日本人初の南極点無補給単独徒歩到達に成功した冒険家、荻田泰永さん
「冒険家」と聞いて、皆さんはどのような姿を思い浮かべますか?
スリルに満ちた洞窟や危険と隣り合わせの密林。
果てしなく続く砂漠や雪原、見上げるばかりの山峰。
様々なイメージの中でも「北極」「南極」と聞けば、その最たるものだと感じる方が多いのではないでしょうか。偉人伝に出てくる冒険家の名前を思い出す方もいらっしゃることでしょう。
この度ミドルエッジ編集部(ミド編)は、いままさに北極・南極への飽くなき挑戦を続け、2018年1月には日本人初となる南極点への徒歩による無補給・単独踏破に成功した北極・南極冒険家の荻田泰永さんにその歩みを伺う機会をいただくことが出来ました。

「北極・南極冒険家」荻田泰永さん
北極冒険家荻田泰永ウェブページ - 北極冒険家荻田泰永ウェブページ
1977年生まれの荻田泰永さんはミドルエッジ読者の方々と同年代。
これまで約18年にも及ぶ冒険家としての挑戦。
過酷なその道を選んだ原点はそもそも何だったのか、お話を伺ってまいりました。

荻田泰永さんのプロフィール
「冒険家に憧れたとか、別にないですよ」
-本日はどうぞ宜しくお願いいたします!
まずは荻田さんがなぜ冒険家を志そうとなさったのか、お伺いできたらと思うのです。
幼少期に憧れを抱いたものとか…?
「いや、そこを話しても多分、そこに至る関心は、一個も生まれてこないんですよ。」
-!?
北極、南極に単独で挑み続ける荻田さん。
幼いころからの冒険家への憧れが彼を突き動かしたものと先入観いっぱいで臨んだミド編は荻田さんの言葉に思わず驚きを隠せません。
ここから荻田さんの飾らない、けれども強くて芯の通った言葉で彼の歩んだ道が語られることとなりました。
「ただただ積み重ねてきた道」
「22歳までいきなり飛んでもいいんですけど、そこ22年間振り返っても、冒険に至るタネは、一個も出て来ない。いきなり言っちゃいますけど。」
-なるほど。22歳で大学を中退なさっていますが、この頃に志が芽生えたのでしょうか。
「いや、別に冒険家を目指したわけではないですよ。そういうわけではないので。ただ、面白くないから辞めただけです。」
「もっと言うと、この道で俺は頑張っていこう!とか思ったことも一回もないです。ただ、ただただやっているだけなんで。」
-冒頭から面食らっております…。
「多分、何故そこに初めて、北極に行ったかってところを深堀りするのが一番大事になってくると思うんです。」
若かりし頃の根拠のない自信、そして有り余るエネルギー

「一番最初に至るまでのところなんですよね。なぜそこに何の経験もないのに行ったかっていうことなんですけど。大学を辞めたんです、3年で。その時点では別に冒険に行こうなんて思ったことはないんです。ましてや北極なんてキーワードが自分の頭の中で出てきたこともないし。」
「けれども、エネルギーだけは余ってたんです。なんかできるんじゃないかっていう。まあ、若い人だったら結構ありがちだと思うんですけど。で、なんでしょう、根拠のない自信がめちゃくちゃあるわけですよ。なんかできるはずだって。ただ何もできてないことへのいらだちみたいなのがものすごくあって。」
「別になんか人に誇れる実績を残した憶えもないし、インターハイで優勝しましたとか、別にそういうのもない、全然普通なんですよ。普通で育ってきて良かったんだけども、ただエネルギーだけが持て余して、大学行ってても面白くないわけです。高校ぐらいまではいいんですよ。とりあえず惰性というかね、日々の繰り返しでそんなに疑問はなかったし、まあ部活をやっていてそれなりにそこにエネルギーを発散してたと思うんですけど。まあ大学行ったら、やることが今度ないわけですね。」
読者の皆さんは若い頃に同じような思いを抱いたことはありませんか?
