大西鐡之祐
早稲田大学に入学し、ラグビー部に所属し、2年連続優勝を経験。
卒業後、東芝に就職。
戦争では、兵隊として転戦。
戦後、早稲田大学ラグビー部監督となる。
早稲田大学は再び常勝校となった。
ラグビー日本代表)監督として、オールブラックスジュニアに勝利。
大西鐡之祐のラグビーと、そのスピリットは、今なお日本のラグビー選手たちに受け継がれている。
大正6年創部
大正6年の秋のある日、井上成意とその仲間たちが、早稲田大学の校舎の片隅でパスやキックの練習に興じた。
そして翌年、早稲田ラグビー部が創立された。
このころの日本の大学ラグビーは、慶応、京都三高(京大)、同志社しかなく、相互に交流試合をするくらいだった。
早稲田大学ラグビー部、初代主将:井上成意は
「野球の早慶戦のような対抗戦が実現できれば・・・」
と思い、大学関係者を説いて回った
創立2ヵ月後、早稲田の第1戦は泥んこの戸塚グランドでの京都三高(京大)戦で、0-15で敗れた。
大正11年には早慶戦が始まり、早稲田は赤黒のジャージーを着用するようになった。
昭和2年、 早稲田大学ラグビー部は、当時としては画期的なオーストラリア遠征を行った。
試合前、オーストラリアチームは士気を高めるためのパフォーマンス「WarCry」を踊った。
早稲田も負けじと「佐渡おけさ」を踊った。
当時のオーストラリアは2-3-2システムで、7フォワードを軸とする戦法だった
早稲田はオーストラリアからフォワードのカバープレー(スクラムブレイク後のフォワード-フランカー・NO.8のオープンプレーへの参加)を学び、これがやがてお家業となる展開、ゆさぶり戦法となっていく。
そして早稲田は、この展開ラグビーで、早慶戦が始まって以来、はじめて早稲田が打倒慶応の悲願を果たした。
だが新たに同志社と明治が早稲田の行く手を阻んだ。
早稲田が全国優勝を実現するまで、なお5年の歳月を費やすこととなった。
わけもわからないまま、ラグビー部入部
昭和6年、大西鐡之祐は、全国大会2回優勝の名門、奈良の郡山中学陸上部に入っていた。
毎日走ってばかりで、何度もやめようと思ったが、最終学年時には、ハードルで関西中学陸上大会で2位に入った。
昭和9年、大西鐡之祐は中学を卒業した。
「早稲田を受けるぞ」
そう手紙に書いて兄に送った。
兄(大西栄蔵)は早稲田大学のラグビー部の監督をしていた。
「よっしゃ来い」
大西栄蔵は、そう返事したものの、監督業が忙しかったため、ラグビー部のマネージャーに書類、手続きなどすべてを丸投げした。
「おい、弟がくるから入学試験頼むよ」
マネージャーはラグビー部を受けるのだろうと勝手に決め込み、他のラグビー部希望者と一緒に手続きをした。
東伏見のグラウンド
上京すると、大西鐡之祐はラグビー部の名前で呼ばれ、集合場所や入学試験の注意事項を連絡された。
「なんかおかしいな」
そう思いながらもラグビー部の入部希望者と一緒に行動し試験を受けた。
結果は合格だった。
するとラグビー部の練習日が連絡されてきた。
大西はあまり何も考えずに東伏見のグラウンドに行った。
すると先輩がいった。
「これに着替えろ」
パンツ、ジャージなどが手渡された。
それを着ていわれるままに練習を始めてしまった。
こうして大西はわけもわからないまま、あれよあれよとラグビー部に入部してしまった。
「これはすごい。 これは俺もやらなくてはいかん。」
昭和7年、菅平高原で合宿する早稲田大学ラグビー部
当時の早稲田大学ラグビー部は
昭和7年、8年と全国優勝し3連覇を狙っていたときだった。
「そのときに部の空気を感じました。
やはり僕らのような中学で遊び半分で陸上やっているのと違って、日本一の地位を獲得する、あるいは獲得した日本一を維持していこうとするなかに、日本のいろいろなところからラグビーの1番うまいやつらがダーッと集まってくる。
その雰囲気。
そういう俊才たちがものすごく一生懸命やっている姿をみて、これは違うな、最優秀チームになろうとするチームは違うなと、その雰囲気に非常に打たれました。
そういう俊才どもが集まって100人もいる中から15人の選手にならなくてはいけない。
そういう環境に置かれている連中の自己鍛錬の仕方がいかに峻厳なものか。
そういうことを非常に感じた。
