伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」

伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」

力道山に見出され来日。 その大きすぎるボクシング愛で、ハンマーパンチ 藤猛、悲運の天才 田辺清、カミソリパンチ 海老原弘幸、天才パンチャー 柴田国明、和製クレイ カシアス内藤、伝説の男 ガッツ石松、エディの秘蔵っ子 村田英次郎、浪速のロッキー 赤井英和、ハンサムボーイ 友利正、天才少年 井岡弘樹など数々のボクサーを育てた伝説のボクシングトレーナー。 毎年、プロアマを問わず、活躍した、また縁の下の力持ちとして貢献したボクシングトレーナーに対して、「エディ・タウンゼント賞」が送られている。


Edward Toensend Say

「これだけよ。
ほんとうにこれだけの差よ。」

「ボク、手を離さない。
ガンバッテ。
ガンバッテが通じるの。
それはLoveよ。
Sexual Loveでないよ。
Heart Loveよ。
手をこうやって、握手していうの。
通るの、届くの。」

「問題は考え。
いい考えだけ考えるの。
悪い考えみんな捨てるの。
「よしやります」
チェンピオンになれます。」

「ガッツよ、ガッツ。
どんなに疲れていてもガッツポーズ。
問題は格好。
こうなったら(疲れた格好)ダメ。
どんなに疲れていてもガッツポーズ。
大事なのはガッツ。
でも間違ったガッツはいらない。
自信と度胸は違うでしょう。
ちょっと違うの。」

ボクシングにとりつかれたBad Boy

1914年10月4日、エドワード・タウンゼント・ジュニアは、ハワイのオワフ島ホノルル市に生まれた。
父は、弁護士。
母は山口県から移住してきた日系女性だったが、3歳のときに亡くなったため、エディは実母の顔をほとんど知らない。
実母は後妻でエディには2人の異母兄弟いた。
父は実母の妹を3人目の妻にした。
エディは、この継母に馴染めなかった。
そして幼稚園では、「混血」といじめられた。
エディは、自ら
「喧嘩坊主だった。」
というように手のつけられないストリートファイターに育っていった。
明けても暮れても、喧嘩、喧嘩。
母には反抗し、父のいうことも聞かなかった。

エディは14歳でボクシングを習い始め、とりつかれた。
家のマンゴーの木にサンドバッグを吊るし夢中で叩いた。
高校になると「ジャパニーズアメリカンクラブ」というボクシングジムにスカウトされた。
このジムのマネジャーは、サム一ノ瀬。
世界フライ級チャンピオン:ダド・マリノを連れて来日し、白井義男にチャンスを与えた日系2世だった。
(そして白井義男は日本人初の世界チャンピオンとなった。)
エディをコーチをしたのは、フィリピン人トレーナー:ヤング・ギルド。
ギルドは、ピストン堀口と2度対戦し2度引き分けた。
この試合をエディはみていた。
「ピストンはすっごく下手糞よ。
下手っぴいだった。
ギルドはうまかったの。
それでもギルドは勝てない。
ピストン、とてもタフだったから。
後半にウワーンウワーンいって、ギルドは疲れてノーチャンスよ。」
高校を卒業したエディは、大学には行かず、アマチュア選手として活躍した。
それは恐ろしく攻撃的なボクシングだった。
胸にうごめく感情を叩きつけるようなボクシングだった。
そして17歳で全ハワイフェザー級チャンピオンとなった。

エディがハワイ代表として出場した1934年のAAU(全米アマチュア選手権大会)の試合会場には、リングが3つあった。
混同しないように、それぞれブザー、ホイッスル、ゴングが使われていた。
エディと同じリングに、ライトヘビー級にエントリーしていたジョー・ルイスがいた。
ジョー・ルイスとエディと同じ年齢だった。
ジョー・ルイスは楽々と優勝したが、エディはどうしてもAAUで優勝できなかった。
そしてジョー・ルイスは、後に世界ヘビー級チャンピオンとなり、25度も防衛し、「褐色の爆撃機」と呼ばれる伝説的なボクサーとなる。
1936年、ジョー・ルイスが、プロに転向して、ジム・ブラドッグに勝って世界チャンピオンになった年、エディはAAUに出場した。
この大会で決勝まで残ればベルリンオリンピックのアメリカ代表になれる。
しかし勝てなかった。
エディは、この大会を最後に、プロへ転向した。
アマ戦績は、147戦134勝13敗だった。
プロボクサーになったエディは、デビュー後、13戦全勝。
無敗の火の玉ボーイだった。

1941年12月6日、フェザー級ボクサー:エドワード・タウンセントは、プロ14戦目で初めて負けた。
悔し紛れに、遅くまでポーカーをして、朝方、ホテルに帰った。
翌12月7日、よく晴れた日曜日、サイレンが鳴った。
パールハーバーで、戦艦アリゾナが炎上し、日の丸をつけた爆撃機が飛んでいた。
太平洋戦争が勃発した。
そしてエディのボクシングキャリアが終わった。
27歳だった。
戦争が始まるとボクサーも次々と徴兵された。
ボクシングが死ぬほど好きなエディは、軍需景気で儲けていたコカコーラボトラーズに出資してもらって、倉庫を借りて、無料の練習場「コカコーラボクシングジム」を開き、トレーナーとなった。
コカコーラボクシングジムには、毎日幼稚園を終えてからやってくる子供がいた。
ボクサー:タケオ・フジイの息子だった。
この子供は、後に世界スーパーライト級チャンピオン:「ハンマーパンチ」藤猛となる。

百合子タウンゼント

1953年8月、日本では岡晴夫の歌う「憧れのハワイ航路」がヒットした。
ハワイは日本人にとってあこがれの楽園だった。
そのハワイのクラブのショーに、森百合子はダンサーとして出演していた。
森百合子の両親は、東京中野区の鍋屋横丁に住む夫婦漫才師、2人の姉は、姉妹漫才師、もう1人の姉は、落語家に嫁ぎ、妹のサカエは、ジャズシンガーというエンターテイナー一家だった。
ハワイでの森百合子たちのショーは大人気で、彼女たちはちょっとしたスターだった。
エディは、百合子が踊っていたクラブによく遊びにいった。
そしてよく百合子に酒をおごった。
森百合子にとってエディは、19歳年上の優しいオジサンだった。
エディは1度結婚し、2人の息子ができたが、百合子と知り合ったころは離婚して1人暮らしだった。
ビール会社で働きながら、ボクシングのトレーナーもしていた。
やがて2人は結婚した。
エディは44歳、百合子は25歳だった。

百合子タウンゼント

力道山

百合子が踊っていたクラブには、相撲を廃業してプロレスラーになった力道山も通っていた。
力道山は、本名を金信格(キム・シンキョ)といい、朝鮮の咸鏡南道で出生し、来日後、大相撲の二所ノ関部屋に入門。
1945年、敗戦の年に十両に昇進。
1950年、5月場所で、関脇で勝ち越し「大関か?」ともいわれたが、番付編成会議の結果、見送られた。
その数か月後、力道山は、親方にも誰にも相談せず、深夜1人で髷を切り落とした。
出世を含めてさまざまな理不尽、差別、親方との軋轢など、その理由が推測されたが、力道山がそれを明かすことはなかった。

敗戦後、日本は驚異の復興をみせていた。
しかしまだまだ外国に対して強いコンプレックスがあった。
だから力道山が外国人レスラーに空手チョップで叩き込む姿に日本人は興奮した。
こうして力道山はスターとなった。
百合子と結婚して5年経った頃、エディはその力道山から呼び出された。
「何ですか?」
「ワシはボクシングの世界に入りたいと思っている。
今の日本にヘビー、ミドルのいい選手がいない。
そいつをワシは育てたいのだ。
ワシはトウキョウのシブヤというところにスポーツパレスをつくった。
そこにボクシングジムをつくるから来てくれるね?」
エディは考えさせてくれと頼んだが、力道山は強引だった。
「リキ、OKだ。
来月行くよ。
ただし1年契約ね。」
「来月?
No、ダメよ。
今選手がトレーニングしてるの。
教える人がいない。
来週すぐ来るの。
OK?」
こうしてエディは1人で飛行機に乗り、日本に着くと力道山と秘書の吉村義雄に迎えられた。
そして中野区本町4-31-1の鍋屋横丁の百合子のの実家に落ち着いた。
(現在、この地は、百合子夫人が経営するスナック「ドンピン」となっている。)

東京都渋谷区大和町76
現:ヒューマックス渋谷ビル

リキスポーツパレス

間も無く百合子が帰国。
エディを百合子に連れられてリキスポーツパレスを訪れた。
リキスポーツパレスは、東京都渋谷区大和町76(現:道玄坂)にあった。
このビルは、約15 億円(現在の貨幣価値に換算すると約55億)をかけて建てられた。
1階が、ボウリング場とスナックバー。
2階は、スチームバス、レストラン、喫茶店、ボクシングとレスリングのトレーニングジム。
3階は、リングが常設された円形会場、プロレスのオフィス。
4階には、社長室とボディービルジム。
6階と7階は、女性向けのチャーム・スクール(花嫁学校)。
8階は、女性向けのボディービル・ジム。
屋上には、王冠のモニュメントが輝いていた。
しかし力道山の進出に対してボクシング界は否定的だった。
真剣勝負であり、クリーンなファイティングスポーツであるボクシングのイメージダウン。
そして興行的な懸念があった。
全日本ボクシング協会会長:本田明は、ボクシングに理解がある住吉連合の阿部重作会長を仲介人にして、力道山と手打ちを行った。
本田会長は本田天皇と呼ばれるほどのボクシング界の実力者で、阿部重作は東日本を取り仕切る大親分だった。
力道山は、あまり表に出ず、オーナーとして裏方に徹し、リキジムの代表には、伊集院浩が就いた。
伊集院は、毎日新聞運動部のベテラン記者で、明治大学ではラグビーと相撲のトップ選手だった。
剛直な性格と侍のような精神の持ち主で、力道山の招聘を受け、新聞社を繰り上げ定年した。
加えて、日刊スポーツの鈴木庄一、スポーツニッポンの後藤秀夫が在社のまま非公式なブレーンとなった。

リキスポーツパレスの2階のトレーニング場は、昼間はプロレスラーが使い、17時からはボクサーが使った。
リキスポーツパレスは、ボーリング場、ビリヤード、スナックバー、レストラン、喫茶店、サウナなど、まだ日本では珍しいものが多かったが、リキジムのスタッフもインターナショナルだった。
マッチメーカーはロスから邦字紙「加州毎日」の記者のジョージ吉永。
ときどきハワイからサム一ノ瀬やテッド河村がやってきて臨時トレーナー。
世界ヘビー級チャンピオン:ジョージ・フォアマンを育てたディック・サドラーが来たこともあった。
初めてリキジムに入ったエディは、ゴツい竹刀が何本もあるのに気づいた。
「この竹刀片付けてよ。
リングの上で叩かれて、ジムに帰って来てまた叩かれるの?
ボク、ハートで教えるの。
ラヴよ。
わかる?」
リキスポーツパレスでは、隔週土曜日ごとに、「ビッグファイト」と銘打ってボクシングの試合が行われた。
外人選手と日本選手が戦うスリリングなカードが人気だった。
しかし日本には強い重量級の選手がいなかった。
ジョージ吉永がいった。
「横浜に海兵隊上がりの強い奴がいると聞いたが、名前も住所もわからないんだ。」
元海兵隊の日系三世でハワイ出身、喧嘩っ早くて、背は大きくないが腕力は抜群だという。
力道山は命令した。
「その男をすぐ見つけて連れて来い。」

1963年2月20日、リキジム代表の伊集院浩が日本刀で割腹自殺した。
古式にのっとた見事な切腹だった。
リキジム代表は力道山の秘書だった吉村義雄が引き継いだ。
吉村はスタッフに命じた。
「勝率を上げてください。」
リキジム所属選手の勝率が上昇カーブを描き出した。
「エディさんはディフェンスをあまり教えない。
まず攻撃から教える。
ちょっと腰を落として1発1発に腰を入れて打つ。
パンパンパンといいながらね。
とにかく攻撃主体のボクシングだった。」
「エディが教えるのは反則ばかり。
サミング(親指で相手の目を突く)、キドニーパンチ(背後から打つ)、ローブロー(ベルトラインより下を打つ)、肩で相手のアゴを跳ね上げるとかね。」
エディのボクシングスタイルについての証言である。
骨の髄までプロフェッショナルボクシングファイターだったエディにとって、ボクシングは勝たねばならぬ点で徹底していた。
その口癖は
「ボクシングは戦争よ。
リングに上がったら相手を殺すの。」
だった。
しかし次の言葉も忘れてはいなかった。
「試合が終わったら友達になりなさい。」

伊集院浩が日本刀で割腹自殺してから約10ヵ月後の1963年12月8日、力道山はラジオ番組の収録後、赤坂のナイトクラブに向かった。
力道山は酒癖が悪く、気分がよければドアボーイに1万円札を与えたりしたが、些細なことからテーブルをひっくり返したり、ケンカをした。
この日も、アメリカからやってきた黒人のバンドに向かって
「Negro Go Home.」
「SonOf A Bitch.」
と大声で怒鳴った。
そしてトイレの前で女性と話していると、住吉連合系暴力団の大日本興業構成員:村田勝志が、その横を通った。
力道山は後ろから村田の襟首をつかんだ。
「足を踏んだぞ。」
「踏んだ覚えはない。」
2人は口論となった。
力道山は村田の顎を拳で突き飛ばした。
村田は吹き飛んで壁に激突した。
力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打した。
村田はナイフを抜いて下から力道山の左下腹部を刺した。
錆びた登山ナイフの刃が根元まで刺さった。
力道山は脇腹を押さえながら席に戻り、周囲の心配をよそに平然と酒を飲んだ。
しかし次第に出血がひどくなり車で赤坂山王病院に運ばれた。
山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山と親しい医者のいたため、ここに運ばれた。
診察の結果、緊急手術が必要と判断されたが、執刀できる医者がいなかった。
一方、村田勝志は深夜に、力道山が顧問を務めていた町井久之率いる東声会からの報復を受け重傷を負い入院した。
刺された翌日(12月9日)深夜、聖路加病院の外科医長が山王病院に呼ばれ、力道山の手術が行われた。
手術は無事成功し命に別条は無いものと思われた。
12月15日、回診で腹膜炎により腸閉塞を起こしているのが発見され、再び聖路加病院の外科医長により再手術が行われた。
これも成功したと報告されるが、約6時間後の21時頃から力道山は危篤状態に陥り、22時35分に死亡した。
力道山は、呻くように指を3本出しこと切れてしまったという。
最後の言葉は
「俺は死にたくない」
だった。
この3本の指で何を伝えたかったのかは、今も謎のままである。
エディの心の中には力道山の言葉が残った。
「エディさん、日本チャンピオンをつくったら車をプレゼントするよ。
世界チャンピオンをつくったら家を一軒勝ってやる。
これエディとオレとの約束よ。」
「エディさん、心配ないよ。
契約は1年じゃない。
ずうっとワシはいつまでもあんたを離さないよ。」

1993年、力道山の刺殺事件から30年後、岐阜大学医学部教授:土肥修司の著書『麻酔と蘇生』(中央公論社)が出版された。
この中に力道山の死因について書かれてあった。
『力道山の死は出血でもショックでも何でもなく、単に運び込まれた病院で麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことであった。
・・・・・・
問題は、筋弛緩薬を使用したため、外科医が気管内挿管の失敗を繰り返していた間、呼吸ができなかった(人工呼吸をしなかった)ことによる無酸素状態が死亡の原因であった。』
筋弛緩薬とは、人工呼吸のためのチューブを体内に入れる(気管内挿管)時、その作業をやりやすくするために体の筋肉を柔らかくする麻酔薬の一種。
全身麻酔を必要とする手術の場合、筋弛緩薬を投与し、筋肉が緩んだ直後にチューブを体内に入れ人工呼吸を行うのが一般的なやり方だという。
土肥教授によれば、力道山は筋弛緩薬によって筋肉が緩んだが、太い首が災いし、気道が広がらずチューブの挿入に失敗したという。
土肥教授は留学先のアメリカで、力道山の手術について知る当時の医学生から事情を聞き、後に専門医として調査した結果を発表した。
力道山の死に、加害者側である住吉連合に対し、被害者側のバック、東声会から大規模な報復があるのではと危惧されたが、村田の所属する住吉連合系のトップと力道山に近い東声会の兄貴分、山口組の田岡一雄との間の話し合いが行われ事なきを得た。
力道山を刺した村田勝志は、力道山の死を、報復を受けて入院した病院のベッドで聞いた。
そして裁判では1審で12年、2審で8年、最高裁で懲役7年の刑が下され、キッチリ7年間、刑に服した。
そして出所後、村田組の組長として都内に事務所を構えた。
力道山の命日の翌日になると、人目を避けて、力道山の眠る大田区の寺に参っていたという。
2002年、力道山の孫娘:パク・ヘジョンは、北朝鮮の女子重量挙げの監督として釜山アジア大会に参加した。
へジョンは力道山の長女:金英淑と北朝鮮選手団を引率しているパク・ミョンチョル北朝鮮体育指導委員長の4女で、高校では体操選手、その後重量挙げ指導者になった。
一方、村田勝志の愛娘:篠原光は、格闘家として活躍した。

ハンマーパンチ 藤猛

リキジムのスタッフは横浜の謎の噂の男を見つけ出せずにいた。
その男、ポール・フジイは横浜の外人バーで飲んでいた。
テレビの画面では、高橋美徳が世界ジュニアウェルター級チャンピオン:エディ・パーキンスに挑み、13RKOで敗れた。
ポールはいつかのテレビで、エディがセコンドをしているのをみた。
ポールはエディにマネージャーになってもらおうと思った。
しかし所在がわからないので、とりあえず日本ボクシングコミッションの事務所に行った。
そしてたどたどしい日本語で訴えた。
「ワタシ、ハワイのポールです。
メニーというハワイのトレーナー捜しています。」
対応したスタッフはリキジムに電話した。
エディはポールと話しをして、この男こそ長い間、捜していた男であること知った。
「ちょっとそこを動くんじゃない。
今迎えに行くから待ってて。」
そしてタクシーで急行した。
エディがみたその男は、オーバーにハンチング、髭面、ふてぶてしい風貌と鋭い眼光で、そしてはちきれんばかりの肥満体だった。
エディは内心ガッカリした
「Mr.タウンゼント。
覚えているかい?
タケオ・フジイの息子よ。
ポールよ。
ボク、ボクシングやりたいの。
それでエディさん、探したの。」
「年いくつ?
30か?」
「おおノーノー。
23歳よ。」
「アマチュアのキャリアはあるの?」
「もちろん。
ボク、ハワイのウェルターのチャンピオンよ。」
「今のウエイトは?」
「多分185ポンドくらいかな。」
「ブタだね。
ウエイト落とすの辛いよ
できる?」
「大丈夫よ。
やれるよ。」
エディはポールをリキスポーツパレスに連れて帰った。
ジムでは幻の男の到着を待っていたが、現れた男をみてみんなビックリした。
何たるデブか。
しかしポールがサンドバッグを打つともう1度ビックリした。
モノ凄いパワーだった。
ポールは軽く動いただけで滝のような汗をかいた。
「ポール、ウェルターまで落とすんだ。
35ポンド。
わかるね?
毎日少しずつね。
朝と晩に走るの。
ウエイトが落ちたら来なさい。」
「OK」
ポールは機嫌よく帰っていった。

ポールは中学校入学と同時にボクシング部に入り、すぐに頭角を現した.。
15歳でハワイジュニアクラス・フェザー級チャンピオン、17歳でハワイウェルター級チャンピオンとなった。
父母が本土のネバダ州ラスベガスに移住し、ポールは祖母とハワイで暮らした。
高校3年のときにゴールデングローブ大会のライト級で優勝。
卒業後、アメリカ海兵隊に志願。
全アメリカ兵隊選手権と全海兵隊のチャンピオンとなった。
神奈川県厚木市の米軍基地に入った2年後、MP軍曹として現地除隊した。
そして横浜市のアパートに移り、外人相手の不動産の斡旋・仲介をした。
それは酒と女とケンカの日々だった。
しかしボクシングが、この泥沼から救い上げてくれるかもしれない。
横浜のアパートに帰ったポールは、いわれたように朝晩のロードワークを始めた。
数日してリキジムに行った。
「5kg落としたよ」
「よく落としたね。
もっと落としなさい。
そしたらまた来なさい。」
しばらくしてまたきた。
さらに痩せている。
しっかり走っている証拠だった。
エディは初めてスパーリングをさせた。
ポールはパートナーを打ちまくった。
デブの髭おじさんと思っていた練習生は仰天した。
ポールはアマチュア時代、むしろテクニシャンだった。
技術的な基礎はしっかりできていた。
「海兵隊のとき有名な選手とやったことある?」
「No、大したことないね。」
「プロは強いよ。
もっと手を出さなきゃ。
小さい鉄砲撃つのはダメ。
マシンガン使うの。
ウワーンウワーン、パンパンパン、もっと手を出すの。
ジムに来れないときは走るの。
OK?」
ポールは素直にうなずいた 。

