伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」

伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」

力道山に見出され来日。 その大きすぎるボクシング愛で、ハンマーパンチ 藤猛、悲運の天才 田辺清、カミソリパンチ 海老原弘幸、天才パンチャー 柴田国明、和製クレイ カシアス内藤、伝説の男 ガッツ石松、エディの秘蔵っ子 村田英次郎、浪速のロッキー 赤井英和、ハンサムボーイ 友利正、天才少年 井岡弘樹など数々のボクサーを育てた伝説のボクシングトレーナー。 毎年、プロアマを問わず、活躍した、また縁の下の力持ちとして貢献したボクシングトレーナーに対して、「エディ・タウンゼント賞」が送られている。


赤井は無類のファイタータイプだった。
エディは赤井に様々なことを教えた。
赤井はスタンスをひろくして踏ん張ってパンチを打つ。
「アカイ、それじゃパンチ届かないよ。
もっとスタンス狭めて。
前後左右に動いて打つの。」
「アカイ、スミマセン、スミマセン言いながら頭下げて入るの。」
これは相手の内懐に入るときは頭を波打たせて入ることを表現したもの。
赤井は毎日教えられることをノートにメモして覚えた。
それは赤井にとって宝物のようなものだった 。
世界初挑戦で苦杯をなめた赤井の再起第1戦は、タフで鳴る新井容日だった 。
これを10R判定で破った。
続いてハンマー糸井、大月竜太郎、塚田敬と3連続KO 。
赤井は順調に勝ち続けた。
津田会長は再び世界への夢を見始めた。
しかしある夜、エディが津田会長にムッとした表情でいった。
「アカイにもっと早く会いたかったよ。」
「それどういう意味?」
「ボクね。
アカイに頼むから走ってくれといって土下座できないよ。
わかるでしょ?」
赤井は人気がありすぎた。
常にファンが取り巻き、密かにトレーニングを手抜きし、酒と女の誘惑におぼれていた。
赤井は優れた才能は持っているが、ボクサーとしては女性などの誘惑に弱すぎた。
1984年9月5日、赤井英和 vs ウィリアム・マルディゾンはひどい凡戦だった。
自分に失望したのか、直後、赤井英和は、津田会長に内容証明つきの引退届けを出して行方をくらませた。
人気ボクサーの失踪には様々な憶測が飛び交ったが、数日後、津田会長の間で話し合いが持たれ、赤井は再び世界を目指し走り出した。
またこの頃、赤井は結婚した上、新妻の腹には新しい生命が宿っていた。
赤井は世界前哨戦として、大阪府立体育館で、大和田正春を迎え、チューンアップした自分を見せつけ世界戦へ弾みをつけようとした。
大和田戦より前に、すでに津田会長は、アメリカにわたって大物プロモーター:ドン・キングに渡りをつけた。
WBC世界Jウエルター級チャンピオン:ビル・コステロに日本で挑戦を受けてもらう為、10万ドル(2500万円)のアドバンス(前渡し金)を支払い、タイトルマッチの約束を取りつけた。
「(大和田正春との)試合が済んだ6月にはもう1度世界タイトルへ挑む段取りやった。
今度こそチャンピオンベルトを腰に巻こうと思ってました。
そして対戦を選んだ相手が日本ウエルター級7位にいた大和田正春。
東京立川生まれで父親はアメリカ人。
褐色の肌にひげ面、剃髪で精悍な風貌をつくっていました。
戦績8勝8敗1分が示す通り、俺からみれば、センスはあるけど顎が弱い一発屋という印象でした。
まして俺は世界Jウエルター級8位。
自惚れやないけど戦う前から俺の優位を疑う者はいませんでした。
誰もが日本と世界の差に格段の開きがあることを知っていたわけです。
大和田は咬ませ犬といわれていました。」
大和田正春は、在日米軍兵士の父と日本人の母との間に生まれ、中学卒業後、夜間高校に通いながら自動車メーカーの下請け会社で部品やボディ等のメッキ加工に従事してきた。
それ以来ずっとメッキ一筋で、「センター長」という役職で活躍していた。
ボクシングでは、伝説の王者:マービン・ハグラーと風貌が似ていたため、「和製ハグラー」と呼ばれた。
「現役時代、自分以外はみんな敵だと思っていた。
スパーリングでも手抜きをしたことはない。
誰とやる時も、いつも倒そうと思ってやっていた。」
大和田はのパンチ力は素晴らしく、KO率が高い。
その反面に顎が打たれ弱く、常に倒し倒されのボクシングキャリアとなった。

1985年2月5日、赤井英和(世界Jウエルター級8位)vs大和田正春(日本ウエルター級7位)戦当日。
朝、赤井は規定のウエイトを300gオーバーしていた。
ガムを嚊んで唾液を牛乳瓶1.5本分出した。
9時30分、計量が行われた。
赤井、66.11㎏。
大和田、65.66㎏。
16時50分、大阪の街がうっすら暗くなってきた頃、赤井英和は赤いジャージ姿で会場に入った。
そしてABC放送(朝日放送)のインタビューを受けた。
「今日の試合で世界戦に向けて弾みつけなきゃいけませんね?」
「ええそうですね。」
「もう思いは今日より世界ですか?」
「ええ。
もうこの6月にでもいうてるんですけど、まあとにかく今日の試合を一生懸命ファイトして成果をみてもらいたいという気持ちでずっとトレーニングしてきましたから。
今日はまず気持ちのいいスカッとした試合で飾りたいと思ってます。」
「何ラウンドで倒します?」
「やはり前半ですね。」
控え室で、赤井は鏡に向かって軽い動きをはじめた。
エディは赤井の拳にバンテージを巻き、その上に丁寧にテーピングを施した。
テーピングを終えた拳をコミッショナーと敵側の人間が触って確認し、検査済みのJBCというサインがされた。
鼻柱、額、頬骨などにワセリンを塗り、ノーファールカップをつけ、白地の赤のラインの入ったトランクスをはいた。
ガウンも白地に赤ラインで、背中に松の木に鶴が羽を広げて舞い降りる刺繍が入っていた。
いよいよ係員が時間を告げに来て、控え室から狭い通路を歩いて入場口まで来ると、大和田の入場BGMが聞こえてきた。
赤井は1、2度、声を上げて自ら気合を入れた
「最初何イク?
チョット見る?
でもチャンスがあったらネ・・・」
エディが赤井の耳元でささやいた。
「行くよ、最初から。」
「OK、イク。
でもね、こうじゃないよ。
大きくね。」
そういいながらエディは、身体を屈めて左右に強く身体を振ってウィービングを大きくしろとアドバイスした。
会場にロッキーのテーマが流れ出した。
「さあ、行こ」
先頭の竹本トレーナーが場内に歩み出した。
「OK!
Come on Boy!」
花道に入ると、凄まじい声援と紙吹雪とカメラのフラッシュが舞い、太鼓の音が鳴り響いた。
「凄いネー」
エディは笑った。
赤井がリングに上がると一際歓声が沸き立ってリングアナの声をかき消した。
(もし赤井に勝ったら無事にここから帰れるのか)
大和田は思った 。
「本日のセミファイナル10回戦を行います。
赤コーナー、WBCジュニアウエルター級第8位、145パウンド4分の3、グリーンツダ所属 、赤井英和ぅー!」
赤井が両手を挙げたると観客がドッと沸いた。
「青コーナー、144パウンド4分の3、角海老宝石所属、大和田正春ゥー!」
それまでせわしく動いていた大和田は身体を止めてグローブで赤井を指した。
両者はレフリーの注意を聞きにリング中央へ集まった。
赤井は大和田の眼をにらんだ。
後にわかったことだが、赤井はいつもは相手の眼などみず、わざとそらしていた。
それがこの試合に限って相手の眼を穴の開くほどにらみつけた。
大和田も敵意丸出しで、両者額を突き寄せたまま微動だにしない。
「こいつや、こいつ、このアホ、どついたる!」
エディも煽った。
「なんでもないアカイ、なんでもない。
このヤロウ、ブッ飛ばせよ。
アカイ、ブッ飛ばせよ!」
そして赤井はマウスピースでふさがれた口を開き、ハッキリといった。
「このアホンダラ。」

