いい曲あるよ、タローくん」
とタメ口でいわれた。
それをみた岸部シローより1歳上の沢田研二は、
(俺もタローくんと呼んでもいいのか)
と思い、その後、恐る恐る呼んでみた。
岸部シローは、新聞配達と牛乳配達をしながら中学校に通っていた。
「新聞配ってから、牛乳を配って、学校に行ってました。
牛乳は80本の区域を2人で配ってました。
デカい冷蔵庫から、ちょっと多めにとって配達中に飲んでました。
最高17本くらい。
そうやってさんざん飲んだ後に、おばあちゃんが「ご苦労さん」って牛乳くれてね。
お腹いっぱいだったけど飲みましたよ」
そんな勤労少年だった岸部シローだが、大の音楽少年でもあった。
「中学校の頃、ラジオが1番の友だちでした。
その頃、普通の放送局ではポピュラーミュージックはほとんど聞くことが出来ない。
それを聞こうと思えば、FEN(Far East Network、米軍極東放送網) しかない。
しかし京都ではFENは受信できず、わずかにその放送がキヤッチできる短波ラジオを頼りとしていました。
短波でもFENは入ったと思ったら消え、消えたと思うと入り始める。
辛抱強くジッと待つしかないわけです。
この頃は、ポール・アンカ、ニール・セダカ、パッド・ブーンなどのポップス全盛時代。
新聞配達で稼いだお金で音楽誌「ミュージックライフ」を買い、ラジオにかじりつく、これが僕の中学時代の姿でした。
日本でグループソングがクローズアップされてきた頃、海の向こうアメリカでは、ロックが主流になりつつありました。
僕もラジオやレコードでよく本場のロックを聴いていましたが、ジェファーソン・エアプレーンとかジミー・ヘンドリックスとかの大物ロックバンドがカリフォルニア中心に一大 ムーブメントを起こしていたことは、強く印象に残っています」
そして中学卒業後、印刷会社に就職した後も大好きな音楽を楽しんだ。
「兄がバンドをやっていたということ。
このことが、もしかしたら僕の人生の道先案内人だったといえるのかも知れません。
僕も兄も音楽が大好きで、極端にいって、音楽があれば他に何もいらないっていうような、そんな少年。
カッコ良くいえば、初恋が音楽だった。
ちょうど僕が中学を出て働いていた頃、兄はセミプロとしてすでにバンドを組んでいました。
一方、僕はいえば、15歳の少年といえども一応の社会人。
京都や大阪を中心に、いろんなポピュラーミュージックを聞く他は、当時すごく流行ってたゴーゴーパーティーやダンスパーティーにもよく出かけていきました」
ファニーズは、大阪、難波のジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディションを受けることにした。
メンバーが何を演奏するか思案。
最終的に岸部シローが
「この曲がええんやないの」
といった曲を演奏。
結果、オーディションに合格し、週2日ステージを行う契約を獲得。
5人は、大阪市西成区岸里の明月荘で5人で共同生活を開始。
京都会館で開かれた「全関西エレキバンド・コンテスト」にローリング・ストーンズの「サティスファクション」で優勝。
ブルージーンズのボーカルであり、永遠のロックン・ローラー、内田裕也は「ナンバ一番」のステージを観て
「東京に来る気があるか」
と声をかけ、自分が所属している渡辺プロダクション(現:ワタナベエンターテインメント)に
「ぜひ彼らと一緒にやらせて欲しい」
ともちかけた。
数ヵ月後、ファニーズは、渡辺プロダクションのオーディションを受けて、契約。
東海道海道新幹線で上京し、世田谷区烏山町に用意された、10畳、8畳、6畳、台所、トイレ、風呂という間取りの平屋住宅で、渡辺プロダクションのマネージャー、中井國二を加えた6人で生活。
ベッドやタンスなど家財道具は、大阪出身で多摩美大デザイン科卒業後、渡辺プロダクションに入社し、まだ駆け出しマネージャーだった中井國二が月賦で購入。
5人は、まず西新宿の東京音楽学院でレッスンを受け、上京3日目にレコード会社のオーディションを受けて合格。
上京6日後に、新人の登竜門ともいうべき音楽番組「ザ・ヒットパレード」のビデオ収録のために新宿のフジテレビの第7スタジオへ。
収録前、スタジオの副調整室でフジテレビのディレクターに