藤猛 (Paul Fujii)

通常、ボクシングのプロテストはC級ライセンスから受けるが、ポールはアマで100戦以上の実績があるため、いきなりB級を受けパスし、デビューも4回戦を飛ばし6回戦からスタートした。
リングネームは「藤猛」となった。
デビュー戦の相手は、日本ミドル級5位の後藤実。
いきなり日本ランカーだった。
ゴングが鳴った。
飛び出した藤は唸るようなもの凄いフックを放った。
キャリアで勝る後藤は、藤の勢いをうまく凌いだ。
藤の大きなミスブローに、場内に笑いさえ起きた。
1分間のインタバールでエディは藤猛の耳に囁いた。
「ポール、今は殺し屋になるんだ。
ダニを踏み潰すあの気持ちだよ。」
2R、藤は標的を捕え、強烈な左右のフックを叩き込んだ。
後藤の動きが止まり、ゆっくり倒れていった。
2分9秒ノックアウトだった。
「ポールもっと減量しよう。
キミの体ならJウェルターまで落としたほうがいい。
140ポンドがリミットだよ。
やれるか?」
「やれるさ。
ウエイト落としてどんどん稼ぐよ。」
2戦目は、吉田邦夫に判定勝ち。
その後は松永彰夫、三上富士男、吉村則保を連続ノックアウトした。
吉村則保はガードの上からパンチを叩きつけて倒した。
5連勝した後、国内で対戦者がいなくなり、エディとともにホノルルに外旋し、外国人相手に5連勝した。
いつしか「ハンマーパンチ」と呼ばれ、日本Jウェルター級4位にランクされた。
「エディさんは人の心をつかむのがうまい。
ボクサーの特長をつかみ、それを引き出す。
彼はあの通り日本語がうまくないが、それがかえって迫力になっているんですね。
注射するように選手に魂を突っ込む。
お前は強いんだぞってね。
選手は暗示にかかってどんどん勝ち進んでいく。」
(吉村義雄(リキジム会長))

1965年6月17日、日本Jウェルター級王者:岡野耕司が、ライト級で世界を狙うためにタイトルを返上、その空位を、笹崎那雄と藤猛が争うことになった。
藤にとって初めてのテレビ放映だったが、ゴングが鳴ると、アッという間に右フックを叩き込んだ。
パンチの自信がある笹崎も迎え撃ったが、藤が打ち勝った。
笹崎はリングに崩れ落ち、必死に立ち上がろうとしたが、左腕をロープにかけたまま膝が麻痺して立てなかった。
わずか45秒でKO劇。
しかも勝った藤猛はいきなり泣き出した。
すべてが電撃的な試合だった。

東洋ジュニアウェルター級タイトルマッチでロッキー・アラーデ(フィリピン)をKOし、新チャンピオンになった藤猛

藤猛(3) 世界王座に就いた試合直後のテレ…:「ボクサーを語ろう」 写真特集:時事ドットコム

1966年9月29日、藤猛は東洋太平洋タイトルへ挑戦した。
王者はロッキー・アラーデ。
藤はデンプシーロールという独特のインファイトスタイルを完成していた。
デンプシーロールは、最強の世界ヘビー級チャンピオン:ジャック・デンプシーのスタイルで、接近戦で頭を8の字を横に倒した軌道に振りながらローリングし、シャベルで土を掬うような左フック、その反動で右フックと間髪入れずパンチを叩きつけ続けるもの。
3R、藤はローリングしてからいきなりフックを叩きつけ、ロッキーは失神した。
藤は喜びを爆発させリングで大きくジャンプした。
世界タイトルへの挑戦もみえてきた。
練習嫌いの藤が目の色を変えて練習に打ち込んだ。
毎朝、青山墓地のアップダウンの激しいコースをを15週走った。
黙々と走り込むことでパンチが鋭くなっていった。

1967年4月19日、藤猛の対戦相手、世界チャンピオン:サンドロ・ロポポロ が羽田に到着した。
マスコミは藤の敗北を予想した。
藤はこれまで世界レベルの選手との対戦がない上に、ロポポはローマオリンピックの銀メダリストで、そのテクニックは数段上に思われた。
ロポポのボクシングは速くて巧く、パンチも強かった。
それに比べ藤は、動きが遅く、パンチは大振りでスピードもなかった。
試合前日、藤猛はスタッフに聞いた。
「ボク、勝ったらどういえばいい?」
「思いきりバンザイだね。」
「うん、それもうやったよ。
他に何かない?」
「あるよ。
勝っても油断しないために、勝って兜の緒を締めよという言葉がある。」
藤は一生懸命口の中で繰り返した。
「それから日本人はお年寄りを大切にするから、岡山のおばあちゃんに呼びかけたらいいな。」
「OK、やってみるよ。」
藤の祖母は、ハワイから来日したが、体調を崩して、岡山の実家にいた。
試合当日、ジャズが流れる控室で、長いモミアゲに無精髭、和服姿の藤猛はガムを嚊んでいた。
そして1万人の観衆の見守るリングに上がると、赤コーナーでロポポは笑顔を浮かべ挑戦者をみていた。
1R、ゴングが鳴ると藤猛は左右のフックを振り回した。
ロポポは爪先立ちの鮮やかなフットワークで回って、左ジャブで挑戦者の髭面を突き刺した。
藤の渾身の左フックはブロックし、右のボディも空転させた。
「1発も当たらない。」
観客からため息が漏れた。
藤の大きな右のロングフックをロポポはスェーで流し、体がねじれた藤に左ジャブ。
藤は歯を剥き出しにして怒った。
ここでゴングが鳴った。
ロポポはニヤリと笑みを浮かべ、藤は首を振り、肩を怒らせコーナーへ戻った。
テクニックの差は歴然だった。
2R、藤は強引に前に出た。
ロポポはロープに詰まってクリンチ。
藤の左ロングフックはミス。
ロポポは左フックを放つが、藤の返しの右フックがロポポの顔面を右クロスカウンターで打ち抜いた。
ロポポは半回転してダウンした。
藤はニュートラルコーナーに押しやられ歯を剥いている。
カウント5でロポポは立った。
襲いかかる藤のボディがロポポにめり込み、再びダウン。
ニュートラルコーナーで藤は足踏み。
ロポポがまた立った。
藤は狂ったように左右のフックを叩き込んだ。
ロポポはロープを背負い滅多打ちにされた。
ロポポのセコンドがタオルを掴んだままリングに上がり、パンチを浴び続けるロポポの背中にしがみつき右手を振った。
試合放棄のゼスチャーだった。
しかし藤はパンチをやめない。
レフリーが藤を背後からロックして引き剥がし試合をストップした。
2R2分33秒、藤猛のKO勝ち。
エディは藤に駆け寄り、藤はエディに抱きついた。
エディはよろけてキャンバスに崩れ落ちた。
「これがヤマトダマシイよ。
カッテモカブッテモオオシメヨ。
・・・・・
カッテモカブッテモヨ。
岡山のおばあちゃん、みてる?
ボク勝ったよ。
ボク世界チャンピオンになったよ。」

田辺清 21戦無敗、世界1位、世界戦直前に引退

日本フライ級チャンピオン:田辺清がジムで練習をしていると、エディがやってきた。
エディと会うのは初めてだった。
「タナベ、キミの背中にゴミがついているね。」
田辺は自分の背中をみようとした。
エディはニヤニヤしている。
田辺はエディが自分のトレーナーになってくれるということに気づいた。
「よろしくお願いします。」
エディは両手を前に出した。
「OK、タナベ、右ストレート打って。」
田辺はいわれたとおりに右ストレートをエディの左手に打った。
「パンッ!」
エディは首を横に振った。
「今直さない。
後でね。
左アッパー打って。」
「パン!」
「Good」
とエディは背中を向けて体ごと大きく1回転していった。

田辺清は、高2でボクシングを始め、高3で全国高校フライ級王者となり、大学1年生でインカレ優勝、2年生で社会人選手権も制し、3年生でローマオリンピックに出場し銅メダルを獲った。
日本ボクシング最初のメダリストだった。
その後、「腹いっぱい食べたい。」と、プロのボクサーにはならずスポーツ新聞社に入社。
しかしリングサイドで取材をしているとイライラした。
ヘタ過ぎるのだ。
結局、就職後、半年も経たずにプロ入りを決意した。
ブランクとなった約1年間は酒を飲み、タバコも吸った。
田辺清は12kg減量し、田辺ジムに入った。
トレーナーはボビー・リチャーズだった。
リチャーズは、ジムの2階の合宿所で、選手らと一緒に住み、綿密なスケジュールを組んでトレーニングを消化していった。
合理主義者で、野菜主体の食事を奨励し、 オーバーワークを嫌い、1日のトレーニング時間は約40分だった。
ボクシングも、ディフェンス重視で、相手に絶対に打たせないスタイルだった。
田辺清は、デビュー後、1年で8試合全勝。
14戦目で、日本タイトル初挑戦し、日本フライ級チャンピオンとなった。
プロデビュー後、たった1年10ヵ月だった。
無敗のまま日本フライ級王座を2度防衛し、世界ランキングも2位となったとき、リチャーズが韓国のジムへ移籍した。
このとき田辺清は世界チャンピオン:オラシオ・アカバロとの対戦が決まっていた。
この試合はノンタイトル戦だが、勝てば正規のタイトルマッチとして挑戦するチャンスがもらえることになっていた。
このためにエディが呼ばれた。
アカバロ戦まで25日間だった。
「構えて!」
田辺はリチャーズの教えの通り ガードを高く、耳の辺りまで上げた。
エディは自分の両手を胸の辺りまで下げてみせた。
「チェンジしよう。
ディフェンス3、オフェンス7にする。
ガード下げるの。
ガード下げるのはパンチのパワーを上げるためなの。」
田辺のボクシングは、ファイタータイプだったが、非力だった。
しかしエディの指導で、恐ろしく攻撃的なボクシングに変貌していった。
元来スピードと連打と闘争心は恵まれていた。
それに力強さが加わった。

世界フライ級チャンピオン:オラシオ・アカバロ

「ワンポイント!
アカバロは時々サウスポーにスイッチする。
サウスポーになるとすぐに左ストレート打つ。
これ大変よ。
でも大丈夫。
いいアイデアがあります。
アカバロ、オーソドックスのときは、アカバロの左フックをガードするために右を少し上げて顎の横につける。
サウスポーになったら右ガードを顎の下に移すの。
そうすると左ストレートは大丈夫。
やってみよう。
右!」
田辺はサッとガードを顎の横に置いた。
「左!」
田辺は右拳を顎の下に移動させた。
「右」
「左」
エディが叫ぶたびに田辺は右拳を移動させた。

1966年2月20日、世界フライ級チャンピオン:オラシオ・アカバロと世界フライ級2位、挑戦者:田辺清のノンタイトル戦が後楽園ホールで行われた。
ノンタイトル戦とはいえ、勝てば正式にタイトル戦を行うという契約になっていた。
1R、ゴングと共に田辺は仕掛けた。
アカバロがサウスポーにスイッチしても、右ガードを移動させて完璧にガードした。
3R、田辺は強烈な左フックでアカバロはよろめかせ、右フックでアカバロをダウンさせた。
4R、田辺の右ストレートでアカバロ、2度目のダウン。
終盤にはバッティングでアカバロの額が割れ出血した。
6R、両者、低い姿勢で、再度バッティング。
アカバロは血まみれになり、ここでドクターストップ。
2分22秒、田辺のTKO勝ちが宣告された。
アカバロは、生涯2度目の敗北と共に8年無敗、47連勝がストップした。
そして田辺は22戦無敗と記録を伸ばした。
試合翌日、チャンピオンサイドは、再戦交渉を一方的にキャンセル。
数日後、「5月・東京」という再選契約を反故し、「7月・(アカバロのホームである)ブエノスアイレス」と主張した。
田辺サイドはこれを飲まざる得ず、7月にアルゼンチンのブエノスアイレス・ルナパークで対決と決まった。

田辺清は、7月に世界挑戦に向け行ったトレーニングキャンプを終え、ホテルのロビーでぼんやりと金魚をみていた。
すると突然、右目でなにか黒いものが舞った。
次の瞬間、右目の3/4がシャッターを降ろしたように暗くなった。
エディがロビーに降りてきた。
「エディさん。
あの金魚は黒いんですか。」
「赤い金魚よ。
何いうの。」
田辺は打ち明けられないまま、新幹線に乗り、自宅へ戻った。
この日は土曜日で病院は休み。
2晩、眠れないまま、月曜の朝、タクシーに飛び乗り、病院に行った。
診察と検査を受けたが医者は何もいわなかった。
受付で待っているとき、カルテを整理している看護婦に聞いた。
「僕の病名は何ですか?」
「あら、網膜剥離よ。」
田辺ジムから連絡を受け、エディはスっ飛んでいった。
そして黙って田辺の説明を聞いて、タバコの箱を握り潰してゴミ箱に叩き込んだ。
田辺は入院し、後日、3時間半に及ぶオペを受けた。
オペ後は絶対安静を申し渡された。
しかし田辺は望みは捨てていなかった。
奇跡を信じ、耐えた。
ベッドの上で動くなといわれたら、ピクリとも体勢を変えなかった。
7月15日のタイトルマッチは延期された。

田辺清 

闘病の努力もむなしく、右目は回復せず、田辺清は日本タイトルを返上し、引退した。
デビューから3年3ヶ月、21戦無敗、世界1位のまま世界戦直前での無念の引退だった。
4年ぶりにタバコを吹かした。
ボクシングの夢は終わった。
退院するとき、右目は1/3しかみえなかったが、2年後、完全に失明した。
しかし挑戦し続けた人生に後悔はなかった。

逮捕?!

藤猛とエディの仲には、亀裂が入っていった。
それは藤が強くなるほど大きくなり、世界タイトルを獲得する頃には回復不能なほどに壊れてしまった。
度々、2人は激しい口論となり、藤は目を剥き、エディも睨みつけて怒った。
対立の原因の1つに、マネジャー料があった。
藤猛は金銭感覚にシビアだった。
写真撮影に対して
「ギャラを出せ。」
といった初の日本人であり
「ボクね、1試合でファイティング原田の4倍は稼いでいたよ。」
というように、ギャラに対してこだわりが強く、常に水準以上のファイトマネーを出さないと、リングに上がらず、試合直前でも、自分の主張を通らず、ジム側が折れないと、控え室を1歩も出なかった。
エディは、藤猛に正当なマネージャー料を要求した。
しかし藤は、エディをマネージャーではなくトレーナーだと認識していて、マネージャーは、リキジムの代表の吉村義雄だと思っていた。
アメリカのボクシングは、選手がマネージャーやトレーナーとそれぞれ個人的に契約し、報酬を払う。
ジムのオーナーは、練習場所を提供し、その使用料金をもらうというシステム。
日本のボクシングは、選手は自動的に所属ジムの傘下に入り、ジムがマネージメントを行うシステムである。
藤は吉村に大声で尋ねた。
「ミスター吉村。
ボクのマネジャーはユーなのか、エディなのか!」
吉村は困った。
日本流にいえば自分で、アメリカ式に考えればエディとなる。
繰り返される口論の末、ついに藤猛とエディのコンビは解消された。

そして1967年6月20日、エディとリキジムの契約が切れた。
その3日後、6月23日、エディは、喫茶店でお茶を飲んでいるところを、ピストル不法所持・火器取締法違反の容疑で警視庁保安課の刑事に逮捕された。
「プロボクシング世界ジュニアウェルター級チャンピオン藤猛の前トレーナー、エドワード・タウンゼント(五二)=東京都中野区本町4-31-2森方=が、国際的運び屋を使って、ピストルをアメリカから密輸入し、日本の暴力団に流していた事件を内偵中の警視庁保安課は、タウンゼントを含む4人をピストル不法所持、火器取締法違反容疑で逮捕。
新品のピストル6丁と実弾8発を押収した。
同課は、このグループは数年前から組織的に密輸を続け、すでに数十丁を暴力団に売っていた疑いが濃いとして、捜査4課の協力でピストルの入手先などを徹底的に追及する。」
(朝日新聞)
逮捕されたのは、エディ・タウンゼント、クラーレンス・リン・ルウ、ジョージ・エキタ、田中勝太郎。
警視庁は早くからピストル売買の情報をキャッチし、21日夜に田中がリン・ルウとエキタが泊まっているホテルからピストルと実弾を運び出すのをつきとめ、芋づる式に4人を逮捕した。
「主人は刺されたのよ。」
百合子夫人はいう。
「あの頃、ハワイのヤクザっぽい友人が2人、うちにやってきてね。
実はピストルを入国したが持って出ることができないので処分してくれっといってきたの。
ああ、捨ててやるよって主人がいって、それをサブトレーナー(田中勝太郎)の子が持って行ったのよ。
主人はみても触ってもいなかった。
あの夜、主人は中野区のポニーという喫茶店にいて捕まったけど、あれは刺されたと思っています。」
エディとエディの見習いをしいた田中に濡れ衣を着せた仕組まれたことだというのだ。
「あの頃はリキジムに主人を排除しようという一派があって色々企みがあったらしいの。
その連中が刺したと思う。」
彼らが警視庁にタレこんでエディの契約が切れた直後に逮捕させたといのである。
確かにエディは2日ずれていたら前トレーナーでなく現トレーナーだった。
エディは拘置所に入れられ起訴された。
東京地裁は、4年の執行猶予がついた懲役2年の有罪判決。
クラーレンス・リン・ルウ、ジョージ・エキタは、ハワイへ強制送還となった。
「あれは警察のおとり捜査でひっかかった気の毒なケースでした。」
エディの弁護人となった安部弁護士はいう。
「この事件には終始スパイがつきまとっていて、いつもエディさんの家にやってきたり、我々の対策会議に出入りしていた男が実はスパイだったわけです。
完全に仕組まれていました。」
問題はエディさんが濡れ衣かどうかである。
「確かにエディさんは刺されたんですが、やったことは事実です。
私はおとり捜査の無効性で争ったがダメでした。
エディさんはちょこっとしか関係していなかったから、初犯ということで執行猶予がついた。
それにしても気の毒でした。」
エディが拘置されている間、ケンカ別れした藤猛が百合子を訪ね、心から励ました。
後日、証人としてハワイから召喚されたマングスターというギャングが法廷に立った。
彼がピストル売買の主犯であり、彼はその事実を認めた。
この証言で、一時は犯罪組織のボスのように思われていたエディの関与が少しだったことが確認された。
マングスターはエディの幼友達でおとなしい男だったという。
帰国したマングスターは、仲間の秘密を暴いたためにアパートで惨殺された。
マングスター惨殺事件の裁判がハワイで行われ、エディは証人として召還された。
百合子は猛反対した。
証言台に立てば今度はエディが狙われる。
「絶対にそんなことはさせない。
必ず生きて連れて帰る。」
アメリカ大使館は確約した。
エディはホノルルに向かい、そして無事に帰った。
しかしエディはその後1度も故郷ハワイの地を踏むことはできなかった。