19時41分35秒にゴングが鳴った。
試合は大和田のジャブで始まり、赤井も果敢に攻めた。
「ジャブ突いて、ジャブ。」
大和田のセコンド、角海老宝石ジムの鈴木会長がしきりに声を出した。
赤井が中に入ってくると、大和田は巧みにクリンチした。
エディは速射砲のように指示を飛ばした。
「Come on、アカイ、手ェ出すの。」
「もっと入るノ、アカイ、入るんだったらもっと入るノ。」
「アカイ、左から!ジャブ!」
両者の左が相打ちになった後にゴングが鳴った。
テレビ中継の解説者の採点は10対10のイーブンだった。
2R、
「走って、走って打つノ」
エディに背中を押され赤井は駆け出た。
大和田は回りこんでその勢いを外した。
「下、アカイ、下」
エディはよく動く顔面よりボディを狙えと指示した。
1分18秒が経過した時、エディがポツリつぶやいた。
「アカイ負けるネ。
この試合・・・」
4R、赤井はゴングと共に走って先制の1発を見舞おうとした。
大和田はそれを難なく左に逃げ、逆に左を2発赤井に食らわせた。
それでも赤井は左右のフックで大和田をロープ際まで追い込んだ。
そしてフィニッシュブローを振り切った 。
大和田はフラつきながらも赤井の強打を耐え、逆に打ち返した。
赤井は絶好のチャンスを逃した。
再び両者はリング中央で向かい合った。
瞬間、大和田の左フックが赤井にクリーンヒットし出鼻をくじいた。
さらにノーガードとなった赤井の顔面に左ストレート。
赤井はノーガードの上に棒立ちになった。
大和田は左フックで赤井はグラリとさせ、すかさず左ストレート。
これがカウンター気味に入って赤井はバランスを崩し後方へつんのめった。
「ガード上げて、ガード上げて」
大和田は容赦ない右ストレートを赤井の顔面へ刺し、赤井はダウンした。
この時、ロープ際にダウンした際、後頭部が最下段のロープにぶつかった。
レフリーがカウントする最中、赤井は(何が起こったんや)という顔で、しりもちをついた。
そしてノロノロと立ち上がった。
カウントは8だった。
場内は信じられないシーンに静まり返った。
「顎引いて、動いて、動いて。」
エディはそう指示したが、赤井は逃げずベタベタの足で前へ進んでいった。
ベタベタの足ででフラフラしながらも赤井はパンチで大和田をロープまで押し込んだ。
ここでラウンド終了のゴングが鳴った。
「座って!」
エディは静かに、しかし厳しい声でいった。
「Come on、Come on、アカイ。」
赤井は反応しなかった。
「気持ちやで、気持ち」
竹本トレーナーがいった。
「アカイ、聞こえる?
あんた勝つよ。
Come on、アカイ。
あんた、男よ」
7R、判定で勝利がないことは明らかだったが、赤井には1発がある。
ロープを背にした大和田に赤井の右ストレートが入った。
しかし大和田は即座に左2発を返し左へ回り込んで身体を入れ替えた。
「大和田、チャンス。」
青コーナーが色めき立った。
大和田の右、左が赤井の顔面にヒット。
ノーガードになった赤井に左フック、左ストレートが炸裂した。
赤井は身体を弓なりにのけぞり、そして前へゆっくり倒れようとしたとき、大和田のラストパンチが赤井の顔面をとらえた。
赤井が崩れるようにダウンした。
4つんばいになって身を起こそうとするがすぐに動けなくなった。
「ダメ、ダメ、ダメ・・」
エディはタオルを入れた。
大和田はリングに仰向けになって喜んだ。
リングに寝たままの赤井の瞳孔をチェックしたドクターが担架を要請した。

20時30分、赤井英和は、救急車で富永脳外科病院に担ぎ込まれた。
担架の赤井は、顔の色を失い、鼻や口は開き、眼はまったく生気がなく、髪は逆立ち、唇は土気色で、もちろん意識はなかった。
救急連絡で富永院長が駆けつけた。
「CTスキャンの判定で脳の内出血がみられました。
さらに本人を診断すると、右の瞳孔が9mm、左が2mmになっていて、右の瞳孔が散大していました。
それに加えて右腕がねじ曲がっていた。
これも危険な状態です。
緊急に手術の必要があると判断しました。
診断は右の急性硬膜下血腫、脳挫傷、深昏睡。
硬膜下血腫とは、脳を包む硬膜と蜘網膜の間に出血した血の塊のこと。
赤井の場合、ダウンしてから数十分後、迅速に運ばれてきたのに手術の必要があるということは、かなり太い血管が切れていたということになる。
脳挫傷とは、脳味噌を塩だとすればごま塩のゴマのような細かい出血が広がった部分のこと。
正常な脳は豆腐が水に浮いたような状態で頭部に納まっているが、パンチなどの急激な衝撃を頭部が受けると脳が頭蓋骨にぶつかって出血するのだ。
深昏睡とは、叩いてもつねっても反応を示さない、いうなれば死の1歩手前。
「脳挫傷部分は脳味噌が破壊されおかゆ状態になっている状態、そうなるには1撃ではなく何度も激しいパンチを食わなければそうはならない。」
富永医院長は説明した。
そして赤井の生と死の確立は2対8といった。
たとえ生命をとりとめたとしても植物状態は免れないという。
21時52分、緊急手術が始まった。
医師は手術室に、津田会長と赤井の兄が呼び入れ、赤井の頭部をみせた。
患者が死ぬ危険性が高い場合に後のトラブルを防ぐためだった。
手術は頭蓋骨をドリルで手のひら大に開き、右脳の内出血を吸入、除去するというものだった。
ドアの外では関係者が涙を流し奇跡を祈った。
赤井の母は家で灯明を上げて手を合わせた。
「神様、助けて。
One More Chance.」
エディも祈った。
「会長、アカイはいま罰金を払っているの。」
エディは津田会長にいった。
ロードワークをサボり、節制を忘れた赤井が今彼なりの報いを果たしている。
エディはそう思ったのかも知れない。
2月6日2時57分、5時間あまりの大手術が終わった。
急激な出血の限度は50ccにも関わらず、赤井の血腫は70ccもあった。
医師はなんとか50ccを取り除くことに成功した。
生死の確立は5分5分にまで挽回した。
手術後は脳が水分を吸収し膨張し脳圧が上がるため、それを緩和するため、しばらく骨を外したままにされた。
8時、いきなり赤井は意識を取り戻した。
「小便がしたい。」
そういって点滴の管や脳波の計器のコードをつけたまま起き上がろうとした。
周囲はあわてて赤井に覆いかぶさって押さえつけた。
「何や。
どないしたんや。」
赤井はそういって暴れた。
ベッドに拘束具がつけられた。
入院後2週間は少しおかしかった。
突然4年前のことをいい出したり、「オーイ変えるぞ」と帰り支度をはじめたり、友達が来ると「よく来てくれた」と泣き出したり・・・
「脳をいじくった人間は感情の起伏が激しくなるんですわ。
両手両足をベッドにくくられているから口で抵抗しよるんです。
「赤井五郎死ね」とか「帰れ」とか、もうボロカスに言われました。」
(父:赤井五郎)
「お父ちゃん、堪忍や。
俺にはもうすぐ大和田と試合があるという記憶だけしかなかった。
何で練習もせずこんなところで身体に管つけて何やってんのやと思った。
家族に聞いてもみんなちょっとずつ言うことが違う。
周りに聞いても誰もホントとのこと教えてくれない。
ベッドの上で「お母ちゃんサッサとケガ治して次がんばるからな」といったらお母ちゃんがうつむいて泣いてる。
なんでやろ・・・おかしいなあ。
それでもとにかく養生に専念したんです。
その間しょうもないことやけど、俺を天下無敵の超人ハルクみたいに改造してくれないかなぁと思ってました。
昔エイトマンの透視図を見たことがあるんです。
それと同じような感じで俺も横たわっていましたからね。
頭蓋骨外してたから、便所でずっこけて脳味噌出てもたらどないなるんやろ。
脳味噌外してヌカ味噌入れたらどうなるんやろ。
蟹味噌入れたら泡吹くんやろか。
いっそ味噌の代わりに糞入れたら体臭が気になるんやろか。
なんてしょうもないことばかり浮かんできました。
コラっ!
ダレが後遺症ぢゃ!」
実際、赤井は自分の脳を触った。
触ると強烈な吐き気を催した。
その理由が解らず何度も触っては吐き気を催した。