「君たち関西出身か、
じゃ阪神タイガースだな」
といわれ、立場の違いでまったく抗うことができないままず、新しいバンド名が決定。
事前に、
「演奏時間は50秒ほどで」
「曲は何でもいい」
といわれていた5人は、岸部シローに
「それやったらキックスがええんやないの」
といわれたポール・リヴィア&ザ・レイダースの「キックス」を、初テレビ仕事で最大限緊張しながら演奏。
「ザ・ヒットパレード」の映像が全国のブラウン管に映し出された翌日、ダブルブッキングで出演できなくなったブルー・コメッツのピンチヒッターとして、急遽、ジャズ喫茶「新宿AC」の昼の部のステージに出演。
その後、内田裕也と一緒に「内田裕也とザ・タイガース」として上野のジャズ喫茶「テネシー」を中心に演奏。
メインボーカルは沢田研二だったが、内田裕也も司会をしながら歌った。
「そのときのことは今でも鮮明に覚えています。
僕を含めてメンバーの家族はかつてないほど興奮しました。
それはもう盆と正月が一緒にきたようなフィーバーぶりで、テープレコーダーでテレビのスピーカーから流れる声を直接録音したり、父の友人が当時の価格150万円くらいだったビデオを買って録画したり。
とにかくテレビに出るということは、凄いことだったんです。
兄をはじめ昔からよく知っているメンバー、つまり身内ともいえる人たちがテレビに出たんですから。
もっともそのときは「有望新人の紹介」のコーナーでしたから、だった数十秒間の出演でした。
それでもその頃のテレビというのはすごいインパクトを持っていました。
ずっと一緒に生活してきた兄がブラウン管の中にいる。
その感激というか感動というか・・・
本当に 「やった」 のひと言でした」
(岸部シロー)
上京して約2ヵ月後、ザ・タイガースは、日本劇場を運営する東宝が開催する「日劇ウエスタンカーニバル」に出演。
「モンキーズのテーマ」をアレンジ(替え歌に)した「ザ・タイガースのテーマ」を演奏。
この曲がアメリカでリリースされたのは数ヵ月前で、日本では未発表だったので、ほとんどの人がタイガースのオリジナル曲だと思ったが、情報通の岸部シローが
「これタイガースのテーマにしたらええんやないの」
といったことでできた曲だった。
「グループソングで人気のあったのはブルー・コメッツ、ザ・スパイダース。
ザ・タイガースは上京したばかりですからグループソングの中では新参であり、内田裕也さんのバックバンドという色彩が強かった。
僕も東京に来てステージの兄を応援してたのですが、ファンの人もいることはいてもパラパラというような状態。
それがカーニバルに出演したときは、裕也さんとのジョイントではなく、ザ・タイガースとして単独で出演したんです。
そのときには、もうもの凄いファンがついていました」
(岸部シロー)
上京して約3ヵ月後、TVデビュー、大ステージでのデビューを果たしたザ・タイガースは、1st.シングル「僕のマリー」でレコードデビュー。
さらに3ヵ月後にリリースした2nd.「シーサイド・バウンド」が40万枚を超えるヒット。
「僕のマリーがレコード・リリースされて、若者向け人気テレビ番組「ヤング720」で毎朝流されるようになって、だんだんとその存在が知られるようになりました。
そして同じ年、リリースした「シーサイドバウンド」からザ・タイガースブームに火がついたんです」
(岸部シロー)
ザ・タイガースは、中高生を中心に人気爆発。
活動の中心はジャズ喫茶からコンサートに変わり、テレビ、ラジオなどの芸能活動も増加し、世田谷の合同宿舎には日常生活に支障を来すほど多くのファンが訪れた。
日本人バンドとして初めて武道館でコンサートを行い、初主演映画「ザ・タイガース 世界は僕らを待っている」が公開され、後楽園球場で日本初のスタジアムライブ「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を開催した。
「とにかく忙しくて休みがない。
本当に忙しくて身動きが取れなかったのは、やはり沢田研二だ。
圧倒的な人気者だったからどこにも遊びに行けない。
振り返れば日本武道館、後楽園球場など、多くの場所で公演した。
グループとしての活動は実際のところ4年ちょっとと短いものだったが、何物にも代え難い貴重な体験をさせてもらった。
