1978年、リングを去って4年、カシアス内藤は日本のボクシング界にカムバックした。
そしてハードなトレーニングをこなした。
「あの柳済斗に4度も負けているが自分ではどうしても納得できなかった。
彼は東洋チャンピオンだったからもう1度やってみたかった。」
10月12日、カシアス内藤は大戸健を5RKO。
再起を果たした。
1979年3月19日、東洋ランカーである羽草勉を7RKO。
東洋太平洋タイトルへの挑戦のレールを敷いた。
しかし夢にまで見た宿敵:柳済斗はタイトルを返上し引退。
カシアス内藤は、ハシゴを外されたような気持ちになった。
8月、柳済斗の引退に伴い、カシアス内藤と朴鐘八のタイトル決定戦が韓国の仁川市で行われ、内藤は2RにKO負けした。
その半年後、カシアス内藤は鈴木直人に敗れ引退した。
カシアス内藤が敗れた輪島、柳、工藤、朴は後に世界チャンピオンになった。
「おおナイトウ。
ボク、あんたに全部教えたよ。
全部、全部、全部、全部教えて世界チャンピオンになれなかったの、あんただけよ。」
2005年2月、カシアス内藤は地元横浜で「E&Jカシアス・ボクシングジム」を開設した。
ジムの名前の「E&J」は、恩師と本名のイニシャルに因んでいる。
「恩師と約束をしたあの日から26年、自分の夢に向かっての第一歩をようやく踏み出すことができました。
まずジムを開設するにあたり、私の夢の実現のために力を貸してくださったたくさんの皆様と、写真集やこのウェブサイトを通してE&J カシアス・ボクシングジムを見守っていただいているすべての皆様に御礼申し上げます。
現役時代、4年間のブランクを経てカムバックする際に、私は恩師であるエディ・タウンゼントさんと2つの約束をしました。
必ずチャンピオンになること、そして将来自分のジムを作って後進の育成をすることです。
エディさんは誰か一人の力に頼るのではなく、みんなの力を借りてみんなに応援してもらいながらジムをつくりなさいといっていました。
エディさんのその言葉どおり、今、私の夢への道のりをたくさんの方々に見守っていただいています。
何千という目が、私をみています。
皆様のその目が私の力になっているのです。
私はこのジムを、練習生がそれぞれの希望をかなえることのできるジムにしたいと思います。
プロになるために、運動不足を解消するために、ダイエットのためにといったあらゆる目的の方を歓迎します。
そして同年代だけではなく様々な年代の、様々な職業や背景を持った練習生たちとのコミュニケーションを通じていろいろなことを学んでほしい。
そして戦いたい、勝ちたいよりも前に、何よりもまずボクシングを好きになってほしいと思います。
これはエディさんの考えでもありました。
好きだから続けることができるし、苦しさにも耐えることができるのです。」
21(ドンピン)
21 ドンピン
1972年2月、中野区鍋屋横丁に、スナック「21(ドンピン)」が開店した。
ドンピンはブラックジャックのドンピンである。
ボクシングトレーナーというのは経済的に成り立ちにくい職業である。
ボクシングジムでさえ、世界チャンピオンを何人か抱え、防衛し続けていない限り、純粋にボクシングジムのみの経営で生計を立てるのは難しい。
ましてトレーナーとなるとなおさらである。
多くのボクシングトレーナーは、他に仕事を持ち、それが終わった後にジムへ指導を行く。
好きでなければつとめらないボランティアみたいなものである。
「人を強くする」「チャンピオンをつくる」という夢が、彼らをかりたてている。
しかし当然、タウンゼント家の家計はひっ迫する。
タウンゼント家には2人の娘がおり、娘たちはインターナショナルスクールに通っていた。
学費は安くはない。
エディの妻:百合子はスナックのママとなって家計を支えた。
元ダンサーで、下町気質の百合子のおかげで、ボクシング気違いの夫は思う存分トレーナーに専念できた。
客は常連ばかりで、近所の人や友人、ボクシング関係者たちで静かに賑わっている。
「ボクシングに一生を捧げた主人公を尊敬し誇りに思います。
トレーナーとなってからの35年間、時には、主人を取られたようで寂しくて嫉妬すら 感じた事もありました。
しかし主人がそうであったように 、私にとっても選手は大事な子供達でした。
娘シャローンとダーナ、そしてたくさんの選手達、それは私の大切な宝物です。」
(百合子タウンゼント)
現在、毎月21日は、ドンピン会が、エディ・タウンゼントを偲び、百合子夫人を励ますために開催されている。
伝説の男 ガッツ石松
1972年10月15日、東洋太平洋ライト級チャンピオン:鈴木有二(ガッツ石松)がマージャンをしていると電話が鳴った。
白タク(営業許可を受けず自家用車を使ってタクシー営業している車)を流していた仲間の1人からだった。
「兄ぃ、
や、やられ・・・
・・・巻かれてる。
別の白タクのヤツらだ。
チクショー。
向こうは10人くらいいやがる。」
「今行く。
待ってろ!。」
受話器を叩きつけ、鈴木有二(ガッツ石松)は1人で飛び出し、深夜の池袋を走った。
やがて人だかりをみつけた。
15、6人の男がオモチャのように2人の男を弄んでいた。