入院30日後、リハビリが開始された。
赤井英和はリハビリ優等生だった。
その回復力は凄まじく、周囲が奇跡だ、何という生命力だと舌を巻くほどだった。
「リングが待ってる。
うかうかしてられへん。
大和田をこてんぱんにいてもうたるねん。」
この焦りにも似た気持ちと鍛えられた肉体が回復を早めたのだろう。
しかし赤井は自分が2度とリングに立てない身体になっていることを知らされていなかった。
「1度も切れも割れもしてない私らの頭が、仮に10の衝撃で頭蓋骨が割れるとしたら、それが今の英和では5か6で割れる。
骨を継いだところが1番もろいんですわ」
(父:赤井五郎)
退院10日前になって、初めて赤井は矢野文雄後援会長から、
・大和田との試合はすでに行われ赤井が負けたこと
・その試合でケガを負って入院したこと
を知らされた。
数日後、赤井は外泊許可をとり、家に帰り、即座に大和田戦のビデオをみた。
(まあええか。
たかが1敗や。
退院したらもう1回大和田とやってあいつの頭かち割って俺と同じ目にあわせてやる。)
退院身近となったある日、担当医が赤井に対して、再びボクサーとしてリングに立てないことを医学的な説明を加えながら言い渡した。
赤井は愕然となった。
「嘘やろ?という気持ちがあり、俺の人生そのものを奪われた気がして、説明してくれてる先生を無性に殴り倒したい気持ちにかられました。
もちろんじっと抑えましたけど・・・」
2月16日、赤井英和の事故を重く見た日本プロボクシング協会の木村七郎会長は、全選手にCTスキャン検査を義務付ける事をJBCに進言した。
そして延べ800人以上のプロボクサーのCT検査が実施された。
現在ではプロテスト受験時にCTスキャンが義務付けられている。
3月31日、赤井英和と富永院長が並んで記者会見が行われた。
「ほぼ100%治りました。
ただ悲しむべきことは、我々がリング上の赤井さんの勇姿を見ることは2度とないことです。
・・・・
レフリーがどの時点で試合を止めるかが問題となりますね。
人道的な立場からいえばノックダウンしたらその場でストップすべきでしょう。
赤井さんの場合は4Rに喫したダウン、あそこで止めるべきではなかったかと思いますね。
そうすればもう1度リングに立てたかもしれないのですから。
あくまで結果論ですが・・・」
「俺は生死をさまよっていた時のこと何も思い出されへんのやけど、1点だけ鮮明に憶えていることがある。
霞がかかったヒンヤリした薄明かりの中を俺は歩いておった。
どこからともなく笛の音が流れてくるので、その笛のほうに歩いていった。
すると1本の川に出ます。
川岸には赤い花がいっぱい咲いていました。
気がつくと笛の音だと思っていたのは人の声でした。
目を凝らすと向こう岸に白い着物を着た人が大勢いて手招きしてるんです。
あ、俺のこと呼んでいると思って・・・」
「ホント!?」
「ウソでんがな。(ケケッインタービューのおっさんひっくりがえりよったワイ)」

ボクシングができなくなった赤井英和には厳しく冷たい日々が待っていた。
「通院する以外は酒ばっかり飲んでました。
親身になって話し聞いてくれた人も気がつくとそばからおれへんようになった。
赤井英和を金づるやと思ってた人なんかあっさり手のひら返してくれました。
そら見事なもんやった。
あの時はちょっと人間不信に陥りかけた。
でもね。
残ってくれた理解者、友達、彼らこそ何よりも大切な俺の財産です。
彼らを再発見できたことは不幸中のい幸い、とても有難かった。
そういう人らは大切にせなアカンとつくづく思いました。
50日ぶりに退院して帰った。
娑婆の空気はうまいのうと感じました。
心配された頭をいじった後遺症はありませんでした。
頭が痛いということもなかった。
だいたい俺、頭痛というの経験したことありませんねん。
退院直後はろれつが回らんかったり、歩こうとすると右へ右へ寄って行くこともありましたけど、その頃には事故が嘘のように思えました。
しかし終日うちにおるとロクなことを考えなかった。
こんな目にあわせやがった大和田が急に憎くなってアイツのうちまで押しかけて勝負つけたろかと思ったりしましたわ。
命がけでやってきたボクシングや。
リングで死ねるんやったら本望や。
それを助けるなんて余計なことを・・・と考えたこともあった。
ケガさえなかったらなあ。
4回戦ボーイからだが、どうや、やってみるか?といわれたら、俺、即座に「やるよ」というてたと思います。
怪我があるからコミッショナーは絶対に試合認めないでしょうけど、次、リング上がったら確実に死ぬと医者が言われてましたから・・・
ボクシングやめた。
することあらへん。
何をしたらええのんや。
ボクサー10年、練習やって、試合して、また次という繰り返しでずっと来てますから、他にことは何もできんかった、考えられんかったんです。
頭に爆弾抱えとったけど頭以外は健康体でしょ。
それに昨日まで戦ってきた男やないですか。
まだファイターやったんですよ。
戦う精神みたいなやつはそう簡単におさまるもんやないです。
沸々となにやら燃えカスみたいなもんが心の底のほうで煙を出してました。
ああ何かやりたい。
なんでもええねん。
必死でやれるもんが欲しい。
そんな俺に気持ちわかりすぎるから周りのやつは俺をそっと放っておいてくれました。
そして会えば馬鹿騒ぎでした。
グローブ置いたんやから良き家庭人に戻らなあかんという人もいました。
ようわかってますと答えながらあらゆることに未練を持ってたからよう戻らんかったんです。
しかし現実は厳しいもんです。
家庭の生活はどないするんや。
仕事はどうする。
とたんにお金の問題も生まれてきました。
本当に現実はシビアで待ってくれませんでした。
こうしてボクシング生活と引き換えに帰ってくるはずだった結婚生活は、どんどん隙間が目立つようになっていったんです。
俺の1番しんどい時に踏ん張ってくれた女性やったんですが、できた亀裂はもう元には戻りませんでした。
俺の再生にはこうした目から血が出るような思いの日々もあったんです。
しかし人間そう悪いことばっかりやないで。
運・不運一方だけの人生なんてあり得へんと思う。
失敗は失敗。
過去は過去。
そこにいつまでもとらわれてたらなにもできん。
なにも生まれん。
それをプラスにせなあかんのや。
俺はプラス思考。
マイナスはない。
いやもっと言うと俺、かけ算の人間やねん。
ウン、そういうことなんや。」
赤井英和にボクシングを断念させた大和田はその後、日本ミドル級チャンピオンとなった。
そして何度かの防衛戦で大和武士と対戦し、勝ちを収めたものの、網膜剥離を患って引退に追い込まれた。
そして映画「どついたるねん」で赤井英和、大和田正春、大和武士は共演することとなった。

