この年にはギター漫才『ゲルピンちん太ぽん太』の“ぽん太”としてのステージも経験しています。これは、師匠である船村がなかなかデビューのチャンスを得られない北島にステージ度胸をつけさせるため、自ら台本を書き、もう1人の弟子とコンビを組ませ、知り合いの興行師に頼みこんで仕込んだ事でした。北地方の1か月興行の前座芸人として機会を与えられたが3日ほどで「使い物にならない」と帰され、ギャラは一切もらえなかったといいます。
ロカビリー全盛のこの時代、正統派の演歌・歌謡曲の新人はなかなか需要が無く、船村自身「あんなに売り込みに苦労した弟子は他にはいなかった。」と語っているそうです。
船村徹は2017年2月16日の午前11時頃、心不全のため死去。84歳没。
デビュー
1962年、新栄プロの先輩歌手、村田英雄の「王将」のヒット記念パーティーで歌手としての初舞台を行います。そしてこの年の3月には「北海道(北の島)生まれの三郎」という由来のもとに芸名・北島三郎と6月デビューが決定します。
当時の芸能界で、「既婚の新人歌手」はありえなかったため、プロフィール上は独身としていました。
同年6月5日、日本コロムビアから「ブンガチャ節」(作詞・星野哲郎、作曲・船村徹)でデビューしましたがこの第一弾は完全な不発に終わりました。「ブンガチャ節」は渋谷などの繁華街で流しが歌っていた春歌の歌詞を変えてたもので、発売から1週間で放送禁止となってしまったのです。このことを北島自身は「テレビに3回出たら、放送禁止になっちゃった。」と語っています。
歌詞の中の“キュッキュキュ~”との合いの手が「ベッドが軋む音」を連想させ卑猥だからという俗説もあるようです。