昭和55年12月、早稲田大学ラグビー部は大学選手権へ出場できなかった。
OBは大西鐡之祐に頼んだ。
「監督を監督する役をお願いします。」
「何言ってもええのか。」
「構いません。」
昭和56年1月、しかし年が明けると話が変わった。
「先生、どうしても監督の受け手がいません。
何とか今年1年だけお願いします。」
「監督なんてやったらすぐ倒れるよ。」
大西は心臓を患っていた。
毎日薬を飲み、ニトログリセリンの小瓶を手放せない身だった。
「ワシが倒れたらポケットのニトログリセリンを飲ませるんだぞ!」
昭和56年3月、こうして大西鐡之祐は17年ぶり、3度目の早稲田大学ラグビー部監督となった。
どうやってチームを再建するか。
大西とOBの間で議論が続いた。
共通して指摘されたのはフォワード。
フォワードを徹底的に鍛えるということだった。
スクラムで押されると早稲田得意のバックス攻撃が不発に終わる。
バックスはフォワードに比べて選手はいいが決定力が不足していた。
個々の選手というより、チームとして、ゴール前から、どうやってトライを獲るかという戦法を持っていなかった。
相手ディフェンスを突破する集中攻撃をしなければならない。
大西鐡之祐は、部員全員に対して、サーキットトレーニングとウエイトトレーニングの義務づけ1日の日課に組み込んだ。
そして1週間に2時間、ラグビーの基本理論、練習計画、なぜこんな練習をするのか、どのような理論に基づきどのような戦法で攻めていけばいいのか、そのためには1人1人がどのような技術を身につけ、チームとしてどう動けばいいかなどティーチングに取り組んだ。
部員も徹底的に疑問を出して勉強した。
「大学4年の春、元旦から練習して、しばらく休んで
「2月の何日頃から始めましょうか?」
って聞いたら、
「遅すぎる。
練習の計画は日数じゃなく時間で計算しろ。
早明戦からキチっと逆算するんだ。」
と言われた。
その年はとにかくいろいろなことをやった。
寮では、起床後に本格的な筋力トレーニングを毎日続けた。
それまでは半分寝ながら体操やってただけだから、特に1年生はキツかっただろう。
鍛える重点は首の筋力だった。
フォワードは体重を増やすために「食うのも仕事」と言われ、春の間は毎晩チャンコ鍋を食った。
練習は地域ごとに何をやるというパターンを繰り返しやった。
練習が休みの月曜日には大学の教室でティーチング。
過去、早稲田ラグビーが創り上げてきたノウハウを全部おさらいしたようなものだった。
それまで春は散々だった。
特に1本目は明治、日体大、慶応に惨敗した。
おまけに大西先生は腰を痛めて入院してしまった。
俺と卓(佐々木卓副キャプテン)は病院に呼ばれ
「どうなっとるんや」
と聞かれたんだけど、何が何だかよくわからなかったんだ。
自分でもあの頃が1番キツかった。
先生はあのとき、「理論的な進め方がどうもうまくいっていないから夏合宿では方向を修正しよう」って思ったようだ。」
(寺林努)
「全部兵隊に教えるように一律に教えていくと、あるレベルまではいくけれど、それ以上は上がらない。
そのレベルよりちょっと上がれば勝つわけです。
レベルが上がるということは、15人なら15人のうち何人かを個性的に仕込んでいくということができるかということになります。
これは本人の才能だから、その才能を見る目のあるコーチが育てる以外しようがないでしょうね。
見る目のないコーチだったらみんな一様に兵隊教育してしまうことでしょう。」
菅平の夏合宿では、とにかく走って走って体力の限界の挑戦し、秋からのシーズンを乗り切る体力と気力を養った。
「菅平では、体力の限界に挑戦することと、チームに1本の芯を通すことに目標を置いた。
合宿中日のキャンプファイアーでは、禁酒禁煙を誓って炎の中にタバコを投げ込んだりした。」
(寺林努)
9月、アイルランドの名門ダブリン大学とAll早稲田と対戦した。
ダブリンは来日してここまで、27-16でAll明治を、44-10でAll慶応に勝っていた。
All早稲田はOBと現役の混合チームだったが、鋭いタックル、緻密なサインプレーで終始圧倒し、終了直前には平均体重差12kgを跳ね返し、スクラムトライを奪い、27対9でダブリンに勝った。
ダブリンはノートライだった。