ハンサムボーイ 友利正

1981年、エディは三迫ジムのトレーナーになった。
三迫ジムでは、友利正がいた。
高校でインターハイモスキート級チャンピオンとなり、三迫ジムに入門、プロデビュー後10連勝。
デビュー年は無敗のまま全日本新人王となり、天竜数典を2度目の挑戦で1R1分55秒KO勝ちし日本Jフライ級チャンピオンになった。
このタイトルは2度目の防衛で奪われたものの、翌年にチャンピオンに復帰し、このときは初の世界挑戦を翌年の春に控え、練習に打ち込んでいた。
エディは、友利がスピードボールを打っているのをみて首を振りながらいった。
「いいねえ。
すっごく手が速い選手ねえ。
ナイスボーイよ。」
明るくてノリやすい友利はすぐにその気になった。
(オレはナイスボーイかもしれない。)
1982年2月25日、後楽園ホールで友利正の世界タイトルマッチの発表会見が行われた。
相手は、WBC世界Jフライ級:アマド・ウルスア。
パンテリータ(豹)のニックネームを持つハードパンチャー。
このとき友利は日本Jフライ級チャンピオンとして、この翌日に神田吉昭を相手に防衛戦を行うことになっていた。
日本タイトルの防衛戦の前日に世界タイトルマッチを発表するのは異例だった。
よほど自信があるのだろう。
そして2月26日、友利は神田を大差の判定で破った。
友利は美少年で、オートバイで試合会場に乗りつけた。
女性ファンが多かったが、実践女子短大に通う久美子と付き合っていた。

友利は世界戦に向け、奄美半島の伊良湖岬でキャンプに入った。
会長、マネージャーと共に中野区でエディを拾って愛知県まで車で飛ばした。
友利は右膝に爆弾を抱えていたので、ゴルフ場のアップダウンの少ないフラットなコースを走った。
「すっごいねえ、トモリ。
すっごいハードねえ。」
エディも友利たちと同じトレーニングをこなそうと必死になってヒーヒーいった。
友利はそれをみてゲラゲラ笑った。
1週間のキャンプは、笑ってばかりだった。
ジムワークに移ると、エディは友利の左の改造にとりかかった。
ボクシングにおける左(利き手の逆、構えたときに前になる手腕)は重要だった。
もともと三迫ジムでは左の強化のために合宿生全員に左手に箸を持たせていた。
「トモリ。
左はもっと下からアッパー気味で打つのよ。
いい?」
エディはそういいながら自分で左をスッと打った。
友利はエディのセンスの良さに唖然とした。

世界チャンピオン:アマド・ウルスアが来日。
身長は156cmと小柄だが、体格はガッチリとデカい。
対する友利は、身長161cm、身体つきはほっそりしている。
ウルスアのトレーニングは角海老ジムで行われた
「ウルスアの左フックは強いよ。
でもね、トモリは脚を使って体を動かしていれば、あのパンチ大丈夫ね。
あんた勝てるよ。」
4月10日、 友利は試合のために新宿京王プラザホテルに入った。
エディは中野区の自宅からホテルに通った。
部屋をウロウロ歩きながら友利に教えたことを反復した。
「相手はパンチがあるから絶対に動きを止めたらダメよ。」
「その左を忘れてないか。」
そして突然キョロキョロし始めた。
「どうしたの?」
「メガネがない。」
「鏡見たら?」
「Oh!」
メガネは頭にはねあげて乗っかっていた。
4月13日、 試合当日、友利は車で後楽園ホールに移動し控え室に入った。
試合時間が近づいてきても鏡を覗き込んで髪の乱れを気にしてセットしていた。
エディは呆れ顔で硬くなる仕草をしていった。
「このボーイ、こうならないねえ。
珍しいよ。」
係員が来て出番を告げるとエディは明るくいった。
「トモリ、もう逃げられないの。
やるしかないのよ。
がんばるのよ。」
会長やセコンドにも
「頑張りましょう。」
と気合を入れた。
(よし、やろう!)
友利も気合を入れ、一行はコンクリートの階段を上がっていった。
リングの上で友利は対角線上のチャンピオン:アマド・ウルスアをみた。
39戦31勝26KO8敗。
KO率は66.6%。
友利は、22戦17勝5KO5敗。
KO率は22.7%。
1R、ゴングが鳴ると友利はいきなり攻め込んだ。
ボクサーファイタータイプだったはずの友利がファイタータイプに変貌していた。
ウルスアは押された。
3R、ウルスアが左フックを友利の右顔面にヒットさせた。
エディが叫んだ
「動くの!
足つかって、足つかって。
左、左よ。」
しかし友利は下がらず鋭くステップインして左フックから右ストレートを打ち返した。
7Rまで足をつかって打ち合わないというのがエディの方針だったが、その後も友利はガンガン打っていった。
「打ち合ったらダメ!」
友利は平気な顔でインファイトを挑んでいく。
10Rまでポイントでは友利がリードした 。
11R 、スタミナが切れた友利はウルスアが押し始めた。
「動いて動いて!」
友利は飛び込みざまに左フックを叩きつけてサッと離れた。
15R終了のゴングが鳴った 。
(ドローくらいかな)
友利は思った。
コーナーに戻る友利にニコニコ顔のエディがいった。
「おおトモリ。
あんたが勝ったよ。」
レフリーが友利の名を呼んだ。