その周りに大勢の野次馬が囲んでいた。
鈴木有二(ガッツ石松)をみつけた仲間はボコボコの顔を歪めて泣き笑いの表情になった。
「兄ぃ!」
「おう、悪かった。」
「なんだ?てめえ。
関係ないヤツはすっこんでろ。」
「悪いな、関係あんだよ。」
男たちはいきり立った
「邪魔するんじゃねえ。」
「ブッ殺す。」
1人がナイフを出して構えニタッと笑った。
(卑怯っ。)
鈴木有二(ガッツ石松)は多勢に無勢の上に、素手で戦わないことに腹が立った。
(カス以下だ。)
腹は決まった。
スッと腰を落とし構えた。
「ウグッ!」
「次ッ!」
「ウッ。」
「おめえも!」
「ウゲッ。」
東洋チャンピオンの拳は次々と男たちを地面に沈めていった。
8人までは数えていたがあとはわからなかった。
時間にしてわずか1分足らず辺りに男たちが転がってうめき声を上げていた。
「そこまでだ!!!」
肩に固く冷たいものが押し当てられた。
「あんだ?」
それは警棒だった。
次の瞬間、鈴木有二(ガッツ石松)は数人の警官にガッチリ押さえ込まれた。
周りをみると大勢の警官がいて、数台のパトカーがサイレンを鳴らし赤色灯を回していた。
「現行犯で逮捕する。」
手錠をかけられパトカーに押し込められた。
鈴木有二(後のガッツ石松)が連行された池袋署には、たくさんの記者がきて、翌日の新聞にはハデな見出しを躍らせた。
”ボクシングのチャンピオン、8人をKO路上でケンカの助っ人”
”三度笠チャンピオン、路上で8人KO”
TV、ラジオでも取り上げられ、世間では、鈴木有二(ガッツ石松)を非難する声も上がったが、胸にすくようなガッツ石松の武勇伝に喝采を送る人もいた。
ヨネクラジムの米倉会長は笑いが止まらない忙しさだった。
フェザー級の柴田国明を追うように、ライト級の鈴木有二が世界ランカーが育った。
柴田も鈴木も2度外国に渡り、世界タイトルに挑戦していた。
しかし柴田は2度ともタイトルを奪取したが、鈴木は2度ともKOで敗れた。
それでも鈴木は東洋太平洋王座を2度防衛し、世界ランキング9位を維持していた。
そこへWBC世界王者:ロドルフォ・ゴンザレスから「スズキの挑戦を受けてもいい。」と打診があった。
柴田国明の方もリカルド・アルレドンドへの挑戦が決まっていた。
米倉会長は記者会見を開き、鈴木と柴田の世界タイトル挑戦を発表した。
鈴木は翌年1月17日、柴田は2月28日、それぞれ日大講堂で行う。
1つのジムから同時に2人の世界挑戦は前代未聞の快事だった。
さらに米倉会長は
「来年1月からエディ・タウンゼントさんと正式に専属トレーナーとして契約した。」
と発表した。
鈴木の世界挑戦には疑問を持つ関係者も多かった。
鈴木の過去2度の世界挑戦で2度KO負けという戦績から、今回も勝てる可能性は低いと思われた。
柴田は入門当初から世界の器といわれエリートとして育ったが、鈴木は16歳で入門し、プロテストを2度目で合格し、デビュー戦を1RKO。
その後も連勝したが、5戦目で不慣れなサウスポーを相手に判定負けした。
「しょうがねえなあ」
と米倉会長は、ジムの後援会長であり安土桃山時代の武将、蜂須賀小六の末裔だという蜂須賀氏に引き合わせた。
「お前の面構えは森の石松そっくりだねえ。」
「ハッ?」
「決まりだ。
今日からお前は鈴木石松だ。」
「いいですねえ。
ついでに三度笠に道中合羽でも羽織らせますか。」
「ちょんまげ結って刀差すってのはどうだ?」
「ワッハッハッ」
会長たちは盛り上がっていた。
そして6戦目。
花道に三度笠、合羽姿で登場し、リングに上がると三度笠を客席に向げ投げ、ポーズをとった。
すると
「(ゴチン!)痛ェッ!」
と笠が大きく弧を描いて後頭部に直撃した。
会場は大ウケ。
レフリーと対戦相手も笑いをこらえていた。
そしてこの前回負けたサウスポーボクサーとの再戦を引き分けた。
この後、月1回というハイペースで試合をこなしていった。
2度目の世界挑戦の相手は、あの伝説のチャンピオン、「石の拳」ロベルト・デュランだった。
1R、デュランは、少々の被弾もおかまいなしに得意のパンチをブンまわして強引に出てきた。
鈴木の左フックでデュランが一瞬腰を落とすシーンがあったが、いいのはこの場面だけで10R、2分17秒、KO負けした。
「この根性なし。」
試合後の控え室で米倉会長がいった。
「いいか有二。
おめえに1番足りないものが何かわかるか
それはな、ガッツだよ。
コンチキショーのガッツがおめえにはないんだ。
ガッツがなくて世界を狙えるかってんだ。
バカ野郎。」
そして再びリングネームを改名、「ガッツ石松」となった。
とうとう本名:鈴木有二は欠片もなくなった。
1973年12月、柴田国明とガッツ石松は伊豆のキャンプに入った。
ガッツはエディの指導を受けるのはこれが初めてだった。
ガッツは独特の個性を持っていて、他人に強制されることが大嫌いで万事独立独歩だった。
誰かの命令でロードワークに出ると、途中で近道をして帰ってきて、水道の水を浴びて全力疾走したようにみせた。
「Hey、ガッツ、6時よ。」
「エディさん、オレ眠いよ。」
「OK、じゃあ何時?
9時?10時?