カミソリパンチ 海老原博幸

1967年8月12日にブエノスアイレスで行われるはずだった世界フライ級チャンピオン:オラシオ・アカバロ vs 田辺清(世界ランキング1位)が、田辺のケガによりキャンセルされ、代わりに海老原博幸(世界ランキング4位)が戦うことになった。
海老原博幸は、力道山が亡くなった年にボーン・キングピッチを1RKOし世界チャンピオンになった。
3ヵ月後、初防衛戦でバンコクでボーン・キングピッチと再戦し謎の判定負け。
その後、強打者アラクラン・トーレス(メキシコ)をロスで2度破り、世界挑戦権を手に入れたが、左拳を骨折し、アカバロに判定負け。
そして田辺清の引退で、再びアカバロへの挑戦権が転がり込んできた。
エディは協栄ジムの金平正紀会長に頼まれ海老原のトレーナーとなった。
7月10日、海老原は世界戦の調整試合として韓国フライ級2位と対戦した。
「エビちゃん、殺すのよ。」
海老原は初回からワンサイドで攻め、5R1分51秒でKO勝ちした。
海の向こうでもアカバロがエレノ・フェレイラに判定勝ちしたが、試合で頭部に裂傷を負い、試合は1週間延ばされ、8月12日に行うlことになった。
日本ではエディのピストル密輸事件について、刑事裁判被告人の海外遠征は妥当でないと、日本ボクシング協会内で常任理事会議が開かれた。
議論は紛糾したが
「タウンゼント氏はトレーナーとして立派な人なのだから、ボクシング界のために頑張ってもらいたい。」
という会長の鶴の一声で沈静化した。
エディは東京地裁に上申書を出して許可を得た。

7月27日、海老原、金平会長、エディ、山神(トレーナー)の4人は、35時間の空の旅に飛び立った。
南半球のアルゼンチンは真冬で、首都ブエノスアイレスは冷風が吹いていた。
その風の中を海老原はロードワークした
ラプラタ川が市内を貫通していた。
寒風の中、エディは立っていた。
「エディさん、もういいよ。
ホテルの中で待っててよ。」
「ボク、トレーナーよ。
エビちゃんが走っているのにボクだけ温かいところいられないよ。」
公開スパーリングで、海老原はスパーリングパートナーを左ストレートで失神させた。
海老原は、街頭テレビで、白井義男がペレスにKO負けしたのをみて
「オレがペレスをやっつけて世界チャンピオンになってやる。」
その場で決心した。
中学から喧嘩で負けたことはなく、短距離走でも、マラソンでも常にトップ、体育の成績は常に5。
そして無類のギャンブル好きだった。
「フィリピンの選手なんかとやるでしょ。
ファイトマネーは100万くらい出るが、アドバンスとして前もって50万くれといってもらう。
そいつを前部ポケットにねじ込んで競馬場へ行くわけよ。
で、全部すっちゃう。
もう1度稼ごうと思って一生懸命やった。
清く正しく美しくなんて優等生みたいなこといっていてボクシングできないよ。」
海老原博幸、体は小柄だが大きなプライドとクソ度胸を秘めた男だった。

8月12日10時、海老原は、計量を115ポンド(50.8kg)リミットぎりぎりでパスすると、直ちにレストランへ行きステーキを食べた。
23時、ルナパークスタジアムは30000人の超満員だった。
海老原は27歳。
60戦56勝29KO3敗1分。
アカバロは33歳。
82戦74勝34KO2敗6分。
イタリア系移民の子で、子供の頃は極貧の中で育ち、屑屋、靴磨き、サーカスの軽業師など転々とした末、ボクサーとして成功したハングリーチャンピオンだった。
23時31分(日本時間12時31分)、ゴングが鳴った。
海老原の作戦は、序盤から攻めまくりノックアウトを狙うというもの。
アカバロはスロースターターだったし、敵地ではKOでしか勝てない。
海老原は積極的に打って出た。
3R 、アカバロの左フックが海老原にヒット。
海老原にバッティングの注意。
4R 、海老原がボディへストレートをヒットさせるとアカバロはロープに詰まった。
海老原は詰めて乱打した。
5R、アカバロはナイスファイトで戦局を持ち直した。
6R、アカバロ、サウスポーにスイッチし、クラウチングスタイルで互いにフックを打ち合った。
海老原は左拳の指を骨折し、右1本で戦わざるえなくなった。
2人とも目の上をカットし出血した。
7R、アカバロがラッシュ。
8R 、貯金をアカバロが攻めて、前半に海老原が積み上げた貯金を引き出していく。
11R、エディは海老原の左拳のトラブルに気づいた。
海老原はラッシュし主導権を取り戻そうとする。
15R、最終ラウンドは、両者共に血まみれで戦い、アカバロがラッシュしたところでゴングが鳴った。
息を詰めるような静寂の後、レフリーは、勝者として、アカバロを指した。
「No、エビハラの勝ちよ。」
エディはレフリーに食ってかかった。
「強盗に遭ったようなもの。」
と地元新聞の記者にも怒りをぶちまけた。

アカバロが引退したため、WBAはその空位を、世界ランキング2位のホセ・セベリノと3位の海老原で決定戦を行うことを決めた。
試合は、3月30日、場所は札幌市と決まった。
試合前日、海老原はロードワークで転倒し、右手の甲を強打し、右のパンチを打つと痺れるほど痛かった。
3月30日、 控え室に入った海老原は 出番直前まで支度に入らず、出番15分前、チェックのために同室にいた相手のトレーナーの目を盗んで、麻酔注射を右拳に打って、急いでバンテージを巻いた。
セベリノ側のトレーナーは巻き終えたバンテージを見てOKした。
3Rには右手の麻酔が切れた。
セベリノは、勇敢なファイターで、1歩も引かず前に前に出る。
海老原の右拳は威力を落としながらも 突進してくる相手を突いた。
「エビちゃん、右の回るの。
右よ。
頼むよ。」
9R、 海老原の猛攻にセベリノはロープを背にしてガードを固め、グラつきながらもダウンはしなかった。
このとき海老原は左の指の付根を骨折した。
15R 、最終ラウンド開始時点で、3人のジャッジは共に 「海老原70点、セベリノ62点」だった。
エディはおかしなことをいった。
「エビちゃん、逃げるの。
走って、走って逃げるの。
新宿まで逃げるの。」
海老原は笑いそうになった。
途端にリラックスして 、逃げるどころか攻めてこのラウンドも獲った。
「海老原!」
レフリーが勝者を告げると、海老原の目からドッと涙が溢れ出た。
タイのバンコクで失った世界最強の証を取り戻すまで5年かかった 。
試合後、海老原の両拳の故障が明らかにされた。
「エビちゃん、すっごいガッツよ。」

阪神百貨店の屋上遊園

- 十三のいま昔を歩こう

1969年10月14日、初防衛戦の4日前、海老原は大阪北区の阪神百貨店屋上の特設リングで公開スパーリングを行った。
海老原のアッパーとパートナーのアッパーが交錯し、パートナーのアッパーが海老原の左肘を打った。
海老原は、左肘から首へと激痛と痺れが上がってくるのを感じた。
今回、海老原に挑戦するのはパーナベ・ビラカンポ。
153cm、サウスポー、ファイタータイプのボクサーだった。
1金平会長は、試合に用いるグローブは日本製をと主張したが、海老原は強気で薄いメキシコ製を望み、KOこそボクシングという美学と意志を貫いた。

10月19日、阪急ブレーブスが近鉄バッファローズを破り3年連続のパ・リーグ優勝を決めた。
そして大阪府立体育館には海老原のカミソリパンチを観るために7000人が入った。
21時15分、試合開始 。
ビラカンポは、低い姿勢から接近戦に持ち込もうとする。
海老原は、フットワークで突進をかわして右フック。
中盤、海老原が左ストレートを放った瞬間、 激痛が走り、左肩が抜けた。
2R、ビラカンポ、ボディブローに対し、海老原はクリンチした。
3R、ビラカンポはヒルのように執拗にくっついて離れない。
4R、あまり動かない海老原に、ビラカンポは右アッパーを連打。
海老原は鼻血を出した。
このラウンド終了後、海老原は左肩の異常をエディに告げた 。
インターバルが終わり、リングに出る直前、海老原は早口にいった。
「エディさん、柔道の先生がいたら探しておいてよ。
もし見つかったらコーナーに連れてきてよ。」
肩の故障を脱臼と判断し、柔道整復で治そうと考えたのだ。
5R、
「誰か、柔道の先生いませんか。」
エディはリングサイドのほうを向いて訴えた。
「柔道の先生。」
エディは近くを歩きながら叫び続けた。
しかし返事はなかった。
6R、海老原は短期決戦を覚悟し勝負に出た。
しかしビラカンポは平然と反撃してきた 。
7R、前半が終わった時点まで、海老原の必殺の左ストレートはまったく出ていなかった。
左は感覚がなくなるほど痺れていた。
左腕はダラリと下げたまま、右腕1本で戦う海老原は余裕があるようにもみえるが、左腕は上がらないだけだった。
海老原は、ビラカンポの攻撃を、右手で左腕を持ち上げてガードするという離れ技もしていた。
8R、海老原は左目尻から出血し、脚は動かなくなった 。
ビラカンポは、ボディを滅多打ちし、海老原のフックは空転した。
10R、ビラカンポはラッシュ。
海老原、右目もカットし出血した。
11R 、エディはタオルを握りしめた。
「タオルは投げないで。」
海老原はコーナーに戻る度にいい続けた。
長い15Rが終わった。
「ビラカンポ!」
レフリーが勝者の名を呼んだ。
セブ島のヤシの葉をふいただけの粗末なジムで猛練習を積んだ田舎の青年が、一夜にして世界の頂点に立ったのだ。
海老原は肩を落としながら控え室に戻り、その場で引退を表明した。
その後、友人たちと残念会をやってグッスリ寝た。
ビラカンポは興奮で眠れず、ホテルを出て公園を秋風に吹かれながら朝まで歩いた。

天才パンチャー 柴田国明

1968年3月27日、柴田国明は初めて世界ランカーと対戦した。
この時点で柴田は、21勝無敗、日本フェザー級4位。
相手は世界6位のドワイト・ホーキンス。
キャリア14年のベテランだった。
柴田は、これを破って世界ランキング入りを狙っていた。
ホーキンスのセコンドにエディがいた。
7R、ホーキンスの強烈なボディでKO負けした。
柴田は担架で運び出され、救急車で病院へ送られた。
後遺症で血便が続いた。
3ヵ月後、後楽園で試合に出る後輩の計量に立ち会っていたとき、エディに会った。
「おお、シバタ。
どうしてた?」
エディは柴田の顔を見るなり声をかけた。
「あんなにボディ打たせちゃダメよ。
ホーキンスのあのレフトフックは防げるの。
もっと右の肘を上手に使いなさい。」
柴田はエディのいっていることがわからなかった。
「OK、こうよ。」
エディは立ち上がって相手のボディフックを右肘でブロックするジェスチャーをしてみせた。
「パンチを受ける瞬間、拳をひねるだけでいいのよ。」
エディはナックルパートを内側に向けて右にひねった。
柴田が打ってみると、エディの肘の先端が腕の内側に当たった。

1973年、柴田国明は世界タイトルに挑戦する準備をしていた。
試合は2週間後。
相手はWBAの世界Jライト級チャンピオン:ベン・ビラフロア。
殺人的強打を持つサウスポーだった。
ヨネクラジムの米倉会長は、エディに臨時トレーナーを要請した。
柴田は日本チャンピオンになった後、メキシコに渡り、ビセンテ・サルジバルをTKOし、WBC世界フェザー級チャンピオンになった。
しかしそれをクレメンテ・サンチェスに奪われた。
そして今回1階級上の世界タイトルに挑戦するチャンスをつかんだのだ。
「クニアキにはスピードもパンチもあるけど、もっとパワーアップできるよ。
パワーアップしなきゃベンに勝てない。」
エディは1週間のトレーニングで脚のシフトとパンチの角度を教えた。
「クニアキ。
パンチは手で打つんじゃない。
脚で打つのよ。
わかる?」
素早く脚をシフトさせることでパンチの効果は高まる。
「パンチは相手に対して交差させずに直角に当てるの。
直角に当てると1番エフェクティブなの。」
柴田はハワイへ飛んだ。
チャンピオン:ベン・ビラフロアは、20歳で、戦績は62戦53勝35KO3敗6分。
柴田もパンチはあるが、連打型で1発の威力ではビラフロアにかなわない。
柴田は素晴しいスピードで若きチャンピオンを翻弄した。
ベンのうなる強打をことごとく空振りさせた。
その持論は、
「最初のパンチを大振りしない。」
だった。
「右ストレートは有効だが、1発で決めようと思っても、標的までの距離が遠いから、これはかわされてしまう。
そこで最初の1発、2発は当てる事を目的とせず軽くフェイント気味に出しておいて3発目を当てるつもりで打つのがいい。
もちろん大振りでなく、ショートパンチが定石。
相手の左ストレートの正面に立たない。
出来るだけ右の脇腹を絞って戦う。」
柴田は強打者ベン・ビラフロアの強打をかわしきり、見事Sフェザー級の世界タイトルを獲得した。

10か月後、柴田国明は、ベン・ビラフロアと再戦し、顎を打ち抜かれ1RKO負けした.
わずか116秒だった。
柴田はスピードもパンチもあったが、顎がもろかった。
打たれもろい柴田はワンパンチで負けた試合が多かった。

リカルド・アルレドンド

米倉会長は、WBAのタイトルを失った柴田に、WBCのチャンピオン:リカルド・アルレドンドへの挑戦を決めた。
試合は来年の2月。
時間はあまりなかった。
柴田は身長163cm、アルレドンドは170cm。
リーチの差は15cm。
柴田は基本的にファイターで、前に出て相手に接近できないと勝機はない。
アルレドンドの懐の中にどうやって入るか?
「クニアキ。
ジャブから入るのが基本よ。
クニアキの左ジャブ、ショートね。
アルレドンドよりずっとショート。
でもあんたは肩幅が広いね。
それはとてもラッキーなのよ。
OK?
左ジャブを出すとき、肩を入れて、ビューンとひねるようにして打つの。
そうするとリーチに肩幅がプラスになってロングになるでしょう。
その広い肩幅を利用するの。」
柴田はジャブを肩を入れて打ってみた。
「これだけではダメ。
今度はうんとステップインして、下から上へ突き上げるように打つの。
スピーディーに入って、ウワーンと突き上げるようにジャブ打つ。
そうするとアルデドンドより速く絶対にヒットします。」
柴田はエディの構えるミットにパンチを送り込んだ。
エディとのミット打ちは気持ちがいい。
パンチがミットに当たると乾いたいい音がする。
パンチを真っすぐに受けるからだ。
強いパンチに対しては、痛みを嫌がってミットを引きがちになるが、エディはそれをやらない。
ピッチャーの投球をミットを突き出してうけるキャッチャーのようなものだ。
ピッチャーもボクサーも、その音に気持ちをよくし自信をつけていく。
ハードなパンチでミットが吹っ飛ぶこともあった。
それでもエディはかまわず時間が来るまで素手のままパンチを受け続けた。

試合が近づいてきた。
柴田国明のコンディションは上々だった。
アルレドンドは、キューバ大使館に勤務している女性に惚れ込み口説いていた。
2月28日、柴田はリングに上がった。
ガウンを着たままロープをつかんで屈伸運動をしたとき、
「プチッ」
と音がして足首に激痛が走った。
「エディさん。
右足首が痛い。
歩けない。」
エディは、シューズの上からさすってみるがわからない。
首をかしげながら、氷の入ったバケツからアイスピックを取り出して、痛いというあたりをコツコツ叩いてみた。
柴田は痛みで叩かれた感覚がなかった。
セレモニーはどんどん進んでいく。
国歌斉唱が始まった。
「エディさん、歩けないよ。」
「クニアキ。
もし後ろから殺し屋がナイフ持って「殺すぞ」言うたらどうするの!
足痛いでもヒュー、逃げるでしょ。
そのつもりで動くの。」
ゴングが鳴った。
リーチが短い柴田は、頭をリズミカルに動かし、速く突き上げるようなジャブをヒットさせた。
「足が痛い。」
「クニアキ。
このリングから出られないのよ。
ここから出たら一生の笑いものよ。
相手を殺しなさい!
殺さないと出られないの。
いい?
クニアキ、アルレドンドの目をみなさい。
他を見たらダメ!」
2Rはイーブン。
3Rは柴田がとった。
「Oh、よく動くね。
大丈夫よ。
あんた絶対勝てるよ。」
6R、柴田はアルレドンドをダウン寸前まで追い込んだ。
靭帯が切れたはずだが、きっちり締めつけたシューズがギブスとなった。
「Oh、クニアキ、よく動くよ。
素晴らしいねぇ。
ウワーン、ウワーン、左ジャブがいいよ。
アルレドンド何もできないね。
次のラウンドもとるのよ。」
柴田は右足が不自由なので右のパンチはあまり出せないので左ジャブを多用した。
リーチが長いアルレドンドが左で打ち負けた。
柴田優勢のまま最終ラウンドが終わった。
「シバター!」
レフリーは青コーナーを指した。
柴田がフェザーとJライトの2階級を制覇し3度目の王座についた。
控え室でシューズを脱ぐと、右足首は紫色に腫れ上がっていた。
エディは柴田を抱きしめねぎらった。
「シバタ、よくやりました。
すごいガッツね。」
「ほんとうに根性だけでやりました。」

1974年8月7日、柴田国明は結婚した。
式はロスアンゼルスの教会で行われ、フジテレビのラブラブショーで放映された。
このときすでに柴田は2度目の防衛戦が決まっていた。
相手は、ラミロ・ポラニョス。
20歳。
56戦52勝40KO4敗。
KO率71%。
ポラニョスが勝てば、エクアドル初の世界チャンピオンとなるため、ロドリゲス・ララ大統領は、勝てばポラニョスに車と家をプレゼントすることを約束した。
ポラニョスは祖国の英雄を目指し燃えていた。
一方、柴田にも負けられない理由があった。
日本のボクシング界は、酒、煙草、女はボクサーを弱くするといわれ、現役ボクサーの結婚に否定的だった。
ボクサーは飢えて敵意に満ちていないといけないという考え方が根づいていた。
もし負けようものなら
「結婚なんかして、チャラチャラしてるから負けるんだ。」
といわれるのが目にみえている。
「奥さんを悪くするのも良くするのも、この試合によるよ、クニアキ。
この試合に勝ったら奥さん良くなる。
負ければ悪くなるの。
だからガンバルの。」
負けれらない理由はもう1つあった。
試合翌日の10月4日は、エディの50歳の誕生日だった。
なんとしても勝ってエディの誕生日に花を添えたいと思っていた。
「ボク、エディさんの誕生日にいいプレゼントしたいです。」
「OK、ありがとう。
あんた、ナイスボーイね。」
柴田は挙式をすませると、新居に新妻を置いたままジムの2階に住み込み、激しい練習をこなし、伊豆でトレーニングキャンプを2度も行った。
(ポラニョスに勝つ)
柴田は一途に思い込んだ。
10月3日、 柴田vsポラニョスの試合が行われる日大講堂には12000人の観客が入った。
1R、柴田は積極的に出ていきなり右フックがヒット
続いて右ストレート
左右フック
ボディアッパー
初回は柴田が取った
2R
ポラニョス、気負って前に出てくる
柴田、
右ストレートでカウンターをとって
ボディへ左フックから顔面へ左フック
右ストレートから左右フック
ポラニョス、ダウン
柴田、倒れたポラニョスに右フックをたたきつける
5R
ポラニョスのKO予告Rはあっけなく過ぎた
その後もポラニョスのクレイ並みの正確なパンチは空転し続けた
柴田がポラニョスの両目にシャッターを降ろしていた
柴田はワンサイドで打ちまくった
15R
「OK、シバタ
あんた、チャンピオンよ」
柴田はエディの声で最終Rに出て行った
軽く流せば問題なかったが最後に猛烈な攻撃を仕掛けた
スタミナの心配がなくなり全部出し切ったのだ
ポラニョスはサンドバッグのように打ちまくられ
レフリーは試合をストップした
「頼む、やらせてくれ」
食い下がるポラニョスを押さえてレフリーは両手を大きく振った
2分29秒KOだった
控え室で顔を化け物になったポラニョスはうなだれた
「2回のダウンが効いた
シバタの速攻は予想していたが
まともに食ってしまった
シバタは強い
本当の世界チャンピオンだと思う」
その夜、
赤坂プリンスホテルのレストランで祝勝会が催された
これはエディの50歳のバースディパーティーでもあった
「良かったわね」
約2ヶ月ぶりに夫の顔を見た新妻はただ一言しか言えなかった
柴田が新婚生活に入ったのはその2日後だった