6月
友利正の初防衛戦はイラリオ・サパタに決まった
サパタは
友利の前々チャンピオンで現在ランキング1位
友利が勝ったウルスアに負けるまで8度防衛しファイトマネーだけで2億円を稼いだ
指には金やダイヤの指輪
首には幾重もの金のネックレス
歯は金歯
背が高く
手足が長く
動きが天才的に速い
しかもサウスポー
つかまえるのは容易ではない
しかし戦績は21戦19勝8KOで
KO率は低い
友利とサパタはスパーリングした経験があった
友利が日本チャンピオンだった頃、
サパタが試合のため来日し友利が頼まれてスパーリングした
両者はほとんど互角に打ち合って2R目に友利の左フックでサパタは唇を切った
サパタは試合が控えているためスパーリングはここで打ち切られた
(大したことない)
これが友利の印象だった
試合は7月20日、金沢市の産業展示館に決まった
エディと友利の対サパタ攻略プランはボディ攻めという点で一致した
サパタのように動きがいいテクニシャンに対しては
まずボディを攻めて動きを止めるのである
7月20日、
王者:友利と挑戦者:サパタの試合
1R
ゴングが鳴ると友利がいきなり大きなロングフックを放った
当てるのではなく威嚇の一撃だ
サパタはヘッドスリップでかわした
このハッタリの1発でサパタは警戒してしまった
その後サパタは逃げの一手に徹してしまった
サウスポーで本来動きのいいサパタは
長い右手のジャブをポンと放ってそのまま後退
決して友利の射程距離には入らなかった
友利は焦って追った
友利が追う
サパタジャブを打っては逃げる
友利が追う
このダルな試合展開でポイント差は形勢不明だった
そしてこのまま試合は終わった
世界タイトルマッチとしては稀に見る凡戦となった
凡戦の原因は
挑戦者のくせに逃げ回るサパタとチャンピオンのくせに無策だった友利
両者にある
ジャッジペーパーの集計は手間取った
それを見ていたエディが言った
「トモリ、勝ったよ!
立ちなさい
手を挙げなさい」
友利がガッツポーズをした直後レフリーが勝者をコールした
「サパタ」
途端にエディは怒り出した
朱を注いだように真っ赤になってレフリーに食って掛かった
三迫会長も猛然と抗議した
会場はシラけた
(こんなことってあるもんか
くだらないよ
人生観が変わっちゃうよ)
友利はうんざりしていた
とっさに引退を決意した
ジャッジペーパーは
144-141でサパタ
144-143で友利
144-143でサパタ
2対1でサパタの逃げ切りだったが
サパタの1ポイント勝ちをつけたジャッジが
「私はトモリの1ポイント勝ちにしたはずだ」
と語り出し舞台裏はいよいよ混乱し出した
三迫会長は抗議と共にその場でサパタ陣営に再戦の約束をとりつけようと奔走していた
敗者は控え室に引き上げていた
「ドローだろう
サパタの勝ちはない」
(輪島功一)
「サパタにチャンピオンの資格はない」
(柴田国明)
新聞記者の質問にエディは短く答えた
「両方悪い
ドロー」

三迫会長はホームでまんまとタイトルを盗まれたという気持ちだった。
必死で外交手腕を発揮し、サパタ側と再戦の約束を取りつけた。
「トモリ、スピードよ。
トモリはスピードが1番よ。」
エディは口癖のようにいった。
スピードボールを打つ友利のパンチは コンパクトでシャープでスピーディで、まるでマジックのようだった。
11月、サパタは再婚したばかりの10代の妻を連れて来日。
ゴールドのネックレスやブレスレットでキラキラさせていた。
友利の作戦は、前回同様、徹底的にボディを打ちまくることだった。
屈辱の僅差判定敗けから約4ヵ月後、11月30日、再戦のゴングが鳴った。
1R、友利はサパタのストレートに対してボディアタックを敢行し、いい感じでリードした。
2R サパタは、自分の右ストレートにボディを合わせようとする友利を左アッパーで迎え撃った。
カウンターを食って一瞬ひるんだ友利にサパタは猛烈にラッシュした。
3R 調子に乗ると手がつけられなくなる南米人の気質か、サパタは前回と打って変って打ち合った。
しかしショートレンジの打ち合いなら友利が打ち勝った。
4R、サパタは果敢に友利と打ち合いにいった。
次第に友利が受身になりだした。
6R、友利が右目尻から出血。
7R、友利の出血で視界がふさがれた右目にサパタは左ストレートを打ち込んだ。
中盤、サパタは左アッパーからチャンスをつかんで、友利をコーナーにつめて乱打した。
友利は堪え切れずにダウンした 。
8R、サパタは勝利を確信しラッシュした。
痛烈な左ストレートで友利はダウンした。
立ち上がった友利にサパタは再びラッシュ。
するとレフリーが試合をストップ。
1分59秒KOが宣告した。
サパタはリング中央で両手を上げ、友利はそのかたわらで横たわりマウスピースを吐き出した。
控え室である相撲の支度部屋で、友利は血まみれで横たわっていた。
記者団が友利のコメントを取ろうと迫るとエディは怒鳴った。
「トモリを治療しなくちゃならないの!
わかるでしょ!」
友利は病院で簡単な検査と右目尻を3針縫って帝王プラザホテルに戻った。
「エディさん、寂しいね」
「試合に勝ったらみんな来るけど負けたら誰も来ない。
これ、仕方ないね。」
友利の髪の毛はワセリンでベトついていた。
顔を前に倒すと頭に激痛が走るので、便器に後ろ向きに座って、エディが仰向けにした頭を支え、恋人の久美子がシャンプーした 。
この夜、エディはずっと寝ずに友利についた 。
「夕べは長かったね。
どうもありがとう」
「いいえ」
友利は笑った。
「試合に負けたときに本当の友だちわかりますよ。」
数日後、友利は故郷:沖縄に帰るため、ジムの合宿所に荷物を取りに寄った。
するとマネージャーに出会った。
「また次ぎやるから・・・」
「もうやんない。」
友利正はリングから消えた。

天才少年 井岡弘樹

津田会長は密かにグリーンツダジムの専属トレーナーとして来て欲しいとエディに打診した。
その内容は、1年間の契約金300万円。
毎月のトレーナー料手取り35万円。
ホテル南海の宿泊費全額負担 。
月2回の東京-大阪往復の交通費全額負担。
というものだった。
68歳のエディーは、大阪へ初の単身赴任に入った。
エディが初めてグリーンツダジムに顔を出したとき、津田会長は1人の少年を指していった。
「エディさん。
あの子は必ずチャンピオンになる子ですからみてください。」
シャドーをしているの少年がいた。
身長140cmくらい。
堺市浅香中学2年生の井岡弘樹だった。
「会長、大変よ。
ボクシングにはケンカ坊主がたくさんいるから。」
エディは首を振った。
津田会長は何かとんでもない幻想にとらわれていると思った。
「すごい素質なんですわ。」
津田会長がいっても、エディは肩をすくませるだけだった。
ボクシングは過酷な戦いであり、あんなきゃしゃな少年につとまるはずがない。
しかし数日後、エディが津田会長にいった。
「会長。
あの子はチャンピオンになります。
会長のいうのは間違いないです。
チャンピオンになります。」
エディも津田会長同様、井岡の中にある並外れた才能を見抜いた。
サンドバッグを打つ井岡の動きのシャープさは目を見張るものがあった。
エディがミットを持っていった。
「ボーイ、ちょっと打って。」
井岡は左アッパーを突き上げた。
「おお、ナイスねえ。」
エディは井岡の中にあるキラキラしたものをみた。
この少年こそチャンピオンの器であることを確信した。

