1964年の東京オリンピックは有色人種国家における史上初のオリンピックだった!!

’64東京オリンピックの聖火点灯式
これさえ読めば、あなたも体操競技が10倍楽しくなる”うんちく”!!

’64東京オリンピックで段違い平行棒の演技を行っているチャスラフスカ選手

東京体育館
チャスラフスカ選手の祖国、チェコスロバキアってどこ??

ヨーロッパ中央部の地図(緑色の部分がチェコスロバキア)
チェコスロバキア選手のオリンピック参加は日本より早かった!!

チェコスロバキアの国旗

平均台でポーズするチャスラフスカ選手
”プラハの春”とワルシャワ条約機構軍の侵攻とは??

ワルシャワ条約機構軍が侵攻して来た戦車の前で抗議するプラハの一般市民

侵攻して来た戦車に抗議文を貼り付けるプラハの一般市民
1968年メキシコオリンピックに出場が危ぶまれる!!

チャスラフスカも悩んでいました!!
受難の時代!!

もの悲しげなチャスラフスカ
しばしの春の訪れ!!

獲得したメダルを披露し、はにかむチャスラフスカ
悲劇が再び襲う!!
映画ならば、これでハッピー・エンドとなるところでしょう、チョンチョンと。しかし、リアルな人生においては、そう上手くはゆかず、彼女は再び悲劇に襲われることになる。1993年8月6日、プラハの北にある小さな村のバーでチャスラフスカの元夫ヨゼフ・オドロジルが喧嘩が原因で命を落としたのだった。ところが、その犯人として逮捕されたのが、チャスラフスカの息子マルティンだったのです。(当時、高校生)酔っぱらって店にいた女性客にからんでいた父親の醜態に偶然出会ったマルティンが、止めようとして喧嘩になったと言う。しかし、この事件に対し、復讐に燃える元夫の家族が共産党や新聞社を使うことで「反チャスラフスカ・キャンペーン」を展開し始めてしまった。力が弱まったとはいえ、共産党は民主化勢力への復讐の機会をうかがっており、チャスラフスカはその標的になったと言われている。この事件をきっかけに彼女は精神的に追い込まれてしまい、ついに鬱状態になってしまい、14年間も精神病院に入院することになったのだった。それはあまりに哀しいドラマの終わりだった。

他界する直前のチャスラフスカ

北朝鮮で出したチャスラフスカをモチーフにした切手