「根拠のない自信」「打ち込める何かが欲しい」
そのような葛藤は、誰もが一度は経験することのような気がします。
「そして大学も面白くなくて、意味ないなと思って辞めたんです。99年の3月で大学を辞めて、で、その年の7月21日、テレビでNHKのスタジオパークからこんにちはっていうね、昼にやってたトーク番組で、大場さんっていう人をたまたま見たんです。」
北極でも砂漠でも宇宙でもよかった、エネルギーをぶつけたかった
「大場さんの生き方。エネルギー、熱量が凄くて、もう番組を食い入るように見ちゃって。そしたら、番組の中で一番最後で、来年まったく素人の若者を連れて一緒に北極を何百キロもソリで歩こうと思ってるんですよってしゃべってるわけです。で、大場さんに手紙を書いたんですね。テレビ見ました、何にもやったことないんですけど行けるんでしょうかってね。それがきっかけで実際参加することになって、2000年に北極に行ったんですね。」
「だから、北極に行きたいと思って行ったわけじゃないんです。たまたま北極だったんです。別にどこでもよかったんです。別にそれが砂漠だろうがジャングルだろうが、北極だろうが、海だろうが、なんだろうが、宇宙だろうが、なんでも良かったんです。ただ、何かを探していたんだけれども、その時に色々タイミングがまたパシッと合ったんですね。」
極地へ向かうのはあくまでも手段
有り余るエネルギー、何かを為したくて為せていない自身への怒り。
若き日の荻田さんを突き動かしたのはそんな気持ちだったといいます。
「どこでもよかったんです」という荻田さんの言葉。
自身のエネルギーを一方向に定める手段が極地への冒険であり、それを続けるうちに「もっと行けるはず、もっとやれるはず」を繰り返してきたのだと。
「なんていうかな、到達することが目的ではないんですね。じゃあどこに向かってるのかって言ったら、大きなラインの上に乗っていることが大事であって、そこは中にこうチェックポイントがあるわけですね。北極点とか、南極点とか。だから、自分の中のイメージの中では、ラインの上にいるわけです。で、このラインの上を走っていることが目的であって。」
「プロセスの中にいることが目的。着くことは目的ではなくて、向かうことが目的なんですよ。着くと向かうって全然違うんですね。着くってのは結果の話。向かうってのはプロセスの話なんです。プロセスの中に身をおいていること、つまり走っていることが目的。で、走りたいんですよ。走っていたいんですよね。で、走り続けて、どんどんどんどん走っていけば、誰も着かないとこには行けるだろうっていう、根拠のないが自信があるってことです。」
「何のためにやるのって聞かれたら、やりたいからやる」
「スタートボタンは押された、その後はただ走ってきただけ。」
そう笑う荻田さん。
もちろん常人には計り知れない苦労や努力があったことと思いますが、当の本人はさらっと「誰でも成し遂げられるんですよ、やるかやらないかの違いだけなんです。」と話します。
「私も常人ですから。例えば100メートルを9秒台で走れというのは、どれだけ努力してもできない人のほうがもう、ほとんどなわけですよ。日本の陸上界でやっと1人出たっていうね。長い歴史の中で。たぶん桐生祥秀よりも努力した人って、多分いるはずなんですよね。」
「彼よりも情熱を傾けて、彼よりも激しいトレーニングを積んだ人は、きっといるはずなんですよね。でも、走れなかった。9秒台で走れっていうのは、やれば出来ることではないんですよね。たぶんそれは常人ではできないというか、そのレベルになってくると思うんですけど、我々がやっていることというのは、だから100メートルを9秒台で走るって言うのを、達成率が0.001%だとしても、我々がやっていることって、やる人が0.001%なだけであって。分母がね、陸上競技だと分母が100万分の1だとするじゃないですか。我々は分母が、もう1なんで。」
「やりたいからやる」だからこそ心が折れる理由もないと笑う荻田さん。
それは何かに抗ったり無理をすることで生じるものであり、ただやりたくてやってきた自分には無縁のことなのだと仰います。
そんなまっすぐ荻田さん、冒険家人生の中では大きな挫折も味わっていました。
半径500キロ無人の地で起きた事故
「2007年にテントの中で火を出して、死にかけて救助されたんです。両手大火傷を負って。その時は、結果的にSOSで救助されてピックアップされて、その時は落ち込みました。2007年から7、8年通って極地が分かった気になってて。甘く考えていたんでしょうね。自分で招いたものなんですけど。燃料こぼしてテントの中で出火して、火が出て、半径500キロ人がいないところでテント燃えてしまって。」

当時の想いを語る荻田さん
「あ、もう辞めようかなって思ったというのが一瞬ないことはなかったけど、でも失敗したままでそのまま終わらせておくのも許せなくて、そうじゃないってことをまた自分でも証明したくて。」
「結果としては、時をおいて2010年から歩き始めるんです。3年後ですね。」
極点を目指すと決めた2012年からは自らスポンサー集め
「極点やると決めたときからですね、スポンサーを募ろうと考えたのは。それまではアルバイトで稼いだお金で挑戦していたので。極点目指すとなると、例えば今回の南極点も2000万ぐらいかかってますし、北極点も大体1500万2000万ぐらいはそれぞれかかってしまうので、そこからですよね。」
-意識は変わりましたか?