この試合でチームに、
「大西監督についていけば勝てるかも・・・」
という雰囲気が出てきた。
「チームの中には大西先生が何を考えているのか理解できない奴もいたと思う。
それは一気に変わったのは、先生の作戦がものの見事に当たってダブリン大に完勝してからだ。
あれで先生に対する信頼度がグッと高まった。」
(寺林努)
そしてシーズンインしてから、早稲田大学ラグビー部は一戦一戦ハッキリと強くなっていった。
こうしてシーズンが深まるにつれてチームは強化され、慶応にも勝って7戦全勝した。
渡邊隆 通称「ドス」
「ある先輩がいっていたんだけど、「お前らが4年のとき、7番を誰にするかコンピューターではじき出したら、間違いなく謙太郎だろうと。
でも結果的にはドス
(渡辺隆、中学では相撲で全国で2位、高校では陸上競技をやり、2浪のハンディとラグビー未経験の2重苦を不屈の精神力で克服、飛びかかるような果敢なタックルでフランカーの要職を務め上げた。
愛称の「ドス」は相撲のドスコイを略したもの。)
を使って成功した。
大西先生にはホントにかなわないよ」と。
ドスは器用じゃなかったけど、明治なんかに絶対負けないという凄みというか迫力があった。
先生はそこを見抜いて3年のときクラブをやめようとまで思っていたあいつを生き返らせたんだ。
あの年は新しい戦法もいろいろ試している。
本城をスクラムのすぐ後ろに立たせてダイレクトでタッチキックを蹴る2ハーフのシステム。
6人ラインアウトでハーフの位置にドスを立たせてピールオフでつないでいくプレー。
スクラムを3・3・2で組んでサイドアタックするバリエーションもいくつか持っていた。
センターなんかは1対1で抜く練習をしろとよく言われていたんじゃないか。
とにかくやれることだけのことはやったという感じだった。
ケガ人も多く出て決して万全とはいえなかったけど、早明戦の前日は不思議とのんびりしていた。
もちろんミーティングルームでジャージをもらうところまでは緊張しているけど、食堂に戻ったら先生が
「差し入れの煎餅があったな。
みんなで食べようか。」
って言うんだ。
お茶を飲んで煎餅をかじりながら
「早明戦まであと300何日」
から始めた日めくりが、あと1日になっているのを見て
「ああ、ここまで来たか。」
とスッキリした気持ちだった。」
(寺林努)
「この試合は勝てる。 もう作戦や理屈じゃない。 頑張れ。 頑張れ。」
昭和56年12月6日、国立競技場、早稲田 vs 明治。.
今シーズン、互いに全勝同士の対戦。
しかし明治は早稲田に前年まで4連勝中で、このゲームに勝てば5連勝。
対して早稲田は早明戦勝利を経験した選手が1人もいない。
この年も下馬評は圧倒的に明治有利だった。
試合前、明治の北島監督がOB達と談笑をしているとき、大西鐡之祐は最後まで寺林主将にいろいろと指示を与えていた。
そして大西監督は選手に向かって檄を飛ばした。
「マスコミを信じるのか?
それとも俺を信じるのか?
俺を信じれば勝てる。」
フォワードの平均体重は明治が87.6kg、早稲田は79.0kg。
しかし大西は勝てると思った。
「あれだけ大きなフォワードが80分間走り続けれられるだろうか。
相手より速くフォローすれば必ずチャンスはある。」
ゲームは、明治FWの優勢かと思いきや、早稲田のタックルが鋭く、たびたび明治No8河瀬がゲインを見せるが得点には至らない。
スクラムは、明治が圧倒的優勢で、早稲田はズルズル後退してしまう。
しかし早稲田は明治からのプレッシャーが強くなる前にボールをバックスに渡してしまった。
初トライは早稲田。
前半35分、右オープンでCTB吉野が相手DFをかいくぐる走りを見せ、右隅にトライ。
前半を9対3で早稲田リードで終わった。
早稲田は反則が多く、明治はPKのチャンスが何度もあったが、キッカーが不調でほとんど決まらなかった。
ハーフタイムに大西はグラウンドに降り後半への指示を与えた。
「この試合は勝てる。
もう作戦や理屈じゃない。
頑張れ。
頑張れ。」
涙ぐんだ大西はそう叫んで選手を激励した。
選手は監督のこんなに大きな声を聞いたのは初めてだった。
後半早々、早稲田陣ゴール前でのスクラムが数回続いた。