和製クレイ カシアス内藤

1968年4月、船橋ジム(千葉県船橋市)の石川会長は、内藤純一、米名:ロバート・ウィリアムス・ジュニアをスカウトした。
内藤の父、ロバート・H・ウィリアムは黒人のアメリカ兵だったが、内藤が2歳のとき、戦死した。
内藤は、兵庫県神戸市で生まれ、神奈川県横浜市で育った。
高校でボクシング部に入部し、ミドル級で高校チャンピオンとなった。
そして高校卒業と共に千葉県船橋市へ引越し、石川会長宅に住み込んだ。
部屋には他に2人の選手がいた。
6月、内藤のリクエストで、エディが船橋ジムにやってきた。
内藤は典型的なアウトボクサーで、脚を使って動いて動いてポイントアウトしていくボクシングスタイルだった。
エディは脚を使って動きながら、打つときは脚を止めて思い切り打ちまくる戦法を教えた。
「止まったらバババーンよ。」
1968年11月13日、内藤はプロデビューし、連勝した。
1969年1月13日、6回戦へ進み、リングネームをつけることとなった。
内藤は憧れのモハメド・アリの本名:カシアス・クレイに因んで「カシアス内藤」という名を選んだ。
1970年2月25日、日本ミドル級王座を獲得。
1971年1月6日、東洋太平洋ミドル級王座獲得。
ここまで24戦22勝(10KO)2分の負け知らず 。
日本から重量級の世界チャンピオンの誕生を期待された。
内藤は日本タイトルを返上し世界獲りの体勢に入った。

1971年7月24日、カシアス内藤は柳済斗の挑戦を受けて韓国ソウルに遠征した.。
しかし6R、2分5秒でKOされ、初黒星を喫っした。
「あれは反則だからビデオを見せて本部にクレームをつけてくれ。」
内藤は、ダウンは背負い投げを食らって倒れたものだと主張した。
しかしなにも起こることはなかった。
「これで情熱が冷めた。」
全勝が消えた途端、一気にもろくなった。
この後、輪島公一に負け、柳済斗に3度負け、スチーブン・スミスに負け、工藤政志に負け、そしてあっさりリングから消えた。
知り合いがジャワ島スラバヤ市にボクシングジムを持っていたので、内藤は変化を求めてインドネシアに行った。
そしてボクシングをやりながらのんびりと暮らした。

1978年、リングを去って4年、カシアス内藤は日本のボクシング界にカムバックした。
そしてハードなトレーニングをこなした。
「あの柳済斗に4度も負けているが自分ではどうしても納得できなかった。
彼は東洋チャンピオンだったからもう1度やってみたかった。」
10月12日、カシアス内藤は大戸健を5RKO。
再起を果たした。
1979年3月19日、東洋ランカーである羽草勉を7RKO。
東洋太平洋タイトルへの挑戦のレールを敷いた。
しかし夢にまで見た宿敵:柳済斗はタイトルを返上し引退。
カシアス内藤は、ハシゴを外されたような気持ちになった。
8月、柳済斗の引退に伴い、カシアス内藤と朴鐘八のタイトル決定戦が韓国の仁川市で行われ、内藤は2RにKO負けした。
その半年後、カシアス内藤は鈴木直人に敗れ引退した。
カシアス内藤が敗れた輪島、柳、工藤、朴は後に世界チャンピオンになった。
「おおナイトウ。
ボク、あんたに全部教えたよ。
全部、全部、全部、全部教えて世界チャンピオンになれなかったの、あんただけよ。」

2005年2月、カシアス内藤は地元横浜で「E&Jカシアス・ボクシングジム」を開設した。
ジムの名前の「E&J」は、恩師と本名のイニシャルに因んでいる。
「恩師と約束をしたあの日から26年、自分の夢に向かっての第一歩をようやく踏み出すことができました。
まずジムを開設するにあたり、私の夢の実現のために力を貸してくださったたくさんの皆様と、写真集やこのウェブサイトを通してE&J カシアス・ボクシングジムを見守っていただいているすべての皆様に御礼申し上げます。
現役時代、4年間のブランクを経てカムバックする際に、私は恩師であるエディ・タウンゼントさんと2つの約束をしました。
必ずチャンピオンになること、そして将来自分のジムを作って後進の育成をすることです。
エディさんは誰か一人の力に頼るのではなく、みんなの力を借りてみんなに応援してもらいながらジムをつくりなさいといっていました。
エディさんのその言葉どおり、今、私の夢への道のりをたくさんの方々に見守っていただいています。
何千という目が、私をみています。
皆様のその目が私の力になっているのです。
私はこのジムを、練習生がそれぞれの希望をかなえることのできるジムにしたいと思います。
プロになるために、運動不足を解消するために、ダイエットのためにといったあらゆる目的の方を歓迎します。
そして同年代だけではなく様々な年代の、様々な職業や背景を持った練習生たちとのコミュニケーションを通じていろいろなことを学んでほしい。
そして戦いたい、勝ちたいよりも前に、何よりもまずボクシングを好きになってほしいと思います。
これはエディさんの考えでもありました。
好きだから続けることができるし、苦しさにも耐えることができるのです。」

21(ドンピン)

中野区本町4-31-1

21 ドンピン

1972年2月、中野区鍋屋横丁に、スナック「21(ドンピン)」が開店した。
ドンピンはブラックジャックのドンピンである。
ボクシングトレーナーというのは経済的に成り立ちにくい職業である。
ボクシングジムでさえ、世界チャンピオンを何人か抱え、防衛し続けていない限り、純粋にボクシングジムのみの経営で生計を立てるのは難しい。
ましてトレーナーとなるとなおさらである。
多くのボクシングトレーナーは、他に仕事を持ち、それが終わった後にジムへ指導を行く。
好きでなければつとめらないボランティアみたいなものである。
「人を強くする」「チャンピオンをつくる」という夢が、彼らをかりたてている。
しかし当然、タウンゼント家の家計はひっ迫する。
タウンゼント家には2人の娘がおり、娘たちはインターナショナルスクールに通っていた。
学費は安くはない。
エディの妻:百合子はスナックのママとなって家計を支えた。
元ダンサーで、下町気質の百合子のおかげで、ボクシング気違いの夫は思う存分トレーナーに専念できた。
客は常連ばかりで、近所の人や友人、ボクシング関係者たちで静かに賑わっている。
「ボクシングに一生を捧げた主人公を尊敬し誇りに思います。
トレーナーとなってからの35年間、時には、主人を取られたようで寂しくて嫉妬すら 感じた事もありました。
しかし主人がそうであったように 、私にとっても選手は大事な子供達でした。
娘シャローンとダーナ、そしてたくさんの選手達、それは私の大切な宝物です。」
(百合子タウンゼント)
現在、毎月21日は、ドンピン会が、エディ・タウンゼントを偲び、百合子夫人を励ますために開催されている。

伝説の男 ガッツ石松

1972年10月15日、東洋太平洋ライト級チャンピオン:鈴木有二(ガッツ石松)がマージャンをしていると電話が鳴った。
白タク(営業許可を受けず自家用車を使ってタクシー営業している車)を流していた仲間の1人からだった。
「兄ぃ、
や、やられ・・・
・・・巻かれてる。
別の白タクのヤツらだ。
チクショー。
向こうは10人くらいいやがる。」
「今行く。
待ってろ!。」
受話器を叩きつけ、鈴木有二(ガッツ石松)は1人で飛び出し、深夜の池袋を走った。
やがて人だかりをみつけた。
15、6人の男がオモチャのように2人の男を弄んでいた。
その周りに大勢の野次馬が囲んでいた。
鈴木有二(ガッツ石松)をみつけた仲間はボコボコの顔を歪めて泣き笑いの表情になった。
「兄ぃ!」
「おう、悪かった。」
「なんだ?てめえ。
関係ないヤツはすっこんでろ。」
「悪いな、関係あんだよ。」
男たちはいきり立った
「邪魔するんじゃねえ。」
「ブッ殺す。」
1人がナイフを出して構えニタッと笑った。
(卑怯っ。)
鈴木有二(ガッツ石松)は多勢に無勢の上に、素手で戦わないことに腹が立った。
(カス以下だ。)
腹は決まった。
スッと腰を落とし構えた。
「ウグッ!」
「次ッ!」
「ウッ。」
「おめえも!」
「ウゲッ。」
東洋チャンピオンの拳は次々と男たちを地面に沈めていった。
8人までは数えていたがあとはわからなかった。
時間にしてわずか1分足らず辺りに男たちが転がってうめき声を上げていた。
「そこまでだ!!!」
肩に固く冷たいものが押し当てられた。
「あんだ?」
それは警棒だった。
次の瞬間、鈴木有二(ガッツ石松)は数人の警官にガッチリ押さえ込まれた。
周りをみると大勢の警官がいて、数台のパトカーがサイレンを鳴らし赤色灯を回していた。
「現行犯で逮捕する。」
手錠をかけられパトカーに押し込められた。
鈴木有二(後のガッツ石松)が連行された池袋署には、たくさんの記者がきて、翌日の新聞にはハデな見出しを躍らせた。
”ボクシングのチャンピオン、8人をKO路上でケンカの助っ人”
”三度笠チャンピオン、路上で8人KO”
TV、ラジオでも取り上げられ、世間では、鈴木有二(ガッツ石松)を非難する声も上がったが、胸にすくようなガッツ石松の武勇伝に喝采を送る人もいた。

ヨネクラジムの米倉会長は笑いが止まらない忙しさだった。
フェザー級の柴田国明を追うように、ライト級の鈴木有二が世界ランカーが育った。
柴田も鈴木も2度外国に渡り、世界タイトルに挑戦していた。
しかし柴田は2度ともタイトルを奪取したが、鈴木は2度ともKOで敗れた。
それでも鈴木は東洋太平洋王座を2度防衛し、世界ランキング9位を維持していた。
そこへWBC世界王者:ロドルフォ・ゴンザレスから「スズキの挑戦を受けてもいい。」と打診があった。
柴田国明の方もリカルド・アルレドンドへの挑戦が決まっていた。
米倉会長は記者会見を開き、鈴木と柴田の世界タイトル挑戦を発表した。
鈴木は翌年1月17日、柴田は2月28日、それぞれ日大講堂で行う。
1つのジムから同時に2人の世界挑戦は前代未聞の快事だった。
さらに米倉会長は
「来年1月からエディ・タウンゼントさんと正式に専属トレーナーとして契約した。」
と発表した。
鈴木の世界挑戦には疑問を持つ関係者も多かった。
鈴木の過去2度の世界挑戦で2度KO負けという戦績から、今回も勝てる可能性は低いと思われた。
柴田は入門当初から世界の器といわれエリートとして育ったが、鈴木は16歳で入門し、プロテストを2度目で合格し、デビュー戦を1RKO。
その後も連勝したが、5戦目で不慣れなサウスポーを相手に判定負けした。
「しょうがねえなあ」
と米倉会長は、ジムの後援会長であり安土桃山時代の武将、蜂須賀小六の末裔だという蜂須賀氏に引き合わせた。
「お前の面構えは森の石松そっくりだねえ。」
「ハッ?」
「決まりだ。
今日からお前は鈴木石松だ。」
「いいですねえ。
ついでに三度笠に道中合羽でも羽織らせますか。」
「ちょんまげ結って刀差すってのはどうだ?」
「ワッハッハッ」
会長たちは盛り上がっていた。
そして6戦目。
花道に三度笠、合羽姿で登場し、リングに上がると三度笠を客席に向げ投げ、ポーズをとった。
すると
「(ゴチン!)痛ェッ!」
と笠が大きく弧を描いて後頭部に直撃した。
会場は大ウケ。
レフリーと対戦相手も笑いをこらえていた。
そしてこの前回負けたサウスポーボクサーとの再戦を引き分けた。
この後、月1回というハイペースで試合をこなしていった。
2度目の世界挑戦の相手は、あの伝説のチャンピオン、「石の拳」ロベルト・デュランだった。
1R、デュランは、少々の被弾もおかまいなしに得意のパンチをブンまわして強引に出てきた。
鈴木の左フックでデュランが一瞬腰を落とすシーンがあったが、いいのはこの場面だけで10R、2分17秒、KO負けした。
「この根性なし。」
試合後の控え室で米倉会長がいった。
「いいか有二。
おめえに1番足りないものが何かわかるか
それはな、ガッツだよ。
コンチキショーのガッツがおめえにはないんだ。
ガッツがなくて世界を狙えるかってんだ。
バカ野郎。」
そして再びリングネームを改名、「ガッツ石松」となった。
とうとう本名:鈴木有二は欠片もなくなった。

1973年12月、柴田国明とガッツ石松は伊豆のキャンプに入った。
ガッツはエディの指導を受けるのはこれが初めてだった。
ガッツは独特の個性を持っていて、他人に強制されることが大嫌いで万事独立独歩だった。
誰かの命令でロードワークに出ると、途中で近道をして帰ってきて、水道の水を浴びて全力疾走したようにみせた。
「Hey、ガッツ、6時よ。」
「エディさん、オレ眠いよ。」
「OK、じゃあ何時?
9時?10時?
ハイ、10時ね。」
「あっ、オレ起きます。」
「OK、走るね。
Get Up」
エディはあくまで選手がやる気になるまで待った。
そうされるとガッツとしても自然と起き上がれた。
ガッツは初めて嫌いなロードワークを走り込んだ。
こうしてすべて自分の責任においてトレーニングするので、ごまかしは自分の損である。
石松とエディのフィーリングはピッタリ合った 。
「ガッツ、あんたの左はすっごく強い。
でももっと強くなれる。
あんたの打ち方は肘が上がっている。
これだとパンチの力が抜けるのよ。
左の脇を締めて下から上へ突き上げるの。
アッパーで打つの。」
そして左を嫌になるほど繰り返した。
次はディフェンスの問題。
石松はボディが弱かった。
「ガッツ、ボディ空いてるね。
それは肘でカバーするの。
エルボーブロックね。」
エディは拳を捻って肘を張ってカバーする防御を教えた。
ガッツ石松の戦績を見ると冬に強かった。
寒い季節には勝率が高くなる。
寒いとスタミナが失われずにすむらしい。
ゴンザレスとの試合は1月。
石松は密かにほくそえんでいた。
しかし1974年1月7日、ゴンザレスが、ロスでトレーニング中に毒蜘蛛に刺されたため、試合を延期したいと申し入れてきた。
試合まで2週間という時だった。
こうして得意の冬の試合はパスされてしまった。
「頭にきたぜ。
俺が絶好調と知ってあの権兵衛は逃げたんだ。
ロスまで行ってぶん殴ってやりたいぜ。
こうなりゃオレはリングネームをスパイダー石松に変えて野郎が日本に来たらブスリと毒針を刺してやる。」

3月、延期されていたガッツ石松の世界挑戦の日時が決定し、米倉会長は池袋のスナック:メモリーで記者会見を開いた。
このときのことを思い出すと、エディは涙ぐむ。
「たくさん記者を招いたの。
でも来たのはたった5人よ。
5人。
ガッツ、かわいそうね。
誰もガッツ、勝てない思った。
それで5人しか来なかった。
涙出るよ。」
寂しい光景にヨネクラジムのスタッフはがっかりしたが、独り、ガッツだけは平然としていた。
「来ないのは当然よ。
これまでのオレの実績を考えてみろよ。
オレが勝てると誰が思うものか。」
栃木県上都郡栗屋町という農村の中で最も貧しい農家の次男坊に育ち、中学を出て単身上京、日暮里の弁当屋で働きながらヨネクラジムに入門し、2つの拳だけで這い上がった。
長い下積みをくぐってきたガッツ石松は、無視や冷遇に対する耐性ができあがっていた。
所詮この世は力がすべてなのだ。
閑散とする記者会見パーティーの光景をみながら気にもとめなかった。
「なんつたって実績がなければ誰も相手にしてくれないぜ。
その代わり勝てばこんな狭いスナックなんか足の踏み場もなくなるほど人が詰め掛けるだろう。
それが世の中というもんよ。」
ガッツ石松はよく練習嫌いだといわれた。
確かにロードワークは嫌いだったが、ジムワークは好きで、スパーリングは大好きだった。
ただしあくまで自己流にやった。
ボクサーの三戒、酒、煙草、女も大歓迎だった。
エディはいつもショートホープ、ハイライト、セブンスターを持ち歩くヘビースモーカーだが、ガッツ石松はは煙草をせびった。
「オオ、ボクに煙草くれいうのガッツだけね。」
エディは、そういいながら1本あげた。
そして練習はめいいっぱいやった。
「ガッツ、もういい。
ストップよ。」
エディがそういうほどやった。
「ガッツ、練習キチガイよ。」
エディは徹底的に左を教えた。
試合の延期はむしろラッキーだった。
この間にキャンプを張れたし、エディは左レバーブローを教えることができた。
石松は右は強かったが左は下手だった。
エディの左手のミットを出したまま石松に左ばかり打たせた。
「ミミズだって、体半分ちぎれても、コンチクショーって暴れるでしょ。
もっとガッツがあるところみせてよ。」
左、左、左、左である。
それをバリエーションをつけていく。
左ジャブ、左アッパー、左フック、左ボディ。
ボディは相手のレバー(肝臓)をえぐる角度で打つ。
10発20発と左を打った後、右を1発だけ打たせる。
石松はうれしくて猛烈なパワーで右ストレートをぶち込む。
パンチが生きるようになるまでエディはミットを受け続けた。
ガッツクラスのパンチを受け過ぎると茶碗が持てなくなるがエディはかまわなかった。

4月1日、 WBC世界王者:ロドルフォ・ゴンザレスが来日。
4月4日、 ガッツ石松とエディは赤坂プリンスホテルに入った。
ホテルの脇の坂道で、ガッツ石松の外車がエンジンストップしてしまったとき、エディは試合が近い選手に車を押すなんてさせられないよとウンウンいいながら後ろから車を押した
「ガッツ、車はやっぱり乗るもので押すもんじゃないね。」
やっと動き出した車の助手席で、エディは息を弾ませて笑った。
石松はそんなエディの気持ちに応えたいと思った 。
「エディさん、オレ必ず勝つよ。
相手も人間。
オレのパンチが当たったらKOさ。」
「そうよガッツ。
あんたは強いよ。
勝つ負けるはあんたの気持ちの問題よ。」
過去2度の世界挑戦ではどうせ負けると思い、ろくな練習もせずに乗り込んだ 。
それでもラグナ、デュランという2人の名チャンピオを相手に10Rまで耐えた。
倒れたのはパンチが効いたのではなく 、練習不足によるガス欠でイヤ倒れしたことを本人は自覚している。
今回はたっぷり練習した。
負ける気がしなかった。
一方、試合当日に春闘の交通ゼネストが行われることになり、次々とチケットが払い戻されていき、米倉会長は頭を抱えていた。

