浜田省吾

浜田 省吾
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トレードマークのサングラス
トレードマークはサングラスで、人前ではまったく外しません。サングラスをかけだした理由は、自分の好きなボブ・ディランやスティーヴィー・ワンダー、ジョン・レノンらがかけていたのを真似したことがきっかけです。
また、ドラムは目立たないため何とかして自分を売り込もうとした末の苦肉の策でもありました。他に「素顔を覚えられるのが嫌だから」ともインタビューで答えています。

サングラス・ストーリー
芸能界にも浜田のファンは多い
ダウンタウンも浜省の大ファンで、2001年に日本テレビ系『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』で「浜省だらけの野球大会」という企画を放送したことがあります。浜田本人も事務所で観ていたらしく、ファンクラブ会報のインタビューで「面白かったですよ。愛情表現だと受け取りましたけど(笑)」と好意的に受け止めていたそうです。フジテレビ系『ダウンタウンのごっつええ感じ』でも、車のトランクに浜省が入っている「浜省不法所持」といったコントを放送しています。
1980年代のコンサートでは、出待ちにホンジャマカの恵俊彰がいたことがあるそうです。恵は、何か渡さないとと思い、ポケットにあった10円玉を手渡したとか。浜田自身も記憶に残っていると後世語っています。
甲斐バンドの「安奈」のアコーステック・ギターを弾いているのは、たまたまレコーディングに来ていた浜田であると、甲斐よしひろがラジオや取材等で語っています。浜田と甲斐はデビュー時から交友があり、よく新宿ゴールデン街で飲み歩いていたといいます。
アーティスト浜田 省吾の感性
1970年代はレコード会社の意向もあって、「ポップなメロディーメイカー」としての曲作りを迫られます。当時の制作サイドは浜田を都会的でポップなソングライターとして開花させようとしていました。本人は変わらずロック志向だったものの、周りに言われるがまま曲作りを続ける。しかし、やはりセールスには恵まれず、苦悩と挫折の中で精神的にも落ち込んでいくことになります。そしてついには「曲は書けるが詞が全く書けない失語症のような状態」に陥ってしまいます。
メディア露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得してきました。デビュー後の数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していました。そのため、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在しています。
こうした経緯から、1970年代の初期の作品に対して、あまり良い印象がないことを隠そうとしません。「5枚目までのアルバムは全部廃盤にして欲しい」と語ったこともある程です。特にサウンド面で納得がいっていないらしく、1980年代以降にほとんどの楽曲をリメイクしています。
浜田 省吾と広島
一般的に知られているバラードの他にも、父親の被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、いわゆるビッグネームの中では最もプロテスト色の強いアーティストであるといえます。また、「ロック=英語」という既成概念に疑問をもち続け、日本語による歌詞や歌唱にこだわりました。このことは以降のミュージシャンにも大きな影響を与えています。
「マイホームタウン」、「MONEY」、「DADDY'S TOWN」など、浜田ほど「故郷・広島」を歌ったアーティストはいないでしょう。広島が作品のなかで大きなテーマになってくるのは"家路につく"という意味を持ったタイトル作『Home Bound』以降であるが、広島を背景にした曲は、原爆、基地の街、錆びれた街、工業地帯といった物で、懐かしい場所として讃える「ふるさと賛歌」とは異質のものになっています。
浜田 省吾と妻、家族

ソロ・ファースト・アルバム 「生まれたところを遠く離れて」
プライベートなことはほとんど話さないため、あまり知られていませんが、1978年に25歳で結婚しています。ファースト・アルバム『生まれたところを遠く離れて』の裏ジャケットで腕を組んで歩いている女性が現在の夫人です(当時は恋人)。また、「I am a father」「花火」「五月の絵画」といった父親が主人公の楽曲を作っていますが、現在まで浜田本人には子供はいません。
浜田省吾2003年発売のシングル「君に捧げるlove song」です。石田ゆり子さん主演のPVでも評判となった大人のバラードで、2003年発売のバラード・コレクション「初秋」にも収録されました。
歌詞のテーマは「妻を亡くした男の物語」というヘヴィなものでした。そして、その重いテーマに負けないくらいに、その重たさをしっかりと受け止めて完成された楽曲になっています。
この歌が発表された時期、一部のマスコミ報道から浜田省吾の妻が亡くなったのではないかとの憶測が飛び交いました。もちろん、作品は創作だったのですが、そうした誤報が生まれるくらいに、この歌にはリアリティがあったということだと思われます。
浜田 省吾の好きなもの
1979年7月1日、日清カップヌードルのCMソングとして書いたシングル「風を感じて」が初のスマッシュ・ヒット(オリコン最高25位、売上10万枚)。今でこそカップヌードルのCMというメジャーな感じがあるが、当時は「エー!?」みたいな印象だったといいます。このヒットを機会に、自身のやりたい音楽を表現することを決意します。
音楽的なルーツは、10代の頃に聴いていた1960年代のロックやポップスで、その中でもビートルズをラジオで初めて聴いた時には衝撃を受けたといいます。当時の音楽情報はラジオが中心だったので、数少ない洋楽が流れるチャンスを待ってテープに録音したり、海外のヒットチャートをノートに書き留めたりしていました。同学年である山下達郎も同じことをしていたらしく、一緒に食事に行った際、当時の話題で盛り上がったといいます。

ジャクソン・ブラウン
邦楽のシングル・レコード(ドーナツ盤)を自分で購入したのは、父親へのプレゼントに買った「星影のワルツ」と、オフコースの楽曲で一番好きな曲だった「愛を止めないで」の2枚だけだそうです。
音楽性の転換と成功への道のり
トップ・アーティストとしての苦悩の時期もありました。1990年6月21日、久々のアルバム『誰がために鐘は鳴る』を発売。それまでの疾走感あふれるロックから、内省的な曲作りへと移行します。そのアルバム内容から引退が囁かれました。アルバム発売後には、こちらも久々となるツアーを開催し、2年間に渡ってホールツアーとアリーナツアー合わせて109公演を行います。
1992年2月1日にテレビドラマ「愛という名のもとに」の主題歌として発売されたシングル「悲しみは雪のように」(1981年リリース曲のリメイク)が、初のオリコン・シングルチャート第1位(8週連続、通算10週)を獲得。累計売上170万枚のビッグセールスを記録しました。同時に、過去にリリースされたアルバムが多数チャートインするなど、空前の浜省ブームとなります。しかし、本人はこの時期に鬱状態になり、メディアに全く出てこなくなりました。
12月12日にはシングル「アヴェ・マリア」を発表。印税・原盤収入など全ての収益を社会問題化しつつあったエイズの治療・研究に寄付するというチャリティー・シングルでした。総額で3,500万円程が寄付されました。「このまま音楽人生を終わらせてもいいかなと思った」と後に語っています。
浜田 省吾 60歳を迎えて
ファンクラブ創立30周年を記念したファンクラブイベント『Shogo Hamada Official Fan Club Presents "100% FAN FUN FAN" On The Avenueを18公演開催しました。うち4公演は『SHOGO HAMADA ON THE AVENUE 2013 specialチャリティーライブ For 東日本震災復興支援 & 海外人道支援プロジェクト』と題した、東日本震災と海外人道支援に対するチャリティーイベントです。
2001年のNHK特番への出演以来、12年ぶりのテレビ出演をしたりも。テレビ内容では浜田本人がクマの着ぐるみを着るというお茶目ぶりを見せました。

40th ANNIVERSARY SHOGO HAMADA
2016年は、1976年4月21日、シングル「路地裏の少年」アルバム「生まれたところを遠く離れて」の発売から40年。