ゴール前ギリギリのスクラムで、早稲田は最前列の3人以外はゴールエリアに入ってしまっている状態でボールを投入。
ひたすら耐える早稲田だったがペナルティーを繰り返し、7回組み直した後、明治に認定トライを取られた。
こんどは早稲田の反撃。
モールの状態でロック杉崎が相手ボールを奪い取り本城-佐々木薫-吉野-野本と渡りトライ。
押す明治vs耐える早稲田。
ガンガン前に進んで行く明治vsひたすら耐えてここぞという時に展開する早稲田。
後半35分、明治はPKを決め、15対15。
後半36分、明治陣内でのスクラムから出たボールを明治がパントで上げた。
そこに早稲田センターがチャージ。
こぼれたボールは走りこんだ吉野の胸に吸い込まれそのままトライ。
ゴールも決まって21対15。
そしてノーサイドの笛が鳴った。
大西鐡之祐はコーチ陣とガッチリ握手した。
OBたちと記者たちが大西を取り囲もうとした。
大西はとにかく選手に会いたかった。
「みんなのところへ行かせてくれ。」
ロッカールームは歓喜が爆発していた。
4年間公式戦に出ずに卒業していく4年生と1年生が、喜びを共にしていた。
「早明戦の最中のことはあまり覚えていないけど、ハーフタイムのとき先生が泣いていた。
「この試合は勝てる。
もう作戦や理屈じゃyない。
頑張れ。
頑張れ。」
大きな声でそう言われてハッとした。
そうだ。
後40分間攻めるんだって。
今思うと先生は1人1人をよく見ているし、よく憶えていた。
最後は純粋にプレーヤーのことしか考えていなかったんだと思う。
早明戦に勝った翌朝、俺と卓(佐々木卓副キャプテン)が先生の家でTBSのインタビューを受けたんだけど、普通だったらそんな取材は受けないだろう。
あれはTBSに入社する卓に対する優しさだったんじゃないかな。」
(寺林努)
フレンチ・フレアー
昭和57年2月、All早稲田と大西鐡之祐監督は、1927年の豪州遠征以来55年ぶりに英仏遠征を行った。
そしてまずパリでパリ大学と対戦し50対3で完敗した。
フランスのシャンペンラグビーの自由奔放さ、変幻自在さは大西を魅了した。
「早稲田といわず日本ラグビーの今後はフランスを研究すること。
以前からそんな考えをもっていたが、今度の一戦で痛感したよ。
どんなトレーニング法で鍛え上げたのか。
人材がいるならトレーニング学を学ばせたいし、機会があれば選手のフランス留学も考えたい。」
イギリスでは、All早稲田は、オックフォード大に27対40で敗れるが、エジンバラ大に20対10、そしてケンブリッジ大には13対12で勝利した。
ケンブリッジ戦前、大西は
「(平均体重)早稲田64kg、ケンブリッジ79kg」
と相手選手と早稲田選手をエネルギー数値化し、早稲田が対等になるためには、どれだけのスピードでどれだけのカロリーを消費しなければならないかを計算し、運動強度を上げないと対等に勝負できないことを訴え、それに勝つためには、1人がどれくらいカロリーを余分に消費しなければいけないかを結論づけ、選手の自覚を促した。
まだ代謝計算もパソコンもない時代に、物理の公式を使って、客観的な指標、勝つためのハードルを選手に示し、この数字を前提に対ケンブリッジの作戦を練った。
オープン攻撃で、選手がパスを受けてから離すまでの時間を計り表にした。
0.6秒、0.9秒、0.7秒などと個人名別に書き、
「平均、0.8秒を切らないといけない。」
というように指示した。
同じようにスクラムハーフからボールが出てウイングにわたるまでの時間も計った。
徹底してデジタル化した。
例えば
「お前は球を放るのが遅い」
というのと
「お前は0.2秒遅い」
というのとでは全然違う。
大西鐡之祐は、サイズで劣る日本が、大型の外国チームに対抗するには、フレンチ・フレアーしかないと確信する。
帰国後まとめられた「早稲田ラグビー 英仏遠征記1982」に大西は次のように書いた。
「私は南仏遠征後、フランスラグビーに注目すべきだといい続けてきたが、今回の遠征でその意を強くしている。
こうして常に新しい刺激を受けて、前進する環境に置かないと、クラブは前進しないという証左として、ワセダラグビークラブの前進のためにも考えなければいけないものと思われる。」
「狼飢作戦」
大西鐡之祐監督が退いた後、ラグビー日本代表は、韓国やオランダに敗れるなど、強豪国に大きく水をあけられ、低迷した。