その中でも一番の体験は人気者になったことだ。
移動するたびに騒然。
例えば新宿ACBから池袋ドラムまで向かう際も警察が協力してくれた。
確か三光町だったと思うが、信号を全部ストップさせて白バイで先導してくれた。
ACBには数百人しか入れなかったが、外には1000人を超えるファンの群れ。
危険を避けるための対策だった」
(岸部一徳)
岸部シローは印刷会社をやめ、東京に出てザ・タイガースの活動をサポートするようになった。
「僕がタイガースと行動を共にするようになったのは17歳の頃です。
それまで働いていたところをやめて、バンドの付き人というか、バンドボーイをするようになったんです。
留守番とか個人の荷物を運ぶことも多かったんですね。
とにかくファンからの贈り物や手紙がもの凄い量にのぼり、これ1つを管理する係が必要なくらいでした。
今も昔も変わらないこととはいえ、自分の兄弟や子供がスターになるというのは大変なことだと思います。
みんな、ある意味おかしくなってしまう。
平常心ではいられなくなってしまう。
僕や僕の家族も実際そうでした。
僕や僕の姉さん、他のメンバーの兄弟なんかも、すべて投げうって東京に出てきた。
一緒にくっついていれば何かいいことがある。
そういう期待をもって、タイガースの周りに集まってくる。
芸能ファミリーっていうのは こんなところから始まるんじゃないでしょうか。
当時、タイガースのメンバーは世田谷にいたんですけど、僕、姉さん、それにタローの姉さんなんかも上京してきて、小さな家がすべてタイガースの関係者ばかりになってしまった。
変な結婚をするよりもその方が良いって感じで、それぞれの親から兄たちの身の廻りの世話をするようなおおせつかったというようなわけです。
タイガースの人気は日を追うごとに上昇していくし、僕自身大好きな音楽の中にいることができるということで今振り返れば1番楽しい時期でした」
そして18歳のとき、アメリカ行きを決意。
ザ・タイガースの世話をしながら、
「確かにタイガースは日本のポップス・シーンの頂点にいるけど、僕が本当に好きなポピュラーミュージックとは違う音楽をやっている」
とギャップを感じ始め、
「アメリカに行って、本当の音楽に触れたい」
と思い出し、バンドボーイをやりながら渡米の方法を探し始めた。
「アメリカは、自由の国。
そして自由だからこそいろいろなジャンルの音楽が出てくるし、またその影響も大きいと漠然と思っていました。
アメリカの音楽のイメージは、抽象的ないい方ですが、とにかく手を伸ばしても中々つかまえることのできない、日本人には実践しにくいものという感じでした。
こう考えていくと、これは絶対に、とにかく何がなんでも1度は行ってみないことには僕の人生が開けていかないような気がしました」
アメリカに行くことを熱望する岸部シローだが、もともと飛行機で行くという発想はなく、船、それも貨物船で太平洋を渡ろうと何軒も船会社を探し、何度も断わられながら、やっとアメリカまで乗せてくれる船を見つけた。
次の問題は、渡航費用だった。
「タイガースのメンバーの世話をしていましたからカンパでお金を集めてとか、ナベプロの仕事としてアメリカに渡ることができないかとか、いろいろと構想を練ったんです。
結局はナベプロの好意で渡辺音楽出版のアメリカ出向社員という名目で渡米させてもらうことができました。
まあ、いろんな意味で 大らかな時代"ではありました」
また渡米には「音楽」以外に「女性」という目的もあった。
「あんなに行動的になれたのは下心があったからで、実は最初の奥さんを追ってアメリカに行ったんだよね。
あの頃は情熱的だったなあ」
こうしてザ・タイガースのメンバー、渡辺プロダクションの援助を受け、アメリカへ。
ロサンゼルスに滞在しながら毎週、10バンドくらいのコンサートを観て、テープに録って日本に送った。
「名目は出向社員ですから、アメリカの本場の音楽情報を日本に送ることや、当時日本の音楽雑誌だった「ヤングミュージック」などに、サリーの弟が贈る「岸部シローのポップス便り」といった原稿を送って、その収入をアメリカでの生活費の一部に充ててたんです。