これはすごい。
これは俺もやらなくてはいかんと思い、とにかく一生懸命やりましたが、これはどうせ2、3年はだめだわい。
選手になんてとてもなれんと思っていた。」
大西鐡之祐と同期の新入部員にも、全国からラグビーをするために来た者もいた。
彼らはすぐに先輩に混じってラグビーの練習ができた。
しかし大西はラグビーの素人だった。
だからゴールラインの外のインゴールで新人係の先輩にキックとかパスなどの基本を教えてもらった。
大西はグラウンドの真ん中でいろいろやっているのを見ながら基本をやった。
指導者がいないときは1人でやるしかないので人の練習を見てそれを真似た。
「スタープレーヤーがいなくても勝てる。みんなちゃんと自分のポジション、自分の役割をしっかり果たせば負けることはない。」
ラグビーのポジション FW(フォワード)
ラグビーのポジション BK(バックス)
そして大西鐡之祐は、ポジションも決まっていなかった。
試合があれば、空いたポジションに入った。
最初は足が速かったからウイング(11番、14番)をやった。
次にフルバック(15番)。
それからフランカー(6番、7番)。
そうやってあらゆるポジションをやった。
「昔からラグビーをしてきた連中は自分たちの経験でラグビーをやっていた
僕は何も知らんかったから、いろいろなものからいろいろなものを吸収してラグビー全般について理論的に考察した。
これが1番大きかったのでないか。
彼らだと自分はスクラムハーフやっているとか、自分はスタンドオフやっているとか、そのポジションのことだけを直接的経験で技能を身につけてやっていく。
僕はいろいろなことを教えられても、その新人係は何でこんなことをやるんだということは1つもいわない。
しかしルールを読めというからルールを読んでみる。
そうするとプレーには目的があって、その目的を果たすために様々な動きをやっていくということがわかる。
その根本がルールなんです。
だからルールに基づいて技術があって、その技術がみんなに伝えられていくわけなのですが、今やっていることは何なんだ、どんな意味なんだということは誰も教えてくれないんです。
僕もやっていて不服はあったけど、そんなこといっているよりも毎日毎日の練習についていくのが精一杯でした。
ほかの人はみんな多くの場合、ポジションは最初から1つに決まってしまって、それでずうっと卒業まできてしまうけど、僕はポジションをあちこちやらされたものだから、ラグビーにはいろいろなポジションがあり、1つのチームがちゃんとバランスがとれたものであるとき、その役割1つ1つがちょっとぐらい弱くてもチームは強くなるというチームワークの原理を身をもって知った。
だから若い選手にスタープレーヤーがいなくても勝てるといったり、みんなちゃんと自分のポジション、自分の役割をしっかり果たせば負けることはないというのは、自分が経た体験から話しているのです。
僕がもっとうまいプレーヤーで、入ったときからレギュラーを与えられていたら、おそらくそういう考え方は出てこなかったでしょう。
1人1人が各ポジションが持っている役目、責任を自覚し、ほんとに忠実にそれを果たすということが1番重要であるということ。
もう1つは経験的な直感だけで、たいていの人は技術をつかんでいく。
要するに技術を盗んでいくということだ。
これはすごく重要なことだが、それだけに頼っていると全体のゲーム理論を忘れてしまう。
ラグビーは1人1人の直感を通じて技術が重要であると同時に、ラグビーの理論を知っていなければ、その技術はほんとうに生かされない。
全体の理論がわかって、そのなかでそういう技術が生きてくる。
だから僕は普通の人よりラグビー理論を重要視する。
よく天才的なプレーヤーとかうまいプレーヤーが監督になると、大変直感的な経験による直感を重視した技能、スキルを重要視する。
僕はそのスキルを重要視するけれど、それよりもっとそれに関連のある理論を重要視する点で、ほかの監督とはちょっと違うと思う。
まずラグビーにはルールがあり、ルールがある以上、ラグビー理論というものが成り立つ。
机上のこうしたらトライを獲れるだろうとか勝てるのだという理論が必ずある。
その理論の目的を果たすするために技術は考えられ、その技術の練習をやっていってその目標を達成する。