4月11日、大規模なストが打たれ、早朝から鉄道、地下鉄、バスといった交通網がストップした。
背景には、前年のオイルショックと、それに伴う便乗値上げによる物価の狂乱が、今年まで流れ込み、
生活の危機感の高まったためだった。
しかし夕方になると徐々に交通機関が運行され始め、試合会場の日大講堂には7000人の客が入った。
ゴンザレスは、57戦52勝42KO5敗。
KO率は73.7%。
ボクシングをやる前に殺人の刑で服役したこともあり、さらにリングでも1人対戦相手が死んでいる。
ガッツ石松は、36戦25勝13KO11敗。
KO率36.1%。
19時47分、試合開始のゴングが鳴った。
ガッツは左が速い。
ゴンザレスはボディ狙う。
デュランのボディフックで沈む石松をみて、弱点はボディと研究したようである。
ガッツはボディを狙って上体が低いゴンザレスを左で突く。
元来、石松のボクシングはあまり足を使わず、構えて相手の出鼻をカウンターで迎えるスタイルである。
「柄になく冷静で、悪い言い方をすればセコいボクシング。」
(米倉会長)
ラウンド中盤、ゴンザレスは右クロスで石松をグラつかせた。
1Rが終わりコーナーに帰った石松は、セコンドの米倉会長にクレームを入れた。
「会長!
途中で、足使え、左出せって言ってよ!
オレ、忘れちゃうから。」
3Rゴンザレスは左フックの連打でガッツのボディに入れた。
しかし石松は平然と耐え、逆に左ジャブでゴンザレスの顔面を突いた。
ゴンザレスは右のガードがガラ空きだった。
「ライトを上げろ!」
セコンドが必死にゴンザレスに指示している。
石松はあくまで待ちのスタイルでゴンザレスに攻めさせてカウンターをいれてポイントをとり、ボディを打てば倒れる、石松はペーパーストマックだと信じるゴンザレスはひたすらボディーを狙った。
8R、ゴンザレスはジリジリとガッツをロープに詰めた。
その瞬間、ガッツの左フックがゴンザレスの顔面に入り、間髪いれず右ストレートを突き刺した。
ゴンザレスが、スローに前のめりに崩れていく。
「ウォーー!」
ガッツはニュートラルコーナーの走っていき、右グローブを高く掲げた。
レフリーのカウントが遅い。
後のタイムキーパーの証言では15秒かかっている。
身びいきのロングカウントだろう。
意識朦朧のゴンザレスが立ち上がった。
ガッツ石松が襲いかかるとゴンザレスはヨロヨロと後退し、ガッツのパンチが当たる前に倒れた。
レフリーはこれをスリップと判断。
さらに仰向けになっているゴンザレスを両手を持って引っ張り起こそうとしている。
ルールではレフリーはブレークの時以外選手に触れてはいけない。
「ダウンだ!」
米倉会長が叫び、エディは英語で喚きながらコーナーポストに駆け上がった。
石松は、レフリーが不等にチャンピオンを勝たせようとしていること、このまま続行しても自分の勝ちは動かないことを確信した。
そして自陣のセコンドがリングに入りでもしたら反則負けにされるかもしれないと思った。
石松はニュートラルコーナーから自分の青コーナーに行って叫んだ。
「エディさん、黙って。
大丈夫。
オレ、あいつを殺すから。
必ずぶっ倒すから黙っていて。」
レフリーに起こされたゴンザレスはファイティングポーズをとった。
ガッツ石松は猛然とラッシュするとゴンザレスは崩れ落ちた。
「やったぞ。」
石松は吼えた
(ざまあみろ、このヤロー)
心の中で怒鳴っていた。
帰りの花道でファンに胴上げされた。
控え室で、新チャンピオンは矢継ぎ早に質問を受けた。
「フィニッシュのパンチは覚えてる?」
「もちろん覚えてますよ。
あれがオレがいう幻の右です。」
「あれはストレート?
フック?」
「それがわからないところが幻のパンチでしょう。
あれはいつもはジムで打たない。
出すとパートナーが来なくなっちゃうから。
そのためしょっちゅうパートナー呼んでくれ。
いや相手がつかまらないで会長と喧嘩ですよ。」
石松は少しも疲れていなかった。
これからもう1人相手にして防衛戦やっても大丈夫と思うくらいだった。
スカッとした快勝で舌がよく回転し記者会見はガッツ石松の独演会となった。
この夜、赤坂プリンスホテルで祝勝会が開かれ、その後は遊び仲間と徹夜マージャンに興じ、翌朝6時に妻子のいる我が家へ帰った。
「エディさんが付いてくれなかったら、オレ、世界チャンピオンなんてなれなかったよ 。
エディさんのおかげだ。」

世界チャンピオン:ガッツ石松の初防衛戦が行われた。
挑戦者は世界ランキング10位のチェリー・ピネダだった。
試合2日前のパレードで、人前が大好きなガッツ石松は、上着を脱ぎ捨て、ハッスルした。
90分のパレードを終えホテルに帰ると、減量前の栄養状態の悪さのせいか風邪を引いていて、注射が打たれた。
試合は凡戦だった。
挑戦者が攻め、チャンピオンは後退しカウンターを狙う。
そんな消極的な展開が淡々と続いた。
エディはイライラした。
「Hey、ガッツ!
あんた負けてるよ。
何やってるの!」
ガッツ石松はハッとした。
「何!
オレ負けてるの?
それ早くいってよ。」
13R、ガッツ石松は遮二無二出て、この攻勢がポイントとなって辛うじてドローとなった。
危ない防衛だった。
おそらく外国での試合ならタイトルを失っていただろう。
11月、ガッツ石松の2度目の防衛戦が迫ってきた。
相手は前WBC世界王者:ロドルフォ・ゴンザレス。
ガッツ石松にタイトルを奪われた張本人との再戦だった。
ゴンザレスは世界3位をキープしていた。
「ワー、エディさん。
もう我慢できないよ。」
「ガッツ、目方落とさないとタイトルとられるよ。」
「オレ、タイトルなんかいらない。」
ボクサーはみな減量苦と戦う宿命にあるが、石松のそれはひどかった。
皮膚はカサカサになり唾も出ない。
仕方なくスイカを少し口に入れてトイレで喉に指を入れて吐き出す。
こんなことの繰り返しだった。

11月26日、大阪府立体育館。
ガッツ石松の2度目の防衛戦のゴングが鳴った。
1R、ゴンザレスは、前回とはぜんぜん違い、慎重な試合運びで、相手にポイントをとらせない。
ガッツ石松は、常に後退しカウンターを狙うばかり。
消極的な試合だった。
11Rが終わりコーナーの戻ると、石松はクレームをつけた。
「左ジャブ出せ、足使え、頭振って、それをいってよ。」
エディは怒鳴った。
「あんた何いってるの。
あんたこの試合負けてるの。
左ジャブ?、頭?、足?
そんなもの関係ないよ。
よく聞きなさい。
ガッツ、これケンカよ。
あんた得意でしょ?
ケンカよ、ケンカ。」
(おお、そうか!)
急に電源が入った。
エディはガッツ石松の頭を両手でつかんで、グイっとゴンザレスの方にに向けた。
「あいつの顔、よくみろ。
みろ。
これケンカよ。
ケンカよ。」
エディは耳元で何度も怒鳴った。
ガッツ石松の中でムラムラと闘争本能が燃え上がった。
キッとゴンザレスをみると、幸せそうな顔をしている。
腹が立ってきた。
(ようし上等だよ。
このヤロー、ケンカやってやろうじゃないか。)
12R、
(テメエ、クッソー、このヤロー)
ガッツ石松はグローブを胸の前でバシバシ打ち合わせ、なにか口の中でブツブツいっていた。
やる気だ。
ゴンザレスが不用意に詰めてきたところを左フック一閃。
次いで右ストレートを打ち下ろした。
ゴンザレスは顔面がぶち抜かれ、ヨロヨロとリングを横切り後退、反対側のロープへもたれた。
ガッツ石松は、右グローブを刀のように振りかざし突進した。
顔面をカードしロープを背負ったゴンザレスを蛮刀で滅多斬りにした。
ゴンザレスは動かなくなった。
石松はロープに躍り上がり、両手を上げて派手に吼えた。
再び奇跡を起こしたのだ。

エディの秘蔵っ子、アンラッキーマン? 村田英次郎

1976年、エディは、小田急線下北沢駅を降りて線路沿いに歩いて5分のところにある金子ジムのトレーナーになった。
そして村田英次郎というボクサーに出会った。
村田は父 の影響でテレビのボクシング中継をよくみて村田もボクシングが好きになり、小学6年生になると京都拳闘会に 通うようになった。
父は、自宅の横に四坪ほどの小屋を建て、サンドバッグやパンチングボールをつるして毎日打たせた。
中学校を卒業を控えた村田は、ボクシング雑誌で「合宿所完備」という広告を見つけ、父親とともに上京し金子ジムを訪ねた。
そしてジムの2階に住み込み、ボクシング一色の生活が始まった。
金子会長は、5年計画でモントリオール五輪を目標に、15歳の村田をアマチュアボクサーとして育てる方針をとった
村田は16歳で全日本大会フェザー級で優勝。
1976年のモントリオール五輪代表選手の選考会を兼ねた全日本選手権で決勝まで進出したが、決勝戦で敗れ、日本代表にはなれなかった。
アマチュアで88戦78勝45KORSC10敗と、じっくりアマチュアで基本をマスターした後プロ入り。
デビュー戦を1R57秒KO勝ち。
2戦目もKO勝ち。
3戦目は日本バンタム級チャンピオンの沼田剛とのノンタイトル戦は、沼田の負傷によって8RTKO勝ちした。
4戦目は、三上清隆を1RKO。
この試合からエディが村田の専属となった
エディが真っ先に教えたのは
アマチュア的なアップライトスタイルをプロ的なクラウチングスタイルに変えることだった。
突っ立った上体を前かがみにして攻撃的なスタイルにモデルチェンジした。
次に左を下げさせた。
「エイジロウ。
左は相手を狙っていくの。
ピストルを相手の顔に突きつけるのよ。」
ディフェンス主体からオフェンス主体への転換だった。
そして1978年12月、村田英次郎は金栄植と対戦し、12R判定勝ちし、プロ13戦目で東洋太平洋バンタム級チャンピオンとなった。

エディと村田はよく一緒に焼き鳥屋に行った。
「ビール一杯はクスリよ。
ただし会長には内緒よ。
シー?」
ある日、エディと村田は、下北沢のハンバーグ屋さんに入った。
そこで村田がうっかりクリームを隣の椅子にこぼしてしまった。
「すいません。」
村田はそういいながらティッシュペーパーで拭いた。
隣の客はそっぽを向いていた。
それをみたエディが突然怒り出した。
「人が謝っているのに、何よ知らんフリして!
冗談じゃないよ!
バッカヤロー!」
「ワーッ!!」
客はと叫びながら店の外へ逃げた。
エディは追いかけた。
村田があわてて店の外へと飛び出していくと、エディはその客の胸ぐらをつかんでパンチを食らわせようとしていた。
村田はそれを止めた。

1980年、 村田英次郎の世界タイトル初挑戦の時が来た。
相手はルペ・ピントールだった。
村田はこの時点で17戦16勝10KO1分無敗 。
東洋太平洋王者のタイトルを4度防衛していた。
村田は必殺の右カウンターをマスターしていた。
左ジャブ、左ストレートで突き放し、相手が打ってくると右足を1歩引いてかわし、出会い頭に、あるいは相手が打つ寸前、一瞬速く右ストレートを打ち込む。
カウンターは通常の数倍のダメージとなる。
ピントールは左ボディフックが強い。
エディは、ピントールがボディを狙ってガードを下げたとき、ガラ空きの顔面に右ストレートを絶好のタイミングで当てられると読んでいた。
6月11日10時、後楽園ホールの5階で計量が行われた。
両者は共にバンタム級のウェイトリミット53.5kgピッタリだった。
計量後、村田はエディが持参したスープを紙コップで飲み、リンゴを1つかじった。
そして本格的な食事をするために車で後楽園ホールの地下駐車場から赤坂プリンスホテルに移動した。
そして17時30分、再び後楽園ホールに戻り、控え室に入り、6000人のコールの中、ガードマンに挟まれながらリングに上がった。

1R、レフリーの注意を聞いて分かれた両者は、ゴングが鳴ると再びリング中央に進み出てグラブを合わせてから激しく打ち合った。
2R、激しい打ち合いが続き、ピントールはベタ足ながらスタンスを大きくとって、ガードを固めジリジリと前に出る。
4R、村田の右カウンターがロープ際で炸裂。
ピントールの腰が沈みかけた。
しかしピントールは普段から標高2200mの高地で暮らすメキシカンであり、その上、トレーニングは標高2400mで行ってきた。
富士山の7合目で暮らしてきた男の肺活量とスタミナは無限だった。
8R、ピントールがいきなり放つ左ストレートが村田の顎を突き上げる。
素早く左を踏み出し、上体を沈め低い位置から、急にせり上がってくるストレート。
村田の体がのけ反った。
ピントールは続けて左のレバー・パンチを脇腹に入れた。
満身の力を込めて、アッパー気味にえぐるこのパンチを村田は必死でかわした。
9R、すさまじい打ち合いの末、村田が右目上、次いで左目上を切って出血。
紙一重のタイミングでパンチを見切るタイプのボクサーにとって目測は命。
村田は両方の目から真っ赤な涙を流しながらも本能でパンチを打ちつづけた。
ピントールも右目から血が噴き出している。
両者が打ち合うたびに汗と血のしぶきが散った。
11R、ピントールの左目が切れた。
それでもピントールはストレート、フックを繰り出す。
止まっていた村田の傷がまたパックリと口をあけて血が流れ出した。
打たれても打たれてもピントールはガードを固めて前進する。
村田の動きが悪い。
14R、
「エイジロウ。
このラウンドからチャンピオンよ。」
エディはそういって村田を送り出した。
村田のボディにのダメージが残っていた。
ベタ足のピントールの猛攻は、回り込む村田にピッタリとくっつくように追いこんだ。
しかも左右のアッパーを連打しながらバランスが少しも崩れない。
村田は、クリンチに持ち込んで、レフリーがブレイクをかけた。
必死に立っている村田にピントールがフィニッシュパンチを放った瞬間、レフリーがストップをかけ、 村田の目をドクターにみせた。
危機を脱しただけでなく、この数十秒の 時間が村田の意識を回復させ、試合再開後、村田の猛ラッシュが展開された。
15R、村田の猛反撃が続いた。
驚くべき精神力でパンチを連打しピントールが後退させた。
奇跡のようなラッシュに 酔いしれる歓声。
しかしドラマの終わりを告げるゴングが鳴った。
総立ちの観衆から惜しみない拍手と歓声が沸き上がった。
エディは村田の全身をタオルで拭いながらいった。
「ドロー」
レフリーがコールし、両選手の手を挙げた。
引き分けではタイトルは動かない。
ピントールは2度目の防衛に成功した。
ジャッジペーパーは、13Rまでドロー。
14R、ピントール。
15R、村田。
エディが14ラウンド開始時にハッパをかけたのは恐ろしく正確だった。
もし14Rをとるかイーブンにしていれば、村田は世界チャンピオンだった。

1981年4月5日、WBA世界チャンピオン:ジェフ・チャンドラーに、村田英次郎が挑戦した。
1R、村田は強烈な右カウンターが抜群のタイミングで決めたが、王者に凌がれると、試合は一進一退となった。
何度か単発でクリーンヒットするものの、村田の強打を警戒するチャンドラーの老獪なクリンチワーク、ホールドに後続打を寸断され、なかなか決定的なポイントを奪えず、村田の強打とチャンドラーの細かい連打で白熱した試合は、ついに15R終了のゴングを聞くこととなった。
有効打と手数の争いになったが、判定は、ジャッジ三者三様のドローだった。

1981年12月10日、アメリカニュージャージー州アトランティックシティのサンズホテルで、再びWBA世界チャンピオン:ジェフ・チャンドラーに村田英次郎が挑戦した。
しかし村田は前回の善戦がウソのように打ち込まれた。
13R、チャンドラーが村田を2度のダウンさせレフリーが試合をストップした。
村田は救急車で異国の病院に運び込まれた。
1983年9月11日、後楽園ホールでWBA世界チャンピオン:ジェフ・チャンドラーに村田英次郎が挑戦した。
両者の対決は3度目である。
村田英次郎は、東洋太平洋の王座を12度防衛し、常に世界ランキング1位をキープしながら、世界チャンピオンには1度もなれていない。
対するチャンドラーは7度、世界タイトルの防衛を重ねていた。
2R、チャンドラーが村田をダウンさせ、3Rにもチャンドラーが村田を再びダウンさせた。
10R、チャンドラーが村田を3度目のダウンでノックアウトした。
村田はこの試合を最後に引退した。
「いくら自分が強くても、その時のチャンピオンがそれ以上に強かったら永遠にチャンピオンにはなれない。
それがボクシングというものですよ。」
殺人パンチを持つピントール。
スピード、テクニック、パンチ力、ディフェンス、ファイト、どれをとっても超一流だったチャンドラー。
この2人がいた時代に生まれたことが村田の悲運だったのかもしれない。

浪速のロッキー 赤井英和

1981年、大阪市西成区天下茶屋の駅前商店街の一角に、愛寿ジム(後のグリーンツダジム)が開設された。
ジムの会長は津田博明。
看板選手は赤井英和 。
後に浪速のロッキーと呼ばれ関西にボクシングブームを巻き起こし、人気絶頂となるボクサーである。
津田会長は、かつてチャンピオン:ガッツ石松が挑戦者:ロドルフォ・ゴンザレスを大阪府立体育館で迎え撃ったとき、大阪のジムでガッツとエディがトレーニングしているのをみていた。
エディは石松のパンチをミットで受けながら叫んだ。
「オオ!
そのパンチで試合は終わりよ。」
「そのパンチ以外はいらないよ。」
エディは選手のいい所を徹底して褒めた。
津田会長は、これは選手にとって凄い自信になるはずだと感心した。
(この試合は、ガッツ石松がゴンザレスを12Rにノックアウトして2度目の防衛に成功した。)
津田会長はエディに惚れ込み、しばしば赤井を上京させ、エディに短期の臨時コーチを頼む仲になった。

赤井英和がモスクワオリンピックの日本代表候補となったとき、その強化合宿はアマチュア連盟の方針でプロのトレーナーが採用されることとなり、エディに委託された。
「左フックは下から上へアッパー気味に打つのよ。
こうよ!」
エディは自らポーズしてみせた。
「この左フック打てたら右手お尻かいててもいいよ。」
練習中、赤井が口から胃袋が吐きそうなくらいハードな状態になると、エディは魔法をつかって、その力を引き出した。
「アカイ、もう1発。
もう1発、力いっぱい。
これでもう相手倒れる。
疲れてる、 チャンス。」
赤井はエディの気さくでユーモラスな人柄に惹かれた。
「エディさんは俺の高校時代はもう雲の上の人でした。
たくさんチャンピオンをつくっている名トレーナーですからね。
大学1年のときキングスカップ(タイ国王が各国のボクサーを集めて開催した大会)へ行くことになり、そのときアマチュアボクシング連盟がオリンピック強化策としてアマとプロの交流を図ろやないか。
ついてはプロのトレーナーに教えに来てもらおうということで、エディさんに白羽の矢が立ったんです。
強化合宿で初めてエディさんにミットを受けてもらいました。
うれしかった。
エディさん、暗示をかける名人です。
ボクサーを絶対けなしません。
トレーナーには『アホンダラ、ボケ、打たんかい、アホンダラ』 と人をアホンダラ教の教徒みたいに言う奴がいますが、エディさんは違います。
パンチをミットで受けながら
「Oh、ナイス。
ナイスパンチ。
それよ、それなのよ。」
「はい(お、そうかな)」
「でもネ、アカイ、もうちょっとここで強く打ったらもっといいよ。」
こういわれるともう力がわくんです。
エディさんにミット持ってもらったら確かに強うなると思います。
チャンピオンが生まれるわけですわ。
練習が終わると今日はエディさんに稽古つけてもろてちょっと強くなったなと思ってしまうんですよ。
片言の日本語でジョーク入れながらの練習が楽しくてしょうがないんですよ。
10歳くらいから半世紀以上ボクシングやってらっしゃるんやから、そら重みが違いますわ。
とにかくエディさんの選手に暗示をかけて盛り立ててくれる上手さ、ほめることで力を引き出そうとするのは、凡人では到底まねのできない名人芸です。」

赤井英和は、中学時代からかなりヤンチャで、喧嘩に負けた事がなく、大阪一帯にその悪名は響き渡っていた。
自分より弱い者には全く手は出さず
「ここで一番強いの誰や!
勝負せい!」
と道場破り的な喧嘩を繰り返した。
その一方で友人も多く、中学卒業時の文集には37名の友人のおかげで充実した3年間を送れた事に対する感謝の気持ちを著した。

住吉高校を受験した赤井英和を、同じく受験しに来ていたトミーズ雅が目撃した。
優等生が集まる名門校の受験会場の中、赤井はただ1人、不良丸出しの学ラン姿で受験に来ており、机の上に足を投げ出し、周りを威嚇しながら弁当を食べていたので相当目立っていた。
お互い血気盛んな2人はメンチを切り合い、一触即発の危機となるが、受験会場ということもあって喧嘩は回避された。
後日、雅はそれが赤井であったことを知り「喧嘩せんで良かった」と安心すると同時に赤井の不合格を祈った。
合格発表の際、自分の受験番号よりも先に赤井の受験番号を探し、その不合格を知り、ホッと胸をなで下ろした。
後に雅も赤井と同じくボクサーへの道を歩み、S(スーパー)ウェルター級の日本ランカーとなった。
1977年4月にプロデビューし、デビュー以来5連続KOで西日本新人王獲得。
全日本決勝でシーザー佐々木(国際)選手に敗れた。
80年10月に関西重量級のホープ:千里馬啓徳(神戸)選手を6回KOで切って落とし貫禄をみせた。
ラストファイトは81年5月、掘畑道弘選手の持つ日本Sウェルター級王座への挑戦。
掘畑は関西の重量級には珍しいサウスポーで、前王者に3連敗を喫しながらも4度目の対戦でKO勝ちし念願の王座を手に入れた苦労人だった。
試合は雅の地元大阪での挑戦であったが、地力に差があり、チャンピオン:掘畑が5度目の防衛に成功した。
そして雅、北村雅英選手の夢は終わった。