日本を出る前は、とにかく週末にロックコンサートを観られさえすれば、あとは食べてアパートで日がな1日ラジオを聞いて寝てるだけで良いと考えていました。
音楽少年の夢といってしまえばそれまでですが、アメリカの音楽に生活そのものが包まれているということが、それ自体価値を持っていたんです。
事実、ロサンゼルスに着いてからも、本場のミュージック・シーンにふれることが生活のすべてでした。
それは何の束縛もない、本当に自由な、ユートピア、パラダイス、もう言葉では表現できないような夢の時間でした。
こうしたアメリカでの生活をエンジョイして、本場の音楽に接するにつれ、僕の気持ちの中に芽ばえ、そしてハッキリとした形となっていったのは、日本のミュージック・シーンの稚拙さでした。
とにかくアメリカと日本の落差を感じることナシにはいられない。
日本ではタイガースがミュージックシーンを引っ張ってはいるが、兄たちのやっている音楽が本当の音楽、つまり兄たちがやりたい音楽なのかということも含めて、ずいぶんと考えさせられたことを覚えています」
「最初は1年くらいと思っていましたが、日が経つにつれて3年、いやそれ以上と思うようになり、アメリカの持つ魅力にとりつかれた」
という岸部シローだが、渡米数ヵ月後、ザ・タイガースに異変発生。
アイドル性を前面にしたプロモーションに不満を募らせていた加橋かつみが、
「渡辺プロを辞めてもやっていけるんじゃないか」
「独立して好きなことをしようよ」
といい始める。
それは次第にエスカレートして、最終的には、
「みんなで辞めよう」
といい、岸部一徳、森本太郎、瞳みのる、沢田研二に、
「辞めたくない」
と拒否されると
「じゃあ、オレは辞める」
と宣言。
ある日、渋谷でのレッスン中、加藤かつみはスタジオを離れ、その後、戻らなかった。
渡辺プロダクションは
「失踪」
と発表し、2日後には
「除名処分」
とした。
事務所とメンバーの総意により、リーダーの岸部一徳の弟、岸部シローが加入することが決定。
「ボンヤリと音楽評論家や音楽プロデューサーを目指していた」
という岸部シローは、突然、兄、一徳から電話で呼び戻され、新メンバーとして羽田空港で記者会見を行った。
加橋かつみの脱退は、まるで事件のように大きなニュースとなったが、岸部シローの加入も同じくらいインパクトがあった。
それまでザ・タイガースといえば、美形男子が王子様風の衣装で歌っていたのに、いきなりアイドルではタブーのメガネをかけ、ポーッとした、しかも京都弁の人間が現れたのである。
羽田空港で記者会見には、マスコミだけでなく、たくさんのファンもかけつけていたが、
「こんなのが入っちゃイヤ~」
といわれ、岸部シローは、
(なんやねん!)
と思った。
「ザ・タイガース」のメンバーには、ニックネームがあった。
岸部一徳は、前述したように「サリー」
辞めた加橋かつみは、前歯の出具合がイタリア人形劇のキャラクター「トッポ・ジージョ」に似ていたので「トッポ」
森本太郎は、そのまま「タロー」
瞳みのるは、ピーピーピーピーよくしゃべるので「ピー」
沢田研二は、映画「サウンド・オブ・ミュージック」などで知られる世界的な女性ミュージカルスター、ジュリー・アンドリュースから「ジュリー」
そして岸部シローは、「シロー」となった。
それまで誰も岸部シローの歌声を聞いたことがなく、低温が得意なサリーの弟なので、きっと低い声かと思いきや、歌ってみると抜けた加藤かつみと同じく声が高く、メンバーは、
「歌えるやん!」
「ラッキー!」
と喜んだ。
こうして楽器が弾けないのに音楽バンドに加入した岸部シローは、ザ・タイガースの9枚目のシングル「美しき愛の掟」で高音パートとタンバリンを担当。
ギターがまったく弾けないので、兄の一徳に、
「ギターを弾けることにしろ」
といわれ、人前では弾くマネ。
楽器がダメならばとステージで曲紹介や、他のメンバーが休憩する5分ほどの間、しゃべるようになり、
「よろしゅー」
「往生こいてます」
などとボソッとつぶやく毒のある京都弁がウケて、5分、10分、15分と次第に長くなっていき、最終的に30分くらいのトークコーナーとなった。
岸部シローが加入して1年11ヵ月後、瞳みのる(ドラムス)が脱退を申し出て、ザ・タイガースは解散を表明。