技術というのはそんなものだということです。
そういう考え方を僕はラグビーの根本にもっている。
それは僕の経験からきたものだろうと思います。」
「毎日目標に向かって技術を追求していく。
技術を追求していくというのが練習ですから、戦法を立てたらその戦法で勝つための技術を追求していくことにになる。
そしてその技術を追求していくと次第に熟練していく。
英語で言うならテクニックをスキルにしていく。
その過程です。
そのやり方をどのようにしていくか。
経験的にそれをやっていくのではなしに、それを合理的に理屈に合ったように科学的にやっていく。
それが現在の追求だと思います。
科学的、合理的に練習をやっていく。
1つの技術には何か理屈がある。
その理屈を必ずつかんで、その理屈に従ってやっていくという方法が現在の技術の追求のやり方ではないかと思う。
これは直感的にあるものを見てそれを真似て模倣してやっていくというものではなく、ある情報を集めて、その集めたものを理論的に考えて、こういう方法でやっていったらうまくやっていけるぞという方法を見つけて、それを技術的に実験して繰り返していくという方法です。
知性的行動というか創造的行動とかいわれるものになると思います。
それを自分で情報収集して理論を立てて実験して反省し吟味し、そして実行していく。
その過程が創造的行動だといわれる。
その創造的行動が現在のスポーツの戦法理論を達成するための技術の追求のやり方と同じだと思います。
しかしゲームとの関係から言いますと、技術だけをつかむだけではどうしても勝てないのです。
技術は合理的に理論的にやればうなくはなりますが、それだけではどうしても勝てない。
そこでどのようにやっていくのかというと、結局、技術というものは技術それ自体によって検証されるではなしに、ゲームにおいて使われて初めて検証されて本物かウソ物かがわかるのです。
要するにゲームをやって技術をゲームで検証して、そこで役立ってうまくいったというとき初めてその技術は完成されるわけです。」
下剋上
監督は、1軍、2軍、3軍、4軍、5軍の練習をザッとみて
「アイツはアカンから3軍へ落とせ。」
「アイツはいいから2軍に上げろ。」
などとキャプテンにいう。
するとキャプテンは
「お前はここへ入れ・」
「お前はこのグループへ入れ・」
と指示して、何も教えない。
そして選手は、そのチームでやるだけだった。
だから自分の力で1人ずつ落として上がっていくしかないシステムだった。
先輩は後輩に教えるのが普通だが、人に教えていたら自分が落ちてしまう、抜かれてしまうと思って教えない先輩もいる。
みんな敵というわけである。
「1、2、3軍くらいの練習は猛烈にキツいですよ。
それにみんなレギュラーになろうとするから自分の競争相手を倒そうとする。
非常に厳しいものだった。
ものすごいキツい練習に上に競争意識が非常に強かったということです。
つくづく1軍の選手になるには、レギュラーになるのは大変だなと思った。
去年レギュラーをやっていた選手でも下から追いかけられて落とされる人がドンドン出てくる。
そういう練習の中で日本一のチームができていった。」
「今の選手は感受性が非常に鈍くなっているのではないかな。」
練習ノルマは合同練習形式で2時間だけだったが、合理的で、密度が濃くキツかった。
その後は自主練習、自由練習となった。
遊びに行きたい者は、風呂に入って、遊びに行き
練習したい者は、20個のボールを分け合って、5人くらいのグループとなって暗くなるまで熱心に練習した。
練習方法は、グループで話し合ったり、本で研究したりした。
「今は誰でも教えてもらえるから気が入らないんだよ。
もっと自分でまずうまい選手のプレーを盗んでみることをやらんと身につかん。
やはり自分で研究したものは自分のみにつくものです。
その頃のラグビー本というと、ラグビーフットボール、新式ラグビー、それに早稲田の西尾、兼子両氏の本が2冊、慶応のラグビー部から出た翻訳本が1冊、これくらいしかなかった。
それを一生懸命呼んで勉強した。
あとは原書。
ルールなんて全部、原書でやった。
おかしいじゃないか、ここはそういう解釈じゃないなとかいっていろいろ議論したもんだ。
技術は盗むもので真似るのはダメ。