住吉高校を落ちた赤井英和は、浪速高等学校に入学し、中学の先輩に強引にボクシング部へ入れられた。
3年生時にインターハイのライトウェルター級優勝、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権優勝。
高校卒業後は近畿大学に進学。
当時の恋人の影響で茶道部にも在籍した。
モスクワオリンピックでも日本代表は確実視されていたが、米ソ冷戦のあおりを受け日本は出場辞退。
赤井もオリンピックの道は断念せざる得なかった。
その後、大学生のままプロボクサーに転向。
目標はもちろん世界チャンピオンだった。
「みんな笑いました。
世界タイトルって大きい有名ジムがスポンサーつけてやるようなことです。
僕の入ったのは愛寿ジムっていうちっこいジムでした。
会長1人と選手は僕1人。
文化住宅の1階を改装して、会長が日曜大工でポール立てて縄張って、「そっちの壁の向こうで病気のおばあちゃん寝てるからもたれるなっ」ていわれるような。
会長はタクシーの運転手さんで2日にいっぺん乗車明けの日に練習みてくれました。
それ以外は1人で・・・」
小さな無名ジムが世界を目指すため、津田会長と赤井英和がとった手段はマスコミを味方につけることだった。
「マスコミは記録が好きや。…
よしKO記録や! って。
1試合目からずっと、KOし続けたら、マスコミも気にするやろ。」
見せるために赤井はボクシングスタイルを変えた。
相手と距離を保って的確なパンチを繰り出すボクシングから、前に出て攻め続けるファイターへ。
強烈なパンチで、豪快なKOの山を築いた。
もちろんビック・マウスだった。
「メンチ切ったら相手がビビったから勝つと思った。」
「今日はテレビ流すいうんで散発してきたんです。
すいません、テレビカメラどこですか?」
「KOの秘訣ですか?
やはりパンチのスピード、タイミング、それにクスリです。」
など試合後の面白コメントも話題となった。
8戦目からはテレビ中継が入り、11戦目のときにジムにスポンサーがつき名前がグリーンツダジムとなった。
連続KO記録は12まで伸びた。
伏兵・知念清太郎(京浜川崎)選手に連続KO記録は破られたが、14連勝13KOの勢いを駆って、日本、東洋を飛びこえての世界挑戦を果たした。
ついたニックネームは「浪速のロッキー」
しかし試合相手の選択が、無名または格下の選手が多かったことから、その実力には疑問符をつける人もいた。

赤井英和が初めて世界タイトルに挑んだ。
相手はWBC世界スーパーライト級チャンピオン:ブルース・カリー。
試合前日、挑戦者の赤井英和は記者会見で宣言した。
「7月7日やから7回に倒してパチンコのフィーバーにしたる。」
1983年7月7日、WBC世界Jウエルター級タイトルマッチ、ブルース・カリー vs 赤井英和。
赤井の母校である近大の記念会館に12000人の大観衆が入った。
「目標にしてた世界タイトル。
1万何千人のお客が入って、知り合いもいっぱい来てる。
その控え室に入って花道から入場してきたときに、会長とそれまで2人でずっとやってきた夢を達成してしまったんですわ。
リング上がってそのまま帰ってもええくらいやった。
それ以上の、世界チャンピオンっていうことを思いつけなかったんです。
やってみて思ったんです。
俺と世界チャンピオンの差ってそんなになかったな。
あれやったら勝ってたぞ。」
1R、開始早々、カリーはグローブタッチを挑戦者に求めたが、赤井は罰当たりにも無視して先制攻撃を見舞った。
このラウンドを含め、赤井は一貫して捨て身のラッシュファイトを敢行していく。
6R、ラッシュし続ける赤井の左フックがカリーの顎をとらえた。
カリーは黒いマウスピースをむき出しになり、ロープまで吹っ飛んだ。
満場総立ちになり。
「赤井、そこだ!
行けぇ~」
テレビ中継の解説をつとめていたガッツ石松は、マイクの音声が飛ぶほどの音量で叫んだ。
しかしカリーはしのいだ。
7R、赤井の動きが急に悪化した。
カリーは反撃に転じ、赤井に容赦ないパンチの雨を降らせた。
赤井はこの豪雨の中に沈んだ。
皮肉にもKO予告した7月7日の7Rだった。

赤井は無類のファイタータイプだった。
エディは赤井に様々なことを教えた。
赤井はスタンスをひろくして踏ん張ってパンチを打つ。
「アカイ、それじゃパンチ届かないよ。
もっとスタンス狭めて。
前後左右に動いて打つの。」
「アカイ、スミマセン、スミマセン言いながら頭下げて入るの。」
これは相手の内懐に入るときは頭を波打たせて入ることを表現したもの。
赤井は毎日教えられることをノートにメモして覚えた。
それは赤井にとって宝物のようなものだった 。
世界初挑戦で苦杯をなめた赤井の再起第1戦は、タフで鳴る新井容日だった 。
これを10R判定で破った。
続いてハンマー糸井、大月竜太郎、塚田敬と3連続KO 。
赤井は順調に勝ち続けた。
津田会長は再び世界への夢を見始めた。
しかしある夜、エディが津田会長にムッとした表情でいった。
「アカイにもっと早く会いたかったよ。」
「それどういう意味?」
「ボクね。
アカイに頼むから走ってくれといって土下座できないよ。
わかるでしょ?」
赤井は人気がありすぎた。
常にファンが取り巻き、密かにトレーニングを手抜きし、酒と女の誘惑におぼれていた。
赤井は優れた才能は持っているが、ボクサーとしては女性などの誘惑に弱すぎた。
1984年9月5日、赤井英和 vs ウィリアム・マルディゾンはひどい凡戦だった。
自分に失望したのか、直後、赤井英和は、津田会長に内容証明つきの引退届けを出して行方をくらませた。
人気ボクサーの失踪には様々な憶測が飛び交ったが、数日後、津田会長の間で話し合いが持たれ、赤井は再び世界を目指し走り出した。
またこの頃、赤井は結婚した上、新妻の腹には新しい生命が宿っていた。
赤井は世界前哨戦として、大阪府立体育館で、大和田正春を迎え、チューンアップした自分を見せつけ世界戦へ弾みをつけようとした。
大和田戦より前に、すでに津田会長は、アメリカにわたって大物プロモーター:ドン・キングに渡りをつけた。
WBC世界Jウエルター級チャンピオン:ビル・コステロに日本で挑戦を受けてもらう為、10万ドル(2500万円)のアドバンス(前渡し金)を支払い、タイトルマッチの約束を取りつけた。
「(大和田正春との)試合が済んだ6月にはもう1度世界タイトルへ挑む段取りやった。
今度こそチャンピオンベルトを腰に巻こうと思ってました。
そして対戦を選んだ相手が日本ウエルター級7位にいた大和田正春。
東京立川生まれで父親はアメリカ人。
褐色の肌にひげ面、剃髪で精悍な風貌をつくっていました。
戦績8勝8敗1分が示す通り、俺からみれば、センスはあるけど顎が弱い一発屋という印象でした。
まして俺は世界Jウエルター級8位。
自惚れやないけど戦う前から俺の優位を疑う者はいませんでした。
誰もが日本と世界の差に格段の開きがあることを知っていたわけです。
大和田は咬ませ犬といわれていました。」
大和田正春は、在日米軍兵士の父と日本人の母との間に生まれ、中学卒業後、夜間高校に通いながら自動車メーカーの下請け会社で部品やボディ等のメッキ加工に従事してきた。
それ以来ずっとメッキ一筋で、「センター長」という役職で活躍していた。
ボクシングでは、伝説の王者:マービン・ハグラーと風貌が似ていたため、「和製ハグラー」と呼ばれた。
「現役時代、自分以外はみんな敵だと思っていた。
スパーリングでも手抜きをしたことはない。
誰とやる時も、いつも倒そうと思ってやっていた。」
大和田はのパンチ力は素晴らしく、KO率が高い。
その反面に顎が打たれ弱く、常に倒し倒されのボクシングキャリアとなった。

1985年2月5日、赤井英和(世界Jウエルター級8位)vs大和田正春(日本ウエルター級7位)戦当日。
朝、赤井は規定のウエイトを300gオーバーしていた。
ガムを嚊んで唾液を牛乳瓶1.5本分出した。
9時30分、計量が行われた。
赤井、66.11㎏。
大和田、65.66㎏。
16時50分、大阪の街がうっすら暗くなってきた頃、赤井英和は赤いジャージ姿で会場に入った。
そしてABC放送(朝日放送)のインタビューを受けた。
「今日の試合で世界戦に向けて弾みつけなきゃいけませんね?」
「ええそうですね。」
「もう思いは今日より世界ですか?」
「ええ。
もうこの6月にでもいうてるんですけど、まあとにかく今日の試合を一生懸命ファイトして成果をみてもらいたいという気持ちでずっとトレーニングしてきましたから。
今日はまず気持ちのいいスカッとした試合で飾りたいと思ってます。」
「何ラウンドで倒します?」
「やはり前半ですね。」
控え室で、赤井は鏡に向かって軽い動きをはじめた。
エディは赤井の拳にバンテージを巻き、その上に丁寧にテーピングを施した。
テーピングを終えた拳をコミッショナーと敵側の人間が触って確認し、検査済みのJBCというサインがされた。
鼻柱、額、頬骨などにワセリンを塗り、ノーファールカップをつけ、白地の赤のラインの入ったトランクスをはいた。
ガウンも白地に赤ラインで、背中に松の木に鶴が羽を広げて舞い降りる刺繍が入っていた。
いよいよ係員が時間を告げに来て、控え室から狭い通路を歩いて入場口まで来ると、大和田の入場BGMが聞こえてきた。
赤井は1、2度、声を上げて自ら気合を入れた
「最初何イク?
チョット見る?
でもチャンスがあったらネ・・・」
エディが赤井の耳元でささやいた。
「行くよ、最初から。」
「OK、イク。
でもね、こうじゃないよ。
大きくね。」
そういいながらエディは、身体を屈めて左右に強く身体を振ってウィービングを大きくしろとアドバイスした。
会場にロッキーのテーマが流れ出した。
「さあ、行こ」
先頭の竹本トレーナーが場内に歩み出した。
「OK!
Come on Boy!」
花道に入ると、凄まじい声援と紙吹雪とカメラのフラッシュが舞い、太鼓の音が鳴り響いた。
「凄いネー」
エディは笑った。
赤井がリングに上がると一際歓声が沸き立ってリングアナの声をかき消した。
(もし赤井に勝ったら無事にここから帰れるのか)
大和田は思った 。
「本日のセミファイナル10回戦を行います。
赤コーナー、WBCジュニアウエルター級第8位、145パウンド4分の3、グリーンツダ所属 、赤井英和ぅー!」
赤井が両手を挙げたると観客がドッと沸いた。
「青コーナー、144パウンド4分の3、角海老宝石所属、大和田正春ゥー!」
それまでせわしく動いていた大和田は身体を止めてグローブで赤井を指した。
両者はレフリーの注意を聞きにリング中央へ集まった。
赤井は大和田の眼をにらんだ。
後にわかったことだが、赤井はいつもは相手の眼などみず、わざとそらしていた。
それがこの試合に限って相手の眼を穴の開くほどにらみつけた。
大和田も敵意丸出しで、両者額を突き寄せたまま微動だにしない。
「こいつや、こいつ、このアホ、どついたる!」
エディも煽った。
「なんでもないアカイ、なんでもない。
このヤロウ、ブッ飛ばせよ。
アカイ、ブッ飛ばせよ!」
そして赤井はマウスピースでふさがれた口を開き、ハッキリといった。
「このアホンダラ。」

19時41分35秒にゴングが鳴った。
試合は大和田のジャブで始まり、赤井も果敢に攻めた。
「ジャブ突いて、ジャブ。」
大和田のセコンド、角海老宝石ジムの鈴木会長がしきりに声を出した。
赤井が中に入ってくると、大和田は巧みにクリンチした。
エディは速射砲のように指示を飛ばした。
「Come on、アカイ、手ェ出すの。」
「もっと入るノ、アカイ、入るんだったらもっと入るノ。」
「アカイ、左から!ジャブ!」
両者の左が相打ちになった後にゴングが鳴った。
テレビ中継の解説者の採点は10対10のイーブンだった。
2R、
「走って、走って打つノ」
エディに背中を押され赤井は駆け出た。
大和田は回りこんでその勢いを外した。
「下、アカイ、下」
エディはよく動く顔面よりボディを狙えと指示した。
1分18秒が経過した時、エディがポツリつぶやいた。
「アカイ負けるネ。
この試合・・・」
4R、赤井はゴングと共に走って先制の1発を見舞おうとした。
大和田はそれを難なく左に逃げ、逆に左を2発赤井に食らわせた。
それでも赤井は左右のフックで大和田をロープ際まで追い込んだ。
そしてフィニッシュブローを振り切った 。
大和田はフラつきながらも赤井の強打を耐え、逆に打ち返した。
赤井は絶好のチャンスを逃した。
再び両者はリング中央で向かい合った。
瞬間、大和田の左フックが赤井にクリーンヒットし出鼻をくじいた。
さらにノーガードとなった赤井の顔面に左ストレート。
赤井はノーガードの上に棒立ちになった。
大和田は左フックで赤井はグラリとさせ、すかさず左ストレート。
これがカウンター気味に入って赤井はバランスを崩し後方へつんのめった。
「ガード上げて、ガード上げて」
大和田は容赦ない右ストレートを赤井の顔面へ刺し、赤井はダウンした。
この時、ロープ際にダウンした際、後頭部が最下段のロープにぶつかった。
レフリーがカウントする最中、赤井は(何が起こったんや)という顔で、しりもちをついた。
そしてノロノロと立ち上がった。
カウントは8だった。
場内は信じられないシーンに静まり返った。
「顎引いて、動いて、動いて。」
エディはそう指示したが、赤井は逃げずベタベタの足で前へ進んでいった。
ベタベタの足ででフラフラしながらも赤井はパンチで大和田をロープまで押し込んだ。
ここでラウンド終了のゴングが鳴った。
「座って!」
エディは静かに、しかし厳しい声でいった。
「Come on、Come on、アカイ。」
赤井は反応しなかった。
「気持ちやで、気持ち」
竹本トレーナーがいった。
「アカイ、聞こえる?
あんた勝つよ。
Come on、アカイ。
あんた、男よ」
7R、判定で勝利がないことは明らかだったが、赤井には1発がある。
ロープを背にした大和田に赤井の右ストレートが入った。
しかし大和田は即座に左2発を返し左へ回り込んで身体を入れ替えた。
「大和田、チャンス。」
青コーナーが色めき立った。
大和田の右、左が赤井の顔面にヒット。
ノーガードになった赤井に左フック、左ストレートが炸裂した。
赤井は身体を弓なりにのけぞり、そして前へゆっくり倒れようとしたとき、大和田のラストパンチが赤井の顔面をとらえた。
赤井が崩れるようにダウンした。
4つんばいになって身を起こそうとするがすぐに動けなくなった。
「ダメ、ダメ、ダメ・・」
エディはタオルを入れた。
大和田はリングに仰向けになって喜んだ。
リングに寝たままの赤井の瞳孔をチェックしたドクターが担架を要請した。

20時30分、赤井英和は、救急車で富永脳外科病院に担ぎ込まれた。
担架の赤井は、顔の色を失い、鼻や口は開き、眼はまったく生気がなく、髪は逆立ち、唇は土気色で、もちろん意識はなかった。
救急連絡で富永院長が駆けつけた。
「CTスキャンの判定で脳の内出血がみられました。
さらに本人を診断すると、右の瞳孔が9mm、左が2mmになっていて、右の瞳孔が散大していました。
それに加えて右腕がねじ曲がっていた。
これも危険な状態です。
緊急に手術の必要があると判断しました。
診断は右の急性硬膜下血腫、脳挫傷、深昏睡。
硬膜下血腫とは、脳を包む硬膜と蜘網膜の間に出血した血の塊のこと。
赤井の場合、ダウンしてから数十分後、迅速に運ばれてきたのに手術の必要があるということは、かなり太い血管が切れていたということになる。
脳挫傷とは、脳味噌を塩だとすればごま塩のゴマのような細かい出血が広がった部分のこと。
正常な脳は豆腐が水に浮いたような状態で頭部に納まっているが、パンチなどの急激な衝撃を頭部が受けると脳が頭蓋骨にぶつかって出血するのだ。
深昏睡とは、叩いてもつねっても反応を示さない、いうなれば死の1歩手前。
「脳挫傷部分は脳味噌が破壊されおかゆ状態になっている状態、そうなるには1撃ではなく何度も激しいパンチを食わなければそうはならない。」
富永医院長は説明した。
そして赤井の生と死の確立は2対8といった。
たとえ生命をとりとめたとしても植物状態は免れないという。
21時52分、緊急手術が始まった。
医師は手術室に、津田会長と赤井の兄が呼び入れ、赤井の頭部をみせた。
患者が死ぬ危険性が高い場合に後のトラブルを防ぐためだった。
手術は頭蓋骨をドリルで手のひら大に開き、右脳の内出血を吸入、除去するというものだった。
ドアの外では関係者が涙を流し奇跡を祈った。
赤井の母は家で灯明を上げて手を合わせた。
「神様、助けて。
One More Chance.」
エディも祈った。
「会長、アカイはいま罰金を払っているの。」
エディは津田会長にいった。
ロードワークをサボり、節制を忘れた赤井が今彼なりの報いを果たしている。
エディはそう思ったのかも知れない。
2月6日2時57分、5時間あまりの大手術が終わった。
急激な出血の限度は50ccにも関わらず、赤井の血腫は70ccもあった。
医師はなんとか50ccを取り除くことに成功した。
生死の確立は5分5分にまで挽回した。
手術後は脳が水分を吸収し膨張し脳圧が上がるため、それを緩和するため、しばらく骨を外したままにされた。
8時、いきなり赤井は意識を取り戻した。
「小便がしたい。」
そういって点滴の管や脳波の計器のコードをつけたまま起き上がろうとした。
周囲はあわてて赤井に覆いかぶさって押さえつけた。
「何や。
どないしたんや。」
赤井はそういって暴れた。
ベッドに拘束具がつけられた。
入院後2週間は少しおかしかった。
突然4年前のことをいい出したり、「オーイ変えるぞ」と帰り支度をはじめたり、友達が来ると「よく来てくれた」と泣き出したり・・・
「脳をいじくった人間は感情の起伏が激しくなるんですわ。
両手両足をベッドにくくられているから口で抵抗しよるんです。
「赤井五郎死ね」とか「帰れ」とか、もうボロカスに言われました。」
(父:赤井五郎)
「お父ちゃん、堪忍や。
俺にはもうすぐ大和田と試合があるという記憶だけしかなかった。
何で練習もせずこんなところで身体に管つけて何やってんのやと思った。
家族に聞いてもみんなちょっとずつ言うことが違う。
周りに聞いても誰もホントとのこと教えてくれない。
ベッドの上で「お母ちゃんサッサとケガ治して次がんばるからな」といったらお母ちゃんがうつむいて泣いてる。
なんでやろ・・・おかしいなあ。
それでもとにかく養生に専念したんです。
その間しょうもないことやけど、俺を天下無敵の超人ハルクみたいに改造してくれないかなぁと思ってました。
昔エイトマンの透視図を見たことがあるんです。
それと同じような感じで俺も横たわっていましたからね。
頭蓋骨外してたから、便所でずっこけて脳味噌出てもたらどないなるんやろ。
脳味噌外してヌカ味噌入れたらどうなるんやろ。
蟹味噌入れたら泡吹くんやろか。
いっそ味噌の代わりに糞入れたら体臭が気になるんやろか。
なんてしょうもないことばかり浮かんできました。
コラっ!
ダレが後遺症ぢゃ!」
実際、赤井は自分の脳を触った。
触ると強烈な吐き気を催した。
その理由が解らず何度も触っては吐き気を催した。