ハイ、10時ね。」
「あっ、オレ起きます。」
「OK、走るね。
Get Up」
エディはあくまで選手がやる気になるまで待った。
そうされるとガッツとしても自然と起き上がれた。
ガッツは初めて嫌いなロードワークを走り込んだ。
こうしてすべて自分の責任においてトレーニングするので、ごまかしは自分の損である。
石松とエディのフィーリングはピッタリ合った 。
「ガッツ、あんたの左はすっごく強い。
でももっと強くなれる。
あんたの打ち方は肘が上がっている。
これだとパンチの力が抜けるのよ。
左の脇を締めて下から上へ突き上げるの。
アッパーで打つの。」
そして左を嫌になるほど繰り返した。
次はディフェンスの問題。
石松はボディが弱かった。
「ガッツ、ボディ空いてるね。
それは肘でカバーするの。
エルボーブロックね。」
エディは拳を捻って肘を張ってカバーする防御を教えた。
ガッツ石松の戦績を見ると冬に強かった。
寒い季節には勝率が高くなる。
寒いとスタミナが失われずにすむらしい。
ゴンザレスとの試合は1月。
石松は密かにほくそえんでいた。
しかし1974年1月7日、ゴンザレスが、ロスでトレーニング中に毒蜘蛛に刺されたため、試合を延期したいと申し入れてきた。
試合まで2週間という時だった。
こうして得意の冬の試合はパスされてしまった。
「頭にきたぜ。
俺が絶好調と知ってあの権兵衛は逃げたんだ。
ロスまで行ってぶん殴ってやりたいぜ。
こうなりゃオレはリングネームをスパイダー石松に変えて野郎が日本に来たらブスリと毒針を刺してやる。」
3月、延期されていたガッツ石松の世界挑戦の日時が決定し、米倉会長は池袋のスナック:メモリーで記者会見を開いた。
このときのことを思い出すと、エディは涙ぐむ。
「たくさん記者を招いたの。
でも来たのはたった5人よ。
5人。
ガッツ、かわいそうね。
誰もガッツ、勝てない思った。
それで5人しか来なかった。
涙出るよ。」
寂しい光景にヨネクラジムのスタッフはがっかりしたが、独り、ガッツだけは平然としていた。
「来ないのは当然よ。
これまでのオレの実績を考えてみろよ。
オレが勝てると誰が思うものか。」
栃木県上都郡栗屋町という農村の中で最も貧しい農家の次男坊に育ち、中学を出て単身上京、日暮里の弁当屋で働きながらヨネクラジムに入門し、2つの拳だけで這い上がった。
長い下積みをくぐってきたガッツ石松は、無視や冷遇に対する耐性ができあがっていた。
所詮この世は力がすべてなのだ。
閑散とする記者会見パーティーの光景をみながら気にもとめなかった。
「なんつたって実績がなければ誰も相手にしてくれないぜ。
その代わり勝てばこんな狭いスナックなんか足の踏み場もなくなるほど人が詰め掛けるだろう。
それが世の中というもんよ。」
ガッツ石松はよく練習嫌いだといわれた。
確かにロードワークは嫌いだったが、ジムワークは好きで、スパーリングは大好きだった。
ただしあくまで自己流にやった。
ボクサーの三戒、酒、煙草、女も大歓迎だった。
エディはいつもショートホープ、ハイライト、セブンスターを持ち歩くヘビースモーカーだが、ガッツ石松はは煙草をせびった。
「オオ、ボクに煙草くれいうのガッツだけね。」
エディは、そういいながら1本あげた。
そして練習はめいいっぱいやった。
「ガッツ、もういい。
ストップよ。」
エディがそういうほどやった。
「ガッツ、練習キチガイよ。」
エディは徹底的に左を教えた。
試合の延期はむしろラッキーだった。
この間にキャンプを張れたし、エディは左レバーブローを教えることができた。
石松は右は強かったが左は下手だった。
エディの左手のミットを出したまま石松に左ばかり打たせた。
「ミミズだって、体半分ちぎれても、コンチクショーって暴れるでしょ。
もっとガッツがあるところみせてよ。」
左、左、左、左である。
それをバリエーションをつけていく。
左ジャブ、左アッパー、左フック、左ボディ。
ボディは相手のレバー(肝臓)をえぐる角度で打つ。
10発20発と左を打った後、右を1発だけ打たせる。
石松はうれしくて猛烈なパワーで右ストレートをぶち込む。
パンチが生きるようになるまでエディはミットを受け続けた。
ガッツクラスのパンチを受け過ぎると茶碗が持てなくなるがエディはかまわなかった。
4月1日、 WBC世界王者:ロドルフォ・ゴンザレスが来日。
4月4日、 ガッツ石松とエディは赤坂プリンスホテルに入った。
ホテルの脇の坂道で、ガッツ石松の外車がエンジンストップしてしまったとき、エディは試合が近い選手に車を押すなんてさせられないよとウンウンいいながら後ろから車を押した
「ガッツ、車はやっぱり乗るもので押すもんじゃないね。」
やっと動き出した車の助手席で、エディは息を弾ませて笑った。
石松はそんなエディの気持ちに応えたいと思った 。
「エディさん、オレ必ず勝つよ。
相手も人間。
オレのパンチが当たったらKOさ。」
「そうよガッツ。
あんたは強いよ。
勝つ負けるはあんたの気持ちの問題よ。」
過去2度の世界挑戦ではどうせ負けると思い、ろくな練習もせずに乗り込んだ 。
それでもラグナ、デュランという2人の名チャンピオを相手に10Rまで耐えた。
倒れたのはパンチが効いたのではなく 、練習不足によるガス欠でイヤ倒れしたことを本人は自覚している。
今回はたっぷり練習した。
負ける気がしなかった。
一方、試合当日に春闘の交通ゼネストが行われることになり、次々とチケットが払い戻されていき、米倉会長は頭を抱えていた。
4月11日、大規模なストが打たれ、早朝から鉄道、地下鉄、バスといった交通網がストップした。
背景には、前年のオイルショックと、それに伴う便乗値上げによる物価の狂乱が、今年まで流れ込み、
生活の危機感の高まったためだった。
しかし夕方になると徐々に交通機関が運行され始め、試合会場の日大講堂には7000人の客が入った。
ゴンザレスは、57戦52勝42KO5敗。
KO率は73.7%。
ボクシングをやる前に殺人の刑で服役したこともあり、さらにリングでも1人対戦相手が死んでいる。
ガッツ石松は、36戦25勝13KO11敗。
KO率36.1%。
19時47分、試合開始のゴングが鳴った。
ガッツは左が速い。
ゴンザレスはボディ狙う。
デュランのボディフックで沈む石松をみて、弱点はボディと研究したようである。
ガッツはボディを狙って上体が低いゴンザレスを左で突く。
元来、石松のボクシングはあまり足を使わず、構えて相手の出鼻をカウンターで迎えるスタイルである。
「柄になく冷静で、悪い言い方をすればセコいボクシング。」
(米倉会長)
ラウンド中盤、ゴンザレスは右クロスで石松をグラつかせた。
1Rが終わりコーナーに帰った石松は、セコンドの米倉会長にクレームを入れた。
「会長!