うまいのを見て盗む。
それが選手が伸びるために1番重要ではないでしょうか。
これは感受性と非常に関係がある。
勢いよく走って次の動作をするというようなことを、感受性の強い天才みたいな人だと、パッと見たら2日ほどでそれをやりますよ。
今の選手はどうもそういう感受性が非常に鈍くなっているのではないかな。
僕たちは教えてくれなかったから、それを何とかしてつかもうとした。
今そういうのが要らなくなったから、その分その勘が弱くなったのではないかという気がするんです。
例えばカール・ルイスが走るというと、今の選手はビデオか何かで撮るでしょう。
私は「何撮っているんや、見ろ」という。
そうすると「これ撮ったら後で何ぼでも見れます」という。
だが私は「アホタレそんなもん実物と違うわい」というのです。
一生懸命見ろと、そこで盗まなければダメだと、本物は盗まないとね。
本物が訴える力と映像の訴える力とは全然違うんです。
その訴える力をつかまなければ本物ではない。
今の練習法に欠けているのはそこだと思う。
昔は「これ今見ておかないともう1回見られん」と思うから真剣に見たわけです。
有名選手が向こうから来るでしょ。
そうしたらその試合を日本で6試合やるのを6回しか見れないぞと思うから一生懸命見る。
ちょっと今は違うような気がする。
国際試合を見た後で感想などを学生などに聞くのですが、みんなアホみたいなことをいっている。
そんなことではダメなんですけどね。」
1年生の新入部員は、春が過ぎて夏合宿に終わるまではキツい練習が課せられた。
夏合宿が終わるころに30人いた1年は半分くらいになった。
それはまるでふるいにかけて退部するのを待っているような練習だった。
「そのうち夏休みになるわけです。
夏合宿がこれがまたキツい。
そのころは明治は、富士吉田で夏合宿やって、毎日、富士山を駆け足でやるという練習をやったときですから、各大学が夏合宿で勝つか負けるかが決まると思って練習していたのです。
早稲田もものすごい練習で、僕が1年のときは菅平で3人くらい脱走して帰ってしまった。
そのくらいキツい練習をやったわけです。」
しかし秋になると練習はそれほどキツくなくなった。
試合が始まるからである。
早稲田大学の目標は、明治大学と慶応大学だった。
当時の日本の大学ラグビーは、明治と早稲田が覇を競い合い、そこに慶応がからんでくるという感じだった。
毎年、12月の第1日曜は早稲田-明治戦が行われるのが恒例である。
この試合は大変劇的な試合が多く名勝負が多く生まれている。
この年(昭和9年)の試合は、試合前の下馬評は5分5分。
早稲田は7年、8年に続く3連覇を狙っていた。
神宮外苑競技場は満員でインゴールの外に観客がはみ出た。
1円の入場券がヤミで5円に跳ね上がった。
そんな騒ぎの中、両校は激突した。
早稲田の監督(大西の兄)は、前夜(といっても夜中)、選手の名を墨書きした白装束を着て水をかぶって精進し気合を入れていた。
前半は明治が攻め続け点差が開いた。
しかし後半は早稲田が攻め大接戦になった。
後半32分(当時は前後半35分)
試合残り3分で早稲田がゴールをとって24対19。
もう1つとれば3連覇となる場面。
(当時は1ゴール5点)
早稲田はゆさぶりで明治陣内奥深くで絶好のボールを回した。
観衆は総立ちになった。
1番最後にウイングにボールが渡り、ウイングは内側にボールを返した。
明治は2人、早稲田は5人。
飛び込んだらトライというシーンだった。
「ピー」
しかしその寸前に笛が鳴った。
レフリーは早稲田のウイングの放ったパスがスローフォワード(前にいる味方にパスをする反則)と判定した。
そしてノーサイドの笛が鳴った。
早稲田はスローフォワードではないと抗議した。
しかし覆るはずもなく早稲田の3連覇の夢は消えた。
(翌日の新聞にも同様の記事が出た。
その後このレフリーは辞めた。)
「惚れ込んだら苦しみも楽しみに変わる。惚れ込めないような者はラグビーをする資格なし。」
高田牧舎
毎年、早明戦の後、早稲田大学は「高田牧舎(早稲田大学本部キャンパス南門真向かいにあるレストラン)」にOBと現役が集まって祝勝会か残念会をするのが恒例だった。
そこで、あるOBが演説した。
「今日の試合は敗れた