日本武道館で行った解散コンサート「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」は、ラジオとテレビで放送された。
そのとき客席に加橋かつみがいることを知った岸部一徳は、楽屋で
「彼にもステージに上がってもらったらどうだろう」
と提案。
しかし瞳みのるが、
「勝手に辞めた奴を呼ぶなら俺は降りる」
と猛反対したため、実現しなかった。
ザ・タイガース解散後、岸部一徳、沢田研二、森本太郎、岸部シローは、芸能活動を継続。
瞳みのるは、トラックに家財道具を積み込み、実家のある京都へ戻り、24歳で高校に復学し、慶應義塾大学へ進学し、高校教師となった。
そして37年もの間、メンバーとの交流を完全に絶った。
一方、必死にギターを練習したが、あまり上達しなかった岸部シローは、ザ・タイガース解散を、
「新曲とか覚えなきゃなんないのが多いでしょ。
譜面が読めるわけでもないからコードなんか書いとかなきゃいけないわけ。
だから正直うれしかった」
と喜んだ。
兄、一徳は、「太陽にほえろ!」のメインテーマのベースを弾くなど音楽活動を続けた。
岸部シローは、兄、一徳と「サリー&シロー」というアルバムを出したり、岩沢幸矢と二弓による兄弟フォークデュオ「ブレッド&バター」と「シローとブレッド&バター」を組んだり、ビージーズの来日ライブや天地真理や布施明のショーで司会をしたりしたが、最終的にテレビで活躍。
CMやドラマに出演して、つかみどころのない独特の存在感でタレント、俳優として売れっ子に。
役者デビューして間もない頃、森本レオ、小倉一郎、下条アトム、大和田獏らと「脇役とかでいいとこいくんだけど、もういっちょって人の会」をつくった。
岡田裕介も誘ったが1回しか来ず、三浦洋一には
「俺はもういっちょじゃない」
といわれ、断られた。
「脇役とかでいいとこいくんだけど、もういっちょって人の会」は、六本木に集まって食事をしながら演技論、役者論を闘わせたが、いつの間にか自然消滅。
「レオちゃんは、よく難解なことをいって、なにいってるのかわからなかったなあ」
21歳の岸部シローは、アメリカまで追いかけていき、交際を続けていた1歳上のハーフ(アメリカと日本)女性と結婚した。
29歳のときにドラマ「西遊記」に出演。
三蔵法師・・・笑顔がまぶしい女優、夏目雅子
孫悟空・・・元「ザ・スパイダース」の堺正章
猪八戒・・・個性派俳優としてブレイク中の西田敏行
沙悟浄・・・岸部シロー
という配役。
衣装は、孫悟空がすべて皮で200万円。
ウール中心の猪八戒、木綿の三蔵法師、沙悟浄はいずれも100万円。
メイク時間は、カツラのある夏目雅子が2時間、豚耳のある西田敏行が40分、堺正章が30分、ただかぶるだけの岸部シローは15分だった。
岸部シロー演ずる沙悟浄は、人を食ったような関西弁でブレイク。
オープニングで沙悟浄は滝つぼから岩の上にジャンプして登場するが、このシーンは逆回転撮影。
岩の上から滝つぼに向かって飛び降りて、それを逆回転処理したものだった。
完成した映像で上をみていなくてはならず、下をみてはいけない状態で滝つぼに落ちるのは恐くて仕方なかった。
蛇の化身、鱗青魔王(中尾彬)が放った蛇に全身を巻きつかれて脅迫されるシーンは、本物の生きた蛇を使って撮影が行われた。
岸部シローは最初は我慢していたが、思い通りに動かない蛇のせいでやり直しが続き、耐え切れなくなって本当に泣き叫び、迫真の演技として映像に収められた。
32歳の堺正章、30歳の西田敏行、29歳の岸部シローは、あまりのハードスケジュールに、
「日本点滴会」
と称して、昼休みに点滴を入れて疲労回復を図り、会長は堺正章が、副会長は西田敏行が務めた。
しかしそんな疲れも撮影現場で夏目雅子に会えば、フッ飛んだ。
3人は、
「河童」
「豚」
「猿」
と呼び合っていたが、20歳の夏目雅子のことは「坊主」ではなく
「夏目さん」
「雅子ちゃん」
と呼び、3人全員が夏目雅子のことが大好きで、半ばフザけて半ば本気で口説いた。
休憩中、どうにかして夏目雅子と2人きりになろうとしたが、互いにヌケガケを狙い、それを阻もうつきまとうため、常に他の2人がいた。
ならばと3人は我先に夏目雅子を食事に誘った。