途中で、足使え、左出せって言ってよ!
オレ、忘れちゃうから。」
3Rゴンザレスは左フックの連打でガッツのボディに入れた。
しかし石松は平然と耐え、逆に左ジャブでゴンザレスの顔面を突いた。
ゴンザレスは右のガードがガラ空きだった。
「ライトを上げろ!」
セコンドが必死にゴンザレスに指示している。
石松はあくまで待ちのスタイルでゴンザレスに攻めさせてカウンターをいれてポイントをとり、ボディを打てば倒れる、石松はペーパーストマックだと信じるゴンザレスはひたすらボディーを狙った。
8R、ゴンザレスはジリジリとガッツをロープに詰めた。
その瞬間、ガッツの左フックがゴンザレスの顔面に入り、間髪いれず右ストレートを突き刺した。
ゴンザレスが、スローに前のめりに崩れていく。
「ウォーー!」
ガッツはニュートラルコーナーの走っていき、右グローブを高く掲げた。
レフリーのカウントが遅い。
後のタイムキーパーの証言では15秒かかっている。
身びいきのロングカウントだろう。
意識朦朧のゴンザレスが立ち上がった。
ガッツ石松が襲いかかるとゴンザレスはヨロヨロと後退し、ガッツのパンチが当たる前に倒れた。
レフリーはこれをスリップと判断。
さらに仰向けになっているゴンザレスを両手を持って引っ張り起こそうとしている。
ルールではレフリーはブレークの時以外選手に触れてはいけない。
「ダウンだ!」
米倉会長が叫び、エディは英語で喚きながらコーナーポストに駆け上がった。
石松は、レフリーが不等にチャンピオンを勝たせようとしていること、このまま続行しても自分の勝ちは動かないことを確信した。
そして自陣のセコンドがリングに入りでもしたら反則負けにされるかもしれないと思った。
石松はニュートラルコーナーから自分の青コーナーに行って叫んだ。
「エディさん、黙って。
大丈夫。
オレ、あいつを殺すから。
必ずぶっ倒すから黙っていて。」
レフリーに起こされたゴンザレスはファイティングポーズをとった。
ガッツ石松は猛然とラッシュするとゴンザレスは崩れ落ちた。
「やったぞ。」
石松は吼えた
(ざまあみろ、このヤロー)
心の中で怒鳴っていた。
帰りの花道でファンに胴上げされた。
控え室で、新チャンピオンは矢継ぎ早に質問を受けた。
「フィニッシュのパンチは覚えてる?」
「もちろん覚えてますよ。
あれがオレがいう幻の右です。」
「あれはストレート?
フック?」
「それがわからないところが幻のパンチでしょう。
あれはいつもはジムで打たない。
出すとパートナーが来なくなっちゃうから。
そのためしょっちゅうパートナー呼んでくれ。
いや相手がつかまらないで会長と喧嘩ですよ。」
石松は少しも疲れていなかった。
これからもう1人相手にして防衛戦やっても大丈夫と思うくらいだった。
スカッとした快勝で舌がよく回転し記者会見はガッツ石松の独演会となった。
この夜、赤坂プリンスホテルで祝勝会が開かれ、その後は遊び仲間と徹夜マージャンに興じ、翌朝6時に妻子のいる我が家へ帰った。
「エディさんが付いてくれなかったら、オレ、世界チャンピオンなんてなれなかったよ 。
エディさんのおかげだ。」
世界チャンピオン:ガッツ石松の初防衛戦が行われた。
挑戦者は世界ランキング10位のチェリー・ピネダだった。
試合2日前のパレードで、人前が大好きなガッツ石松は、上着を脱ぎ捨て、ハッスルした。
90分のパレードを終えホテルに帰ると、減量前の栄養状態の悪さのせいか風邪を引いていて、注射が打たれた。
試合は凡戦だった。
挑戦者が攻め、チャンピオンは後退しカウンターを狙う。
そんな消極的な展開が淡々と続いた。
エディはイライラした。
「Hey、ガッツ!