しかし内容は決して負けていない
お前らはようやった」
すると学生はみんなワーッと泣いた。
「その雰囲気に、僕は一流のラグビーというのはすばらしいものだとつくづく感じた。
このときが僕のラグビーというものとの本当の出会いでしょうね。
いつもバカみたいなこといってる友達どもが、ラグビーをほんとうに純粋にいろいろなことについて話し合っている。
泣いているやつもおる。
嘆いているやつもおる。
赤裸々な人間の集団。
そういう雰囲気は個人競技にはないですね。
やはり日本一を目指してみんなでチームをつくって狙っていくという、そういう連中にしかわからない1つの雰囲気に大変感動しました。
そのうえ試合に出た選手は、我々1年生のところまできて謝るんです。
申し訳なかった、だから来年はお前らが頑張ってやるんだぞと。
そういうことを日本一のプレーヤーが謝っていくわけです。
そういうのをあっちでもこっちでも泣きながらやっている。
およそ100名の部員の中でみんな競争してレギュラーになっていくから、レギュラー争いに勝って選手になったやつが、出られなかった部員のところまで手を握り合いながらいろいろしゃべっている。
そういう光景を見て、僕はなんてラグビーというものはすばらしいものだと、こう思ったのです。
そのときのそういう純粋感性がその後の僕を決定したような感じがします。
僕はそれから50年以上ラグビーに取り組んでいくという人生を決定してしまったのです。
純粋感性なんていうと大哲学者カントに対抗するようで恐悦至極だが、私は出会いにおける最も重要なものとは人間の最も敏感な生粋の感受性だと思っています。
最初に感ずる5感の混じりけのない直感的認識こそ出会いにおける感動の中心なのです。
文化、社会に貢献した人の多くは感動的な出会いの感激によってその一生の一歩を決定している。
こうした偉人たちだけがそうなのではなく、我々普通人もまた感動的な出会いによって一生の幸福や楽しさを見出している。
それを僕は「ほれ込む」と言っています。
今の若い人にも幾多の感動的な場面や行為が与えられているのに、何だかほれ込みが足りないように思える。
人は誰も名誉とか金銭的なものを獲得できるというときには大きな関心を持つけど、スポーツとか遊びとか、その中に何も打算がないようなものに人間は感動する。
そこに人間の価値があるのだという18世紀の純粋論みたいなものは今は残っていないのでしょうか。」
「僕はこの出会い、ほれ込むということを大変重要視するんです。
幸いにも1つの集団-素晴らしいワセダラグビーの中でほんとに青春時代の純粋な感情、人間の純粋な感情が爆発した。
そのるつぼの中に僕は初めて入って、そこから人間の重要さ、勝利の歓喜、そういうことを感じ取れたことは大変幸福だったと思う。
僕はラグビーをして世界をあちこち歩いて、ニュージーランドやイングランドでもフランスでも、いろいろな国でラグビーが好きなやつが集まって、試合後には必ずミーティングをするのを見てきた。
そのミーティングをやったときに、純粋にラグビーを愛するものが集まるという、その雰囲気が世界中どこでもある。
つい30分ほど前まで激しくタックルし合い、時には取っ組み合いをした男たちがビール片手に語り合う。
そういうのを見るとラグビーが終わることを、「NoSide(ノーサイド)」というのは言い得て妙だと思う。
敵味方を超えて
「ナイスタックルだった」
「あのライン参加は読めていた」
とお互いのプレーを語り合うんだ。
年齢、職業、社会的地位の異なる者たちが1つの楕円球に夢中になっていることがよくわかる。
「OneForAll、AllForOne(1人はみんなのために、みんなは1人のために)」などというと、キレイごとと思われるかも知れんが、ラグビーはその精神を持っているんです。
1試合で4つも5つもトライを決めるトライゲッターがいるかと思えば、フォワード第1列の3人などは80分で1度しかボールに触らないこともある。
実に地味なポジションで、密集戦では下敷きになって踏まれたり蹴られたり、おまけに1発パンチを食らったりすることもある。
でも痛い思いをして自分たちが奪い獲ったボールをバックスがトライしてくれた時、フォワードは喜びを感じることができるんだ。