そんな中で、昭和58年、ウェールズのラグビー協会から、日本ラグビー協会に遠征の招待状が届いた。
日本ラグビー協会専務理事:金野滋は
「とんでもない話だ。
断る。」
との意向だった。
それまでテストマッチの惨々たる結果を考えれば仕方なかった。
しかし日比野弘監督は、
「何とか行かせて欲しい。
近年にない大型化したフォワードは大丈夫だ。」
と金野を説得した。
この日比野監督の
「もう1度、日本のラグビーを世界へ」
という想いに押される形でウェールズ遠征は決定した。
日比野監督は熟考した。
「日本人のラグビーとは何なんだ?」
そして
「倒されても倒されても、勇猛に襲いかかる飢えた狼の軍団たれ」
という理念を基に
「狼飢作戦」
と名づけて、チームを構築。
当時はまだ珍しかった計画的な筋力トレーニングを取り入れたり、水分の多いウェールズの芝を想定して「水に浸したボールでパス練習」など、大西ジャパンの戦術をベースにしながらも、新たに開発した戦術や練習メニューで強化を図った。
キャプテンの松尾雄治は、ゲーム全体の流れから最も的確な判断し、味方の疲労度、敵の疲労度を見てのプレーの選択し、また試合以外でも、緩める時には先頭を切ってボケ役に徹し、練習の時はギュッと手綱を締めるあざやかさは達人のようだった。
松尾の卓越したキャプテンシーにより、ウエールズ遠征は好成績をおさめていた。
最終戦はウエールズとのテストマッチだった。
いかに遠征の成績が良くても、テストマッチで結果を出せなければその遠征は成功したとは言えない。
テストマッチ当日の朝のミーテイングで監督の日比野監督は言った。
「ウエールズを破ったらオリンピックの金メダルに等しい。
たとえ勝てないまでの6位入賞といわれる試合をしてくれ。
もし再び大差をつけられて敗れるようなことがあれば、日本ラグビーは救いのない。
暗黒の時代に逆戻りしてしまう。」
マイボールさえ満足にとれず、子供扱いされた屈辱のウエールズ戦から10年。
地道にFWの大型化と体力アップを続けてきた。
日本ラグビーの将来をかけた1戦の幕が切って落とされた。
ウエールズの首都、カーディフのアームズパークには3万人の大観衆がつめかけた。
キックオフと同時に、壊し屋、林敏之が、ウエールズFWめがけて核弾頭タックル。
大八木淳史は、相手が外人であろうが誰であろうがおかまいなしにケンカを吹っかける男である。
この林-大八木のロックは、日本代表はじまって以来の100kg超重量コンビである。
スクラムは、日本の誇る石山次郎-藤田剛-洞口孝治の第1列で安定したボールが出る。
ロックでもおかしくない川池光-千田美智仁-河瀬泰治の大型第3列がレッドドラゴン(ウエールズの愛称)に食らいつく。
このオールジャパンのフォワード陣は、平均183cm、94kg。
松尾は卓越したゲームコントロールで日本代表を確実にゲインさせ、電光石火のカミソリスッテップも随所に見られた。
新人の平尾誠二も確実にゲインする。
谷藤は安定したプレー日本のピンチを救う。
それでもウエールズは強かった。
前半を終わって10-19。
ハーフタイム中、メンバーがキャプテン松尾に言った。
「松尾さん。
これいけますよ。
ウエールズの連中は腰が引け出しましたよ。」
後半が始まって10分というところで、ウエールズから立て続けに2トライを奪われ10-29。
松尾はキックを捨て、ボールをフィールドいっぱいに展開することに撤した。
自陣22mからもタッチキックを狙わずどんどんオープンに回した。
そこにFWが走り込み連続攻撃を仕掛けた。
しかしノーサイド、25-29。
追い上げに追い上げたが、あと少し足りなかった
惜しくも日本代表は負けた。
ノーサイド直前、ボールを持った大八木がウエールズ相手にぶちかまして相手を吹き飛ばし、フォローした藤田にパス-トライというシーンはセンセーショナルな一幕だった。
こうして日本代表は強豪ウエールズにあと一歩というところまで迫った。
こうしてオールジャパンは2勝2敗1分でウェールズ遠征を終えた。
大西鉄之祐のカリスマを受け継いだ鬼のキモケン
昭和62年、大西鐡之祐の指導を受けた熱血主将:木本健治、通称:キモケンが早稲田大学ラグビー部監督に就任。