あんた負けてるよ。
何やってるの!」
ガッツ石松はハッとした。
「何!
オレ負けてるの?
それ早くいってよ。」
13R、ガッツ石松は遮二無二出て、この攻勢がポイントとなって辛うじてドローとなった。
危ない防衛だった。
おそらく外国での試合ならタイトルを失っていただろう。
11月、ガッツ石松の2度目の防衛戦が迫ってきた。
相手は前WBC世界王者:ロドルフォ・ゴンザレス。
ガッツ石松にタイトルを奪われた張本人との再戦だった。
ゴンザレスは世界3位をキープしていた。
「ワー、エディさん。
もう我慢できないよ。」
「ガッツ、目方落とさないとタイトルとられるよ。」
「オレ、タイトルなんかいらない。」
ボクサーはみな減量苦と戦う宿命にあるが、石松のそれはひどかった。
皮膚はカサカサになり唾も出ない。
仕方なくスイカを少し口に入れてトイレで喉に指を入れて吐き出す。
こんなことの繰り返しだった。
11月26日、大阪府立体育館。
ガッツ石松の2度目の防衛戦のゴングが鳴った。
1R、ゴンザレスは、前回とはぜんぜん違い、慎重な試合運びで、相手にポイントをとらせない。
ガッツ石松は、常に後退しカウンターを狙うばかり。
消極的な試合だった。
11Rが終わりコーナーの戻ると、石松はクレームをつけた。
「左ジャブ出せ、足使え、頭振って、それをいってよ。」
エディは怒鳴った。
「あんた何いってるの。
あんたこの試合負けてるの。
左ジャブ?、頭?、足?
そんなもの関係ないよ。
よく聞きなさい。
ガッツ、これケンカよ。
あんた得意でしょ?
ケンカよ、ケンカ。」
(おお、そうか!)
急に電源が入った。
エディはガッツ石松の頭を両手でつかんで、グイっとゴンザレスの方にに向けた。
「あいつの顔、よくみろ。
みろ。
これケンカよ。
ケンカよ。」
エディは耳元で何度も怒鳴った。
ガッツ石松の中でムラムラと闘争本能が燃え上がった。
キッとゴンザレスをみると、幸せそうな顔をしている。
腹が立ってきた。
(ようし上等だよ。
このヤロー、ケンカやってやろうじゃないか。)
12R、
(テメエ、クッソー、このヤロー)
ガッツ石松はグローブを胸の前でバシバシ打ち合わせ、なにか口の中でブツブツいっていた。
やる気だ。
ゴンザレスが不用意に詰めてきたところを左フック一閃。
次いで右ストレートを打ち下ろした。
ゴンザレスは顔面がぶち抜かれ、ヨロヨロとリングを横切り後退、反対側のロープへもたれた。
ガッツ石松は、右グローブを刀のように振りかざし突進した。
顔面をカードしロープを背負ったゴンザレスを蛮刀で滅多斬りにした。
ゴンザレスは動かなくなった。
石松はロープに躍り上がり、両手を上げて派手に吼えた。
再び奇跡を起こしたのだ。
エディの秘蔵っ子、アンラッキーマン? 村田英次郎
1976年、エディは、小田急線下北沢駅を降りて線路沿いに歩いて5分のところにある金子ジムのトレーナーになった。
そして村田英次郎というボクサーに出会った。
村田は父 の影響でテレビのボクシング中継をよくみて村田もボクシングが好きになり、小学6年生になると京都拳闘会に 通うようになった。
父は、自宅の横に四坪ほどの小屋を建て、サンドバッグやパンチングボールをつるして毎日打たせた。
中学校を卒業を控えた村田は、ボクシング雑誌で「合宿所完備」という広告を見つけ、父親とともに上京し金子ジムを訪ねた。
そしてジムの2階に住み込み、ボクシング一色の生活が始まった。
金子会長は、5年計画でモントリオール五輪を目標に、15歳の村田をアマチュアボクサーとして育てる方針をとった
村田は16歳で全日本大会フェザー級で優勝。
1976年のモントリオール五輪代表選手の選考会を兼ねた全日本選手権で決勝まで進出したが、決勝戦で敗れ、日本代表にはなれなかった。
アマチュアで88戦78勝45KORSC10敗と、じっくりアマチュアで基本をマスターした後プロ入り。
デビュー戦を1R57秒KO勝ち。
2戦目もKO勝ち。
3戦目は日本バンタム級チャンピオンの沼田剛とのノンタイトル戦は、沼田の負傷によって8RTKO勝ちした。
4戦目は、三上清隆を1RKO。
この試合からエディが村田の専属となった
エディが真っ先に教えたのは
アマチュア的なアップライトスタイルをプロ的なクラウチングスタイルに変えることだった。
突っ立った上体を前かがみにして攻撃的なスタイルにモデルチェンジした。
次に左を下げさせた。
「エイジロウ。
左は相手を狙っていくの。
ピストルを相手の顔に突きつけるのよ。」
ディフェンス主体からオフェンス主体への転換だった。
そして1978年12月、村田英次郎は金栄植と対戦し、12R判定勝ちし、プロ13戦目で東洋太平洋バンタム級チャンピオンとなった。
エディと村田はよく一緒に焼き鳥屋に行った。
「ビール一杯はクスリよ。
ただし会長には内緒よ。
シー?」
ある日、エディと村田は、下北沢のハンバーグ屋さんに入った。
そこで村田がうっかりクリームを隣の椅子にこぼしてしまった。
「すいません。」
村田はそういいながらティッシュペーパーで拭いた。
隣の客はそっぽを向いていた。
それをみたエディが突然怒り出した。
「人が謝っているのに、何よ知らんフリして!