結果、誰かが着替えを済ませて出ていくと自分を置いてデートに行ってしまうのを恐れ、撮影衣装のままで外に出ることもあった。
堺正章は、ロケ地にトイレがなくて困る夏目雅子をみて、自費でトイレつきキャンピングカーを購入。
夏目雅子は、その車に乗ってくれたが、河童と豚も乗ってきたため、全員で移動。
西田敏行は、役づくりのために夏目雅子に東北弁を個人レッスンして、2人切りの時間を過ごして
「とっても幸せな時間だった」
岸部シローは、
「俺は1億円、持っている」
といって夏目雅子を口説いたが、3人で食事をすると、いつも堺正章に払わせた。
そんな「西遊記」は、日曜日の夜に放送され、NHK大河ドラマを裏に持ちながら平均視聴率19.5%、最高視聴率27.4%という奇跡のヒットドラマとなった。
「西遊記のときは、夏目雅子さんはまだ新人女優で、僕は彼女と仲がよかったんよ。
性格が面白くて、常に跳ねてる。
誰に対しても明るくて、優しくて、誰にでも好かれる子やった。
最近テレビに出てる若いのとは全然ちゃう。
今の子は、損得勘定ばっかりやしね」
(岸部シロー)
1980年に劇場アニメ「あしたのジョー」、翌1981年に「あしたのジョー2」で「マンモス西」の声優を務めた。
情に厚いマンモス西のキャラクターにピッタリだった。
1984年10月、平日の8:30~10:00に放送されるワイドショー番組「ルックルックこんにちは」の2代目司会者(沢田亜矢子の後任)に抜擢。
芸能人のスキャンダルが報じられても批判的なコメントはしない。
ヨネスケの「隣の晩ごはん」のコーナーにクセの強い素人が出ても微笑むだけ。
「涙のご対面」のコーナーで桂小金治が号泣していても、黙って深くうなずくだけ。
そんな大人で優しい司会っぷりが、全国のお茶の間の朝の顔として定着。
また岸部シローは、様々な事業を展開し、経営者としての顔を持つようになる。
骨董のコレクションに傾倒し、
「俺の目利きはかなりのもの。
コレクション売ったら購入価格以上になる。
億はつかったけど、これは資産」
とコメントするなど、大物の風格をまとった。
しかし13年後、1998年4月6日、岸部シローは視聴者に何のコメントも残さず、「ルックルックこんにちは」の司会を自主降板した。
理由は、5億2000万円の借金。
返済に追われる状況に耐え切れず、翌7日に東京地裁に自己破産を申請し、利息の返済だけで月1200万円の借金があることを発表した。
自己破産によって財産をすべて差し押さえられた上、所属事務所も解雇され、仕事がなくなった岸部シローは、その後、誰も連絡の取れない行方不明状態に。
マスコミは、岸部シローの潜伏場所を探しながら、周辺に取材を重ね、スキャンダルを報じ続けた。
「ルックルックこんにちは」も元司会者を大きく取り上げ、岸部シローは貢献し続けた。
音信不通は数週間にわたり、、自殺説も流れる中、岸部シローの消息は意外な形で判明した。
「ルックルックこんにちは」のスタッフに岸部シローから電話が入ったのである。
しかもその第一声が、
「バイアグラをタダでくれ」
世の中の心配をよそに、岸部シローは、絶倫を求めながら日本国内を逃亡していた。
5億8000万円の借金を抱えて自己破産。
人気司会者の転落劇は世間の注目を集めていた。
「ルックルックこんにちは」のあまりに人の好さそうな司会ぶりで、心優しき草食系と思われていた岸部シローだったが、一連の騒動によって、
・基本的に金儲けにしか興味がない
・とにかく高価な肉しか食べない
・目利きでもないのに高価な骨董品を買い漁る
・芸能人のスキャンダルを批判しなかったのは、批判しても金になるわけではないから
というとんでもない本性が明らかになった。
岸部シローは、マスコミの取材に対し
「考えが甘かった。
僕が招いた結果」
と反省した上で、離婚後に突きつけられた法外な要求とザ・タイガースの同僚、森本太郎に高利業者を紹介されたことを契機に、転落したことを明かした。
かつてアメリカにまで追っていった妻と1男1女をもうけた後、すぐに家を購入。
さらに骨董品、オーディオ機器、自転車など、欲しいと思ったらポンポン買い、芸妓たちとのお茶屋遊びに興じるなど浪費癖があり、貯金が苦手。
事業欲から、会員制のヘリコプター運航委託会社、アメリカのディスコ、外国車販売会社など無謀な挑戦を繰り返した。
