エメット・ティル事件
アメリカでは、19~20世紀初めまで、南部を中心に、公共施設における人種隔離制度が確立されていた。
多くの黒人には選挙権もなかった。
また出入りできない食料品店や映画館があったし、学校やホテルなど施設で、黒人用、白人用に分けられていた。
1955年、14歳の黒人少年:エメット・ティルが、KKK団(白人優越主義を掲げる秘密結社)の白人男性3人に暴行を受け、射殺され、川に投げ込まれた。
3人は、エメット・ティルが白人女性に言い寄ったため連れ出したことは認めたが、殺害については否認した。
そして陪審員が全員白人だった裁判で彼らは無罪となった。
シット・イン (Sit in、座り込み)
1955年、ローザ・パークスという黒人女性が、バスの中で運転手に白人乗客に席を譲るよう命じられたが、これを拒否した。
この「シット・イン」という創造的な政治行動は、燎原の火のごとく広がり、いろいろなところで人種隔離への挑戦が試みられた。
1960年、白人専用の食堂に入った4人の黒人大学生が注文して断られると、座り込んで抗議した。
後に公民権運動の指導者となるキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)も、白人専用食堂で座り込んで逮捕された。
カシアス・クレイ Cassius Clay
エメット・ティル事件の少し前、13歳のカシアス・クレイは、ボクシングを始めた。
体重は、まだ51㎏だった。
8~14時まで学校。
18時まで図書館でアルバイト。
そして夕食を摂った後、遅くまでボクシングジムで練習した。
当時のプロボクシングは、フライ級、バンタム級、フェザー級、J・ライト級、ライト級、J・ウェルター級、ウェルター級、ミドル級、ライトヘビー級、ヘビー級の10階級。
カシアス・クレイは51㎏、つまりフライ級だったが、ヘビー級のチャンピオンに憧れた。
ジャック・デンプシー、ジョー・ルイス、ロッキー・マルシアーノなど、世界ヘビー級チャンピオンこそ世界最強の男だった。
カシアス・クレイは、毎日、熱心に練習し、何kmも走り、腹筋運動や縄跳びをした。
カシアス・クレイという名は、19世紀に生きた、ある白人の政治家に因んで両親がつけた名である。
カシアス・マーセラル・クレイは、父親からたくさんの奴隷を雇う農園を受け継いだが、やがて奴隷制度廃止論者となった。
そして自分の奴隷を解放し、政治家となり、エイブラハム・リンカーン大統領と共に奴隷制度を終結させた。
しかし彼は、決して黒人と白人が平等だとは思っていなかった。
白人は他の人種より大きくてよい脳と発達した肉体を持っていると信じていた。
カシアス・クレイは、この事実を高校生のときに知った。
1960年、18歳のカシアス・クレイは、ローマオリンピックのアメリカ代表に選ばれた。
階級はライトヘビー級だった。
そして9月5日、ズビグニェフ・ピェトジコフスキー(ポーランド)を破って、金メダルを獲得した。
そしてアマチュアの頂点に立った彼はプロに転向した。
(アマチュア戦績:167戦161勝6敗)
予告KO
カシアス・クレイは、世界ライトヘビー級チャンピオンであるアーチ・ムーアの下でトレーニングを行った。
アーチ・ムーアは、強すぎたため、そして黒人だったため、39歳まで世界チャンピオンになるチャンスを与えられなかった。
しかし見事にそれをモノにし、その後、48歳まで10年間、世界ライトヘビー級チャンピオンに君臨し続けた。
また1955年には、世界ヘビー級チャンピオン:ロッキー・マルシアーノに果敢に挑み、敗れた。
このトレーニング中に行われたスパーリングで、カシアス・クレイはアーチ・ムーアを圧倒した。
このときアーチ・ムーアは現役の世界ライトヘビー級チャンピオンである。
プロデビューしたカシアス・クレイは、勝ち続けた。
1年目は、8試合、2年目は、6試合行い、14試合で14勝(12KO)。
この中には、アーチ・ムーアを破った試合も含まれている。
カシアス・クレイは、試合前に、控え室の黒板に
「アーチ・ムーアを4RでKOする」
と書いてリングに向かい、その通りにした。
ネイション・オブ・イスラム(Nation of Islam、NOI、イスラムの民)
カシアス・クレイは、ネイション・オブ・イスラム(イスラムの民)という黒人民族主義を掲げる宗教団体の信者となった。
ネイション・オブ・イスラム(イスラムの民)の最高指導者:イライジャ・モハメドは、アメリカ黒人が自由になるためには、白人との完全な分離が必要だと説き、ミシシッピー州とアラバマ州をアメリカ合衆国から分割し、アメリカ黒人のための独立国家とすることを提案した。
ネイション・オブ・イスラム(イスラムの民)の信者は、ブラック・モスリム(黒い回教徒)と呼ばれた。