冗談じゃないよ!
バッカヤロー!」
「ワーッ!!」
客はと叫びながら店の外へ逃げた。
エディは追いかけた。
村田があわてて店の外へと飛び出していくと、エディはその客の胸ぐらをつかんでパンチを食らわせようとしていた。
村田はそれを止めた。
1980年、 村田英次郎の世界タイトル初挑戦の時が来た。
相手はルペ・ピントールだった。
村田はこの時点で17戦16勝10KO1分無敗 。
東洋太平洋王者のタイトルを4度防衛していた。
村田は必殺の右カウンターをマスターしていた。
左ジャブ、左ストレートで突き放し、相手が打ってくると右足を1歩引いてかわし、出会い頭に、あるいは相手が打つ寸前、一瞬速く右ストレートを打ち込む。
カウンターは通常の数倍のダメージとなる。
ピントールは左ボディフックが強い。
エディは、ピントールがボディを狙ってガードを下げたとき、ガラ空きの顔面に右ストレートを絶好のタイミングで当てられると読んでいた。
6月11日10時、後楽園ホールの5階で計量が行われた。
両者は共にバンタム級のウェイトリミット53.5kgピッタリだった。
計量後、村田はエディが持参したスープを紙コップで飲み、リンゴを1つかじった。
そして本格的な食事をするために車で後楽園ホールの地下駐車場から赤坂プリンスホテルに移動した。
そして17時30分、再び後楽園ホールに戻り、控え室に入り、6000人のコールの中、ガードマンに挟まれながらリングに上がった。
1R、レフリーの注意を聞いて分かれた両者は、ゴングが鳴ると再びリング中央に進み出てグラブを合わせてから激しく打ち合った。
2R、激しい打ち合いが続き、ピントールはベタ足ながらスタンスを大きくとって、ガードを固めジリジリと前に出る。
4R、村田の右カウンターがロープ際で炸裂。
ピントールの腰が沈みかけた。
しかしピントールは普段から標高2200mの高地で暮らすメキシカンであり、その上、トレーニングは標高2400mで行ってきた。
富士山の7合目で暮らしてきた男の肺活量とスタミナは無限だった。
8R、ピントールがいきなり放つ左ストレートが村田の顎を突き上げる。
素早く左を踏み出し、上体を沈め低い位置から、急にせり上がってくるストレート。
村田の体がのけ反った。
ピントールは続けて左のレバー・パンチを脇腹に入れた。
満身の力を込めて、アッパー気味にえぐるこのパンチを村田は必死でかわした。
9R、すさまじい打ち合いの末、村田が右目上、次いで左目上を切って出血。
紙一重のタイミングでパンチを見切るタイプのボクサーにとって目測は命。
村田は両方の目から真っ赤な涙を流しながらも本能でパンチを打ちつづけた。
ピントールも右目から血が噴き出している。
両者が打ち合うたびに汗と血のしぶきが散った。
11R、ピントールの左目が切れた。
それでもピントールはストレート、フックを繰り出す。
止まっていた村田の傷がまたパックリと口をあけて血が流れ出した。
打たれても打たれてもピントールはガードを固めて前進する。
村田の動きが悪い。
14R、
「エイジロウ。
このラウンドからチャンピオンよ。」
エディはそういって村田を送り出した。
村田のボディにのダメージが残っていた。
ベタ足のピントールの猛攻は、回り込む村田にピッタリとくっつくように追いこんだ。
しかも左右のアッパーを連打しながらバランスが少しも崩れない。
村田は、クリンチに持ち込んで、レフリーがブレイクをかけた。
必死に立っている村田にピントールがフィニッシュパンチを放った瞬間、レフリーがストップをかけ、 村田の目をドクターにみせた。
危機を脱しただけでなく、この数十秒の 時間が村田の意識を回復させ、試合再開後、村田の猛ラッシュが展開された。
15R、村田の猛反撃が続いた。
驚くべき精神力でパンチを連打しピントールが後退させた。
奇跡のようなラッシュに 酔いしれる歓声。
しかしドラマの終わりを告げるゴングが鳴った。
総立ちの観衆から惜しみない拍手と歓声が沸き上がった。
エディは村田の全身をタオルで拭いながらいった。
「ドロー」
レフリーがコールし、両選手の手を挙げた。
引き分けではタイトルは動かない。
ピントールは2度目の防衛に成功した。
ジャッジペーパーは、13Rまでドロー。
14R、ピントール。
15R、村田。
エディが14ラウンド開始時にハッパをかけたのは恐ろしく正確だった。
もし14Rをとるかイーブンにしていれば、村田は世界チャンピオンだった。
1981年4月5日、WBA世界チャンピオン:ジェフ・チャンドラーに、村田英次郎が挑戦した。
1R、村田は強烈な右カウンターが抜群のタイミングで決めたが、王者に凌がれると、試合は一進一退となった。
何度か単発でクリーンヒットするものの、村田の強打を警戒するチャンドラーの老獪なクリンチワーク、ホールドに後続打を寸断され、なかなか決定的なポイントを奪えず、村田の強打とチャンドラーの細かい連打で白熱した試合は、ついに15R終了のゴングを聞くこととなった。