1985年3月、浅香山中学校を卒業した井岡弘樹は、荷物を持ってグリーンツダジムの2階に住み込み始めた。
見込みある選手だけに開放される合宿所だった。
「高校じゃ金が儲からない。」
誰もが進学を望む世間に背を向けるように井岡はボクサー志願を貫いた。
井岡は中学1年生からこのジムに通い出した。
動機は憧れの赤井英和に会いたいというものだった。
そしていよいよ赤井と一緒にトレーニングできるようになった矢先、赤井は大和田にKOされ、いまだ入院したままだった。
津田会長は井岡に就職させず、井岡はジムの1階と2階を往復するだけのボクシング漬けの生活だった。
井岡は健やかな少年で、可愛らしい顔で、性格は優しく、そのくせ負けん気が強く、音楽好きで、冷静ときている。
「会長、ボクね。
ホテルじゃなくてもいいのよ。
ジムでもOKよ。
ボク、イオカと同じ部屋でOKよ。」
ジムの窮状を知るエディは津田会長にいった。
津田会長にしても井岡をボクシングだけでなく人間教育もしなくては考えているところだった。
エディにそばにいてもらえば有難いし、エディはエディで少しでも多く選手たちと一緒にいることが好きだった。
こうしてエディはジムの2階の8畳間で井岡ら選手と一緒に生活し始めた。
ある夜、23時ごろ津田会長がジムに戻ると、エディがジムの外でタバコを吹かしていた。
「エディさん、こんなところで何してるの?」
「今ね、イオカが寝てるの。」
若いボクサーにタバコは良くないとエディは信じているのであろう。
こういう細やかな心配りに津田会長は感心した。
「僕は14歳でエディさんと会いました。
練習は厳しかったですが、OK!BOYといって僕のいい所を誉めながら伸ばしてくれました。
練習後は僕の部屋で夜食を共にし、一般人としてマナーや人との接し方なども教えてくれる年齢差
感じない兄のような存在でした。」

1985年12月、
「百合ちゃん、なんだか痛いよ」
エディは右下腹に鈍痛を覚えた。
19歳年下の妻をエディは「百合ちゃん」と呼び、妻は「ダディ」と呼んでいた。
妻は嫌がる夫を診療所に連れて行った。
医師は血液検査などの結果から盲腸と診断し、薬で散らすことにした。
やがて血便を出すようになったが、エディは痔のせいだと主張した。
薬の投与は続けられたが鈍痛が去らず、そのうえ急激にやせだした。
再び胃カメラを飲み、腸のX線検査を行うと、大腸にかなり大きな腫瘍があることがわかった。
部位が背中に近くこれまでの触診では発見できなかったのだ。

1986年1月、井岡弘樹は、満17歳の誕生日が過ぎると待ち構えていたようにプロテストを受け、合格した。
井岡は入門当初は小さく細かったが背は日に日に伸びて168cmを突破した。
しかし毎日2食食べても太らない体質で、ウエイトコントロールしやすいボクサーだった。
1月23日、東京後楽園ホールでプロデビュー戦が行われた。
相手は寄持由紀雄。
この一戦は新設されたばかりのミニフライ級の一戦だった。
ミニフライ級はJフライ級より軽い105ポンド(47.61kg)以下の階級で、共にデビュー同士だったが、1Rに井岡が右クロスストレートでダウンを奪い、2Rにも右ストレートで倒し、3R45秒でKOした。

8月、エディは入院した。
進行性大腸癌と診断され、臍を中心に直径20cmくらい半円に切開する手術を受けた。
しかし進行性癌であるため転移による再発は避けられないという。
「盲腸のために腸が癒着していたのよ。
だから痛かったの。」
エディはそう説明され納得した
約1か月後に退院。
その後は見違えるように元気になった。
医師はエディの年齢なら癌細胞の成長は散漫だろうから、4、5年は大丈夫だろうといった。
しかしミットを受けたり、選手たちとキャンプで走りこんだりするエディの肉体は、年齢よりもはるかに若かった。
癌細胞も想像以上の速さで全身に転移していった。

1987年7月8日、井岡弘樹が日本ミニフライ級タイトルに挑戦した
井岡はここまで7戦7勝5KO。
チャンピオンの小野健治は、27戦16勝6KO9敗2分のベテランだった。
18歳6ヶ月の井岡は冷静に戦い判定勝ちした。
これは最年少日本チャンピオンの新記録だった。
8月、WBCが、「ミニフライ級」を正式に「ストロー級」と改称し、世界ランキングを発表した。
1位は井岡、2位はマイ・トンプリファームだった。
そしてWBCは、1位と2位で初代ストロー級チャンピオン決定戦を行うと発表した。
期日は10月18日。
場所は日本。
井岡にとって思いがけないほど早いチャンス到来だった。
10月、トンプリファームがタイから来日。
その公開練習をエディと井岡はみに行った。
トンプリファームは背が低くスピードもなかったが、19戦18勝1敗のボクシングのキャリア以前に100戦を超すムエタイの経験があった。
ムエタイ上がりのボクサーのタフネスは侮れないものがある。
井岡はエディの耳元でささやいた。
「エディさん。
あまり大したことないね。」
途端にエディは大声を上げた。
「タフよ。
トンプリファームはタフよ。
バカにしないの!」
それでも井岡はニヤニヤしている。
エディが拳骨を振り上げた。
「笑わないの!
笑っちゃダメよ!」
そういうエディの口元もゆるんでいた。
10月17日、試合の前日、大阪西成区天下茶屋にあるグリーンツダジムにはファンや関係者が集まっていた。
エディは末期癌でやせて、まるで枯れたトウモロコシのようだった。
それでも大好きなタバコを口にしながら下町の薄暗い路地で輝く未来の世界チャンピオンの話をした。
「今度はチャンスよ。
イオカにはラストチャンスよ。
・・・
ファーストチャンスね。」
ラストチャンスとは、誰にとって?
「相手、強くないよ。
もし神様がイオカの中に入ってきたらイオカ勝ちます。
神様が入らなかったらNoだけど、たぶんイオカ勝ちます。」
井岡は3ヶ月前の日本タイトルマッチから身長がまた伸びて169.5㎝になっていた。
フサフサした坊ちゃん刈り、やさしい顔、穏やかな微笑。
「試合が近づいたらハッピーになりなさい。」
というエディの教え通り、試合が楽しみでしようがないようだ。
10月18日、井岡とトンプリファームがリングに上がった。
ゴングが鳴ると、井岡は右ストレートを相手のボディに送り込んだ。
動きが鈍いトンプリファームの出鼻に井岡の左フックをヒットする。
2R、トンプリファームの左目の上が切れた。
3R、
「ウワォー」
トンプリファームは叫びながら井岡に襲い掛かった。
しかし井岡は多くの有効打を許さない。
逆にカウンターを浴びせる。
5R、ここまでポイントでは一方的に井岡がとっている。
しかしトンプリファームは一向に倒れそうにない。
6R
井岡は猛攻した。
トンプリファームはKO寸前まで陥った。
井岡は右拳を痛めた。
7R、
「イオカ、疲れたらバネ使って、ジャブ打って、休むの。
元気が出たらまたがんばろう。」
エディはそういって井岡を送り出した。
8R、
「イオカ、あと5R立っていたら世界チャンピオンね。」
トンプリファームは積極的に出て行く。
井岡は守勢にまわった。
「ボーイ、回るの!」
9R、10R、11Rは膠着した。
11Rを終えて帰ってきた井岡にエディがいった。
「おめでとう、イオカ。
あんた、世界チャンピオンよ。」
12R、KOでしか勝てないトンプリファームは猛烈に出て行く。
井岡も逃げずに迎え撃ちトンプリファームをコーナーに押し込みボディを滅多打ちにした。
そこで試合終了のゴングが鳴った。
判定は大差で井岡が勝った。
津田会長が井岡を肩車した。
「監督、エディさんもね。」
監督と呼ばれた竹本トレーナーはエディを肩車した。
空中で2人は互いの手を握り合った。
エディの顔は子供のように笑った。