「ルックルックこんにちは」の司会を始めた直後に、
「別れたい一心」
で、
・杉並区に1億2000万円で購入していた一軒家は、名義を妻に変更し、月50万円のローンは負担
・子供2人の養育費は月60万円
・生命保険の支払い
・自転車は新車に替える度に支払い
などの要求を呑んで離婚。
「ルックルックこんにちは」のギャラは、月200万円で、所属事務所の取り分や税金を引くと残り120万。
妻に支払うと手元には1円も残らず、生活苦から銀行から3000万円借りたのが借金生活の始まりだった。
借金を返すために、ドラマ、映画にも出演し、約3年で返済するも、その後も1000万円単位で「借りては、返す」の繰り返し。
そんな中、後に再婚相手となる女性との交際が進み、
「手狭になって」
家賃40万円のマンションで生活を開始。
バブルが弾け、銀行も貸し渋りに転じたとき、
「簡単に借りられるところがある」
と声をかけてくれたのが、森本太郎だった。
岸部シローは、すぐにその話に飛びつき、立て続けに900万円を借金。
それでも高利の借金を返すことはできていたが、月70万円のマンションに移るなどして出費がかさみ、さらに森本太郎の事務所が倒産すると、その負債約4000万円が連帯保証人になっていた岸部シローに被さった。
お金を借りている金融機関は、高利業者36社を含めて69社に膨れ上がり、借りては、返すを繰り返す借金地獄に陥った岸部シローは、さまざまな対策を講じた。
「ルックルックこんにちは」を降板する半年前には、旧知のプロダクション社長に移籍を条件に保証人になってもらい、銀行から2億円の融資を受ける話が進んでいた。
「実現すれば利息だけで月1200万円の高利の返済がチャラになって、元利で350万円だけの銀行への返済になる。
実際、社長からはゴーサインが出たんですが、この話も第3者から横ヤリが入ったせいで、流れてしまいました」
その1ヵ月後には、別のプロダクション社長に約6000万円で古美術品を引き取ってもらう話を進めたが、これも実現しなかった。
借金はさらに増え、1998年4月2日、自己破産申請を決意。
翌3日の番組終了後に番組降板を申し入れ、その際、ギャラの未払い分を現金で求めた。
2001年、「ルックルックこんにちは」自主降板から3年後、51歳のときに自己破産が確定し、借金は免責に。
全てを失った岸部シローは、再起。
2002年、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」に出演。
ガキの使いチーム と料理対決だったが、まったく料理を作ることなく、4回も落とし穴に落ちて、
「なんやねん!
なんで落とし穴あんのよ!」
「なにしてた人か知ってる?
元金持ちやぞ、俺」
「エグゼクティブプロデューサー、誰や」
実行権のあるプロデューサーや」
「落ちたことのある男やから・・」
「これお金に換算したらやね、大変なことになると思うよ」
「俺、今日、5万(円)で来たんやから・・
せめて8倍出してよ。
10倍とはいわない。
40(万円)よ。
40(万円)補償できる、プロデューサー?」
「実年齢より20(歳)上なんだから」
「とりあえず帰ります」
「(穴から助け出させれて独特の風貌とトボけた顔で)ありがとう」
「もう金しかないなあ!
金持ってこい!」
などイヤミ& 自虐ネタで大爆笑をかっさらった。
「めちゃ2イケてるッ!」では、かつて沙悟浄役であったことからキュウリで釣られたり、浅草キッド司会のバラエティ番組「未来ナース」では、破産するまでの30年間、芸能界の一線で活躍してきた秘訣を聞かれ、ロケバスの中で弁当を食べながら
「例えばこのロケ弁。
どんなに安モノやいうてもスタッフに『なんや! こんなシケたロケ弁、誰に食わせると思ってんや!』って僕がそんな事いうたら30年間は芸能界には居れないのよ。
そういうこと思ってもいわないできたから、この世界におれたわけ。
こんな弁当、杉良太郎だったら無言で帰ってますよ」
と大勢のスタッフが乗っているロケバスの中で遠回しに安物の弁当に文句をつけ、まったく関係のない杉良太郎を悪人呼ばわり。
優しかった司会者時代と正反対のゲス全開で見事に復活!
不死鳥が自分の身を焼いた灰の中から蘇った!!