この年、木本監督は1年生選手3人を1軍に起用した。
中でも、3軍にいた藤掛三男を、フォワードのフランカーからバックスのセンターに転向させたことには、周囲は驚かされた。
藤掛は、パスは放れず、ボールは正確に蹴ることが出来ない新人だったからだ。
ただ藤掛は、体を張って相手を倒すタックルだけは強烈だった。
木本は
「(藤掛は)ほかのことはやらなくてよい。
ただタックルせよ。」
とだけ言った。
木本ラグビーはまずタックルだった。
体の小さな選手の多い早稲田大学ラグビー部が、大きな相手と戦うには、守る側に許された唯一の攻撃手段、タックルしかない。
そして点数をやらずに守り抜き、勝機を図る。
タックルに不可欠なのは勇気だ。
これは自分で磨き、研ぎ澄ますものだった。
この辺り、木本健治は大西鉄之祐のカリスマを受け継いでいる。
そして早稲田大学ラグビー部は、「雪の早明戦」を乗り切り、大学選手権でも同志社を下した。
そして日本一に挑戦した。
(ラグビーでは、学生王者と社会人王者が戦って日本一を競う。)
社会人の覇者・東芝府中の中村賢治監督も、早稲田大学ラグビー部OBで、現役時には木本健治の指導も受けた人だった。
早稲田は圧倒的に不利と見られた。
しかしシーズン中、何度か組んだスクラムでは東芝の一押しでズルズル後退してしまったが、いざ試合になると押し負けることはなかった。
そして東芝のラインアウトでは、東芝のサインは全て読んでボールをことごとく奪った。
そして早稲田は22-16で快勝した。
巨星堕つ
平成5年、大西鐡之祐は、早稲田大学監督:益子俊治の要請でコーチになった。
試合前のロッカールームで、大西は人目もはばからず涙を流した。
それをみた選手は感激し、テンションを上げた。
アヤ夫人はいう。
「家にいてもときどき目が宙をさまよっていましたね。
私は、アッ、ラグビーのこと考えているなと感じて話しかけないようにしましたよ。
益子さんには、寝ているときに思いついたことを伝えるために毎朝7時に電話していました。
それだって6時に電話しようとする大西を、普通の人はまだ寝ている時間よと言って私が遅らせたんですから・・・」
(大西アヤ)
「最近70歳を超えてやっとラグビーを一観衆として見る心境になってきました。
習慣とは恐ろしいもので、大学チームの試合なら、早稲田の相手としてどうだろうと思って見るし、高校以下のチームの試合だと、スクラムトライとキック攻撃ばかりの試合ぶりで将来の日本ラグビーのためにはよいのかと思い、社会人の試合を見ては、なぜここまでしかうまくならないのかと思ってしまうのです。
長い間観衆の前で試合をしてきて感ずるのは、チームはその試合が重要であればあるほど真剣に青春の全てを賭けて闘っているのです。
観衆の人たちも入場料を払った以上自由に行動されてよいのです。
しかしゲームをスポイルすることだけは慎んでもらいたいと思うのです。
ラグビーでは対抗戦の相手とは年に1回しか試合しません。
ですからこれにすべてを賭けている選手たちに一生の思い出となるような声援を送ってやってほしいのです。
そして各国にはその観衆の独自のマナーがあるように、日本独特のチームの応援と一体となった観衆的マナーが将来できあがってくることを期待したいと思います。
ただ僕が現在の立場で皆さんにおすすめすることができることは、まず好きなチームをつくることです。
そしてそのチームの監督になったつもりで、このチームを優勝させるにはどうやればよいかを考える。
はじめはわからなくても素人なりにだんだん面白くなってきます。
そのチームが振るわなくて、コーチや監督は何しとるんだと思うようになれば楽しさは倍増される。
好きなチームが出場して、俺ならこうするなと考えていると、監督、選手がそれをやってのける。
いいぞ次はこれだと思うと、今度はそれをやって勝つ。
こうなってくるとたまったものではありません。
観衆がラグビーの醍醐味を味わう早道はこれだと思っているのです。
少しラグビーを見て研究すればこんなことくらいは解ってきます。
ぜひ好きなチームを選んで、毎年そのチームと勝負を共にしてラグビーの醍醐味を味わっていただければと思います。」
平成7年、大西鐡之祐は、胸部大動脈瘤により死去。
享年79。