リングから降りてきたエディに百合子が抱きついた。
ロスからかけつけた長女:シャロンと次女:ダーナも抱きつきキスをした。
井岡の記者会見が始まった。
「何ラウンドからいけると思った?」
「1Rからです。
12Rはラスト30秒で倒す気で行きました。
効いていたのはわかってましたから。」
「イオカのガッツすっごいよ。
右手、痛い痛いいわない。
ま、あのくらい我慢できるんだったらいいチャンピオンになれるね。
イオカ、まだ子供よ。
勉強することいっぱいあるの。
ショート、もっとショート打てるようになればインファイトしても負けない。」
「エディさん。
次の試合は李敬淵選手ということになりますが?」
「韓国の選手?
おお、いらっしゃい。」
エディは右手で「Come on」のポーズをして笑った。
その手は木の枝のように細かった。
井岡の次の試合はランキング3位の李敬淵が義務づけられていた。
李はIBFという団体の公認する世界チャンピオンだった。
この日、李はリングサイドでジムの会長と共に井岡の試合をみていた。
そして試合後、井岡の印象を聞かれると自信たっぷりに答えた。
「井岡は怖くない。」

10月19日、エディ・タウンゼント一家4人は南紀白浜へ、津田会長が慰労をかねてプレゼントした3泊4日の旅に出た。
「百合ちゃん、胃が痛いよお。」
エディは宿に着くなり胃痛を訴えた。
おそらく世界戦の緊張と疲労のせいだろうと、妻は三共漢方胃腸薬を飲ませて急場をしのいだ。
10月28日、エディは大阪の大学で講演を行った。
講演をすましたあとは大阪、難波のホテルに泊まった。
10月29日、大阪から東京中野の自宅に帰ってくると、腹部に激痛を訴え、救急車で病院へ搬送された。
10月30日、家族は、医師から肺と肝臓に癌が転移していることを告げられた。
手術はできないので、本人の希望を尊重し、自宅で過ごし、週1回通院し制癌剤を注射することになった。
「年内いっぱい持てばいい方でしょう。
11月くらいと覚悟しておいてください。」
しかしエディは1月31日の井岡の試合にセコンドにつくつもりだった。
「百合ちゃん、ボク大阪行きたいよ。
行かせてよ。
イオカのトレーニングみたいよ。」
エディは東京の自宅で訴え続けた。
12月、エディは井岡がトレーニングキャンプを行っている白浜へ行くといい出した。
7~12日まで入院し、医師の許可を得てから白浜へ飛んだ。
ヒョロヒョロになったエディがタラップを降りると津田会長と井岡が出迎えにきていて、津田会長が抱きかかえようとした。
エディはそれを拒否し、そして左フックを振ってポーズをキメた。
「離して、大丈夫よ。
Come on!」

1988年1月、井岡のWBC世界ストロー級タイトル初防衛戦は近づいてきた。
津田会長は、年明けの挨拶と共に、井岡のスパーリングの映像を東京のエディに送った。
エディは自宅の2階で横になりながらそのビデオをみた。
気に入らない。
次第に苛立ってきた。
エディは頭を抱えた。
「百合ちゃん、ジムに電話してよ。」
ジムに電話すると津田会長が出た。
「会長、ボク泣きたいです。
いますぐ行きます。
いま、いますぐ行きます。」
すでに夜遅くなっていたが突然大阪へ行くというのだ。
「いますぐ新幹線で行く。」
百合子は腹が立った。
体調的に座席に座るのは無理だった。
百合子はワゴンをチャーターし、後部座席を全部倒して、その上に布団を敷きエディを寝かせた。
23時ごろ東京中野を出て東名高速をひたすら走り翌7時に大阪に着いた。
そしてジムのリングサイドに車椅子のエディがいた。
恐ろしい執念だった。
肉体はやせ衰えていたが、眼光は異様に鋭い。
そして不自由な足でリングに上がりコーチし始めた。
この日、井岡のスパーリング終了後、エディは津田会長を手招きした。
「会長、ありがとう。
長いことありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう・・・・」
夜は以前井岡と暮らしたジムの2階の部屋に泊まった。
井岡はここを卒業し、ジムの隣のマンションに個室を借りていた。

試合前のルールミーティングで、津田会長は李敬淵サイドに対して前例のない要求を出した。
「リングに上がらないという条件で4人のセコンドを置きたい。」
津田会長、竹本トレーナー、森岡トレーナー、そして車椅子のエディである。
リング上で世話をすることはできないが、コーナー下からアドバイスはできる。
これがエディの意思であり執念だった。
李敬淵サイドは了解した。
1988年1月31日、この日は大阪女子国際マラソンが行われ交通規制が行われたため、井岡は電車で会場である大阪国際文化スポーツホールに入った。
セミファイナルで、WBC世界フライ級タイトルマッチ、チャンピオン:ソット・チラタダ vs チャレンジャー:神代英明。
メインで、WBC世界ストロー級タイトルマッチ、チャンピオン:井岡弘樹 vs チャレンジャー:李敬淵が行われる。
津田会長念願のグリーンツダジムのダブル世界タイトルマッチだった。
だっだ広い控え室では、前座の4回戦ボーイたちが準備したり、アップをしていた。
ラジカセからアップテンポでリズミカルな音楽を流れている。
その端にベッドに横たわるエディがいた。
横には妻と長女と医者がついていた。
救急用に寝台車が玄関で待機し、大阪市内の病院が受け入れに備えているという。
「エディさん!」
関係者が声をかけるとエディは目を上げた。
顔色は黄ばみ、頬は削げ落ち、目は落ち窪んでいた。
「・・・・・」
エディは、何かをいったが聞き取れない。
「わからないのがねえ・・・」
百合子が気丈に笑った。
言葉が通じないのがわかったエディは2つの拳を顔の前に重ねジェスチャーした。
そして右拳を挙げてガッツポーズした
「私は天狗じゃないよと言ってるのかな・・・」
言語不明になりながらもボクシングを想い、愛するボクサーの勝利を訴える男の姿だった。
こんな状態でも、エディはセコンドにつくことをあきらめていなかった。
「もうすぐ神代が出ますよ。」
百合子がいうとエディはかすかにうなずいた
カメラマンのフラッシュとテレビのライトがエディの顔を照らした。
「エディさんが疲れますから、この辺にしていただけませんか。
悪いですけど・・・」
津田会長の声でマスコミは散った。
記者の1人が井岡に会った。
「いまエディさんをみてきた。
あんなになっているなんて・・・
井岡君勝つんだよ。」
「はい。
勝ちます。
死に物狂いでやります。
死んでも勝ちます。」
19歳のチャンピオンはさわやかにいった。
身長がまた伸びて170.5cm。
この階級では珍しいほどの長身になっていた。
井岡が流れるRockに合わせ身体を揺すり始めた。
やがて立ち上がりダンスを踊り始めた。
「ハッピーになりなさい。」
エディのアドバイス通り、これから死地に行くボクサーにはみえない。
いよいよ時間が迫ってきた頃、井岡はマスコミの不自然な騒がしさに気づいた。
「エディさんは?
エディさんどうしたの?」
「大丈夫、心配しないで。
あんたは試合のことだけ考えればいいの。」
そういわれて井岡はエディはちょっと休憩しているのだと思った。
そして14時過ぎ、リングに向かって入場した。

