1979年7月1日、日清カップヌードルのCMソングとして書いたシングル「風を感じて」が初のスマッシュ・ヒット(オリコン最高25位、売上10万枚)。今でこそカップヌードルのCMというメジャーな感じがあるが、当時は「エー!?」みたいな印象だったといいます。このヒットを機会に、自身のやりたい音楽を表現することを決意します。
音楽的なルーツは、10代の頃に聴いていた1960年代のロックやポップスで、その中でもビートルズをラジオで初めて聴いた時には衝撃を受けたといいます。当時の音楽情報はラジオが中心だったので、数少ない洋楽が流れるチャンスを待ってテープに録音したり、海外のヒットチャートをノートに書き留めたりしていました。同学年である山下達郎も同じことをしていたらしく、一緒に食事に行った際、当時の話題で盛り上がったといいます。
ジャクソン・ブラウン
邦楽のシングル・レコード(ドーナツ盤)を自分で購入したのは、父親へのプレゼントに買った「星影のワルツ」と、オフコースの楽曲で一番好きな曲だった「愛を止めないで」の2枚だけだそうです。
音楽性の転換と成功への道のり
トップ・アーティストとしての苦悩の時期もありました。1990年6月21日、久々のアルバム『誰がために鐘は鳴る』を発売。それまでの疾走感あふれるロックから、内省的な曲作りへと移行します。そのアルバム内容から引退が囁かれました。アルバム発売後には、こちらも久々となるツアーを開催し、2年間に渡ってホールツアーとアリーナツアー合わせて109公演を行います。
1992年2月1日にテレビドラマ「愛という名のもとに」の主題歌として発売されたシングル「悲しみは雪のように」(1981年リリース曲のリメイク)が、初のオリコン・シングルチャート第1位(8週連続、通算10週)を獲得。累計売上170万枚のビッグセールスを記録しました。同時に、過去にリリースされたアルバムが多数チャートインするなど、空前の浜省ブームとなります。しかし、本人はこの時期に鬱状態になり、メディアに全く出てこなくなりました。
12月12日にはシングル「アヴェ・マリア」を発表。印税・原盤収入など全ての収益を社会問題化しつつあったエイズの治療・研究に寄付するというチャリティー・シングルでした。総額で3,500万円程が寄付されました。「このまま音楽人生を終わらせてもいいかなと思った」と後に語っています。
浜田 省吾 60歳を迎えて
ファンクラブ創立30周年を記念したファンクラブイベント『Shogo Hamada Official Fan Club Presents "100% FAN FUN FAN" On The Avenueを18公演開催しました。うち4公演は『SHOGO HAMADA ON THE AVENUE 2013 specialチャリティーライブ For 東日本震災復興支援 & 海外人道支援プロジェクト』と題した、東日本震災と海外人道支援に対するチャリティーイベントです。
2001年のNHK特番への出演以来、12年ぶりのテレビ出演をしたりも。テレビ内容では浜田本人がクマの着ぐるみを着るというお茶目ぶりを見せました。
40th ANNIVERSARY SHOGO HAMADA
2016年は、1976年4月21日、シングル「路地裏の少年」アルバム「生まれたところを遠く離れて」の発売から40年。