そしてブラック・モスリムは、白人を「悪魔」と呼んだ。
さらにブラック・モスリムは、現在の名字を捨てた。
その理由は、アメリカ黒人の名字は、もともと持っていたアフリカ人祖先の名ではなく、かつて奴隷所有者によって与えられた「奴隷名」の名残だからだという。
そしてその奴隷名をやめて、永久にわからないアフリカ祖先の名前「X」を名字にするか、適当なイスラム教徒の名前に改めるべきとした。
1963年、カシアス・クレイは、まず「カシアス・X」と名乗り、それから「モハメド・アリ」となった。
1960年代、公民権運動が盛んになった。
公民権運動は、人種隔離に異議を唱え、アメリカ社会で白人と黒人、あるいはすべての人種が調和しながら生きていく道を求めた。
彼らは公然と警察や白人の人種差別主義者からの暴力や嫌がらせを受けた。
そのような状況下、ネイション・オブ・イスラム(イスラムの民)は、その過激で急進的な思想と、教団幹部:マルコムXの宣伝活動により、変革を求める多くの若者を信者にしていった。
白人を「悪魔」と呼び、友和ではなく分離独立を求めるネイション・オブ・イスラム(イスラムの民)とブラック・モスリムは、人種差別主義者からも、公民権運動を支持する人々からも批判を受けた。
蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a butterfly, sting like a bee)
1964年2月、世界ヘビー級チャンピオン:ソニー・リストン vs モハメド・アリの試合が行われた。
試合前、モハメド・アリは、ソニー・リストンを挑発し続けた。
「リストンが王者の椅子に座るのもカシアス・クレイと対戦する日まで。
ムーアは4Rで倒れた。
リストンは8Rでおしまいさ。」
「ソニー・リストンは、世界ヘビー級チャンピオンとしては醜すぎる。
世界ヘビー級チャンピオンは俺のように美しくなければならない。」
「大西洋の上空のどこかまでリストンをぶっ飛ばす。」
ボクシング史上最も破壊力があるといわれたソニー・リストンのパンチは、軽快に動き回るモハメド・アリには当たらなかった。
逆にモハメド・アリの速くて鋭いジャブは、ソニー・リストンの動きを徐々に鈍らせていった。
彼は憎らしいくらいにソニー・リストンの周りを回って翻弄し、死に物狂いでパンチを繰り出すチャンピオンにあざけりの言葉で話しかけた。
モハメド・アリはリング上で叫んだ。
パンチを強振し肩を痛めたソニー・リストンは、4R終了後、コーナーで湿布薬を塗った。
5R、この湿布薬が目に入るアクシデントがあったが、モハメド・アリは、蝶のように舞い、蜂のように刺すように戦った。
そして7R開始のゴングが鳴っても、ソニー・リストンは自分のコーナーで椅子に座って動こうとしなかった。
新しい世界ヘビー級チャンピオンが誕生した。
マルコムX暗殺
1965年2月、ネイション・オブ・イスラム(イスラムの民)と袂を分かち、自ら新しいイスラム教組織を立ち上げ、自らが信じる正義を目指していたマルコムXが暗殺された。
マルコムXがネイション・オブ・イスラム(イスラムの民)を離れるとき、モハメド・アリは、彼のことを尊敬していたが、教団を離れることはしなかった。
全盛期
1966年5月25日、世界ヘビー級チャンピオン:モハメド・アリ vs 前世界ヘビー級チャンピオン:ソニー・リストンの試合が行われた。
1R、モハメド・アリの、一見、大したことのないパンチが、顔面に当たるソニー・リストンはマットに沈んでしまった。
これがモハメド・アリの初防衛戦だった。
1966年11月22日、モハメド・アリは、元世界ヘビー級チャンピオン:フロイド・パターソンと対戦した。
フロイド・パターソンは、ビッグマウスで目立ちたがりのモハメド・アリと好対照で、寡黙で謙虚、そして白人との調和を目指す公民権運動の支持者だった。
ブラック・モスリムに批判的だったため、モハメド・アリのことをそう呼ばずに
「カシアス・クレイに勝って、タイトルをアメリカに取り戻す。」
と宣言した。
そしてフロイド・パターソンは勇敢に戦ったが、12R、TKO負けした。
この後、モハメド・アリは、7度、防衛戦を行い全勝(5KO)した。
間違いなく史上最強、最高の世界ヘビー級チャンピオンだった。
徴兵拒否
当時のアメリカは「国民皆兵制度」により、すべての男子は、18歳になると、アメリカ軍に入隊しなければならなかった。
しかし精神あるいは身体に障害がある者、扶養家族がある者、大学に通う者は免除された。
モハメド・アリは有名人だったので、これを数年遅らせることができたが、逃れることはできなかった。
入隊すれば最低2年間は選手生活はストップされる。
