ロープ・ア・ドープ(Rope a Dope、ロープ際のまぬけ)
1971年3月8日、世界ヘビー級チャンピオン:ジョー・フレージャー vs モハメド・アリの試合が行われた。
モハメド・アリは「6R、KO」を予告した。
この試合は、初の宇宙中継で、世界中の3億人の人々に観戦された。
試合会場のマジソン・スクエア・ガーデンも135万ドルというチケットの最高売り上げ記録となった。
ジョー・フレージャーは真正面から向かっていった。
アリはその攻撃をフットワークでかわすのではなく、左ジャブでけん制しながら、ロープによりかかったり、ロープの弾力を利用したりして、ジョー・フレージャーの攻撃に対応した。
ロープ・ア・ドープ(ロープ際のまぬけ)作戦だった。
これはロープ際で防御している自分を攻め続けるまぬけ(ドープ)な相手ということである。
ジョー・フレージャーは、かなりのパンチを出したが、ほとんどはかわされたりブロックされた。
しかし4R、ジョー・フレージャーのパンチでモハメド・アリの顔面から出血した。
5Rには、ジョー・フレージャーは両腕を下してノーガードになり、モハメド・アリを挑発した。
9R、突然、モハメド・アリのフックがジョー・フレージャーを痛打した。
モハメド・アリが追撃するとジョー・フレージャーはふらつきながら顔面をガードするし、何とか生き延びた。
12R、ジョー・フレージャーの攻撃で、モハメド・アリはフラフラになった。
最終の15R、KO決着はないと思われた、その瞬間、ジョー・フレージャーの左フックでモハメド・アリはダウンした。
何とか立ち上がった後、2人はにらみ合った。
そして試合は終わった。
ジョー・フレージャーが勝った。
モハメド・アリは、(プロ入り後、)初の敗北だった。
逆転無罪
1971年6月28日、最高裁判所は、全員一致で、モハメド・アリの徴兵拒否裁判における有罪判決を無効にした。
「蝶は羽を失い、蜂は針を失った」
ジョー・フレージャーに敗れた後、モハメド・アリは、その後、9連勝(6KO)した。
そして1973年3月、ケン・ノートンと対戦。
1Rに顎を砕かれ、12R判定負けした。
敗北後、「蝶は羽を失い、蜂は針を失った」といわれた。
モハメド・アリは、ジムの壁にこのフレーズを貼りつけて毎日眺め、「羽」と「針」を取り戻す決意を新たにした。
ジョー・フレージャーにリベンジ
1974年1月28日、ジョー・フレージャーと再戦。
前回のロープ・ア・ドープ(ロープ際のまぬけ)作戦の失敗から、ロープを背負うのを避け、フットワークを多用、12R判定で勝利。
キンシャサの奇跡
1974年10月30日、モハメド・アリは、ザイール(現:コンゴ)の首都:キンシャサ市外のジャングルを切り開き建てられたスタジアムで、世界ヘビー級チャンピオン:ジョージ・フォアマンと対戦した。
25歳のジョージ・フォアマンは、メキシコオリンピックボクシングヘビー級で金メダルを獲得し、プロ転向後は、ジョー・フレージャーやケン・ノートンをも2RでKOし、統一世界ヘビー級王座を獲得・防衛した。
そのパンチは、「象をも倒す」といわれた。
モハメド・アリは32歳。
全盛期は過ぎたと思われた。
ジョージ・フォアマンは、モハメド・アリをコーナーに追いこみボディー打ち込んだ。
モハメド・アリは、ロープに体を預け、ジョージ・フォアマンの強打をいなす「ロープ・ア・ドープ(ロープ際のまぬけ)」作戦に出た。
5R、突進力は弱まったジョージ・フォアマンに対し、モハメド・アリは、ロープを離れ、攻め始めた。
8R、モハメド・アリのコンビネーションパンチで、ジョージ・フォアマンは大きくよろけた。
モハメド・アリが、とどめの右を3連発を放つとジョージ・フォアマンの巨体が、ゆっくり倒れていった。
2度目の世界ヘビー級チャンピオンとなった瞬間だった。
ROCKY(ロッキー)
新チャンピオン:モハメド・アリは、初防衛戦で、チャック・ウェプナーと対戦し、TKOで下した。
当時、無名の俳優だったシルベスター・スターローンが、この試合を観て、映画「ROCKY(ロッキー、1976年)」のシナリオを書き上げ、自ら主演し、大ヒットとなった。
敬虔なイスラム教徒に
1975年、ネイション・オブ・イスラム(イスラムの民)の指導者:イライジャ・モハメドが死去。
新指導者となったウォーレス・モハメドは、白人を悪魔とする人種観を否定。
正統的なイスラム教を基調とする方針を掲げた。
しかしこれに反発する者たちにより組織は分裂した。
モハメド・アリは、ウォーレス・モハメドを支持した。
モハメド・アリにとって大切なのは、肌の色ではなく、心であり、魂であり、精神だった。
スリラー・イン・マニラ
1975年10月1日、モハメド・アリの4度目の防衛戦がフィリピンのマニラで行われた
相手は、ジョー・フレージャーだった。
2人は、これまで1勝1敗。
モハメド・アリは、軽いフットワークから、急に脚を止めて腰を落としパンチを浴びせる。
「人間機関車」ジョー・フレージャーは、アリのパンチをかわし突進あるのみ。
2人は壮絶な打ち合い、何度も形勢が逆転するシーソーゲーム、かつ消耗戦となった。
12R、モハメド・アリの渾身の右フックで、ジョー・フレージャーのマウスピースが観客席の10列目まで吹っ飛んだ。
それでも粘り強く戦うジョー・フレージャーの顔は凸凹だった。
そして15R開始時、彼のセコンドが試合を止めた。
イノキアリ
1976年6月26日、モハメド・アリは、アントニオ猪木と戦い、15R引き分け。
3度、世界ヘビー級チャンピオンとなる
1978年2月、モハメド・アリは、レオン・スピンクスと対戦。
36歳のチャンピオンより12歳若い挑戦者は、プロ8戦目。
しかし15Rを通じて、モハメド・アリを圧倒し、判定勝ちの大番狂わせを演じた。
1978年9月15日、モハメド・アリは、レオン・スピンクスと再戦。
前回の敗戦から半年後のことだった。
力でねじ伏せるボクシングではないが、老獪で洗練されたボクシングでレオン・スピンクスにレッスンをつけるように戦った。
そして15R、判定勝ちした。
25年間、ボクシングをやって、3度目の世界王座獲得という偉業をやってのけたモハメド・アリは、引退を表明した。
引退
しかし1980年10月2日、38歳のモハメド・アリは、リングにこだまする自分のコールが恋しくて、リングにカムバックした。
対戦相手は、世界ヘビー級チャンピオン:ラリー・ホームズ。
かつてはモハメド・アリのスパーリングパートナーだった。
しかしモハメド・アリは、いいところをみせることはできず10RTKO負け。
1981年12月11日、モハメド・アリは再びリングへ上がった。
5R、トレバー・バービッグをグラつかせたが、試合は判定負けした。
これがモハメド・アリの最後のリングとなった。
プロボクシング戦績は、61戦56勝(37KO)5敗。
通算3度、世界ヘビー級チャンピオンとなり、19度の防衛に輝いた。
闘病
1984年、モハメド・アリは、パーキンソン症候群と診断された