北島三郎

北島三郎、デビューまでの道のり
北島三郎は、北海道上磯郡知内村の産まれです。北海道函館西高等学校時代に、海で溺れた小学生を救助したという逸話があります。この人命救助の件は当時の『函館新聞』にも掲載され、その記事が函館市の北島三郎記念館に飾られています。

そんな高校在学中に函館で開催された『NHKのど自慢』に出場します。この時、鐘はたった2つでしたが、司会の宮田輝から「良い声して学生さんですか?お上手でしたのにねえ…」と優しく声をかけられたことで、「歌をやれば歌手の道あるかな?」と思うようになったそうです。
北島三郎記念館 │ 函館の観光スポット 全天候型アミューズメントミュージアム
上京、そして結婚
1954年、17歳で高校を中退し、東京の親族を頼って上京しました。最初こそ東京声専音楽学校に入学し、通っていましたが、歌謡曲志向であったので、渋谷を拠点に流しの仕事をしながらデビューを目指します。


妻 北島雅子
この頃に北島が当時都内で下宿していたアパートの大家の娘であった雅子と結婚します。1959年11月30日、挙式。北島がレコードデビューする約3年前の挙式でした。北島は定収がなく、雅子の両親から結婚を反対されていた為、結婚式に出席したのは両家あわせて21人だけした。
作曲家、船村徹との出会い
1960年、流しの収入は3曲100円でしたが、ある日羽振りのいい客が1000円を出してくれました。北島はお礼を言いもう1曲歌うと「明日、新橋の○○って喫茶店で待っているから来なさい」と声をかけられました。実はその人は北島の評判を聞きつけた日本コロムビアの芸能部長で、その喫茶店で待つ相手は、作曲家、船村徹だったのです。

1961年、ある日のレッスン前、船村から「今日から他の歌はいいからこの歌を歌え、この歌を勉強しろ。」と譜面を渡される。これが後に最初のヒット曲となった『なみだ船』でした。

この年にはギター漫才『ゲルピンちん太ぽん太』の“ぽん太”としてのステージも経験しています。これは、師匠である船村がなかなかデビューのチャンスを得られない北島にステージ度胸をつけさせるため、自ら台本を書き、もう1人の弟子とコンビを組ませ、知り合いの興行師に頼みこんで仕込んだ事でした。北地方の1か月興行の前座芸人として機会を与えられたが3日ほどで「使い物にならない」と帰され、ギャラは一切もらえなかったといいます。

ロカビリー全盛のこの時代、正統派の演歌・歌謡曲の新人はなかなか需要が無く、船村自身「あんなに売り込みに苦労した弟子は他にはいなかった。」と語っているそうです。
船村徹は2017年2月16日の午前11時頃、心不全のため死去。84歳没。
デビュー
1962年、新栄プロの先輩歌手、村田英雄の「王将」のヒット記念パーティーで歌手としての初舞台を行います。そしてこの年の3月には「北海道(北の島)生まれの三郎」という由来のもとに芸名・北島三郎と6月デビューが決定します。
当時の芸能界で、「既婚の新人歌手」はありえなかったため、プロフィール上は独身としていました。
同年6月5日、日本コロムビアから「ブンガチャ節」(作詞・星野哲郎、作曲・船村徹)でデビューしましたがこの第一弾は完全な不発に終わりました。「ブンガチャ節」は渋谷などの繁華街で流しが歌っていた春歌の歌詞を変えてたもので、発売から1週間で放送禁止となってしまったのです。このことを北島自身は「テレビに3回出たら、放送禁止になっちゃった。」と語っています。
歌詞の中の“キュッキュキュ~”との合いの手が「ベッドが軋む音」を連想させ卑猥だからという俗説もあるようです。
数々のヒット曲を連発します
北島三郎音楽事務所
北島三郎音楽事務所は、1972年10月9日に新栄プロダクションから独立した北島三郎の個人マネージメント事務所としてスタートとしました。

北島三郎の後継者は誰か?
小金沢昇司が32年間所属していた「北島音楽事務所」から独立しました。表向きは「円満退社」という発表でしたが、どうやらその裏には北島事務所の「後継問題」も絡んでいるとか?!

大江 裕(おおえ ゆたか、1989年11月16日 - )
北島三郎|北島音楽事務所
後継者の最有力候補は『娘婿』北山たけし
北島三郎音楽事務所は親族経営で、北島の兄弟や夫人らがグループ会社も含め代表権を持っています。現在の事務所の代表権は夫人から長男に移行していますが、将来的に有力視されているのが北島の娘婿である北山たけしです。
北山はもともと北島の付き人で、独立した小金沢にとっては事務所の後輩にあたります。北山は修業時代に北島の次女禁断の恋に落ち、話題になりました。

北山たけし(きたやま たけし、1974年2月25日 - )
同じように付き人だった小金沢はとても驚きました。しかし娘を溺愛する北島三郎はふたりの結婚を許し、北山をデビュー後たった2年で紅白歌合戦に出場させます。これは娘婿に箔をつけさせたいという北島の親心でしょう。
しかし、32年間付き人をしていた小金沢にとっては、受け入れられない出来事だったのではないでしょうか。北島三郎に恩義はあっても、北山の下で働くのは無理だったのでしょう。
かつて所属していた歌手
山本譲二
小金沢昇司
まとめ
いかがでしたでしょうか?後継者問題は気になるところですが、サブちゃんにはこれからも第一線で活躍して欲しいですね!!!