「自分で賄っていた期間ていうのは、なんだろうな。要は自分が好きでやっているわけだから、人から金もらうのは筋違いと思っていたんです。」
「で、この段階でもらっちゃいかんなとは思ってたんですよ。なのでスポンサーを求めて歩いたこともなくて。ただ、その日々を繰り返していったその先には極点がね。そうなるとスケールの大きい費用もかかる、チャレンジをする日がいずれ来たときにはスポンサー集めをする日が来るだろうなというのは、やっぱりイメージとしてはあるわけですよ。だからその時に、その時のためじゃないですけど、ただ今はその段階じゃない。まあ言ってみれば、まだ経験づくりというか。」
-そしていよいよ極点チャレンジの時が来た。
「一言でいえばこいつマジだなって思われるかどうかだと思うんです。あ、本気でやってんなって思ってくれるかどうかに尽きると思って。」
「自分のこの道を続けていって、その先に大きな遠征をやるとなった時には、そういう姿であるべきだなと思っていました。応援されなきゃいかんだろうなと。いよいよ北極点やる、というときには次のフェーズに移るときが来たなと。それまで社会関係なく、一人でバイト、北極、バイト、北極、バイト、北極とやっていたのを、自分から社会に飛び込んで、社会に交わっていく。そういう日が来たな、というのが正直な気持ち。2010年くらいに北極点をやろう、と決めたときには飛び込みで、企画書持ってあちこち回りましたね。社会勉強のつもりで。」
はじめての飛び込み営業!
「企画書作って、A4で何枚かパチンと留めて、名刺作って、とりあえず東京駅の周りとか、うろうろ歩いて、大きい会社、ああ、知ってるな、と思ったら行ってみようって入って。
受付にお姉さんがね、二人いるじゃないですか。すいません、っていって、こういう者なんですけど、どなたかお話聞いてもらえないですか。
で、大きい会社であればある程門前払いされないんです。絶対誰かしらいるので。で、そこで話するわけです。そこで多分、人に話す練習をしたし、人に説明する練習もしたし。
会社勤めもしたことがないですから、大学を中退してそれからバイトと北極しかしてないんで。「会社」ってものがわからない。会社って何だろう、と。
でも、スポンサーを集めるということは、会社を相手にしないといけないってことで。わからないわけですよ。じゃあ会社に行ってみようと思って、まずそこからやり始めたんです。」
-そんな中で、企業さんとの素敵な出会いはありましたか?