フォワードが頑張ってくれないことには自分たちの仕事が成り立たないことをバックスも知っている。
そういう信頼関係がフィフティーンの中にないとラグビーは成り立たないんだ。
様々な個性を生かせるというのもラグビーの魅力の1つなんだ。
1チーム15人を並べると1人1人の体格はあまりに違うことに気づく。
この凸凹感はラグビー独特だ。
190cm100kgを超える大男もおるし、160cmあるかないかの小兵も珍しくない。
いかにも俊足そうな筋肉質もいれば、首も体もとても太く耳がつぶれたブロッブ一筋もいる。
野球やバレーではこうはならないだろう。
ラグビーはポジションによって仕事がかなり違うんだ。
言い換えればいろいろな特性を生かすポジションがあるということ。
そんなサイズが違う男たちが同じ色のジャージを着て闘う。
そしてNoSideになると、敵味方関係なくポジションの区別なく語り合い、またの機会の奮闘を誓い合う。
そういうラグビーならではの世界が地球上様々な場所にあるということを感じる。
それがラグビーの偉大さではないか。
そういうことをつくづく感じています。
なんとなく始めてしまったラグビーとの付き合いが、もう50年以上になりますが、ラグビーの持っている魅力に引き込まれたまま僕は歩んできたように思います。」
チームがマンネリに陥るということは、1人1人が考えてプレーしなくなることと裏腹
昭和10年、大西鐡之祐が2年生になったとき、早稲田大学ラグビー部は15人、まったく非の打ち所のない選手がそろった。
主将の野上は160cm足らずながら、日本ラグビー史上3本指に入るであろうスタンドオフ。
ハーフ、山本、伊藤、野上。
スリークォーター、坂口、林、川越、原。
フルバック、鈴木。
この8人は日本一のバックスだった。
「通常はバックス7人、フォワード8人だが、この時の早稲田はこのシステムをとらなかった。
7人のフォワードはスクラムで押すのではなく、支えて速く球出しし、バックスに回し、バックスはオープン攻撃で球を散らし、フォワードは速いフォローで球を奪取し、ゆさぶってゆさぶって敵の防御網に穴をあけトライをとる。
それが早稲田のお家芸といわれる「ゆさぶり戦法」だったんだ。
7人のフォワードはセットプレーに弱いが、展開力があればスクラムで相手に球を獲られても密集戦を支配しバックスに球を供給することができる。
そういう自信に裏付けられていたんだ。
野上の最後の年だったし、すばらしい選手たちがゆさぶり攻撃に磨きをかけて勝てるという自信にあふれていた時期だった。
この年、部員も110名を超えて史上最多になった。
その中から力に応じてスコッド(戦闘小隊)が編成され猛練習に励んでいた。
この年ほど練習をやった年はなく、練習量においても技術的な水準においても1番レベルが高かった年ではないかと思う。
だからあの当時の2軍の連中は「1軍がもし日本一になったら俺たちは日本で2番だ」といった。
事実それくらいの精鋭がそろっていた。」
この年の早明戦も劇的だった。
早稲田はここまで明治以外のチームにはほとんど全部失点0で勝っていた。
明治は2週間グラウンドに天幕を張って見張りを立て、誰にも見せないようにしてダブリンシステムというフォワードを7人にしてスリークォーターとフルバックの間にセブンエースを置いて攻撃するやり方を練習した。
早稲田に負けず元来8人フォワードの明治も戦術を模索していた。
試合終盤、13対13で同点の時、運命的なプレーがあった。
早稲田のバックスが蹴ったボールが両チームの真ん中に飛んだが、球は早稲田側に転がらず、明治のウイングのところへ転がり、明治はこれをトライに継げた。
早稲田は最後、明治に負けた。
「もしボールが早稲田の方に転がっていたらと今でも思うことがある。
ラグビーというのはどんなに技術的な練習をやり、心技体に抜きん出た力を持っていて、絶対そのときに勝てるというようなチームでも運に見放されると負けるということをつくづく感じた。
気の毒に監督をしていた兄が禅好きだったものだから、試合が終わってしばらくしてからみんなは禅寺にいって3日間座禅を組んだ。
監督も考えたのだろう。
何が足りなかったか。
練習も日本一きつくやった。
技術も磨いた。
それでもだめだったということはどこか精神的に何か欠陥があったのだろう。