入院30日後、リハビリが開始された。
赤井英和はリハビリ優等生だった。
その回復力は凄まじく、周囲が奇跡だ、何という生命力だと舌を巻くほどだった。
「リングが待ってる。
うかうかしてられへん。
大和田をこてんぱんにいてもうたるねん。」
この焦りにも似た気持ちと鍛えられた肉体が回復を早めたのだろう。
しかし赤井は自分が2度とリングに立てない身体になっていることを知らされていなかった。
「1度も切れも割れもしてない私らの頭が、仮に10の衝撃で頭蓋骨が割れるとしたら、それが今の英和では5か6で割れる。
骨を継いだところが1番もろいんですわ」
(父:赤井五郎)
退院10日前になって、初めて赤井は矢野文雄後援会長から、
・大和田との試合はすでに行われ赤井が負けたこと
・その試合でケガを負って入院したこと
を知らされた。
数日後、赤井は外泊許可をとり、家に帰り、即座に大和田戦のビデオをみた。
(まあええか。
たかが1敗や。
退院したらもう1回大和田とやってあいつの頭かち割って俺と同じ目にあわせてやる。)
退院身近となったある日、担当医が赤井に対して、再びボクサーとしてリングに立てないことを医学的な説明を加えながら言い渡した。
赤井は愕然となった。
「嘘やろ?という気持ちがあり、俺の人生そのものを奪われた気がして、説明してくれてる先生を無性に殴り倒したい気持ちにかられました。
もちろんじっと抑えましたけど・・・」
2月16日、赤井英和の事故を重く見た日本プロボクシング協会の木村七郎会長は、全選手にCTスキャン検査を義務付ける事をJBCに進言した。
そして延べ800人以上のプロボクサーのCT検査が実施された。
現在ではプロテスト受験時にCTスキャンが義務付けられている。
3月31日、赤井英和と富永院長が並んで記者会見が行われた。
「ほぼ100%治りました。
ただ悲しむべきことは、我々がリング上の赤井さんの勇姿を見ることは2度とないことです。
・・・・
レフリーがどの時点で試合を止めるかが問題となりますね。
人道的な立場からいえばノックダウンしたらその場でストップすべきでしょう。
赤井さんの場合は4Rに喫したダウン、あそこで止めるべきではなかったかと思いますね。
そうすればもう1度リングに立てたかもしれないのですから。
あくまで結果論ですが・・・」
「俺は生死をさまよっていた時のこと何も思い出されへんのやけど、1点だけ鮮明に憶えていることがある。
霞がかかったヒンヤリした薄明かりの中を俺は歩いておった。
どこからともなく笛の音が流れてくるので、その笛のほうに歩いていった。
すると1本の川に出ます。
川岸には赤い花がいっぱい咲いていました。
気がつくと笛の音だと思っていたのは人の声でした。
目を凝らすと向こう岸に白い着物を着た人が大勢いて手招きしてるんです。
あ、俺のこと呼んでいると思って・・・」
「ホント!?」
「ウソでんがな。(ケケッインタービューのおっさんひっくりがえりよったワイ)」

ボクシングができなくなった赤井英和には厳しく冷たい日々が待っていた。
「通院する以外は酒ばっかり飲んでました。
親身になって話し聞いてくれた人も気がつくとそばからおれへんようになった。
赤井英和を金づるやと思ってた人なんかあっさり手のひら返してくれました。
そら見事なもんやった。
あの時はちょっと人間不信に陥りかけた。
でもね。
残ってくれた理解者、友達、彼らこそ何よりも大切な俺の財産です。
彼らを再発見できたことは不幸中のい幸い、とても有難かった。
そういう人らは大切にせなアカンとつくづく思いました。
50日ぶりに退院して帰った。
娑婆の空気はうまいのうと感じました。
心配された頭をいじった後遺症はありませんでした。
頭が痛いということもなかった。
だいたい俺、頭痛というの経験したことありませんねん。
退院直後はろれつが回らんかったり、歩こうとすると右へ右へ寄って行くこともありましたけど、その頃には事故が嘘のように思えました。
しかし終日うちにおるとロクなことを考えなかった。
こんな目にあわせやがった大和田が急に憎くなってアイツのうちまで押しかけて勝負つけたろかと思ったりしましたわ。
命がけでやってきたボクシングや。
リングで死ねるんやったら本望や。
それを助けるなんて余計なことを・・・と考えたこともあった。
ケガさえなかったらなあ。
4回戦ボーイからだが、どうや、やってみるか?といわれたら、俺、即座に「やるよ」というてたと思います。
怪我があるからコミッショナーは絶対に試合認めないでしょうけど、次、リング上がったら確実に死ぬと医者が言われてましたから・・・
ボクシングやめた。
することあらへん。
何をしたらええのんや。
ボクサー10年、練習やって、試合して、また次という繰り返しでずっと来てますから、他にことは何もできんかった、考えられんかったんです。
頭に爆弾抱えとったけど頭以外は健康体でしょ。
それに昨日まで戦ってきた男やないですか。
まだファイターやったんですよ。
戦う精神みたいなやつはそう簡単におさまるもんやないです。
沸々となにやら燃えカスみたいなもんが心の底のほうで煙を出してました。
ああ何かやりたい。
なんでもええねん。
必死でやれるもんが欲しい。
そんな俺に気持ちわかりすぎるから周りのやつは俺をそっと放っておいてくれました。
そして会えば馬鹿騒ぎでした。
グローブ置いたんやから良き家庭人に戻らなあかんという人もいました。
ようわかってますと答えながらあらゆることに未練を持ってたからよう戻らんかったんです。
しかし現実は厳しいもんです。
家庭の生活はどないするんや。
仕事はどうする。
とたんにお金の問題も生まれてきました。
本当に現実はシビアで待ってくれませんでした。
こうしてボクシング生活と引き換えに帰ってくるはずだった結婚生活は、どんどん隙間が目立つようになっていったんです。
俺の1番しんどい時に踏ん張ってくれた女性やったんですが、できた亀裂はもう元には戻りませんでした。
俺の再生にはこうした目から血が出るような思いの日々もあったんです。
しかし人間そう悪いことばっかりやないで。
運・不運一方だけの人生なんてあり得へんと思う。
失敗は失敗。
過去は過去。
そこにいつまでもとらわれてたらなにもできん。
なにも生まれん。
それをプラスにせなあかんのや。
俺はプラス思考。
マイナスはない。
いやもっと言うと俺、かけ算の人間やねん。
ウン、そういうことなんや。」
赤井英和にボクシングを断念させた大和田はその後、日本ミドル級チャンピオンとなった。
そして何度かの防衛戦で大和武士と対戦し、勝ちを収めたものの、網膜剥離を患って引退に追い込まれた。
そして映画「どついたるねん」で赤井英和、大和田正春、大和武士は共演することとなった。

ハンサムボーイ 友利正

1981年、エディは三迫ジムのトレーナーになった。
三迫ジムでは、友利正がいた。
高校でインターハイモスキート級チャンピオンとなり、三迫ジムに入門、プロデビュー後10連勝。
デビュー年は無敗のまま全日本新人王となり、天竜数典を2度目の挑戦で1R1分55秒KO勝ちし日本Jフライ級チャンピオンになった。
このタイトルは2度目の防衛で奪われたものの、翌年にチャンピオンに復帰し、このときは初の世界挑戦を翌年の春に控え、練習に打ち込んでいた。
エディは、友利がスピードボールを打っているのをみて首を振りながらいった。
「いいねえ。
すっごく手が速い選手ねえ。
ナイスボーイよ。」
明るくてノリやすい友利はすぐにその気になった。
(オレはナイスボーイかもしれない。)
1982年2月25日、後楽園ホールで友利正の世界タイトルマッチの発表会見が行われた。
相手は、WBC世界Jフライ級:アマド・ウルスア。
パンテリータ(豹)のニックネームを持つハードパンチャー。
このとき友利は日本Jフライ級チャンピオンとして、この翌日に神田吉昭を相手に防衛戦を行うことになっていた。
日本タイトルの防衛戦の前日に世界タイトルマッチを発表するのは異例だった。
よほど自信があるのだろう。
そして2月26日、友利は神田を大差の判定で破った。
友利は美少年で、オートバイで試合会場に乗りつけた。
女性ファンが多かったが、実践女子短大に通う久美子と付き合っていた。

友利は世界戦に向け、奄美半島の伊良湖岬でキャンプに入った。
会長、マネージャーと共に中野区でエディを拾って愛知県まで車で飛ばした。
友利は右膝に爆弾を抱えていたので、ゴルフ場のアップダウンの少ないフラットなコースを走った。
「すっごいねえ、トモリ。
すっごいハードねえ。」
エディも友利たちと同じトレーニングをこなそうと必死になってヒーヒーいった。
友利はそれをみてゲラゲラ笑った。
1週間のキャンプは、笑ってばかりだった。
ジムワークに移ると、エディは友利の左の改造にとりかかった。
ボクシングにおける左(利き手の逆、構えたときに前になる手腕)は重要だった。
もともと三迫ジムでは左の強化のために合宿生全員に左手に箸を持たせていた。
「トモリ。
左はもっと下からアッパー気味で打つのよ。
いい?」
エディはそういいながら自分で左をスッと打った。
友利はエディのセンスの良さに唖然とした。

世界チャンピオン:アマド・ウルスアが来日。
身長は156cmと小柄だが、体格はガッチリとデカい。
対する友利は、身長161cm、身体つきはほっそりしている。
ウルスアのトレーニングは角海老ジムで行われた
「ウルスアの左フックは強いよ。
でもね、トモリは脚を使って体を動かしていれば、あのパンチ大丈夫ね。
あんた勝てるよ。」
4月10日、 友利は試合のために新宿京王プラザホテルに入った。
エディは中野区の自宅からホテルに通った。
部屋をウロウロ歩きながら友利に教えたことを反復した。
「相手はパンチがあるから絶対に動きを止めたらダメよ。」
「その左を忘れてないか。」
そして突然キョロキョロし始めた。
「どうしたの?」
「メガネがない。」
「鏡見たら?」
「Oh!」
メガネは頭にはねあげて乗っかっていた。
4月13日、 試合当日、友利は車で後楽園ホールに移動し控え室に入った。
試合時間が近づいてきても鏡を覗き込んで髪の乱れを気にしてセットしていた。
エディは呆れ顔で硬くなる仕草をしていった。
「このボーイ、こうならないねえ。
珍しいよ。」
係員が来て出番を告げるとエディは明るくいった。
「トモリ、もう逃げられないの。
やるしかないのよ。
がんばるのよ。」
会長やセコンドにも
「頑張りましょう。」
と気合を入れた。
(よし、やろう!)
友利も気合を入れ、一行はコンクリートの階段を上がっていった。
リングの上で友利は対角線上のチャンピオン:アマド・ウルスアをみた。
39戦31勝26KO8敗。
KO率は66.6%。
友利は、22戦17勝5KO5敗。
KO率は22.7%。
1R、ゴングが鳴ると友利はいきなり攻め込んだ。
ボクサーファイタータイプだったはずの友利がファイタータイプに変貌していた。
ウルスアは押された。
3R、ウルスアが左フックを友利の右顔面にヒットさせた。
エディが叫んだ
「動くの!
足つかって、足つかって。
左、左よ。」
しかし友利は下がらず鋭くステップインして左フックから右ストレートを打ち返した。
7Rまで足をつかって打ち合わないというのがエディの方針だったが、その後も友利はガンガン打っていった。
「打ち合ったらダメ!」
友利は平気な顔でインファイトを挑んでいく。
10Rまでポイントでは友利がリードした 。
11R 、スタミナが切れた友利はウルスアが押し始めた。
「動いて動いて!」
友利は飛び込みざまに左フックを叩きつけてサッと離れた。
15R終了のゴングが鳴った 。
(ドローくらいかな)
友利は思った。
コーナーに戻る友利にニコニコ顔のエディがいった。
「おおトモリ。
あんたが勝ったよ。」
レフリーが友利の名を呼んだ。

6月
友利正の初防衛戦はイラリオ・サパタに決まった
サパタは
友利の前々チャンピオンで現在ランキング1位
友利が勝ったウルスアに負けるまで8度防衛しファイトマネーだけで2億円を稼いだ
指には金やダイヤの指輪
首には幾重もの金のネックレス
歯は金歯
背が高く
手足が長く
動きが天才的に速い
しかもサウスポー
つかまえるのは容易ではない
しかし戦績は21戦19勝8KOで
KO率は低い
友利とサパタはスパーリングした経験があった
友利が日本チャンピオンだった頃、
サパタが試合のため来日し友利が頼まれてスパーリングした
両者はほとんど互角に打ち合って2R目に友利の左フックでサパタは唇を切った
サパタは試合が控えているためスパーリングはここで打ち切られた
(大したことない)
これが友利の印象だった
試合は7月20日、金沢市の産業展示館に決まった
エディと友利の対サパタ攻略プランはボディ攻めという点で一致した
サパタのように動きがいいテクニシャンに対しては
まずボディを攻めて動きを止めるのである
7月20日、
王者:友利と挑戦者:サパタの試合
1R
ゴングが鳴ると友利がいきなり大きなロングフックを放った
当てるのではなく威嚇の一撃だ
サパタはヘッドスリップでかわした
このハッタリの1発でサパタは警戒してしまった
その後サパタは逃げの一手に徹してしまった
サウスポーで本来動きのいいサパタは
長い右手のジャブをポンと放ってそのまま後退
決して友利の射程距離には入らなかった
友利は焦って追った
友利が追う
サパタジャブを打っては逃げる
友利が追う
このダルな試合展開でポイント差は形勢不明だった
そしてこのまま試合は終わった
世界タイトルマッチとしては稀に見る凡戦となった
凡戦の原因は
挑戦者のくせに逃げ回るサパタとチャンピオンのくせに無策だった友利
両者にある
ジャッジペーパーの集計は手間取った
それを見ていたエディが言った
「トモリ、勝ったよ!
立ちなさい
手を挙げなさい」
友利がガッツポーズをした直後レフリーが勝者をコールした
「サパタ」
途端にエディは怒り出した
朱を注いだように真っ赤になってレフリーに食って掛かった
三迫会長も猛然と抗議した
会場はシラけた
(こんなことってあるもんか
くだらないよ
人生観が変わっちゃうよ)
友利はうんざりしていた
とっさに引退を決意した
ジャッジペーパーは
144-141でサパタ
144-143で友利
144-143でサパタ
2対1でサパタの逃げ切りだったが
サパタの1ポイント勝ちをつけたジャッジが
「私はトモリの1ポイント勝ちにしたはずだ」
と語り出し舞台裏はいよいよ混乱し出した
三迫会長は抗議と共にその場でサパタ陣営に再戦の約束をとりつけようと奔走していた
敗者は控え室に引き上げていた
「ドローだろう
サパタの勝ちはない」
(輪島功一)
「サパタにチャンピオンの資格はない」
(柴田国明)
新聞記者の質問にエディは短く答えた
「両方悪い
ドロー」

三迫会長はホームでまんまとタイトルを盗まれたという気持ちだった。
必死で外交手腕を発揮し、サパタ側と再戦の約束を取りつけた。
「トモリ、スピードよ。
トモリはスピードが1番よ。」
エディは口癖のようにいった。
スピードボールを打つ友利のパンチは コンパクトでシャープでスピーディで、まるでマジックのようだった。
11月、サパタは再婚したばかりの10代の妻を連れて来日。
ゴールドのネックレスやブレスレットでキラキラさせていた。
友利の作戦は、前回同様、徹底的にボディを打ちまくることだった。
屈辱の僅差判定敗けから約4ヵ月後、11月30日、再戦のゴングが鳴った。
1R、友利はサパタのストレートに対してボディアタックを敢行し、いい感じでリードした。
2R サパタは、自分の右ストレートにボディを合わせようとする友利を左アッパーで迎え撃った。
カウンターを食って一瞬ひるんだ友利にサパタは猛烈にラッシュした。
3R 調子に乗ると手がつけられなくなる南米人の気質か、サパタは前回と打って変って打ち合った。
しかしショートレンジの打ち合いなら友利が打ち勝った。
4R、サパタは果敢に友利と打ち合いにいった。
次第に友利が受身になりだした。
6R、友利が右目尻から出血。
7R、友利の出血で視界がふさがれた右目にサパタは左ストレートを打ち込んだ。
中盤、サパタは左アッパーからチャンスをつかんで、友利をコーナーにつめて乱打した。
友利は堪え切れずにダウンした 。
8R、サパタは勝利を確信しラッシュした。
痛烈な左ストレートで友利はダウンした。
立ち上がった友利にサパタは再びラッシュ。
するとレフリーが試合をストップ。
1分59秒KOが宣告した。
サパタはリング中央で両手を上げ、友利はそのかたわらで横たわりマウスピースを吐き出した。
控え室である相撲の支度部屋で、友利は血まみれで横たわっていた。
記者団が友利のコメントを取ろうと迫るとエディは怒鳴った。
「トモリを治療しなくちゃならないの!
わかるでしょ!」
友利は病院で簡単な検査と右目尻を3針縫って帝王プラザホテルに戻った。
「エディさん、寂しいね」
「試合に勝ったらみんな来るけど負けたら誰も来ない。
これ、仕方ないね。」
友利の髪の毛はワセリンでベトついていた。
顔を前に倒すと頭に激痛が走るので、便器に後ろ向きに座って、エディが仰向けにした頭を支え、恋人の久美子がシャンプーした 。
この夜、エディはずっと寝ずに友利についた 。
「夕べは長かったね。
どうもありがとう」
「いいえ」
友利は笑った。
「試合に負けたときに本当の友だちわかりますよ。」
数日後、友利は故郷:沖縄に帰るため、ジムの合宿所に荷物を取りに寄った。
するとマネージャーに出会った。
「また次ぎやるから・・・」
「もうやんない。」
友利正はリングから消えた。

天才少年 井岡弘樹

津田会長は密かにグリーンツダジムの専属トレーナーとして来て欲しいとエディに打診した。
その内容は、1年間の契約金300万円。
毎月のトレーナー料手取り35万円。
ホテル南海の宿泊費全額負担 。
月2回の東京-大阪往復の交通費全額負担。
というものだった。
68歳のエディーは、大阪へ初の単身赴任に入った。
エディが初めてグリーンツダジムに顔を出したとき、津田会長は1人の少年を指していった。
「エディさん。
あの子は必ずチャンピオンになる子ですからみてください。」
シャドーをしているの少年がいた。
身長140cmくらい。
堺市浅香中学2年生の井岡弘樹だった。
「会長、大変よ。
ボクシングにはケンカ坊主がたくさんいるから。」
エディは首を振った。
津田会長は何かとんでもない幻想にとらわれていると思った。
「すごい素質なんですわ。」
津田会長がいっても、エディは肩をすくませるだけだった。
ボクシングは過酷な戦いであり、あんなきゃしゃな少年につとまるはずがない。
しかし数日後、エディが津田会長にいった。
「会長。
あの子はチャンピオンになります。
会長のいうのは間違いないです。
チャンピオンになります。」
エディも津田会長同様、井岡の中にある並外れた才能を見抜いた。
サンドバッグを打つ井岡の動きのシャープさは目を見張るものがあった。
エディがミットを持っていった。
「ボーイ、ちょっと打って。」
井岡は左アッパーを突き上げた。
「おお、ナイスねえ。」
エディは井岡の中にあるキラキラしたものをみた。
この少年こそチャンピオンの器であることを確信した。

1985年3月、浅香山中学校を卒業した井岡弘樹は、荷物を持ってグリーンツダジムの2階に住み込み始めた。
見込みある選手だけに開放される合宿所だった。
「高校じゃ金が儲からない。」
誰もが進学を望む世間に背を向けるように井岡はボクサー志願を貫いた。
井岡は中学1年生からこのジムに通い出した。
動機は憧れの赤井英和に会いたいというものだった。
そしていよいよ赤井と一緒にトレーニングできるようになった矢先、赤井は大和田にKOされ、いまだ入院したままだった。
津田会長は井岡に就職させず、井岡はジムの1階と2階を往復するだけのボクシング漬けの生活だった。
井岡は健やかな少年で、可愛らしい顔で、性格は優しく、そのくせ負けん気が強く、音楽好きで、冷静ときている。
「会長、ボクね。
ホテルじゃなくてもいいのよ。
ジムでもOKよ。
ボク、イオカと同じ部屋でOKよ。」
ジムの窮状を知るエディは津田会長にいった。
津田会長にしても井岡をボクシングだけでなく人間教育もしなくては考えているところだった。
エディにそばにいてもらえば有難いし、エディはエディで少しでも多く選手たちと一緒にいることが好きだった。
こうしてエディはジムの2階の8畳間で井岡ら選手と一緒に生活し始めた。
ある夜、23時ごろ津田会長がジムに戻ると、エディがジムの外でタバコを吹かしていた。
「エディさん、こんなところで何してるの?」
「今ね、イオカが寝てるの。」
若いボクサーにタバコは良くないとエディは信じているのであろう。
こういう細やかな心配りに津田会長は感心した。
「僕は14歳でエディさんと会いました。
練習は厳しかったですが、OK!BOYといって僕のいい所を誉めながら伸ばしてくれました。
練習後は僕の部屋で夜食を共にし、一般人としてマナーや人との接し方なども教えてくれる年齢差
感じない兄のような存在でした。」