有効打と手数の争いになったが、判定は、ジャッジ三者三様のドローだった。
1981年12月10日、アメリカニュージャージー州アトランティックシティのサンズホテルで、再びWBA世界チャンピオン:ジェフ・チャンドラーに村田英次郎が挑戦した。
しかし村田は前回の善戦がウソのように打ち込まれた。
13R、チャンドラーが村田を2度のダウンさせレフリーが試合をストップした。
村田は救急車で異国の病院に運び込まれた。
1983年9月11日、後楽園ホールでWBA世界チャンピオン:ジェフ・チャンドラーに村田英次郎が挑戦した。
両者の対決は3度目である。
村田英次郎は、東洋太平洋の王座を12度防衛し、常に世界ランキング1位をキープしながら、世界チャンピオンには1度もなれていない。
対するチャンドラーは7度、世界タイトルの防衛を重ねていた。
2R、チャンドラーが村田をダウンさせ、3Rにもチャンドラーが村田を再びダウンさせた。
10R、チャンドラーが村田を3度目のダウンでノックアウトした。
村田はこの試合を最後に引退した。
「いくら自分が強くても、その時のチャンピオンがそれ以上に強かったら永遠にチャンピオンにはなれない。
それがボクシングというものですよ。」
殺人パンチを持つピントール。
スピード、テクニック、パンチ力、ディフェンス、ファイト、どれをとっても超一流だったチャンドラー。
この2人がいた時代に生まれたことが村田の悲運だったのかもしれない。
浪速のロッキー 赤井英和
1981年、大阪市西成区天下茶屋の駅前商店街の一角に、愛寿ジム(後のグリーンツダジム)が開設された。
ジムの会長は津田博明。
看板選手は赤井英和 。
後に浪速のロッキーと呼ばれ関西にボクシングブームを巻き起こし、人気絶頂となるボクサーである。
津田会長は、かつてチャンピオン:ガッツ石松が挑戦者:ロドルフォ・ゴンザレスを大阪府立体育館で迎え撃ったとき、大阪のジムでガッツとエディがトレーニングしているのをみていた。
エディは石松のパンチをミットで受けながら叫んだ。
「オオ!
そのパンチで試合は終わりよ。」
「そのパンチ以外はいらないよ。」
エディは選手のいい所を徹底して褒めた。
津田会長は、これは選手にとって凄い自信になるはずだと感心した。
(この試合は、ガッツ石松がゴンザレスを12Rにノックアウトして2度目の防衛に成功した。)
津田会長はエディに惚れ込み、しばしば赤井を上京させ、エディに短期の臨時コーチを頼む仲になった。
赤井英和がモスクワオリンピックの日本代表候補となったとき、その強化合宿はアマチュア連盟の方針でプロのトレーナーが採用されることとなり、エディに委託された。
「左フックは下から上へアッパー気味に打つのよ。
こうよ!」
エディは自らポーズしてみせた。
「この左フック打てたら右手お尻かいててもいいよ。」
練習中、赤井が口から胃袋が吐きそうなくらいハードな状態になると、エディは魔法をつかって、その力を引き出した。
「アカイ、もう1発。
もう1発、力いっぱい。
これでもう相手倒れる。
疲れてる、 チャンス。」
赤井はエディの気さくでユーモラスな人柄に惹かれた。
「エディさんは俺の高校時代はもう雲の上の人でした。
たくさんチャンピオンをつくっている名トレーナーですからね。
大学1年のときキングスカップ(タイ国王が各国のボクサーを集めて開催した大会)へ行くことになり、そのときアマチュアボクシング連盟がオリンピック強化策としてアマとプロの交流を図ろやないか。
ついてはプロのトレーナーに教えに来てもらおうということで、エディさんに白羽の矢が立ったんです。
強化合宿で初めてエディさんにミットを受けてもらいました。
うれしかった。
エディさん、暗示をかける名人です。
ボクサーを絶対けなしません。
トレーナーには『アホンダラ、ボケ、打たんかい、アホンダラ』 と人をアホンダラ教の教徒みたいに言う奴がいますが、エディさんは違います。
パンチをミットで受けながら
「Oh、ナイス。
ナイスパンチ。
それよ、それなのよ。」
「はい(お、そうかな)」
「でもネ、アカイ、もうちょっとここで強く打ったらもっといいよ。」
こういわれるともう力がわくんです。
エディさんにミット持ってもらったら確かに強うなると思います。
チャンピオンが生まれるわけですわ。
練習が終わると今日はエディさんに稽古つけてもろてちょっと強くなったなと思ってしまうんですよ。
片言の日本語でジョーク入れながらの練習が楽しくてしょうがないんですよ。
10歳くらいから半世紀以上ボクシングやってらっしゃるんやから、そら重みが違いますわ。
とにかくエディさんの選手に暗示をかけて盛り立ててくれる上手さ、ほめることで力を引き出そうとするのは、凡人では到底まねのできない名人芸です。」
赤井英和は、中学時代からかなりヤンチャで、喧嘩に負けた事がなく、大阪一帯にその悪名は響き渡っていた。
自分より弱い者には全く手は出さず
「ここで一番強いの誰や!