そしてベトナム戦争に送られる心配はなく、基地や病院を慰問する任務が待っていた。
しかしモハメド・アリは、自分の良心と、自分の宗教の教えに基づいて、意外な行動をとった。
1967年2月6日、モハメド・アリはボクシング世界ヘビー級チャンピオンとして8度目の防衛戦に勝利した。
1967年4月28日、25歳のモハメド・アリは、テキサス州のヒューストンにある連邦裁判所に行き、他の25名の徴募兵たちと共に筆記試験と身体検査を受けた。
その後は徴兵点呼だった。
名前が呼ばれ、配属をいわれたら一歩前に出る。
この一歩がアメリカ軍への入隊の成立となる。
他のの徴募兵たちは名前が呼ばれると前に出た。
「カシアス・クレイ、陸軍!」
モハメド・アリは動かなかった。
繰り返し呼ばれたが動こうとしないモハメド・アリを、大尉が別室へ連れて行った。
1967年5月、モハメド・アリは大陪審(起訴の有無を決定する陪審)で「徴兵拒否」で起訴された。
1967年6月、全員が白人の陪審員団は、モハメド・アリに、禁固5年と罰金10000ドルの判決を下した。
モハメド・アリはすぐに控訴した。
その後、アメリカ全州のボクシング委員会は、モハメド・アリの試合を行うことを禁止した。
いくつかの州は、彼のボクシングライセンスをも剥奪した。
さらにWBA(世界ボクシング協会)は、モハメド・アリから世界ヘビー級チャンピオンのタイトルを剥奪した。
また裁判が終わるまで、モハメド・アリは、政府からパスポートも取り上げられた。
これで海外で試合をする道も閉ざされた。
モハメド・アリは、無罪を勝ちとるために控訴審に挑んだ。
しかしルイジアナ州ニューオリンズの連邦裁判所は、一審を支持する判決を出した。
これで、後は最高裁判所に上告するしかなくなった。
モハメド・アリの弁護士は、世論の変化に弱い裁判所の特長を読み、上告の手続きをできるだけ引き伸ばす作戦をとった。
反戦
当初、年間100万ドルを稼ぎ、赤のキャデラックを乗り回す男の徴兵拒否は、ベトナムで戦っているアメリカの多くの若者を考えると許されないといわれた。
一方、モハメド・アリ同様、多くの若者も、自国の東南アジア政策に疑問を抱き、徴兵を拒否した。
彼らは5年の禁固刑( 懲役刑と異なり刑務所に入るだけで労働の義務はない)、あるいは長期間、外国へ逃げることを覚悟の上で、そのような選択を行った。
アメリカは、毎月、数十億ドルの戦費を使って、毎週100人近くのアメリカ兵が死に、500人以上が負傷した。
やがて進展しない戦局に、ベトナム反戦運動は拡大し、大規模なデモや集会が行われ、世論調査で、ベトナム派兵は誤りだとする人は50%を超えた。
アメリカ全軍からの脱走兵は数万人に上り、帰還兵の多くも反戦運動に加わった。
モハメド・アリは、全米の大学を公演して回り、そのカリスマ的魅力から人気者になった。
またラジオやテレビのトークショーにも出演した。
キング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)暗殺
1968年4月4日、公民権運動の指導者の1人、キング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)が暗殺された。
キング牧師の暗殺は、各地で暴動を引き起こした。
未だアメリカ社会は、黒人と白人に分離されていた。
カムバック
1970年になっても、1965年から始まったベトナム戦争は続いていた。
それはすでに泥沼化していた。
多くのアメリカの国民は、勝ち目のない戦争を終わりにしてほしかった。
モハメド・アリの弁護士は、今なら最高裁判所は、モハメド・アリの無罪を認めるだろうと考えた。
1970年6月20日、モハメド・アリのボクシングライセンスまで奪ってしまったのは違法である-という裁判所の判断が出た。
その3ヵ月後には、黒人有権者が多いジョージア州のアトランタ市の市長に、黒人政治家が働きかけ、モハメド・アリの試合を行う許可を得た
1970年10月26日、モハメド・アリとジェリー・クォーリーの試合が行われた。
これはタイトル戦ではないが、不敗のまま世界ヘビー級チャンピオンのタイトルを取り上げられたモハメド・アリにとって特別な試合だった。
3年半ぶりの試合に向け、懸命にトレーニングした。
その3年半、徴兵拒否罪に対する法廷闘争、人種差別撤廃運動、ベトナム反戦運動、・・・モハメド・アリはアメリカのヒーローだった。
黒人も、白人も、学生も、労働者も、会社員も、ヒッピーも、みんながカムバックを応援した。
ジェリー・クォーリーも、尊敬する元世界チャンピオンに果敢にアタックした。
試合はモハメド・アリが3R、TKO勝ちし、プロ入り後、30連勝(24KO)となった。