1985年12月、
「百合ちゃん、なんだか痛いよ」
エディは右下腹に鈍痛を覚えた。
19歳年下の妻をエディは「百合ちゃん」と呼び、妻は「ダディ」と呼んでいた。
妻は嫌がる夫を診療所に連れて行った。
医師は血液検査などの結果から盲腸と診断し、薬で散らすことにした。
やがて血便を出すようになったが、エディは痔のせいだと主張した。
薬の投与は続けられたが鈍痛が去らず、そのうえ急激にやせだした。
再び胃カメラを飲み、腸のX線検査を行うと、大腸にかなり大きな腫瘍があることがわかった。
部位が背中に近くこれまでの触診では発見できなかったのだ。

1986年1月、井岡弘樹は、満17歳の誕生日が過ぎると待ち構えていたようにプロテストを受け、合格した。
井岡は入門当初は小さく細かったが背は日に日に伸びて168cmを突破した。
しかし毎日2食食べても太らない体質で、ウエイトコントロールしやすいボクサーだった。
1月23日、東京後楽園ホールでプロデビュー戦が行われた。
相手は寄持由紀雄。
この一戦は新設されたばかりのミニフライ級の一戦だった。
ミニフライ級はJフライ級より軽い105ポンド(47.61kg)以下の階級で、共にデビュー同士だったが、1Rに井岡が右クロスストレートでダウンを奪い、2Rにも右ストレートで倒し、3R45秒でKOした。

8月、エディは入院した。
進行性大腸癌と診断され、臍を中心に直径20cmくらい半円に切開する手術を受けた。
しかし進行性癌であるため転移による再発は避けられないという。
「盲腸のために腸が癒着していたのよ。
だから痛かったの。」
エディはそう説明され納得した
約1か月後に退院。
その後は見違えるように元気になった。
医師はエディの年齢なら癌細胞の成長は散漫だろうから、4、5年は大丈夫だろうといった。
しかしミットを受けたり、選手たちとキャンプで走りこんだりするエディの肉体は、年齢よりもはるかに若かった。
癌細胞も想像以上の速さで全身に転移していった。

1987年7月8日、井岡弘樹が日本ミニフライ級タイトルに挑戦した
井岡はここまで7戦7勝5KO。
チャンピオンの小野健治は、27戦16勝6KO9敗2分のベテランだった。
18歳6ヶ月の井岡は冷静に戦い判定勝ちした。
これは最年少日本チャンピオンの新記録だった。
8月、WBCが、「ミニフライ級」を正式に「ストロー級」と改称し、世界ランキングを発表した。
1位は井岡、2位はマイ・トンプリファームだった。
そしてWBCは、1位と2位で初代ストロー級チャンピオン決定戦を行うと発表した。
期日は10月18日。
場所は日本。
井岡にとって思いがけないほど早いチャンス到来だった。
10月、トンプリファームがタイから来日。
その公開練習をエディと井岡はみに行った。
トンプリファームは背が低くスピードもなかったが、19戦18勝1敗のボクシングのキャリア以前に100戦を超すムエタイの経験があった。
ムエタイ上がりのボクサーのタフネスは侮れないものがある。
井岡はエディの耳元でささやいた。
「エディさん。
あまり大したことないね。」
途端にエディは大声を上げた。
「タフよ。
トンプリファームはタフよ。
バカにしないの!」
それでも井岡はニヤニヤしている。
エディが拳骨を振り上げた。
「笑わないの!
笑っちゃダメよ!」
そういうエディの口元もゆるんでいた。
10月17日、試合の前日、大阪西成区天下茶屋にあるグリーンツダジムにはファンや関係者が集まっていた。
エディは末期癌でやせて、まるで枯れたトウモロコシのようだった。
それでも大好きなタバコを口にしながら下町の薄暗い路地で輝く未来の世界チャンピオンの話をした。
「今度はチャンスよ。
イオカにはラストチャンスよ。
・・・
ファーストチャンスね。」
ラストチャンスとは、誰にとって?
「相手、強くないよ。
もし神様がイオカの中に入ってきたらイオカ勝ちます。
神様が入らなかったらNoだけど、たぶんイオカ勝ちます。」
井岡は3ヶ月前の日本タイトルマッチから身長がまた伸びて169.5㎝になっていた。
フサフサした坊ちゃん刈り、やさしい顔、穏やかな微笑。
「試合が近づいたらハッピーになりなさい。」
というエディの教え通り、試合が楽しみでしようがないようだ。
10月18日、井岡とトンプリファームがリングに上がった。
ゴングが鳴ると、井岡は右ストレートを相手のボディに送り込んだ。
動きが鈍いトンプリファームの出鼻に井岡の左フックをヒットする。
2R、トンプリファームの左目の上が切れた。
3R、
「ウワォー」
トンプリファームは叫びながら井岡に襲い掛かった。
しかし井岡は多くの有効打を許さない。
逆にカウンターを浴びせる。
5R、ここまでポイントでは一方的に井岡がとっている。
しかしトンプリファームは一向に倒れそうにない。
6R
井岡は猛攻した。
トンプリファームはKO寸前まで陥った。
井岡は右拳を痛めた。
7R、
「イオカ、疲れたらバネ使って、ジャブ打って、休むの。
元気が出たらまたがんばろう。」
エディはそういって井岡を送り出した。
8R、
「イオカ、あと5R立っていたら世界チャンピオンね。」
トンプリファームは積極的に出て行く。
井岡は守勢にまわった。
「ボーイ、回るの!」
9R、10R、11Rは膠着した。
11Rを終えて帰ってきた井岡にエディがいった。
「おめでとう、イオカ。
あんた、世界チャンピオンよ。」
12R、KOでしか勝てないトンプリファームは猛烈に出て行く。
井岡も逃げずに迎え撃ちトンプリファームをコーナーに押し込みボディを滅多打ちにした。
そこで試合終了のゴングが鳴った。
判定は大差で井岡が勝った。
津田会長が井岡を肩車した。
「監督、エディさんもね。」
監督と呼ばれた竹本トレーナーはエディを肩車した。
空中で2人は互いの手を握り合った。
エディの顔は子供のように笑った。

リングから降りてきたエディに百合子が抱きついた。
ロスからかけつけた長女:シャロンと次女:ダーナも抱きつきキスをした。
井岡の記者会見が始まった。
「何ラウンドからいけると思った?」
「1Rからです。
12Rはラスト30秒で倒す気で行きました。
効いていたのはわかってましたから。」
「イオカのガッツすっごいよ。
右手、痛い痛いいわない。
ま、あのくらい我慢できるんだったらいいチャンピオンになれるね。
イオカ、まだ子供よ。
勉強することいっぱいあるの。
ショート、もっとショート打てるようになればインファイトしても負けない。」
「エディさん。
次の試合は李敬淵選手ということになりますが?」
「韓国の選手?
おお、いらっしゃい。」
エディは右手で「Come on」のポーズをして笑った。
その手は木の枝のように細かった。
井岡の次の試合はランキング3位の李敬淵が義務づけられていた。
李はIBFという団体の公認する世界チャンピオンだった。
この日、李はリングサイドでジムの会長と共に井岡の試合をみていた。
そして試合後、井岡の印象を聞かれると自信たっぷりに答えた。
「井岡は怖くない。」

10月19日、エディ・タウンゼント一家4人は南紀白浜へ、津田会長が慰労をかねてプレゼントした3泊4日の旅に出た。
「百合ちゃん、胃が痛いよお。」
エディは宿に着くなり胃痛を訴えた。
おそらく世界戦の緊張と疲労のせいだろうと、妻は三共漢方胃腸薬を飲ませて急場をしのいだ。
10月28日、エディは大阪の大学で講演を行った。
講演をすましたあとは大阪、難波のホテルに泊まった。
10月29日、大阪から東京中野の自宅に帰ってくると、腹部に激痛を訴え、救急車で病院へ搬送された。
10月30日、家族は、医師から肺と肝臓に癌が転移していることを告げられた。
手術はできないので、本人の希望を尊重し、自宅で過ごし、週1回通院し制癌剤を注射することになった。
「年内いっぱい持てばいい方でしょう。
11月くらいと覚悟しておいてください。」
しかしエディは1月31日の井岡の試合にセコンドにつくつもりだった。
「百合ちゃん、ボク大阪行きたいよ。
行かせてよ。
イオカのトレーニングみたいよ。」
エディは東京の自宅で訴え続けた。
12月、エディは井岡がトレーニングキャンプを行っている白浜へ行くといい出した。
7~12日まで入院し、医師の許可を得てから白浜へ飛んだ。
ヒョロヒョロになったエディがタラップを降りると津田会長と井岡が出迎えにきていて、津田会長が抱きかかえようとした。
エディはそれを拒否し、そして左フックを振ってポーズをキメた。
「離して、大丈夫よ。
Come on!」

1988年1月、井岡のWBC世界ストロー級タイトル初防衛戦は近づいてきた。
津田会長は、年明けの挨拶と共に、井岡のスパーリングの映像を東京のエディに送った。
エディは自宅の2階で横になりながらそのビデオをみた。
気に入らない。
次第に苛立ってきた。
エディは頭を抱えた。
「百合ちゃん、ジムに電話してよ。」
ジムに電話すると津田会長が出た。
「会長、ボク泣きたいです。
いますぐ行きます。
いま、いますぐ行きます。」
すでに夜遅くなっていたが突然大阪へ行くというのだ。
「いますぐ新幹線で行く。」
百合子は腹が立った。
体調的に座席に座るのは無理だった。
百合子はワゴンをチャーターし、後部座席を全部倒して、その上に布団を敷きエディを寝かせた。
23時ごろ東京中野を出て東名高速をひたすら走り翌7時に大阪に着いた。
そしてジムのリングサイドに車椅子のエディがいた。
恐ろしい執念だった。
肉体はやせ衰えていたが、眼光は異様に鋭い。
そして不自由な足でリングに上がりコーチし始めた。
この日、井岡のスパーリング終了後、エディは津田会長を手招きした。
「会長、ありがとう。
長いことありがとう。
ありがとう。
ありがとう。
ありがとう・・・・」
夜は以前井岡と暮らしたジムの2階の部屋に泊まった。
井岡はここを卒業し、ジムの隣のマンションに個室を借りていた。

試合前のルールミーティングで、津田会長は李敬淵サイドに対して前例のない要求を出した。
「リングに上がらないという条件で4人のセコンドを置きたい。」
津田会長、竹本トレーナー、森岡トレーナー、そして車椅子のエディである。
リング上で世話をすることはできないが、コーナー下からアドバイスはできる。
これがエディの意思であり執念だった。
李敬淵サイドは了解した。
1988年1月31日、この日は大阪女子国際マラソンが行われ交通規制が行われたため、井岡は電車で会場である大阪国際文化スポーツホールに入った。
セミファイナルで、WBC世界フライ級タイトルマッチ、チャンピオン:ソット・チラタダ vs チャレンジャー:神代英明。
メインで、WBC世界ストロー級タイトルマッチ、チャンピオン:井岡弘樹 vs チャレンジャー:李敬淵が行われる。
津田会長念願のグリーンツダジムのダブル世界タイトルマッチだった。
だっだ広い控え室では、前座の4回戦ボーイたちが準備したり、アップをしていた。
ラジカセからアップテンポでリズミカルな音楽を流れている。
その端にベッドに横たわるエディがいた。
横には妻と長女と医者がついていた。
救急用に寝台車が玄関で待機し、大阪市内の病院が受け入れに備えているという。
「エディさん!」
関係者が声をかけるとエディは目を上げた。
顔色は黄ばみ、頬は削げ落ち、目は落ち窪んでいた。
「・・・・・」
エディは、何かをいったが聞き取れない。
「わからないのがねえ・・・」
百合子が気丈に笑った。
言葉が通じないのがわかったエディは2つの拳を顔の前に重ねジェスチャーした。
そして右拳を挙げてガッツポーズした
「私は天狗じゃないよと言ってるのかな・・・」
言語不明になりながらもボクシングを想い、愛するボクサーの勝利を訴える男の姿だった。
こんな状態でも、エディはセコンドにつくことをあきらめていなかった。
「もうすぐ神代が出ますよ。」
百合子がいうとエディはかすかにうなずいた
カメラマンのフラッシュとテレビのライトがエディの顔を照らした。
「エディさんが疲れますから、この辺にしていただけませんか。
悪いですけど・・・」
津田会長の声でマスコミは散った。
記者の1人が井岡に会った。
「いまエディさんをみてきた。
あんなになっているなんて・・・
井岡君勝つんだよ。」
「はい。
勝ちます。
死に物狂いでやります。
死んでも勝ちます。」
19歳のチャンピオンはさわやかにいった。
身長がまた伸びて170.5cm。
この階級では珍しいほどの長身になっていた。
井岡が流れるRockに合わせ身体を揺すり始めた。
やがて立ち上がりダンスを踊り始めた。
「ハッピーになりなさい。」
エディのアドバイス通り、これから死地に行くボクサーにはみえない。
いよいよ時間が迫ってきた頃、井岡はマスコミの不自然な騒がしさに気づいた。
「エディさんは?
エディさんどうしたの?」
「大丈夫、心配しないで。
あんたは試合のことだけ考えればいいの。」
そういわれて井岡はエディはちょっと休憩しているのだと思った。
そして14時過ぎ、リングに向かって入場した。

井岡弘樹、9戦全勝。
李敬淵、11戦全勝。
李はファイターらしい面構えをしている。
井岡の赤コーナーに車椅子のエディはいなかった。
井岡が控え室を出る直前に容態が悪化し、意識不明と呼吸困難に陥り、ベッドごと車に運ばれ病院へ搬送されていた。
試合開始のゴングが鳴った。
井岡のフットワークは軽快。
李はベタ足のファイター。
井岡が動き、李が追うという展開となった。
李は接近してボディへのフックを集める。
井岡は左のフックを顔面にカウンターで入れる。
李は早くも出血した。
李の闘志は見事だった。
粘り強く決して下がらない。
井岡は下がりながらカウンターを狙った。
1Rは李が取った。
2R、3Rも同じ展開となった。
ジャッジのスコアは乱れた。
李のアグレッシブを採るか、井岡の的確なパンチを採るか。
中盤を過ぎても勝負はわからなかった。
エディは大阪西成区天下茶屋の田中外科病院の2階の個室に収容された。
かすかに意識を戻したエディが酸素マスクの下で息をしていた。
腕には点滴がされている。
1階のロビーにはマスコミが待機していた。
テレビには井岡が映っていた。
時々、エディの娘:ダーナは1階にテレビを見におりた。
ダーナが百合子にいった。
「井岡君、あんまりよくないよ。」
百合子は黙ってうなずいた。
7R、8Rは李が獲った。
8R終了後、コーナーに戻った井岡に森岡トレーナーがいった。
「井岡、お前勝ってると思うか。」
井岡は怪訝そうな顔をした。
「お前1ポイント負けてるぞ。」
「負けてます?」
「お前今まで楽させてやったやろ。
楽して銭儲けしたらアカン。」
それを聞いて井岡の顔が変わった。
9R、井岡の動きが変わった。
出たり入ったりの変化が出てきた。
(エディさんのいうとおりの動きを始めよった。)
津田会長はニヤリとした。
9R、10R、11R、井岡は連続してラウンドを獲った。
最終の12Rが始まるとき、津田会長は井岡の2ポイントリードと読んでいた。
しかし実際のジャッジペーパーでは3者3様のイーブンだった。
「あと30秒をハッキリいって!」
井岡がリング下の若いセコンドに念を押した。
途端に津田会長が怒鳴った。
「もうそんなもん関係ない。
このラウンドは全部打っていけ。
全部打つんだ。
お前、このラウンドは絶対にとらなアカンぞ。
全部打て。」
「はい!」
井岡はうなずいて出て行った。
李もノックアウトで決着をつける気持ちで前に出ていった。
12R、2人は旺盛なスタミナでラッシュした。
井岡の左右のフックに李はそっくり同じ左右フックで打ち返した。
「井岡、手ぇ出して。」
津田会長が叫んだ。
その瞬間、井岡中で何かが閃いた。
エディのいう、神様が入った。
井岡は左右フック、右ストレート、左フックを強打した。
これがまともに李を打ち抜いた。
李の急に目が死んだ。
井岡はさらに立て続けにパンチを放ち、李はフラフラと後ろ向きにロープに逃れた。
井岡は追って右フックを叩きつけた。
李はブッ倒れた。
レフリーが井岡を背後から抱き止めてニュートラルコーナーへ行くよう指示した。
李はエイトカンントで立った。
井岡は襲い掛かる。
左右フック6発から右ストレートをフォローした。
無抵抗の李はレフリーの胸に倒れこんでうなだれた。
レフリーは李を守るように抱き止めて右手を振った。
土壇場でいきなりクライマックスがやってきてドラマが終わった。
12R1分36秒だった。
満場はどよめいた。
病院では、再度、ダーナは階下のテレビを見におりようとすると、何やら騒がしい。
テレビの中で井岡のTKO勝ちを大写ししていた。
ダーナは2階へ駆け上がった。
「ダディ、あなたのボーイが勝ったよ!」
百合子は娘が叫んだことを、もう1度エディに伝えた。
するとエディの表情が変わった。
なんということだろう。
エディが意識が蘇り、満面に笑みが広がり、右手がゆっくり上がりVサインをした。

大阪女子国際マラソンによる渋滞を考え、井岡は電車で天下茶屋駅まで戻り、ジムで着替え歩いて病院へ行った。
18時、井岡が病室に入るとエディは戦っていた。
骨に皮をかぶせた程度に痩せたエディが息をしている。
井岡はベッドサイドに座った。
「エディさん、ボク勝ちました。
ノックアウトです。
エディさんのおかげで勝てました。」
エディはわずかに目を開いてうなずいた。
井岡が枝のようになった手をとると冷たい手が握り返してきた。
酸素マスクの下で何かしきりに話し始めたが聞き取ることができない。
井岡は15分ほどでマンションへ戻った。
20時30分、赤井英和がエディの病室へ駆け込んだ。
赤井はしっかりとエディの手を握った。
「前に僕が病院に入ったときはエディさんに随分励ましてもらいました。
今度はエディさんが頑張る番ですよ。」
エディはうなずいた。
赤井は泣きながら看病している百合子やダーナたちにジュース類を差し入れた。
「何かありましたら電話してください。
明日の朝の食事は女房につくらせます。
女房は弁当を作るのが大好きですから。」
津田会長も駆けつけた。
エディは津田会長に小さな声で語り続けた。
しかし酸素マスクの下の声はついに届かなかった。
末期癌は激痛を伴うといわれるが、エディは最後まで苦痛を訴えなかった。
すでに体重は30kgを割るほど痩せていたが、もの凄い気迫で生き続けていた。
「信じられない。
奇跡です。」
田中院長はいった。
2月1日1時、エドワード・タウンゼント・ジュニアは死んだ。
73歳だった。
15時、遺体は病院からグリーンツダジムへ運ばれ、19時20分、東京都中野区本町4丁目鍋屋横丁の自宅へ戻った。
1月19日に大阪へ発ってから13日ぶりの帰宅だった。
1階の座敷には祭壇が設えられ棺が安置された。
かつてのチャンピオンらがそのそばでごろ寝して夜を明かした。
2月2日、新宿の教会で通夜が行われた。
エディは毎週日曜、ミサに出席し礼拝を欠かさなかった。
2月3日、告別式が行われた。
「エディさんはいつもこの教会のその場所で熱心に祈っていました。
とても真面目なクリスチャンでした。
エディさんは朝、味噌汁を飲みます。
それから町に出てコーヒーを飲みます。
それがエディさんの楽しみでした。
ある日、エディさんは私にいいました。
ボクはおかしな男です。
こうして神に祈り人の愛を慈しむくせに、ボクシングでは『殺せ』いうんですから。
とても矛盾してます。
そういっておかしそうに笑っていました。」
(神父)
エディが亡くなって33日。
百合子は分骨した遺骨を持ってハワイに飛んだ。
チャーターした小型汽船で沖に出てエディの遺骨を海中に葬った。
ボクシングが好きで好きな人だった。
「また生まれ変わったらトレーナーやりたいね。
その次生まれてもトレーナー。
また生まれてたらもっともっとテクニック授けて神様!いうねぇ。」

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