その精神を鍛えようではないかということだったのだと思う。
それで野方のお寺で3日座禅を組んだ。
ラグビーはスキルという技能、直接経験的な技能が重要とされるが、早稲田はゆさぶりという昭和7、8年に優勝したときに確立した1つの戦法が決まっていたから、それに基づくスキルをやっていくということで、スキルばかりやっていた。
そのとき疑問に思ったのは、ラグビーの戦法としてゆさぶり戦法というのをやるなら、なぜゆさぶりを早稲田がやるのだということをもっと部員全員に徹底して教えるべきではなかったか。
早稲田はゆさぶりをやるのだ。
それで勝ってきたのだということをみんな知っているけど、部員全員がゆさぶりというのはどういう理論に基づいてどういうふうにやるのかは、慣習的にサーッと練習で覚えているだけで、しっかりした理論をまだ持っていなかった。
それがあの年に技術も練習も非常に積んだけれど負けた1つの原因ではないか。
もっと部全体に選手全員にゆさぶり理論を徹底していけば勝てたのではないかという感じがする。
だから僕が監督になってからはその点を大変変えた。
ラグビー部のように伝統が長いと、伝統という1つのベルトコンベアに流れているのと同じで、その上でずっとやっているとやることが似てくる。
そしてマンネリ化に陥ってしまう。
それで勝っているとそのやり方にやっていても勝てるじゃないかということになり、なぜこれをやるのかということを忘れてしまう。
勝ち続けるとなんだかこうやっていれば勝てるのだということに慣れてしまって、後は研究しないで、そしてマンネリ化に陥って負けていく。
そうなっていたのではないかという気がします。
チームがマンネリに陥るということは、1人1人が考えてプレーしなくなることと裏腹なのです。」
昭和11年、扇風機と原節子さん
昭和11年、大西は2軍に上がった。
インゴール組から。試合に出られるか出られないかというところまで上がってきた。
1軍選手がケガでもすれば試合に出られる。
大西の同ポジションの1軍は、主将の米華真四郎だった。
大西を米華から学び、米華を目標に努力した。
100mを走れば大西のほうがはるかに速かった。
持久走でも負けなかった。
しかしゲームで米華は、攻撃では味方のを必ずフォローし、ディフェンスでも忠実にバッキングアップしていた。
地味な役割をがんばれってやれる男だった。
昭和9、10年と早稲田は負けていた。
そこで米華は監督を廃止し、あくまで学生自身の力でやっていくことをした。
ただし技術的なサポートのためにコーチを1人置いた。
またさらに今までの敵に点を獲らせないゲームのやり方から
「獲られてもいいからもっと積極的にいこう。
獲られたら獲っていけばいい。
それが俺たちの行き方だ。」
と宣言した。
「練習をしっかりしなければならないのは当然だが、練習に対する心構えと態度を考えてみると、自ら進んでそれを真剣にやっているチームこそ本当の強さを獲得していくのだと思う。
だから練習は僧侶の修行と同じことだと思うのです。」
夏合宿で大西は練習を2倍やらされた。
練習は午前と午後。
1軍は午前は軽くして午後はきつくする。
2軍は午前きつくして午後は軽くする。
大西を含む1軍に上がるかどうかの選手は、午前は2軍できつくやって、午後は1軍に入ってまたきついのをやる。
これが2週間続く。
大西はだんだん食が細くなり怪我の数が増えていった。
しかしここで弱音を吐けば1軍どころか3軍に落とされる。
ここで耐えなければ1軍にはなれないという1つの試練だった。
「1軍になるまで3、4年、2軍以下で下積みをする。
1軍と試合をすると1軍は強いから攻める。
下積みチームは守る。
下積み側はいかに相手を止めることを学ぶわけだ。
だからディフェンスが弱いチームは速く1軍になれるチームだ。
1軍はしょっちゅう攻撃はやっているけれどディフェンスはしない。
防御に回ることが少ない。
だからそれだけ苦労していない。
僕らは1軍の強いやつが攻めてくるのをどのように止めてやろうかと、そればかり考えた
タックルというと突っ込んで相手を倒せばいいと思われがちだが、それでは棒倒しになってしまう。
タックスポイントをつかむということが大切になってくる。
相手との間合いをはかって膝から大腿辺りめがけて踏み込んで気合もろとも1発で倒す。