井岡弘樹、9戦全勝。
李敬淵、11戦全勝。
李はファイターらしい面構えをしている。
井岡の赤コーナーに車椅子のエディはいなかった。
井岡が控え室を出る直前に容態が悪化し、意識不明と呼吸困難に陥り、ベッドごと車に運ばれ病院へ搬送されていた。
試合開始のゴングが鳴った。
井岡のフットワークは軽快。
李はベタ足のファイター。
井岡が動き、李が追うという展開となった。
李は接近してボディへのフックを集める。
井岡は左のフックを顔面にカウンターで入れる。
李は早くも出血した。
李の闘志は見事だった。
粘り強く決して下がらない。
井岡は下がりながらカウンターを狙った。
1Rは李が取った。
2R、3Rも同じ展開となった。
ジャッジのスコアは乱れた。
李のアグレッシブを採るか、井岡の的確なパンチを採るか。
中盤を過ぎても勝負はわからなかった。
エディは大阪西成区天下茶屋の田中外科病院の2階の個室に収容された。
かすかに意識を戻したエディが酸素マスクの下で息をしていた。
腕には点滴がされている。
1階のロビーにはマスコミが待機していた。
テレビには井岡が映っていた。
時々、エディの娘:ダーナは1階にテレビを見におりた。
ダーナが百合子にいった。
「井岡君、あんまりよくないよ。」
百合子は黙ってうなずいた。
7R、8Rは李が獲った。
8R終了後、コーナーに戻った井岡に森岡トレーナーがいった。
「井岡、お前勝ってると思うか。」
井岡は怪訝そうな顔をした。
「お前1ポイント負けてるぞ。」
「負けてます?」
「お前今まで楽させてやったやろ。
楽して銭儲けしたらアカン。」
それを聞いて井岡の顔が変わった。
9R、井岡の動きが変わった。
出たり入ったりの変化が出てきた。
(エディさんのいうとおりの動きを始めよった。)
津田会長はニヤリとした。
9R、10R、11R、井岡は連続してラウンドを獲った。
最終の12Rが始まるとき、津田会長は井岡の2ポイントリードと読んでいた。
しかし実際のジャッジペーパーでは3者3様のイーブンだった。
「あと30秒をハッキリいって!」
井岡がリング下の若いセコンドに念を押した。
途端に津田会長が怒鳴った。
「もうそんなもん関係ない。
このラウンドは全部打っていけ。
全部打つんだ。
お前、このラウンドは絶対にとらなアカンぞ。
全部打て。」
「はい!」
井岡はうなずいて出て行った。
李もノックアウトで決着をつける気持ちで前に出ていった。
12R、2人は旺盛なスタミナでラッシュした。
井岡の左右のフックに李はそっくり同じ左右フックで打ち返した。
「井岡、手ぇ出して。」
津田会長が叫んだ。
その瞬間、井岡中で何かが閃いた。
エディのいう、神様が入った。
井岡は左右フック、右ストレート、左フックを強打した。
これがまともに李を打ち抜いた。
李の急に目が死んだ。
井岡はさらに立て続けにパンチを放ち、李はフラフラと後ろ向きにロープに逃れた。
井岡は追って右フックを叩きつけた。
李はブッ倒れた。
レフリーが井岡を背後から抱き止めてニュートラルコーナーへ行くよう指示した。
李はエイトカンントで立った。
井岡は襲い掛かる。
左右フック6発から右ストレートをフォローした。
無抵抗の李はレフリーの胸に倒れこんでうなだれた。
レフリーは李を守るように抱き止めて右手を振った。
土壇場でいきなりクライマックスがやってきてドラマが終わった。
12R1分36秒だった。
満場はどよめいた。
病院では、再度、ダーナは階下のテレビを見におりようとすると、何やら騒がしい。
テレビの中で井岡のTKO勝ちを大写ししていた。
ダーナは2階へ駆け上がった。
「ダディ、あなたのボーイが勝ったよ!」
百合子は娘が叫んだことを、もう1度エディに伝えた。
するとエディの表情が変わった。
なんということだろう。
エディが意識が蘇り、満面に笑みが広がり、右手がゆっくり上がりVサインをした。

大阪女子国際マラソンによる渋滞を考え、井岡は電車で天下茶屋駅まで戻り、ジムで着替え歩いて病院へ行った。
18時、井岡が病室に入るとエディは戦っていた。
骨に皮をかぶせた程度に痩せたエディが息をしている。
井岡はベッドサイドに座った。
「エディさん、ボク勝ちました。
ノックアウトです。
エディさんのおかげで勝てました。」
エディはわずかに目を開いてうなずいた。
井岡が枝のようになった手をとると冷たい手が握り返してきた。
酸素マスクの下で何かしきりに話し始めたが聞き取ることができない。
井岡は15分ほどでマンションへ戻った。
20時30分、赤井英和がエディの病室へ駆け込んだ。
赤井はしっかりとエディの手を握った。
「前に僕が病院に入ったときはエディさんに随分励ましてもらいました。
今度はエディさんが頑張る番ですよ。」
エディはうなずいた。
赤井は泣きながら看病している百合子やダーナたちにジュース類を差し入れた。
「何かありましたら電話してください。
明日の朝の食事は女房につくらせます。
女房は弁当を作るのが大好きですから。」
津田会長も駆けつけた。
エディは津田会長に小さな声で語り続けた。
しかし酸素マスクの下の声はついに届かなかった。
末期癌は激痛を伴うといわれるが、エディは最後まで苦痛を訴えなかった。
すでに体重は30kgを割るほど痩せていたが、もの凄い気迫で生き続けていた。
「信じられない。
奇跡です。」
田中院長はいった。
2月1日1時、エドワード・タウンゼント・ジュニアは死んだ。
73歳だった。
15時、遺体は病院からグリーンツダジムへ運ばれ、19時20分、東京都中野区本町4丁目鍋屋横丁の自宅へ戻った。
1月19日に大阪へ発ってから13日ぶりの帰宅だった。
1階の座敷には祭壇が設えられ棺が安置された。
かつてのチャンピオンらがそのそばでごろ寝して夜を明かした。
2月2日、新宿の教会で通夜が行われた。
エディは毎週日曜、ミサに出席し礼拝を欠かさなかった。
2月3日、告別式が行われた。
「エディさんはいつもこの教会のその場所で熱心に祈っていました。
とても真面目なクリスチャンでした。
エディさんは朝、味噌汁を飲みます。
それから町に出てコーヒーを飲みます。
それがエディさんの楽しみでした。
ある日、エディさんは私にいいました。
ボクはおかしな男です。
こうして神に祈り人の愛を慈しむくせに、ボクシングでは『殺せ』いうんですから。
とても矛盾してます。
そういっておかしそうに笑っていました。」
(神父)
エディが亡くなって33日。
百合子は分骨した遺骨を持ってハワイに飛んだ。
チャーターした小型汽船で沖に出てエディの遺骨を海中に葬った。
ボクシングが好きで好きな人だった。
「また生まれ変わったらトレーナーやりたいね。
その次生まれてもトレーナー。
また生まれてたらもっともっとテクニック授けて神様!いうねぇ。」

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