勝負せい!」
と道場破り的な喧嘩を繰り返した。
その一方で友人も多く、中学卒業時の文集には37名の友人のおかげで充実した3年間を送れた事に対する感謝の気持ちを著した。
住吉高校を受験した赤井英和を、同じく受験しに来ていたトミーズ雅が目撃した。
優等生が集まる名門校の受験会場の中、赤井はただ1人、不良丸出しの学ラン姿で受験に来ており、机の上に足を投げ出し、周りを威嚇しながら弁当を食べていたので相当目立っていた。
お互い血気盛んな2人はメンチを切り合い、一触即発の危機となるが、受験会場ということもあって喧嘩は回避された。
後日、雅はそれが赤井であったことを知り「喧嘩せんで良かった」と安心すると同時に赤井の不合格を祈った。
合格発表の際、自分の受験番号よりも先に赤井の受験番号を探し、その不合格を知り、ホッと胸をなで下ろした。
後に雅も赤井と同じくボクサーへの道を歩み、S(スーパー)ウェルター級の日本ランカーとなった。
1977年4月にプロデビューし、デビュー以来5連続KOで西日本新人王獲得。
全日本決勝でシーザー佐々木(国際)選手に敗れた。
80年10月に関西重量級のホープ:千里馬啓徳(神戸)選手を6回KOで切って落とし貫禄をみせた。
ラストファイトは81年5月、掘畑道弘選手の持つ日本Sウェルター級王座への挑戦。
掘畑は関西の重量級には珍しいサウスポーで、前王者に3連敗を喫しながらも4度目の対戦でKO勝ちし念願の王座を手に入れた苦労人だった。
試合は雅の地元大阪での挑戦であったが、地力に差があり、チャンピオン:掘畑が5度目の防衛に成功した。
そして雅、北村雅英選手の夢は終わった。
住吉高校を落ちた赤井英和は、浪速高等学校に入学し、中学の先輩に強引にボクシング部へ入れられた。
3年生時にインターハイのライトウェルター級優勝、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権優勝。
高校卒業後は近畿大学に進学。
当時の恋人の影響で茶道部にも在籍した。
モスクワオリンピックでも日本代表は確実視されていたが、米ソ冷戦のあおりを受け日本は出場辞退。
赤井もオリンピックの道は断念せざる得なかった。
その後、大学生のままプロボクサーに転向。
目標はもちろん世界チャンピオンだった。
「みんな笑いました。
世界タイトルって大きい有名ジムがスポンサーつけてやるようなことです。
僕の入ったのは愛寿ジムっていうちっこいジムでした。
会長1人と選手は僕1人。
文化住宅の1階を改装して、会長が日曜大工でポール立てて縄張って、「そっちの壁の向こうで病気のおばあちゃん寝てるからもたれるなっ」ていわれるような。
会長はタクシーの運転手さんで2日にいっぺん乗車明けの日に練習みてくれました。
それ以外は1人で・・・」
小さな無名ジムが世界を目指すため、津田会長と赤井英和がとった手段はマスコミを味方につけることだった。
「マスコミは記録が好きや。…
よしKO記録や! って。
1試合目からずっと、KOし続けたら、マスコミも気にするやろ。」
見せるために赤井はボクシングスタイルを変えた。
相手と距離を保って的確なパンチを繰り出すボクシングから、前に出て攻め続けるファイターへ。
強烈なパンチで、豪快なKOの山を築いた。
もちろんビック・マウスだった。
「メンチ切ったら相手がビビったから勝つと思った。」
「今日はテレビ流すいうんで散発してきたんです。
すいません、テレビカメラどこですか?」
「KOの秘訣ですか?
やはりパンチのスピード、タイミング、それにクスリです。」
など試合後の面白コメントも話題となった。
8戦目からはテレビ中継が入り、11戦目のときにジムにスポンサーがつき名前がグリーンツダジムとなった。
連続KO記録は12まで伸びた。
伏兵・知念清太郎(京浜川崎)選手に連続KO記録は破られたが、14連勝13KOの勢いを駆って、日本、東洋を飛びこえての世界挑戦を果たした。
ついたニックネームは「浪速のロッキー」
しかし試合相手の選択が、無名または格下の選手が多かったことから、その実力には疑問符をつける人もいた。
赤井英和が初めて世界タイトルに挑んだ。
相手はWBC世界スーパーライト級チャンピオン:ブルース・カリー。
試合前日、挑戦者の赤井英和は記者会見で宣言した。
「7月7日やから7回に倒してパチンコのフィーバーにしたる。」
1983年7月7日、WBC世界Jウエルター級タイトルマッチ、ブルース・カリー vs 赤井英和。
赤井の母校である近大の記念会館に12000人の大観衆が入った。
「目標にしてた世界タイトル。
1万何千人のお客が入って、知り合いもいっぱい来てる。
その控え室に入って花道から入場してきたときに、会長とそれまで2人でずっとやってきた夢を達成してしまったんですわ。
リング上がってそのまま帰ってもええくらいやった。
それ以上の、世界チャンピオンっていうことを思いつけなかったんです。
やってみて思ったんです。
俺と世界チャンピオンの差ってそんなになかったな。
あれやったら勝ってたぞ。」
1R、開始早々、カリーはグローブタッチを挑戦者に求めたが、赤井は罰当たりにも無視して先制攻撃を見舞った。
このラウンドを含め、赤井は一貫して捨て身のラッシュファイトを敢行していく。
6R、ラッシュし続ける赤井の左フックがカリーの顎をとらえた。
カリーは黒いマウスピースをむき出しになり、ロープまで吹っ飛んだ。
満場総立ちになり。
「赤井、そこだ!
行けぇ~」
テレビ中継の解説をつとめていたガッツ石松は、マイクの音声が飛ぶほどの音量で叫んだ。
しかしカリーはしのいだ。
7R、赤井の動きが急に悪化した。
カリーは反撃に転じ、赤井に容赦ないパンチの雨を降らせた。
赤井はこの豪雨の中に沈んだ。
皮肉にもKO予告した7月7日の7Rだった。