相手を倒してもパスをつながれたら無意味だから、とにかく1発で倒す。
そしてディフェンスで大事なことはチームディフェンスでなくてはならないということ。
フランカーはディフェンスの責任が重い。
とりわけ敵バックスが内側に入ってきた時は必ず止めなければならない。
僕はそれを一生懸命やって覚えた。
その結果2軍から1軍に上がったときはディフェンスの強いチームが出来上がる。」
昭和12年、大西鐡之祐は早稲田大学ラグビー部のレギュラーになった。
初めての試合は一橋大学との試合だった。
観客は部員が50人くらいだった。
おそらく楽勝の試合だったが、大西ははじめて赤黒のジャージを着てアガッてしまった。
無我夢中だったため、試合後、思い出そうとしても、何をしたか思い出せなかった。
早稲田はセンターの川越藤一主将のもと、春の練習試合から連戦連勝し、全国大会でも優勝した。
「なるまではなれたらいいと思っていたけど、1軍になって1番いい思いができるのは1軍になった1年くらい。
要するに責任のない地位にいる1軍は1番楽なんだ。
楽というか面白い。
というのは、早稲田は明治、慶応以外には負けないのでどこへいっても勝ってばかりいる。
一気に攻められるし、それは面白い。
ラグビーとはこんなに楽しいものかと思った。
どこへ行っても負けないし、どこへ行っても思うようにプレーできるし、たまに失敗しても怒る人はいない。
そういう中で大いにエンジョイした。」
「ラグビーの本当の楽しさやおもろさを満喫したいなら、伝統があり誇り高い優秀なクラブにはいることです・
こうしたクラブは理想をもち現実の集団をそれに近づけようとする強烈な熱情を持っている。
そうしたクラブでプレーすることによってこそラグビーの醍醐味を感じられると思うのです。
こうしたクラブに入ったプレーヤーは、そのクラブの代表選手を目指して研鑽を積むことになる。
技術の追求は科学的体力養成理論的技術の学習に専念することから始まります。
理論をしっかり学ぶことは技術の上達に欠かせません。
技術が上達していけばゲームをやるごとにラグビーの面白さを満喫できるでしょう。
自分が考え研究した技術理論が自分のプレーを改善させていくことになります。
最初はできなかったプレーが熟練的技術として身についていく楽しさもさることながら、それがゲームにおいて有効に立証されたときのうれしさと満足は他に例えようもありません。
苦しい練習を自分で合理的に積み重ねた者のみが味わえる理論的醍醐味ともいえるでしょう。
プレーヤーの中にはこうした理論的熟練的技術で相手を抜いて、また合理的戦法を駆使して勝利を追及することをラグビーの醍醐味だという人もいます。
しかしそれだけでは本当の勝利は掴めないのです。
ラグビーは15名でチームをつくり闘います。
優秀なチームをつくるためには50名のメンバーを持たねばならない。
これらの人間関係およびクラブメンバーのチームワークをいかにつくり上げるか。
共通の精神とロイヤリティー、愛情と信頼を持ったラグビーが好きだといって集まった仲間の純粋な感性に訴えて、いかにして闘志あふれチームを強くしていくことに熱意のあるチームにするかは、そこに集まったプレーヤーの共同生活にかかっている。
プレーヤーとして最高の技術と誇り高い勇気と闘志をもち、選ばれてクラブの代表として試合に出る栄誉を担うようになったとき、それはラグビーの醍醐味を味わえる絶好の舞台でしょう。
相手が決まって、作戦が確立し、作戦に基づくチームプレーと分担するポジションプレーの練習に精進し、準備万端整えて実力伯仲の一戦に出場するとき、すでにゲームの目的である勝負への意識は、ただゲームに集中することのみを自己目的とした自由の行動となり、そのとき初めてそれまでに修得した熟練的技術が自由自在に働いて試合に熱中できるのです。
それらはあたかも試合前日の作戦的イメージに順応するように、自然に自由に、チャンスと見れば突進し、ピンチと見れば守り、追いつ追われつ展開して、そして最後にノーサイドの笛が鳴り響く。
ああ、終わったか。
やった!
すばらしいゲームだった。
相手と握手を交わす。
サンキュー。
感謝と感激。
こんなゲームこそプレーヤーにとって最高のラグビーの醍醐味といえるでしょう。」