「結果的に言うと、飛び込みからのスポンサーにつながったことはないです。
ないんだけれども、それは、わかってたんです。初めからそれで良かったんです。社会勉強なので、自分にとっては。
でも『会社としてどうこうはできないけれども個人的にはすごく面白いから、紹介するからこの人のところに行ってごらん』って、紹介してくれたり、その後も時々メールくれて『がんばってますか』とか連絡くれたりする人もいるんです。それはすごくうれしかったし、面白かったし、なんか勇気をもらえたし、よし頑張ろうと思った。
逆に『昔はやってましたけど今はやってないんですよ、ごめんなさいね。』なんて言われると、絶対に振り向かせてやるぞって闘志が湧いて来たり。そんなことはいっぱいありましたよね。」
下記「南極チャレンジ」サイトにもあるように、いまでは数々の企業から協力が集まって荻田さんのチャレンジは成り立っています。
これからも応援の輪はますます広がっていくことでしょう。
南極点無補給単独徒歩到達への挑戦 - 荻田泰永 北極冒険家
あの頃の根拠のない自信、エネルギー!いまでは?
「どうでしょうね、同じものがありますよ。あの頃はそれをどこに向ければいいか知らなかったけど、今はそれをただ知ったというだけで。それ以外は何も変わらないです。」
「積極的な惰性とでもいうか、いまは行ける場所があるってことですよね。どこにぶつければよいのか分からなかったエネルギーを目いっぱいぶつけることが出来る場所。」
-社会に身を置くと人知れず受け身になって、生活のパターンが受け身になっていくってことがあると思います。その中に身を置く人たちからするともう「あ、すごい生き方だな」って感じるのではないでしょうか。ただ言葉をなぞっていくと自然と言いますか。努力はもちろんのこと、やりたいからやってるという。
「努力はしてないですよ(笑。」
次は自分が若い人を連れていく、あの頃の大場さんのように
「失敗して痛い目も見たし、色んな教訓も得たし、今度は若い子たちを連れて行こうかなって思うんです。経験の浅いうちはそんなことできないですからね、恐ろしくて。」
-一緒に連れていった若い人から、もしかしたら荻田さんの若い頃のような物凄いエネルギーがあってどうしようこれっていう人が出てきて…。
「まあいるかもしれないですよね。もう何人か行きたいって言っている子は、大学生だったり社会人のまだ1年目2年目ぐらいの子とかいますよね。何人かいますよ。」
「やりたいからやる」
とはいえ、それを実行し続けることの困難さは誰もが知っています。
最後に荻田さんの語った言葉、それはとても心に残りました。
「子供のころの話なんですけど、なんで自分がこういう考え方とか行動になったかを紐解くヒントとなるのはやっぱり親なんですよね。両親の育て方というか、まあ育て方ですよね。
私、男兄弟3人の三男坊なんですけど、子供の頃に褒められた覚えがないんですよ、叱られた覚えもない。
でも放任された覚えもないんです、ずっとちゃんと見てるんです。でも口は開かないっていうか、よく喋りますよ。けど、あれやれこれやれって言われた覚えないです。そのかわり、やるなと言われた覚えもないんです。
あれをやれこれをやれ、もしくはあれをやるなこれをやるな。一切言われた覚えがないんですね。
要は指導みたいなことがね、叱るとかないんですよね。うちの両親は口は出さないんです、ただ目は絶対離さないんです。ずーっと見られてるのはわかってるんですよ。物凄い、ただ人一倍心配してくれてるんですよ。でも一切言わないし、手も出そうとしてこないんですよ。子どものころから。
そうすると子どもからすると好きなことが出来るし、あと褒めるって、褒めるも評価じゃないですか。私の中では、叱るっていうのはわかりやすい評価ですが褒めるってわかりにくい評価だと思うんですよ。叱るも褒めるも、いずれにしろ評価なんですよね。
うちの両親は褒めることもないんですよ。つまり評価をしてこないんですよ。そうすると子どものころから自分がやる行動一つ一つの行動原理が評価を求める行動ではなくなるんですよね。褒められたいとか目立ちたいとかではなく、やりたいからやるしやりたくないことはやらないし、別にやらないところで叱られるわけじゃないので。だから褒めるって、一方でいいことのように捉えられがちだけど、危険な方法だなってのは個人的に思うんですよ。」
「やりたいからやる」
その結果で世間が荻田さんを取り上げて評価されようが、荻田さん自身はもう次のやりたいことに向かっている。
その道をみて、また次の「やりたいこと」を探す人たちが動いてくれればいい。
荻田さんの飽くなきチャレンジ、これからもずっと続いていくことでしょう。